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ノーチラスノートII  作者: 蓬莱 葵
6/13

第6部

 6−侵蝕

 二日後の朝、私はトロッコ列車でアルケロン市に向かっていた。

 列車は朝日が射す森の中を走っていく。木漏れ日が線路の上にモザイクのような影を落としていた。朝日の中でも,鬱蒼とした森の中は暗い。線路の先は薄闇に覆われている。

 例の触手襲撃について、昨日ずっと考えたのだが、やはり危険すぎる。これ以上皆を危険にさらしていいわけがない。情報を開示して、今後の調査を続けるかどうか検討する必要があった。ちなみに、もしメンバーが解散しても、私は一人でもやるつもりだった。

「好きにするがいいさ」

 昨夜、コノハ助教に相談したら、彼女はそう言った。

 だが、その場合、コノハ助教は協力してくれるだろうか?彼女はあの怪人物から彼の古い友人を護るために遣わされた助っ人だ。もし私一人でやるとしたら、きっと彼女は協力してくれない。そんな義理は無いのだ。おそらく私のもとを去って行くだろう。だとしても、私には引き止める資格も縁もない。

 私は彼女にそのことを聞こうか聞くまいか迷い、結局聞かなかった。多分、否定されるのが怖かったのだろう。

 コノハ助教も、私にそれ以上なにも尋ねなかった。

 とりあえず、今日、私は状況をクリスに報告するためアルケロン市に向かうことにした。まずは今回の計画で私とペアで「生物学担当」になっている彼女に知らせるべきだと思ったのである。

 線路がアルケロン市と博物館本館に向かう分岐点に来た。私は時刻を確認する。まだ早い時刻だった。私はふと思い立って、博物館方向に列車を進めた。

 先日、クリスからライト館長とフェンネル操縦士との関係について聞かれたことと、少し前にコノハ助教から、「博物館を調べろ」と言われていたのを思い出したからだ。ここからなら博物館に直ぐに行ける。

 粗末なトロッコ列車はゴロゴロと森の中を走り、10分足らずで博物館に着いた。

 ちなみに今日、コノハ助教はついてきていない。彼女は博物館の図書館で本でも読んでいるだろう。コノハ助教なら難しい哲学書を読んでいるだろうし、カレハ助教ならラノベの類を読んでいるかもしれない。

 私はブレーキを操作して列車を博物館前の駅に停車させる。

 ここも最近できたばかりの小さな駅である。簡単なホームを降りると、目の前に博物館の本館がある。石造りで、蔦に覆われていて、実に趣のある場所だ。ここには、この島で行われていた人工進化計画の成果が展示されている。その展示ホールは奇妙な形をした生物の液浸標本や骨格標本で一杯だ。しかも、ここには先の事変で襲撃してきた生物の遺物も収蔵されていた。だから、私はこの島にきた頃に何度かここを訪れている。

 コノハ助教は、博物館の周囲は見たか、と言っていたはずだ。だから私は朝日の射す博物館には入らず、その周囲を巡る小径に歩を進めた。直ぐ先にアルザス風の建物がある。ここは博物館の管理人が住んでいる住居で、来館者のための小さなカフェがある。ライト館長が住んでいるところだ。

 私はまだここに入ったことはない。

 今日はまだ早いので、館長はまだここにいるかもしれない。もし、ここで館長に会ったら、私の思慮が足りず、彼女を危険にさらしたことを謝るつもりだった。

 その家までの小径には、色とりどりの花が植えられていた。それぞれが朝日を受け、朝露の名残がキラキラと輝いている。

 アルザス風の家の入口付近で、私はふと、建物の脇にある小さな物に目を留めた。

 それは四角形をした石碑のようなもので、何か文字が掘ってあった。

 私はその文字を読んだ。名前と、出生年、そして没年が記されている。少し驚いた。つまりそれは、古い墓標であった。

 クレイ・ライト 2042-2050

 そう書かれていた。

 その名前に、私は釘付けになる。

 クレイ・ライト 2042-2050

 何度見ても、それはそう読めた。

 その時、ガチャッと真鍮のノブが回る音がした。

 私はそちらに目を向ける。ライト館長がドアを開けたところだった。

「あ」

 彼女は私を見て動きを止めた。

「は、博士・・・・」

 彼女は、私と、私が見ている古い墓標を交互に見た。

 館長はそのまま黙っている。私の様子を探っているように見えた。

 私は館長の顔をじっと見る。不躾かもしれない。それに私は彼女に謝らなければならなかったはずだが、その時はそんな余裕は無かった。

「館長・・・・」

 私は、何か言おうとして、しかし何も言えなかった。今、自分の脳に降ってきた言葉を上手く口にすることができない。

 此処に眠っている人物の名はクレイ・ライト、あの操縦士と同じ名前、館長と同じ名字。そして、この人物は既に死んでいる。8歳で。19年前に。

「館長、失礼ですが、あなたの・・・・」

 ご年齢は、と訊こうとして、慌てて口をつぐむ。女性に尋ねてはいけない質問だ。

 しかし、館長の表情は、私の質問の答えを如実に示していた。

 私は自分の恐ろしい考えに身震いがした。もし、私の勘が正しいとしたら、この墓標はとてつもなく奇妙で、そして恐ろしい事実を暗示している。

 思い当たることが幾つかあった。操縦士を呼ぶときの館長の言い間違い、二人のぎこちなさ、そして、操縦士が地球にいたこと。

 あの二人は地球とインフェリアの縮図————。

 そして、もし仮に、あの操縦士の年齢が27歳、つまり8歳と19歳とを足した年だったとしたら・・・・・。

 この墓標の人物が生きていたとしたら、あの操縦士と同じ名前、同じ年齢だ。

 そして、おそらく館長はこの墓標の人物が死んだ年に誕生した。

 私の頭の中で、何かがグルグルと渦巻き、一つの仮説が出来上がる。細い線の上を歩くような仮説だ。

 だが、私は頭を振って、その考えを追い払った。

「博士、顔色が悪いですよ」

 ライト館長が心配そうに言った。見ると、彼女は落ち着いている。私に何も知られていないと思っているのか、あるいは既に全てを見通されたと思っているのか。

「奇妙な、とても奇妙な話ですよね」

 館長は少し笑って、そう言った。

「詳しくお話ししましょうか、博士?」

「い、いや」私は躊躇した。

 この秘密を知ってしまうのは、今の私には少し荷が重すぎる。既に考えなければいけないことが一杯あるのに、これ以上は許容範囲外だ。それに、私は二人の運命に心から同情していた。これ以上、館長の気持ちを荒立てる必要はない。全ては終わったことだ。

「館長、あなたは、そしてあの彼も・・・・」

 私は言葉に詰まった。いつしか、私の目から涙が溢れていた。

「私たちのために泣いてくださるのですか」

 静かな声で館長は言った。

「あなたのような方に知ってもらうことで、何だか救われる気がします」

 そうだ、私は傍観者で、脇役だ。でも完全に客観的な傍観者だからこそ、真実を知ることで当事者達を救済することができるのかもしれない。

 数奇な運命に翻弄された主人公とヒロインは、脇役の私に知られることで宙ぶらりんの危うい状態から解脱するのだ。

「私たちは、どうするべきなのでしょう」

 館長は少し淋しそうに微笑んで、言った。多分私に答えを求めているのではなかろう。自分自身に問いかけているようだった。それでも私は答える。

「館長、前にも言ったが、あなたはあなたの好きに生きるべきだ。この広くて新しい世界で。悪いこともあるけど、きっと、いいこともいっぱいあります」

 また調子のいいことを、と心の中で何かが訴える、しかし、これは偽らざる私の本心だった。

 あの二人には幸せになってほしい、いや、幸せになるべきだ。

 博物館の周りで、見知らぬ鳥が鳴いている。

 私は、現在の探査計画から、館長と操縦士は外すべきだと思った。


 その日の午後、私はカハール博士の研究室を訪ねた。

「ようこそ、師匠」

 三日前にかなりヤバい状況になっていたとは露知らないクリスは、明るく迎えてくれた。

 私は申し訳なくなって、項垂れてしまう。

「どうしました?」

「クリス、本当に申し訳ない」

 私は頭を下げて、触手襲撃の顛末を語った。

「——そういうことですか。どれ、私にも見せてくださいな、その触手」

 クリスがそう言うので、私は持ってきていた動画ファイルを彼女に渡す。クリスはそれを大型のディスプレイで再生した。

「何も見えませんが?」

「ここだ、よく見てくれ」

 私はなるべく触手がよく見える場面で彼女に注意を促した。私には何ら特殊能力があるわけではないので、私に見えるものなら他の者にも見えるはずだ。クリスはしばらく悪戦苦闘していたが、やがて「そう言われれば」と呻いた。

 やはり、状況が整えば彼女にも見えるのだ。ただし、かなり見えづらいらしい。クリスのような研究者でもこの様なのだ。あの触手は初見では完全に不可視といえる。

「でもこんなの、よく気づきましたね」

「穴が開くほど見たからね」本当はカレハ助教の指摘で気づいたのだが、面倒なのでそこは省く。カレハ助教がいたら拗ねていただろう。すまぬ。

「で、これが、9年前の失踪事件の犯人だと?」

「そう思う」

「ふむ」

「だから、ちょっとこの調査は危険すぎるんだ。君には本当に申し訳ないことをした。事態の危険性を把握しないまま、計画に巻き込んでしまった」

「ふふん、まあ、師匠のことだから、愛弟子の私がここで失踪したとしたら、たいそう落ち込んでいたでしょうねえ」

 私は頷いた。その通りである。

「だから、もうこの件には私を巻き込みたくないと?」

 私はまた頷く。

「そうですねえ、もしこの話を聞いたのが昨日だったら、私も考えていたかもしれません。何のメリットもないのに危険に身をさらすのは愚の骨頂ですからね。それに、師匠を心配させたくもないですし、ねえ」クリスは悪戯っぽく笑った。

「昨日だったら?」

「そう、昨日だったら、ね」

「じゃあ、今日は?今日だったらどうなるんだ?」

「まあ、これを見てくださいよ師匠」

 そう言って、クリスは別の画像ファイルを再生した。それは、深海探査艇のカメラが最後に捉えた映像だった。

「この黒い皿のようなもの、サイズは不明ですが、結構大きそうです、この物体の色彩について調べたのですが、おそらく、あの遺物と同じものです」

「遺物、博物館にあるあの黒い物体か」

「そうです、あの遺物はこの皿状の物体の一部だと思います」

「あの映像に映っていた場所から、ブルーホールの底にやってきたということか?では深淵の底と、この白い世界は、やはり繋がっている?」

「そういうことでしょう。あの海が啼くときだけ、二つの世界が繋がるのです。こっちの真水か海水があっちに注ぎ込まれているのかも。でもこの映像を撮った探査艇は通り抜けられなかったから、何か障壁のようなものがあるのかもしれませんね、もしかしたらあの重力が「栓」をしてるのかもしれない。だとしたらフェンネル君の探査機をもってしても突入するのは厳しいか・・・・。それから、これ」

 クリスは黒い皿のような物の間を漂う白い物体を拡大した。

「これね、何とか画像解析できないかやっていたんですが」

「うん、どうだった」

「できました」

 クリスは得意げに胸を張った。さすがだ。

「さすがクリス、君はやはり天才だな」

「そうですか、ならもっと誉めてください」

 私は自分の持てる語彙を駆使して彼女を誉めた。

 賞賛を一杯に浴びて満足したところでようやく、彼女は本題に入る。

「この天使みたいな物、やはり天使ですね」

「どういうことだ?」

 これが、復元図です。そう言ってクリスは別のファイルを開いた。三次元で再考されたイメージが表示される。

「こ、これは」

 私は絶句した。そこには、白い布を纏ったような物が表示されている。大きめの頭部には金色の長い髪があって、細い手足が布の間から伸びている。そして、背中には二枚の羽根があった。

「これ、どう見ても天使なんだが」

「そう見えますね」

「ありえない」

 私は呟いた。

「そうですね」クリスも頷く。

 それは、四肢や頭部の形から見て、明らかに脊椎動物だった。だが、地球上の脊椎動物では絶対に有り得ない形態をしていた。脊椎動物の基本は二対の付属肢をもつことである。魚類なら胸ビレと腹ビレ、所謂四足動物であれば二本の腕と二本の足だ。四足動物の中でこれから外れる種はいない。だが、西洋絵画で描かれる天使は四肢に加えて二枚の羽根がある。つまり、3対の付属肢を持っている。3対の付属肢は節足動物の昆虫のボディプランだ。つまり脊椎動物とは異なる設計図である。ならば天使は昆虫の一種と言うことになるが、昆虫であれば頭部の形が我々とは異なる。少なくとも顎が左右に開くはずだ。そんな天使は見たことない。つまり、天使は完全なる架空の存在なのだ。

 しかし、これは・・・・。

「凄いと思いませんか?」クリスは目を輝かせている。

「これがもし実在するなら、明らかに地球の生命の常識を外れている。今まで私たちが見たことも無い生物と言うことです、つまり、これの頭部には、今まで私たちが見たことも無い脳が収まっているのですよ!」

「師匠!」クリスが叫ぶ。

「あ、はい」

「私たちが見たことも無い脳が収まっているのですよ!」

 クリスは繰り返した。

 ああ、これはダメだ、と私は思った。目が完全にイってしまっている。

「こいつの脳を出すのです、何があっても、どんな手段を使っても!」

 クリスはリオデジャネイロにあるキリスト像のように両手を広げた。

「昨日まで、私はあの世界に行く手段に思い至らなくて煩悶していた、でも、師匠が光明をもたらしてくれました。ああ、師匠、グッジョブ!あの触手に捕まることであそこに行けるなら、私は喜んで参りましょう!」

 どうやら、この画像を見せたのは逆効果だったようだ。

 こうなったら、クリスは何が何でもやるだろう。もし私があそこの調査権を放棄したら、彼女は喜んでそれを引き継ぐに違いない。でもそれは私にとっては都合が悪かった。あんな恐ろしい場所へ彼女一人を遣るなんて、とてもできない。

「わかった。ぼくも手を引くつもりはない。やろう。でも、他の人達を巻き込むのはだめだ」

 特に、あの操縦士と館長は、と言いかけて口をつぐむ。

 クリスにあの二人のことを言うべきだろうか?彼女には「師匠の変な勘で何かわかったら教えてくれ」と言われている。確かに変な勘が働いて私は何かを掴んだ。だが、今の状態では、ちょっと無理だ。まだ頭の整理がついていない。

「お人好しですねえ、師匠は」

 クリスは少し呆れたように言った。


「ほおん、あの博士はそんなことを言ったのか」

 夜のカフェで向かいに座るコノハ助教が言った。

 アルザス衣装を着た彼女は赤い目で私を見ている。

 横の窓からは外灯に照らされた内海が見えた。三日前のあの時の異変が全く想像できないほどに静かで、外灯の明かりが小さな波に揺れている。

「ああ、あの調子なら彼女一人でもやりそうだ」

「だろうな」

「でも、他の人々はそうじゃないかもしれない。ここで皆の意見を聞いておく必要がある」

「君がそう思うなら、そうなんだろうな」

 私は他人事のように言うコノハ助教を見た。もし、この計画に私とクリスしか参加しないとしたら、と考え、先日の怪人物の言葉を思い出す。

 あのカハール博士とか言う変人はどうでもいいが———

 つまり、コノハ助教の保護対象にクリスは入っていない。当然私も入っていないから、もし二人だけだと彼女の協力は得られない。先日の実験ではカレハ助教に救われたのだ。今後、彼女らの助けが得られないとなれば、この探査の危険度が飛躍的に上がることが予想できた。

 かといって、私がやめるわけにもいかなくなった。やめたらクリスが一人でやるだろう。そうしたら、最悪私は古い友人を失う。

 八方塞がりだ。

「何か悩んでいるのかな」

 コノハ助教が私を一瞥した。

 私は意を決して、尋ねる。昨日はできなかった問いだ。

「コノハ助教、もしこの計画をぼくとカハール博士だけでやるとしたら、君は協力してくれるか?あの人物の保護対象に我々は入っていない、それでも・・・・」

 コノハ助教は少し考えるような仕草をして、答える。

「君の言うとおりなら、我々とは関係ない話になるな」

 表情筋に乏しい彼女の白い顔は、二人だけしかいない夜のカフェの中で、やけに冷たく見えた。

 彼女の声と表情に私は全てを察する。

「まあ、そうだな、わかった、無理にお願いして、君らにもしものことがあったらぼくも後味が悪い」

 私は少し強がりを言った。

「この話はここまでにしよう」

 私は席を立った。

 食器を片付けるために厨房に向かうとき、私は自分でも考えないうちに、彼女の方を振り返っていた。

「もしそうなったら、君らはここを出ていくのか?」

 コノハ助教は赤い瞳で私を見る。縦長の瞳孔が妙に鋭く見えた。

「君は、どうしてほしいんだ?」

「ぼくは」

 私はしばらく考えて、答えた。

「ぼくは傍観者だ。ぼくの意見などどうでもいいだろう、君たちの好きにしたらいいと思う」

「そうか」

 コノハ助教は冷たい目で私を見た。

「君はそういう奴なんだな、気持ち悪くて、嫌いだ」

 その言葉は銛のように私の胸に突き刺さった。

 なんだろう、ここ数日、心が重くなることが続く。今まで誰も知らなかった現象を確認して、その先にある未知の世界も見いだしたというのに、心がどんどん沈んでいく。

 今日は夜の温室に行こう、と思った。せっかく館長が鍵を貸してくれたのだ。こんな気持ちの時こそ、有難く使わせてもらう。


 夜

 私は明かりを落とした温室の回廊で、ベンチに腰掛けて巨大なシダ植物を見上げていた。

 シダ植物群の奥にあるガラス壁から暗い夜空が見える。

 周囲は巨大な植物がたくさん植えられている。田舎が山里だったせいだろうか。子供の頃から、植物の中にいると落ち着く。

 私は植物群を見上げながらぼんやり考えていた。

 私の判断は間違っていなかったはずだ。私は先の実験の時の館長の表情を思い出す。あの館長と操縦士は、それぞれ多大な苦労をしてきた。ようやく問題が終息して平穏を取り戻したというのに、私の責任で、すぐにまた二人を危険な状況に放り込んでいいわけがない。

 それに、コノハ助教のことにしても、私はいつの間にか彼女を頼っている。頼りすぎている。そもそも、この島に来る決心をしたとき、私の脳に「木通このは」はまだいなかったはずだ。私は一人でここに来ることを決めて、一人でやってきた。最初から一人で全てやるつもりだったはずだ。今までだって、私は一人だった。今だってそうだ。私は一人でこの暗い温室の中にいる。

 一人でやれるさ、それに今回はクリスがいる。今までよりずっとマシだ。

 木生シダの葉の向こうに、ガラス越しの夜空が見える。地球では見られない星座が瞬いていた。

 そのとき、温室の入口のドアが開く音がした。回廊を誰かがこちらに歩いてくる。

 巨大なヤシの影から、アルザス衣装の少女が姿を現した。目が赤い。コノハ助教だ。

 彼女は黙ってこっちに歩いてきて、私のベンチの横に来た。

「よっこらせ」

 私の隣に座る。

 夕食時のことがあり、私は気まずくて黙っていた。

 コノハ助教は赤い目で木生シダを見上げている。その白い顔からは何の表情も読み取れなかった。

「君さあ」

 しばらくして、コノハ助教が口を開いた。

「君さあ、私の話をちっとも聞いていないだろう?」

「は?」私は戸惑った。少女はお構いなしに続ける。

「少し前に、君は私に訊いた、『ここに来て良かったと思うか』と。覚えているかい?」

「ああ」答えながら、私は思いだした。彼女があの怪人物の命令で、嫌々ながらここにいるのではないかと心配になって尋ねたのだ。確かあの時彼女は・・・・。

「ここが面白い場所だと、君は言った。もしここが地球の都会のような場所だったらつまらない、とも」

「いいね、よく覚えていたな、えらいぞ、それから?」

「それから・・・・」私は更に記憶を辿る。

「我々の研究がエキサイティングだと、それに関われるのが嬉しい、と」

「むしろこっちからお願いしたいくらいだ、と言わなかったかい?」

「・・・・・言ってた」

「なら、そういうことさ」

 コノハ助教は私の方を向いた。今や人間の少女となった彼女の赤い瞳が私を射る。

「君たちがあそこを調べるというなら、私も参加させてもらうさ、たとえ、君とあのいけ好かない博士二人だけだとしてもね」

 そうか。私はこちらの都合でしか物事を考えていなかった。コノハ助教がそれを望んでいたことなど、すっかり忘れてしまっていたのだ。

「すまなかった、こちらの思慮が足りなくて」

「いいさ。君は物事を悪い方に考える傾向がある。よほど自分に自信が無いのかな」

「それは、そうだろうな」

「気をつけたまえ、君は自信なく振る舞うことで、他者に嫌な思いをさせることがあるかもしれない。相手が私でよかったな、少しはあの博士やあいつを見習え」

 あいつとは、カレハ助教のことだろうか。

「わかった」

 私はコノハ助教の思慮に感謝した。今日ここに来てくれたのも私を思ってのことだろう。この言い方が適切かどうかわからないが、彼女は大人だ。

「君はいい人だな」私はぽつりと口に出した。彼女は微笑んで返す。

「あのとき、こうも言ったはずだ。此処の人々も興味深いと。だから、しばらくはここにいるよ」

 私の胸が、何かつかえが取れたようにすっと軽くなった。コノハ助教の思いやりに感謝しつつ、少し恥ずかしいので皮肉で誤魔化す。

「ぼくのことを気味が悪いと言っていたが・・・・」

「ああ、そうだねえ」彼女は悪戯っぽく笑う。

「よければ教えてくれないかな、君が私の透明化を見破った理由を。あいつに指摘されて直ぐに触手を可視化できた理由にも興味がある」

「ああ、それは・・・・」

 私は正直言いたくなかったが、仕方ない。

 私は自分の考えを披露する。

「ぼくは色弱だ。色がわからないから、昔から色よりも形を捉えるようにして物を見てきた。そのせいで、形を捉える能力が知らず知らずのうちに磨かれていたんだろう。要は他人よりも『しっかりしつこく見て』いたのだ。君の擬態がわかったのも、あの触手が見えたのも、単にじっくり観察したからだ」

「要は、人よりもじろじろガン見したということか?」

「まあ、そうなるね」

「君」

 コノハ助教はベンチから腰をずらして私から少し離れた。胸を抱くような仕草をする。

「君、やはり気味が悪いぞ」

 私は項垂れる。せっかく彼女と仲直りできたかもしれないのに、また嫌われてしまった。だがこれは自業自得だ、仕方ない。


 そして二日後、私にとっては運命の日がやってきた。

 この調査を現在のチームのまま続けるかどうかの選択である。

 私はその日、レプティリカ大学の一室を借りていた。そこに今回の関係者全員に集まってもらっている。研究補助員ということでコートニーとカレハ助教までも出席していた。

 講義室の椅子に座ったメンバーの前で、私はスクリーンに映像を映し、触手襲撃の模様を説明した。画像を加工して、なるべく触手が見やすい映像も提示する。触手を点線で辿った静止画も提示した。

 その後、皆に謝罪する。

「このように、今回の調査では不可視の触手が現れました。今回全員が無事であったのは、単に運が良かっただけです。このような危険な調査を依頼してしまい、申し訳ありません」

 私が頭を下げると、キャンベル教授が口を開いた。

「しかし君、これによく気づいたな」

 私はチラリとカレハ助教を見た。彼女はふんぞり返っていた。しかしここで彼女が見つけたことを言うと面倒くさいことになりそうだ。だから無視しようとしたが、それではあまりに彼女が可哀想な気がした。

「実はそこにいる研究補助員のカレハさんが、何だか嫌な気配がすると言いまして・・・・」

 そう言うと、皆が一斉にカレハ助教を見た。

「あ、いや、あの、その、ですね・・・・」ふんぞり返っていた彼女はあっという間に縮こまって、あたふたしていた。何だ、せっかく彼女の手柄を宣伝したのに。

 カレハ助教はあわあわしながら、助けを求めるように私を見る。私はため息をついて話を続けた。

「とにかく、運良く彼女が気づいてくれました。私は後から聞いて、自分自身でも確認した次第です。・・・・こんな場所に館長やコートニーさんを招いたのは迂闊でした」

「いや、それについては、君はあらかじめ危険を予測して彼女達に館内にいるように指示していた。その判断は間違っていないよ」キャンベル教授がフォローしてくれたので、私はほっとする。

「ありがとうございます。でも今後については考える必要があります。此処は完全に未知の場所です。今回たまたま触手の存在が判明しましたが、そのほかにも未知の危険が潜んでいる可能性は高いです。今後の調査をどうするか考える必要があります」

「調査をどうするかとは」ヒューベル博士が口を挟む。

「調査を止めるという選択肢もあるということですか?」

「そうです」そう言って、私は館長の方を見た。彼女は心配そうな顔をしている。

「特に館長、コートニーさん、カレハさんは参加しない方がいいでしょう。それに、あの深淵を調査することになっていたヒューベル博士とフェンネル操縦士も、参加について再考すべきかと思います」

 私は断腸の思いで言った。この調査で彼らの探査機が使えないとなれば、調査方法がとても限られたものになる。でも館長の顔を見たら、これ以上彼女を悲しませることはできないと思った。

「それについては」

 フェンネル操縦士が答える。

「過去の失踪事件でも潜水艇の操縦士は生還しています。それに画像を見る限り、触手はウッドデッキ付近までしか届いていない。しかも障害物を透過できるようにも見えない。探査機の中にいたら大丈夫でしょう。調査チームもウッドデッキより奥に拠点を設けたら大丈夫ですよ」

 彼の言葉に館長は顔を曇らせた。

「いや、あなたは、あんな触手が出てくる深淵に潜ることになるんですよ。危険すぎる。それに、思い出して下さい。あの潜水艇の操縦士は、生還はしたが精神に異常をきたしていたんですよ」

「それは、潜水艇の中に一人でいる状態で、暗い水中であんな絶叫みたいな声を聞いたらそうなりますよ、水中では音が地上よりもずっと速く大きく伝わりますからね。それに、もしかしたら彼は水の揺らめきであの触手の群れを見たのかもしれない。それなら発狂して当然です。でも我々は既にそのことを知っている、大丈夫ですよ」

「しかしですね・・・・」

 私はコートニーの方も見た。彼女も複雑な表情をしている。

「お言葉ですが」フェンネル操縦士が続けた。

「私はやめるつもりはありません。ここは文句無しに凄い場所です。もしかしたら、ノーチラス島に関わる重要な謎が明らかになるかもしれない。今回も先生とカレハさん?が重要なポイントに気づいてくれました。この調子で調査を進めれば、いけると思います」

 私は少し狼狽した。メンバーから外そうと考えていた当の本人が熱心に推してくる。彼はあまり積極的ではない性格にみえたのに、何故だ?

 私はコートニーを見た。彼女は私の視線に気づくと、こちらを見て左右に首を振った。

 どうしようもないね

 そう言っているような気がした。

「まあ、私も止めるつもりはないね、これを見てくれ」

 たいへん悪いタイミングで、カハール博士が私の横から割り込んできて、例の発見を報告した。

 彼女が示した天使の画像は、効果てきめんであった。

 そこにいる全員が息を呑む気配がした。

「すごいな」

 キャンベル教授が呻いた。

 その声で、私は全てを察する。

 この人達を止めるのは、無理だ。

 コートニーの言葉が甦った。

 もう止められないよ

 私は講義室の端に座る少女を見る。

 彼女は苦い顔で微笑んでいた。


 会議を解散した後、私は館長のことが気になって、早々に部屋を出た彼女を追いかけた。

 大学の階段を一階まで降り、出入り口に続く長い廊下に出ると、出口に向かう館長の後ろ姿が見えた。

「館長!」

 私が呼びかけると、彼女は振り返った。そのまま立ち止まって私を待ってくれているようだったので、私は駆け寄る。

「館長、さっきの会議では・・・・」

「ああ、博士、フェンネルさんを外そうとしてくれていましたね、お心遣いありがとうございます」

 彼女は私の前では彼を兄と呼ぶことをやめてしまったようだ。

「すみません、この前あんなことを言っておきながら、止められなくて」

「仕方ありませんね」

 館長はため息をついた。

「あの人はいつもそうです。私が何を言っても聞いてくれなくて」

「こんなことを言うのはおこがましいというか、言いにくいのですが」

「はい?」

「彼に危険が及ばないように最善を尽くします」

「それはどうも、ありがとうございます」

 館長はあまり当てにしていないような感じでそっけなく礼を言ったが、その後ふと首をかしげた。その仕草を私は少し訝しく思う。

 館長はまるで私を、いや私の背後を見通そうとしているように見えた。

 しばらくそうしてから、彼女は不思議なものを見るような眼差しで私を見た。

「博士、ちょっと不思議なのですが、何だか博士にお任せしたら何とかなるような、そんな気がするんです」

「・・・・・そう、ですか?」

「何故でしょう?誰かが博士の後ろで見守ってくれているような・・・・」

 あの怪人物か、と私は思った。そういえば、館長はかつて「あの人」から魔法を教わったという。それが、彼だ。そして彼にとっても館長は大切な人なのだ。多分だが、今回の件で彼が一番護りたいのは、この少女だ。

「館長、もしかして、あなたにずっと寄り添っていたような、そんな人物に心当たりは?」

 館長ははっとしたように私を見た。

「いました、でも、例の事変の時に・・・・」

 館長は口をつぐんだ。何か話せないことがあるのだ。私はそれ以上の詮索を止める。ここで更に聞きだしたら、あの怪人物の話が出てくるだろう。そうしたら私が彼と会っていたことも話すことになる。彼はそれを望んでいなかった。いや、もしかしたら私が忖度して彼のことを館長に言うことを望んでいたのかもしれない。でも私にそんな心の機微はわからない。

 彼女に会いたければ直接でてくればいいのだ。

「館長、あなたがぼくの背後に誰を見ているのかは知りませんが、ぼくにはあなたとフェンネル君を護るための縁があるのです。それに、あの墓標を見て、ぼくは多分知ってしまった。ぼくはこの探査を終わらせて、あなた方に平穏を取り戻します」

「わかりました」館長は少し懐かしそうな顔をして微笑んだ。

「でもきっと、フェンネルさんは平穏を望まないでしょうけど」

 彼は主人公だから、そうかもな、と私は思った。

「ではこれで」

 私は踵を返した。

「あの」館長が私を呼び止める。

「何か?」私は振り返った。そこには泣きそうな顔をした館長がいた。

 館長は真っ直ぐに私を見て、少し笑って、言った。

「博士、アーベルによろしく」


 その日の夕暮れ時、私はリール・ド・ラビームに戻って、データの整理をしていた。

 結局、このチームから抜ける者は誰もいなかった。コートニーが前に言ったように、みんな夢中になっているのだ。

 それがこの島の乗り人たちの性なのだろう。ノーチラスの乗り人、つまりノーチラスノートだ。「ノーチラス」というのがそもそもラテン語で「船乗り」という意味なのに、それに乗る人(ノート)がついていると、何だか変な感じである。でもこの島の住人のことをよく表す言葉だと思う。

 私がそんなことを考えていると、窓ガラスにポツ、ポツと水滴が当たった。

 雨だ。そういえば天気予報で、夕方から夜にかけて雨になると言っていたような気がする。

 しばらく仕事をしていると、雨音はいつしかバラバラという音に変わり、そして、堰を切ったような土砂降りに変わった。

「ここまで降るとは聞いてないぞ」

 私はそう言いながら何気なく窓の外を見て、はっとする。

「おいおい、これ、」

 窓の外は既に暗く、その中を瀧のような雨が降っている。

 私は時刻を確認した。

 ちょうど午後八時、いつも海面の低下が起きる時間だった。

 外は土砂降りの雨であった。

 轟々と風が唸る音も聞こえる。

 嵐だ。

「なんてこった」

 私の背筋が冷たくなる。これからまた、あの現象が起きるかもしれない。まさか、五日前に起きたばかりなのに、またか。

 でもこの嵐だ、水量は充分である。少し前に起きたから今日起きないという保証なんて無い。

 また私は対峙することになるのだ。もう此処には調査メンバーはいない。いるのは私と彼女らだけ。

「コノハ助教、カレハ助教、どっちでもいいから!」

 私はドアの外に向かって叫んだ。

「いるなら上がってきてくれ、三階だ!」

「おそばに」

 すっ、と背後に気配がした。カレハ助教が立っている。

「か、カレハ助教?」

 まるで忍者みたいな登場に驚く。今はカレハ助教だ。動かしているのはコノハ助教のはずなのに、こんなに素早く動けるようになったのか?

「カレハ助教、いつの間に、まるで忍者だ」

「いえ、私はずっとこの部屋にいましたよ。ドアが開いていたので入ったのですが、御館様はお仕事に熱中されていたようで、気づかなかっただけです」

「それはびっくりだ、次からはノックしてくれ」

「御意」

「ちなみに、部屋の中で何をしていた?」

「ラノベを読んでいました」

 何だか間抜けな会話をしている間にも、雨は激しくなる。雷も派手に鳴り始めた。

「これは、来るな」

「来ますね」

「どうする?」

「どうしましょう?」

 カレハ助教が首をかしげる。もしこれがコノハ助教だったら冷静に対応索を考えてくれるだろうに、と私は思った。でも仕方ない。

「とりあえず、記録装置を動かす。データをできるだけ取るんだ。それから、あれが始まったら、例の触手をよく観察してくれ、これまでの仮説だとウッドデッキまでしか届かないはずだが、それは本当か。壁を貫通しないのは本当か。それに、触手以外の危険があるかもしれない、なるべく多方面に気を配ってくれ」

「御意、です、でもいっぱい言いましたね、もう一回言ってもらえますか?」

「わかったが、話の内容が把握できてないのに、御意、とは言うな」

「わかりました、では何と?不御意?非御意?」

「知らん。ええとまてよ、『不承知』とか、いや違うな・・・・」

 そう答えてから、ええい、この厄介な時に妙なことにこだわるんじゃない、と思った。なので、

「この厄介な時に妙なことにこだわるな!」

 そのまま口に出した。

「この、オタク!」さらに付け足した。

 焦っているので言葉遣いが自然と荒くなる。私たちは二人であたふたと機器の準備と調整を進めた。幸い、ウッドデッキに出していた機器はほとんど博物館のエントランスホールに移している。だが、あれがいつ起きるかわからないので、気が急いてしまい、思うように進まない。

 そうこうしているうちに時計の針が9時を回った。

 雨は、激しく降っている。窓の外は煙って見えた。

「まずい、これでは」

 この雨では博物館の周囲に設置しているカメラで上手く撮影ができないかもしれない。

「ちょっと角度を調整してくる」

 私はレインコートを羽織ると、ドアを開けて、雨の中に飛び出した。

「お気をつけて」背後からカレハ助教の声がする。

 外に出ると、大粒の雨が叩き付けてきた。レインコートがなければ一瞬でずぶ濡れになっていただろう。

 ウッドデッキの端、展示室の前辺りに設置しているカメラに向かう。

 その時、雨音に交じって、何かが聞こえた。もしかしたら雨音のせいで最初の兆候を聞き逃したのかもしれない。次の瞬間、凄まじい絶叫が響いた。そして、私は自分の行為を呪った。よりによって、今私はウッドデッキの端、あの深淵に最も近い位置にいる。

 私の目の前で何かがぶわっと広がった気がした。それは巨大なイソギンチャクのようであり、不幸にして、私がなまじ見える目を持っていたために見えてしまったものであった。

 私は気が狂いそうになる。目の前に不気味な触手の集団があった。

「馬鹿なことをした」

 私は呟いた。

 カレハ助教は?しかし、彼女の保護対象に私は入っていない。迂闊だった。他のメンバーがいない中で活動すべきではなかった。

 こんなところで終わるなんて。

 目の前で大蛇のように触手がのたくっていて、その一つが飛んできた。まるでイカが触腕で攻撃するような動きだった。

 私は咄嗟に身をかわす。こちらは見えているのだ、回避できる。

 そう思った瞬間、真横に触手が見えた。

 あ、これは、ダメだ。

 その時、クリスの言葉が甦った。

 私は喜んで参りましょう

 じゃあ、行ってくるよ、クリス。

 触手が私を薙ぎ払う。その途端、自分の体が何かを突き抜けるような感触がした。まるで、この空間を紙のように突き破って別の空間に行くような感じだ。

「御館様!」

 カレハ助教が駆け込んできた。空中に浮かんでいた私に向かって跳躍し、しがみつく。

 何故、なぜ彼女が!

 次の瞬間、目の前が白く変わった。


 ぼんやりと、イメージが浮かぶ。無人になったリール・ド・ラビームに、いつものように館長がやってくる。彼女はいつものように「おはようございます」と呼びかけるが、返事はない。彼女は気にせず展示室を点検し、温室を巡り、その頃になってようやく気づく。誰もいないことに。そして彼女は昨夜嵐が来たことに思い当たる。

 慌ただしく、キャンベル教授が、ヒューベル博士が、フェンネル操縦士が、リール・ド・ラビームにやってくる。そして、電源が入ったままの調査機器と、なくなっているレインコートで全てを察する。何も知らないまま学校帰りにやってきたコートニーは蒼白になり、階段を駆け上がって私の部屋のドアを開ける。誰もいない。彼女はコノハ助教の部屋に駆け込む。そこにも誰もいない。彼女は愕然とした顔で無人の部屋に立ち尽くす。

 少し遅れてカハール博士がやってきて、ウッドデッキの端に立って深淵をじっと見ている————。


 7−地底空間

「うわ!」

 白い光を抜けた刹那、斜め前に黒い地面が見えて、私は咄嗟に体をひねった。足が地面に着いた途端、前のめりになるようによろめき、二、三歩進んでばったりと前に倒れる。

「むぎゅ」

 私の背後からカレハ助教が無様に倒れ込んできた。

「ぐえ」

 私はカレハ助教に押しつぶされた。だが、あれ、思ったよりずっと軽い。

「君、軽いな」

「それはどうも、日頃の鍛錬の成果ですかね」

 アルザス衣装の少女は、私の背中に覆い被さったまま、照れていた。

「そうかもしれんが、どいてくれ」

「御意」

 カレハ助教がよっこらせ、と起き上がった。

 私も起き上がる。

 頭上がほんのり明るい。私の頭上、ヤシかシダのような植物の葉陰から白い光が降り注いでいた。

 周囲を見回す。

 私たちの周囲は鬱蒼とした森であった。

 シダが高くそびえ立ち、その間を蔦が触手のように這っている。周囲には巨大なキノコのようなものも無数に生えていた。

 周囲にはうっすらと霧が立ちこめている。むわっとした湿度と、濃密な密林の匂いがした。

 まるでアマゾンの熱帯雨林か、さもなくば古いB級映画で描かれる化け物が出る森のようだった。

「何だか凄いところですね」

 カレハ助教が周囲をキョロキョロ見ながら言う。彼女のアルザス衣装があまりにも場違いで、まるで場末の遊園地にある「秘境探検アトラクション」のセットの中に少女が立っているように見える。

「ここ、あの時の映像に映っていたところでしょうか?」

「おそらくな、ほら、あれ」

 私は頭上を指さした。白い光が指しているところの周囲に、蓮か睡蓮のような形をした丸いものが無数に見える。それらが白い光を一部遮っていた。

「あれ、あの時見えた黒い皿みたいな奴ですかね?」

「そうだろうな、我々はあれを下から見上げているわけだ」

 ちょうど、睡蓮を水中から見上げるとこんな風に見えるだろう。よく見ると、睡蓮と同じく、黒い茎のようなものが丸い皿の中心から出ている。茎は皆同じ方向に伸びていた。こちらから見ると、右側だ。

 私は更に上を見た。白い光は天井のようなところから発している。高さはだいたい300メートルくらいだろうか?

「天井がある」私は呟く。

「ということはつまり、ここは地下なのか?」

「でも明るいですよ」

「天井の岩盤の一部が光を発しているんだ」

「どういう仕組みでしょう?」

「わからない、さっぱりわからない」

 上を見ていてもそれ以上何もわからないので、私は足下を見た。

 地面が黒い。そこは森が少しだけ開けたところだった。周囲にはコケやキノコが無数に生えている。

 体を調べるが、とりあえず外傷は無い。こちらの世界で地上付近に現れたのは幸いだった。もし空中に出現していたら間違いなく死んでいた。

「これきっと、あの触手のせいですよね?」

「そうだろうな、九年前の失踪事件と同じだよ。我々もめでたく『消息を絶った』わけだ」

 やはり、あの触手はノーチラス島から此処に生物を攫ってくるものだったのだ。しかし、なんのために?

 私はそこで、周囲にある植物がシダやヤシなど、比較的見慣れたものであることに思い当たった。これは、地球産の生物だ。これらをあの触手が運んできたのか?しかし、周囲の植物を詳しく見ると、私がこれまで見たことも無い種類ばかりだった。まず、サイズが異様に大きい。目の前にあるキノコなんて、高さが1メートルくらいある。まるで我々が小人になったようだ。

 カレハ助教は天井を見上げている。此処が地下だとしたら、あの先にノーチラス島があるのだろうか?

「ああ、博物館に来た人達、びっくりするでしょうね」カレハ助教が呟いた。

「それはそうだろうが、君」

 私はカレハ助教に向き直った。

「何故、君まで来た?君の役目はあの人達を護ることだろう?ぼくについてきてどうする?」

「そんなことを言われましても・・・・」カレハ助教は言い淀む。

「もしかして、迷惑でしたか?」

 申し訳なさそうに水色の瞳で見つめられて、私は言葉に詰まった。

「い、いや、そんなこと、ない」

「じゃあ、感謝していますか?」

「あ、ああ」

「ふふん、そうでしょうとも、ふふん」

 カレハ助教は偉そうに胸を張った。

 私は何か皮肉めいたことを言い返そうとしたが、何も思い浮かばなかった。残念ながら、感謝しかない。

「・・・・ああ、恩に着るよ」

 カレハ助教に返さなければならない恩が増えていく。

「とりあえず、この場所の情報を集めよう」

「御意、です」

 カレハ助教は敬礼した。相方の制御が少し上達したのか、ちょっと上手くなっている。次にコノハ助教が表に出てきたら、この状況について真面目に議論しようと思った。


「何だかやばそうなのがいます」

 森の探検を始めてすぐに、カレハ助教が声を落として言った。

「ほら、あそこに」

 彼女が指さす先を見ると、常緑樹らしき樹木の幹に何かがしがみついていた。

「うわ、でかいな」

 私は息を呑む。生物学者としての好奇心が溢れてきた。そこにいたのはあまりにも巨大なイモムシであった。通常は数センチくらいのはずなのに、熊くらいの大きさがある。それは常緑樹の葉を食べていた。大顎が葉を噛み砕くパキパキという音が周囲に響いている。私は食い入るようにそれを観察した。

 地球にいるスズメガの幼虫のような形をしている。背中には不気味な目玉模様が無数に並び、体側には小さな穴が列になって開いていた。あれは、気門だ。よく見ると、巨大な体が規則的に収縮している。呼吸しているのだ。

「気門があるということは、昆虫と同じ気管呼吸だ。普通ならあんなに大きくなれないんだが・・・」

 気管呼吸は我々の肺呼吸と違い、空気を体内に取り込む効率が悪い。だから昆虫類はサイズが限定されるのだ、まあ、逆を言うと、そのサイズで大丈夫なように進化したとも言えるが。

「それに、あのサイズなら相当な重さだ、普通なら木が折れてしまう」

 だが、そうなっていない、何故だ?

「うう、よくわかりませんが、とにかく気味悪いですね、あれ、クヌギカレハですか?」

「違う、クヌギカレハはもっとずっと凶悪だ」

「御館様、そんな物の名前をわたしに付けたのですね」

「ごめん」

「いいえ、かっこいいです」

「とにかく、幸いなことに植物を食べているということは、草食だ。毒毛も無いようだから、とりあえずは大丈夫だろう、でも、あれを食べる奴がいるはずだ。おそらく、あれに見合うだけの大きさをしている」

 ということは、熊に匹敵するような肉食生物がいる可能性があるということだ。私は肝が冷える思いだった。武器は何も持ってない。

 いざとなったときは、彼女が頼りだ。

 我ながら情けない。今度からは武器になるような物を常備することにしよう。

 更にしばらく歩くと、森が少し開けたところに出た。上がよく見える。

 カレハ助教は頭上を仰ぎ見ながら、そういえば、と言った。

「そういえば御館様、例の天使が見当たりませんね」

「多分、あの皿のような物の上空にいるんだろう。あの天使のサイズが仮に2〜3メートルくらいだとしたら、サイズ的にここからでは見えない可能性がある。あの白い光も邪魔だし」

「確かに、あの天使、白い体していましたからね、紛れてしまいますね」

「まさか本物の天使じゃないだろうが・・・・」

 しかし、あんな変な物がいるのは間違いないのだ。此処では地球の生物学の常識は通用しない。私は気を引き締めた。

「あれ、何かいますよ、こっちに来ます」

 カレハ助教は上を指さした。

 見ると、何だろう、巨大なフグのような、マツボックリのような、不思議な物が空中を漂っている。

「フグですかね?」

「そう見えるね」

「でも、ここ、海じゃないですよね」

「ああ、しかも水中でもない」

「でも、あれ」

 カレハ助教は不思議そうに指さしている。私も彼女の言いたいことはよくわかった。

「浮かんでるな、水中のフグみたいに」

 黒い密林の上で、白い光に照らされて、それはふわふわと空中を漂っている。

 それは丸い体の横に魚の鰭のような物がついていて、それをまさに鰭のように波打たせていた。

「重力を無視してる?」

 私の脳裏に、重力制御、というSFワードが浮かぶ。私は頭を振ってその考えを打ち消した。

 ありえない。

 その時、その物体がこちらを向いた。

 私は見た、それはフグではなかった。頭部には昆虫のような赤い複眼がついている。そして鰭のように見えたものは。

「羽根だ」

 そいつは一瞬のうちに我々の頭上にやってきた。速い、しかも、大きい。私には経験がないが、ダイビングの最中に巨大なイトマキエイが真上に来たらこんな感じだろうか。

「危ない!」

 カレハ助教が叫んで、私を突き飛ばした。

 その瞬間、そいつの頭部から何かが飛んできて、私がいたところの地面に突き刺さった。それは直ぐに引っ込む。

 なんだ?

「また来ます、御館様!」

 カレハ助教が叫ぶ。私は思いきり横に飛んだ。ドスッ、と私がいた位置にまたそれが突き刺さる。

 私はトンボの幼虫、すなわちヤゴが獲物を捕らえるために下顎を射出する習性を思い出した。

 じゃあ、上空にいるのは、巨大な捕食性昆虫?

 私の頭上で、黒い影がゆっくりと回る。その様子はまるでUFOであった。

「逃げろ!」

 私は叫んで、森の中に駆け込んだ。

 木々が茂っているところに入り込めば。そう思ったが、頭上でバキバキと音がした。そいつが、樹冠からぬっと頭を覗かせる。体に鉤爪のようなものがあってそれが樹冠をかき分けていた。森の中に逃げてもダメなのか、私は戦慄する。

 そいつの赤い複眼が私を捉え、次の瞬間、カメレオンの舌のように下顎が飛んできた。

「御館様!」

 カレハ助教がそれに体当たりした。お陰で下顎の軌道がずれて、私は辛くも難を逃れる。しかし、下顎が横に振られ、カレハ助教は跳ね飛ばされていた。黒いアルザス衣装が彼方へふっ飛んでいくのが見えた。10メートル以上は飛ばされたかもしれない、只では済まないだろう。

「カレハ助教!」

 私は叫んだ。

 私は駆け寄ろうとする。しかし、恐るべき下顎がまた飛んできた。私は闇雲に横に飛んで逃れる。もし、どこかでカメレオンやヤゴがエサを捉える画像を見たことがあれば、その凄まじいスピードがわかるだろう。そんなのから逃れるのは困難だ。当たらないことを願って動き続けるしかない。

 私は二回、三回とそいつの攻撃を回避した。

 相手も生物なら、酸素呼吸のはずだ、いずれ疲労するだろう、私はそれを願って、密林の木々のあいだを逃げ惑う。

 そいつは樹冠を滑るようにして追いかけてきた。

 しかし、いけない、相手より先に自分が疲れてきた。よく考えたら私も酸素呼吸なのだった。

 私は巨大な木の麓で立ち止まり、大きく息を吐いた。

 その途端、直ぐ上で気配がした。私の真上にその怪物が浮かんでいた。

 だめだ、

 私は頭上にある真っ赤な複眼を見た。これが、自分がこの世で見る最後の景色か————。

「そりゃっ」

 次の瞬間、怪物の頭部に横から何かが突き刺さった。

 怪物がガクンと横に揺らぐ。黒い何かが真横に頭部を貫いていた。それは瞬時に怪物から離れると、怪物の頭部を蹴って空中に舞い上がった。

 私が見上げる中、黒いアルザス衣装が空中で回転する。

 それはくるりと反転しながら上にあった巨木の枝を蹴って更に跳躍した。とんでもない高さまで跳び上がり、白い空を背景に黒いボールのように回転する。そして投げナイフのように怪物の頭上へ降ってきた。槍のように鋭い足が怪物の脳天に突き刺さる。その勢いのまま、怪物は地上に叩き付けられた。あまりの勢いに風が起きて、木の葉が舞った。

 怪物の頭上で灰色の髪がなびき、赤い目が私を見ていた。

「あ〜あ、スーツに穴が空いてしまった」

 槍型に変形させた片足を怪物から引き抜きながら、コノハ助教が妖艶に笑った。


「直るかなあ、これ」

 倒木に腰掛けて、穴が空いたスーツの足裏を撫でながら、コノハ助教が言う。

「再生すると思うかい?」

「どうだろう」

 彼女の向かいで倒木に腰掛けて、私は彼女の白い足を見た。

 さっきの戦闘で、人間型のスーツの内側から足を槍型に変形させたせいで、切っ先がスーツの足裏を貫通してしまったのである。今は普通の足に戻っているが、足の裏にはナイフで切り裂いたような裂け目があった。

 彼女の体表を覆うスーツなるものがどんな構造なのかよくわからない。でも表面の様子は人間と全く同じだ。つまりケラチンだろう。ということは、人間と同じようにケラチンを産生する細胞が内蔵されていれば、再生が可能ということだ。

「傷口の断面を見てみたら?表皮の下に真皮がついていたら、きっと再生するよ」

「真皮ってどれだ?これかな?」

 コノハ助教は足裏がよく見えるように足を持ち上げる。スカートは危険なので私は目を逸らした。

 私たちは森の奥まったところにいた。

 森が開けたところにいたら、さっきみたいな怪物にまた襲われるかもしれない。此処にはどうやら飛行性の捕食生物がいるようだ。上空から見えないところにいる必要がある。

 さっきの怪物に吹っ飛ばされる瞬間に、カレハ助教はコノハ助教と交代したらしい。そのお陰で最低限のダメージで済んだようだ。

「やっぱりあいつの制御は凄いね」

 コノハ助教が感心したように言う。今、彼女の身体制御はカレハ助教が行っている。表に出ると変なオタク少女なのだが、こうして体の制御をさせたら天下一品だ。さっきは凄かった。制御が難しい人間態であっても、あれだけの動きが出来るようになっていたのだ。

「ああ、お陰で助かった。感謝の言葉もないよ」

「ふ〜ん、まあそう思ってるなら、礼を言ってやったらどうだ?10秒ほど代わるから」

 コノハ助教は手を顔の前に持ってきてさっと振った。すると彼女の瞳が水色に変わっている。

「じゃじゃ〜ん、私ですよお」

 カレハ助教は目を輝かせて、前のめりになった。

「どうでした?今の、どうでした?」

「ああ。カッコよかったよ」

「そうでしょう、そうでしょう、ふふ〜ん、あの時、カレハキーックと言ってほしかったんですけどね、コノハさんが言ってくれなくて、今度は御館様が代わりに言ってくだ、あ、あれ、もう終わり、そんな、あ」

 少女の手がさっと振られ、目が赤に変わった。

「と、いうわけだ」

「いつも思うんだが。その、二人で制御してるんだよな、今、運動制御はカレハ助教が担当しているとしても、外界から適切な情報を集めるのは君の役目だろう?さっきみたいな神がかった動きには君も貢献してるんじゃないのか?」

「まあそうだね」

 コノハ助教が頷く。

「感覚器を駆使して周囲の状況を把握するのは私の役目だ。ついでに言うと、適切な運動指令をつくるのも、私だ。でもね、運動を実行するのは大変なんだよ、制御しなければならない要素が多すぎる。それを今一手に担っているのが、あいつだ。私とあいつが上手く分業することで、脳がひとつしかない生き物にはできない能力が発動するのさ」

「じゃあ、今の『コノハ助教』は双方の長所がうまく統合された状態というわけだ。逆に『カレハ助教』は互いに不得意な分野が出てしまった残念な状態ということかな」

「残念とは失礼な。私はまだ修行中だが、運動制御もちゃんとできるぞ。あと、あいつは不得意と言うより、変に偏ってしまったと言うべきだな」

 私は頷いた。ということは、これから「カレハ助教」も運動能力が上がっていくということだ。でもオタクは直らないのだろう。

「さっきの怪物だが」

 コノハ助教が編み上げブーツを履きながら言う。

「どうやって飛んでた?」

 私はしばらく考えて、答える。飛行できる理由には一つ心当たりがあった。

「前の事変の時、怪物の何体かは今回の怪物のように、巨体でありながら飛行していた。あのハンマーヘッドもそうだ。カハール博士がその理由を突き止めている。すなわち、体内に空気よりも軽いガスを蓄えていて、その浮力で飛んでいるんだ」

「さっきの奴も同じ理屈かい?」

「おそらく。まるで魚みたいな動きをしていただろう?魚類の多くには鰾、つまり浮袋があって、それによる浮力で水中を浮遊しているんだ。その動きとよく似ていた。あの怪物にも鰾があるんだ。水中じゃなく空中用のね。でも不思議なのは、どうしてそんな形態が進化したのかということだ」

「ハンマーヘッドと同じ理屈じゃないのかい?」

「あれは特別だよ。人類が電脳空間の中で人工進化させた結果できたものだ、普通に進化したら数百億年はかかる。それが何故、此処では成し遂げられているのか?」

 答えは、わからない。

 わからないと言えば。

「この世界のことも、さっぱりだ。地底らしいけど、あの光は何だ?何処から来ている?」

「そういえば、今は何時だい?」

 コノハ助教の問いに、私は腕時計を見た。午後11時。私があの怪現象に巻き込まれたのが午後9時だから、そんなものだろう。だが、

「明るいな」

「夜のはずなのに、おかしいねえ」

「よくわからないことばかりだ。情報を集めないと」

「ところで、お腹が空かないか?」

 コノハ助教が尋ねた。私は頷く。いろいろあって今日はまだ夕食を取っていなかった。

「君、何か食べ物は・・・・、持ってないよねえ」

「あの状況では、ちょっと」

「じゃあ、食べてみるかい、あれを?」

「あれ、とは?」

「さっきの奴だよ」

 コノハ助教が指さす。その先に、さっきの怪物が置いてある。運ぼうとしたが無理だった。とりあえずざっと観察してみたが、やはり節足動物のように見えた。やはりもともとは地球産の生物だったのだろう。それが此処で異常な進化をしたのだ。

「君は生物学者だから、解剖もできて一石二鳥だろう?」

 コノハ助教が悪戯っぽく言う。私は頷いた。

「節足動物の一種らしいから、食べられる可能性はある。エビやカニは高級食材だしな。でもどんな寄生虫や病原菌がいるかわからない。食べるにしても火を通さないと」

「火なら大丈夫だ、任せてくれたまえ」コノハ助教が胸を張る。

「おお、頼もしい、どうするんだ、すごいな、君は自力で火も熾せるのか」

「いんや、これさ」

 コノハ助教がすすっとスカートをめくる。私は思わず目を逸らした。しかし彼女は笑いながら、太腿に付けてあるベルトのような物から何かを引き抜いた。

「あいつが何かに感化されて、装着していたのさ。多分隠し武器のつもりだったんだろうが、間違えたようだ、ほら」

 コノハ助教が手に持っているのは、キャンプなんかで使うファイヤースターターだった。木製の柄に金属の棒がついていて、確かに一見すると何かの武器のようにも見える。カレハ助教はこれをナイフか何かと勘違いして、仕込んでいたのだ。なんて間抜けな。しかし、現在の我々にとって、これに勝るアイテムはない。

「戻ったら、カレハ助教にまた夕食を奢ろう」

「お、いいねえ、結局私も美味しい思いができるから、どんどんやってくれ」

 というわけで、私たちは遅い夕食を取ることにした。


 結論から言うと、まあまあ美味しかった。


「御館様、御館様」

 カレハ助教の声で、私は目を覚ました。

 レインコートをシーツ代わりにして寝転がる私を、上からカレハ助教が覗き込んでいる。

 私はあれから周囲から隠れられそうな岩の窪みを見つけ、そこで仮眠を取っていた。というか、仮眠を取るつもりでかなりしっかり眠ってしまった気がする。

 私が寝ている間はコノハ助教かカレハ助教が起きていてくれたはずだ。彼女らが前に言っていたとおり、片方が寝ている間に片方が起きているので、このような状況には最適である。

 ただ、「半球睡眠もできないなんて先が思いやられるよ」とコノハ助教が言っていたことが現実になってしまった。情けない。

「ああ、カレハ助教、おはよう」

「おはようございます、あの、私もさっき起きたばっかりなんですけど、ちょっと・・・・」

「どうした?」

「何だか寝る前より暗くないですか?」

 私は周囲を見回した。しかし、明るさが変化しているようには見えない。

「そう?あまり変わらないように見えるけど」

「いいえ、ちょっと暗いような、んん、これは、もしや、私の恐るべき魔———」

「魔眼じゃない、だけど」

 私はカレハ助教の視覚系が私と違っていることを知っている。彼女が暗いというなら、そうなのかもしれない。

 ちなみにカレハ助教は眼帯をしていない。たぶんリール・ド・ラビ―ムに忘れてきたのだろう。

「暗くなった?ということは・・・・」

「ということは?」

「どういうことなんだろう?」

 私は岩陰から外に出て上を見上げた。昨日と同じく、白い光を発する天井があり、その中に幾つも皿状の黒い物体が見える。

「むむむ」

 私は昨日と何か違う点がないか、目を皿のようにして見た。

「カレハ助教も見てくれ、昨日と違いはないか?」

「むむむ」

 カレハ助教は私の真似をするように天を仰ぐ。

 やがて、

「あ」と私が言い、同時に、

「お」とカレハ助教が言った。

「ちょっと違うな」

「ちょっと違いますね」

「ズレてる?」

「ズレてますね」

 天井の光源の位置が、黒い皿の群に対して、昨日と少しだけ違う。黒い皿の配置は変化していないので、光源が少しズレたように見える。

 このことと、さっきカレハ助教が「暗くなっている」と言ったことを考え合わせると、つまり。

「光源が、移動しているんだ」

「移動ですか?太陽みたいに?」

「太陽が動くように見えるのは地球が自転しているからだよ。でもこれはそうじゃなさそうだ。光源自体が動いている。もしかして・・・・・」

 私は一つの考えが閃いた。それを確かめる術がないか考える。

「いや、ダメだ。距離がわからないと速度が出せない」

「どういうことですか?」

「あくまで仮説だけど、此処は地下だろう?仕組みはよくわからないが、あの現象が起きたときに、我々は島の真下に運ばれたと仮定する。その場合、ノーチラス島は動いているわけだから、我々がここに留まっていたらどんどん先に進んでいくだろう」

「つまり、あの光源はノーチラス島だと?」

「ノーチラス島からこちらに光のエネルギーが送られていると仮定すると、それがノーチラス島の移動と連動して移動することは有り得る」

「私たちはノーチラス島に置いてかれてるわけですね、大変です、追いかけないと!」

「いや待て、この仮説が正しいと決まったわけでは・・・・」

「御館様の言うことに間違いなんてありえません!」

 水色の瞳にまっすぐ見られて、私はうっ、と口ごもる。人の言うことをそんなに簡単に信じるな、と言いたくて、でも信頼してくれて嬉しいと思う自分がいる。

 でもいずれにせよ、此処に留まり続けるのは得策ではない。もしここからノーチラス島に帰還したければ、たとえ仮説であったとしても、島に近い可能性が高い場所にいるべきだろう。

「・・・・わかった、光源についていくように移動しよう」

「御意」

 カレハ助教はいつものように敬礼。我々は慎重に森の中を移動する。

「カレハ助教、どうでもいいことなんだが・・・・」

「なんですか?」

「敬礼するときは、『御意』じゃなくて、『了解』のほうがそれっぽくないか?」

「ははあ、そうなんですか?」

「ああ、多分」

「じゃあ、御意と言いたいときは、どうすれば?」

「忍者とかがやっている感じで片膝をつくとか、かなあ」

「では次からそうします、あの、私の方からも、どうでもいいことかもしれないのですが・・・・」

「何かな?」

「御館様はずっと私たちを助教と呼んでいますが、私たちは助教ではありません。それがいつも気になってしまって」

「ううん、確かにそうなんだが、言い慣れてしまったから。何か他にいい呼び方はないかな?」

「そうですねえ」

「じゃあ、カレハ卿とか?」

「え、貴族でもないのに、畏れ多いですよ」

「カレハ様」

「もっと畏れ多いです」

「じゃあ・・・・」

「あ、御館様、あれ!」

 カレハ助教が上を指さす。その先に私は見た。

 白い布を纏ったようなものが、漂っている。

 今度は画像処理をしなくても見えた、あれは、天使だ。

 私たちは素早く木陰に隠れて、そいつの様子を窺う。

 それは、概ねクリスが示した画像の通りだった。大きめの頭部があり、白布の服のような物から手足が伸びている。ただし、細かいところは今の方が良く見えた。幽霊のように前に出された細い手には長い指があって、その先は鋭い鉤爪になっている。足は真っ直ぐ下に伸びているようだが、布のような外衣に隠れてあまり見えない。背中には鳥のような羽があった。頭部は極めて異様で、口が耳まで裂けている。しかも、顎がクチバシのように前に突き出していた。鳥とは違って、クチバシに牙のような鋭いギザギザがある。

「うわあ、前の画像よりずっと気味悪いですね」

「・・・・やはり、ありえない」

 あれは見たところ脊椎動物だ。他の生物と同じく地球から此処にやってきて、変化なり進化なりを遂げたのだ。だが、地球生物だとしたら脊椎動物の基本型を逸脱している。手、足、羽、と3対の付属肢を持っているのだ。

 それはふわふわと、森の上まで降りてきた。林冠すれすれを移動する。まるで獲物を探しているようだ。実際そうなのかもしれない。私は息を潜める。

 もしここにクリスがいたら、「脳を採れ!」と叫んでいることだろう。ちなみに昨日の節足動物は、言われるまでもなく真っ先に脳を採りだそうとした。だが悲しいかな、コノハ助教の攻撃で怪物の脳は見事に破壊されていた。それでも必死に調べた結果、かろうじて記憶や高次機能に関わるキノコ体らしき構造があることがわかった。昨日の襲撃で知的な攻撃をしていたのはそれが関係しているだろう。

「あれ、ほんとに天使ですか」訝しむようにカレハ助教が言う。

「ああ、でも、まてよ」私はその姿に違和感を感じた。何だか、脊椎動物を無理矢理歪めたような違和感だ。その原因を探る。やがて、思い当たった。

「あれ?よく見たらあの天使、地球の脊椎動物と同じだ」

「ほえ、どういうことですか?」

「手に見えるもの、あれは足なんだ、そして、背中の翼が、前足つまり本来の手なんだ。ちょうど鳥と同じだよ、前肢が翼で、後肢が物を掴む足。あの天使も同じだ、手がぐっと後ろに移動して羽になり、逆に足がぐっと上に持ち上がって手の位置まで来ているのだ、足を頭の両脇くらいに持ってきてるから、骨格はかなり窮屈に背中が曲がっているだろうな」

「じゃあ、あの足は何ですか?」

「あれは足じゃない、足に見える突起だよ。鳥や魚でもいるだろう、尾羽が長く伸びた奴とか、あれと同じで、要は飾りだ。空中を漂っているので、もはや陸を歩く足は要らないんだ。だから可動指をもつ足を手として使うようになったのだ。そしてもともとの手は背中に移動して、飛翔のための推進装置となったのだ」

「ではあの動物の中にもガスが?」

「おそらく、あの胸の下から足状突起くらいまでの間が全部ガス室じゃないかな、それが天使のシルエットを作る要素になっているんだ、ガス室はおそらく鳥類の気嚢が変化した構造だろう」

「じゃあ、あれも実際は手が二本、足が二本なんですね」

「そう、我々と同じタイプの脊椎動物だ」

「じゃあ、あの白い服は?」

「多分、羽毛が長い棒のように変化して垂れ下がっているんだ。ヒクイドリみたいにね。さらに羽毛同士が小さいフックで連結しているから、布の服みたいに見えるんだよ」

 しかし、驚いた、そんな進化が可能になるとは。ちょうど魚類が水中で浮袋を獲得して繁栄したのと同じだ。重力に逆らって空中を浮遊することができる構造を獲得したために、かれらは空中環境で様々に形を変え適応放散したのだ。

 もしかしたら、それがこの空間の生態系を読み解く鍵かもしれない。此処の生物は脊椎動物も無脊椎動物も、皆それぞれ空中浮遊する仕組みを持っていて、そのため全く独自の方向に進化し、空中生態系を形成したのだ。

「だが、どうやって?」

 どうやって、全ての動物が共通して浮遊する仕組み、すなわち体内のガス室を進化させたのか?何かきっかけがあるはずだ。

 そんなことを考えているうちに、その天使はすーっと森の上を移動して、やがてまた上空に戻っていった。

「あの上が棲処なんですかね?」

「そうだろうな。採餌の時に下に降りてくるんだろう。あれの原型はおそらく鳥類だ。目も大きかったし、視覚が鋭いはずだから注意した方がいい」

「そう致しましょう」

 その時、私の前を、ヤスデみたいな生物が移動していった。大きい。1メートルはある。思わず近寄って観察しようとしたが、意外に素早くて逃げられてしまう。

「思ったより身軽だな」

 そう言ってから、閃いた。昨日見たあの巨大イモムシも、体内に浮袋を持っているのだ。だからあのサイズになっても自重で動けなくなったりはしない。さっきのヤスデも、浮袋によるアシストにより、あのサイズでも素早く動けるのだ。もしかしたら浮袋は呼吸の補助もしているのかもしれない、だから気管呼吸の昆虫であっても巨大になれるのだ。

 それを確かめたくて、何でもいいから巨大昆虫がいないか探していると、カレハ助教が「あのう」と声をかけてきた。

「御館様、ノーチラス島を追いかけるのでは?」

「ああ、ごめん」

 カレハ助教に急かされて、私は歩き出した。


「あの、御館様」

 数時間ほど歩いたところで、カレハ助教が心配そうに言った。

「ちょっとこれ、追いつけないんじゃ?」

「うう」

 私も唸る。天を見ると、光源の位置は今朝からほとんど変わっていない。カレハ助教の目で見ても、あまり近づいていないようだ。

「これは、あれだな、あの光源がノーチラス島である可能性が高まったな」

「どういうことですか?」

「ノーチラス島の周回航路はおよそ20000キロメートル。これをおよそ一年かけて周回しているから、速度はおよそ毎時2キロメートルだ。この森に道はないし、我々はかなり慎重に進んでいるから、一時間に2キロ進むか進まないかだろう。だとしたら、現在の我々の速度はノーチラス島とほぼ同じ。光源との距離が変わっていないということは、あれがすなわちノーチラス島だということだ。ということは」

「ほおお、と、いうことは?」

「我々は、昨夜遅れを取った分も取り戻せていない」

「ほおお、そういうことですか、まずいじゃないですか」

「まずいね」

 これは正直なところ、大変なことになった。このまま歩き続けられるわけではない。いずれ昨日のように食事や休息をすることになる。そうなったら島にどんどん引き離されてしまう。かといって、この状況で進むスピードを上げることは難しい。無警戒で全力疾走すれば追いつけるかもしれないが、それではここにいる捕食性の怪物に見つかってしまう。

 それに・・・・、私は周囲を見回す。近くの倒木の下に、巨大なサソリが潜んでいるのが見えた。

 これは、万事休すだ。カレハ助教なら半球睡眠できるから、休憩することなく進めるだろうが、私は・・・・。

 私は改めて、半球睡眠できない自分の不甲斐なさを呪った。

 そして、考える。私はどうすべきなのか。

 何処かで、何かの鳴き声が聞こえる。これまで聞いたこともない声だ。

「どうしましょう?」

「・・・・・あれがノーチラス島である可能性が高まった以上、あれから離れるべきではないだろうな」

「でもこのままでは・・・・」

「君だけが」

「え?」

「君だけが行くか、カレハ助教」

「え?」

「ノーチラス島にいる皆は、きっと我々を助ける方法を考えている。きっと何か対処してくるだろう。その時、こちらは対応できるようにしなければ。そのためには、君だけでもあの島の傍にいるべきだ」

「では、御館様は?」

「ぼくはこの辺りで身を潜めている。大丈夫だ、しばらくは昨日の怪物から得た食料があるし、隠れる場所さえあれば・・・・」

「そんな・・・・」

「君が一緒に来てくれたことに心から感謝している・・・、だから・・・」

 私は倒木をチラリと見た。巨大サソリはまだそこにいる。

「あの、御館様」

「何だ、君は早く・・・・」

 悲痛な別れのシーンのはずなのに、カレハ助教は何故か疑り深そうな目で私を見ている。

「その、今の状況を客観的に見ると、ラノベとかでよくある『ここはオレが食い止める、君はオレを置いて先に行け』みたいな場面ですが、そうじゃないですよね?」

「え、何のことかな?」

「昨日から、此処の生き物が気になっていますよね」

「あ、ああ」

「何だかいつも周りをキョロキョロしてるし、変な生き物がいたら寄っていくし、私たちの歩みが遅いのは、御館様がそんなことばかりしてるせいですよ、わかっていますか?」

「わ、わかってるけど、此処の生き物は、ほら、ね」

 私は狼狽しながら言った。辺りは見知らぬ生物ばかりなのだ。しかも地球にはいないような巨大グモや巨大サソリがウヨウヨいる。いや、そいつらはそもそもクモかサソリかどうかも怪しい。地球には存在しない系統かもしれないのだ。正直、それらをじっくり見ることなく先に行くのは、嫌だった。

「そんなこと言っても、周りを見てみろ、変な生き物ばっかりだぞ、これを何もせず通り過ぎるのは、テーマパークに行ってアトラクションに一切乗らないのと同じだ、そんなことできるか!」

 私は喚いた。

「おれは此処に残る、君は、おれを置いて先に行け!」

「バカなこと言っている暇があったら、さっさと行きますよ!」

 カレハ助教は私の手をがしっと掴み、光源の方に向き直って、足早に歩き出した。

 アルザス衣装の後ろ姿が私をぐいぐい引っぱっていく。

「ま、待ってくれ、ほら、そこにでかいサソリが・・・・」

「つべこべ言わないでください!」

 ぴしゃりと言い放って、それきり彼女は黙ったまま前を進んでいった。


「ははは、今度またここに来て,次は好きなだけ探検したまえよ」

 私がしょんぼりして倒木に腰掛けていると、コノハ助教が励ますように言った。

 あれから数時間、休みなしに歩いたせいで,少しは島に近づいたようだ。だが、まだ距離は離れているし、こうして休憩している間にも島は遠ざかっていく。

 私は足早に通り過ぎる際に見た、巨大なムカデやナメクジやザトウムシが気になって仕方がない。一期一会と言うではないか。次に来たときに見られるとは限らない。ああ、せめて写真に残せたら・・・。

「あれがノーチラス島だというのは、わかった」

 昨日の怪物の白身を頬張りながら、コノハ助教が光源を指さす。

「ということは、だよ、此処は今は明るいが、ノーチラス島が遠ざかっていったら、暗くなるだろう、地下なんだから」

「そうだろうな」

「だったら、ここの生物は真っ暗闇に置き去りになってしまうぞ」

「それについて考えていた」

 私もエビのような味の肉片を囓りながら答えた。

「確かに島が行ってしまったら、此処は暗闇になる。だが、一年後に島は同じ処に戻ってくるんだ。それに、あの明るさを考えたら、島が近づいて来て通り過ぎる間、おそらく一ヶ月程度はずっと明るい状態が続く。その間に植物はたっぷり光合成できる。およそ11ヶ月分のエネルギーをその間に蓄えるんだ。動物の方は、そうだな、森の中にいるのはサソリやムカデなど、本来夜行性の種が多かった。奴らなら光がなくても生きていける。光が必要な奴らは、ノーチラス島に付いていくんだ。渡り鳥みたいに。浮遊できるんだから簡単だろう。彼らは生涯を光の下で過ごす。そんな風に進化したんだよ」

「なるほどねえ、あの天使は、ノーチラス島にずっとくっついているわけだ」

「だから、例の怪現象が起きたとき、島からこっちを覗いたら常にあの天使が見える」

「あの黒い皿みたいな物は?」

「あれは、よくわからない、でもほら、ちょうど太陽光発電の集光パネルみたいだろ、もしかしたら島から光エネルギーを受け取っているのかも」

「受け取って、どうする?」

「睡蓮の茎みたいに見える部分がある。あれが植物の一種だとしたら、あの部分が本体に繋がっていて、エネルギーを本体の成長に使うか、あるいは・・・」

「あるいは?」

「あれがまさに太陽光発電の集光パネルとして働いているとしたら、あの茎が光ファイバーケーブルみたいに、何処かにエネルギーを伝えている。まさに、発電施設だ」

「へえ、つまり、あれからエネルギーを受け取る何らかの存在がいるということか?」

 私は頷いた。今、コノハ助教の問いに答える形で、現在進行形で考えたこともあるが、それほど悪くない考えに思えた。

「さすが、面白いことを考えるねえ、君といると飽きないよ」

「そりゃ、どうも」

「ということは、君、この地下空間には、何かがいることになるよ、光エネルギーを受け取って、それを利用する何かだ。つまりは、知的生命体だ」

「・・・・それはまだわからない」

「君の仮説が正しければ、この地底空間はノーチラス島の浮動面積に匹敵する広さがあることになる。どれくらいだっけ?外周二万キロメートルだっけ?地球の南極大陸とだいたい同じ広さだ。その広い空間の周りを島がぐるっと巡り、その軌跡を辿るように、ドーナツ型にこの森が広がっていることになる」

「そうなるね」私は頷いた。

「ということは、だ」

 コノハ助教が指を立てた。

「この、南極大陸レベルの空間には、ノーチラス島の軌跡に沿った森林があって、その内側にはとんでもなく広いドーナツの穴があるんだ、何かあるんだろうねえ、そこに?」

「わからない。ただ、あの黒い皿はどれも一方向から伸びてきているように見える、こちらから見て光源の右側だ、もしそっちがそのドーナツの穴の中心方向だとしたら、そちらに向けてエネルギーを運んでいる・・・・」

「もしそうなら、あの黒い皿は島の軌道に沿ってずらっと存在するわけだから、島が移動しても常にどこかから島のエネルギーが中心部へと供給され続けているだろう。この空間の中心に、膨大なエネルギーを受け取る何かがある、いや、何かがいる・・・・面白いじゃないか、君い」

 仮説に仮説を重ねた話だ。今のままでは物語と同じで、何の根拠もない。でもコノハ助教はにやりと笑う。

「君、これはますます、生きてここから帰る必要があるねえ。じゃあ、次はそれについて考えようか?どうやったら帰れると思う?」

「それは難題だ」

 私は考え込んだ。ここに来たとき、我々を攫ってきた触手が残っていないか、カレハ助教と少し調べてみたが、見つからなかった。あれは地球の生物を此処に連れてくるだけの、一方通行の「通路」らしい。

 ここから出るための通路を新たに探す必要がある。でもそんな道が果たしてあるのか?

「ちょっと悲観的な話になるが」

「ふんふん」

「もしも、ここからノーチラス島に出る出口があったとしたら、こっちの生物が出て行っているはずだ、ノーチラス島に、例えばあの天使が」

「そう、だね」

「あんな天使が出現したら大騒ぎになる、でも、島の開拓が始まって半世紀以上経つというのに、今のところノーチラス島であんなのは見つかっていない。ということは、こっちから島に抜ける道はない、ということになる」

「おお、悲観的だねえ、でも君、こっちに来て周りに気を取られすぎて、脳がボンクラになってないかい?」

 コノハ助教はからかうように私を見て、続けた。

「君はこっちからあっちに物体が移動した痕跡が無いという。でもそんなことないよ、君は忘れているのか、ちゃんとあるじゃないか、こっちからあっちに来た物が。思い出したまえ」

 私はしばし考え、いや考えるまでもなく、思い出した。

「そうだ、あの黒い遺物、あれは深淵の底で見つかった」

 博物館に残されていた遺物、あれは深淵探査の際に見つかっていた。コノハ助教も、私の幻想の中にいた「木通このは」も、あれに注目していたじゃないか。

「そうさ。あれがあるということは、ここから帰還が可能なんだ」

 光明が見えた気がした。私は考え続ける。

「あれは深淵の底で見つかった、ということは、ここから深淵に抜ける道がある」

「そうなるね、では何処にある、その道は?」

 私は幾つかの可能性を考える。あくまで可能性だ。真実かどうかはわからない。

「・・・・最も可能性が高いのは、ノーチラス島の直下だ。リール・ド・ラビームのあの深淵の場所に入口がある。でも、フェンネル君の話では、通常の深淵にはそんな通路はない。あの現象が起きているときだけ、道が開く。実際にあの時の映像にこの世界が捉えられている。あの現象が起きている最中に、こっちからあの深淵に飛び込めば、帰れる。でも、問題はあの深淵がこっちから見て何処にあるのか、わからないことだ、それに、帰れるのはあの現象が起きているときだけ、ほんの一分程度だ」

 これはやはりかなり難題だ。私は再び声を落とす。

「我々が得た画像では、あの黒い皿の表面が見えていた、つまり、深淵の入口はあの天井に空いているのだろう。でも我々にはあそこまで行く手段がない」

「私たちは空を飛べないからね」

「これは、やはり無理じゃないだろうか?実際に、9年前に失踪した人達も帰ってこられなかった・・・・」

「まあ、そう気を落とさなくていいよ、今の話は大いなる前進だ、これからまた考えようじゃないか」

 そしてコノハ助教は「よっこらせ」と立ち上がった。私に手を差し出す。

「行こうか、とりあえず島に追いつこう」


 それから私たちは一日中歩いた。

 かなり急いだので、何度か捕食性の生物に襲撃されたが、それらをコノハ助教がことごとく退けた。

 彼女がいてくれて本当に良かった。さもなくば私はあっという間に死んでいただろう。あの怪人物の判断は正しかった。彼女がいない状態でここに来るのは自殺行為だ。

 それくらい、此処の生物は危険であった。捕食性の種は大抵空中を漂っている。サイズも巨大だ。そんなのが飛来してくるのである。地球でも地上性のウサギやネズミの最大の天敵は猛禽類だ。地面を這う生き物にとって、空からの襲撃者が一番の脅威なのである。地球には人間サイズの物を襲う猛禽類がいないのでピンとこないだけだ。

 あ、でももしかしたら、アメリカ人がUFOを怖がる心理が近いかもしれない。上空から突然正体不明の物がやってきて、理不尽に攫っていく、その恐怖だ。

 ここには、人間を襲える飛翔生物がウヨウヨいる。その最たる物があの天使だ。あれはおそらく鳥類が進化した物だ。サイズも3メートルはある。まさに人間を襲える猛禽類だ。幸いまだ襲撃されていないが、我々にとって最大の脅威だろう。

 そのほか、浮遊性の無脊椎動物も多い。最初に襲ってきたフグみたいなヤゴみたいな奴とか、他にも巨大なトンボみたいな奴がいた。

 9年前にリール・ド・ラビームの調査隊が此処に迷い込んだ。気の毒だが、この状況では生存は絶望的だ。

 危険を回避しながら12時間以上歩き続けた後、私は仮眠を取ることにした。申し訳ないが、生身の人間である私にはこれが限界だ。

 簡単な焚き火の横で、私はレインコートを敷いた上に倒れ込む。

「すまん、あとはよろしく」といった途端、意識が遠のいた。

 しばらくして、夢うつつの状態で意識が戻った。ぼんやりした意識の中でうっすらと目を開けた、気がする。焚き火の傍に白いものが見えた、気がする。

 それは、コノハ助教だったのか、カレハ助教だったのか、わからない。

 白い陶器のような肌をしたものが、四つ足で佇んでいる。久しぶりに見た。ハルキゲニア形態だ。全身が白かったので、もしかしたら服を着ていなかったのかもしれない。

 スーツを脱いであの形態になったのか。そういえば、あの形態なら一人で制御できると言っていた。今はどちらかが休んでいて、もう一人があの形態で見張りをしているのだ。しかし、どうやってあのスーツを脱ぐのだろう?その時、あるイメージが浮かんだ。この場所は常に白い光が射しているが、イメージの中では夜で、月が輝いている。その月明かりの中に、少女が立っている。カレハ助教かコノハ助教かはわからない、その少女の背中が縦にバリッと裂けて、中から白い身体が現れる。それは蝶が羽化するようにもぞもぞと身体を動かし、やがて少女の身体から半身をするりと抜き出す。白い異形のものは妖しげな月光の下で少女から羽化をはたし、抜け殻となった少女の背中で妖精のような羽根を開く。

 あまりにも耽美趣味的なイメージに自分でも「耽美小説家か」と呆れ果て、私は再び眠りに落ちた。


 今、私たちは小高い丘の天辺にいる。

 眼下に森が広がっていた。ノーチラス島からの光に育まれた森だ。光エネルギーはかなり広範囲に届くらしく、森の果ては見えない。

 その森の上を様々な生物が、ペットショップの水槽にいるネオンテトラみたいに浮遊している。色彩が豊かな種が多いので、一見すると大変美しい。まるでこの世界が美しい熱帯魚水槽みたいだ。

「追いついたかな」

 私は息を切らしながらコノハ助教に尋ねた。この丘を登るのにけっこう体力を使ってしまった。

「ああ、だいたい真下だな」

「何か見えるか?入口みたいなものは?」

「いんや、ダメだね。距離があるし、そもそも明るすぎる」

「そうか」

「ちなみに、今は何時だい?」

「午後9時だな、我々がここに来て二日目の」

「ふ〜ん、じゃあ、ちょうど眺めがいいここから観察してみようじゃないか?」

「何を?ノーチラス島か?」

「そうさ」

 そう言って、コノハ助教はノーチラス島がある方に目を向けて、眩しそうに目を細めた。

 私もよくわからないまま、手のひらを庇にして彼女と同じ方向を見る。

 数分後、

「何も———」言いかけた私の前で、驚くべきことが起きた。

 頭上の光源から、白い靄のようなものが出ている。それはすぐに煙のように吹き出して、光源の下でぶわっと広がった。まるでロケットが発射されるときに出る噴射のようだ。

「何だ、あの白い煙みたいなもの・・・」

「水滴さ」

 コノハ助教がにやりと笑っている。

「やはり。予想通りだ」

「どういうことだ」と言って、私は一つの可能性に思い当たった。

「まさか!」

「そう、今、あれが起きているんだよ、リール・ド・ラビームで」

 私は愕然として、天井に広がる水煙を見る。

 そうか、あれはリール・ド・ラビームに注がれた水がこっちに噴き出しているんだ。あの現象は、こちらに定期的に雨水を運ぶためのものだったのだ。こちらでも雨は降るだろうから、淡水が供給される理由はよくわからないが、とにかく今、あっちでは例の現象が起きている。そしてそれは、

「彼らが、やっているのか!」

「そうさ、いい仲間を持ったねえ、君」

 私は時間を確認した。午後9時過ぎ。ちょうど以前の実験と同じくらいの時間だ。あちらの人々は、以前の実験の経験を元に、再びあの現象を再現させたのだ。

「昨日、つまり私たちが失踪した一日目は、あっちも大変だっただろう、実験の再現なんて不可能だった。だが今日、二日目、彼らは実行したのさ。この現象の謎を解き、私たちが生還できる可能性を高めるために。もしそうなら彼らは明日もやるだろうさ」

 コノハ助教は私に向き直った。赤い瞳が悪戯っぽく私を見ている。

「彼らがここまでやってくれているんだ、こっちも何かしなくてはね」

「ああ」

 私は白い水煙を見つめていた。

 思えば、私はずっと一人でやってきた。他人と話すことが苦手だったこともあるし、人間関係を煩わしいと考えていたこともある。そうしていつしか私は自分以外のことについて傍観者を決め込んでいた。でもそれが、この島に来てから大きく変わってしまった。あれをやった人達の顔が浮かぶ。きっと今、あの天井の向こうで、ヒューベル博士が、フェンネル操縦士が、キャンベル教授が、クリスが、もしかしたらコートニーと館長までもが、こちらを見ている。

 あの水煙を見てしまった今、もう傍観者ではいられない。

 いつしか目頭が熱くなっていた。じわっと涙が滲む。

「お、どうした、君」

「光が眩しくて」私ははぐらかす。

 水煙が止まった。あの現象が終わったのだ。

 その時、天空にぽつんと黒い点のようなものが見えた。

 それはこちらに近づいてくる。

「何かが落ちてくる」

 私は咄嗟に身構える。コノハ助教も鋭い視線をそちらに向けていた。

 それはよく見ると茶色の物体で、大きさは軽自動車くらいだった。

 一見すると隕石のように見えたが、隕石みたいに加速していない。自由落下してくる。

 それは我々の見ている前で、少し離れた森の中に落下した。バキバキと樹木の折れる音がする。

「何だろう?」

 さっきの現象と同期しているようなタイミングだったことが、私の心に引っかかった。

「行ってみよう、コノハ助教」

「わかった、変な虫がいても立ち止まっちゃダメだぞ、お、そういえば」

 コノハ助教が振り返る。

「あいつだったら、御意、とかいうところだな」


 私たちは音がしたところに着いた。

 そこはさっき私たちがいた丘の頂上から少し下ったところで、木々が疎らで比較的平坦になっている。そこに何かが転がっていた。周囲の木が何本か、なぎ倒されたように折れている。

「何だあれは?何だか木の実みたいだが」

「それにしちゃ大きすぎないかい?」

 私は慎重にそれを観察する。まるでクルミの実のように見えるが、小型自動車くらいの大きさがあった。

「こんなのが何処から来た?天井にはこんな実をつけている植物は見当たらない」

「まるで天井から突然出現したように見えたね」

 コノハ助教の言葉に私ははっとした。出現だって、ということは・・・・。

 その時、突然そのクルミ状の物が左右にパカッと開いた。

「割れた!」

 そして、私は見た。クルミ状の外皮の中に、何かがある。

 それは、一見すると装甲に覆われた恐竜のように見えた。戦闘ヘリの機首部分のようなものに透明な丸いキャノピーがついていて、その中は操縦席のようになっている。その操縦席部分の下に、機械でできた脚部がついていた。腕のようなマニピュレータも左右についている。そして、それの背面にはトンボの羽のような形をした四枚の翼があった。

「これは、フェルド・・・・ランス・・・・」

 確かに、それは前にヒューベル博士のところで見た二足歩行の万能探査機のように見えた。しかし、ずっと小さい。それに、凄く違和感がある。よくわからないが、これは絶対に、ヒューベル博士の設計によるものではない。

「これ・・・」コノハ助教がそれに近づき、表面にそっと触れた。

「これ、わかるぞ・・・・私たちと同じ、いや、同じじゃないが、近いものだ」

「何だって?」

 私もそれに近づき、詳しく観察する。違和感の正体がわかった。装甲の表面が金属ではない。よくわからないが、まるで甲殻類のクチクラのようだ。そう、まるでコノハ助教の外骨格みたいな。だが、機体の骨格になるフレームは金属製のようだ。つまりそれは、機械と生物が融合したような不思議なものだった。

「こんな物が此処に降ってきたということは、これはついさっきやってきたんだ、あっちから」私はあまりに突拍子もないことに愕然となった。

「そうだろうね、誰かがあの触手の群に放り込んだのかな、これを」

「ヒューベル博士か?いやそれは有り得ない、これは彼が作ったものじゃない、それに、もし触手経由で来たなら、我々と同じく地上付近に出現するはずだ、これは上から降ってきた。ということは、あの現象には関係していない、では一体どうやって、誰が・・・・」

「ああ、もしかしたら、あの人物かもしれないな、私を君に紹介した」

「あの怪人物か!」

 私は唸った。確かに、この機体のわけのわからない感じは、コノハ助教に似ている。つまり、彼の息がかかっているような気がする。

 しかし彼は本当にわからない。こんな物が作れるなんて。でも機体の骨組みはフェルドランスにそっくりだ。もしかしたら、フェルドランスの設計図か何かを手に入れていたのだろうか?

 それに———。

「彼が、これを我々のためによこしたのか・・・・」

 私には俄には信じられなかった。彼が護ろうとしていたのは私ではなく、彼の関係者だったはずだ。勝手に此処に迷い込んだ私を助ける義理は無い。ということは、彼はコノハ助教を助けるためにこれを送り込んだのだ。『彼女はぼくの最高傑作』と言っていたし、彼にとっては娘みたいなものだろう。救助の手を差し伸べるのは当然だ。

「でもこれ、操縦席があるから、操縦しなければならないんだろう?コノハ助教、できるか?」

「これの構造は何となく想像がつく。できると思うけど、多分、操縦者は私じゃないよ」

「どうして?」

「だって、これは一人乗りだ。私が操縦席に収まったら君はどうする?機体の外にしがみつくつもりか?」

「それは、君も同じだろう、ぼくが操縦席にいたら、君は外だ」

「私はそれで問題ないが?」

 コノハ助教は不思議そうな顔をしている。彼女はこの機体を馬か何かだと思っているのだろうか?

 でも、彼女の能力を考えたら、それで問題ないような気もしてきた。

「ところで、この機体、羽が付いているよな、飛べるということか?」

「羽が付いているからには、そうなんだろう。飛べるさ。よかったな、これで問題解決だ、天井まで行けるぞ」

「いや待ってくれ、これを操縦するのか?ぼくが?申し訳ないがこんなのに乗ったことないぞ、ぼくはフェンネル君じゃないんだ」

「あと一日ある、しっかり練習しよう」

「な、そんな、無理だ」

「無理じゃない、そいつは私の同類だ、動かし方はわかる気がする。私が教えるよ」

 コノハ助教は親指を立ててみせた。

 私は未知の機体の前で途方に暮れる。


「なんだこれ、戦闘機みたいだな」

 コクピットに乗り込んで、最初の感想がそれだった。

 前に資料で見た、フェルドランスの操縦席に酷似している気がする。やはりあの怪人物はフェルドランスの構造を熟知しているのだ。

 操縦席は、一般的な飛行機と同じく、左手にスロットルレバーがあり、右手やや中央寄りに操縦桿がある。足下には空中で機体の方向を変えるためのフットペダルがあった。ただ、それ以外にも幾つか用途不明のレバーやらスイッチ類がずらりと並んでいる。しかも、操縦桿にも複数のスイッチがあった。

 私はハッチを開いたままにして、機体のメインスイッチを入れる。目の前の計器類に次々に灯りが点った。高度計の目盛りは航空機で普通に使われているヤード・ポンド法ではなく、メートル法で刻まれていた。

「エンジン起動させるぞ、準備はいいか?」機体の背後でコノハ助教が言う。

「ま、待ってくれ」

 私は慌てて、機体の制御系がニュートラルの位置にあることを確認する。今ならエンジンを作動させても機体の動力系には繋がらない。

「い、いいぞ、やってくれ」

「ほいな」

 軽い声がして、何かを操作するカチッという音がした。

 甲高いエンジン音がするのかと思いきや、何やら不思議な音がする。機体がまるで生命のように振動していた。まるでスズメガが飛翔前に身体を震わせているときのような感じだ。

 この機体のエンジンがどうなっているのかは不明だ。もしかしたら、生物の構造を取り入れているのかもしれない。ただ、燃料はよく使われているSAF航空燃料だ。すでに充分な量が入っている。

 私は機体の状態をチェック。さっきコノハ助教からざっと教わっている。とりあえず異常なし。

 私は目の前にある駆動系変更レバーを地上モードにした。制御系のメインコントロールスイッチを入れる。両足の駆動系が起動、足下から鈍い音がする。よし。これで、右足のペダルを踏めば脚部の駆動系が作動し、機体は地上を歩行する、はずだ。

「機体を動かす」

 私はゆっくりとペダルを踏んだ。

 思ったよりあっさりと、機体が一歩を踏み出した。踏まれた枝が折れてポキッという音がした。ペダルを踏んだままにしていると、更に一歩進む。私はペダルから足を離した。機体は停止する。

「やった、動いた」

 私はささやかな感動に包まれる。凄い、これは、面白い。二脚歩行の機体を自分で操縦しているのだ。

 だが、ふと、自分はこんな地の底で一体何をやっているんだろう、と思った。

「おお、いい感じじゃないか」コノハ助教も喜んでいる。

「次は空を飛ぶぞ」

「い、いや、ちょっと待ってくれ」私は慌てて制止する。

 いきなり飛行するのはハードルが高すぎる。もう少し地上走行の練習を——。

「わかってると思うが、時間はあまりないよ」コノハ助教が冷ややかに言う。

「明日、連中はまたあれをやるだろう。その時までに、自在に空を飛べるようになっておく必要がある、何故かわかるかい?」

「あの天使どもが襲ってくる可能性があるからだろ、わかってるよ」

「あいつらはおそらく捕食動物だ。絶対襲ってくる。フラフラしてたら撃墜されるぞ。今、時刻は?」

「午前一時」

「じゃあ、あと20時間だ、がんばれ」


 それから、私は死ぬ気で練習をした。地上走行がまともにできるようになるまで3時間、そして、背部の飛行用エンジンを作動させ、地上走行から跳躍する練習を繰り返す。この機体の背部からはジェットエンジンみたいな、でもちょっと違う音がしていた。私はそれを聴いて先の事変の記録を思いだす。確か、最後にマンディブラスと共に襲ってきた飛行生物「トリポッド」は、ジェットエンジンのような機構を備えていた。体内で生物由来の航空燃料を燃焼させ、青い光芒を噴射しながら飛行したという。

 この機体もおそらく同じ仕組みだ。背部にエンジンがあり、四枚の翼で姿勢制御して飛行するのだ。この機体は見かけよりずっと軽い。あの生物系の装甲のお陰だろう。それに高出力のエンジンを載せているのだ。もしかしたら機動性はフェルドランスより上かもしれない。

 私は学生時代に超軽量動力機の免許を取得していた。その時の経験が少しは役に立ったらしい。練習を始めて10時間くらい経つと、何とか自在に飛ばせるようになった。

 この機体は現代の戦闘機のヘッドアップディスプレイのような仕組みで、キャノピーに様々な情報が表示される。計器類も多機能ディスプレイが採用されているお陰で、操縦は比較的楽だった。

 今、私は森林の上空を飛行している。なるべく浮遊生物がいないところを選んでいるせいか、邪魔は入らない。だが、もし襲撃されても———。

「いい感じじゃないか」

 透明なキャノピーのやや後ろ、エンジンの前くらいにコノハ助教が両足を開いて立っている。彼女は上体をやや前に倒し、両手で機体のマニピュレータの手のひらを握っていた。期待についている二本の腕は使い方がわからないので、とりあえず手のひらを上に向けてバンザイするような形にしている。その手のひらをコノハ助教が手すり代わりにしているのだ。私の視界の隅で黒いアルザス衣装が風に靡いていた。速度はそんなに出ていないし、仮の「手すり」もあるが、飛んでいる飛行機の上に立つとは凄いバランス感覚である。今、彼女を裏で制御しているカレハ助教は天才かもしれない。

 もし今何かが襲ってきても、彼女が対処してくれるだろう。それに、本番はこの状態で天井に向かうのだ。彼女にとっても重要な練習なのである。

 私の眼下に深い森がある。ヤシやシダに混ざって背の高い木々が生えていて、アマゾンの密林のようだ。鬱蒼と茂る林冠すれすれを飛行すると、機体の後方で木々がざわめいた。

 この繁り方を鑑みると、あの島からは充分なエネルギーが供給されているようだ。

 ふと、疑問が浮かぶ。

 あの島からはどうやってエネルギーが送られているのか?

 答えは、わからない。あの島に纏わることはいつも謎だ。ただ、仮説としては、おそらくあの島はレンズのように惑星インフェリアに降り注ぐ太陽エネルギーを集め、空間を歪める何らかの方法で、海と海底地殻をすっ飛ばしてここに送っている。あのカリビアントンネルに近い仕組みだ。あるいはクリスが語っていた、地球とインフェリアとを繋ぐ虫食い穴のようなものかもしれない。太陽エネルギーだけでなく、大気や水分も供給しているのだろう。この地底空間に命を育む装置というわけだ。それが、ノーチラス島の秘密の一端だったのだ。あの島が一定の場所を回遊しているのは、この地底世界を維持するためなのだ。

 では、何のために?

 そこで私は地底空間の奥を見て、空恐ろしくなる。この森の向こう、この地底空間の中心に、何かがいるのかもしれない。それは、このような桁外れの世界を設計し、ノーチラス島をインフェリアの海に浮かばせた存在だ。地上ではほとんど痕跡を残していないその存在が、ここではまだ息づいている?

 それ以上考えると未知の恐怖にすくみそうになったので、私は気持ちを切り替えた。

 更に数時間、飛行の練習をした。

 その間に何度か昆虫型の浮遊生物が襲ってきたが、それらを回避して離脱する程度のことはできるようになった。

「今更なんだが・・・」私はヘッドセットのマイクでコノハ助教に語りかけた。ちなみにこのヘッドセットも機体についていた。至れり尽くせりである。

「なんだい?」同じくヘッドセットを付けているコノハ助教から返事が来た。

「島に突入できたとして、でもその先はあの深淵だろう?この機体はかなり頑丈そうだから、水圧と重力負荷に耐えられるかもしれない、でも君は、その、大丈夫なのか?」

「ホントに今更だなあ、おい」

「ごめん」

「まあ、何とかなると思うよ」

「・・・・提案があるんだが」

「なんだい?」

「突入する寸前にキャノピーを開ける。そしたら君はここに入ってくれ」

「え。狭すぎるだろう、そりゃ無理だよ、ギュウギュウになるぞ」

「いや、身体を丸めるなりして、何とかしてくれ、ぼくもがんばるから」

「そんなこと言っても、ねえ、物理的に、ねえ」

「君は深淵の底に入っても大丈夫かもしれない、でも、大丈夫じゃなかったら・・・・。せっかくここまで来たのに、一緒に帰れないのは困る。一生夢見が悪くなる」

「結局、自分のためじゃないか、呆れた奴だ」

「それでもいいから。とにかくこの機体に入ってくれ、頼むよ」

「・・・・わかった。考えとくよ」

 それからひとしきり操縦系の操作を復習して、私は高度を落とし、近くにある開けた場所に向けて降下した。推力偏向装置みたいなのがあるのか、機体は垂直離着陸機のように着陸する。この機構もフェルドランスと同じだ。

 私はキャノビーを開いた。もうヘトヘトである。限界だ。時刻は午後六時過ぎ。

 私はずるずると機体から降りると、そのまま脚部に背中を預けて座り込んだ。

 作戦開始まで、あと、3時間。

 今頃、この上のノーチラス島では皆が働いているのだろうか?今日も昨日と同じことをしてくれるだろうか?私はぶ厚い岩盤の先にいる人々に思いを馳せる。誰かの顔が浮かんできた気がしたが、それを認識するより先に意識が途切れた。


 身体を揺すられた。

 機体の横ですっかり眠っていたようだ。はっと目を覚まし、私は体を起こした。

「御館様、死んでるのかと思いました」

 水色の瞳。カレハ助教だ。

「いよいよですね」

 彼女の姿を見て、私は少々驚いた。

 彼女の手足の先端が剣のようになっている。表面が白い陶器みたいに光沢を放っていた。人間態になる前のミミック・モードの状態だ。でもそれ以外は人間のままだった。

「手足だけ元に戻したのか?」

「正確には肘と膝のちょっと上までですね。スーツは手足の先がなくなったので、ちょっと残念です」そう言って彼女は先端のハサミを使ってアルザス衣装の袖をめくる。彼女の言うとおり、肘の少し上は人間の皮膚のままだ。

 残念そうな表情から鑑みて、彼女もコノハ助教もこの「スーツ」がたいそう気に入っているらしい。

「戻ったら、あの怪人物からまた分けてもらえばいいさ」私は励ました。

「そう致します、でも、これで万全ですよ」

 そう言って彼女は笑い、剣のような手をさっと顔の前にかざした。

「それでは御館様、ご武運を」

 手が離れると、コノハ助教の赤い瞳に変わっている。彼女は一本足になってそのまま跳躍、空中でクルクルと回転して、元の場所に一ミリも違わず着地した。そして「貴族の礼」をする。前にコノハ助教が制御していた時よりずっと美しい。さすが、カレハ助教。裏の制御は完璧だ。

 今回のミッションは表がコノハ助教で裏がカレハ助教だ。最高の組み合わせである。

 私は時刻を確認した。午後8時を回ったところだった。

「エンジンを起動してくれ、直ぐに離陸する。森の上空で待機して、あの現象が見えた瞬間に上昇する」

「わかった、あ、あいつ風に言えば、御意、だな」

 コノハ助教は機体の背部に回ってエンジンを起動し、そのまま跳躍して、くるりと回転しながら機体の上に乗った。

 私も機体に乗り込もうとして、ふと立ち止まり、地面に咲いてあった青い花を摘んだ。ふたつ摘んで、一つをコノハ助教に差し出す。

「遺伝学的には、こっちの生物をあっちに持っていくのはあまりよくないんだが、これはあっちにもある種だ、それに、どうせこちらにはノーチラス島から生物が送り込まれている。構わないさ」

 コノハ助教はちょっと不思議そうにしていたが、すぐにはにかんだように笑う。

「いいのかい?じゃあ遠慮なくいただくよ」

 彼女は小さなハサミでその青い花を受け取って、じっと見つめた。

「なあ君、あっちに戻ったら———」

 言いかけた彼女を制止する。

「それ以上は言わない方がいい。不吉だ」

「そうなのかい?」

「フラグというやつさ。カレハ助教はよく知っていると思う」

「ふうん」

「あっちに戻ったら、それ系の作品を観ようか」

「わかったが、君のそれもフラグじゃないのかい?」

「あ」

 コノハ助教は、ふふっ、と笑って、その青い花をアルザス衣装の胸に挿した。

「じゃあ、行こうか、君」

 コノハ助教は軽く敬礼をした。

 私も敬礼の真似事で返し、機体に乗り込んで、ハッチを閉める。もうひとつの青い花をコクピットの計器の間に挟み、ヘッドセットを装着した。

「離陸する」

「そういえば」コノハ助教の声がヘッドセットから聞こえた。

「この機体、名前はなんていうんだ?」

「知らない」

「名無しじゃ可哀想だ、つけてやったら?」

 私は飛行モードにしてスロットルレバーを操作した。機体が背面から青い光芒を発し、ゆっくりと離陸する。

 機体の名前か、いきなり言われても思い浮かばない。おそらくこいつの基になったのはフェルドランスだ、その名の由来は南米の毒蛇。それに近いのがいいだろうか?

「いや、君たちの仲間だから、そうだな、フクラスズメにしよう」

「なんだそれ?」

「忘れられないガの一種だ、幼虫が凄いインパクトがある」

「またそれか」

 そして、アケビコノハとクヌギカレハを乗せて、フクラスズメは離陸した。

 樹冠の上に出る。目の前に密林が海原のように広がっていた。

 森の上すれすれを飛んで、光源の真下に移動する。私の目には空全体が光って見えて、何処がどこだかわからないが、コノハ助教は光量の微妙な違いを判別できる。私は彼女の指示に従って飛行した。私の頭上に白い光を放つ天井と、その中に睡蓮のように散らばる黒い皿が見えた。その間を白い粒のような物が無数に飛んでいる。天使だ。本物の天使じゃないから、あれにも名前が必要かもしれない、

 光源からの反応はまだ、ない。

「君、そろそろだ」

 コノハ助教が言った。

 私は見た。上空には白い光。あの向こうにノーチラス島がある。

「了解、この場所で待機、水煙が見えたらそれを目指して上昇する。なるべく戦闘はしたくない。かなり速度が出ると思うから振り落とされないようにしてくれ」

「わかってるよ」

 コノハ助教は片膝立ちになって、両手のハサミで機体のマニピュレーターをしっかり掴んでいる。マニピューレーターの位置を低めにしているので、何だかスタート前の陸上選手のようだ。

「・・・・・見えた」

 コノハ助教が言った。私より一瞬早い、私にも見えた。

 頭上の天井の一点から水煙がぶわっと広がっていた。

「行くぞ!」

 私はスロットルを全開にする。

 機体の後方から青い光芒が閃き、弦を放れた矢のようにフクラスズメが上昇した。

 私の視界で、黒い皿の群がぐんぐん近づいてくる。対気速度計の表示がめまぐるしく変わっていく。

 私の視界で水煙が大きくなる。白い雲に迫っていくみたいだ。

 あと少しだ、あの向こうにノーチラス島が。

 フクラスズメは黒い円盤がある高度に到達。ひとつ、ふたつ、と円盤が機体の横を通り過ぎる。

 天井が近づいてきた。

 あと数秒で突入できる。水煙は天井にぽっかり空いた黒い穴のようなところから出ていた。あの穴が、リール・ド・ラビームの深淵に繋がっているのだ。

 操縦桿を操作、黒い穴をロックオン、それに向けて加速する。

 これは、思ったより上手くいっているかも、私は一瞬、そう思った。

 その時、機体のアラームがけたたましく鳴り、同時に、「がっ!」という悲鳴のような声が聞こえた。

 私はコノハ助教の身体が仰け反り、ふわっと機体から離れていくのを見た。彼女の手が折れたように曲がっている。

 彼女にあげた青い花が蒼穹に散っていくのが見えた。

 次の瞬間、機体にがんっ、と衝撃があった。

 私の視界の隅で、黒い皿に乗った天使が、ぶん、と手を振るのが見えた。次の刹那、機体に衝撃が走る。

 投石だ、奴ら、道具を使うのか?天使が足状突起をしっかりと黒い物体に突き刺していた。あの足、ああして姿勢安定に使うのか!

 アラームが鳴り響く中、私は機体を反転させる。チラリと天井を見た。白煙はまだそこにある。私の眼下でコノハ助教がまさに木の葉のように落下していた。私は全速でフクラスズメを急降下させ、彼女の下に回り込む。機体を引き起こした途端、すたっ、と少女が機体に着地した。

「ごめん、油断したよ」

 コノハ助教が申し訳なさそうに言った。

「仕方ない、あんな攻撃をしてくるとは」

 私は彼女の方を見て、衝撃を受けた。コノハ助教の肘から少し先辺りがひん曲がっている。

「大丈夫か、手が!」

「一応、頭への直撃は躱した。大丈夫さ」

 コノハ助教がキッと前を睨む。

「前を見ろ、来るぞ」

 上を向いた機体のキャノピーから、無数の白い物体が見えた。その姿に私は海に高速ダイブするカツオドリの群を連想する。

「突っ込んでくる!」

「このまま行け!私が何とかする」

 私は機体を上昇させる。急がないとあの現象が終わってしまう。

 私は天使の群の中に突っ込んだ。周囲から一斉に天使が襲ってくる。その瞬間、コノハ助教が跳躍した。空中で一匹の天使の頭部を蹴り上げると、その勢いで更に跳躍し、機体の上に来ていた天使に剣のような足を突き刺す。そしてまた跳躍、空中でクルクルと回転して、彼女は機体に着地した。機体の背後で二匹の天使が落下していく。

 凄い、私は黒衣の少女の洗練された動きに驚嘆していた。

 私はスロットルを開いて更に上昇。しかし、天使も追随してくる。真横から天使の長い首が伸びてきて、耳まで裂けた口がガッとコノハ助教の腕に噛みついた。まずい、これではまた彼女が引き剥がされる。私が思った刹那、更に数匹の天使が次々にコノハ助教の手足に噛みついた。

「コノハ助教!」

 まるで烏の群に襲われるカエルのように四肢を天使についばまれた彼女が、機体から離れる。まずい、攫われたのか!だが、彼女は自分から跳躍したように見えた。するとコノハ助教の周囲で何かが光る。立て続けに小さな爆発音がした。

 私は機体を急旋回させ、爆発音がした場所の下に回り込む。次の瞬間、すたっ、と機体に何かが降りた。コノハ助教が帰ってきたのか。視界の隅で黒いアルザス衣装がはためいて見えた。帰ってきた、よかった。しかし次の瞬間、私は愕然とした。彼女の両手と片足が無くなっている。

 彼女は一本だけ残された足で、案山子のように機体の上に立っていた。

「コノハ助教!」

 私は叫んだ。その時、機体の横を三体の天使が落下していく。何があった?もしかしてさっきの爆発音は?

 私は見た。落ちていく天使の脳天に、コノハ助教の腕が突き刺さっている。

「遠隔攻撃は淑女の嗜みさ」

 コノハ助教の声がマイクから聞こえた。かなり消耗している。

「コノハ助教、手足が!」

「自分で切った。ちゃんと自切面で切れてるから再生する、でも、ごめん・・・・、時間切れだ」

 私は彼女の言葉に上を向く。

 既に水煙は消えていた。

 遅かったか!

 周囲からまた天使が襲ってきた。

「まずい、下に戻るぞ!」

「待て!」彼女が叫んだ。

「何か聞こえる、あっちだ!」

 彼女は指さした、つもりだったのだろう。しかし両手がないのでどっちかわからない。

「右だ!」

 彼女は言葉で言った。

「水が落ちている、あそこだ!」

 私も見た。光を放つ天井から、水が一筋、まるで蛇口から出る水道水のように落ちている。そちらに機体を向けると、計器の一つが反応して電子音が鳴った。いつの間にか、ヘッドアップディスプレイの照準レティクルにその水の筋がロックオンされている。

 私はそちらに機体を向けた。機体のアラームが鳴る。後ろだ、フクラスズメの直ぐ後ろに天使がいた。コノハ助教を狙っている。

 私は咄嗟に、キャノピーを開けた。

「こっちに、早く!」

 コノハ助教は一本足で機体を蹴り、空中で一回転すると、そのままふわっと操縦席に舞い込んでくる。私がお姫様だっこの要領で彼女を受け止めた刹那、彼女は残っていた足を天使に向けた。

 爆発音がした。コノハ助教の足が膝の少し上から切り離され、銛のように飛んで天使の頭部に突き刺さった。

 天使は仰け反り、そのまま落ちていく。

 私はキャノピーを閉じた。背後を確認、また数体の天使が迫っている。私はスロットルを全開にした。目の前で水が小さな瀧のように落ちている。そこには黒い穴のような物が見えた。

「あそこです、御館様」

 手足がなくなったお陰でコクピット内に無事収まった少女は、いつの間にか、カレハ助教になっている。どうして彼女が?コノハ助教はどうした、大丈夫か、もしかしてさっきの攻撃で———。

 考える間も無く、黒い穴が迫る。

 あの黒い穴が入口なのか?機体を突っ込ませていいのか?コノハ助教は無事なのか?

 様々な考えに脳が錯乱した状態で、私はそこに突入した。


 私の目の前が真っ暗になる。

 機体はまだ高速で動いていた。一瞬、恐怖に全身がすくみ上がるが、ディスプレイの正面で進路がロックオンされている。私はそれに従うようにフクラスズメを操作した。

 数秒間、暗闇の中を進む。緊張が極限に達したところで、ディスプレイに「エンジン停止せよ」の警告が出た。私は反射的にスロットルを下げ、エンジンを停止させる。次の瞬間、機体全体に重い衝撃が走り、コクピットの前が濃紺の世界に変わった。操縦桿が重い。周りが高密度の物質で満たされている。

 機体が自動的に水中モードに変わったことで気づく。ここは、水中だ。

 速度はがくんと落ちたが、フクラスズメは水の中を上昇した。10秒足らずで、機首が水面を切り裂き、機体が半分くらい水上に躍り出る。急浮上したクジラのように上を向いていた機首が水平に戻りながら、着水。コクピットハッチの両側を水が流れ落ちる。

 浮上した。

 だが私はそのままの姿勢で動くことができない。右手はきつく操縦桿を握り締めていて、思い切り歯を食いしばっていた。

 しばらくしてようやく、私はため込んでいた息を吐いた。

 透明なキャノピー越しに周囲を見る。

 フクラスズメの喫水線は水面に対して高めに設定されているらしく、操縦席がある部分の半分以上が水面上にあった。灯りがあれば周囲はよく見えるはずだ。

 だが暗くてよく見えない。しかし、視界の隅にぼうっと灯りが見えた。それが水面に映って揺らめいている。

 頭上は真っ暗だ。ということは、ここは、地底湖かなにかなのだろうか?

「カレハ助教、着いた」

 私の身体に、アルザス衣装を来た人形のようにカレハ助教がもたれかかっている。手足を全て失っているので、本当に人形のようだった。

「どこかはわからないが・・・」

 しかし彼女から反応はない。

 見ると、彼女は目を閉じて、すー、すー、と寝息のような音を立てていた。

 コノハ助教に続いてカレハ助教も意識を失ったのか。

 先ほどの凄まじい戦闘が頭をよぎる。

 生きてここにいるのが不思議なくらいだった。彼女達がいなければ死んでいただろう。

 でも、彼女達は大丈夫なのか?前に、片方が眠っても片方が起きているから大丈夫と言っていたではないか。でも今は、カレハ助教が眠っていてもコノハ助教が出てきていない。ということは・・・・。

 最悪の想像が頭をよぎる。彼女は自切したと言っていた。確かにエビやカニといった甲殻類には自切するための場所があり、自分の意思で切り離すことができる。そうすればいずれ完全な手足が再生される。しかし、自切にはかなりエネルギーを消費するはずだ。しかも、通常の自切では、複数ある手足のうち一本だけを切り落とすのが普通だ。彼女は四肢全てを自切させている。

「カレハ助教、コノハ助教でもいいから」

 私は再び呼びかけた。しかし彼女たちは人形のように黙ったままだ。

 私の中で不安が否応にも増していく。

 このままではいけない。私はとにかく灯りの方に向かうことにした。フクラスズメはまだ水中移動モードのままだったので、そのまま操縦桿とペダルを操作する。背後で水音がした。見ると、背中の羽根がボートのオールのように動いて水をかいている。水中ではこうして移動するのか。

 機体はゆっくりと方向を変え、灯りの方に向かって進み出した。

 その間に私は機体に備え付けられているライトを点灯させ、動かして周囲を探る。そこはどうやら地下にできた空間のようだ。天井は比較的高く、周囲は岩の壁だった。水音がするのでそちらを照らすと、壁から水が勢いよく流れ落ちていた。

 灯りの近くに着くと、そこはこの空間の端で、平坦な陸地になっているようだった。小さな桟橋があり、その奥にやはり小さな建物がある。灯りは岸辺に建てられた外灯と建物の窓から漏れていた。

 私はコクピットハッチを開いた。

 シートから立ち上がる。あの空間から持ち帰った青い花が計器の間に挟まっていた。それを手に取って、アルザス衣装の少女を抱えて機体から出る。

 桟橋に立って周囲を見回すが、誰もいる気配がない。

 私は慎重に、建物の方に歩いていった。

 建物はアルザス風の小さな家であった。どことなく博物館の横にある館長の家に似ている気がする。

 私は慎重にそこに近づき、古びた木製のドアをノックした。

「どうぞ」

 中から声が聞こえた。私は警戒しながらドアを開ける。

 そこは仕事場のようになっていて、書類や様々な器具が整然と並べられている。その奥に小さな仕事机があって、その椅子に小柄な人物が座っていた。その人物がこちらを振り向く。

「やあ、おかえり」

 そこにいたのは、黒い服を着た少年であった。

「とりあえず彼女はそこに寝かせてくれ」

 少年は部屋の隅にあるベッドを指さした。

 私はそこで気づく。彼は、あの時の怪人物だ。コノハ助教を作り、彼女を私に託した人物。これまで私が出会った人々と深い関係があった人物だ。

 館長が言っていた名前は、確か。

「アーベル、君」

 私が言うと、彼は「おや、知っているのか」と首をかしげた。

「館長から聞いた」

「ぼくのことを彼女に話した?」

「いいや、私は何も言っていない。彼女が気づいたんだ、よろしく伝えてくれと言っていた」

「ふうん」

 少年は少し遠くを見るような目をした。

「まあいいや、おつかれさん」

 少年は素っ気ない感じで言った。

「彼女は?」

 私は問いかける。

「コノハ助教は、無事なのか?」

 少年はちらりと彼女を見た。

「ずいぶん無理をしたようだね」

「ああ、こっちに戻るために・・・・」

「正直、彼女がここまでやるとは思わなかった」

「それについて、申し訳ないと思っている」

「ん、どういうことかな」

「彼女は、君が護りたい人々を守護するために、私に遣わされた者だ。だが、今回の件では関係のない私のためにこんなことになってしまって・・・・」

「結果的にはそうだが、それも彼女の意思だ」

「彼女は、大丈夫なのか?」私は再び尋ねる。

「まあ、彼女次第かな」

 少年は冷たいとも取れる口調で言った。少し違和感を覚える。彼は彼女を助けるためにフクラスズメを送り込んできたのではないのか?

「あの機体は、君が送ってきたのだろう?」

「そうだ」

「彼女を救出するために?」

「まあそうなるかな」

 何となく、のらりくらりと躱されているような気がした。

「此処は何処だ?ノーチラス島だよな」

「そうだよ、リール・ド・ラビームの地下だ。君たちの博物館の後ろにある崖の地下。深さはだいたい30メートルくらいかな。地底湖だよ。水が流れ込んでいるのを見ただろう?ノーチラス島の河川が地下水脈になって、此処に流れ込んでいる。その水は君がさっき通ってきたルートで、恒常的にあの場所に供給されているんだ」

「あの地下空間に?」

 少年は頷いた。

「ということは、ここは常にあの世界への通路が開いているのか?」

「そうだよ、君たちは苦労してあっちへ行く方法を見つけたようだが、ここからなら直ぐ行ける」

「じゃあ、向こうの生き物もこっちに来られるのか?じゃあどうしてこれまで」

 ノーチラス島で発見されなかったのか、と尋ねようとして、私は思い当たった。此処は地底湖だ。地上への道が封鎖されている。ならば、此処に迷い込んだ生き物がいても、地上には出られない。

「まあそういうことだよ」私の思考を読んだように少年が言う。

「後でよく見てみるといい、此処に迷い込んだあいつらの残骸が、少しだが残っている」

「じゃあやはり、此処は地上には繋がっていないんだな、では君はどうやってここに来た?」

「地上には繋がっているよ、ぼくが作った細い通路でね。普段は鍵をかけているが、リール・ド・ラビームの温室の中に出られるよ」

「え、そうなのか、そんな入口、気づかなかったぞ」

「奥にある茂みの裏だからね、なかなか気づかないさ」

「じゃあ君はいつもここにいたのか、ここに、あの博物館の直ぐ下に」

「いつもじゃない。ここはぼくの仮の宿の一つだ。たまに来るくらいだよ」

「ではここから帰れるんだな、あの博物館に」

「ああ、君は帰ったらいいよ、ぼくは彼女の様子を見ておくから」

「いや、そうはいかない」

 私はコノハ助教のことが気になっていた。このままここに彼女を置いて戻るわけにはいかない。

「でも、君がいても何にもならないよ」

 少年は少し迷惑そうな顔をした。

「彼女を作ったのはぼくだ、悪いようにはしない。君の方は早く戻った方がいいんじゃないか、あまり彼女らを心配させておくのもどうかと思うんだが」

 私はその言葉で、博物館にいる人々の顔が浮かんだ。今も彼らは私たちのことを心配し続けているだろう。

「・・・・・わかった、私は戻る。でも、どうか、どうかコノハ助教のことをよろしく頼む、私の恩人なんだ、恩を返す前にいなくなられたら困るんだ、本当に」

「ああ、わかってるさ」

 そう言うと少年は私を追い払うように手を振った。

「早く行きたまえ」

 そして小さな鍵を投げてよこす。

「開けたら閉めといてくれよ。じゃあまた」

 私は鍵を受け取り、後ろ髪を引かれる思いでそこを後にした。いや、

 部屋を出て行こうとしたところで立ち止まり、振り返る。

 私はコノハ助教とカレハ助教を宿したアルザス衣装の少女のところに戻って、あの世界から持ち帰った青い花を彼女の胸に乗せた。

 彼女にあげた分は戦闘中に散ってしまった。だからこれは改めて、せめてもの感謝の印である。

 私はドアを開け、家の外に出た。建物の直ぐ脇に石の階段があったので、それを登る。

 階段は地底湖の壁に空いた洞窟に続き、その洞窟は上に伸びていた。上に続く階段には数メートルおきくらいに灯りが付けられているので、階段には点々と光の水たまりができている。

 かなり登ったところで、正面に小さな木のドアが見えた。少年からもらった鍵でそれを開く。真鍮のノブを回すとガチャッと音がして、ドアが開いた。

 私は身体をかがめてそれをくぐる。

 ドアは岩の窪みの中に開いていた。

 身体を折り曲げて窪みを抜けると、すぐ前にローズマリーの茂みがある。私がそれをかき分けると、前が開けた。

 そこは、ガラス温室の中であった。かなり奥まったところなので、ガラスの壁はずっと向こうにある。

 ガラス壁の向こうは真っ暗だ。私は腕時計で時刻を確認する。午後10時前。あの現象が起きたのがおそらく9時半頃のはずなので、そんなものだろう。

 ということは、此処にはまだ皆が残っているかもしれない。

 私は温室の回廊に出て、博物館の方に歩いて行こうとした。

 すると、博物館に向かう通路に誰かが立っているのが見えた。

 白衣を着て、袋型の変なマスクをかぶった人物であった。

 カハール博士が何気なくこちらを向き、私と目が合った。

「やあ、クリス」

 私は片手をあげて挨拶したが、何となく違和感を覚えた。何だか少しクラクラする。

 ごめん、天使の脳は持ってこられなかった、と言おうとしたが、言葉にならない。これまで体験したことがない脱力感がした。彼女の姿を見て安心したのかもしれない。

 カハール博士はしばらく無言であった。そのマスクのせいで表情が全くわからない。やがて、カハール博士はがばっとマスクを外した。

「師匠!」

 涙で顔を一杯にしたクリスが駆け寄ってくる。その姿を見て、私はもう何年も前に、学会で嬉しそうに話をしていた大学院生の姿を思い出した。

 視界の中でクリスの姿がユラユラと揺れる。

 これまでの緊張が解けたのか、立っていられない。

 いや、でもそんなことでこんな状態になるだろうか?

 私は激しい眩暈を感じた。そして、あの世界で何か厄介な感染症にかかったのではないかと気づく。

 何だか厄介なものを持ち帰ったかも、クリス、ごめん。

 私はその場に倒れた。


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