2話
ずしゃっ! と派手な音を立ててリーチェが地面に倒れてしまう。
だが、リーチェが転んだ事には目もくれずに母親は慌ててリリアの下へ駆け付けると、ハーキンの腕の中に居るリリアに心配そうに声を掛けた。
「──リリア、リリア……、可哀想に……! 息苦しいの? 息が出来る?」
「おか、お母様……っ」
なんて可哀想に、とくしゃりと表情を歪め母親がリリアの頬に手をやる。
そんな母親にリリアも泣きそうな顔で母親の名を呼んでいる。
その様子をリーチェは上半身だけを地面から起き上がらせた状態でぼうっと見詰める。
昔から、そうだった。
母は健康なリーチェより病弱なリリアを溺愛し、リーチェよりリリアばかりを気に掛け、心配する。
何でもリーチェよりもリリアを優先し、母に甘えたい子供時代でもリリアが熱を出せば母親はリリアに掛かり切りになり、リーチェは母の温もりをあまり知らない。
だが、その分父親はリーチェをとても可愛がってくれて健康で利発なリーチェを褒め、活発なリーチェに母親の分まで愛情を注いでくれた。
それはとても有難い事だし、リーチェも父親を尊敬し慕っている。
だが、やはり幼い頃は母親を恋しがる気持ちが大きく、リリアばかりを構う母親に寂しさを感じていたリーチェだったが十七になり、婚約者が出来てそんな事を思い出す事は少なくなっていた。
けれど久しぶりに母親がリリアを大層心配し、接している姿を見ると幼い頃の寂しさを思い出してしまう。
リーチェは地面にへたりこんだまま、少し奥で膝を付き、リリアを心配する母親の姿をどこかぼうっと他人事のように見詰める。
リリアを胸に抱き、心配するハーキン。
悲しそうな表情を浮かべている母親。
はっきりと線引きをされているような心地になってしまう。
自分も家族の一員の筈なのに、何故かあの輪の中に入れない。
リーチェだってリリアの事は心配だ。だが、今リリアの下に近付くと母親が確実に怒りをぶつけて来るだろう事はリーチェには分かる。
姉なのに妹を悲しませ、傷付けて恥ずかしく無いのか、と言われる事は想像にかたくない。
「──っ、姉が、妹に傷付けられるのはいいの……」
リーチェはぽつり、と風に消えてしまう程小さな小さな声で呟く。
リーチェのその声は母親にも、ハーキンにも、そしてリリアの耳にも届かなかった。
「お嬢様、大丈夫ですか……?」
「──え……。あ、ええ、大丈夫よ」
いつの間に庭園に使用人達が集まって来ていたのだろうか。
リリアがハーキンに抱えられ、母親が付き添いその場を後にして行く光景を眺めていると、リーチェの背後から心配そうに使用人が声を掛けて来る。
メイドの手を借りてリーチェはやっとその場から立ち上がり、邸に入って行った母親達の後を追う。
邸に入り、倒れ込んだ時に擦りむいてしまった膝の怪我を手当してもらっている時。
リーチェの所に使用人がやって来て、母親が呼んでいる、と告げられた。
手当を終えて母親の待っている部屋に向かうと、その場にはリリアの姿は無く、母親の姿だけがあった。
「失礼致します」
「──座りなさい」
リーチェが言葉を言い終える前に母親が遮るように冷たく言い放った。
リーチェに視線を寄越す事なく、顔を背けたままの母親に何だか嫌な予感を感じつつも、リーチェは母親に促されるままソファに腰を下ろし、しっかり前を向く。
はあ、とため息を零した母親は自分の額に手を当てた後、冷え冷えとした視線をリーチェに浴びせた。
「──リーチェ。話は聞いたわ。何故貴女は姉なのに妹であるリリアを悲しませるような事をするの? あの子はとても体が弱いのよ? 言葉には気をつけなさいといつも言っているでしょう? 悲しませて、しまいには泣かせて……! 呼吸困難にでもなったらどうするつもりなの!」
「ですが、お母様……! あの場で私が話をしていたのはハーキン様に対してです……っ、リリアをどうこうするつもりは無くて……!」
「その場にリリアが同席していたら同じ事でしょう!? それに、体が弱いリリアのために自分の婚約者の移り気くらい許しなさい!」
ぴしゃり、と母親から強く告げられてリーチェは呆気に取られてしまう。
「リリアがハーキンを慕っているのなら、姉である貴女が目をつぶるべきよ! 何もリリアは外でハーキンと仲睦まじく過ごしている訳ではないでしょう!? 邸の中で共に過ごす事くらい、大事な妹のためならば目をつぶるのが姉と言うものよ! 貴女はリリアには無い健康な体を持っているのだから、それくらい我慢なさい!」
リリアのため。
リリアの事を思い、我慢するべきだ。
リリアより健康で、リーチェは自由に外に出掛ける事も出来るではないか。
幼い頃からそう言われ続けて来た言葉が一気に頭の中に溢れ出す。
結局母親はリリアの事しか考えていないのだ。
リーチェだって同じ娘なのに、何故かリリアばかりを昔から可愛がる母親に、リーチェはぐっと唇を噛み締める。
「──ですから、ハーキン様との婚約を破棄したい、と話していたのです……」
ぎゅう、と強く握り締めた自分の手のひら。
強く握り締め過ぎて、薄らと指先が白くなってしまっている。
その様をどこか現実味の無い、ぼんやりとした視界で見つめながらリーチェはハーキンとの婚約を破棄したい、と言う事を母親に告げた。
「婚約を……? まあ……、それは良いわね。そうね、ハーキンの事を慕っているリリアが可哀想だものね……。姉である貴女が身を引くのは当然の事だわ。……分かったわ。アシェット侯爵家には私から二人の婚約を破棄する事を伝えるわ。それに、あの人にも報告をしなくてはいけないわね」
「──あ、お父様には、私が……」
「いいえ。あの人にも私から手紙を送っておくからリーチェ、貴女は何もしないで。問題無く破棄が出来たら貴女に教えるから」
母親はリーチェの言葉を遮り、そして話しは終わりだとばかりにソファから立ち上がる。
部屋に戻っていなさい、とだけ母親から告げられ、リーチェが返事を返すのを聞く事無く母親は部屋から退出してしまった。
恐らく、部屋に居るリリアの下に向かったのだろう。
ぱたん、と扉の閉まる音だけが嫌に部屋に響いた。
◇◆◇
あれから、一ヶ月。
あの日体調を崩してしまった妹のリリアは数日間高熱を出して寝込んでしまい、リリアにそれだけの負担を掛けたのはリーチェだ、と母親に告げられ罰としてこの二週間リーチェは自室に謹慎を言い付けられていた。
その間も婚約者であるハーキンは何度もハンドレ伯爵家に足を運んで、リーチェとリリアに会いに来ていたらしいが当然の如くリーチェはハーキンと会う事など出来ず、ハーキンはリリアと会い共に時間を過ごし、と言う日々を繰り返していた。
そして一ヶ月経った今日。
リーチェの部屋に母親がやって来た。
「婚約破棄の手続きは問題無く進んでいるわ。ハーキンは貴女と婚約破棄はしたくないと言っているにも関わらず、貴女の我儘で婚約破棄を行うのだから、賠償は自分の資産から支払いなさい。我がハンドレ伯爵家はハーキンのアシェット侯爵家と婚約破棄を行うつもりは無かったの。けれど、貴女がハーキンと別れたい、と強く願うから仕方なく破棄の手続きを進めたのよ」
リーチェの母親はリーチェが口を挟む暇を与えず、つらつらと言葉を続ける。
「賠償に関しては、貴女のドレスや宝飾品を売っては可哀想だ、とハーキンが言うので……あの人が貴女に譲った領地を賠償金代わりにアシェット侯爵家に渡すわ。ここに領地の権利書があるわ。リーチェ、貴女はハーキン・アシェットに領地の権利を全て譲る、とここに署名なさい」
「……っ、お母様……! あの領地を勝手に賠償代わりに渡すなんて……! あの領地は私が十五歳の時にお父様から譲り受けた大切な領地です! あの領地を渡すなんて、そんな事──!」
「黙りなさい!! 口答えをするなんて何て生意気な子なの! 少しはリリアを見習いなさい! あの子は自分が辛く苦しい時でも家の事を、姉である貴女の事を気に掛けていると言うのに貴女は自分の事ばかり! 恥ずかしい真似はやめなさい!」
「──〜〜っ、お母様っ!」
それはあんまりだ、とリーチェが言い返そうとした時。
バタバタ、と廊下を慌ただしく進む足音が聞こえて来て、リーチェが何事かと扉の方に顔を向けた瞬間、ノックの音が室内に響いた。
「──奥様、奥様! 今よろしいでしょうか!?」
声の主は母親の侍従だ。
とても焦っているようで、その声を聞いた瞬間ソファに座っていたリーチェの母親の顔色がさっと変わる。
そして慌ただしくソファから腰を上げて、部屋の入口へと歩いて行き、扉を開けた。
「何事なの。今、リーチェと大事な話をして──」
「奥様……っ、」
不機嫌な態度を隠しもせずに母親が侍従に声を掛けて、そして侍従がちらりと部屋の中にいるリーチェを気にしてから声を潜めて母親に耳打ちした。
その言葉を聞いた瞬間、母親は驚いたように目を見開き、戸惑う様子が離れた場所に居るリーチェにまで伝わって来る。
「──え、」
声を潜めてはいたが、リーチェの耳にはしっかりとその言葉が聞こえていて。
どきりどきりと嬉しさに鼓動が速まるのを感じる。
「リーチェ。話は以上よ。後でその権利書に署名をして、私の下に届けなさい。いいわね!」
母親はそれだけをリーチェに言い残し、侍従を伴い慌てて部屋から出て行く。
力任せに乱暴に閉められた扉をリーチェはじっと見詰めながら、テーブルに置かれた書類に視線を落とす。
先程、慌てた様子の侍従が母親に告げていた言葉を思い出し、リーチェは自然とゆるゆると口角が上がって行く。
自分の話をちゃんと聞いてくれる人が。
理不尽にリーチェを頭ごなしに否定しない人が。
二年の出征を終えて帰って来る。
「──お父様が戻られる……っ」
リーチェはじわり、と瞳に涙を滲ませつつ、嬉しさに濡れた声を漏らす。
テーブルに置かれた領地の権利書。
その権利書を、リーチェは大切に持ち上げて鍵付きの引き出しにしまい込んだ。