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ノーチラスノートII  作者: 蓬莱 葵
5/13

第5部

 

 その日の夕方、探査用機器があらかた運び込まれた。

 ヒューベル博士が用意してくれる散水車以外は、全ての機器が予定通りの場所に収まっている。

 それらの最終チェックを終えたキャンベル教授が、青い内海を見ていた。教授の視線の先に、ひときわ青い穴が見える。これから我々が調べることになる深淵だ。キャンベル教授はもう10年以上も、惑星考古学の先駆者として野心的に研究に取り組んできた。だが、巨大な縦孔の調査を始めた矢先に、先の「ノーチラス事変」で重傷を負い、肝心の探査に参加できなかった。忸怩たる思いであっただろう。もしかしたら、教授にとって此処の調査は前回のリベンジという意味もあるかもしれない。

「どうですか、この深淵は?何かあると思いますか?」

 私は教授の背中に語りかけた。教授は振り返った。

「ああ、面白いね。自然にできたとは思えない地形だ。きっと何かあるだろうな」

 私はその言葉で、先日の夜の出来事を思い出し、少し寒気がした。

 そういえば、前に此処にいた調査隊が消息を絶ったのが9年前のことだ。その頃、この教授はすでにこの島に来ていたはず。

 もしかしたら当時のことを知っているかもと思い、私は教授に尋ねた。

「9年前にあそこを調べた調査隊がいたそうですが、教授は覚えておられますか?」

「ああ、そんなことがあったな」

 記憶を辿るように教授は言った。

「結局,正式な記録には残らなかったようだが」

「そうみたいですね。生き残りがいたという噂話は聞きましたが」

「そうだな、そんなことがあったな」

 私は教授の言葉が少し引っかかった。

「それは、どういうことですか?本当の話なのでしょうか?失踪事件に関連してついた尾ヒレのような話かと思っていたのですが」

「ああ、今ではすっかり怪談だな。娘もそんな話をしていた」

「怪談ではないとおっしゃるのですか?」

「ああ。実は、生き残りと称する人物に会ったことがある」

「え、そうなんですか?」

「だが、私もその人物が『生き残り』だったかどうか、確証が無い。なにせ錯乱状態だったからな」

 教授から飛び出した予想外の話に、私は身を乗り出した。

「その辺の経緯を教えてもらってもいいでしょうか?」

「ああ、構わんよ」

「では、中に入りましょうか」

 私は教授を連れて、博物館のカフェに入った。いつの間に移動したのか、コノハ助教がメニュー板を抱えて立っている。だがちょうどいい。彼女にも聞いておいてもらおう。


「彼らがどんな調査をしていたのかはわからない」

 カフェの席に着くと、教授は話し始めた。

「その人物の証言は要領を得なくてね。かなり錯乱していたんだ。話を聞くうちに、どうやらあの深淵に深海探査艇で潜ったらしいことがわかった。君が調べたことを考え合わせると、おそらく嵐の夜だったのだろう。いざ現象が起こったらいつでも潜れるように準備をしていたのかもしれない。とにかく、彼らはあそこを潜水調査したのだ。私が話を聞いた男は、探査艇に乗り込んでいた。そして、彼の目の前で、何かが起きた」

「何か、とは?」

「わからない。ここから先の話になると、彼は完全な錯乱状態になった。深淵の最深部でいきなり目の前が開けて、別の世界が見えて、そこにいたというんだ、その、『天使』が」

 天使のくだりはコートニーも言っていたな、と私は思った。

「天使、とは何ですか?」

「わからない。まさか本当に天使がいたわけじゃないだろう、あんな海の底に」

「天使に似たある種の生物、ということですか?」

「それだけなら、あんなに錯乱はしない。きっと何かがあったんだ。精神に強烈な負荷を強いるような、何かがね」

 教授はここで一息ついて、言い足す。

「もちろん、全てがあの人物の妄想という可能性もある。むしろその可能性のほうが大きい。調査をした保安局の担当者もそう結論づけたんだから」

「教授はいつ、その人から話を聞いたのですか?」

「彼が入院しているときだよ。惑星考古学を専門にしている以上、聞いておいた方がいいと思ってね。でも結局、表には出なかったよ。確かに証言は得られたが、それを裏付ける証拠となるものが残っていなかった。彼を除いて、そこにいた全員が失踪していたのだ。まるで何かに吸い込まれたように」

 私は海が啼いたあの夜に感じた不気味な雰囲気を思い出した。海がぼうっと光っていて、まるでそこに引きずり込まれるような気がした。あれは何だったのか?錯乱したという研究者、そして失踪した調査隊が見たものとは、一体何だったのだろうか?

「・・・・教授は、集団失踪の原因は何だとお考えですか?」

「君から『海が啼く』話を聞くまでは、調査員たちは妄想にとりつかれた結果、集団で入水自殺でもしたのだろうと思っていた。この島は精神に負荷をかける気象条件になることがあるし、孤立した集団では得てしてそうした妄想が蔓延するものだ。そしてもし海に入ったら、島は動いているのだ、船から海に落ちたようなもので、現場はどんどん遠ざかっていく。痕跡は見つからないよ。だが」

 教授は一呼吸おいて、続けた。

「今となっては、本当に何かの現象が起きたのではないかと思う。あの深淵の底に何かがあるのだ。さすがに天使はいないだろうが」

 私はコノハ助教をちらっと見た。彼女はさっきと同じ姿勢で、亡霊のようにカフェに立っている。その白い顔がどこか天使を連想させ、私は少しゾッとした。


 その日の午後、私はコノハ助教に言われたようにアルケロン市に赴いた。コノハ助教はしばらく前にリール・ド・ラビームから姿を消している。すでに街の何処かにいるのだろう。

 さて、何処にいるのか?そして、どのようにして群衆に紛れているのだろうか?

 指定された通りに来た。アルケロン市でも有数の華やかな通りである。石畳の道の両側に様々な店舗が並んでいる。煌びやかなショーウィンドウに並ぶ品々を覗きながら、私は通りを巡った。

 しかし、コノハ助教の姿はない。いや、あんな甲殻類人形のような姿でいたら大騒ぎになるので、さすがにいつもの格好ではいないだろう。前みたいに建物の隙間にクモみたいに張り付いているとも思えない。今回は人々の中に紛れ込んでいるはずだ。

 情けないことに、30分たっても私は彼女を見つけられなかった。店の中にも入ってみたが、特に変わった客がいる様子はない。本当にいるのだろうか?もしかして完全に透明になったか?私の目を欺けるほどに?

 私は雑踏の中で立ち尽くしていた。

 ぼんやりと行き交う人々を見る。賑やかな通りだ。調査隊のような風体の一団がいるかと思えば、夕食の材料を買いに来たような人々もいる。中等部や初等部の生徒も歩いていた。ここが地の果てとは思えない。確かに最新のITネットワークからは切り離されているが、ここにいる人達は不自由なく暮らしているように見えた。この島に長くいるとそんな感じになるのだろうか?気がつけば、私もこの島での生活に全く違和感を感じていない。日本にいたのが遠い遠い昔のことみたいだ。

 一時間が過ぎた。残念ながら時間切れだ。コノハ助教め、もし本当にここにいるなら大したものだ。

 賭に負けたので、特に何もすることが無くなった。私はぼんやりと辺りを見ていた。すると、街の各所にある自動切符売り場で何やらわたわたと困ったような動作をしている人がいた。最近できた鉄道に乗るには、こうして切符を買わねばならない。ちなみに値段はかなり安い。あのトロッコ列車であれば当然だろう。

 その人物は、レプティリカ大学付属中等部の制服を着ていた。だがその割に背が高く、高等部くらいに見える。彼女はコインを販売機に入れようとする姿勢のまま、固まっていた。どうしたというのだろう。コインや紙幣は地球ではあまり見かけなくなったが、この島では電子機器の不調が頻発するため、現金決済が普通である。だからこの島にやってくる人は最初に戸惑うことが多い。しかしまさか島に来る最終便が着いてから一ヶ月以上が経過した今の時期に、コインの使い方がわからないということはあるまい。ということは、切符代のコインまで節約しなければならないくらいお金がないのだろうか?

 私は特にすることがなかったので、その女子生徒のところに行った。

 私は切符を余分に持っていたので、一枚くらい格安で売ってもいいと思い、声をかけた。

「どちらまで行かれますか?」

「あ」

 金髪に水色の瞳をしたその女子生徒はびっくりしたような顔をした。片目に黒い眼帯をしている。

「よければ切符を売ってさしあげますが」

「あ、どうも、ありがとうございます。いえ、けっこうです」

 緊張したように言うと、眼帯をしたその女子生徒は私をまじまじと見て、「あの」と口を開いた。

「はい?」私は答える。何処かで会ったことがあるかな、と私は思ったが、心当たりがない。

 その女子生徒はじっと私を見た後で、おずおずと口を開いた。

「あの、失礼ですが」

「はい?」

「いつもコートニーさんと一緒にいる方ですか?」

 驚いた。この子はコートニーの知り合いらしい。でもよく考えたら、中等部の制服を着ている時点で気づくべきだった。この島に学生はそれほど多くない。中等部の生徒は皆顔見知りであろう。コートニーよりも背が高いので、先輩だろうか?そんなことを考えながら私は彼女の問いに答えた。

「あ、そうですね、彼女にはいろいろ協力してもらっています」

 コートニーは私のことを不審者みたいだと言っていた。もしかしたらこの少女にもそう思われているかもしれない。だとしたらこんなところで声をかけるべきではなかったかもしれない。

「では私はこれで」だから私は踵を返した。しかし、

「あの」その女子生徒はまだ何かあるらしく、私を呼び止めた。

「・・・・・どうしました?」

「あの、どう思いますか?」

「どう、とは?何のことでしょう?・・・あ、コートニーさんのことでしょうか?」

「え?」

 女子生徒は戸惑っている。この年代の子と話す機会がこれまであまりないので、何を聞かれているのか予想がつかない。

 私が黙っていると、彼女はためらいがちに言った。

「・・・・あ、はい、そうです」

「いい人だと思いますけど」

「そう、ですね・・・・。それで、あの」

 その女子生徒はまだ何か聞きたいのだろうか?コートニーと仲良くなりたくて、彼女のことを知りたがっているのか?

「コートニーさんに何か伝えておきましょうか?」

「い、いえ」彼女は首を振った。よくわからない。何が望みなのだろう?

 もしかして、やはり切符が必要なのか?

「切符がいるんじゃないの?これでよければあげるよ」

 私は手持ちの切符を差し出した。大した額ではないので、あげても問題ない。

「え、あ、はい、どうも」

 女子生徒はおっかなびっくりな様子で、手を差し出す。私は女性の手に直接触れると嫌がられると思い、彼女の手のひらに乗せる直前で切符を手離した。すると切符がはらりと地面に落ちる。まさか、受け取れなかったのか?

「あ、失礼」私は切符を拾い上げて、今度は彼女の手のひらに確実に置いた。

 その時、彼女の手がふるふると震えていることに気づく。もしかして、緊張させてしまったか?

「では私はこれで」

 彼女に不愉快な思いをさせるつもりは無かったので、私は足早にその場を立ち去った。しばらく歩いてふと振り返ると、その女子生徒はまだ券売機のところにいて、こちらを見ていた。


 その日の夕刻、リール・ド・ラビームに戻った私は、まだ父親と一緒に作業をしていたコートニーに話しかけた。

「今日、街で君の先輩らしき人に会ったんだけど」

「え?誰かな?どんな人でした?」

 私は先ほど会った女子生徒の特徴を伝えた。

「眼帯をしていた?知らないなぁ」

 コートニーは怪訝そうな顔をした。

「でも、君のことを知っていて、どんな人なのか聞かれた」

「心当たりがないですね、名前は聞きました?」

「いいや」

「もしかして先生・・・・」

 コートニーは探るような目つきで私を見た。またおかしくなったと思われたのだろうか?彼女にそう思われるときつい。私は意気消沈してしまう。

「先生、気をつけた方がいい」

 だが、コートニーは父親に気づかれないようにして、真顔で言った。

「先生はあの人に選ばれている。不可解なことがあったとしたら、あの人が関係しているかも」

 彼女が言う「あの人」とは、私にコノハ助教を差し向けたあの怪人物のことだ。確かにそうかもしれない。でも、今日出会った女子生徒は特に何もしてこなかった。あの人物が私にコンタクトを取ってきたとは考えにくい。でも、あの人物のことだ。こちらの常識とはかけ離れたやり方を取る可能性はある。

「あの人は絶対に悪い人ではないけど、けっこう無茶なことをしてくるから」

 コートニーは、少し険しいような、困ったような顔をしていた。

「何か思い当たることがあるの?」

「私の時はけっこうひどかったよ。銃とか手榴弾とかを渡されて、無理矢理冒険させられた」

「それは気の毒に」

「とにかく先生、気をつけてね」

 ちょうどその時、キャンベル教授の仕事が終わったので、彼女は父親の方に走っていった。小さく手を振って、彼女は帰宅する。


 その日の夜、博物館のカフェで、コノハ助教は勝ち誇ったような顔をしていた。もちろん表情はわからない。でも絶対にそうだ。

「ふふ〜ん、惨敗だったようだね」

「ああ、ダメだった。さっぱりわからなかったよ」

「君の困った顔は見物だった」

「何処かで見ていたのか?」

「見ていたさ。あんな面白いことを見逃すはずがないだろう」

「どこにいたんだ?もしかして透明になっていたのか?」

「いいや」

 コノハ助教は首を振る。

「普通に見えるようにしていたさ」

「わからない、一体どうやって紛れていた?」

「ふふん」コノハ助教は意地悪くはぐらかす。この感じ、クリスみたいだ。優秀な女性は収斂進化みたいに同じような言動をとるようになるということか?

 いや、そんなことはないな。

「じゃあ、もう一回やってみるかい?」

 コノハ助教は挑戦的に言った。ついでに両手の鋏をカチカチいわせた。

「また同じ条件でか?」

「そうだよお〜」

 からかうような口調である。よほど自信があるのだろう。

「わかった」

 ちょうど機材の搬入が終わり、明日は何もすることがない。明後日にはヒューベル博士が散水機を用意してくれることになっている。そうしたらいよいよ調査開始だ。言い換えれば、私が自由に行動できるのは明日だけ。これが最後のチャンスということになる。


 そして翌日、私はまた街に出た。時刻は昨日と同じくらい。昨日と同じく通りを歩き、店のショーウインドウを覗いていく。

 30分くらいウロウロしたが、やはり、わからない。通りを行き交う人々は皆自然に見えるし、奇妙な風体の者や変な動きをする者は見当たらない。

 さらに10分くらいして、いい加減諦めかけた頃、私は背後に気配を感じた。

「あの、すみません」

 振り向くと、昨日の少女が立っていた。昨日と同じく黒い眼帯をしている。

 また会ってしまった。偶然だろうか?そう思っていると、彼女は財布からコインを取り出す。その動作が何だかぎこちない。何度もコインを掴み損ねていた。凄く緊張しているのか?

「これ、昨日の切符代です」彼女は震える手でコインを私に渡した。

「ああ、ご丁寧にどうも。これくらい、返してくれなくてもよかったのに」

「そうはまいりません」

 馬鹿に丁寧な口調で少女が言う。わざわざお金を返しに来るとは律儀な少女だ。今日も眼帯をしているが、目に怪我でもしているのだろうか?聞くのも失礼なので私はそのことには触れず、気になっていたことを尋ねた。

「君、コートニーさんの先輩か何か?」

「はい」

「でも、昨日、その、彼女に会ったんだけど・・・・」

「ああ、私のことを知らなかったですか?」

 私は頷いた。眼帯の少女は続ける。

「私はしばらく学校を休んでいたので、コートニーさんは知らないかもしれません」

 そうだったのか、でも、あれ、おかしいぞ、と私は思った。

「でも、じゃあどうして君は私がコートニーさんとよく会っていることを知っていたの?学校に来ていなかったのに」

「ああ、それは・・・・」そこまで言って、彼女はびしっ、とあらぬ方を指さした。

「あれ?」と彼女は戸惑い、慌てて、自分の眼帯を指さす。

「失礼しました、それは私がこの魔眼で見ていたからです」

「は?」

「この魔眼には恐るべき魔力が秘められています。こうして塞いでおかないと、魔力が、あ、漏れて・・・・・」

 彼女は眼帯を押さえて苦しむような仕草をした。

「ううっ、闇の力がッ・・・・解放されてしまう」

 この少女も、そうか。私はため息をついた。

 残念だ。至極真っ当に見えたのに。

 私は、この島にいる人はやはり皆どこかおかしい、と確信した。

「君、病院に行ってその魔力とやらを封印してもらいなさい」

 私は極めて冷静にアドバイスをして、「じゃ」といって踵を返した。

「待ってください」

 背後から呼び止める声がする。無視して歩き去ろうとしたが、放っておくのもどうかと思い、私は振り返った。

「私の言うことを信じていませんね」

 彼女はビシッと私を指さした、つもりかもしれないが、指先は全く別の方向を指している。

 わからない、この少女の行動は謎だ。

「失礼しました、信じていませんね!」彼女は何度か失敗しながらようやく私を指さした。

 私は彼女の意味不明の行動に戸惑いながら答える。

「う〜ん、とりあえずその魔眼とやらは信じられないかな」

「じゃあ、証明して見せましょう・・・・。う〜ん、う〜ん、あ、見えてきましたよう」その少女は水色の瞳で私を凝視しながら言う。しかし、眼帯はかけたままだ。

「とりあえず、眼帯を外さないと見えないんじゃないの、その魔眼」

「このくらいなら眼帯越しでイケます、う〜ん、はっ、見えました。あなたは、誰かを探していますね」

 お、当たった。でも私の行動をしばらく見ていたら,誰かを探していることくらい直ぐにわかるだろう。でも私はちょっと乗ってみることにした。

「お、当たっている。では、誰を探しているかわかるかな?」

「ちょっと待ってください、う〜ん、う〜ん、はっ、見えました!あなたが探しているのは・・・・・」そう言って、少女はぎこちない動きで両手で顔を覆い、下を向いた、

 そのまま動かない。私は状況がよくわからなくなって、彼女に少し近づいた。

「あの、君?」

「あなたが探している人は・・・・・」少女は顔を覆って下を向いたまま言う。

「こ〜んな顔じゃ、なかったですかぁ〜」

 彼女は顔を上げて両手を開いた。

 そこには、目も鼻も口もない、真っ白い顔があった。

 のっぺらぼうだ。私は心臓が止まりそうになる。しかし、悲鳴を上げる寸前で何とかこらえた。ここしばらく、白い面を見続けていたせいだろう。表情のない白い顔に耐性ができていたようだ。アレを経験していなければやばかった。気絶していたかもしれない。小泉八雲の怪談「むじな」の破壊力が凄まじいことがよくわかった。

「あ、あれ?」

 当ののっぺらぼうは、困惑していた。

「あ、あの、びっくりしませんでした?」

 のっぺらぼうだから口がないのに声は発している。これは経験済みだ。口以外の何処かから発声しているのだろう。

 私はこれまでの会話から、なんとなく察していた。この少女が、コノハ助教の擬態なのだ。しかしまさかこんなに人間そっくりになるとは。今はのっべらぼうだが。

「コノハ助教」私はのっぺらぼうに話しかける。

「大したものだ、全く気づかなかった。人間そっくりじゃないか」

「はあ、そうですか、恐縮です」

 のっぺらぼうは少ししょんぼりして答えた。私が気絶しなかったのが不本意らしい。

 しかし、少し変だ。コノハ助教と話し方が全く違う。声色も違う。本当にコノハ助教なのか?

「君、コノハ助教、だよな」

 のっぺらぼうは口がある辺りの位置に人差し指を当てて、「う〜ん」と考え込んだ。

「何と申しますか。今、この私の体を制御しているのは確かにあなたが知る『コノハ助教』です」

「では、君はコノハ助教ではないというのか?」

「う〜ん、何と言えばいいのでしょう?これまで、『コノハ助教』の体を制御していたのが、私です。あ、いえ、四つ足の時はあのひとが一人で制御できますけど、複雑な動きはダメなので、あのひと」

 よくわからない。全く理解できない。どういうことだ?これまで私と一緒にいたのはコノハ助教ではないのか?体を制御していた?どういうことなのだ?

「とにかく」私は言う。

「その顔を元に戻してくれ。通行人に見られたら厄介だ」

「はい」その少女が両手で顔を覆い、何やら不器用そうにクシャクシャしてから手を放すと、人の顔に戻っていた。眼帯も元通りだ。

「今の、どうやった?」

「顔部分の皮膚をずらして目鼻がない側を正面に持ってきただけですよ」

 ああ、あれだ、我々も子供時代にTシャツとか使ってやったやつだ。

「その眼帯には何か意味があるのか?」

「だから、魔眼を封じているのです」

「いや、そんなことないだろう」

「いいえ、あるのです。この魔眼が解放されるととんでもないことに」

 そういう設定にしているのか?何だかめんどくさい。でも、彼女の瞳の色は水色だ。コノハ助教と違う。ということは、やはり目の前の少女はコノハ助教とは別人か?そしてもしそうだとしたら・・・・。

「もしかして、『コノハ助教』になると瞳が赤に変わるのか?」

「そうですね。ちょっと待ってください」そう言って、少女がさっと片手を眼に当てて、離す。するとそれまで水色だった彼女の瞳が赤くなっていた。瞳孔のところは夜行性の動物のように縦長になっている。

「やあ」

 少女が言った。これは、コノハ助教だ。声色と話し方でわかる。人間態のコノハ助教がそこにいた。

「ははは、滑稽だね君ぃ」いきなりからかってくる。

「君の間抜け面がおかし過ぎて笑っちゃ・・・、あ、まって、まだ、ちょっと、あ」

 少女はまたさっと顔の前で手を振った。すると瞳の色が水色に戻っている。この少女になると、瞳孔が縦長でなくなる。なんというか、瞳全体が水色で、表情に乏しい感じだ。

「戻しました」

「あ、ああ」かなり強引な戻し方であった。もしかしたら仲が悪いのかもしれない。とりあえず、コノハ助教の中に二人いることがわかったので、私も先ほどの会話を続ける。

「髪の色も変えたのか?」

「ああ、これはウィッグです」

 そう言って、彼女が金髪の髪を外すと、見慣れた灰色の髪が現れた。

「その制服は?」

「コートニーさんにお店を教えてもらったので、そこで買いました」

「そうか、万が一のことを考えてコノハ助教に預けてたお金を使ったんだな」

 それから、私は気になっていたことを尋ねた。

「その体は?人間そっくりなんだが」

「これはですね」その少女は手のひらをぎこちなく開閉させながら言う。

「皆さんが言うスーツみたいなものです。この下では外骨格を人型に変えて実際の骨みたいにして、その上から着ているのです。皆さんも服を着るでしょう?それと同じです。ですから、ほら」

 彼女は顔に手を当てて何やらクシャクシャとした。手を離すと、のっぺらぼうになっていた。

「こ〜んなことができるのです」

「元に戻してくれ。それで、そんなものを何処で手に入れた?」

「知り合いの方からいただきました。いつもは博物館の私の部屋に置いてある木箱に入れてあります」

 そういえば、彼女の部屋には木箱がいくつかあった。そのうちの一つにコートニーが腰掛けていたのを覚えている。あの中にはこんな物が入っていたのか。

「あの人物か?君にそれを渡したのは」

「そうです」

「いつ?彼とは定期的に連絡を取っているのか?」

「定期的というわけではありませんが、時々」

「ほかにもあるのか?その『スーツ』は?」

「あります」

「他にどんなものが?」

「他のは、私にも使い道がわからないものばかりです。そのうちわかるようになると言われました」

 やはりあの怪人物が関わっていたか。私はコートニーの言葉を思い出す。せいぜい気をつけるとしよう。

 私にはまだ聞きたいことがある。とても重要な事だ。

「さっき、『体を制御』と言っていたが、あれはどういうことだ?」

「私たちの片方がこうして会話や食事を担当している間、もう片方は体の制御を行っています。私のほうが得意なので、いつもは私が制御役です。でも今回はコノハさん?が制御役をするとおっしゃったので、そうしました。でもこの体は関節が多いので、制御が大変みたいです。コノハさんの腕前では、歩く、とか、走る、程度の事しかできません」

「昨日から何だか動きがぎこちなかったのはそのせいか。じゃあ、昨日券売機の前で固まっていたのは・・・・」

「券売機の穴にコインが入れられなかったのです。コノハさんの技術で、あんな狭いところに入れられるわけがありません」

 これまでの会話から、私はだんだんわかってきた。

「つまり、私が話をしていた『コノハ助教』の中に、君がいた、つまり、コノハ助教は二重人格だったということだな」

「う〜ん、その言い方が適切かどうかわかりません。そもそも人格が一つだけしかないとはどういうことですか、それだと困りませんか?」

「どういうことだ?」

「片方が睡眠などで活動を停止している間はもう片方が覚醒している必要があります。そうしないと危険すぎます。もし身体制御中枢が一つだけだったら、危険に対応できません。え?もしかして?あなたの中には一人しかいないのですか?」

「一人だよ。それでも持て余しているのに、二人もいたら大変だ」

「え、じゃあ、夜に眠るときはどうしていますか?」

「眠ってるときは、眠っているよ」

「意識は、ないですか?」

「ないですね」

「では、もし仮に」少女は不思議そうに尋ねた。

「もし仮に私があなたを就寝中に襲撃したら、簡単に殺せてしまいますか?」

「う、うう」

 私は返事に窮した。まずいぞ。もしかしたら、よくわからない生命体に自分の弱点を暴露してしまったかもしれない。しかし、コノハ助教の運動能力なら、そんな手間をかけなくても、その気になればあっという間に私を殺せるだろう。

「ああ、殺せるね」だから私は開き直って答えた。

「不完全ですね」

 辛辣な言い方だ。人間とは違う知的生命にそう言われるとちょっと傷つく。しかし私は、ある生物学的事実に思い至った。

「いや、君、たしかに我々人類は眠っているときは無防備だ。だが我々の同胞である脊椎動物の中には、脳を片方ずつ眠らせることができる種がたくさんいる。鳥類や、クジラ類だ。彼らは半球睡眠といって、片側の脳半球を交互に眠らせることが可能だ。片方の脳が眠っていても、もう片方は起きている。そうすることで夜通し飛び続けたり泳ぎ続けることができるのだ。君たちの状況と似ているかもな」

「ああ、ちゃんとした種もいるのですね」

 地球産脊椎動物の名誉が少し挽回できたかもしれない。我々だって伊達に五億年かけて進化してきたわけでないのだ。

 だが、目の前の生物がやっていることは半球睡眠を遙かに凌駕している。完全に脳が二つあって、それぞれが個別の人格を持っているのだ。

「つまり、君とコノハ助教は二人で一つの体を制御している。それぞれ思考と運動に特化した役割をしていて、片方が表に出ている間はもう片方が体を制御する。そして、眠っている間は片方が常に目覚めて警戒している、そういうことだな」

 私の中で強烈な好奇心が沸き上がる。脳が二つだって?そんなの、中がどうなっているのか気になって仕方がない。クリスなら絶対解剖している。しかし、目の前の少女を見ると、私にはためらわれた。あの怪人物の作戦は見事だ。「木通このは」という呪いが私を踏み留まらせる。

 そう葛藤しているうちに、私は彼女たちに出会った頃のことを思い出した。話し方が何だかちぐはぐで、まるで複数の人格が存在しているようだった。

「最初の頃は、役割分担がうまくいっていなかったのか?」

「そうですね。体は私が制御していたんですけど、時々私も表に出てしまって」

「もしかして、『御意』とか言っていたのは君か?」

「ああ、そうですね、かっこいいですよね、御意」

「そんな話し方を何処で覚えたんだ?」

「う〜ん、小説とか、映画ですね。あの博物館にたくさんあったので。今でも読んだり観たりしてます。何か面白いのがあれば教えてください」

 目の前の少女は微笑んだ。

「じゃあ、ハルキゲニア・モード、つまり四つ足になったときにコノハ助教が『この形態なら一人で制御できる』と言っていたのは・・・・」

「ああ。あの形態は関節が少ないので、一人で動かせます。コノハさんがそうしている間、私は休んでいられるので楽です。もちろん、逆もできますよ。でも私は表に出るのが少し苦手で、たまにしか出ていませんでしたけど」

 これまでずっとコノハ助教が赤い瞳だったのはそういうことだな。コノハ助教が表に出ていて、この少女は裏方に回っていたわけだ。

「今日は君が表に出ることになったわけか」

「はい、コノハさんだと、瞳の色でバレてしまいますから」少女は微笑した。

「でも、表に出るのも楽しいですね、コノハさんは体の制御が下手くそなので、私はこれからもあまり出られないですけど」

 やはり、二人は仲が悪いのかもしれない。

 こうして話していて、私は目の前の少女に名前が無いことに気づく。これまでコノハ助教の中にもう一人いるなんて考えもしなかったから仕方ないが、名前は必要なのではないだろうか?

「君、名前はまだないの?」

「ああ、そういえばありませんね」少女は少し首をかしげた。

「どうしましょう?つけていただけますか?」

 私はしばし思案した。コノハ助教の名前は、私が無意識下で、「アケビコノハ」という蛾の名前からつけたものだ。ということは、同じように蛾の名前でいくか。アケビコノハは形が面白くて興味深い蛾である。同じく、私が子供時代から忘れられない蛾がいる。幼虫の形が強烈な種だ。

「では、『カレハ助教』ではどうだろう?」

「カレハ、ですか?」

 少女は、しばらく考え込んで、水色の瞳を輝かせた。

「いいですね、それ、御意、です」

 少女はアルザスの通りでくるりと一回転して、派手に躓いた。カレハ助教の言う通り、彼女の相方は身体操作が苦手らしい。


「聞いたよ、脳が一つしかないんだって?」

 からかうようにコノハ助教が言う。

「そんなんでこの先やっていけるのかね、大丈夫かね君ぃ」

 そんなので社会に出て大丈夫かね、みたいなノリで言わないでほしい。

 今、コノハ助教は私の前で夕食を食べている。彼女はナイフとフォークを器用に使ってパスタを口に運んだ。

「半球睡眠もできないんじゃ、先が思いやられるよ君いぃ」

 さっきから言いたい放題だ。「・・・・善処する」と私は答えた。

「あ、そうだ、彼女、名前を付けてもらったことを喜んでいたよ」

「そうか、ならよかった」

「とにかく、これでコートニー嬢からもらった靴が履けるようになった」

 コノハ助教は、赤い瞳と縦長の瞳孔を除けば、すっかり人間の姿になっている。今は編み上げブーツも履いていて、アルザスの衣装を着た少女が座っているようにしか見えない。スーツになっているという外皮も人間そっくりだ。

「よくできているな、材質も人の皮膚と同じケラチンなのか?」

「そうだと思うよ。でも表情筋が少なくて、顔の制御が難しい」

「大袈裟な表情をしないのは、そのせいか」

「大口開けて笑ったりしたら、人間でないことがすぐにわかってしまうよ」

 道理で、妙に慎ましく食事をしていると思った。

「今はカレハ助教が体を操作しているんだよな?」

「そうだよ」

「彼女の方が体の制御が上手いと言っていたが、確かにそうだな」

「あいつはずっと引きこもっていたからね。裏で体の制御ばっかりやってたら、そりゃ上手くなるさ」

「君とはかなり性格が違うんだな」

「ああ、大違いだね。まあ、読んでいる本なんかも違うからね。『剣と魔法』だの、『魔法少女』だの、そんなのばっかり読んでる。だから少しおかしくなってしまったんだ」

「あの眼帯とか?」

「そうそう、魔眼とか言い出すし、勘弁してくれ」

「こうしている会話は、彼女も聞いているのか?」私は少し気になったので尋ねてみた。

「聞いてると思うよ、でも私が表にいたら彼女は出てこられない。それに、体の制御をしていたら表に出る余裕は無いしね。今頃機嫌悪くなってるかもな」

「え、でもさっき街では、カレハ助教は君と入れ替わったあとすぐに無理矢理割り込んできて支配権を奪ったように見えたんだが?」

「あれはあいつがあらかじめ仕掛けをしていたのさ、私に入れ替わっても10秒後にまた自分に戻る、とね」

「そうか、ではやはり、意識の支配権は、表に出ている者にあるわけだ、現時点では君だ。君がいいと言わなければ彼女は出てこられない」

「そういうこと」

 コノハ助教はひらひらと手を振る。自然な動きだ。

「うまいもんだよな」

 彼女はカレハ助教の制御に感心している。

「これからはずっとその人間態でいくのか?」

「そうもいかないな」コノハ助教は残念そうな顔をした。白面と違ってちゃんと表情になっている。ただし表情は僅かしか変わらない。さっき言っていた表情筋の量によるものか。でもそのせいで、薄幸の美少女か、思慮深い令嬢のような雰囲気があった。

「この形態はほら、指が五本もあるだろう?制御が大変なんだよ。私が動かしたら歩くだけで精一杯だ。こんなのでは危険な状況に対応できない。あいつが動かしてようやく常人並みといったところだろう」

「じゃあ、いつもは前と同じ姿になるのか」

「そうすべきなんだがねえ。この姿は自分でも気に入っているんだよ、いろんな服が着られるしね、あ、よかったらもっといろんな服を買ってくれたまえ、遠慮は要らないよ。だから、君やコートニー嬢の前ではこの姿でいて、危険を察知したら前の姿に変態するよ。いや、変態じゃないな、『変身』かな、その方があいつが喜びそうだろ」

 ふふっ、とコノハ助教が笑う。何だか不思議な気分だ。夜のカフェで、アルザス衣装を着た少女と向かい合って食事をしている。横の窓からは外灯に照らされた内海が見えた。鏡のように静まりかえっている。ここにいるのが私じゃなくて、映画俳優のような見た目の男性だったら、さぞかし画になるに違いない。

「明日からだっけ?」コノハ助教が尋ねる。

「ああ、調査のことかな」

「そう、私はどうしようかな?皆が来るからまたマネキンをするか、それともこの姿で紛れ込むか?」

「君はどうしたいんだ?人間に混ざりたいのか?」

「その方が面白い気がする、でもなぁ、この目じゃちょっとなあ」

 コノハ助教の目は赤くて瞳孔がネコのような縦長だ。これではさすがに人間には見えない。

「じゃあ、カレハ助教に表に出てもらったらどうだ?コートニーの友達が見学に来たことにすればいい」

「え、いいのかい?」

「いいさ。彼女の瞳ならギリギリ人間に見える。コートニーに言っておけば上手くフォローしてくれるさ」

「それはいいね、是非頼むよ」

 コノハ助教は嬉しそうに微笑んだ。


 夜が更けて、明日の準備を終えた私は研究室を出た。

 階段を上がって屋根裏部屋がある狭い廊下に出ると、部屋の前にアルザス衣装の少女が立っている。

 瞳が水色だった。しかも眼帯をしている。

「カレハ助教」私は声をかけた。

「今日はありがとうございました」彼女はぺこりと頭を下げた。

「明日のことも考えて下さって、感謝します」

 やはり裏で聞いているようだ。あらためて、コノハ助教と話し方が全く違うと思う。まるで別人だ、いや、脳が二つあるのだから、本当に別人というべきだろう。

「ああ、明日は真っ先にコートニーに説明しなければ。ところで、その眼帯はそのままなのか?」

「はい、これがないと魔眼が・・・・」

 何処まで本気なのかわからないが、私は彼女のやりたいようにさせることにした。

「わかった、でも魔眼のことは隠しておくように。そういう秘密は隠すものだ、それが闇に生きる者の宿命だ」

「御意、です」。

 びしっ、と彼女は敬礼の真似事をした。何だかいろいろ混ざっている。しかも、手の位置がすごくおかしい。コノハ助教が制御しているせいだ。今の彼女はまるで運動神経が悪い厨二病少女である。体を動かすことならカレハ助教の方がずっと上手いはずなのに、彼女が表に出たらポンコツになってしまう。何だか可哀想だ。

「・・・・おやすみ」

 私は少し同情しながら自分の部屋のドアを開けた。

「おやすみなさい、御館様」カレハ助教はそう言って、西洋の貴族のような礼をした。

 何だかいろいろ混ざっている。しかもかなり不器用だ。

 ふと、「貴族の礼」で思い出した。

 私がフランスを離れる少し前のことだ。私は日本の大学に准教授での就職が決まり、そのことを当時在籍していた研究室の皆に報告した。そのラボには技官の人がいて、我々が使うマウスの遺伝子解析などの仕事を行ってくれていた。その人は初老の女性の方で、背が高く、痩せていて、どことなく気品がある人だった。私がその人に就職の報告をしたら、

「あら、准教授様ですか」とその人は言って、着ていた白衣をドレスに見立てて、私に「貴族の礼」をしてくれた。その仕草が何とも優雅であったので、そんな礼をされてしまった私はすっかり恐縮してしまった。

 あの人はアルザスのワイン街道沿いの村に実家があると言っていたが、もしかしたらかなりの名家の出だったのかもしれない。

 今でも時々思い出す。私の中で数少ないキラキラした想い出の一つである。

「どうされましたか、御館様」

 カレハ助教は不思議そうにこちらを見ていた。

「いや、何でもないよ、いいね、その礼、昔のことを思い出した。どうもありがとう」

「おやすみなさいませ」

 カレハ助教はまた貴族の礼をしてくれた。今度は彼女の相方ががんばったのだろう。少し様になっていた。


 さて、明日のことだが。

 ベッドに入ってから、いろいろ考え事が浮かぶ。

 明日の夕方までに、ヒューベル博士が散水用の設備を設置してくれる手筈になっている。夜になって水位が低下したら、第一回目の散水実験を行うのだ。その実験には今回の研究チーム全員が参加する。コートニーも手伝い要員として参加することになっていた。ただ、未成年が実験に参加するには特別な許可が必要で、そのためには危機管理講習の受講と,責任者のサインがいる。コートニーはすでにそれらを終えて許可証をもらっていた。ちなみにそうやって研究補助員になると、僅かだが謝金も出る。

 さっき、コノハ助教とカレハ助教にはああ言ったが、明らかに少女の見た目をしている彼女が実験に立ち会うにはやはり許可証が必要だ。ヒューベル博士あたりが気にしそうな気がする。彼は軽薄そうに見えて、あれでなかなかしっかりした人物なのだ。そうなると明日中にカレハ助教の許可をもらうのは大変だぞ、と私は思った。朝一番に大学に行って危機管理講習を受けなければならないし、責任者をどうするかが問題だ。そもそもカレハ助教はレプティリカ大学付属学校の中等部の生徒ではない。そこから何とかしないといけない。

 私は何とかならないかと知恵を絞った。


 結局、いい考えは何も浮かばなかった。

 翌朝、無策のまま、私はカレハ助教を連れてレプティリカ大学に赴いた。

 すると驚いたことに、大学では許可証を得るための事務手続きが全て終わっており、書類がすでに出来上がっていた。

「これは?」私が面食らって事務員に尋ねると、その事務員はまさに事務的に、

「ここに当該学生の名前を書いて、あなたのサインをして下さい」と言った。

 私は言われるまま、生徒の名前欄に「椚カレハ」と記入し、サインをした。

 それで手続きは終了であった。カレハ助教に「特別許可」と書かれた腕章が渡される。

 私はキツネにつままれたような思いで大学を後にした。

 これはやはり、

 やはり、あの怪人物がなにかやったのだ。しかし、大学の事務書類まで自在に操作するとは驚いた。

 しかもその書類では、カレハ助教は中等部ではなく高等部の1年生になっていた。彼女の容姿を考えれば確かにその方が合っている気がする。そんなところにまで気を利かせるとは。

 私は周囲を見回す。しかし、アルザス風の通りにそれらしい姿はない。

「御館様」

 きょろきょろしていると、中等部の制服を着たカレハ助教が話しかけてきた。書類では高等部になっているのに、この格好で事務員に訝しがられなかったのは不思議だ。それはともかく、あの人物が余計な気を利かせたせいで、ヒューベル博士など関係者の手前、彼女は高等部でないと話が合わなくなった。高等部の制服を用意すべきだろう。幾ら位するのだろうか?

「どうしましたか?」

「ああ、失礼、あの人物がいるかと思ってね」

「いないみたいですね、それで、御館様」

 眼帯をしたカレハ助教は水色の瞳で私を見た。

「私の名前、椚カレハだったんですね」

「ああ、そのこと」

「椚というのは名字ですか?『クヌギカレハ』が私のフルネームですか」

「あ、ああ、そうなるね。もっとかっこいい名前が良かったかな?」

 シレーナとかメギストスとかペトロマイゾンとか、もっと厨二病的な名前を付けた方が彼女には喜ばれたかもしれない。

「いいえ、クヌギカレハ、充分かっこいいです。どんな意味なのでしょう?」

「ああ、それは・・・・」

「コノハさんは『アケビコノハ』ですよね?蛾の名前だとか」

「ああ、そうだね。とても魅力的な蛾だ、不思議な形をしていて、でもとても美しい」

「そうなのですか」カレハ助教は目を輝かせた。

「では、『クヌギカレハ』もそんなきれいな蛾なのですか?」

「い、いや」私は返事に窮した。

「帰ったら図鑑でしらべてみますね」

「い、いや、だめだ、調べない方が、いや、調べなくていいから」

「は?どうしてですか?」

「その、クヌギカレハは、正直言って、美しいという感じじゃないんだ、ちょっと地味というか、見たらがっかりするかもしれない。でも、ぼくの中では忘れられない種なのだ」

「はあ」

「実は、幼虫が・・・・」

「幼虫が?」

「幼虫が凄いインパクトがあってね、昔、子供の頃に家の近くの雑木林に入ったんだ、クワガタとかカブトムシを探しに。その時、クヌギの葉の上にそれがいた」

「クヌギカレハの幼虫がいたんですね」

「それがあまりに巨大で、凄い形をしていて、ぼくは度肝を抜かれた。この日本に、しかも家の直ぐ近くに、こんな怪物みたいなものがいるのだと思った。ぼくは怖くてしばらく雑木林に入ることができなくなった。その経験がずっと忘れられなくて・・・・。でもあれは、ぼくにこの道を選ばせる要因のひとつになった、そんな蛾なのだ」

「そうなのですか」

「君の名前にしたけど、もしかしたら気を悪くしたかもしれない、ごめん」

「いいえ、そんな印象深いものの名前を付けてくださって、ありがとうございます。それに私の名前の由来がそんな魔王みたいな凶悪な種だと知って、ちょっと嬉しいです、何だか強大な闇の魔力とか、ダークな宿命を背負っているみたいです」

「ああ、確かに毒針をいっぱい背負っているね」

「そうですか、毒属性ですね。なんて素敵なんでしょう」

 カレハ助教は、止せばいいのに、その場で踊るように身を翻した。そして、当然のように躓いて派手に転んだ。

 コノハ助教、体の制御をもっと練習してくれ、じゃないと彼女が可哀想だ。


 それから、リール・ド・ラビームに戻ると、ヒューベル博士がフェンネル操縦士の助けを借りて忙しく働いていた。彼は小島と本島を結ぶ海に筏のような船舶を係留させている。その船の甲板に大型の散水車が乗せられていた。船から博物館のウッドデッキまで板張りの通路が渡されている。散水車からは長いアームが内海に被さるように伸びていた。アームの先から水を出したら、ちょうど雨のように深淵の真上に水が降り注ぐだろう。

 ヒューベル博士が色々な調整をしているのを横目に、私はコートニーの姿を探した。カレハ助教のことを伝えなければならない。コートニーが人間態になった彼女を見るのは初めてだ。きっとびっくりするだろう。

「あ、御館様、コートニーさんが」

 私の後ろでカレハ助教が言う。彼女は先ほど街で購入した高等部の制服を着ていた。

 ちなみに思ったよりずっと高額だったので、私は泣きそうになった。

 ともかく、カレハ助教が指さす先にコートニーがいる。

 彼女も私に気づいたので、私は小さく手招きした。何かを察したらしく、少女が足早にこちらにやってくる。

 私は博物館の脇に移動した。ここなら誰にも見られない。

「先生、今まで何処に行って・・・・、あれ、その人は?」

 私がコートニーに事情を話そうとするのを、カレハ助教が遮った。

「あなたは、私のことを知っていますか?」

「いいえ、知りません、けど」

「私はあなたをよく知っていますよ、あなたの好きな人も知っています」

「え」

 コートニーは少し狼狽した。あの操縦士がいる方をちらりと見る。

「私の魔眼を持ってすれば全てお見通しなのです」カレハ助教はびしっと眼帯を指さした。しかし方向が少しずれている。

「・・・・はあ、その眼帯、目が悪いわけではないんですね」

 コートニーは呆れ気味に言った。

「これは魔眼を封印しているのです。とにかく、当ててみせましょう、ちょっと待ってください、う〜ん、う〜ん・・・・」

 そして彼女は、例のくだりをやり始めた。コートニーは訝しそうにその様子を見ている。何だか魔眼少女(自称)と妖精少女の対決みたいな図式になっていた。

「う〜ん、う〜ん」

「・・・・あの?」

「はい、何でしょう?」

「眼帯、外さなくていいんですか?その、魔眼が塞がれているのでは?」

「大丈夫、これくらいなら眼帯越しでイケます。う〜ん、う〜ん・・・・、はっ、見えました!あなたが好きな人は・・・・・」そう言って、カレハ助教は両手で顔を覆い、下を向いた。私にやったときより動きが自然だ。練習したのだろうか?

 そのまま動かない。コートニーもあの時の私と同じく状況がよくわからないらしく、彼女に少し近づいた。

「あの?」

「あなたが好きな人は・・・・・」少女は顔を覆って下を向いたまま言う。

「こ〜んな顔じゃ、なかったですかぁ〜」

 そして彼女は、自信たっぷりに例ののっぺらぼうを披露した。

「え、もしかして、コノハさん?」

 だがコートニーの反応は薄い。私よりもずっと薄かった。彼女も白面を見慣れていたせいだろう。

「え、ち、違いますよ、私はのっぺらぼうで、ほら」

 カレハ助教は狼狽している。

「ほらほら、びっくりですよ〜、のっぺらですよ〜、気絶しちゃっていいですよ〜」

「え、コノハさんじゃ、ないの?」

 コートニーは既にのっぺらぼうに何の興味も示さず、私に尋ねている。

「紹介しよう、カレハ助教だ」

 私は彼女について簡単に説明をする。

「————というわけで、君の先輩ということにしたいんだ。よろしく頼むよ」

「わかりました、先生、お任せください」

「じゃあ、カレハ助教、そういうわけで——」

 そう言いながらカレハ助教を見たら、彼女は涙ぐんでいた。

「い、いっぱい練習したのに・・・・」

 ぼろり、と涙がこぼれる。よくできたスーツだ、こんなこともできるのか、じゃなくて、私はカレハ助教がこれを密かに練習している姿を想像し、心底同情した。

「カレハ助教、今回は相手が悪かっただけだ。今度ぼくも協力するから、街でちゃんとやってみよう、そしたらみんな気絶してくれるさ」

「うう、ほんとですかぁ」

「大丈夫だ、ほら、元気出して」

「あの、ごめんなさい、コノハさんの顔を見慣れていたから・・・・」

 事情を察したコートニーも申し訳なさそうである。

「街でやったらきっと大成功だよ。私も協力する」

 というわけで、いつになるかわからないが、ノーチラス島で「むじな」を実演することになった。


 その日の夕刻。

 博物館脇に停泊した筏の甲板では、ヒューベル博士が散水機の最終チェックをしており、博物館前のウッドデッキでは、フェンネル操縦士が深淵に入れる潜水装置付きのカメラをいじくっていた。その後ろでキャンベル教授がチェックリストらしき書類に目を通していて、コートニーとカレハ助教が記録装置の点検をしている。日没が迫るリール・ド・ラビームには緊迫した雰囲気が漂っていたが、カハール博士は我関せずとばかりにカフェの窓際の席でコーヒーを飲んでいた。

 私は時計を確認する。午後7時、毎日起きる水位の低下まで、あと一時間。

 キャンベル教授の仮説が正しければ、水位が低下した後、雨代わりの淡水を内海に注ぎ込めば、私が体験した「海が啼く」現象が起きるはずだった。

 この現象が起きた9年前には、調査隊が失踪したという報告がある。私が体験したときには何も起きなかったが、今回もそうであるとは限らない。

 不測の事態に備えておく必要があった。声には出さないが、ここにいる皆はそれなりに緊張しているだろう。

「あと一時間ですね」

 私はウッドデッキの端に立って深淵を心配そうに見ている館長に話しかけた。

「そうですね」

 館長は落ち着いているが、自分の仕事場でこんな大規模な調査が行われることついて、やはり内心穏やかではないだろう。

「何だか大事になってしまって」

「いいえ、皆さん張り切っておられますから」

 いいんじゃないでしょうか、と館長は言った。

「館長はやはり心配なのでしょうか?」

「まあ、少し。一年前のことがありますから」

 館長は声を落とす。一年前のちょうど今頃は、怪物が襲ってきて大変だったはずだ。

「怪物の襲撃もそうですが、ちょうどこんな感じて縦穴の調査があったんです。その時にフェンネルさん、あ、兄?が失踪したりして」

 館長が変な間違え方をするのは相変わらずである。それを聞くとどうしてもコノハ助教が言った「ただならぬ関係」とやらを思いだしてしまう。

「それは大変でしたね、でもお兄さんが無事に戻ってきてよかったです」

「あの」

 館長がおずおずと言った感じで口を開いた。

「あの、どう思われますか?私と、あ、兄のこと」

「はあ、どういうことでしょうか?仲のいいご兄妹に見えますが」

「そうですか」そう言いながら、館長はこちらを探るような目で見ていた。

「どうかしたのですか?」

「い、いえ」館長が言い淀む。

「博士はときどき妙に冴えていらっしゃるから、すでに何かお見通しなのではないかと・・・・」

 前に私が館長とマンディブラスとの経緯を言い当てたことを言っているのだろう。しかし私は人間関係の機微にはからっきし疎いのだ。

「心配しなくても、ぼくはそんなに勘のいい人間ではありません」

 そう言いながら、私はコノハ助教の言葉を思い出す。

 君には見えないのか・・・・

 コノハ助教に見えていて、私に見えないものとは、何だ?彼女はライト館長とフェンネル操縦士の関係が島の秘密を体現していると言っていた。それはどういうことなのだ?あの二人の関係が、人類史上類を見ない大きな謎とどう関わるというのだ?

「館長はこの島でずっとお兄さんと一緒だったのですか?」何気なく私は尋ねてみた。特に意味のない質問であった。

「いいえ」

 私はその答えに少し驚いた。

「え、それはどういう・・・・」

「兄は一年前にこの島に来たんです。それからいろいろあって、き、兄妹であると、わ、わかりまして」 とても歯切れが悪い回答であった。

「え?では、あなたはずっとフェンネル操縦士とは離れて暮らしていた。彼は地球にいて、あなたはここにいた、そういうことなんですね」

「は、はい」

 何だか複雑な事情がありそうだ。彼女の父親は此処でずっと人工進化の研究を進めていた。では、フェンネル操縦士はどういった経緯で此処を離れ、地球にいたのだろう?そしてどういった経緯で、一年前に此処にやってきたのだろう?」

「あなたはお兄さんが地球で暮らしていることは当然知っていたんですよね?」

「そ、それは、まあ」館長の答えはさらに曖昧になった。私は、これ以上家族の問題に踏み込むべきではないと思い、話を打ち切った。

「立ち入ったことを伺って、申し訳ありません。どうか気を悪くしないで下さい、もうじき調査が始まります。あなたはそろそろ博物館の中に入っておいた方がいいです」

「・・・・・はい」

 館長は私に何か言いたそうにしていたようだったが、失礼します、といって踵を返した。


 午後8時になった。辺りはすっかり暗くなっている。

「水位、5センチメートル下がりました」

 博物館のエントランスホール内で、水位計を見ながら、コートニーが報告した。その声がスピーカーで博物館の外に響く。コートニー、カレハ助教、そして館長はもしもの時に備え、博物館の中にいる。

「了解」外にいる私が答え、キャンベル教授に「だそうです」と告げた。教授は頷いて、横にいるカハール博士を見た。カハール博士も頷く。

 今回の実験は、キャンベル教授の仮説の検証ということで、教授が全体の指揮を執ることになっていた。

「よし、散水を開始しよう、ヒューベル君、頼む」

「了解です」ヒューベル博士は手元にある装置のスイッチを入れた。

 外海の方からモーター音がして、次の瞬間、内海の上に覆い被さるように伸びている長いアームの先からシャワーのように水が迸った。

「人工雨、作動」海を覗き込んでいるフェンネル操縦士が言う。

「深淵の真上に水が落ちています」

「了解」ヒューベル博士が答えた。

 私は内海を見た。まさに人工雨だ。アームの先端から円形に水が放出され、空中で傘のように広がって深淵に降り注いでいる。激しい嵐のように波紋が躍っていた。バラバラと激しい水音がする。水面付近だけを撮影したとしたら、雨と全く区別できないだろう。やはりヒューベル博士はいい仕事をする。

「水位は?」

 キャンベル博士が無線機で館内のコートニーに尋ねた。

「変化なし」コートニーがよそ行きの声で答えた。何だかオペレーターみたいだ。

「この内海の容積から考えると、一ミリ水位が上がるにも20分程度の時間がかかるでしょうね」ヒューベル博士が言う。

「どれくらい水位が上がると例の現象が起こるのかわからない以上、油断はできない、クレイ、水中の様子はどうだ?」

「水深80メートルで、変化なし」

 フェンネル操縦士が報告した。彼は無人探査艇からの映像を見ている。譚査艇は80メートルの深度に留まっていた。それ以上は重力と水圧のせいで潜れない。しかし今回はキャンベル教授の仮説の検証が目的だ。操縦士が見極めようとしているのは、深淵に危険な物体か生物が潜んでいて、例の現象の際に出現するかどうかである。

 私は博物館を見た。入口のドアと窓が開放されていることで、中が見える。

 エントランスホールでは、水位計の表示をコートニーとカレハ助教が並んで睨んでいた。カレハ助教は眼帯を外して両目でしっかりモニターを見ている。表示をちゃんと見るために外したのだろう。実はかなり真面目なのだ。あと、あの眼帯はやはり厨二病的雰囲気を醸し出すためのアイテムであったことが判明した。

「水位が0・5ミリ上昇」コートニーが報告した。

 私は内海を見る。変化はない。

 果たしてあの現象が起きるのに一体どれくらいの水量が必要なのだろうか?今回の散水機でまかなえる範囲なのか?私は気になっていたが、ヒューベル博士の話では、数時間は雨を降らせられることになっている。そして、散水機のタンクには近くの川から引いてきた水が入るようになっているという。タンクが空になったら川の水を充填可能だ。

 20分が経過した。水位はヒューベル博士の予想通り、一ミリほど上昇している。しかし変化はない。先の嵐のことを考えると、もっと水量が必要であるように思えた。

 一時間が経過。まだ変化はない。数ミリ程度の水位上昇ではダメなのかもしれない。

「放水量を増やせますか?」

 私はヒューベル博士に尋ねた。彼は首を横に振り、「バルブは解放状態です、これ以上は増やせません」と言った。

「もう少しだといいんだが」キャンベル教授が言う。

「水位が更に一ミリ上昇しました」カレハ助教が報告した。高等部の制服を着て腕章を付けた彼女は、いつの間にかこのメンバーに溶け込んでいた。

「了解した」キャンベル教授が答える。

「クレイ君、海中の様子は?」

「変化なしです、キャンベル先生、ライトで周囲を照らしていますが、異常な物は確認できません」

 つまり、実験を始めてから全く変化なしということだ。キャンベル教授の仮説は果たして正しいのか?もちろん、「仮説」なので外れていても全く問題ない。しかしそうなると、此処で起きた怪現象を再現する方法がなくなる。

 仮説が正しいことを皆が願っているはずだ。

 さらに一時間が経過した。

「そろそろタンクが空になる」

 ヒューベル博士が言った。フェンネル操縦士に目配せをする。

「いったん止めて、水を補充しよう」

「わかった、キャンベル先生、一旦止めます」

「やむを得ないな」

 そして、フェンネル操縦士の操作で散水機が停止した。ヒューベル博士は別のポンプを作動させる。散水機のタンクに川から引いたパイプから水が供給され始めた。

「再度動かせるようになるまで30分くらい待って下さい」

「了解した」教授が答えた。そして一時の休憩となる。


 散水機のタンクに水が供給されている間、今回の実験のメンバーは博物館のカフェに集まっていた。私が厨房でコーヒーを煎れて、皆に振る舞う。

 コーヒーを煎れるのはコートニーの方がずっと上手いのだが、彼女は父親と向かい合わせに座って、今回の実験記録を作成している。父親にいろいろ指示されていた。科学に興味がある彼女にとっては、いい経験になっているだろう。

 カフェの隅のテーブルには、ヒューベル博士、フェンネル操縦士、館長が座って何やら話をしていた。この三人は先の事変でも行動を共にすることが多かったようだ。そのためか、三人だけの世界があるような、独特の空気感があった。

「なかなか、思うように行かないな」

 カフェのカウンターに背中を預けた私の横でカハール博士が嗄れ声で言った。

「まあ、相手はノーチラス島ですからね、一筋縄ではいきませんよ」

 私は答える。カハール博士に化けたクリスと話すのは変な感じだが、彼女が秘密を隠したがっているので、付き合うほかない。

「何か、甘い物はないかね、緊張したせいで脳にグルコースが足りなくなった」

「少々お待ちを」

 私は答えて、厨房に開封したチョコレートがあったはずだと思い、それを探してカハール博士のところに持っていった。

「どうも」カハール博士が受け取る。妙なマスクのせいで、どんな表情をしているのか全くわからないが、きっと私をこき使うのを楽しんでいるだろう。

 私は元の位置に戻って、カハール博士の横でチョコレートを頬張った。

「そういえば、博士?」

「ん、何かね?」

「博士は此処で見つかった黒い物体が気になると言っていたそうですが、何か理由が?」

「特に理由は無い、強いて言えば、『違和感』かな」

「違和感?」

「この島で地球では見られない生命の痕跡が見つかることはたまにある。それらはおそらく随分前に此処に迷い込んできたものだ。地球では同胞が滅びたが、此処では生き残った、そういうものだ。だが、あの黒い物体は、どうも違うような気がした」

「・・・・地球からのものではない、と」

「まあ、根拠はないがね」

 私は唸った。クリスがそう言うなら、そうなのかもしれない。

「ところで」

「何でしょう?」

「あの奥のテーブルで話し込んでいる三人、特にあの操縦士と館長は、本当に兄妹なんでしょうか?どう思います、師匠」

 小声でカハール博士もといクリスが言った。

 私は驚いた。彼女もそれを気にしているのか。

「どうと言われても、彼らがそう言っているわけだし」

「怪しい」

「え?それはなぜ?」

「特に理由はありません、強いて言うなら、『違和感』ですかね」

 さっきと同じ答えを彼女はした。

「違和感か、確かにそれはぼくも感じていた。でも・・・・」

「フェンネル君のことが心配だ」

 クリスは操縦士と館長をじっと見ていた。私は師匠であるクリスが弟子である操縦士を心配しているのかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。もっと深い絆のようなものを感じた。

「クリス、君はもしかして、地球にいた頃のフェンネル君を知っているのか?」

 クリスはびっくりして私を見る。

「お、師匠、鋭いですね、たまに思うのですが、師匠のその謎の勘はどこから来るんでしょうね。私にも分けて下さいよ」

「君は既にぼくよりも遙かに凄いものを持っているよ」

 私はそう言いながら、「それで、そうなのか?」と促した。

「彼は私の幼なじみですよ、中学時代のね」

「そうなのか?あの、スイスにいた頃の・・・」

「そうです。前に私が遭遇した怪奇現象の話をしたでしょう、あの時に一緒に帰宅してもらっていたという同級生が、彼です」

「そうだったのか!」

 私は改めてフェンネル操縦士の主人公属性に驚愕した。彼は、少女時代のクリスにも深く関わっていたのだ。

「じゃあ、君はこの島で幼なじみである彼と再会したのか?まるで映画みたいじゃないか」

「そうでしょう、ふふん」

 クリスは得意げである。でも、それでわかった。何故クリスが彼に正体を明かしたのか?それは、そういう理由だったのだ。

 あのクリスが弟子を取ったのも、相手が彼だったからだ。もしそうなら、クリスはもしかして彼のことを・・・・。

 クリスはマスクの覗き穴越しに、カフェの隅にいる操縦士を見ている。ああ、そうだな、と私は思った。そんな運命的な再会をしたのだから、ある意味当然だ。だから、館長のことが気になるのだろう。

 そして、館長と言えば。私は先ほどの館長との会話を思い出した。

「クリス」

「何ですか師匠?」

「フェンネル君は、中学時代に妹について何か言っていたか?」

「いいえ、そんなことは一言も。だから怪しいんですよ。もともと過去のことを語りたがらないやつだったけど、妹がいる気配なんて全くなかった」

「じゃあ、彼がノーチラス島の出身だということは?」

「それも全く、おくびにもださなかった。でも、もしそんな話があったとしても、私は信じられなかったですよ、なぜなら・・・・」

 そこで彼女は少し言い淀んだ。

「これは当時の噂ですが、彼には本当の両親がおらず、しばらく施設にいて、それから何処かの養子になったらしい、と」

「・・・・そんなことが」

「何処まで本当かわかりませんがね」

 クリスの話は私をさらに困惑させた。ノーチラス島にいたはずの彼が、何故中学時代には地球にいたのか?しかもその時彼は天涯孤独だったという。

 地球にいた操縦士と、ノーチラス島にいた館長。私の脳裏にコノハ助教の言葉が甦る。

『まるで地球とインフェリアの縮図のようだ』

 私は奥のテーブルにいる二人を見た。話を交わしながら、でもどことなくぎこちない二人。

「師匠、師匠の勘に期待しますよ。何かわかったら教えて下さいね」

 クリスも私と同じ方向を見ながら言った。

 その時、カフェのドアが開いて、カレハ助教が告げた。

「タンクへの注水完了、実験が再開できます」


 外は完全なる闇だった。

 外灯が点るウッドデッキでは、ヒューベル博士が散水機を操作する機器類を確認している。これから再び散水されるが、あとどれくらいかかるだろうか?前回私が体験したのが夜半過ぎだった。だとしたらもう数時間はかかるかもしれない。研究メンバーの全員がウッドデッキに出て内海を覗いていた。本当に起きるのだろうか、と少し疑念を抱いているようだ。

「散水を再開します」ヒューベル博士がバルブを開いた。

「じゃあ、館長たちは建物の——」

 中に入って、と私が言いかけたその刹那、何処かから女性がすすり泣くような音が聞こえた。

 ウッドデッキにいる全員の動きが、時が止まったように凍り付く。一切の雑音が消えた中で、すすり泣きが不気味に響いていった。それはひときわ長く尾を引いて途絶え、突然、怒号のような絶叫に変わった。

 深淵が震えるような大音響が響く。私の周囲で悲鳴が上がった。コートニーと館長が耳を押さえている。あと一人、カハール博士も思わずクリスの声で悲鳴を上げていた。

「ど、どうした!」私は叫ぶ。散水は開始されたばかりだった。もしかしたら、あとひと掬い、いや、あと数滴で発動する状態にまで来ていたのか!

 海が啼いていた。

 私が体験した怪奇現象が、今、目の前でおきている。

 前より距離が近いせいか、音量が凄く、空気がビリビリと震えていた。

 あの時と同じ、いやそれ以上に、足下がすくむような恐怖を感じた。

「海は!海はどうなってる!」

 私は叫んで内海を見た。

 深淵がぼうっと青く光っていた。

 あの時と同じだ。

 深淵から、泣き叫ぶような声が続いている。

「コートニーさん、館長、カハール博士は中に!」

 私は咄嗟に叫んでいた。彼女らを誘導してもらおうとカレハ助教に目配せする。だが彼女はオロオロしていた。右往左往しながら、時々他人にぶつかっている。肝心なときに役に立たない。

 私はコートニーに走り寄って、耳を押さえて固まっている彼女の手を引き、その場にいた館長とカハール博士も引っぱって、博物館内に避難させた。幸か不幸か、一度これを経験しているせいで,他の人々より冷静に対応できているようだ。

「ヒューベル博士、フェンネル君、状況を!」

 私は調査機器の前にいる二人に叫んだ。

 ヒューベル博士がはっとしたように機器にとりつく。

「き、記録している、凄い音量だ、状況は継続中」

 キャンベル教授が我に返ったようにフェンネル操縦士を見た。

「クレイ君、海の中は、あの光っている海の中はどうなっている!」

 操縦士はモニターに齧り付くようにして画像を見ていた。

「ひ、光っています、海中が青白く・・・・」

「周囲は?下はどうなっていますか!」

 私は叫んだ。そうしないと声が届かない。まるで魔女が絶叫しているような音が響き続けている。突然怪奇現象の只中に放り込まれて、凄まじい恐怖を感じる。思えば、前回はよくこんな状態で正気を保っていたものだ。ここに人間は私しかいなかったのに。

 いや、コノハ助教がいた。きっと彼女がいたから私の精神は持ちこたえることができたのだ。今、彼女は・・・・。見るとカレハ助教はあたふたと動き回って、どん、とヒューベル博士にぶつかり、「ちょっと、君!」と注意されていた。

「下は、白く光っている、それに、まずい、海底に吸い寄せられている」

 フェンネル操縦士が叫んだ。

「探査機の深度がどんどん下がっています、90メートル、95メートル、海底に到達、でも水圧と重力負荷が!探査機が保たない」

「何か見えますか!」

「カメラの画像が酷くて、え、これは、なんだ・・・・」

 幽鬼のような声で操縦士が呟いた。

 私は彼に駆け寄り、モニターを横から覗きこんだ。

 重力と水圧のせいでノイズだらけの画面には、白い世界が映っていた。海底のはずなのに、異様に明るい。そしてその明るい中で、真っ黒の皿のような物が幾つも並んでいるのが見え、そのあいだを天使が飛び交っていた。

 一瞬見えたその画像を最後に、画面は唐突に消えた。

「探査艇、圧壊した」ヒューベル博士が叫んだ。

 その途端、絶叫が止んだ。海の発光も消える。

 一瞬のうちに、異変は収束していた。

 私はウッドデッキに立ち尽くす。散水機からはまだ水が降っていて、内海は雨のように見えた。

 私の周囲と、博物館の中で、皆呆けたように、雨が降り注ぐ夜の内海を見ていた。


 我々が慌ただしくデータの回収を始めたときは既に11時を回っていた。およそ30分ほども我々は呆けていたことになる。それくらい、さっきの出来事は衝撃的だった。

 海が啼く現象が再現され、そして、深淵に設置されたカメラは、一瞬だけだが何かを捉えた。

 我々は博物館のウッドデッキに並ぶ機器の周りを彷徨しながらデータの整理をした。注水に用いた水量、時間、そして実際に起きた現象の詳細をまとめているうちに、時刻は深夜零時を回った。

「ちょっと、さすがに今日は止めにしよう」

「もう、昨日だよ」私の提案に、コートニーが焦燥したように答えた。

「とりあえず皆さん、今日はここで休んで下さい。博物館にゲスト用の部屋が幾つかあります」

 同じく疲れたような顔をした館長が言った。

 この博物館には、アルザス建築の建物の奥に、崖を掘ってつくられた部屋が幾つかある。館長はそれらの部屋に皆を案内していった。カレハ助教の部屋は屋根裏にあるのだが、実験補助の女子学生という立場上、崖の中の部屋に案内される。コートニーと相部屋になったようだ。

 カハール博士は一人部屋を希望していた。とにかく、そのようにして、その日の仕事は終わった。ただ、その後ちゃんと睡眠できた人がどれほどいたかは知らない。少なくとも私はよく眠れなかった。

 そして案の定、私が早朝に起き出して下に行くと、既にそこにはヒューベル博士とフェンネル操縦士がいて、作業をしていた。

 二人とも、よく眠れなかったらしく、目つきが少し悪い。

「おはようございます」

 私が挨拶すると、二人も挨拶を返してきた。

「やはり、眠れなかったのですか」

「はあ、そうです」フェンネル操縦士が言う。

「ちょっとね、前のことを思い出して」ヒューベル博士が疲れたような声で言い、操縦士を一瞥した。

「彼が失踪した時とちょっと似ていたので」

「そうなんですか?」

「あのときは、なあ」ヒューベル博士が操縦士を見ながら苦い顔で言った。

「こいつが探査機に乗ったまま消えてしまったんですよ、その時に何か不気味なことを言っていて、何だっけ、『白い光が見える』とか。そしたら、今回も同じようなことをこいつが言うし。ちょっと、やめてくれよって感じです」

「その後はでも、一週間ほどして戻ってきたと聞きましたが」

「ああ、奇跡の生還ってやつですよ、どうして戻れたのか、よくわからないのですが、お前、戻ってきたとき、何か変なこと言ってたよな」

「ああ、でもあれは・・・・」操縦士は言い淀む。

「フェルドランスの映像記録には残っていなかったんです。あの世界に入った時に壊れたのか、あるいは後で誰かが・・・・」

「あの世界、とは何ですか?」

 私はそれが気になって尋ねた。その事件では、フェルドランスは「K−13縦孔」の調査をしていた。前にキャンベル教授が調べていたところである。そこでは謎の文字のような物が見つかっていて、教授の共同研究者が現在それを解読中だ。消えた機体が何処に行ったのか?どうやって戻ってきたのかは不明なままである。

「おい、またあの話か」ヒューベル博士が口を挟む。

「こいつがあまりに突拍子もないことを言うので、困ってしまって。保安局にそのまま伝えたら精神疾患を疑われると思って、報告はしてません。あの縦穴ではあれ以来不思議な現象は起きていないし」

「何を見たんですか、フェンネル君」

「それがですね・・・・」

 彼が口を開いたとき、「おはようございます」と声がした。

 館長がちょうど博物館から出てくるところだった。

「おはようございます」

 私たちが異口同音に挨拶を返す。話すタイミングを逸したのか、操縦士は口をつぐんだ。

 館長は少し心配そうに、働いている二人を見た。彼女はフェンネル操縦士の失踪事件を知っているせいか、複雑な表情をしている。

「昨日の現象は、何か危険はありますか?」

 彼女は誰に言うともなく尋ねた。

「今の段階では、わからないね」ヒューベル博士が受けて答える。

「海底に怪物はいなかったみたいだけど、何か変なものが映っていたし、画像解析を進める必要がある」

 館長は少し考えて、口を開いた。

「探査機を投入するのですか?」

 その問いに、ヒューベル博士とフェンネル操縦士は揃って私を見た。私が責任者だからだろう。後を追うように館長も私を見る。

「い、いや、現段階では何とも・・・・」

「でも、昨日の無人機ではこれが限界です」フェンネル操縦士が言った。

「ちゃんとしたデータを取るには、ヴァーミスラックスを使わないと」

「でも、危険なのではないですか?」と館長。「昨日だって、探査艇がまるで引きずり込まれるように・・・・」

「引きずり込まれたとは限らないけど」ヒューベル博士が言う。

「危険と判断したら直ぐに帰還できる設備が必要だ。前の縦穴みたいなことになったら、たまったもんじゃない」

「だが、今回は」フェンネル操縦士が答える。

「明らかに、何かあるぞ、ここ。縦穴の件はおれの幻想で片付けてもいいかもしれないが、此処は違う、ここは本物だ」

 それは私も同意する。何せ、あの怪人物がコノハ助教を付けてきたくらいの場所だ。おそらく、想像を絶することが我々を待っている。

 私は深淵を見た。我々を誘うように佇んでいる。ふと、好奇心は猫を殺す、という諺を思い出した。

「でも・・・・」

 私の思いが伝わったのかどうかは知らないが、館長は心配そうに操縦士を見た。

「大丈夫ですよ」操縦士が言う。

 私はここで、コートニーが言っていたことを思いだした。

 あの人はいつも大丈夫と言うけど、いつも大丈夫じゃない。

 確かに、今の操縦士の言葉は軽くて、とても信用する気にならなかった。

「とにかく、情報を集めよう」と私は言った。 


 午前のミーティングでの話題の中心は、やはり、探査艇のカメラが最後に捉えた画像であった。

 博物館の展示室に置かれた大型モニターに、問題の画像が映し出されている。

 ノイズだらけの画面には、黒い皿のようなものが無数に映り、その間を白い何かが漂っている。その白いものを、私の脳はあの時「天使」だと思った。ほぼ直感であった。実際の画像ではそれほどクッキリと写っておらず、白い布のような物が舞っているように見える。しかし、それにしても、海の底でそんな物が撮影されるのは異常である。その画像からは、まるであの穴の底が別の世界に繋がっているような雰囲気がした。

「通常状態では、こんなものは見られないんだよな」念を押すようにヒューベル博士がフェンネル操縦士に尋ねる。

「ああ、事前に何度か深度80メートルまで譚査艇を入れたが、異常は無かった、普通の水中映像だった」

「ということは、この謎の音が響いた間だけ、あの深淵の底にこの景色が現れるということだな、あの音については何かわかったのか」

「わからない、人間の声のようにも思えるが、声紋は該当しない」

「私も、人間の声ではないと思う」カハール博士が嗄れ声で言った。

「他の動物の声でもないと思う、動物の声に似た、何かだ」

「あの、カハール博士、先の事変で襲ってきた怪物と関係がある可能性は?」

 私の問いに、カハール博士は少し考えて、答えた。

「多分、関係ない。あの事変で襲撃してきたのは、極めて高性能だったとはいえ、我々地球産生物の延長にあるものだ。奴らの中にも音を発する個体がいたが、あくまで地球産生物の発声器官に基づくものだった、今回の物とは違う」

「生物以外の要因ということですか、物理的現象の一種か」

「あるいは、地球とは違う進化を遂げた生命と関係があるかだ」

「そんな可能性が・・・」、あるのか、と言いかけて、私はカレハ助教を見た。彼女のような者が存在するなら、有り得るのかもしれない。

「すでに、この島で地球外知的生命体の存在を示す証拠が得られつつある、そうですよね、教授?」

 カハール博士の言葉にキャンベル教授が頷いた。

「私が調査を担当していた縦穴で、君たちの探査機が見つけた紋様のことだな。現在、タイラー博士が調査中だが、およそ60億年前に作られた可能性が指摘されている。もしそうなら、確実に地球外知的生命体の手によるものだ」

「ではそれが、今でもこの島に息づいていると」

 私は自分の言葉に少しゾッとした。今、自分たちがいるこの小島の下に、何かが潜んでいるというのか?

「・・・・とりあえず今回のデータを手分けして解析しましょう。生物がらみのことは私とカハール博士が、物理化学的性質についてはキャンベル教授とヒューベル博士にお願いします。おそらく第二回目の調査が必要でしょう。近いうちにその予定も立てたいと思います。ご協力いただけますか?」

 この段階で、研究者の中に断る者は誰もいなかった。ただ、館長とコートニーは不安そうな表情をしている。

 おそらく、あの怪人物はこの展開を予想していた。我々はこれからこの深淵に挑むことになる。だから、深淵対策としてコノハ助教をよこしたのだ。しかし、昨日の彼女、カレハ助教は終始おろおろしていて、ポンコツ以外の何者でもなかった。果たしてこれから大丈夫だろうか?

 私が部屋の隅にいるカレハ助教をチラリと見ると、彼女は心ここに在らずといった表情をしていた。眼帯をするのも忘れている。取り乱してしまったことが、よほどショックだったのだろうか。

 不安な状況の中、ノーチラス島と同じように、事態は浮動していく。


 その日の午後、皆が解散した後で、私は博物館三階の研究室でデータの整理をしていた。

 時計が四時を回った頃、ノックの音がした。

「どうぞ」

 ドアが開く気配がした。しかし、しばらく沈黙が続く。振り返ると、アルザス衣装の少女が立っていた。

 どっちだ?コノハ助教か、カレハ助教か?

 瞳が水色だった。カレハ助教だ。

「昨日はお疲れ様」

 私が言うと、彼女は静かに部屋に入ってきた。

「あの・・・・」

 もしかしたら、昨日のポンコツぶりを反省しているのかもしれない。でも昨日はプロの研究者もみんな取り乱していた。人間でないとはいえ、カレハ助教に完璧な対応を期待するのは酷というものだ。

「ああ、昨夜のことなら気にしてないよ、あの状況じゃ仕方ない」

「すみません、取り乱してしまって、まさかあそこまで激しいとは思わなくて」

「ああ、凄かったね、あの音」

「コノハさんが制御していたので、あまり上手く動けなくて、すみません、次からはもっとちゃんと・・・・」

 確かに動かしていたのはコノハ助教だが、あたふたしていたのは君だろう。人のせいにするのはあまり誉められたものではない、でもいつもの彼女らしくないな、と私は思った。

「まあ、次からはちゃんとしてくれればいい」

「誰も攫われなかったのは、運が良かったです」

「攫われる?そんな要素があったかな?確かに前の調査では研究者が失踪したみたいだけど」

「はあ、皆さん、何というか、肝が据わっていらっしゃるのですね、あんな状況でも正気でいられるなんて」

「さすがに、気が狂うほどのことはなかっただろう」

「あんな気持ち悪いものが目の前にあんなにたくさんあったのに、皆さん、さすがプロですね」

「・・・・さっきから、君、何を言っているの?」

 私はカレハ助教との会話が何か食い違っているような気がした。

「君、昨夜の悲鳴みたいな音の話をしてるんだよね?」

「え、御館様、私をからかっているのですか?」

「からかう?何故そんなこと」

「いたじゃないですか。ウヨウヨと」

「うようよ、何が?」

「何がって・・・・はっ!」

 すると、カレハ助教は何を思ったか、にや〜っ、と変な笑みを作った。

「おんやあ〜、これはぁ〜」

「何だ、気持ち悪い」

「これわあ〜、もしかしてぇ〜、私の魔眼がばっちり働いちゃいましたかぁ〜、やっぱり魔眼だったんですねえ〜、そうですか、皆さんには見えなかったのですかぁ。うんうん、魔眼が無いんだからそりゃ仕方ないですねぇ〜、可哀想なクソ雑魚ちゃんたちですねえ〜。うふふ」

 カレハ助教は完全な上から目線で、体もちょっと仰け反らせて、手をひらひらさせている。

 これは、もしかして——

 私は閃いた。もしかして、これまで厨二病の一種だと思っていたが、いや眼帯その他は明らかにそうなのだが、今回の出来事の間、彼女の視覚系は我々に見えない何かを捉えていたのか。

「・・・・・君には見えていたのか、我々には見えない何かが」 

「そうですねぇ。私の魔眼は捉えていたんですねえ。哀れな皆さんには見えない真実をぉ。え、なんでしたっけ?『たいせつなものは目に見えない』でしたっけ?サン・テグジなんとかさんでしたっけ?でも私にはみえていたんですねえ」

「調子に乗るな!」私は一喝する。

「さっさと話せ、君が見たものを」

「・・・・はい、すみません」

 カレハ助教は少ししゅんとして、答えた。

「あの音が鳴ると同時に、海から何だかイソギンチャクの触手のようなものがわらわら出てきて、そこら中をのたくり始めたんですね。何だか獲物を探すような感じで。だから、それが触れそうになった人を・・・・」

 私は昨夜の彼女の奇妙な言動を思い出した。フラフラ動きながら、その場にいた人々にぶつかっていた。

「そうか、君が右往左往して人にぶつかっていたのは、それから回避させるためだったんだな」

「前の調査隊が失踪したと聞いていたので、多分この触手に捕まって攫われたのではないかと思いました。あの音も触手から出ていたし、この現象の原因がこの触手ではないかと」

「なに!音もそれから出ていたのか」

「はい」

 あの怪音について、カハール博士は地球以外の生命の可能性を指摘していた。それが当たっていたということか、さすがクリス、恐ろしい子。

「・・・・それで、その触手、何本もあったのか?」

「数えてませんが、20本くらいはあったんじゃないですかね」

「その触手の及ぶ範囲は?」

「だいたいあのウッドデッキまでですね。博物館の中までは届かないみたいでした。御館様がコートニーさん達を館内に避難させたのは良かったです」

「そうか、最初にここでアレを聴いたとき、ぼくたちに何も起きなかったのは、触手から離れていたからか。9年前の調査隊はもろに触手の襲撃を喰らった。潜水艇の操縦士だけが辛くも難を逃れたわけだ。潜水艇の中には入ってこられなかったのかな、でも残りの人々は・・・・・」

「御館様?」

 不思議そうに、カレハ助教が私を見ている。

「どうしました?手が・・・・・」

 私は自分の手を見た。自分でも驚くくらいガクガクと震えている。

 いつしか心臓が早鐘のように鳴っていた。膝も震えている。椅子に座っていなければ倒れていただろう。今頃になって、私はとてつもない恐怖を感じていた。前の現象の時、外に出ていたら今頃は何処かに攫われていたかもしれないということがひとつ。それと、もうひとつ。

 自分のせいで親しい人々を失踪させるということ———。

 それは、自分ひとりが怪奇現象に遭遇したときとは全く別の恐怖だった。

「カレハ助教、ぼくは何もわからない状態で、古い友人を、そしてこの島で出会った大切な人達を、危険にさらした。もし昨夜、彼らに何かあったら、ぼくの精神は崩壊していただろう。昨日は間違いなく、ぼくの人生で最も危ない日だった」

「御館様」

「でも、君がいてくれたお陰で、最悪の事態が回避できた。誰も失わず、ぼくは救われた・・・・・。ありがとう、カレハ助教、君は恩人だ」

 私はカレハ助教に正面から向き直って、頭を下げた。恐怖に震えながら、心が洗われるほど感動していた。本当は感謝のあまり彼女を思いきり抱きしめたいくらいだったが、それはセクハラだ。

「よくやってくれた、カレハ助教、この恩は忘れない」

「え?あ、どうも、恐縮、です」

 彼女は急にわたわたして、しどろもどろに答えた。

 私は頭を下げたまま言う。

「これからは君が魔眼といっても、もうイタいと思わないよ」

「今まではイタいと思っていたんですね」

「とにかく、君のお陰で状況が明らかになった。これで対策も可能だ、さすがだな」

「いやあ〜〜、それほどでもお〜」

 カレハ助教はふんぞり返った。また調子に乗りそうだったのでこの辺にしておく。

「ところで、その触手のことをもっと教えてくれ、ちょうどここにウッドデッキ付近を映した画像データがある。それを見てくれないか?」

「お安い御用です、御館様」

 カレハ助教が机の傍に来て、ディスプレイを覗き込んだ。私は休憩直後の画像から再生を始める。博物館の二階の窓に設置したカメラだ。全体を俯瞰して見られる角度から撮影されている。

 ヒューベル博士が散水機のバルブをひねり、アームの先から振ってきた水が海面に降る、その刹那————。

「ここです」

 カレハ助教が画面を指さした。深淵の真ん中を指している。

「出てきました、今は10本くらいですかね、まだ動いてません」

 それはあのすすり泣きの発生と同時だった。やがて、女性が泣き叫ぶ音が室内に響く。何度聴いても不気味だ。

「動きだしました。2本くらいが、ほら、デッキの方に来てます」

 ほら、といわれても私には見えない。見えないが・・・・。

「ぐぬぬ」

 私は呻きながら、画面を凝視していた。

 画面では、カレハ助教が慌てたような仕草をしていて、そのままフェンネル操縦士にぶつかった。

「今、操縦士さんのすぐ横に来ていました」

 画面上では、私が遅ればせながらコートニーを引っぱって立たせ、館長とカハール博士にも館内に行くように促している。

「館長はさっきすれすれでした、いい仕事をしましたね、御館様」

「ぐぬぬ」私には見えない。

 画面内で、カレハ助教がヒューベル博士に突っ込んでいる。「ちょっと、君!」と注意された場面だ。

「ひどいですよね、せっかく助けてあげたのに」

 ちょうどよろめいた彼の横を触手が通り過ぎた。

「うん、今の言い方は酷いな、やばかった」

「ですよねえ」

 画面では、デッキ上を無数の触手がのたくっている。

「確かに、気持ち悪いな」

「そうでしょう?」

 あれ、

 私は画面を凝視した。

 見える、うっすらとだが。

 ウッドデッキの上を大蛇かタコの触手のように動く物が見えた。

「見える」私は呻いた。

 まるで昔の特撮映画の二重映しのように、デッキの上でのたうつ触手の群が見えた。

 でも、気を抜くと見失う。おそらく、あれだ、カレハ助教が「イソギンチャク」とか「触手」という単語を使ったので、私の脳がそれに合うイメージを無意識のうちに抽出して強調しているのだろう。

「御館様も見えましたか、魔眼をお持ちなのですね、もちろん私ほどではないですが」

 さりげなくマウントを取りに来るカレハ助教を無視して、私は画面を凝視していた。

 多分、これは、かつてコノハ助教が指摘していた、「君は何故かこれを見抜く」に繋がることかもしれない。

 私はコノハ助教の擬態を見破ることができた。今回も私のその特性が顕れている。もちろん魔眼などではない。通常の人間の能力の範囲内だ。

 私には見える。その理由について、少し思い当たることがあった。

「何故急に見えるようになったのですか?」

 カレハ助教も不思議に思ったらしい。でもその問いに、しかし、上手く答えられない。というか、今気づいた理由を言うとドン引きされる可能性がある。

「い、いや、どうしてだろうね」

 私ははぐらかした。これを言うかどうかはもうしばらく考えてからにしよう。

 しかし、これはちょうどいい、次からは私もこの怪触手に対応できそうだ。

 私は必死に目をこらして、触手の動きを追った。しかし、そろそろこの現象が終わる。画面上ではモニターを覗き込む我々の姿が映っていて、次の瞬間、音が途絶えた。同時に無数の触手は深淵に消える。

「消えたな」

「消えましたね」

「もう一回見よう、いや何度も見よう、見極めるんだ。触手の特徴を。どこまで届くのか、壁を抜けられるのか、何本あるのか、見えると言っても私の目は不完全だ、協力してくれ、カレハ助教」

「ふふん、いいですよお」

 カレハ助教は微笑んだ。

「それが終わったら、街に行こうか、今日のお礼だ。いいレストランで食事しよう。なんでも奢るから遠慮しないでくれ」

「ほんとですか!!」

 やったあ、とカレハ助教は童女のように飛び跳ねた。でも三回目くらいでずっこける。コノハ助教の制御はまだまだ完全とは言い難い。

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