一目惚れは三年前 10
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リーチェと逢瀬を終えたカイゼンは、働き詰めのせいで疲れ果てていたはずだった自分の体の不調を少しも感じる事なく、晴れやかな気分で師団の下に戻って来た。
「戻った──」
「やあ、カイゼン卿。リーチェは元気そうだったか?」
晴れやかな表情で執務室の扉を開けたカイゼンの目に飛び込んで来たのは、そこにいるはずのないテオルクで。
テオルクの隣には彼の執事であるヴィーダの姿まであった。
「ハ、ハンドレ伯爵……!? も、申し訳ない、お待たせしてしまったでしょうか!?」
まさかリーチェの父親であるテオルクが来訪しているとは。
そんな予定はあっただろうか、とカイゼンは慌てて自分の部下であるディガリオに視線を向けるが、ディガリオはぶんぶんと首を横に振る。
どうやら、来訪予定を忘れてしまっていた、などと言う失態は犯していなかったようだ。
その事にほっとしたのも束の間。
テオルクを待たせてしまっていたのは間違いない。
カイゼンは慌ててテオルクの向かいにあるソファに座った。
「いや、事前に知らせを送らなかった私が悪いからな。気にしないでくれ」
「いえ、もう少し早く戻れば良かったのですが……申し訳ございません」
カイゼンが腰を落ち着けた所でテオルクが話し出し、カイゼンも答える。
世間話をしつつ、カイゼンは仕事に復帰出来るようになったヴィーダに優しげに目を細め、彼に話しかけた。
「それにしても、ヴィーダ殿もすっかり良くなったようで……。良かったです」
「これもヴィハーラ卿が協力して下さり、私を見付けて下さったお陰です。この恩義、一生忘れません」
「そんな……仰々しくせずとも……」
苦笑するカイゼンに、ヴィーダはとんでもない! と首を横に振る。
「ヴィハーラ卿が私を見付けて下さったからこそ、ああして祝勝会のあの場に馳せ参じる事が出来たのです。お嬢様のご無事な姿を見る事が出来て、私がどれだけ嬉しかったか……」
胸元のポケットからハンカチを取り出し、男泣きをするヴィーダ。
保護したばかりの時は痩せ細り、弱々しくなってしまっていたヴィーダの姿も、今は筋肉も付き逞しくなっている。
体も大きく、初老という年齢ながら老齢さを感じさせないヴィーダの男泣きは少しばかり怖い。
カイゼンが若干引いてしまっている事に気付いたテオルクが苦笑しつつ、ヴィーダの背中を軽く叩く。
「落ち着け、ヴィーダ。君の図体で男泣きする姿は少し……その……怖いぞ」
「だっ、旦那様……! 酷いですぞ……! 私はリーチェお嬢様がご無事で、お元気そうな姿を見た時は……っ」
うう、と声を漏らしハンカチを目元に当てるヴィーダ。
ヴィーダが以前の事を思い出し、咽び泣くのも頷ける。
ヴィーダは知ってはいけない事を数多く知ってしまったからだ。
フランツ医師と、テオルクの妻だったフリーシアの不貞行為に、リリアの出生の秘密。そして伯爵家の資金の着服に、あろう事かフリーシアはフランツ医師に唆され、自分の娘であるリーチェの殺害まで企てていたのだ。
その企ては、実行に移される事もなく失敗に終わっているが、リーチェを手にかけようとした事でテオルクはフリーシアを完全に敵と見做した。
リーチェの件がなければ。
リーチェに害を為そうとさえしなければ。
そうすれば、テオルクはあそこまでの罰を与えなかったかもしれない。
妻に寂しい思いをさせてしまったのは自分にも責任があるのだ、と言う気持ちは少なからずあるのだから。
だから離縁をして、邸から出した後も食うに困らない程度の暮らしは保障していたかもしれない。
(……だが)
カイゼンはちらり、とテオルクに視線をやる。
ヴィーダの背を摩り、苦笑いしながら言葉をかけているテオルク。
情に厚く、だが自分が敵と見做した者には情け容赦無い。
(……温厚そうに見えて、実はこの人が一番恐ろしいんじゃないか……)
カイゼンは、王都に戻って来てからのテオルクの行動や言動、そしてそれを躊躇いなくやってのける実行力。
それらを思い出してぞくり、と背筋を震わせた。
「カイゼン卿……? どうした、顔色が悪いぞ」
押し黙るカイゼンに気付いたテオルクが不思議そうに瞳を瞬かせ、話しかけてくる。
テオルクの恐さを再認識していたカイゼンは、テオルクに気づかれてしまわないよう慌てて首を横に振った。
「いえっ、何でも……! そ、それよりハンドレ伯爵、どうされたのですか? 師団に来られるなんてよっぽどの事があったのかと……」
脱線してしまった話を元に戻すようにカイゼンが告げると、テオルクは「そうだった」と落ち着きを取り戻し、椅子に腰掛けた。
先程まで男泣きしていたヴィーダも、ハンカチを仕舞い素早くテオルクの後ろに控える。
カイゼンもテオルクの向かい側に座った所でテオルクが口を開いた。
「フランツ医師の潜伏先が見つかっただろう?」
「ええ。王都から離れた領地にいましたね。離れた場所に潜伏していたため、足取りが掴めず時間を要してしまいましたがようやく捕らえる事が出来そうです」
国王にも先日報告した内容だ。
そのため、テオルクが知っていても何ら問題はない。
だが、それがどうしたのだろうかと今度は逆にカイゼンが不思議そうな表情を浮かべる。
王都から離れた領地。
フランツ医師は王都近郊は危険だと判断し、離れた場所に身を隠していた。
その領地も、不貞関係であるとある貴族の夫人の実家の領地だ。
今のシーズンは多くの貴族が王都に滞在している。
そのため、フランツ医師と不貞関係の貴族夫人は多く存在していたが、フランツ医師も相手はしっかり選んでいたらしい。
シーズンが過ぎれば王都から遠く離れた領地に戻るような貴族とは関わりを持たず、王都近郊、若しくは王都で要職に就く家と懇意になっていた。
その事に気がついてから、調査は早かった。
王都から離れた領地を持つ領主を省き、フランツ医師と関係がありそうな家を絞り、その家の夫人に尋問を行う。
尋問を行った結果、フランツ医師の足取りを掴む事が出来て王都から離れた場所の領地に潜んでいる事も分かった。
フランツ医師と不貞関係にあった者達は殆ど彼の正体を知らず、ただただ爛れた関係を楽しんでいた者達に過ぎなかった。
貴族の夫人や娘と懇意になり、言葉巧みに夫の仕事内容やこの国の情報を抜き取る。
そうして、フランツ医師は自分の医師団に情報を渡していたらしい。
国王からフランツの捕縛の勅命を受けたカイゼンは、フランツが勘付き逃げ出す前にその領地に向かわなければならない。
「……フリーシアの下に医師団の誰かが接触を図る可能性もある。私はそちらを見張るよう、陛下より命令があった。そのため、カイゼン卿の任務を手伝う事が出来ないからな……。健闘を祈りに来たんだ」
「そうだったのですね……! お心遣い、有難く頂戴します」
「ああ。カイゼン卿を心配する必要はないだろうが……。……リーチェの事を考え過ぎて注意力散漫にならないようにな?」
「──なっ!?」
テオルクから揶揄うような言葉を寄越され、突然そんな事を言われたカイゼンは頬を赤く染めてしまう。
真面目な話をしていた途中、突然リーチェの名前を出されて動揺してしまうカイゼンの姿に、テオルクの後ろに控えていたヴィーダが豪快に声を上げて笑う。
「──はっはっ! リーチェお嬢様はお美しいですからな! ヴィハーラ卿が動揺してしまうのも無理はありませんな!」
「リーチェの名を聞いただけでその様子では……この先が思いやられるな、カイゼン卿」
「お、俺を揶揄うのはやめて下さい……っ」
国に混乱を、国に仇なす逆賊の捕縛だ。
勅命を受け、知らず知らずカイゼンの体にも力が入っていた。
程よい緊張感は逆に自分の感覚を鋭くする。
だが、今回の任務は潜伏するフランツの捕縛。
師団長を務めるカイゼンを心配するなど烏滸がましい事ではないだろうか、とテオルクは考えていたが彼はまだ十九歳だ。
立派な師団長で、鬼神と称される程の実力の持ち主だとしても、テオルクからしたらまだまだ年若い青年である。
以前の戦争で、窮地に陥った自軍を救ってくれたのはカイゼンだ。
そして、その長い戦場での生活でカイゼンとは随分打ち解ける事が出来た。
大切な娘であるリーチェの助けにもなってくれた。
(まあ……彼にもリーチェの助けになりたい、という気持ちが大きかったのだろうが)
テオルクは自分の目の前にいるカイゼンの体から変な力や緊張感がするり、と抜け落ちた事を確認し、背後にいるヴィーダに顔だけ振り返り視線を向ける。
するとヴィーダも目を細め、暖かい笑みを浮かべた。
「さて、カイゼン卿。邪魔をしたな、私はこれで失礼するよ。落ち着いたら共に食事でもしよう。晩餐会に招待させてもらおう」
「──! 楽しみにしております」
「ああ、また」
会話を終えた二人は、その場で別れた。
執務室を出ていくテオルクの背を見送ったカイゼンは、先程まで浮かべていた穏やかな笑みを消し去り硬い表情を浮かべる。
逆賊、フランツ医師を捕らえるため、カイゼンは自分の師団員達に指示を始めた。