第八章 潮風の終章
70歳を迎えた田中は、長崎の造船所を訪れていた。若い技術者たちに囲まれた彼は、巨大なタンカーの艶やかな船体を見上げた。その目は、なめらかに仕上げられた溶接線に釘付けになっている。戦時中に急造された油槽船の粗雑さとは異なり、美しく洗練された溶接の跡はまさに技術の結晶だった。
「そうだな……」田中は遠くを見るような目つきで話し始めた。その瞳には、遠い日の記憶が映し出されているようだった。「私が君たちくらいの歳だった頃、溶接というのはまだ一つの挑戦だったんだ。特に、大型船舶での使用はね……」
若い技術者の一人が首をかしげた。「溶接が挑戦だったんですか?」
田中は微笑んだ。「そうだ。君たちの中には、すでに溶接が当たり前になった後に入社した者もいるだろう。でも、私が入所した頃は違った。溶接は造船の革命だったんだ」
「当時は、溶接部の強度が最大の課題だった」若手技術者たちに視線を戻しながら、彼は続けた。田中の声が、年の離れた技術者たちの心に深く染み入っていく。
「リベット接合に比べて信頼性が低いと言われてね。それでも我々は、溶接技術の可能性を信じて研究を重ねた。溶接が実用化できれば、建造期間を大幅に短縮でき、船体の軽量化も実現できる。これは船の性能向上に直結する」
若者たちは真剣な眼差しで聞き入っている。若手たちの表情には、先人の軌跡に触れた感銘が滲んでいた。
「そして、自動溶接機の開発だ」田中の目が遠くを見つめる。その視線の先には、まるで過去の苦労が映し出されているかのようだった。「最初は精度が低かったが、徐々に改良を重ねた。今では、君たちが見ているような高精度な溶接が可能になったわけだ」
「溶接棒にも進歩があった」田中は続けた。「強度向上に不可欠な高張力鋼には、従来とは異なる溶接棒が必要だったんだ」
溶接棒の改良について更に語ろうとした瞬間、背後から穏やかな声が聞こえた。
「あのときは大変でしたね」
振り返ると、そこには白髪まじりの髪に深いしわが刻まれた顔をした男性が立っていた。その目は昔と変わらず鋭い光を宿している。
「秋本か」田中は温かく微笑んだ。「やはり来てたんだな」
秋本は頷いた。「進水式は見逃せませんからね。ちょうど良いタイミングで到着できました」彼は腕時計を確認し、満足げに微笑んだ。
技術者の一人が恐縮しながら口を開いた。「田中さん、秋本さん、お二人のアドバイスが本当に役立っています。これまで技術顧問のお二人にご指導いただいたおかげで、無事進水式を迎えることができました」
田中は照れくさそうに手を振った。「そう言ってもらえるのは嬉しいが、実際に頑張ったのは君たちだ。私は昔の経験を少し話しただけさ」
そのとき、進水を告げるアナウンスが響き渡った。
「さあ、昔話はここまでにしよう。進水式を見逃すわけにはいかないだろう」田中は若手たちに向かって微笑んだ。
造船所全体が、一瞬にして静寂に包まれた。その静けさは、まるで時が止まったかのようだった。
観覧席には、地元の名士や関係者、招待された学校の生徒たちが着席していた。壇上には、地元選出の国会議員や運輸大臣、そして海運会社の重役たちの姿が見える。彼らの表情には、期待と誇りが混じっていた。
造船所長が壇上に立ち、厳かな面持ちで挨拶を始めた。痩身の体に几帳面にアイロンの掛かったスーツを着こなし、きちんと拭かれた眼鏡の奥の目は真剣な光を宿している。田中は、その姿に若き日の佐藤の面影を重ね合わせ、思わず微笑んだ。あの頃の照れくさそうに眼鏡を直す仕草や、輝く目で『精一杯頑張ります』と誓った若手技術者の姿が、今や造船所を率いる立場となっている。
「本日、我が国の造船技術の結晶とも言えるこの巨大タンカーの進水式を、このように多くのご来賓の皆様とともに執り行えることを、この上ない喜びとするものであります……」
佐藤所長の声が、緊張感漂う空気を震わせる。その一言一句に、かつての彼の几帳面さと緻密さが感じられた。
田中は周囲の人々の表情を観察した。若い技術者たちの眼差しは希望に満ち、ベテラン技術者たちの顔には誇りと感慨の色が浮かんでいる。政治家たちは、日本の産業力を示すこの瞬間に立ち会えることへの満足感を隠せないようだった。
式典が進み、いよいよクライマックスの瞬間が訪れた。
「では、進水いたします!」
佐藤所長の声が響き渡ると同時に、運輸大臣が大きな赤い紐を力強く引いた。船首上部に吊るされていた巨大なくす玉が割れ、中から色とりどりの紙吹雪と風船が飛び出した。その瞬間、白い鳩の群れが一斉に空へ舞い上がり、青空に向かって羽ばたいていく。歓声が上がる中、ゆっくりと、しかし確実に、巨大なタンカーが動き始める。その姿は、まるで生き物のようだった。
船体が傾斜台を下りるにつれ、スピードが増していく。くす玉から放たれた紙吹雪が風に舞い、色鮮やかな風船が空へと上昇していく様子は、まるで祝福の虹のようだった。
「すごい……」若手技術者の一人が思わず声を漏らした。
巨大な船首が水面に触れた瞬間、大きな水しぶきが上がった。その壮大な光景に、会場全体が息を呑む。
「おおっ!」
歓声が沸き起こり、拍手が雷鳴のように鳴り響いた。政治家たちも、思わず立ち上がって拍手を送っている。
タンカーは優雅に水面を滑るように進み、やがて完全に浮かび上がった。造船所中に歓喜の空気が広がる。若手たちは互いの肩を叩き合い、ベテランたちは静かに、しかし誇らしげに頷き合っている。来賓たちも興奮気味に言葉を交わし合っていた。頭上では、白い鳩たちが円を描くように飛びながら、この喜びの瞬間を祝福しているかのようだった。
田中の目に涙が浮かんだ。その一滴が頬を熱く伝う間に、彼の脳裏には数十年の歳月が走馬灯のように駆け抜けていった。苦難、挫折、決断、そして数えきれない努力の日々。全てがこの瞬間のためだったのだと、彼は胸に手を当てながら感じていた。
第四艦隊事件、戦艦武蔵の建造――それぞれが重大な岐路だった。もし軍の圧力や保身のために溶接技術の重要性を主張せず、旧来のリベット工法に固執していたら、おそらく日本の造船技術は大きく後れを取り、目の前の光景など存在しなかっただろう。決断の一つ一つが、まるで鋼板を繋ぐ溶接線のように、過去と現在を結び付け、今日の繁栄を形作っていた。全てが、彼の人生と日本の造船技術の分水嶺だったのだ。
周りで歓声を上げる若い技術者たちの姿に、かつての自分を重ね合わせる。彼らは興奮気味に新しい技術について語り合っていた。自動溶接、電子計算機、新素材の開発。彼らの言葉の一つ一つが、未来への可能性を感じさせた。進水式の喝采が鳴り響く中、田中の脳裏には、過去から現在へと続く溶接線が、若者たちの手によって未来へと力強く伸びていくのを感じていた。その線は、まだ見ぬ技術の地平へと真っ直ぐに伸び、日本の造船業の輝かしい未来を約束しているかのようだった。
式典が終わり、人々が三々五々と去っていく中、田中はゆっくりと観覧席付近を歩いていた。様々な角度からタンカーを見上げ、その姿を細部まで観察する。長年の経験から来る習慣で、彼の目は自然と船体の細部に注がれていた。
「やはり素晴らしい出来栄えだ」と田中は独り言を呟いた。溶接線の美しさ、船体の流線型、そのすべてが彼の目には誇らしく映る。
タンカーの船尾付近を見上げていたとき、田中はふと人の気配を感じて振り返った。そこには白髪まじりながらも凛とした姿の女性が立っていた。彼女の隣には、孫らしき少年がいる。女性は驚いたような表情で田中を見つめ、そっと声をかけた。
「田中、さん……?」
その声を聞いた瞬間、田中は相手が誰なのかを理解した。
「……美智子さん、まさか」田中は驚きを隠せなかった。
45年ぶりの再会。二人の目が合った瞬間、まるで時を超えた溶接の痕跡のように、かつての記憶が一瞬にして蘇った。しかし、往時の熱い感情は、長い年月を経て、今や穏やかで落ち着いた空気へと変わっていた。それは、完成した溶接部のように、派手さはないものの、確かな存在感を放っていた。二人は言葉を失い、しばらくの間見つめ合った。
「おばあちゃん、この人誰?」
孫らしき少年の声で、二人は我に返った。
「あら、ごめんなさい。この方は……昔の知り合いよ」美智子は孫に優しく説明した。そして田中に向かって付け加えた。「孫の付き添いで来たんです。まさかあなたにお会いできるとは」
「太郎、こちらは田中一郎さん。船を作る人なのよ」
「船?」太郎の目が輝いた。「このでっかい船も、おじいさんが作ったの?」
田中は少し照れくさそうに首を振った。「いや、僕ひとりで作ったわけじゃないんだ。会社の若い人たちと一緒に頑張って、この船ができたんだよ」
「へぇ、すごい!」太郎は感嘆の声を上げた。「どうやってこんな大きな船を作るの?」
田中は柔らかな表情で説明を始めた。「そうだねえ……例えば、君はキャッチボールをするかな? 最初はうまくボールを取れなくても、練習していると、少しずつ上手くなるだろう?」
太郎は興味深そうに頷いた。
「船を作るのも同じなんだ。僕たちは長い時間をかけて、少しずつ難しいことができるようになったんだ。昔は作れなかったような大きな船も、今では作れるようになったんだよ」
美智子は孫の反応を見て柔らかく微笑んだ。そして、田中に向かって静かに言った。
「本当に素晴らしいです。あなたの長い間の努力が、こんな大きな成果につながったのですね」
その言葉に、田中は胸が熱くなるのを感じた。目の前のタンカーと、記憶の中の戦艦武蔵が重なる。かつては戦争のために技術を磨いた。しかし今、それと同じ技術が世界を支えている。
「ありがとう、美智子さん」田中は真摯な表情で答えた。「君との別れを胸に刻んで、これまでやってきたんだ。技術を通じて人々の役に立ちたい。そんな思いで、ずっと努力してきた」
美智子はゆっくりと頷いた。「私も……あなたのことをずっと気にかけていました。あの頃は若かったですね。あなたの真剣な眼差し、よく覚えていますよ」
田中は感慨深げに彼女を見つめた。「あの頃は、とにかく一所懸命だった。君の言葉の意味も十分に理解できていなかった。でも今なら、技術が人々の幸せにつながることが実感できる。この船も、世界中の人々の暮らしに役立ってくれるはずだ」
美智子は優しく微笑んだ。「私たちは違う道を歩んできましたが、結局は同じ場所に辿り着いたのかもしれませんね」
「おばあちゃん、おなかすいた」太郎の声に、二人は我に返った。
「あら、そうね。そろそろ行かなきゃ」美智子は孫の頭を優しく撫でながら言った。そして、田中に向かって微笑んだ。「お元気で、田中さん。あなたの作った船が、世界の架け橋になることを願っています」
「ああ、君も元気で」田中は温かく応じた。「ありがとう」
美智子と太郎が去っていく姿を見送り、彼は不思議な充実感に包まれた。これで彼女は安心してくれたことだろう。長年抱えていた何かが、ようやく解決したような感覚だった。
田中は再び巨大なタンカーを見上げた。その姿は、単なる鋼鉄の塊ではない。技術者たちの情熱と努力、人々の夢と希望の結晶だった。鋼板と鋼板を繋ぐ溶接の痕跡が、まるで熟練の匠が織りなす繊細な刺繍のように、かすかに浮かび上がっている。その息を呑むような滑らかな繋ぎ目は、人々の絆を象徴しているかのようだった。