1話
「泣くな、泣かないでくれリリア。君が泣いたら僕まで辛くなってしまう」
「だって……っ、だって……でも……! 私、辛くて仕方ないのハーキン……!」
胸を抑え、咽び泣くリリアを悲しげな表情で、何かをぐっと堪えるように唇を噛み締め、ハーキンがリリアを掻き抱く。
その光景は、まるで今巷で流行っている純愛の劇に出てくる主人公二人のようにとても絵になる光景で。
愛を確かめ合うように唇を寄せる二人は朝露に濡れた花々に太陽の光が反射して幻想的な景色の中、儚くも燃え上がるような愛にその身をやつしている。
──これが本当に演劇の中の出来事であればどんなに良かったか。
自分の婚約者を探すため、庭園にやって来ていたリーチェはくしゃり、と泣き出してしまいそうに表情を歪めて目の前にある美しく咲き誇る薔薇の花々を掻き分け、二人に近付いた──。
さくり、と土を踏む音が耳に届いたのだろう。
抱き合い、口付け合っていた二人の内男の方が弾かれたように音が聞こえて来た方向に顔を向ける。
そして、男からの口付けに酔いしれていた女がぽやっとした目で音の方向にゆったりと顔を向けた。
「リ、リーチェ……!?」
「お姉様……っ」
二人の動揺した声が美しい庭園に響いた。
◇◆◇
リーチェ・ハンドレには同い年の婚約者が居る。
リーチェはハンドレ伯爵家の長女で、美しいとは言い難いくすんだ金色の髪と、青空を閉じ込めたような瞳を持ち、一つ年下の妹であるリリアとは違い気の強そうなつい、と上がった目尻に化粧をしていないのに真っ赤な唇が彼女を「気の強い女」と印象付けてしまっている。
リーチェとは逆に、一つ年下の妹リリアは美しく艶やかな金髪に、瞳はリーチェと同じく空色の瞳。気の強そうで、健康そうな姉とは違いリリアは昔から体が弱く、とても病弱で。日に当たる事が殆ど無いため肌は透き通るように白く、儚い見た目だ。
ふわふわとした見た目でとても可愛らしく、昔から男性の庇護欲を誘うようなリリアに比べ、姉であるリーチェはきつめの印象を持ち、美人ではあるが男性からの印象は悪い。
けれど、そんな見た目にも関わらずリーチェの婚約者であるハーキン・アシェットはいつも優しかった。
きつい見た目に悩むリーチェを慰め、元気付けるように色々な所に連れ出してくれた。
妹のリリアと同じように、リーチェにもいつもか弱い女性として接してくれた。
昔から妹ばかり注目を受け、姉であるリーチェは男性から避けられていたと言うのにハーキンだけは妹リリアと姉であるリーチェに対して態度を変える事なく、同じように接してくれた。
──それがどれだけ嬉しかったか。
──女の子、として接してくれる度にどれだけ胸が騒いだか。
──そのままの君で良い、と言われてどれだけ救われたか。
それなのに。
結局ハーキンも選ぶのは愛らしく、女性らしい妹リリアなのだ。
家が決めた婚約であっても、ハーキンとなら穏やかで優しい関係を築けると思っていた。
愛し愛され子を設け、この伯爵家を後世に継いで行く。そう思っていた。
それなのに。
◇
「リ、リーチェ……これは、違うんだ……。その……っ」
がばり、と胸に抱いていたリリアを離しハーキンが真っ青な顔でつらつらと言い訳を並び立てる。
だが、リーチェにはもうそんな物はどうでも良くて。
何が違うと言うのか。
あれ程熱っぽく愛を囁き、リリアを抱きしめ、口付け合っていたと言うのに。
──私には必要最低限しか触れないくせに。
おろおろとするハーキンと、見付かってしまった事にバツが悪そうにリーチェから顔を背けるリリア。
バツが悪そうにはしているが、リリアから慌てるような、申し訳ない、と言うような感情は全く浮かんでおらずリーチェはぎゅっと自分の手を握り締めた。
「これには理由があって……その、リーチェ……」
リリアから離れてリーチェの下にやって来るハーキンの靴の足先が俯いた視界に入った。
無意識に俯いてしまったのだろう。
リーチェはそんな自分に小さく乾いた笑いを零した。
そして、自分の肩に触れようと腕を伸ばしたハーキンの手が見えた瞬間。
リーチェは奥歯をギリ、と噛み締めて思い切りハーキンの手を叩き落とした。
ぱしん、と乾いた音が朝の庭園に響いた。
まさか手を叩かれるとは微塵も思わなかったのだろう。
じん、と僅かに痛みが走る手を信じられないといった表情で見詰めた後、ハーキンは悲しそうな顔でリーチェに視線を向けた。
傷付いたような、苦しげな表情を浮かべるハーキンにリーチェは胸がムカムカと苛立つ。
(傷付いたのは私の方だわ。それなのに何故ハーキン様がそんな顔をするの……!?)
ぎゅうっ、と唇を噛み締めリーチェはハーキンを強く睨み付ける。
気持ちを強く持たなければならない。
自分の妹と愛を囁き合い、こんな場所で逢瀬を楽しんでいたハーキンなんかの為に泣きたくなんかない。
リーチェはそう思う事で必死に傷付いた自分の心を相手に、妹に悟られないようにひた隠す。
「リーチェ……っ、話をしたいんだ」
「──何を話すと言うのですか。私たちの婚約の事でしょうか? そうですね、このまま婚約を続ける訳にはいきませんものね。婚約解消……、いいえ、婚約破棄の手続きをしなければなりませんわね」
「婚約破棄だなんて……っ! そんな事……っ」
冷たく言い放ったリーチェに、ハーキンは縋るようにして言い募る。
その表情も、言葉も、傷付き震えていて。
リーチェは何故ハーキンが傷付いたような態度を取るのだろうか、と段々と怒りが込み上げて来る。
「私たちの婚約は破棄する他ないでしょう? だって、ハーキン様は妹のリリアと想いを通じ合わせていらっしゃるのだから。二人が婚約を結べるよう、私たちの関係は解消致しましょう」
リーチェがそう告げると、今まで俯き黙っていた妹のリリアが涙に濡れたか細く震える声を発した。
「ごめんなさ……。ごめんなさい、お姉様……。駄目だと分かっていたのです……。ハーキン様はお姉様の婚約者……だから好きになってはいけない方だと、頭では分かっていたのです……! けれど、ハーキン様を好きだと、愛しいと思う感情だけはどうしても消す事が出来なくって……!」
「リリア……! 君が謝る事は無い……っ、僕も……僕も悪かったんだ……っ。素晴らしい婚約者が居ると言うのに、僕はリリアも愛してしまった……!」
しゃくりあげながら言葉を紡ぐリリアに、目尻を赤く染めてリリアを庇うような事を口にするハーキン。
(私は何故こんな茶番に付き合わされてしまっているのかしら……)
ひしっ、とお互い抱き合う二人を冷めた目で見つめながら、リーチェはこの場で話す事はもう無いとでも言うように二人に背中を向けて邸に戻るため足を一歩踏み出した。
リーチェが背を向けた事にハーキンが気付いたのだろう。
焦ってリーチェの名前を呼び、その場に呼び止めようとしているがリーチェはその声に応えるつもりは無い。
(婚約破棄……。お母様はきっとすんなりと手続きをしてくれるわ……。けれど、お父様は……)
リーチェはニ年前、同盟国のため自らの兵を率いて出征してしまった自分の父親の事を思い出す。
父親は長女であるリーチェの婚約を結び付けた後、慌ただしく自国を出て行ってしまった。
政略的な思惑があり結ばれた婚約だ。
戦地に身を置く父親に自分の事で心配を掛けたく無い、と考えていたリーチェだったが今回の件ばかりは報告と、婚約破棄の手続きで連絡を取らねばならないだろう。
(戦も、落ち着いて来たと聞いているから……きっとお父様も近い内に戻られるわ……)
リーチェ! リーチェ! と背後から何度も呼び止められるがリーチェはハーキンの声を無視して真っ直ぐ歩き続ける。
そして、少し進んだ所で背後からハーキンの悲鳴じみた声が上がった。
「リっ、リリア……! リリア大丈夫か!? ちゃんと息をするんだ! 泣き過ぎてしまっては体に悪い!」
「──っ!?」
ハーキンの声音に焦りの色が濃く滲む。
リリアの身に良くない事が起きたのだろう。
流石にリーチェも慌てて振り向く。
すると、ハーキンの腕の中で力無くくったりと体を預けるリリアの姿が見えて。
そのリリアの顔色は真っ白で、とても具合が悪そうに見える。
「──リリ……っ」
「何の騒ぎなの!?」
リーチェが声を上げるのと、庭園の入口付近から女性の声が聞こえて来たのは同時で。
朝から庭園で騒いでいるのが伝わってしまったのだろう。
もしくは邸の中から見えたのかもしれない。
リーチェの背後から、慌ててこちらにやって来る足音が聞こえて来てリーチェはゆっくりと振り向いた。
聞き慣れた声、見慣れた姿。
リリアよりもリーチェに似た容姿の女性がそこには居て。
「──お母様、」
「どきなさい!」
リーチェが母親の名前を呟いた瞬間、母親は目の前に居たリーチェを突き飛ばし、リリアの下に駆けて行った。