16話
「──っ、!?」
一体何の音か――。
リーチェが急いで隣を確認すると、そこには意識を失ったように床に倒れ伏すリリアの姿が。
え、と思いリーチェが声を出すより早く──。
「リっ、リリア……!?」
ハーキンの悲鳴のような声が聞こえ、リリアに駆け寄って来る。
国王陛下の下にいたテオルクやカイゼンも「何事か」とリーチェ達の方向を振り向いており、必然的に国王陛下もリーチェと、リリア。そして駆け付けて来たハーキンへと順々に視線を移している。
国王陛下のお言葉を邪魔してしまったのではないか──。
リーチェは慌てたが、国王がさっと手を上げてテオルクに近寄り、耳打ちしているのが見える。
リリアが倒れなければこの後はカイゼンに褒美の言葉を与え、テオルクの時と同じようにカイゼンの希望を聞く流れになっていただろう。
だが、壇上に居た国王は一旦自分の玉座に下がり、テオルクとカイゼンは国王に一礼している。
限られた時間で周囲を確認したリーチェは、一先ず倒れてしまったリリアを何処か別室で休ませなければ、と考える。
母親は先程テオルクが口にした言葉に呆然としており、倒れたリリアに目もくれない。
そして、動かぬ母親の代わりに何故かハーキンがリリアに駆け寄り、介抱しようとしている姿を見て、リーチェは声を潜めてハーキンに下がるよう告げた。
「──大丈夫です、お戻り下さい」
「だっ、だがリリアが倒れてしまったんだぞ……! 大丈夫な訳がないだろう!? すぐに運ばないと……!」
取り乱すハーキンの様子に、周囲が困惑しているのが伝わって来る。
──何故、婚約者の妹の名前を親しそうに呼んでいるのか。
──何故、婚約者の妹をあれ程までに心配しているのか。
──何故、妹のために血相を変えて駆け寄ったのか。
ひそひそ、とリーチェとリリア、そしてハーキンとの噂話を好き放題されている状況に、リーチェはぐっと唇を噛み締める。
婚約破棄をしたのだから、自分とハーキンの事は直ぐに知れるだろうとは考えていたが、今はタイミングが悪過ぎる。
(お父様の発言で、私たちに注目が集まっているのに、ここでアシェット卿が出てきたら更に面倒な事になるのに……!)
「大丈夫です。人の手を借りますので、お戻り下さい」
「──っ、君はなんて冷たい人なんだ……! リリアがっ、リリアが倒れてしまったんだぞ!? 心配ではないのか……!?」
「リリアは、我が伯爵家の人間がしっかりと介抱致します……! 貴方はお戻り下さい……」
「リーチェっ、君は──」
何て冷たい女性なんだ、とハーキンが口にしようとした所で、気を失っていた筈のリリアがうう、と小さく声を漏らしながら目を覚ます。
「ハーキン、ハーキン駄目よ……。お姉様を責めないで……可哀想だわ……」
「リリア……! 大丈夫かい?」
「ええ、少し気分が悪くなってしまって……。けど、大丈夫よ」
無理をしているのが分かるような顔色でリリアがにこり、と笑みを浮かべる。
そして自分を抱き起こしてくれるハーキンに、リリアはすりっと擦り寄り、ハーキンの胸に凭れかかった。
途端、周囲からざわめきが起こる。
リリアは苦しそうに細く息を吐き出し、リーチェに哀れみの視線を向けた。
「ハーキン、駄目よ。お姉様が可哀想だから、離して……。それに、ここには沢山の人が居るわ……これ以上、お姉様に惨めな思いをしてもらいたくないの……」
はらはらと涙を零し、うっと泣き伏せるリリアに周囲の視線がちくちくと刺さる。
リーチェの婚約者であるハーキンが、妹のリリアに心配そうに駆け寄り抱き起こしている光景。
この光景を見た周囲の人々は瞬時にリーチェとリリア、そしてハーキン三人の間で何が起きたのかを理解した。
「今日、参加するのは辛かったけれど……ハーキンとお姉様が顔を合わせたら、お姉様が悲しい思いをするでしょう? だから、お姉様にはハーキンと会わないように助けてあげなくちゃ、って思ったんだけど……ごめんなさい、お姉様っ。私のせいで結局こうなってしまって……っ」
「リ、リリア。落ち着くんだ、泣いたら呼吸が……っ、苦しくなってしまうだろう?」
声を上げて泣き喚くリリアと、リリアの言葉を鵜呑みにして心配するハーキンを見て、リーチェは「ああ、またやられてしまった」と何処か冷静に考えていた。
詳細を知らない周囲の人間は、咽び泣くリリアを哀れみ、同情している者が多い。
そして、少しもリリアを心配しているように見えないリーチェを冷たく非情な人間だ、と思っているのが周囲の空気からひしひしと伝わって来る。
どうやって二人をこの場から下がらせようか、とリーチェが悩んでいると、リーチェの直ぐ後ろからカイゼンの声が聞こえた。
「可哀想、可哀想って……。何を自分達の世界に酔い痴れているんだ。リーチェ嬢は浮気者の婚約者を自ら切り捨てたんだから可哀想も何も無いだろう?」
そうだろう、リーチェ嬢。とカイゼンに話を振られ、リーチェはこくこくと頷いた。
「え、ええ──。仰る通りですね……。リリア、私はもう気にしていないから、そんなに心配してくれなくていいのよ?」
それより、早く休みなさい、とリーチェに声を掛けられたリリアは羞恥に顔を赤くさせた。
「──そっ、そんなっ、強がらなくても良いのですお姉様っ! 無理に気丈に振舞って……っ、お姉様に悪い事をしてしまったのは私とハーキンです……! だからいつもの様に私を怒って下さい!」
──いつものように?
と、ざわりと周囲がざわめく様子がリーチェに伝わって来る。
リリアの虚言に、リリアの見た目だけ、上辺だけを見ている貴族達は好き勝手に噂をし始める。
リリアの言葉を聞いていたカイゼンは、リーチェの隣に並び立ちこそりと耳打ちした。
「リーチェ嬢、妹君の事は彼に任せてこの場から退出してもらったほうが良い」
「ええ、そうですね」
リーチェはちらり、と国王が居る壇上の方向に視線を向けて様子を確認する。
にこやかな笑みを浮かべてはいるが、笑みが消えてしまった時を考えると恐ろしい。
リーチェはハーキンに縋り、泣くリリアに向かって口を開いた。
「リリア、早くこの場から抜けなさい。今ならまだ陛下もお許し下さるわ。邸に戻っても良いし、どこかの部屋で休んでいても良いから」
お願いだから早くこの場から辞してくれ、と言うリーチェの願いはリリアには届かない。
「そ、そうして……っ、また私だけを蚊帳の外にするおつもりなのね……っ、お姉様はいつもそうだわ……っいつもいつもお姉様のせいで私とお母様は不幸になる……っ」
「リ、リリア……大丈夫か……? 泣き止むんだ……。リーチェ……っ! 酷いじゃないか、君の妹だろう!?」
ぽろぽろと涙を零すリリアの頬を、ハーキンは自分のハンカチで拭ってやりながらキッとリーチェを睨む。
「……っ、あなたが来なければ拗れなかったのに……っ。早くリリアを連れて行って下さい。国王陛下のお言葉が中断してしまっているのです」
「……っ、」
リーチェの言葉でそこでやっとハーキンは事の重大さに気付いたように顔色を悪くさせ、周囲に視線を巡らせる。
壇上にいたテオルクはゆったりとこちらに近付いて来ており、それまで褒美の言葉を与えていた国王は玉座に戻ってしまっている。
祝勝会のもう一人の主役であるカイゼンはリーチェを庇うように彼女の隣に並び立っており、ハーキンは助けを求めるようにリーチェとリリア、二人の母親に慌てて顔を向けたが母親からはさっと顔を逸らされてしまう。
そうしていると、近付いて来ていたテオルクがゆったりと言葉を紡いだ。
「──全く……黙って聞いていれば勝手な事を。リリア、リーチェに謝罪しなさい。それに、ハーキン・アシェット殿。婚約者でも無い女性をいつまでも名前で呼ばないでくれ。君の婚約者はリリアだろう?」
「なっ、何で私がお姉様に謝罪しなくてはならないのですかお父様っ、私はっ、」
リリアの言葉が途中にも関わらず、テオルクはふ、と顔を上げて宮殿の扉付近に視線を向ける。
そうしてその後に玉座に座る国王に顔を向け、テオルクから顔を向けられた国王はゆったりと頷いた。
「──リリア。リーチェに何度も下がれ、と言われたのにここに残ったのは君の意思だ。目を逸らしてはいけないよ」
「な、何を言っているのですかお父様……私は、ただ……っ」
テオルクは扉の方向に視線を向けた後、良く通る声で告げる。
「──通してくれ!」
「……、?」
誰か、入って来るのだろうか──。
リーチェが不思議そうに扉の方へ視線を向けると、ゆっくりと宮殿の扉が開き、そこから良く知る人物が姿を現した。
以前のように逞しい体躯ではなくなってしまっているけれど。
健康状態には何の問題も無さそうな、見慣れた姿。
久しぶりに元気そうな姿が見れて、リーチェは自分の口元を覆った。
「──……っ、ヴィーダ!?」
扉から現れたのは、体調を崩して辞めた、と聞いていた執事のヴィーダで。
痩せてしまっているが、しっかりとした足取りでホールを進んで来る姿にリーチェはほっと息を吐き出した。
テオルクがヴィーダを探して、そして事情を聞くと言っていた。
いつの間に動いていたのだろうか、とリーチェが考えていると、背後から母親の声で絶望に濡れた呟きが聞こえた。
「何で……。死んだっ、て……助けて、フランツ……っ」