第113話:逆だったかもしれねぇ
…………え。
「れく、てぃ……?」
「わ、わたしっ、ロザリィさんの様子を見てきますっ!」
視界に映ったのは真っ赤なレクティの横顔と、月光をキラキラと反射する美しい淡い水色の髪だった。彼女は逃げるように、そのまま部屋から出て行ってしまう。
俺、いま、レクティと……?
無意識に指を唇に当てると、明らかにさっきとは違う感触だった。……いや、待て。まだそうと決まったわけじゃない。体の柔らかな部位なんていくらでもある。例えば二の腕とか胸とか……そっちの方がヤバいだろっ!
ダメだ、動揺して思考が混乱している。
とりあえず、いったん落ち着こう……。
早鐘を打つ心臓を手で押さえつつ、深呼吸を繰り返す。
冷静に考えよう。レクティは俺とキスをした。それってつまり、そういうことだよな……? 俺のことが好きっていう……。
もちろん、レクティの好意に気づいていなかったわけじゃないんだが……。
とは言え、いきなりキスされるのはさすがに予想外というか、色々悩んでいたことが全部頭からぶっ飛んでしまったというか。
……それが狙いか? リリィから俺がうだうだ悩んでいたら唇を塞いでやれと言われていたとか…………いいや、リリィがそんな事を言うはずがないし、レクティもリリィに言われてそれを実行するとは思えない。
レクティ自身が、自分の意志で俺にキスをしたんだ。
俺を、元気づけるために。
情けないにも程があるな、俺……。こういう時ってレクティを追いかけるべきなんだろうか。恋愛経験がなさ過ぎてそれすら判断がつかない。
……とりあえず、俺もロザリィの様子は気になる。レクティと顔を合わせるのは気恥ずかしいけど、俺もロザリィの元へ向かってみよう。
そう思ってベッドから降り、扉のほうへ向かおうとしたタイミングだった。
「やあ、ヒュー。怪我をしたと聞いたけど、元気そうで何よりだよ」
部屋の扉が開き、ルーカス王子が現れる。後ろにはロアンさんの姿があったけど、ルーカス王子は自分だけが部屋に入ってきて後ろ手で扉を閉めてしまった。
どうやら二人きりで話す必要があるらしい。ロザリィの様子を見に行くのは後回しになりそうだ。
「まさか心配して来てくれたんですか、義兄上?」
「もちろんだとも、義弟よ。君に何かあればルクレティアが悲しむからね」
そう言ってルーカス王子はやれやれと肩をすくめる。もしかしたらルクレティアが実際に掛け合ってくれたのかもしれないが、この人は本気で俺を心配していたわけじゃないだろう。
「で、実際のところは?」
「政治的な判断という奴だよ。今回のマリシャス枢機卿の行動はさすがにリース王国として看過できない。特に城壁の内外を繋ぐ地下通路なんて物はあっちゃならない代物だ。王族である僕が直接大聖堂に乗り込む事で事態の深刻さを示し、聖都にある教皇庁に圧力をかけているのさ」
「なるほど……」
どうやらリース王国は、神授教にしっかりと落とし前をつけさせるつもりらしい。マリシャスに寄付金を巻き上げられた挙句に地下通路の密造だもんな。ここで半端な対応をすれば、神授教以外にも舐められてしまうとか別の理由もあるんだろう。
「さて、ヒュー。地下で何が起こったのか教えてくれるかい? いちおう、レクティ嬢やイディオット・ホートネスから聞き取りをしてある程度把握はしているけど、君からも聞いておきたい」
「わかりました」
俺はアリッサさんたちと別れて地下通路に侵入してからの事を、可能な限り詳細にルーカス王子へ報告した。その中で特に重要なのは、マリシャスが例の薬を所持していた事と、ロザリィがその薬によってモンスターに変えられてしまった事。そして、〈聖女〉スキルにモンスターに変異した人を元に戻す力があった事だろう。
「……まさか、〈聖女〉スキルにそんな力があったとはね」
「〈聖女〉スキルのステータス説明には、『癒しと浄化を司り、魔を払う力を得る』と書いてあります」
「つまり、人をモンスターに変えているのは『魔』というわけか」
「心当たりはありますか?」
「いいや。ただ、ヒントになりそうなものは知っているよ。君にも心当たりがあるんじゃないかな?」
「……〈聖女〉スキルが活躍するおとぎ話、ですか」
今一度、おとぎ話の内容を思い返してみる。〈聖女〉スキルを持つ少女が人々の怪我や病を治しながら各地を旅して仲間を増やし、やがて魔物の王と戦う冒険譚。
魔物の王……略すと魔王、か。
「どうやら、〈聖女〉スキルのおとぎ話は単なる創作物ってわけじゃなさそうだ。もしかしたら本来は伝承の類だったのかもしれない」
「実際に起こった事を後世に残すために作られた、と?」
「可能性はあると思う。だとしたら、聖典との関連も逆なのかも」
「聖典を元におとぎ話が作られたのではなく、おとぎ話を元に聖典が作られた……?」
「もしくは、後から聖典に聖女の記述だけ書き足されたかだね」
確かに、そう考えた方が〈聖女〉スキルが実在する理由にも納得がいく。そもそも〈聖典〉における聖女の登場はやや突発的というか、いささか浮いている。神授教の聖典なのに、聖女が神からスキルを授かった描写が無いのも違和感だ。
「この件は騎士団や歴史学者に調べさせよう。もし伝承の類なのだとしたら、遺跡や民間伝承が各地に残っているかもしれない。人をモンスターに変える薬を配り回っているだろう連中の目的も、何かわかるかもしれないからね」
「マリシャスがその連中の仲間だった可能性はあるんでしょうか」
「断定はできないけど、僕は白だと考えているよ。君たちの話を聞いた限りでは、マリシャスはロザリィ嬢をモンスターにしたいわけではなかった。おそらくスキルを覚醒させる薬だと思い込んでいたんだろう」
「スキルの覚醒…………そんな事が有り得るんですか」
「いいや、少なくとも僕は聞いたことがない」
ルーカス王子は肩をすくめて首を横に振る。
「そもそも何をもって覚醒とするかも定かじゃないし、考えるべき問題はそれを神授教の枢機卿が信じ込んでいた事だ。不自然だとは思わないかい? スキルに最も詳しいのは神授教のはずなんだから」
「確かに……」
公表されていないだけで、実はスキルが覚醒する事がある……? いいや、そもそも薬を使って覚醒を促している時点でおかしいのか……?
と言うか、おかしさで言えばマリシャスの言動は初めから最後までおかしかった。レクティが神から授かった〈聖女〉スキルを偽物と呼んだり、ロザリィのスキルでは不可能な病人の治療を強要したり。
シセリーさんはマリシャスが邪悪な思想に取り憑かれ異端者になったと言っていたが、つまりは取り憑かれる前は正常だったのか……?
「ロザリィ嬢に話を聞いて来た。彼女はマリシャスが王都で運営していた孤児院で育ったそうだ。彼女が知るマリシャスは好々爺然とした人物で、聖女に対してこれと言った執着を見せていなかったらしい。ロザリィ嬢が聖女に選ばれ居を聖都に移してから半年ほど会っていなかったそうだけど、久々に会って様変わりした様子に随分と面食らったそうだ」
「半年の間に何かがあった……?」
「そう考えるのが自然だね。そして、その何かが重要だ。ヒュー、僕の立てた仮説に対する君の意見が聞きたい。マリシャスが何者かに、《《スキルで操られていた可能性》》はあると思うかい?」
「――っ」
ルーカス王子は、今回の一件に〈洗脳〉スキルに類似した人の意思を操るスキルの存在を感じ取ったらしい。確かに、もしそんなスキルが存在するのであればマリシャスの聖女に対する妄信にも説明がつく。
「可能性については何とも……。少なくとも、〈洗脳〉スキルには難しいと思います」
「だろうね。リリィ嬢に使うところを見せてもらったけど、あれは人の意識を途切れさせる。効果もスキルの使用中に限られるから、人の意思を操り続けるには向いていない」
「ただ、スキルを切り替えれば可能かもしれません。例えば、〈暗示〉とか〈催眠〉とか」
ざっと思いつくだけでも候補はいくらでもある。試す気にはなれないが……。
「なるほど、〈暗示〉や〈催眠〉か。それらのスキルで聖女への執着心を植え付けたか、もしくは元々僅かに持って居たものを増幅させられたか。……君以外に〈洗脳〉スキルを持つ人間が居る可能性も、限りなく低いだろうけど考慮はしておくべきだね」
「…………」
俺以外の〈洗脳〉スキルなんて考えるだけで身の毛がよだつ。〈洗脳〉スキルでなくても、似たようなスキルが使われたかもしれないというだけで恐ろしい。
本当によくもまあ、リリィもルーカス王子もイディオットも、俺を受け入れてくれたよなぁ……。
「けどいったい、誰が何のために……」
人の意思を操るスキルが使われていたとして、その目的は何だ……? 聖女であるロザリィにモンスター化の薬を飲ませることか? それとも、枢機卿の地位に居たマリシャスに何らかの便宜を図らせるため?
「何のためかは検討もつかないけれど、誰がという部分には目星がついているんだ」
「えっ?」
「王立学園の保健医。レクティ嬢を誘拐したと目される人物だ」
「……っ!」
そう言えば、レクティを連れ去った保健医の姿を俺は一度も見ていない。暗い地下通路内でも〈忍者〉スキルで視界は確保されていたから、見落としたわけじゃないはずだ。
地下牢獄でシセリーさんかイディオットが倒した……ってわけでもなさそうだな。
「件の保健医の死体は見つからなかった。おそらくまだ生きているはずだけど、探すのは難しいだろうね」
「どうしてですか?」
「……不可解な事があってね。ヒュー、君は保健医の名を知っているかい?」
「いえ、直接接点があったわけじゃないので……」
授業を受け持ってくれている教師の名前なら憶えるが、さすがに保健医の名前までは憶えきれていない。けど、それって別に不可解って言うほどの事じゃ……。
「なら、容姿だ。保健医は男だったか、女だったか。髪色は何色で、瞳の色は? 眼鏡をしていたかい? 背は高いか、低いか、思い出してみて欲しい」
「…………あれ?」
問われてようやく、違和感に気づく。俺は言葉を交わした事があるはずの保健医の姿を、何一つとして思い浮かべる事が出来なかった。性別も、髪色も、背の高さも、声すらも。
その一切が記憶にない。まるで保健医にだけ靄がかかっているように、その存在だけがハサミで切り取られてしまったかのように。
「ルクレティアやリリィ嬢だけじゃない。アリッサすら、保健医の容姿を憶えていなかった。何らかのスキルを使っていたのは間違いないだろう」
「そうか、だから……」
レクティについていたイディオットがやけにあっさりと無力化されたのは、周囲からの認識を阻害するようなスキルを使われていたから……?
「あれ、でも保健医のスキルは回復系のはず……」
「ヒューは実際に保健医が傷を癒したところを見たことがあるかい?」
「はい……あれ、見たはず、だよな……?」
クラスの指揮官を決めるための模擬集団戦で大勢の負傷者が出た時、保健医が何人かの生徒を治療していたはずだ。……いや、実際に治療してたか? 重傷者は全員レクティが治療していて、残っていたのは軽傷者ばかり。それも、ただの擦り傷や打撲程度だったような気がする。
「傷を治したと思い込まされていた……?」
「可能性はあるだろう。人の認識や思い込みに付け込むスキルなのだとしたら、説明はつくはずだよ」
「……追いますか?」
スキルを〈追跡者〉に切り替えれば、今ならまだ後を追えるはずだ。王都の外に逃げられていたら面倒だが、まだ王都内部に潜伏している可能性もある。これ以上暗躍される前に捕まえるべきだと、そう思ったのだが、
「いや、追う必要はない」
ルーカス王子は首を縦には振らなかった。
「どうしてですか……?」
「例えば、単独犯なら追って捕まえればそれでおしまいだ。けど、おそらくそうじゃない。二人、三人、もしくは数十人単位の組織だったらどうなると思う? 一人でも取り逃せば報復が始まりかねない。相手は人をモンスターに変える薬品を持つ連中だ。王都中の井戸にそれを撒かれたら取り返しがつかないよ」
「……っ!」
もしそんな事になったら、王都は大混乱どころの騒ぎじゃない。普通の毒を撒かれるよりもずっと残酷でおぞましい結果になるのは明白だ。
「なら、せめて連中の規模を確認するだけでも……」
「それもやめておいた方がいい。レチェリーに薬を渡した男に、君は千里眼越しに存在を勘付かれたんだろう?」
「それは……」
「今はまだ、刺激しない方が賢明だ。もどかしくはあるけどね」
「……わかりました」
消極的過ぎる気もするけど、ルーカス王子の危惧はもっともだ。何より避けるべきなのは、俺の軽率な行動で事態を悪化させてしまう事だろう。レクティやロザリィを巻き込んだ連中には、腸が煮えくり返る思いだが……。
何でも可能にする〈洗脳〉スキルを持っているだけで、俺にはそれを十全に使いこなせる自信がない。今後一切使いたくないし、出来る事なら捨ててしまいたいとすら思っている。
だけどもし、この力でしか彼女たちを守れないのだとしたら。
必要に迫られた時、今のままじゃ俺はこの力を使いこなせない。
そろそろいい加減、向き合わなくちゃいけないんだろうな……。
理想のスローライフを手に入れるために。
俺にとって何より大切な彼女たちを守るために。
――〈洗脳〉スキルと。