第六章 静かなる威容:武蔵、その進水と完成
1940年11月初旬、長崎の造船所に緊張が漂っていた。巨大戦艦の進水を目前に控え、技術者たちは最後の確認に追われていた。田中一郎は、数日前に行われた水密試験の成功を思い出していた。
「あの時の安堵感は忘れられないな」田中は副技師長の秋本に語りかけた。「艦内に水を入れて、一切の漏れがなかったときは……」
秋本は懐中時計を手に頷いた。「ええ、あれだけの大きさで完璧な水密性を実現できたのは、我々の溶接技術の証明です。実際に確認できて良かったです」
二人は黙って巨大な艦体を見上げた。その姿は、まさに彼らの技術の結晶だった。
そして、11月11日、ついに進水の日が来た。
「心配するな」と田中は落ち着いた声で言った。「我々にできることは全てやった。あとは信じるだけだ」
進水の瞬間が近づくにつれ、場の空気は一層張り詰めていった。技術者たちの間に流れる緊張は、ほとんど触れることができそうなほどだった。
ついに、合図が下された。
巨大な艦体がゆっくりと、しかし確実に動き始めた。田中は息を呑んで見守った。艦が徐々に速度を増す。艦体が水面に触れた瞬間、かすかな波紋が広がった。そして、巨大な鋼鉄の塊が滑るように湾内に入っていく。
「浮いた……」田中は思わず呟いた。その声には、これまでの苦労が全て報われたような感動が滲んでいた。
周囲から歓声が上がる。技術者たちの顔には、達成感と喜びの表情が溢れていた。田中は静かにまぶたを閉じ、これまでの苦労が報われた瞬間を心に刻み込んだ。
水面に浮かぶ巨大な艦影を見つめながら、田中の胸に様々な思いが去来した。第四艦隊事件での衝撃、高張力鋼での苦闘、そして幾度となく訪れた挫折と克服。全ては、この瞬間のために積み重ねられてきたのだと、感慨深く思った。
二号艦と呼称されていたこの戦艦は「武蔵」と命名された。進水の興奮が冷めやらぬ中、艤装工事が始まった。岸壁に係留された武蔵に、次々と装備が取り付けられていく。
時が流れるにつれ、武蔵の姿は日に日に完成形に近づいていった。田中は毎日のように艦を訪れ、その変化を見守った。ある日、艦橋の最上部に立ち、眼下に広がる甲板を見渡しながら、彼は複雑な思いに襲われた。
誇りがあった。日本の造船技術の粋を集めたこの艦は、間違いなく世界最高峰の戦艦だ。先に軍が呉で建造した一号艦「大和」で判明した数々の問題にも、同型艦である武蔵では改良を施した。それを民間の造船所で作り上げた技術者としての達成感は、何物にも代えがたいものだった。
1942年5月20日、長崎の空は澄み渡り、武蔵の出港の日を静かに迎えていた。
秋本は、ポケットから懐中時計を取り出した。文字盤を確認し、微かに頷いてから田中に向き直る。
「出港の時刻になりました」秋本は静かに告げた。「しかし、このような重要な瞬間を、ごく少数の者しか見られないというのは、何とも皮肉なものですね」
田中は無言で頷いた。その表情には誇りと憂いが入り混じっていた。史上最大級の戦艦が、その圧倒的な存在感とは裏腹に、機密保持のためひっそりと船出を迎えることへの複雑な思いが、彼の胸中で渦巻いていた。
長崎の街は不自然なまでの静寂に包まれていた。普段なら活気に満ちているはずの港町に、重苦しい空気が漂っていた。出港を隠すために敷かれた厳戒態勢が、いつもの喧騒を押し殺していた。
武蔵はゆっくりと動き出した。見送る者はわずかな技術者たちだけ。田中は、水平線に向かってゆっくりと進んでいく巨大な影を見つめながら、胸が締め付けられる思いだった。「行ってしまったな……」田中は呟いた。その声には、別れの寂しさと、何かへの期待が混ざっていた。
武蔵の姿が見えなくなった後も、技術者たちはしばらくその場を動かなかった。