一目惚れは三年前 9
カイゼンにそう告げたテオルクが急ぎ戻って行く後ろ姿を見詰める。
先程テオルクが口にしていた言葉が頭の中から離れない。
「──約、破棄? 婚約破棄、と……確かに口にしていた……。リーチェ・ハンドレ嬢が、何故……」
何か、大変な事が起きているのかもしれない。
「……この戦争の最中もハンドレ卿は外部と連絡を取り合っていたようだったし、今回の事と関係しているのだろうか……?」
テオルクが調べていたのは今回の一件とは関係の無い、専属医師のフランツに関してなのだがその事を知らないカイゼンはリーチェに何かあったのでは、と心配が募っていく。
婚約破棄など、大変な出来事だ。
婚約には家同士、深い関わりや事情、契約が発生する。
それにも関わらずその契約を破棄する事になってしまっている、と言う事だ。
「……確かにここで二の足を踏んでいる場合では無い事案だ……。ハンドレ卿は一刻も早く王都に戻りたいだろう」
ならば、最大限彼の手助けをしなければ、と考えたカイゼンはそこでやっと落とした布を拾い、自らも自分の天幕へと足早に戻って行った。
◇
午後。
帰還の準備を進めるテオルクとカイゼンの下に、同盟国騎士のアジュラがやって来た。
「お二人とも、急ぎ王都に戻ると聞いた。本当か?」
慌てた様子でやって来たアジュラに、カイゼンはこくりと頷き、テオルクは「申し訳ない」と言葉を紡ぐ。
「本来であれば我々も最後まで残り、処理をしていかねばならんのだが……後処理は他の人間を置いて行く」
「──そう、か。承知した、此度の戦はそちらの助けがなければ我が国はもっと被害を出していただろう。多大な貢献をして頂いた事はしっかり陛下に報告をさせて頂く。後日改めて我が国から正式に礼をさせて頂く事になるだろう」
「困った時はお互い様だ、と我が国の陛下が言っていたからな。次はうちの国が窮地に陥った際は助けてもらうさ」
「……! 任せておけ。その際はいの一番に私が駆け付ける」
テオルクとアジュラはお互い笑顔で会話をしている。
カイゼンが合流する前から二人は長い間戦地で共に戦っていたのだ。
気心知れた仲になっているのだろう。
そして帰還準備をしている周囲の様子を眺めながら、アジュラがぽつりと言葉を零した。
「そう言えば、ハンドレ卿。……我が国にフランツ医師と同じような容姿を持つ人間は居なかったぞ。国境を越えた形跡も無い。その人間はこちらの国には足を踏み入れていないようだ」
「──! そう、か……。協力、感謝する……」
フランツ医師。
カイゼンはその医師の名前に聞き覚えがあり、ふとテオルクが居る方向に振り向いた。
(……? 確か、以前公爵家の軍医が口にしていた名前だ……。だが、ハンドレ卿が何故……?)
カイゼンがフランツの名前に反応した事に気付いたのだろう。
テオルクはカイゼンにちらり、と視線を向けた後アジュラと短く言葉を交わし、二人は別れた。
そしてアジュラと離れたテオルクがカイゼンに向かって歩いて来る。
「──カイゼン卿、フランツと言う名前に聞き覚えが……?」
「……ええ、そうですね……」
カイゼンは少々ばつが悪そうに言葉尻を濁してしまう。
以前、軍医から聞いた事がある。
医者の中には医者と言う身分を利用して様々な貴族の家と懇意になり、その家の者と不埒な関係になる者も居る、と。
「──軍医から、その……中には不埒な真似をする医者も居るから気を付けろと助言を貰った事がある程度ですが……」
「……そうか」
「……ええ」
軍医はきっとカイゼンもその内婚約者を持ち、家庭を築くだろう事を見越してそのような助言をしてくれたのだろう。
医者だからと言って、簡単に信用するなと言う事を話して聞かせてくれた。
カイゼンが幼い頃から面識のある軍医だ。
軍医には戦地で世話になった事も多々あるし、子供の頃には可愛がってもらった記憶もある。
カイゼンは騎士としての職務上、邸を長く空ける期間もあるだろう。
だからきっとちょっとした親切心で教えてくれたのだろう。
実際、公爵家の軍医もそんな気持ちでカイゼンに助言をしてはいるのだが、その医師フランツがテオルクのハンドレ伯爵家お抱えの医師だとは軍医もその時は知らなかった。
テオルクは何とも言えない、難しい表情を浮かべていたと思ったら、ぽつりと言葉を零した──。
「──そのフランツと言う医者は……我が家のお抱え医師なんだ」
「……っ!?」
テオルクの言葉を聞いて、カイゼンは驚きに目を見開く。
軍医から聞いていた、不埒な医師がハンドレ伯爵家のお抱え医師。
その事を知ったカイゼンは、顔色を悪くさせた。
「まっ、まさかご息女がその医師の魔の手にかかったのですか!?」
まるで世界の終わりだとでも言うような、絶望しきったカイゼンの様子にテオルクは戸惑った。
「──え?」
戸惑い、言葉を返さないテオルクの様子を見てカイゼンは益々勘違いを加速させて行く。
真っ青な顔でどこからどう見ても常とは違う様子のカイゼンが勘違いを重ね、テオルクから顔を逸らし呟く。
「だから……っ、だから婚約破棄などと言う事態に……。くそっ、そんな医師がハンドレ伯爵家の専属医だと知っていれば……」
「──いや、ちょっと待ってくれカイゼン卿、リーチェの婚約破棄と、フランツ医師は関係無い」
ぶつぶつと呟くカイゼンにテオルクは近付き、肩に手を置きながらそう告げてやる。
すると、テオルクの言葉を聞いたカイゼンが勢い良く振り向いた。
「……先日から違和感を感じていたが……カイゼン卿はまさか、娘を……?」
「──……っ」
訝しげに見詰めながらそう言葉を紡ぐテオルクに、カイゼンは否定など出来ず、かと言って婚約者が居る身であるリーチェに想いを寄せている、などと肯定出来る筈も無く。
カイゼンが言葉に詰まっていると、テオルクは納得したように一人何度か頷いた。
そして自分の顎に手を当て、思案顔でカイゼンを見詰める。
「ハ、ハンドレ卿……?」
じっと見詰められる居心地の悪さにカイゼンが身動ぎすると、テオルクは「話をしよう」とカイゼンを自分の天幕に引っ張って行ったのだった。
◇◆◇
「──……ゼン、様! カイゼン様?」
「──へっ!?」
自分の名前を呼ばれ、カイゼンは飛び起きる。
そして、先程まで自分は戦地でテオルクと話していたのに何故寝てしまっているんだ? と考えた所で目の前に居る人物を見て、ふにゃりと相好を崩した。
「すまない、リーチェ嬢……。寝てしまったみたいだな……」
「もう……。びっくりしましたよ、カイゼン様。カイゼン様がいらっしゃったと聞いて応接室に来たら、ソファに横たわっていて……。お体の調子が悪いのかと思って焦りました」
疲れているのであれば無理をして来ないで下さい、と少しだけ怒ったような表情を浮かべているリーチェに、カイゼンはぼうっとしたまま怒っていても愛らしいな、などと考える。
そう言えば、今日は出征中の資料を確認していたのだった。
だから、その時の事を思い出して夢に見てしまったのだろう、とカイゼンは目の前に居るリーチェの手を取り、自分の横に座るよう促した。
「すまない、リーチェ嬢。少しうたた寝してしまったようだ……。けれど疲れていない、しっかり休んでいるから来ないでなどと言わないでくれ……」
「──う……っ、ですが……。最近お父様も以前にも増して忙しそうにされているので……カイゼン様はもっとお忙しいのではないですか? フランツ医師が所属していた医師団の調査に、陛下から拝命したお仕事に……無理をせず、ご自分のお邸に戻ってしっかり休んで下さい……」
「リーチェ嬢に会わない方が俺には辛いから無理だ。それに騎士だから体力は問題無い、心配してくれたのか? ありがとう、リーチェ嬢」
自分の体調を心配して怒ってくれるリーチェに、カイゼンはリーチェが益々怒ってしまうと分かっていながら、それでもにこにこと笑顔が溢れ出てしまう。
(だって……、あの時はこんな風にリーチェ嬢と共に過ごす事が出来るなんて思わなかったからな……。こうして俺の隣で、俺の体調の心配をしてくれるなんて……きっと俺は一生の運を使い果たしたんだろう)
あの出征中。
戦争が呆気なく自国と同盟国の勝利となり、帰還の準備を始めたあの頃。
テオルクに自分の気持ちをあっさりと見破られてしまって。
そして、そんな気持ちを抱く自分の事をテオルクは排除しようとせず、リーチェの気持ちを優先して見守ってくれた。
(ハンドレ伯爵には感謝してもしきれないな……)
カイゼンはあの時。
王都に帰還する寸前にテオルクの天幕に連れられ、自分の気持ちをテオルクに見破られ、そして自分の想い人であるリーチェが婚約者と婚約破棄を行う寸前まで事態が深刻化している、と言う事を説明されたのだ。
そうしてその説明を聞いたカイゼンはリーチェの事をいの一番に心配した。
何か、リーチェが傷付く事があったのではないか。
もしかしたら大きな事件に巻き込まれているのではないか。
(……そんな事をぐるぐる考えていた俺をじっと見ていたハンドレ伯爵が提案してくれたんだよな……)
王都に戻った時。
祝勝会までの間、邸に滞在しないか、と──。
カイゼンはちらり、と自分の隣に座っているリーチェに視線を向ける。
すると、リーチェはカイゼンの視線に気付き微笑みを浮かべながら首を傾げている。
カイゼンはゆるゆると自分の目尻がだらしなく下がっていくのを自覚しながら、リーチェに向かって何でもない、と呟いた。
こうして、事件の調査の合間にリーチェに会いに来るのも久しぶりだ。
ようやく、ようやくフランツ医師の潜伏先を発見したのだ。
カイゼンはリーチェと久しぶりに会いたっぷり癒された後、フランツ医師の捕縛のため自分の師団の下に向かった。




