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ノーチラスノートII  作者: 蓬莱 葵
7/13

第7部

 8−帰還

 夢の中で、私はあの世界に立っていた。

 黒い皿から伸び出たケーブルのような茎が、岩の天井をぐねぐねと這いながら、暗黒が支配する世界の中心へと伸びている。

 私は森の外れに立っていて、眼前には丈の低い草が茂る草原が広がっていた。

 ノーチラス島の光源は既に遠ざかり、草原は薄闇に包まれている。

 その中に、黒いアルザス衣装を着た灰色の髪の少女が二人、並んで立っていた。

 片方は赤い瞳をしていて、もう片方は水色の瞳をしている。

 二人は無言で一礼して、私に背を向け、暗闇に向けて歩いていく。

「待て」

 私は呼び止めるが、彼女達は答えない。

「どこにいくつもりだ、そっちは———」

 彼女達はもう私のことなど忘れてしまったかのように、そのまま真っ暗な世界に向けて、歩いていく。 やがて二人の姿は暗闇の中に消えた。

 また私を置いていくのか、と思った。木通このは助教も私をひとり残して去って行った。君たちもそうなのか。

 でも、仕方ないのかもしれない。彼女達が去っていくのは自分に問題があるからだ。他者に向き合おうとしなかったからだ。

 私はいつしか一人で、薄闇の世界に立っていた。


 私は目を開いた。

 黒い木の梁が横切る天井が見える。

 博物館の屋根裏部屋。私が借りている部屋だ。

 窓からうっすらと明かりが射しているが、暗い。

 ぱらぱらと雨音がした。

 雨が降っている。

 この島ではよく降るな、雨。

 雨音は聞きたくない。あの絶叫のような音を思い出してしまう。

 私は起き上がろうとした。でも、まだ頭がくらくらする。

 そうだ、私は感染症に罹って・・・・。

 この倦怠感と眩暈は、やはりその症状か。

 私は、自分がいつの間にか寝間着を着てベッドに寝ていることに気づく。クリスか他の人々か、私が倒れた後にいろいろ迷惑をかけたに違いない。

「目が醒めましたか、博士」

 私の傍らで声がした。

 ベッドの脇にある椅子に館長が座っていた。鳶色の瞳が私を見ている。白いブラウスに長めのスカートの、いつもの姿だった。

「館長、マスクは?あと防護服も。君も感染症に罹ってしまう」

「ようやく目を覚ましたと思ったら、何をおっしゃっているのですか」

 館長は少し呆れたように言った。

「博士は別に何の病気にも罹っていません」

「え、でも、ほら、眩暈とか」

「それは単に、緊張状態が長く続いたことによる影響だと思います」

 そうか。そう言われると、体調がそれほど悪くないような気がしてきた。現金なものである。

「ああ、でも、よかったです」館長が安堵したように言う。それから館長は申し訳なさそうに続けた。

「もしかして、博士は私とフェンネルさんに負担をかけたくなくて、無理をなされたのでは?」

 そういえばあれが起きた日、私は館長と話をした。その時に、フェンネル操縦士にもしものことが無いように最善を尽くすと約束したのだ。館長はそのことを言っているのか。

「いえ、特にそんなつもりはなくて・・・・。単にぼくのミスで巻き込まれてしまったのですよ」

 そう言いながら、私はあの日の会話で、館長に例の怪人物の名前を聞いたことを思いだした。

「館長」

「はい」

「あの時、アーベルという人物のことを話していましたよね」

「え、あ、はい」

 私はポケットを探ろうとして、寝間着であることに気づく。

「館長、そこに置いてあるぼくの服をちょっと・・・」

「はい?」

 館長は訝しそうな顔をしながらも、席を立って、机の傍に置いてあった私の服に手をかけた。

「そのズボンの右のポケットに入っていると思うんですが」

 館長はポケットを探り、中から小さな真鍮の鍵を取りだした。

「これは?」

「館長、あなたは前にぼくに温室の鍵を貸してくれた。あれはとても嬉しかったです。だからぼくも鍵によって、あなたにお返しします。その鍵を持って、温室の一番奥に行ってください。ローズマリーの茂みの後ろに窪みがあります。その奥に扉があって、その鍵で開けることができます」

「はあ」館長は不思議そうな顔をしていた。

「さあ、今ならまだいるかもしれない、行ってください、早く」

「今からですか?」

「今からです」

「でも、博士、何か食べ物を持ってきますのでまずは・・・・」

「いいえ、ぼくは元気なのでお構いなく」

「そう言われましても、カハール博士からも博士のことをくれぐれもよろしくと頼まれています」

「それは光栄ですね、でも大丈夫、さあ」

 私が促すと、館長は訝しそうにしながらも、

「じゃあ、すぐに戻りますから」と言って部屋を出て行った。

 そのまま時間が過ぎる。

 10分経っても、20分経っても、館長は戻ってこなかった。

 よかった、彼はまだあそこにいたか。

 館長はきっと、私の食事のことなんて忘れてしまっただろう。

 彼と彼女にとって、これがいいことかどうかはわからない。余計なお節介かもしれない。でも私はあの二人を再会させたいと思ったので、そうしたのだ。

 後のことは知らない。二人で勝手に積もる話でもしてくれ。眩暈もするし、私は休ませてもらう。

 私は再び眠りに落ちた。


 数日経つと、私はすっかり回復した。

 研究メンバーが入れ替わり立ち替わり見舞いに来てくれて、その時にいろいろ話をしてくれたので、私はだいたいの事情を理解することができた。

 やはり、彼らが事件の二日後から連日、深淵に水を流し込み、例の現象を引き起こしてくれていたらしい。少しでもあちらの世界の手がかりを掴もうとしたそうだ。その時、カハール博士が自分から触手に捕まろうと突進するのを止めるのが大変だったらしい。

 そうした状況の中で、二日目の夜、カハール博士が温室の中にいる私を見つけ、皆が総出で寝室に運んだりして対処してくれたらしい。

 ちなみにカハール博士がクリスの変装であることはバレていなかった。あんな状況でも皆の前ではカハール博士に成りきるとはさすがだ。

 それから、あの世界には、私一人が行ったことになっていた。

 カレハ助教は実験補助員として雇われた高校生だったので、あの夜にここにいたことは誰も知らなかった。私と彼女が一緒に消えるところを定点カメラが捉えていたのではと思ったが、豪雨のためにカメラにはまともな画像が写っていなかったという。

 あの世界であんなに苦労したのに、その存在を認識されていないなんて。それでは彼女があまりにも可哀想だ。

 ただ、コートニーだけは彼女のことを尋ねてきた。私は逆にコートニーにコノハ助教を見なかったのかと尋ねたが、彼女は首を横に振った。

 私が元気になると、当然だが、皆があちらの世界のことを尋ねてきた。私はなるべく答えるようにしたが、コノハ助教のことと、アーベル氏から遣わされたフクラスズメのことはとりあえず黙っていた。コノハ助教のことは、まだ自分でも整理がついていなかったからだ。アーベル氏がらみのことは、おそらくフェンネル操縦士、館長、そしてコートニーは信じてくれるだろう。でも他の人はどうだろうか?

 フェンネル操縦士はかつて私と同じように異空間に飛ばされたことがあるらしいが、その件について同僚のヒューベル博士は信じていないようだ。

 私の話も信じてもらえないか、最悪、精神に異常を来したと思われるかもしれない。それと、直感的に、アーベル氏のことをここで公にするのは不味いような気がした。私はとりあえず、帰還した当時のことはよく覚えていない、ということにしている。


 数日後。

 私たちはレプティリカ大学の会議室に集まって、これまでの結果の中間報告を行っていた。

 当然と言えば当然だが、主な報告は私からであった。

 私は自分の体験をまとめて報告することになったのだが、あそこに行ったという物的証拠がほとんどないため、全ては私の簡単なスケッチと証言に基づいている。ただ、帰還したときに私の靴の裏に付いていた土をカハール博士が採取していて、DNA分析を進めてくれていた。その結果をこれから伝えてくれるだろう。

 私の証言については、一笑に付されるかもと思ったが、皆真剣に聞いてくれていた。

「ほほう、天使の足は飾りだったか」

 カハール博士が楽しそうに言った。

「私はそう結論づけましたが、どうでしょうか?」

「いいと思う、妥当な考えだ」

 カハール博士は納得したように答えた。どことなくほっとしたような顔をしている。彼も、いや彼女も、これまで形態学の知識にどっぷり浸かってきたので、あの天使が一見すると脊椎動物のボディプランから逸脱していることに、何となく嫌な感じを抱いていたのだろう。

 私は他にも飛行生物がいたことを伝え、あの場所では他に類を見ない「空中生態系」が成立していると述べた。

「だが、どういうことかね?全く違うタイプの生き物が共通して空に浮かんでいるなんてことが有り得るのかね?」

 キャンベル教授が訪ねた。それは当然の疑問で、私にとっても謎であった。

「それについては」

 カハール博士が口を挟んだ。

「博士の靴裏から採取した成分を分析してみたのだが、既知のバクテリアや植物のものに混じって、新種のバクテリアのDNAがいくつか検出されている。これらの中に、博士が捕獲したという浮遊節足動物の核酸が混ざっている可能性がある」

 カハール博士は少し躊躇するように続けた。

「根拠に乏しいことをあまり言いたくはないが、この未知のDNAの中に、未記載の遺伝子配列が見つかった。配列から推測して、生合成系の酵素をコードしていることは間違いない。ここから先は私の推論だが・・・・」

 そこまで言って、カハール博士は私を見た。私は先が知りたくて、頷いて促す。

「もしかしたら、このバクテリアが水素かヘリウムを生合成する酵素を持っているかもしれない。そして、あの世界の生物はそのバクテリアを体内に共生させているのだ。深海魚が発光バクテリアを体内で養っていたり、イモリやフグがバクテリアに由来するテトロドトキシン毒素を共通して持っているのと同じだ。あの世界の生物は、脊椎動物も無脊椎動物も、体内に『飛行バクテリア』を持っているのだ」

 私はカハール博士の仮説に息を呑んだ。なんてことを考えるんだ、この人物は。もしそうなら、あそこの生態系は特殊なバクテリアが成立させていることになる。突拍子もない考えだ。でももしそうなら、私が見たことが説明できる。フグみたいな飛行生物も、あの天使も、基本的には同じ仕組みで空に浮かんでいるのだ。巨大なイモムシや巨大なヤスデだって、同じ仕組みで浮力を得ることで巨体を維持できるのだ。

「それを確かめるためには」カハール博士が続けて言う。

「何としても、再びあそこに行って、生きたサンプルを採取する必要がある。あんな飛行生物は地球にはいない。空中浮遊するためには特別な骨格、筋肉、そしてそれらを制御する神経系が必要だ。だから、何としてもあそこの生物を採取して、取り出すのだ、脳を!」

 カハール博士は柄にもなく熱く語った。

 我々はカハール博士の勢いに圧倒されて、しばらく誰も何も言えなかった。

 しばらくして、カハール博士が落ち着いてくると、会議は自然と、私が帰還した経緯についての話題になった。

 私にとっては聞かれたくない話だ。

「博士、あなたが帰還できた理由はまだわからないんですか?」ヒューベル博士が尋ねてくる。

「あ、ああ、まだちょっと混乱していて、思い出そうとすると脳に負担がかかる」

 私はそう言って誤魔化す。嘘は得意じゃない。かなり緊張した。

「あの」

 その時、フェンネル操縦士が口を挟んだ。

「あの、これはぼくの考えなのですが・・・・」

「何だね、言ってみたまえ」カハール博士が彼をチラリと見て促した。

「博士は、例の触手に攫われました。言い換えれば、あの世界に行くには例の触手に触れる必要があるということです。ということは、逆も有り得ないでしょうか?つまり、我々がここで深淵に水を流し込んでいたとき、あちらの世界でもこちらと同様の触手が現れていた。それに博士が触れたことで、こっちに帰還した・・・・」

 ナイスなフォローだ、いいぞ、フェンネル君、と私は歓喜した。その仮説なら私があの世界の地上にいながら帰還できた理由を説明できる。

「だが」とカハール博士が口を挟んだ。

 クリス、頼むから変なことを言わないでくれ、と私は願う。

「その考えだと、あの現象が起きる度にあっちの生物がこっちに運ばれてくることになる。今までそんな事例はなかったはずだ」

 カハール博士は全く(私の)空気を読まずに、そう言った。私は恨めしそうにカハール博士を見る。カハール博士は私の方をちらっと見たが、私の咎めるような視線には一向に気がついていないようだ。科学者なら皆そうだが、科学的な話をしているときに、相手への配慮や思いやりなど、ない。

 フェンネル操縦士は黙る。師弟対決は師匠の勝ちみたいだ。

「・・・・しかし、さっきも言ったが、根拠に乏しい状態で決めつけるのは危険だ。彼の考えも検証する必要がある。それも含めて、とにかく、あそこにもう一度行く計画を進めるべきだ」カハール博士は珍しく彼のフォローをした。ちょっとクリスに戻ったのかもしれない。でもこれだと、フェンネル操縦士にとってはいささか屈辱的だろう。クリスよ、もう少し人間心理を学びたまえ。

「・・・・・まあ、結局はよくわからないと言うことですね。博士、もし何か思い出したら言ってください。重要な事なので」

 ヒューベル博士がそう言って、ひとまずこの話は終わった。


 コノハ助教は帰ってこない。

 私は当初当たり前のように、手足の再生に時間がかかっているからだろうと考えていた。四肢を全て再生させるのだ。かなりの時間とエネルギーを要するに違いない。

 だが日が経つにつれ、別の考えが頭をよぎるようになった。

 もしかしたら、彼女達は既にすっかり回復しているが、ここには戻ってこないのかもしれない。

 彼女達の使命は、戦国時代の忍者よろしく、依頼者からの命令を実行することだ。今回の命はアーベル氏の知己を護ること。今回の件ではそれから外れて私に関わったせいで、本来の任務を遂行できなかったうえ、彼女達がかなりのダメージを負ってしまった。

 アーベル氏にしてみたら、それでは困るだろう。だから彼女達は私と距離を置くことにした。すでにあの世界にも行ったし、私の処にいる理由はない。深淵の調査が再会されて、彼らがあの世界に行ったとしたら、彼女達もこっそりあのルートを使って行けばいいのだ。そして忍者のように影から護ればいい。

 カレハ助教が好きそうなシチュエーションじゃないか。コノハ助教もあの世界に興味があるみたいだし、異存は無いだろう。

 要は、私は用済みになったのである。

 そう考えると少し、いやかなり淋しかったが、私は彼女達が無事であってくれればそれでいい、と思っていた。

 何度か、温室の奥にあるあの地底湖に行ってみようと考えた。しかし、そこのドアの鍵は館長に渡してしまって、手元にはない。

 それに、私の方から出向いていって何になる、との思いもあった。向こうが会いたくないのに、こちらがわざわざ行く必要はない。私はこれまでずっと傍観者で脇役だったので、その辺はわきまえているのだ。


 一週間が過ぎた。

「コノハさん、戻らないね」

 ウッドデッキに腰掛けたコートニーが両足を揺らしながら言った。

 私はヒューベル博士がリール・ド・ラビームの崖の上で作業をしているのをぼんやり眺めている。

 博士は博物館の背後にある崖の天辺にまで送水管を伸ばして、そこから散水する設備を作っている最中だった。

 これまで無理を言って保安局の散水車を借り続けていたのだが、私が戻ってきたことで、とりあえず仕切り直しをすることになった。だからヒューベル博士は本島の河川の水をこちらに引いてきて、崖の天辺から深淵に向けて雨を降らせる方式を考案したのである。

 次の調査はこの装置が完成してからになる。それにはあとしばらくかかる。ざっと見積もって七月の末くらいになりそうだ。

「先生?」

 コートニーがこちらを振り向いた。ぼーっとしていた私は我に返る。

「え、何だっけ?」

「コノハさん、再生に時間がかかっているのかな?モゲラも片目を無くしたことがあるんです。私のせいで。その時も再生するのに結構時間がかかってしまって・・・・。次の実験までには戻ってくるかな?」

「さあ、でも、もしかしたらここには戻らないかも」

「え、戻らないの?」コートニーは眉をひそめた。

 私は自分の考えを語る。私のせいで彼女に大きな負担をかけたこと、そして、今となっては彼女がここにいる理由がないことを伝えた。

「・・・・だから、彼女はもうここには来ない。もしかしたら、我々があっちの世界に行ったら現れるかも」

「そんなことはないと思うよ」

 コートニーは少し呆れたように言った。

「先生はどうしてそんな考え方をするの?」

 彼女は不思議そうに私を見ている。彼女の真っ直ぐな眼差しが私には少しきつくて、目を逸らした。

「先生、お見舞いに行ってみようか?」

 ウッドデッキから立ち上がりながら、彼女が言った。

 私は首を振る。

「鍵は館長に渡したままだから、だめだ」

「返してもらおう」

「いや、それはちょっと・・・・」

 最近の館長の様子を見ていると、「鍵を返してください」とは言いにくい。館長はこれまでの闇落ちしたような雰囲気が消えて、とても幸せそうに見えた。私はそれを壊したくない。多分、あのアーベル氏も同じ思いだろう。

「合鍵を作っておけばよかったね」

 コートニーは残念そうに言った。

「でも、先生」

 彼女は微笑む。

「心配ないよ、コノハさんは帰ってくる」


 それから一週間が経過した。

 コノハ助教は戻ってこない。

 この頃になると、私はすっかり諦めていた。彼女達はやはり此処には戻らず、別の方法でアーベル氏の命令を遂行することにしたのだろう。

 ノーチラス島はすっかり夏である。

 私がこの島に来たとき、島はインフェリアの南半球にあった。それから北上し、少し前に赤道近くまで来て、コースを東向きに変えている。だいたい六月から七月頃は赤道付近を円を描くように浮動するため、島は夏になる。

 それから島は再び南に向かう。ほぼ真っ直ぐ南下するので、島は急速に秋になり、冬が来る。ただし冬はとても短い。島は高緯度地域まで南下した後、また急角度でターンして、北上するのだ。

 だから、この島の軌跡がそっくり地下空間に反映されているとしたら、あの世界は涙の滴を逆さまにしたような形で森が広がっていることになる。

 では、その中心には何があるのだろうか?

 リール・ド・ラビームの内海では、夏の日差しがヤシの葉の上で煌めいていた。

 セミの声が、本島からも、島の裏にある森からも、聞こえてくる。

 私は、ほぼ完成した散水設備をぼんやり見上げていた。

 崖の天辺に簡単なポンプ設備と貯水タンクがあって、タンクから伸びた管が漏斗のように深淵の上に伸びている。ヒューベル博士によれば,かなりの水量が確保できるという。あれが作動したら、もしかしたら人工の瀧のように水が降ってくるかもしれない。

「先生」

 夏の日差しの中を、鍔広の黒い帽子を被ったコートニーが歩いてきた。制服じゃないから、今日は学校が休みなのだろうか。彼女は白のブラウスを着て茜色のスカートを穿いている。ちょっと暑苦しい気もするが、アルザス風の着こなしだろう。

 それを見ると、否応にもコノハ助教の黒いアルザス衣装を思い出す。私は頭を振ってその幻想を追い払った。

 コートニーも、どうやらコノハ助教はもう戻らないと思っているようだ。少し前までずっと彼女のことを気にかけていたのに、数日前から話題にしなくなった。

「先生、元気ないね、私はこれから街に行くけど、先生もどうですか?」

 珍しく彼女がそんな提案をした。

「いや、ぼくは特に、用事ないから」

 私はちらっと博物館の方を、温室の奥の方を見た。

 コートニーは私の側に来ると、「用事がないなら」と言う。

「ちょっと先生に見てもらいたいものがあるんです」

「何を?」

「街の中に小さい噴水があるでしょう?そこに白いザリガニがいたんだよ」

「白い、ザリガニ?」

「そう」

 その色彩変異はそれほど珍しくない。過去に大学の研究室で見たことがある。でも、私は久しぶりに生きている個体を見てみたくなった。それに、もしかしたらこの少女は私を元気づけようとしてくれているのかもしれない。その健気さを否定することは、さすがの私でもできなかった。

「わかった、行こう」

 私はコートニーの後に続いた。

 いつもの小さなトロッコ列車に乗り、街を目指す。いつも街に行くときにはコノハ助教が荷台に乗っていたが、今はいない。

 街に着くと、私達は街の中心にある噴水のところに行った。此処には時計台があり、保安局の建物もある。それに、先の事変で自爆した無人機ミスラックスの残骸も噴水の畔にあった。機械でできた竜のような形をした機体の残骸には、あの事件以来、たくさんの花が手向けられていた。

 そこで私は何やら騒がしい雰囲気を感じた。振り返ると、時計塔の前に人だかりができている。いつの間に移動したのか、コートニーの後ろ姿がそこに見えた。

 彼女はその人だかりの奥を覗き込んでいたが、やがて私の方に駆けてきた。

「先生、何か変なことをやってる」

「あそこで?一体何を?」

「懸賞みたい。先生、行ってみよう」

「え、でも君、白いザリガニは・・・・」

「そんなのいいから、早く」

 彼女は私の手を引いて、そこに連れていった。

 そこでは、簡単な天幕が張られ、籤引きのようなことが行われていた。

 穴の空いた四角い箱があり、そこに手を突っ込んで、中の紙を取り出す方式だ。その紙に当たりか外れかが書いてあるのである。

「懸賞?何が当たるんだ?」

「あれだよ」

 コートニーが指さす方を見ると、まるで魔法のスクロールのようにくるくると丸められた紙のようなものが棚に置いてあった。よく見ると、紙ではない。羊皮紙だ。

「何だあれ?」

「宝の地図らしいよ」

 コートニーは目を輝かせて言った。

「まさか、そんなバカな」

 私は呆れたが、実際にこうして籤引きをしているのである。完全にデタラメとも思えないが・・・・。

「引いてみよう、先生」

 コートニーがそう言って列に並ぶ。私は半信半疑のまま彼女の後ろに並んだ。

 そこに集まった街の人が次々に籤を引いていく。ほとんどの人は私と同じで、疑わしそうな顔で箱に手を突っ込んでいた。

 私たちの前に何人かいたが、全て外れであった。まあでも無料だし、外れた人もあまり気にすることなくその場を離れていく。

 やがて我々の番が来て、まずコートニーが籤を引いた。

 彼女は箱に手を突っ込み、期待に溢れた顔で紙切れを取り出した。それを開き、がっかりした表情になる。

「ダメだった、先生、どうぞ」

 私はこんなの当たるわけない、そもそもアタリが入っているかも怪しい、と思いながら箱に手を射し込み、中を探って紙切れを一枚掴んで手を抜いた。

 四つに折りたたまれた紙を開く。

 そこには赤い字で、大当たり、と書いてあった。

 カラン、カランと主催者が鐘を鳴らす。

 その音が夏の広場に響いていった。

 コートニーが主催者から宝の地図を受け取り、にっこり微笑んで私に差し出した。

 私は天を仰ぐ。真っ白な夏の日差しが降り注いでいた。


 一時間後、私は町外れの森の中にある廃屋の前にいた。

 その家はこの島の開拓初期に建てられたものらしく、かなり年季の入った建物であった。石造りの壁には蔦が這いまわっていて、茶色の切妻屋根は苔むしてぐにゃりと歪んでいる。昔、アルザスのワイン街道で見た古い邸宅を思い出した。

「本当にこんなところに宝が?」

 私が振り向くと、地図を覗き込んでいたコートニーが「そうみたいだよ」と答える。

「でも、先生・・・・・」

「なに?」

「ここ、学校で噂になっている、怪奇現象が起きる家だね」

「ええ、そうなのか?」

 彼女の不穏な言葉に、思わず聞き返した。こんな職業に就いているので、その類の話は信じていないが、目の前にある建物を見ると、やはり何だか不気味である。それに、ここはノーチラス島だ。怪奇現象の名を借りた、本当の怪奇現象が起きるかもしれない。ちょうど数週間前にもとびきりのやつが起きたではないか。

 私はため息をついて、コートニーに尋ねる。

「本当に行くの?」

「行くよ。せっかく懸賞に当たったんだし」

 コートニーは引き返すつもりはないようだ。

「君は怖くないのか?もしかして君、例の事変からこっち、様々な目に遭ってきたせいで、幽霊が出るという噂程度では動じなくなってるのかな?」

 少女は首を左右に振った。

「そんなことない。怖いものは怖いよ。でもここはそれほどじゃない。前に一人で『K−13縦孔』まで行ったことがあるんだけど、あの時見た、縦穴の傍にある無人の倉庫の方がずっと怖かった」

「ふうん。確かに森の中にある家は怖いな」

「特に窓ガラスがね」

 私は建物に向き直った。そんな話をしたせいか、妙に怖く見える。暗い窓ガラスの向こうから誰かがこちらを見ているような気がして、私は視線を逸らしてその疑念を追い払った。地図を見ると、確かにこの辺の地形が描かれていて、この建物の中に印がある。

 誰が仕組んだのかわからないが、ともかく入ってみることにしよう。

 ドアに手をかけた。鍵はかかっていない。私がドアを開くと、不気味な軋み音がした。

 私は中に入った。そこはホールになっていて、正面におそらく広間に続くドアがあり、右側に二階に続く階段があった。左側にもドアがある。おそらくその先にも広い部屋があるのだろう。

 ホールは閑散としていた。窓ガラスを通った日光が射し込んでいるが、窓が蔦で覆われているせいか、とても暗い。

「思ったよりきれいかも」コートニーは周囲をきょろきょろ見回している。

「君たちの学校では、この場所に関してどんな話があるんだ?」

「変な音が聞こえるとか、階段のところに女の人が立っているとか、かな」

 その時、二階の方でギシッと音がした。

 コートニーは少しビクッとしたが、私はもっとびっくりしてすくみ上がった。実は、こういった場所は苦手なのである。オバケ屋敷も、乗り物に乗って回るタイプのアトラクションは平気だが、スタッフが幽霊に化けて脅かしに来るやつはダメだ。そういう意味でも、私は傍観者で、観客である。

「さ、さっさと宝とやらを見つけて、出よう」私は促した。

 コートニーは地図を睨んでいたが、「多分、上だと思う」と言って階段の方を指さした。

「わかった」

 私はホールの右にある階段に歩いていって、足をかけた。かつてはきれいに磨かれていたであろう石造りの階段には、うっすらと埃が積もっている。

 階段を上りきると、廊下があった。その両側にドアが並んでいる。光源は階段の上にある天窓だけなので、かなり暗かった。

「部屋がいっぱいあるけど、どれ?」

「多分、いちばん奥の、左側」

 コートニーが恐る恐るといった感じで答えた。

 私はゆっくりと廊下を進む。板張りの廊下がギシギシと軋んだ。左右にある閉じられたドアが妙に怖い。そんなことは絶対にないとわかっているのに、急に横のドアが開いたらどうしよう、と思ってしまう。

 私はコートニーが告げた部屋の前に来た。ドアノブに手をかける。

「・・・・・開けるよ」

「どうぞ」

 古びた真鍮製のドアノブを回す。ガチャッという音がやけに大きく響いた。

 私はドアを開けて、部屋を覗いた。

 そこは応接室のようになっていて、アンティーク調の家具が並んでいた。本当の応接室は一階にあるだろうから、ここはこの家の主人の趣味部屋か何かだろうか。もしここが地球だったら、こんな所は直ぐに盗人に荒らされてしまうだろうが、きちんと残っているのはさすがである。あるいは、誰かが管理しているのかも。

「ここ、本当に廃屋なんだろうか?」

「そのはずだけど」

「そのわりには・・・・」

「あ、先生、あそこ」

 少女が指さす方を見ると、部屋の窓際に何やら妙なものがあった。

「あれ、何だ?宝箱みたいに見えるが」

「そうだね」コートニーが頷く。

「宝箱だよ、開けてみよう」

 私はあからさまに怪しげな宝箱に近づいていった。そう、これは懸賞だ。つまり誰かが仕組んだのだ。こうして少し劇的な演出にしているのも懸賞の景品のひとつなのだろう。

 しかし、こんな手の込んだことをするとは、この懸賞の主催者は一体誰なのだろう。そう思ってから、私はあの噴水の処で行われていた籤引きを思い出そうとしたが、不思議なことにそこに誰がいたのか、誰が私に籤引きの箱を差し出したのか、誰が「当たり」の鐘を鳴らしたのか、全く思い出せなかった。

「先生、早く、開けてみよう」

 コートニーが急かすので、私は記憶を辿ることを止めて、窓明かりに照らされた宝箱に手をかけた。

 鍵はかかっていなかったので、そのまま開く。

 中を覗いて、私は目を見開いた。

 その中には、一輪の花が入っていた。

 それは、私があの少女に渡した青い花であった。


「これは!」

 私は叫ぶように言って、振り返った。コートニーの方を。

 彼女は笑っていた。

「先生、そんなものを渡すなんて、かっこいいね」

 そして彼女は、「じゃ、私は用事があるから帰るね」と言って、小鳥のように部屋を出ていった。

 軽やかな足音が遠ざかっていく。

 後に残された私は、がらんとした部屋の中に佇んでいた。

 すると、

「しくしく、しくしく」

 どこからともなく、怪しげな声が聞こえてきた。

 私は部屋の中を見回す。誰もいない。

「しくしく、しくしく」

 その声は、ドアの外、廊下の方から聞こえた。

 私は部屋を出て、廊下を見回した。

 すると、こちらから見て廊下の奥、つまり私たちが登ってきた階段の傍に、誰かがうずくまっていた。

「しくしく、しくしく」

 女性が泣いているような声は、その者が発しているようだ。だが実際に「しくしく」などと発音して泣く女性が実在するだろうか?あからさまに怪しい。

 私はそちらに歩いていった。

 膝を抱えてうずくまったその人物は、黒い衣装を着ている。灰色の髪に黒いコワフがリボンのように留められていた。

「しくしく、しくしく」

 わざとらしい声で泣くその人物に近づいて、私は背後に立った。

 その少女は両手で顔を隠している。

 またあれをやるつもりか。

 すっかり状況を察したが、様々な感情が交錯して、どのように対応したらいいのか全くわからない心境で、私はそこに立っていた。

 これは何だ、喜ぶべきなのか、呆れかえるべきなのか。

「しくしく、あなたは、人を探していますね」

 黒いアルザス衣装の少女が尋ねる。

「あ、ああ」

 私は戸惑いながら答えた。

「その人は・・・・・」

 廊下にうずくまっていた少女は、両手で顔を覆ったまま、ゆっくりと立ち上がった。

 その先の展開は知っている。既に怖がる要素は全くない。また無駄なことを、と呆れていると、

「こ〜んな顔じゃ、なかったですかあ〜?」

 少女はこちらを向きながら両手を開いた。

 そこにはのっぺらぼう、ではなく、満面の笑みを浮かべたカレハ助教がいた。

 私は、のっぺらぼうの百万倍くらい、衝撃を受けた。

「うっ」思わず息が詰まる。

「なかったですかあ〜」

 カレハ助教はたたみ掛ける。

「こ〜んな顔の女の子をずっと探していたと聞きましたがあ〜」

 カレハ助教は悪戯っぽく続けた。

「昼も夜もみっともなく温室をウロウロしていたと聞きましたがあ〜」

「うう」私は為す術なく後ずさった。

「キモいですねぇ〜、みっともないですねぇ〜」

「い、いや、そんなのでは・・・・」

「ええ〜。違うんですかあ〜、じゃあ、さよならしちゃおうかな〜」

「い、いや、待て」

 私は慌てて言った。

「え〜、何ですってえ〜」

「い、今、君にいなくなられたら困る、まだ、まだ君には借りがある。返す前に、いなくなられたら困る」

「へえ〜、そうですかあ。じゃあ、そういうことにしておきましょうかねえ〜」

 カレハ助教はふんぞり返って、上から目線で言った。

 得意満面の彼女の顔を見ていると、心の奥にあった重い物体が氷解していくような気がした。

 私は自分が抱えていた最大の懸念を口にした。

「コノハ助教は?彼女はどうなった、無事か?」

「じゃあ、代わりますね」

 カレハ助教は顔の前でさっと手を振った。

「やあ」

 赤い瞳、縦長の瞳孔が私を見た。

「かなり苦戦したね、でもほら、この通り。再生したよ」

 コノハ助教は両手を広げて見せた。

「実のところかなり弱ってしまって、危ないところだったんだ。でも、私の創造者ががんばってくれてね」

 そこで、にやりと彼女は笑った。

「ついでにいろいろバージョンアップした。次は大丈夫さ」

 コノハ助教は自信ありげに笑って、あの異空間でのことを回想する。

「あれには驚いたね——」

「それからほら——」

「あのときはさあ——」

 私は黙って彼女の話を聞いていた。そうしていたら、知らず知らずのうちに表情筋の制御が疎かになっていたらしい。

 やがて、コノハ助教が困ったように言った。

「君、そんなに泣くなよ」

 私は自分の醜態に気づき、恥ずかしくなって、下を向く。まずい、涙が止まらない。霞んだ視界の中で、磨かれた床にぽた、ぽたと涙が落ちた。

「まいったな」

 コノハ助教は彼女にしては珍しく、慌てている。

「ああそうだ、戻ったらあいつに美味いものをご馳走する話があったよな?楽しみにしているぞ、それから『フラグ』とやらに関する映像作品も観よう、だからほら、元気出せ」

「・・・・・ああ」私はかろうじて返事をする。

 しばらくして前を向くと、困惑したような顔をしたコノハ助教と目が合った。赤い瞳の雰囲気がいつもと少し違う気がしたのだが、気のせいだろうか。

「・・・・じゃあ、私は戻るぞ、またな」

 そして、顔の前で手が再び振られ、少女はカレハ助教に戻った。

「さあさあ御館様、行きますよ、あ、でもちょっと待って下さい」

 そう言うと、彼女は廊下の奥まで走っていって、部屋に入ると、例の花を持って戻ってきた。

「ああ、それ、まだ持ってたんだ、よく枯れなかったな」

「枯れないように処理したんですよ」

「そうか」何だか照れくさい。

「これ、何でしたっけ?ゲンチアンでしたっけ?」

「ああ、ぼくの故郷ではリンドウという」

「きれいな花ですよね」

「ああ、色も青くてきれいだと思う」

「ああ、御館様、この花は青というより、青紫ですね」

「そうなのか?ごめん、ぼくの目には区別できない」

「まあいいじゃないですか、細かいことです、私も御館様もきれいだと思うなら、それでいいです」

 彼女はそう言って、リンドウを胸に挿した。

 私は頷いて、階段を降りる。

「そういえば、この懸賞の一件は、君たちが仕組んだのか?」

「はいそうですよ、私たちと、コートニーちゃんと、創造者さんと、あと館長さんも」

「え、館長が?」

「はい、わざと御館様に鍵を返さないようにしたり」

 あの礼儀正しい館長がずっと鍵を持っているのはあの人らしくないと思っていたのだが、そういうことだったのか。

「あの人物も、アーベル君もからんでいるのか?」

「はい、今日の懸賞はあの人が仕組みました」

 どおりで、変なイベントなのに誰も違和感を感じていなかった。あれは彼の心理操作のせいか。主催者の顔が思い出せないのも、そういうことか。

「でも何故、彼がこんな協力を。人間と接触するのを嫌っているように見えたんだが」

「何故でしょうねえ」カレハ助教は笑って、

「でもあのひと、館長さんと会って、とても嬉しそうでしたよ」

「それはよかった」

「館長さんも、今日のこの仕掛けをとても楽しみにしていました」

 私たちは一階に着いた。左手に入口があって、右手に大きなドアがある。そういえば、このドアの向こうは見なかったな、と私は思った。

「こっちは何かあるのか?」

「さあ、入ってみたらどうですか?」

 カレハ助教がそう言うので、私は右手のドアの所に行き、木造の重厚なドアを開いた。

 暗い。だが、私が開いたドアから弱い光が射しこんで、内部がぼんやりと見えた。広い部屋だ。おそらくもともとは来賓を招いて祝い事や会議をするための場所だろう。

 がらんとした広間には、所々に丸いテーブルが置いてある。天井からは豪華なシャンデリアが下がっていたが、今は埃とクモの巣に覆われていた。

 誰もいない。

 私はゆっくりと広間の中に入った。

 その途端、背後に気配を感じた。私が咄嗟に振り向くと、肩の直ぐ後ろに人の顔があった。

 それは血まみれの女であった。髪がベッタリと血まみれの顔に付着している。

 私は、ひくっ、と息が止まった。

 その女は、いきなり私の後頭部をひっつかんだ。

「わあ!」

 私が叫んだ途端、目の前の景色がふらっと揺れた。

 次の瞬間、私は何だか古い遺跡のような部屋の中に立っていた。マヤかアステカのピラミッドの内部のような、不気味な場所であった。

 蝋燭の火が揺らめく部屋の周囲は古びた石の壁で、そこには一面に奇怪な怪物の浮き彫りがある。

 そして、目の前にはひときわ奇怪に飾り立てられた祭壇があった。そしてそこに、何とも形容しがたい、冒涜的な、身の毛もよだつモノがいた。

 そいつは奇怪な声を上げて、私の方に這い寄ってきた。

「わあああああ!」

 私は絶叫し、そいつに背を向けて全速力で逃げた。

「ぶぎゅ!」

 途端に顔面を何かにぶつけて、私は背後に倒れた。

 意識を失う寸前に、黒い重厚なドアが見えた。部屋の入口だ。

 私は部屋から出ようとして、全力でドアに激突したのだ。

 さっきの怪物と、カレハ助教の言葉が甦る。

 館長さんも、楽しみにしていましたよ

 そうか、あれは、館長の、魔法・・・・・。

 館長はずっとあの広間で私が入るのを待っていたのだ。

 でも、今回の状況だと私が広間に入らずに帰る可能性も高かった。その時は一体どうするつもりだったのだろう?

 しかし、ひどすぎだ、あの館長はいつもそうだ、私には刺激が強すぎる。

 あの人との相性は、やはり最悪だな。

 そして私は意識を失った。


 その後、

 私は街からリール・ド・ラビームに向かうトロッコ列車に揺られていた。

 トロッコ列車は二両繋ぎにしてある。一両目に私と館長が乗っていて、二両目にはコートニーとカレハ助教が乗っていた。ちなみにコートニーは「帰る」と言っておきながら、何処かで隠れて様子を見ていたらしい。私が気絶したらすぐに駆けつけてくれて、狼狽している館長を差し置いて応急処置をしてくれた。応急処置といっても、70%のエタノールを傷口にぶっかけられたのだが。とても痛かった。だが彼女に言わせると、消毒にはこれが一番だという。どうしてそんなものを持ち歩いているのかと尋ねたら、前に巨大ヒルに血を吸われたときにフェンネル操縦士にアドバイスされたとのこと。この妖精少女、ホントにいろんな経験をしている。

 まあとにかく、

「本当に、申し訳ありません」

 館長はひたすら謝っている。

「まさかあんなにびっくりされるとは思わなくて。ちょっとオバケのようなものを見てもらうだけのつもりだったのですが・・・・・」

「ああ、もうそれはいいですから。なかなか貴重な体験でした」私は館長があまりに恐縮しているので申し訳なくなる。

「でも、不思議です。前もそうですが、あんなにあっさり騙されるとは。これまで催眠術にはかかりにくいと思っていたのに・・・・」

「ああ、私が使うのは催眠術ではありません。脳に何かのきっかけになる小さな核を入れるというか、そんな感じで・・・・」

 館長が神妙な表情で答えた。なるほど。アーベル氏も同じようなことを言っていた。あの時には彼が核として入れた「木通このは」のイメージを私が有り得ないレベルで拡大解釈して、彼を呆れさせた。館長もアーベル氏と同じ方法を使っているようだ。そういえば、前に館長にこれをやられたときも、彼女の予想以上に反応してしまい、彼女を困らせたっけな。

「そうですか。ぼくはあなたとあなたの師匠の技に反応しやすいみたいですね」

「すみません」

「でも、今日はぼくを楽しませようとしてくれたのでしょう?そのお気持ちはとても嬉しいです」

 そう言うと、館長は少し安堵したようだった。彼女は微笑む。

「改めて、ありがとうございます。アーベルに会わせてくれて」

 鳶色の瞳で見つめられて、私はどぎまぎした。これ以上は危ないので視線を逸らす。

「そ、それは、よかったです」

「あの、これを」

 館長は持っていた鞄から真鍮製の小さな鍵を取り出した。私が彼女に渡した、あの地底湖に至るドアの鍵だ。私は首を横に振る。

「ああ、それはあなたが持っていてください」

 そう言うと、館長は明るい表情で微笑んで、鞄の中からもう一つ、同じ鍵を取り出す。

「ご心配なく」

 館長は合鍵を顔の前で小さく振った。

「私も持ってますから。これは博士がお使いください。あの地底湖にある施設は自由に使っていいそうです。コノハさんたちが勝手を知っていますので、聞いてみてください」

「あ、ああ、それはどうも」

 私は鍵を受け取った。館長は既にコノハ助教たちのことを詳しく知っているようだ。彼女は隣の貨車でコートニーと話をしているカレハ助教を見た。

「アーベルから話を聞いたときはびっくりしました。まさかあのマネキンが研究補助員のカレハさんで、彼が差し向けていたなんて・・・・・」

「そうでしょうね」

 私はマネキンに関するリール・ド・ラビームでの一件を思い出した。あの時はコノハ助教のアルザス衣装を私が買ったと言って館長に変な目で見られたのだ。あの時の誤解が解けていればいいのだが。でもよく考えたら、実際に私が彼女の服を買ったわけだし、誤解でも何でもないのかもしれない。

 ともかく、これでコノハ助教の秘密を知る人が一人増えた。

 やがてトロッコ列車はリール・ド・ラビーム方面と博物館方面の分岐点に着いた。

 私たちは列車を切り離して、リール・ド・ラビーム方面の列車に私とカレハ助教が乗り、博物館方面の列車にコートニーと館長が乗りこんた。

「それじゃ、先生、カレハさん。さよなら」

 コートニーが荷台で手を振る。

 私たちも手を振って見送った。

 二人を乗せた列車が動き出す。コートニーと館長か。ちょっと変わった取り合わせだ。一体どんな話をするのだろう。

 今日は色々なことがあった。彼女たちと再会した経緯を回想して喜びを噛み締めようとするが、最後に館長に見せられた怪物のイメージがいろいろ邪魔をしてくる。

 館長のあの魔法、彼女はタネも仕掛けも無いと言っていたが、脳を研究している側から言わせてもらうと、そんなわけない。外部から脳中枢に核になる情報を入れるなんて、人間には不可能だ。

 タネも仕掛けもあるのだ。おそらく人間離れした何かをアーベル氏が持っていて、彼はそれを館長にも・・・・。

 つまり館長には、すでに人間とは異なる何かが混じっているのか?そう考えると、館長の人形のように整った顔が少し空恐ろしく思えてきた。私は頭を振ってその考えを追い払う。

 夏の日差しが森に注いでいる。時刻は夕方だった。まだ明るかったが、急がないと、我々がリール・ド・ラビームに着く頃には暗くなってしまう。

 私はトロッコ列車の速度を上げた。列車が急加速して身体がよろめく。しまった、今はカレハ助教が出ているから、コノハ助教が身体操作している。彼女の技術では今のは危ないかも。

 しかし、カレハ助教はよろめくこともなく、荷台に立っている。

「ふふん、どうですか?その程度では、もはやこの私を倒すことはできませんよ」

 少女は「吸血鬼ドラキュラ」のクリストファー・リーみたいな台詞を吐いて笑った。


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