2.妖怪の下宿先
日が暮れかける頃、継名さんの車は目的地の町に入った。
夕闇に包まれつつある町は、どこか懐かしく、それでいて不思議な雰囲気が漂っていた。
僕は不安と期待が入り混じった心で車窓の外を見つめていた。
「もう少しで着くぞ」
と、継名さんが言った。
町の中心部に近づくにつれ、建物の明かりが増え、人々の姿もちらほら見えるようになった。
「ここがお前の新しい家だ」
と、継名さんが指差したのは、古風な造りの大きな家だった。
お化け屋敷のようなものを想像していたが、下宿先として提供されるその家は、どこか温かみがあり、安心感を与えてくれた。
下宿先では、見た目外国人のお姉さんが出迎えてくれた。
緑色のワンピースが彼女の長い栗色の髪に映えて、とても美しい。
「下宿の管理人レインだ」
と、継名さんが説明してくれる。
「よくきましたね」
流暢で、それでいてほんの少しカタコトな日本語で挨拶してくれた。
僕が頭を下げると、ガバッと抱きしめられた。
身長が高い彼女の胸が僕の顔に当たり、顔が赤くなるのを感じた。
「なにやってるんだ。レイン」
呆れた声で、継名さんが言う。
「入居者が来てくれて、つい嬉しくて」
と彼女は笑顔で言った。これが外国人の挨拶なのかと戸惑いつつも、納得しようとしていると、継名さんはそんなレインさんを冷ややかな目でみている。
「嘘つけ。味見するなよ」
味見……。
まるで僕が食べられてしまうようで。
「人を食べる妖怪はいないんじゃ……」
僕は不安になりながら聞くと、
「食べはしないさ」
と、継名さんの言い方は意味深だった。
「あとでくださいね」
とレインさんは指を口元に当てながら物欲しそうに継名さんに言う。
その姿はどこか艶めかしい。
「あとでな」
まんざらでもない顔をしている継名さんを見ると、
なんだかいけないものを見ているような気分になった。
「お名前なんていうの?」
まるで幼稚園の先生にでも聞かれている気分だった。
「累です」と答えると、「累君ね」とレインさんは微笑んだ。
レインさんは、僕の手を優しく握りながら、下宿の案内を始めた。古風な建物の内部は、どこか懐かしい香りが漂っていた。廊下を歩きながら、部屋の使い方や共有スペースの説明をしてくれる彼女の声は心地よく響いた。
「ここが君の部屋だよ」と案内された部屋は、シンプルだけど落ち着いた雰囲気だった。木製の家具が温かみを感じさせ、窓からは庭の緑が見える。
「何か困ったことがあれば、すぐに言ってね」とレインさんは優しく微笑んだ。
「はい、ありがとうございます」と答えながら、僕は緊張が少しずつ解けていくのを感じた。
「累君、ここに来たばかりで不安もあるだろうけど、大丈夫。みんな君の味方だからね」とレインさんは言い、僕の肩を軽く叩いてくれた。
その言葉に少しだけ勇気をもらい、僕は部屋に入った。荷物を整理しながら、改めてここが新しい生活の始まりだということを実感した。
夕食はレインさんが部屋まで持ってきてくれた。
「もう遅いから、今日は、部屋で食べてね。普段はダイニングでみんなと一緒に食べましょうね」
どうやら、他にも下宿生がいるらしい。
大人の人が多いらしいので、みんな不定期らしく、ちゃんと集まって食べるのは稀とのこと。
「楽しみでしょう?」
レインさんは、いたずらっぽく笑った。
きっと、妖怪の人もいるのだろう。
ちょっと不安だった。
◇◆◇
夕食後、静かな夜の時間が訪れた。窓から見える月明かりが部屋を優しく照らしていた。布団に入ると、今日の出来事が次々と思い出されて、自然と目が閉じられていった。
その夜、僕は布団に入って、明日のことを考えていた。
「明日は、学校か……」
行きたくない。そう思えば思うほど、胸が重くなり、心にぽっかりと穴が開く感覚が広がった。どす黒いものが溢れてくる。
僕はその感情を抑えきれず、突然起き上がり、壁を殴りつけた。大きな穴が開き、外の冷たい空気が部屋に流れ込んできた。
「あっ」と驚いた僕の手は信じられないほどの力を発揮していた。
弁償のことを考えるとさらにパニックになり、体が言うことを聞かなくなった。
レインさんが慌てて部屋に駆け込んできて、僕を後ろから抱きしめた。
無理やり振りほどこうとした僕の力で、彼女の腕が折れる音がした。
しかし、それでも彼女は僕を抱きしめ続けた。
しばらくすると、自分の家に帰ったはずの継名さんが部屋に入ってきた。
継名さんが僕の頭を優しく撫でると、心の中の黒いものがすうっと消えていく感じがした。
「レイン、ありがとうな」と継名さんが言った。
「いえ、それより、累君は大丈夫ですか?」
とレインさんが心配そうに尋ねた。
「今妖気を抜いたから、しばらくは大丈夫だろう。慣れない環境と引っ越しのストレスが溜まっていたんだろうな」と継名さんは答えた。
「繊細な子ですね」とレインさんが言った。
「人間の町で暮らしていた普通の子だからな」と継名さんが続けた。
母さんは僕のことを「難しい子」と言い、先生たちは「特殊な子」と言った。それに対して、レインさんは「繊細な子」、継名さんは「普通の子」と言う。
継名さんとレインさんは夫婦というわけではないが、なんだかお父さんとお母さんのように感じた。小さかった頃、どんなに暴れていても父さんが寝かしつけてくれたことを思い出した。暴れなくなったら、そっと母さんが撫でてくれたことも。
「父さん……」とつぶやくと、涙が頬を伝った。
父さんが亡くなったとき、酷いことを言われたせいで泣くこともできなかったが、今、初めて父さんの死を悲しんで泣いた。
「何も心配しなくていいからね。ゆっくりおやすみ、累君」とレインさんの少しひんやりする優しい手を感じながら、僕は深い眠りに落ちていった。