表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ノーチラスノートII  作者: 蓬莱 葵
4/13

第4部

 5−調査

 恐るべき体験のせいで眠れない一夜が過ぎていったが、その間に何とか気持ちが落ち着いてきた。その間に私は色々なことを考えた。

 この件をどう扱うべきか。

 最初は、誰かに直ぐ報告すべきだと思った。しかし誰に?深淵の調査を依頼しているヒューベル博士か、黒い遺物に興味を持っているというクリスか、この別館の館長であるシィナ・ライト女史か、海が啼くという噂を教えてくれたコートニーは?ちょっと違うな、では、これら全員に関わる主人公、クレイ・フェンネル操縦士か。

 しかし、落ち着いて考えるうちに、他人に話すにはまだ時期尚早ではないかという気がしてきた。

 実際にあの音を聞いた人間は私だけだ。コノハ助教も聞いただろうが彼女は人間ではない。しかも、記録はほんの数秒だけ。私が言うことを信じてもらえるだろうか?あまつさえここには「海が啼く」という噂があるし、館長とクリスは、私がこれまで正気を失っていたと思っている。私が不気味な噂を信じて、ありもしないことで騒いでいると思われるかもしれない。記録だって捏造しようとしたら出来なくはない。

 もっと証拠が必要だ。

 それに関して、私には一つ考えがあった。昨日、コートニーがここでフルートを吹いたら、島の対岸にいるはずのハンマーヘッドがやってきた。ということは、ここで発せられた音が対岸まで届くということだ。もちろん、音はずっと小さくなって、ハンマーヘッドみたいな超優秀な聴覚系を持つものにしか認識できないだろうが。だが、もしかしたら、過去に発せられたあの怪音がアルケロン市にある集音装置に記録されているかもしれない。音の強さはかなり減衰しているだろうが、増幅すれば聞こえるかも。そう、この島では9年前にも同じような「啼き声」が聞こえたという噂がある。この島の状況をモニターしている保安局の観測室に行って、その日時の音源を調べればどうだ?

 そんなことを考えているうちに夜が明けてきた。

 私は一階に降りて、カフェに入り、早めの朝食をつくる。そうしているうちに、コノハ助教が降りてきた。

 昨夜、怖い現象を一緒に体験したことで、私の中にこの異形に対する不思議な連帯感のようなものが芽生えていた。

「おはよう」私は声をかける。

「おはよう」いつものように木霊がかえってきた。

「朝食ができた。昨日はびっくりした」

「朝食ができたか。昨日はびっくりしたか」

 何だかちょっと返し方が変な気がしたが、気のせいだろう。

「いただきます」「いただきます」

 私たちは向かい合って座り、朝日に輝く内湾を見ながら食事をした。

 雨はすっかり上がっている。板敷きのベランダに幾つか水たまりができて、青い空を映していた。深淵は何事もなかったかのように深い青でそこにあった。


 今日は保安局で情報収集をするつもりだったので、私はその準備をしていた。そうしているうちに、館長がやってきた。雨上がりの日差しに亜麻色の髪が輝いている。この人は今日も変わらずヒロインであった。

「おはようございます」今日は私から挨拶をした。

「おはようございます、あれ、どうしました?顔色が悪いですよ」

「ああ、夕べはよく眠れなくて」

「雨がすごかったですから」そう言って、館長はエントランスホールを見回す。

「あれ、アレは何ですか?」

 館長は受付の辺りを見ていた。私もふとそちらを見て、

「うわあ!」

 思わず叫んでいた。コノハ助教がいる。普通に立っている。 何をしているんだ奴は!館長が来たら隠れるんじゃなかったのか!バレバレじゃないか。

「あんなの、ありましたっけ?」

 館長は訝しそうにコノハ助教を見ていた。

「あ、あ、あんなの、とは?」

「マネキンですか?」

 館長が言った。私は再びコノハ助教を見る。彼女はブレード状の両足をぴったり合わせ、案山子のように立っていた。両手もすっと斜め下に完全に左右対称にして垂らしている。そして微動だにしない。その姿は、アルザス風衣装を着せたマネキンかトルソーのように見えた。

 私は気づいた。擬態だ。これまでのように天井に張り付いて体色変化したら、衣服が見えてしまう。単純なワンピースなら脱いで隠せばいいが、今の衣装では難しい。だから、服を着たまま擬態する方法として、コノハ助教はマネキン化することにしたのだ。よく見ると、白面の奥から赤い瞳が私を見ていた。何だか「この状況を何とかごまかせ」と言われているような気がした。

 私はあまりにも過酷なミッションを与えられて,目の前が真っ暗になる。それでも私は勇気を振り絞って、言った。

「あ、ああ。そうです。この博物館の雰囲気に合うのではないかと思って」

「すごく精巧ですね。街で買ってきたのですか?」

「あ、ああ。そうです」何だか変な趣味を持っていると思われそうだ。

「あの服もですか?」

「あ、そう、です。はい。私が買いました」刑事に問い詰められた犯人が「わたしがやりました」と自白してるみだいだ。穴があったら入りたい。今ここで自分で掘って入ってもいいだろうか?

「素敵ですね。この博物館のことを考えてくださって、ありがとうございます」

 館長の言葉に軽蔑とか侮蔑は含まれていなかったが、何だかこちらを憐れむような声色であった。私は「終わったな」と思った。昨日少し好感度が上がった気がしたが、これでまた最低レベルに逆戻りだ。しかしこんなとき、私には無敵の対応法があった。すなわち、『女性が私に好感などもつわけがないから、どんな風に思われようが自分には一切関係ない』、と考えるのである。そうすれば女性の前でどんなに恥をかいても安心だ。私が脇役で良かった。もし主人公だったなら、この時点で破滅である。

 私はマネキン化したコノハ助教を見た。彼女は白面の奥で私をじっと見ていた。「よくごまかしたな、えらいぞ」という表情を期待したが、そんなことは全くなかった。もしかしたら彼女にまで気持ち悪いと思われたか。あんまりだ。私にはもう何処にも救いがないのかもしれない。


 私はそれから館長に9年前の失踪事件の日付を尋ねた。館長は博物館の記録を調べてくれて、その日が8月10日であったことがわかった。今は6月の上旬だ。事件が起きた日が近づいている。だからどうだというわけではないのだが。

「深淵の調査と関係あるのですか?」

 カフェで紅茶を飲みながら、館長が尋ねた。

「直接関係はないかもしれませんが、情報は多い方がいいので」と私は答えた。

「博士」

 一通り話が終わると、館長が言った。

「ここの温室は見られましたか」

「いえ、鍵がかかっていて」

 この博物館に付属している巨大なガラス温室は、普段は鍵がかかっている。館長が植物の世話をするときや、見学希望者が来たときだけ開かれるようになっていた。私も入場料を払えば中に入れるが、今までは忙しくて入ったことはない。

「ちょっと見てみませんか?」

 館長は席を立って、エントランスホールに戻り、展示室に入った。私も後に続く。展示室の向かいの端に、温室の入口があった。館長はポケットから真鍮製の小さな鍵を取り出して、解錠し、ドアを開いた。

「どうぞ」

 私は温室に入った。

 入ると、むわっとした植物の息吹のようなものが感じられた。

 私の前には巨大なヤシの木がそびえ、その奥にはやはり巨大な木生シダが何本も立っている。その奥には南洋で見られる大きな葉をしたイモ類や、長い呼吸根をカーテンのように垂らした植物が生えていた。それらの梢の間を青い花をつけた蔦が電飾のように渡っている。足下を見ると、様々な形の植物が色とりどりの花を咲かせていた。

「・・・・すごい」

 私は目を奪われた。植物学者ではないが、珍しい植物ばかりであることがわかる。地球では見たことない種類もかなりあった。

「こちらもどうぞ」

 館長が温室内に作られた小径を歩いていく。私は周囲に目を奪われながらついていった。この温室は外から見るよりずっと広かった。洞窟の部分が内側に広く抉られていて,そこにも多くの植物がある。巨大なサボテンが何本も屹立する区画や、水生植物がたくさん植わっている小さな泉があった。奇妙な形をした食虫植物だけを集めた区画もある。

 ここなら一日中いても飽きないだろう。

 明るい日の射し込む温室を、私たちは巡り歩いた。

「ここの植物、館長が世話しているのですか?」

「いいえ、私はこうして見回って植物の具合を確認しているだけです。もし調子が悪い植物があったら、専門の人を呼ぶようにしています」

 そして、温室の海側のガラス壁に来たあたりで、館長は私に向き直った。ガラスを通した日光が館長の体の輪郭を淡く輝かせている。

「博士」彼女は口を開いた。

「博士、大変失礼ですが、あなたは地球で大切な方を亡くされたのでは。そのことで辛い思いをされていると思います。でも、悪いことばかりではありません。どうかここで、疲れた心を癒やしてください」

 そして、館長はすっと、私に真鍮製の小さな鍵を差し出した。

 この温室の鍵だ。

「え、でも、これ」

「お使いください」

「いや、しかし」

「私はあなたの言葉に救われました。だから、どうかご遠慮なく」

 ここまで話をして、私はようやく気づいた。

 この館長は、私が地球で恋人か配偶者を亡くしたと思っている。だからありもしない人物を作り出して話しかけたり、マネキンなんぞ買ってきて悲しみを紛らわせたりしていると思っているのだ。

 そんな私にこの人は同情して———。

 違う、違うんだよ館長。

 それ以前の話なのだ。そもそも私は恋人などがつくれるレベルにないのだ。一人きりだったのだよ。何もなかったのだよ。

 木通助教のことも私が勝手に作り出した幻想だったのだよ。ああ、本当に誰か大切な人がいて、もしその人を亡くして悲嘆に暮れていたのだとしたら、その方がずっと良かった。ずっと人間らしかった。でも私は、それすらもできない、そんな人情劇にも参加できない、人生の脇役、傍観者なのだ。

 私は滑稽な一人芝居を演じていただけなのだ。

 館長の哀れみが、私にはとても辛く感じられた。

 私は、その哀れみにすら相応しくない。遠く、及ばない。

 しかし、私は微笑んで館長を見る。この人の優しさは本物だ。それを壊したくはなかった。

「ありがとう館長」

 私は精一杯の強がりで、小さな鍵を受け取った。

 館長は微笑んだ。

 やはりこの人とは相性が最高に悪い、と私は思った。


 その日の午後、私はアルケロン市にある保安局を訪れた。

 保安局には観測室という部署があり、島の各所に設置された観測機器を使って、島の状況を日々モニターしている。

 レプティリカ大学の客員職員証を見せると、簡単な荷物検査の後で、私はその部屋に案内された。金属製のドアを開けると、部屋の中はまるで軍事基地の管制室のようだった。四方の壁に多くのモニターがあり、島の景色や海中の様子が映されている。そうしたモニター類の傍にある机で複数の人々が作業をしていた。

 そうしたオペレーターらしい人々の中から、一人の女性がこちらにやってきた。

「どういったご用件でしょうか?」

 私が2060年の8月10日に記録された音声データを確認させて欲しいと言うと、その女性は「こちらにどうぞ」と言い、近くにあった席に私を案内した。

「この机の機器をご自由にお使いください。該当する音声データへのアクセス権を付与しますので」

 そうしてそのオペレーターは席に戻っていった。

 私は卓上のコンピューターを操作しながら、それとなく室内を見回す。一度見ておきたかった。この部屋が、先のノーチラス事変で実質的な対策本部となり、ここで怪物群との対決が行われたのだ。

 ここにあるモニター群には、その時の様子が余すところなく映し出されていただろう。

 まず最初に襲ってきたのは、全長15メートルのヘラクレスオオカブトのような節足動物であった。これはコードネームが付く前にフェルドランスに撃破された。この怪生物にはハンマーヘッドが四匹、蛹の状態で付着しており、怪生物との戦闘中に孵化して街を攻撃してきた。そのうち一匹はヒューベル博士によって電磁投射砲により撃破され、残りの三匹は無人機ミスラックスの自爆により殲滅された。

 一ヶ月ほど後、分類学的に類縁関係が不明な物体「チューリップ」が襲来。街に大きな損害を与えた。チューリップは不定形の上層部分とヒトデのような形をした下層部分に分かれていたが、いずれもフェルドランスにより撃破された。

 それからほどなくして、「トリポッド」と命名された類縁関係不明な物体が襲来した。トリポッドは表皮に金属を濃縮し、高度な飛行能力を備えていたことに加え、数十匹が同時に飛来したため、街は甚大な被害を被った。これらは保安局の火器とフェルドランスにより全て撃墜された。

 これら全ての怪物を生み出したのが、トリポッドと共に襲撃してきたマンディブラスであった。爬虫類のような形態をした、全長200メートルに及ぶ超巨大生物だった。研究所から脱走してから11年の間に、ここまで成長していたのだ。驚くべきことに、人工進化研究でつくられたこの生物は、自分自身の体内で別の生物を生成できる特性を備えていた。すなわち、まるで免疫抗体のように、敵を殲滅するための新生物を体内で発生させて外部に放出するのである。研究に関わった組織はこれを「外部免疫」と呼称していた。この原理は不明だ。どれほど複雑な生物を生成できるのかも不明。この「外部免疫」の仕組みを知ることは極めて重要であったが、それについてはほとんどわかっていない。怪物群からDNA情報は採取できたが、その配列を読むだけではこの謎は解けないようだ。

 だが、これに関しては、今の私には重要な手がかりがあった。

 コノハ助教も同じものかもしれない。コートニーが匿っているハンマーヘッドとコノハ助教はおそらく同じクリエイターによってつくられている。ということは、あの怪人物は、マンディブラスと同等の能力を持っていることになる。

「彼女はぼくの最高傑作」という言葉にも説明がつく。

 彼女は所謂「外部抗体生物」だ。

 今の生物学を根底から揺るがす可能性のある秘密を、彼女は持っている。

 ここで、私が持つ妙な勘が作動した。

 あの怪人物はマンディブラスの写し身、複製だ。

 今回も後になって後付けの推測が追いついてくる。本物のマンディブラスがフェルドランスによって殲滅されたのは間違いない。死体も確認されている。何といってもクリスが「あいつめ、頭を吹っ飛ばしやがった」と嘆いていたので絶対だ。

 ということは、マンディブラスは、この島に襲来する前の段階で、自身が殲滅されたときの保険として、あの怪人物をつくった。「外部抗体生物」が作れるのであれば、自身を完全コピーすることも可能だろう。その際に人型の形態にすることも。

 複製、と言う単語が私の脳裏で激しく明滅する。それは、この事件の、いやそれよりもっと大きくて恐ろしい秘密への、鍵のような気がした。


 そんなことを考えながらも私は過去のデータを確認していた。数あるデータの中から9年前の8月10日の音声記録を探し出し、なるべくリール・ド・ラビームに近い位置にある集音器の情報にアクセスする。ちょうど森林地帯の中程で記録された音声データがあったので、それを再生した。

 ヘッドホン越しに、当時の音が聞こえてくる。

 あれ?

 最初、マイクの故障かと思った。ブツブツという音が間断なく聞こえる。しばらくして、気づいた。

 雨音だ。このときは雨が降っていたのだ。音の大きさからして、かなりの豪雨である。私は時刻を確認した。午後8時。

 私はそれからデータを早送りしながら聞き続けた。

 午後8時から9時。何も変化なし。画面上には音の周波数を示す画像がヒマラヤ山脈のように表示されているが、雨音を示すピークばかりだ。

 午後9時から10時。変化なし。

 午後10時から11時。変化なし。

 午後11時から、12時、変化なし。

 だが、午前零時をまわったとき、それは起きた。

 画面上に、これまでは見られなかった小さなピークが現れた。そしてそれと同時に———。

 聞こえる。微かだが、確かに聞こえる。

 女性が泣き叫ぶような声が、雨音に混ざって記録されていた。

 小さな音だ。しかも雨が降っている。探し出すつもりで聞かなければ気づかないだろう。このとき、街の人々はこの音に誰も気づかなかったはずだ。

 私はその音声データを音声解析ソフトに放り込んで、雨音のノイズを消す処理をした。微かに捉えたピーク部分を増幅して再生すると、先ほどよりも鮮明にその音が聞こえた。昨夜の音と同じだ。私は冷え冷えとした恐怖を感じていた。このとき、まだ未開のリール・ド・ラビームでは怪しげに海が発光していて、そこにいた調査員が全員失踪したのだ。一体何が起きていたのか?

 その時、私の頭に一つの仮説が閃いた。

「・・・・・まさかね」

 そう思いながらも、「あの、すみません」と私は先ほどのオペレーターを呼んだ。

「どうしました?」

 若い女性オペレーターは親切に対応してくれる。温和そうな人だ。先の事変では、この人もここで生死をかけた闘いを経験したのだろうか。

「すみませんが、今年の音声データのアクセス権も下さい」

「今年の、いつですか?」

「4月です」我々がここにやってきた時だ。あ、我々じゃなかったか。まだしつこく木通助教の面影が脳裏に残っている。

 私はオペレーターからアクセス権をもらい、それを使って私が来た日の音声データを再生した。

 やはり。

 午前零時を過ぎた頃、嵐の音に交じって、遠く、あの音が聞こえた。

 やっぱりだ。

 あの音は、「嵐の夜」にだけ聞こえるのだ。

 私が来た夜にも、あの音は響いていたのだ。島の誰も気づかなかったのは、その音が雨の「夜」に限られていたからだ。私が来るまでリール・ド・ラビームには日中しか人がおらず、夜は無人だった。島の各地で調査をしている人々も、危険が多い夜には街に戻ってくる。雨音で音がかき消されていたこともあるだろう。そんな理由で、嵐の夜にいつも響いていたあの音が、これまで気づかれなかったのだ。いや、誰かは気づいたのだろう。それが「海が啼く」という怪談を生み出したのだ。

 私は証拠を掴んだ。我ながらいい閃きであった。こんな閃きが毎日のようにあったなら、私でもクリスのような研究者になれたかもしれぬ。


 これで決まった。

 あの深淵の調査をはじめよう。

 最初はあのブルーホールの中にマンディブラスに関わる何らかの痕跡を探すことが目的だった。だが今となっては前代未聞の怪現象の証拠を得たのである。せっかくあそこの調査権を持っているのに、これを調べない手はない。

 それに、私もコノハ助教も、あの深淵には何か重大な秘密があることを察していた。私の場合は研究者の勘だ。ならばそれに従うのが当然ではないか。

 私は保安局を出る。目の前には広場があり,その向かいに時計台があった。大きな文字盤が付いた時計台は、毎時に荘厳な鐘の音で時を知らせる。

 この時計台の屋根裏部屋でも怪奇現象が起こるとコートニーが言っていたな。そう思って時計台を見上げると、そこにコノハ助教がいた。

 屋根の上に、黒衣の少女が立っている。スカートが風に靡いて、まるで映画か何かのようだ。私の視線に気づくと、彼女はくるりと背面宙返りをし、空中でリーガン・モードに変形して、ゴシック様式の尖塔にとりつくと、塔の裏側に飛んで消えた。

 なにあれ、かっこいい

 いやそうじゃなくて、なんて奴だ、あんなことしていたら、何れ誰かに見つかって、時計塔に纏わる怪談がどんどん増えてしまうではないか。

 私はそれから大学に行った。特に何か用事があったわけではないが、大学教員としての習性のようなものだ。

 私は大学のカフェでコーヒーを飲んだ後、学内の廊下を歩いていた。そういえばいつもここでコートニーが現れる。まるで妖精か、幽霊のように。

 もし、今日も現れたなら、偶然では有り得ない確率だ。そうなった場合、彼女は本当に妖精少女なのか、それとも。

 木通助教と同じく、私の脳が作り出した幻か。

 そう考えると怖くなった。私の中にある現実が音を立てて崩れていく気がする。何を信じたらいいのかわからない。全てが幻かもしれない。研究所にいるはずのクリスも、館長も、ヒューベル博士も、あの主人公さえも。

 私は、いつも彼女が現れるタイミングで、背後を振り返った。

 誰もいない。

 よかった。コートニーが現実の少女であったという安堵と、よくわからない一抹の寂しさが胸をよぎる。そして、自分は一体何をしているのだろうと思った。

「先生」

 背後から声がした。びくっ、と息が詰まる。

 やはりそうか。あんな少女が都合良く私に懐いてくれるはずはない、やはり彼女は———。

 私は振り返った。

 コートニーが立っていた。やはり、現れた。

「どうしたんですか」

 妖精少女がこちらに歩いてくる。

「顔色が悪いですよ」

 そういえば、昨夜から一睡もしていない。館長にもそう言われた。

「君は」私の声は震えていた。

「君は何故、現れる?何故ぼくがここを歩いていたらいつも?」

「何をいいますか」

 コートニーは呆れたように言って、中庭の向かいの建物を指さした。

「先生、いつもここをフラフラ徘徊しているじゃないですか。ほら、中等部の教室はあそこの三階にあります。先生が不審者みたいにウロウロしているの、まる見えです」

 コートニーは機嫌悪そうに言った。

 ああ、そういうことか。私は安堵した。どうやら狂っているわけではないらしい。あの怪人物と、それから館長にも脳を操作されたせいかもしれない。ストレスがかかると自分の記憶に自身が持てなくなる。

 疲れているな、と私は思った。あと、無意味に歩き回るのは止そう。

「コノハさんは一緒ですか?」コートニーが私の横に並んで歩き出す。

「ああ、さっきは時計台にいた」

「会ってもいいですか?」

「もちろん。なら人がいないところに行かないと」

「じゃあ、時計台にしましょう」

「時計台?」

「屋根裏部屋だと誰もいませんから」

 そして私はまた時計塔に戻ることになった。

 道すがら、私はコートニーに昨夜のことを話した。

 そもそも「海が啼く夜に気をつけろ」と言ってきたのは彼女だ。本当にそれが起きたのだから報告した方がいいだろう。

 コートニーは目を丸くして聞いていた。

「すごい」

 聞き終わると彼女は青い瞳を輝かせた。

「本当だったんですね。じゃあ生き残った人がいるという噂も」

「それはわからない」

「そこを先生が調べるんですね」

「そうなるね、ヒューベル博士とフェンネル君に協力してもらうけど」

「そうですか。そうですよね」

 コートニーの声音が心持ち沈んだものに変わった。

 やはり心配なのだろう。あんな怪奇現象が起こる場所を調べるのだから。

「先生」コートニーが言う。

「クレイはいつも『帰ってくるから』と言って出ていって、必ず帰ってこないんです」

 私はノーチラス事変の経緯を思い出す。三度の怪物襲来のたび、フェルドランスは大きなダメージを受けた。一度目は墜落し、二度目は大破し、三度目には完全に破壊された。操縦士が生き延びたのは奇跡である。それらの出来事をこの少女は目の当たりにしたのだ。彼女自身も最初の襲撃で家を失い、父親が瀕死の重傷を負った。今回の調査で怪物が襲い来る可能性は低いだろうが、無事に終わる保証はない。

 私が黙っていると、コートニーがぽつりと言った。

「先生とコノハさんで、クレイを護って、帰してください」

 この少女はあの操縦士のことが大好きなんだな。私は黙って頷いた。この少女は私のような者にも優しく接してくれた。その恩は返したい。コートニーには詳しく話してはいないが、彼女は薄々察しているのかもしれない。あの怪人物は今回の調査が危険を伴うものであることを予見していた。だからコノハ助教を私に託したのだ。

 しかし、と私は考える。もしこの調査が、あの人物が言うように危険を伴うなら、そもそも行う必要はあるのか?調査は行わず、私は本来予定していた怪物調査だけを行い、報告書を書いてこの島を去ることもできるのではないか。すでに危険であるとわかっていることに他人を巻き込む必要はあるのか?

 だが、と私の心の中で何かが叫ぶ。

 お前は研究者ではないのか?探究すべき謎を前にして、「止める」なんてことができるのか?それができるならさっさと他の仕事に就いているのではないか。それができない人間だから、ここにいるのではないのか。

「コートニー」思えば、私はここで初めて少女の名を呼んだ。

「なに、先生?」

「フェンネル君は、どう思うだろう、危険だとわかっていて、行くだろうか」

「そんなこと」

 コートニーは少し淋しそうに、しかし諦めたような明るさで、言った。

「もう止められないよ、先生。先生は謎を見つけた。みんなもうそれに夢中になる。この島の人なら誰も。もちろん私だって」

 だから、はじめよう、と妖精少女は言った。


 街からリール・ド・ラビームに戻ると、すでに日が落ちていた。強烈な眠気がする。昨夜から一睡もしていないのだ。私は睡魔と闘いながら夕食を作り、博物館のカフェのテーブルに並べた。

 当然のようにコノハ助教が私の向かいに座る。

「「いただきます」」

 同時に言って、私たちは夕食をとった。

 それから私はよろよろと食器を片付け、屋根裏部屋に行ってベッドに潜り込んだ。

 それから翌日の朝まで熟睡し、私は目覚めた。

 12時間くらい眠ったせいか、頭がぼうっとしている。

 まだ夢の中にいるみたいだ。少し頭痛がする。私は頭痛薬を飲もうと思い、ベッドから起きだして、夢遊病患者のように部屋を出た。

 階段を降りるときに、下から上がってきたコノハ助教とすれ違った。

「よく眠れたか?」

「ああ、ぐっすり」

「それはよかったな」

 私はぼーっとしたまま階下に降り、薬を飲んで、朝食の準備をする。

 何だか気分がいい。心の奥底が暖かい。さっき何かいいことがあったか?頭が重いし、頭痛がするので、よくわからない。


 その日の午後、何やら大きな荷物を抱えて、コートニーがリール・ド・ラビームにやってきた。

 コノハ助教に用事があるのだという。

「コノハさんは、街ではいつもどうやって移動してるんですか?」

「多分、リーガン・モードになって、屋根の上とか建物の隙間を移動しているんだと思う」

「それじゃ不便ですね」

「ああ、そのうち目撃されて『怪奇クモ女』という妖怪譚が流行るだろうな」

「じゅあやっぱり、何とかしよう」

 そして今、彼女は博物館の屋根裏部屋で、コノハ助教に無理矢理ブーツを履かせていた。しかしコノハ助教の足は先端が尖っているので、なかなか上手くいかないようだ。

「手と足と顔さえ何とかしたら、街中を歩けると思うんだけど」彼女は思案していたが、手足と顔を何とかするなんて、ほぼ不可能ではないのか。

 それでも彼女は家から持ってきたという編み上げブーツを苦労して履かせ、手には黒い長手袋を嵌めた。こうすると節足動物じみた球体関節が隠れるので、一見すると人間に見える。しかし顔は白面のままだ。いまのままでは、「人のような仮面をかぶり、人に擬態した何か」以外の何者でもない。

 コートニーはそれから、鍔広の帽子をかぶせ、顔には大きめのサングラスを嵌めて、口には黒いマスクを装着した。

「どう、先生?」

 私の目の前に、帽子とサングラスとマスクで顔を隠した黒づくめのものがいた。

「大女優か!」

 私は思わず突っ込んでいた。


「それで、深淵の調査は他に誰が参加するの?」 

 大女優がエレガントに立っている横で、屋根裏部屋の木箱に腰掛けたコートニーが尋ねた。

「今のところ決まっているのは、探査機担当のヒューベル博士とフェンネル操縦士、調査現場であるリール・ド・ラビームの博物館の館長、それに遺物に興味を示しているカハール博士かな」

 でも、と私は続ける。

「もう一人、だれか深海か縦穴の調査実績がある人に入ってもらう必要がある」

「縦穴調査、ですか?」

「そう。今回の計画にはその専門家がどうしても必要だ」

「それなら」コートニーが目を輝かせた。

「いい人を知ってます!」

「だれ?」

「私の、お父さんです」

「君のお父さん?確か、モーリス・キャンベル教授」

 私はその名を何度か聞いたことがある。この島にある調査箇所の一つ、「K−13縦孔」の調査責任者の一人だ。そこは密林の中にぽっかり空いた巨大な井戸のような場所である。そこをずっと調査してきた人物なら、今回の調査には適任だ。

「引き受けてくれるなら願ったり叶ったりだが、あの人は『K−13縦孔』の調査で手一杯なんじゃないのか?あそこもかなり面白い場所だと聞いている。こっちの調査に加わる余裕があるかな?」

「それなら大丈夫。お父さんが入院している間に、同僚の准教授がいろいろ進めてくれて、今はその人に任せっきりにしてるみたい」

「ふむ。そうか。そうだな、じゃあ、依頼してみよう」

「やったあ」まるで子供のようにコートニーが歓声を上げた。あ、いや、子供だったな。

 そういうわけで、今回の調査メンバーはだいたい確定した。

 ちなみに、コノハ助教の変装計画については、「今よりもっと目立ってしまう」という理由で頓挫した。

 コートニーは少ししょんぼりして帰っていった。どんまい。


 その夜、私はコノハ助教と向かい合って夕食を取っていた。

 私の目の前で、白面をつけた球体関節人形のようなものがハサミ状の手でフォークを掴んでパスタを食べている。

 この光景にはだいぶ慣れた。

 私はぼんやりと、白面にかかる灰色の髪を見ていた。

 もうずっとずっと前、私が駆け出しの博士研究員だった頃の話だ。私は論文に載せるためにミミズトカゲ胚の写真を撮っていた。なかなかいい感じに撮れなくて苦労していると、隣の研究室の教授がやってきた。腕利きの研究者として有名なその人は、私が悪戦苦闘しているのを見ると、「背景を綺麗な灰色にしろ」とだけ言って立ち去った。私は言われるままに、照明や露出を工夫して、自分なりに「綺麗な灰色」の背景になるようにした。色弱でも色はわかる。私なりに最高の灰色にしたつもりだった。そしてその写真は論文に載り、そのせいではないだろうが、けっこういい雑誌に掲載されて、私がこの世界で生き残るきっかけを作ってくれた。コノハ助教の髪色はそのことを思い出させる。この髪の色はあの時と同じ————。

「綺麗な灰色だ」

「いきなり何を言う」

 澄んだ声音で非難するように言われて、私は慌てて取り繕う。

「あ、いや、失礼した、考え事をしていて・・・・・」

「私の髪の色のことか」

 まずい。いきなり女性に向かってえらいことを言ってしまった。セクハラだ。訴えられる。

「あ、いや、そうじゃ、なくて・・・・」

「じゃあ、何なんだ?」

「あ、いや、でも、そう、なのかな」

「どっちですか」

「うう」

 私はしどろもどろになった。

 そして私はようやくにして、強烈な違和感を感じた。

 コノハ助教が、しゃべっている?

「・・・・コノハ、助教?」

「なんだ」

「話を、してるのか?ぼくたちは?」

「してるだろう?」

「え、いや、う、うそだ、そんな、バカな・・・・」

「何をいまさら。これまでにも話をしただろう」

 私はここ数日のことを思い出す。そういえば、木霊にしては受け答えが変なことがあった。

 コノハ助教は平然として、赤い目で私を見ている。というか白面なので表情はわからない。

「きっ!」

 私はテーブルから思いきり身を乗り出していた。

「聞きたいことがっ、山ほどある!」

 私は異形のものに向かって叫んでいた。思えば人生でこんな経験は初めてだ。目の前にいるのは白面をかぶり赤い目でこちらを見る未知の物体。そんなものに話しかけている。この感じは、どう言えばいい?高性能のAIが搭載されたロボットに本気で話している感じか?いや、違う。相手は生物だ。

 最も相応しいとしたら、そう、宇宙人と本当に話す機会があったとしたら、こんな感じなのかもしれない。

「教えてくれ!おまえは一体何なんだ!」

 コノハ助教は無表情のまま、食事をする手だけを止めた。

「何なのだと言われましても」

 そして彼女はパスタを口に運んだ。

「まだ、語彙が足らない。貴殿の問いには答えられませぬ」

 何だか言葉遣いが変だ。語彙が足らないというか、話し方に一貫性がない。まるで複数の人格が混じっているような感じだ。言葉を学習中ということだろうか。

「語彙の蒐集が進めば答えることもできよう。それまでお待ちを」

 私は言葉に詰まった。聞きたいことは本当にたくさんある。お前は何者なのか?どうやって動いているのか?何を考えているのか?あの人物は何者なのか?

 そして、お前はこれから起こることを何処まで知っているのか?

 しかし、私はそれらの問いを飲み込んだ。本人が「待て」と言っているのだ。相手も知的生命体である。こちらの都合を押しつけるのは得策ではない。

 一般の人々は、研究者ならこういう場合に否応なく相手を質問攻めにすると思うだろう。だが違うのだよ。私にはちゃんと分別があるのだ。

 実際のところは、過去に私は人間に対して似たような状況で話をダメにしたことがあるのだ。その時に学習したのである。

 異生物との最初の会話なのだ。失敗はできない。

 ちなみに、クリスならこんなとき、否応なく相手を質問攻めにし、拷問してでも情報を聞き出すだろうな、と思った。

「じゃあとにかく、言語を学んでくれ。図書室に教材が山ほどある。必要ならレプティリカ大学から取り寄せよう。とにかく急いでくれ」

「貴殿らが深淵の調査をするまでに何とかしよう」

 こいつは我々の調査のことまで知っている。どこまで深く我々のことを理解しているのだろう。私はコノハ助教と出会った頃に感じた空恐ろしさを再び感じた。

「コノハ助教」私は少し警戒しながら尋ねる。

「君は、味方だよな」

 コノハ助教は白面の奥の赤い瞳で私を見た。

「味方、の定義がわかりませぬ。だが」コノハ助教は続ける。

「貴殿らと共にあれ、そう命じられた」

「あの人物にか?」

「そうである」

「彼は、何者だ?」

「それを語るには語彙が足らない」

 そうか。この質問はまだダメだ。

 それとは別に、私とコートニーがこれまで彼女に対してしてきたことを思い出した。ちょっと不味いことをしてしまったかも。

「コノハ助教、その、こちらの都合で君に服を着せたりしてしまったが、よかったのか?」

「問題ない。この衣装はよいです。あの小さい人間も好ましい」

「それなら、よかった。彼女はコートニーだ。そう呼んでやってくれ。そしたら喜ぶから」

「御意」

 御意だって?かっこいいじゃないか。私も一度言ってみたい。御意。しかしこんな言葉を何処で覚えてきたのだろう?

 私はそれから、当たり障りのない程度で彼女に幾つか尋ねてみたが、ほとんどの答えは「語彙が足らない」であった。やはり待つしかない。

 そうして話をするうちに、私はこれまで私が彼女に対して取ってきた言動がいささか、いやかなり申し訳なくなった。口には出さなかったが、サシガメだのザトウムシだのビロードツリアブだの、好き勝手にたくさん想像してしまった。すまない、コノハ助教。

「その、これまで変なことを言ったりしてしまった。気を悪くしてないといいのだが」

「貴殿の物言いは興味深い」

 コノハ助教は素っ気なく言った。どうやら大丈夫らしい。よかった。

 だが、私には最も気がかりなことがあった。彼女と話をするうちにそれがどんどんいたたまれなくなる。私は思い切って彼女に告げた。

「ぼくはこれまで君に失礼な態度を取っていたと思う。無遠慮に見たりとか。申し訳ない。これからは気をつける」

「いいさ」とコノハ助教は言って、「だが」と続けた。

「だが私は木通このはではない。それを期待されても困ります」

 その言葉はグサッと、私の心に突き刺さった。この異形少女め、よくわかっていらっしゃる。人間の脳が入っているんじゃないのか。私はそう思って、そうかもしれない、と考えた。あの怪人物がコノハ助教を作ったとき、脳の神経回路を人間に似せて作った可能性は充分にある。逆に、そうしなければこんなにも容易に人間と意思の疎通ができるわけがない。

「君、脳はあるんだよな?その思考は何処からくるんだ?」

「知らぬ。例えば貴殿が何の基礎知識もない状態で、心は何処にあるのかと聞かれて、答えられますか?」

 確かにそうだ。心の在処についてはギリシア哲学以来の人類の疑問だったわけだしな。日本でも心の在処は脳ではなく「心臓」だった。

 コノハ助教のことをクリスに知られるわけにはいかない、と私は思った。こんな興味深い材料を彼女が放っておくわけない。

「君の語彙が増えて、脳の在処に見当がついたら教えてくれ」

 私はとりあえずそう言って、異生物とのファースト・コンタクトを終えた。

「話は終わりかね」

 コノハ助教が席を立つ。その仕草が妙に人間くさく見えた。節足動物みたいな肌で、手足も尖っているのに、何だろう。本物の少女のようだ。

「図書室に行く。いい本があったら教えてください」

「ああ」私はすたすた歩くコノハ助教についていった。不思議な気分だ。このリール・ド・ラビームに人間は私ひとりだというのに、こうして誰かと話をしている。そのせいか、私は自分でもほとんど意識しないままに尋ねていた。

「君はずっとここにいるのか?それともいずれ去っていくのか?」

 コノハ助教がくるっと振り返る。黒いスカートが翻った。

「どうしてそんなことを聞く?私にいてほしいのですか?」

「い、いや、そういう、わけでは」

「ああ、そうか、私の容姿を気にしているのだな、コートニー嬢もそうだった。それなら心配ない。人間の群集にも紛れられるようにする」

「どうやって?」

「貴殿は何故かこれを見抜く」そう言って、コノハ助教は白壁のところに行き、そこを背にして皮膚の色を変えた。四肢と顔が周りの景色に溶け込む。衣服だけが宙に浮かんでいるように見えるが、彼女の輪郭はぼんやり残っていた。彼女が腕を曲げて上下に動かす。衣服は動いていないし、背景も白いので正常者の色覚では手の動きはほとんど見えないはずだ。だが私にははっきり見える。その動きを目で追う。

「どうしてわかる?どうして貴殿には私が見えるのだ?」

「そ、それは」

 私は色弱のことを言おうとして、躊躇した。そのことがバレるのは良くないのでは?しかし嘘は得意ではないし、これ以上の隠し事はストレスが溜まりそうだ。

 コノハ助教の体色がすうっと元に戻っていく。その間に私は覚悟を決めて、自分の色覚のことを告げた。

「——赤緑色弱か。その可能性は最初に考えて、対策した。今の私は色弱者の視界からも消えているはずだ」

「なんだって!」

 ということは、どういうことだ?何故、私には見えている?

「貴殿よ、気味がわるいな」

 まさか異形のものにそんなことを言われるとは思わなかった。

 私は不思議な後ろめたさと罪悪感を感じた。これではまるで変質者ではないか。しかも人外のものにまで変態扱いされるとは相当なレベルだ。

「ごめん」

「いいさ。だから、他の方法をとることにした」

 壁から離れて、コノハ助教が言った。

「他の方法とは?」

「せっかくコートニー嬢が靴やら何やら持ってきてくれたのだ。アレを活用できるようにする」

「どうやって?」

「ふふん」

 驚くべきことに、コノハ助教が笑った。白面は全く動いていないし、目は宝石のように一切の表情がないのに、私には笑いの表情を作ったように見えた。

「貴殿よ、会話というのはいいものだな」

 そして彼女は私の前で体を翻す。新体操の選手のように華麗に仰け反り、そのまま両手をついて、両足を高く上げて回転した。黒いアルザス衣装が華麗に翻る。彼女は、すたっ、と元の姿勢になった。

「図書室に行こう」

 いつの間にか、彼女の話しぶりが安定していた。そして私はいつしか、人間と話をするような気安さで彼女と会話していることに気づく。

 だが、ごく当たり前の会話をしているようでも、相手は人ならざる者で、ここは深い森と海によって街から遠く隔てられ、孤立した博物館なのだ。もし今、誰かが窓の外から異形と話をする私をこっそり覗き見たとしたら、どうだろう?

 それはきっとこの上なく恐ろしい光景であるだろう。


 数日後、私はヒューベル博士の家にいた。

 いま私は、洞窟の格納庫を出たところ、白い滑走路が真っ直ぐ伸びたところに立っている。今回の調査について、担当者で集まって話をすることになり、その場所としてここが選ばれたのだ。リール・ド・ラビームでもレプティリカ大学でもよかったのだが、ヒューベル博士の予定などにより、ここになった。

 海からの風が心地よい。今日の話し合いは午後3時。あと一時間後である。私は少し早めにここに来ていた。

 ヒューベル博士は崖上の家にある管制室にずっと籠もっていたが、しばらくするとこちらにやってきた。

「いい眺めでしょう?」

 青い水平線を見ながら博士が言った。眩しそうに目を細めている博士に、私は以前から少し気になっていたことを尋ねた。

「博士、フェルドランスはこの電磁カタパルトから発進するんですよね?だとしたら、行きはいいけど帰りはどうするんですか?この洞窟には帰投用の滑走路がないし」

「ああ、フェルドランスには推力偏向ノズルがありますから、垂直に離着陸できます。探査現場に滑走路はありませんからね。ここでカタパルトから射出するのは単に燃料を節約するためです。帰ってくるときは、ほら、博士の傍にある耐熱ヘリポートに普通に着陸します」

「ああ、そうでしたか」

「でもね」と、ヒューベル博士はにやりと笑った。

「水中探査の後で海から帰ってくるときとか、エンジンが不調の時は、もう一つ、秘密の出入り口があります」

「秘密の出入り口?」

「そう、この洞窟は、この島の探査が始まって間もない頃に、鉱物採掘用に試験的に掘られた坑道を改造したものです。穴は他にも掘られていて、このちょうど20メートル下に海に通じる水平のトンネルがあるんですよ。そこからここまで垂直のエレベーターがあります。ほら、あそこに」

 ヒューベル博士が指さす先を見ると、洞窟の奥に丸いターンテーブルのようなものがあった。その周囲には黄色と黒の警告帯が描かれている。

「あれがエレベーターの土台で、乗ると下の海底トンネルまで行けます。降りたところにちょっとした整備用の空間があって、その先にあるトンネルから海に抜けられます」

 まるで秘密基地だ。

「面白そうですね」

「リール・ド・ラビームを調査するときにはヴァーミスラックスでここから海中に出ます。あれは飛べませんからね」

 当のヴァーミスラックスの姿が格納庫にない。私はそのことを尋ねた。

「今、調整のために海に出ています。もうすぐその海底トンネルを通って帰ってきますよ」

 そう言うと、ヒューベル博士は壁にあるスイッチ類の一つを押した。

 警告音と共に、先ほど見たエレベーターに赤いランプが点り、そのまま下に降りていく。まさに秘密基地だ。井戸のようにそこに深い穴ができた。

 そして、5分ほどすると、再び警告音が鳴って、エレベーターが作動した。そして、紺色の機体がせり上がってくる。ヴァーミスラックスだ。

 エレベーターが完全に停止すると、水に濡れたヴァーミスラックスは金属レールで整備台まで運ばれていった。

「あれは海水ですか?」塩分による腐食のことが少し気になったので尋ねると、ヒューベル博士が首を振った。

「まさか。海水をここに大量に持ち込まれたら堪りませんからね。下に洗浄機があって、真水で洗っています」

 機体が完全に停止すると、コクビットハッチが開いた。操縦席にフェンネル操縦士が座り、その後ろの席にコートニーが座っている。

「こんにちは、先生」フェンネル操縦士が挨拶する。

「こんにちは、先生」コートニーもにこっと笑った。

 私は手を挙げて挨拶した。

 フェンネル操縦士もコートニーも楽しそうだ。コクピットの中でどんな会話をしてきたのだろう?

 その時ふと思った。この二人は私に親切にしてくれる。でも彼らはお互いにもっと深い信頼関係を築き上げているのだ。操縦士は島の奥地で探査機を操りながら、彼女が目を輝かせるような事はないかとモニターを覗くのだろう。コートニーはここで操縦士に会えることを楽しみに、学校からの帰路を急ぐのだろう。それに彼らは他にも様々な人々と関わって暮らしている。操縦士はヒューベル博士と軽口を言い合い、館長とは兄妹としての会話をしているだろう。中等部に上がったばかりのコートニーは慣れない環境の中を手探りで歩んでいるだろう。彼らの人生は私にお構いなく進んでいくのだ。

 私はそれを傍から見る脇役だ。でも、もし彼らの物語の中に、少しでも私の痕跡が残ったとしたら、十年先にでもふと私という科学者がいたことを思いだしてくれるなら、それはきっと素晴らしいことなのだろう。

「先生、今日はご機嫌だね、いいことあった?」

 コートニーが尋ねた。

 私は頷いて、「まあね」と言った。


 その後、我々はヒューベル博士の家に集まって話し合いをした。

 一階にある応接間に、今回の調査に関わる人々が集合している。部屋はよく片付いていたが、六人も入るとかなり窮屈だ。ソファが足りなくて、フェンネル操縦士とライト館長は「専門外だから」と遠慮して簡単な椅子を持ち込んで座っている。カハール博士は少し居心地が悪そうだ。もともとこういった話し合いはあまり好きではないと言っていた。クリスよ、申し訳ない。

 私はそこで初めて、コートニーの父親であるモーリス・キャンベル教授に面会した。教授は頬髭に白いものが混じり始めた初老の考古学者であった。昨年の怪物襲撃で重傷を負い、生死の境を長く彷徨ったそうだ。しかし今は見る限り元気そうだった。キャンベル教授は私に挨拶すると、

「コートニーが世話になっているようだね」と言った。

「いえ、そんな」私は恐縮した。むしろ私の方が世話になっている気がする。

「君とクレイ君のお陰で、あの子はすっかり元気になった」教授は感慨深げに言った。少し淋しそうに見えるのは、気のせいだろうか?

「・・・・・以前は元気がなかったのですか?」

 当のコートニーはここにはいない。ここには研究関係者だけが集まっている。彼女はたぶん外でコノハ助教と遊んでいるだろう。

「彼女がここに来たのは一年くらい前だが、その頃は塞ぎ込んでいてね。家からもほとんど出なかった」

 今の彼女からは想像できない。過去に何があったのだろう?彼女一人で父親の元にやってきたということで、私は薄々事情を察したが、それ以上は尋ねなかった。

 そうこうしているうちに、話し合いが始まった。

「調査に関してなのですが」まず、ヒューベル博士が口を開いた。

「例の不気味な音と深淵の発光現象を調べるわけですよね」

「そうです」と私は答えた。ヒューベル博士は続ける。

「ということは、その現象が起きるその時にやらないといけない。博士の話だと、その現象は嵐の夜にだけ起きるという。そのタイミングでの調査は難しいのではないですか?」

 すると、マスクで顔を覆ったカハール博士が口を挟んだ。

「そうだ。しかも、嵐といっても強いものから弱いものまで色々だ。どの程度の嵐ならその現象が起きるのか、目途はついているのかね」

「それについては」と私が答える。

「過去の嵐のデータを保安局で調べました。一時間あたりの降雨量が20ミリメートル以上の雨が午後8時以降に降った場合に、あの音が記録されています」

「ほお、よく調べたものだ、さすがですな」

 変装してなかったら「さすが師匠」と手を叩いてくれそうだ。私はちょっと嬉しかった。

「でもそんな嵐はそう頻繁には起きません」とヒューベル博士。

「それが起きるまで待ち続けるのは現実的じゃないですね。上手くいかなかったら次の嵐まで待たないといけないし」

「そう、それが問題です」私は正直に認めた。それについて何かいいアイデアがないかと思って、今日の会合を開いたのだ。

「話は少し変わるが」とキャンベル教授が言う。

「あそこでは他にも変な現象が起きていたんじゃないかね?たしか、海水面が変動するとか」

「そうです」

「それについては、今も起きているのかね?」

「はい。ほぼ毎日、夜間に5〜8センチメートルの幅で内海の水位が下がります。朝には元に戻りますが」

「ふむ」とキャンベル教授は呟いた。

「それと、今回の『海が啼く』現象が関係している可能性は?」

「どういうことですか?」

「あくまで私の推測だが、その海水面の低下は夜間に起こるのだろう?海が啼くのも夜の間だけだ。ということは、海水面の低下は一種のスタンバイ状態で、それが起きている間に一定量の雨が降って、水面が一定程度上昇したら、それが引き金となり、海が啼く」

 すごい、さすがコートニーさんの父親だ。冴えている。

「それは有り得るかもな」カハール博士も言う。

「雨、つまり淡水が一定量内海に注ぎ込まれることがきっかけになるなら、こちらで淡水をあそこに供給すれば、我々の好きなときにあの現象を起こせるな」

 話がすいすいと進む。キャンベル教授に入ってもらったのは正解だった。クリスもといカハール博士との相性もいい。カハール博士が続けて言った。

「まずは教授の仮説を検証しよう。とりあえず夜になったら、あそこに大量の水を放り込むのだ」

「ヒューベル博士」とキャンベル教授が言う。

「大量の淡水を供給できるような機器は調達できるかね?」

「う〜ん」ヒューベル博士はしばらく考えていた。

「消防車みたいなものですよね。私が所属している研究機関にはありません。でも、保安局に掛け合えば一台くらい借りられるかも。向こうに余裕がある場合に限られますが」

「とりあえず借りられる日を確かめてくれないかね?その日に実験できるように調整しよう。海の縦穴調査に必要な機器については私が調達する。館長、どうだろう?君の博物館だ、あそこに調査機器を配備することになるが、それでいいかね」

 それまで話に加わらずに部屋の隅にいたライト館長は、いきなり話を振られて少し慌てていた。

「だ、大丈夫です、日程がわかったら教えてください」

「ありがとう館長」

 何だか学者連中は楽しそうだ。私もその一人なのだが。ちらりとフェンネル操縦士の方を見ると、複雑な表情をしていた。研究者としてこの場にいたいが、自分は一介の操縦士に過ぎないと考えて口を控えているのかもしれない。

「フェンネル操縦士、実際に潜るのはあなただ。何かありますか?」だから、私はそう尋ねてみた。

 フェンネル操縦士は少し考えて、答えた。

「少し気になるのは、あの黒い遺物ですね。可能性は低いですが、あの深淵に何かがいる可能性はあります。ヴァーミスラックスに武装はついていません。だから、実際に潜る前に危険な兆候がないかよく見ておくべきだと思います」

「わかりました、では」と私は話の取り纏めに入った。

「まずは仮説の検証。予想通りの現象が再現されたら、それを精査し危険度を見極める、次の機会で探査機の投入、それでいいですか?」

 そこにいる全員が頷いた。


 ヒューベル博士が給水車の手配を進めている間に、私はキャンベル教授と一緒にリール・ド・ラビームに縦穴探査用の機器を運び込んでいた。ちょうど博物館の前に広いウッドデッキがあるので、そこに様々な測定機器を据え付ける。父親が参加するということで大義名分を得たと自認しているのか、コートニーは当然のようにやってきて、父親をいろいろ手伝っていた。何だか微笑ましい。それに彼女はコノハ助教の存在が公にならないように気をつけてくれている。コノハ助教は相変わらず人がいるときはマネキンに擬態しているのだが、同じ場所に同じ格好でいると退屈なのか、時々移動して姿勢を変える。そのときにコートニーは「私が動かしました」とフォローしてくれた。私は館長に変態扱いされにくくなったことが嬉しい。

 夜になって博物館に人がいなくなるといつも、コノハ助教は夜行性の昆虫のように動き出して、図書室に行った。そしてそこでずっと本を読んでいる。私は少し前に彼女が見せてくれた「アクロバット本読み」をもう一度見たかったのだが、今の彼女は普通に椅子に座って本を読んでいた。先端がハサミ状になった手で器用にページをめくっている。

「上手く進んでいるようじゃないか」

 コノハ助教が本に目を落としたまま言う。

「この分だと調査は直ぐに始まるのかな」今や彼女の話し方は人間そのものだ。最初はまるで話し方の違う二人の人間がいるみたいだったが、素っ気ない話し方に落ち着いたようだ。白面が滑らかに人語を発しているのはとても異様な感じだった。あと、「御意」とか言ってくれなくなったのが少し残念である。

「まだわからない」私も手近にあった本を取ってページをぺらぺらめくりながら答えた。

「コノハ助教、君はこの深淵の底に何があるのか知っているのか?」

「知らない」

「でも、あの人物は知っていたはずだ。だから君をよこしたのだろう?彼から聞いていないのか?」

「聞いていないな。余計な知識は不要と考えたのかもしれない」

「なら、君は、何があると思う?」

「さて、今はまだ情報が足りないな」

「でも、もしマンディブラスに纏わる何かがいたら、君なら気がつくだろう。モゲラにすぐ気がついたように」

「あれは浅い湖だからすぐにわかったが、ここは深いだろう。100メートルはあると聞いたぞ。そんなに深くにいたら、わからないだろうな」

「そうか」

 そのとき私は、コノハ助教が読んでいる本がふと気になった。何だろう、すごく嫌な予感がする。

「何を読んでいるんだ?」

「君の本だよ」

 彼女は私が地球にいるときに書いた書籍を広げていた。

「な、なんでそれを?そんなものを——」

「君がここに置いたのだろう」

 そうだ、なんとなく地球から持ってきて、密かにここの蔵書に加えておいたのである。ほんの悪戯心だったのだが、まさかよりによってそれを読んでいるとは。

「いや、読まないでくれ、恥ずかしい」

「恥ずかしいと思うものを何故書いた?」

「え、いや、それは・・・・・」

 ご尤もだ。だが、その本は地球では全く売れなかったのだ。私の知り合いも誰ひとり読んでくれなかった。書評は知らない。怖くて見ていないからだ。この本は私の人生の汚点、まさに自己満足の塊でしかなかったのだ。それがまさか人間以外の者に読まれてしまうことになるとは。

 半ば嫌がらせのように、こんな所に置くんじゃなかった。

 コノハ助教は黙ってページをめくる。

 私はいたたまれなくなって、図書室を退室した。あの本は後で処分しておこう。


 翌日、二人で朝食を終えた後、私はカフェで食器を片付けていた。

 隣のエントランスホールから、カツ、カツと音がする。コノハ助教がハルキゲニア・モードになって歩き回っている音だ。

 彼女はたまにこの姿で館内をウロウロしている。

 何故なのか尋ねたところ、「この姿なら私一人で制御できる。関節が少ないからな。君たちもそうじゃないのかね」と言われた。

 彼女は時々こんな言い方をする。何を言っているのか、よくわからない。でももしかしたら、コノハ助教にとって変形することは、我々がデスクワークの時に時々姿勢を変えるとか、気晴らしにジョギングするとか、そんな感じなのかもしれない。

 私はカフェを出た。見ると、コノハ助教はエントランスホールの中を、円を描くようにグルグル回っている。何かを小声で呟いているようだ。

「・・・・んだ・・・・・はばら・・・・ちまち・・・」何を言っているのだろう?

「・・・・うえの・・・・うぐいす。ダニ?・・・・・にっぽり」

 私は気づいた。山手線だ。東京の山手線の停車駅を順番に言っているのだ。なんて奴だ、いったい何処で覚えたのか?そして何故そんなものを覚えようと思ったのか?

「・・・・・にっぽり」そこでコノハ助教はピタリと止まり、しばらくしてから「かんだ」と言って歩き出した。あ、戻った。まだ日暮里までしか行けないのか。

 コノハ助教はまた歩き出し、「・・・・ウグイスダニ・・・・にっぽり」まで来て止まる。

「西日暮里」私は見かねて助け船を出した。

「・・・・たばた・・・・」山手線が再び回り出した。

 館長が来る時刻になると、コノハ助教は背面に仰け反りながら床を蹴って、そのまま空中で一回転した。黒いアルザス衣装が翻って、一瞬の間に人型の「ミミック・モード」に変形する。まさに目にも止まらぬ速さだ。コートニーはスカートだから気をつけてね、と言っていたが、そんな心配は無用だ。速すぎる。コノハ助教は美しく着地すると、貴族の令嬢のように優雅に挨拶した。

 私は思わず息を呑むが、コノハ助教は両手を高く掲げ、勝利したボクサーのような姿勢になって、台無しにする。

「なんだそれは?」

「フィラデルフィア美術館の前に、こんな像がある」

 ああ、あれだ。無名のボクサーのアメリカン・ドリームを描いた有名な映画にちなんで創られたやつだ。しかしアレはハリウッドが誇るすごい筋肉俳優を像にしたものだ。アルザス衣装を着た華奢なコノハ助教が真似ると凄い違和感があった。それに、いつも思うが、こんな知識を何処で得たのだろう?

「その姿勢で館長を迎えるつもりか?」

「いきなり、えいどりあーん、と叫んで彼女をおどかしたら面白いぞ」

 やめてくれ。コートニーや私が言い繕うのに苦労する。

 そういえば、コノハ助教がコートニーに初めて話しかけたときは大変だった。

 数日前のことだ。その日はキャンベル博士が探査用機材を運んでくることになっていたが、少し手間取ってしまったので、まずコートニーだけが書類を持ってリール・ド・ラビームにやってきた。彼女はいつものようにエントランスホールに入ると、マネキンのように立っているコノハ助教に「こんにちは、コノハさん」と挨拶した。もちろんこのとき彼女はコノハ助教が自在に話せるとは知らない。その時、コノハ助教の赤い目がちらっと私の方を見た。それは、何というか、子供が悪巧みをしているような邪悪な視線だった。

 コートニーはコノハ助教の衣装を整えている。

 コノハ助教は、コートニーに向き直って、言った。

「ワレワレワ、ウチュウジンダ」

 コートニーの動きがピタッと止まった。彼女は大きな瞳を一杯に開いてコノハ助教を見つめ、しばらく口をぱくぱくしていた。

「ワレワレワ、ウチュウジンダ」コノハ助教が繰り返した。

「う、宇宙人だったの?」コートニーは困惑している。

「ソウダ」

 コノハ助教は手の先のハサミをカチカチいわせながら「フォッフォッフォッ」と啼いた。

「こ、こんにちは、ち、地球人です」彼女はあたふたしながら答えた。

「ワレワレワ、ウチュウジンダッタノダ」

「それは、さっき聞いたけど・・・・」

「ナマゴミハ、モエルゴミダッタノダ」

「・・・・そ、そうだよ。だからちゃんと——」

「ワレワレワ、シラナカッタノダ」

「そ、そう」

 コートニーは困惑しきっていた。そんな彼女の前で。コノハ助教は「ワシワシワシ」と奇っ怪な音を立てた。

「SPF値ガチガウ日焼ケドメクリームヲ全身ニ斑ニヌッテ外ニデタラ、皮膚ガ迷彩柄ニナルトオモウカイ?」

「し、知らない」

「一人カ二人ガ歌ッテイテ、ウシロデ大量ニ踊ッテイルアイドルグループハ、CDニナッタラ意味ナイト思ワナイカイ?」

「そ、そういうコンセプトじゃないの?」

「タ〜ベチャウゾ〜!」

「きゃあああ!」

「いい加減にしろ」私は見かねて止めた。

 それ以来、コノハ助教はコートニーとよく話している。コートニーにとってはいい友達ができたようで、前よりもさらに明るくなったように見えた。いいことである。

 だが私は、少し気がかりなことがあった。コノハ助教の方はこれでいいのだろうか?私は某有名ボクサーのポーズを取っているコノハ助教に尋ねた。

「コノハ助教」

「なんだね、君」

「君は、あの人物に命じられてここに来た。言い換えれば無理矢理によく知らない所に来させられたことになる。君の方はそれで良かったのか?」

「そうだなあ」コノハ状況は少し姿勢を変えて考え込むような雰囲気を出した。白面なので表情には全く出ないが、その辺の具合がなんとなくわかるようになってきた。

「もしもここが、地球の都会のようなつまらない場所だったら、自分への処遇を恨んだだろうな。でもこの島は充分に面白いし、君たちの計画も実にエキサイティングだ。それに関われるのは嬉しいことだよ。むしろこっちからお願いしたいくらいだ」

 それならよかった。

「それに」とコノハ助教は続けた。

「ここにいる人間達も興味深い。コートニー嬢は可愛いし、館長と操縦士は何やらただならぬ関係みたいだし、君は気味が悪い」

「うう、申し訳ない」

 気味が悪いと言われてしまったことで、私は少し前の会話を思い出した。あの時はコノハ助教の擬態を見抜いたことで気味が悪いと言われた。その時たしか、コノハ助教は「擬態の方法を変える」と言っていたはず。あの話はどうなったのだろう?

「そういえばコノハ助教、群集の中でもバレないような擬態をするって言ってたよな?」

「ああ、よく覚えているな、えらいぞ」

「それくらい覚えているさ、それで、どうなった?」

「準備は整った。練習もしっかりやった。擬態の効果を知りたければ、そうだな。明日の午後三時に、街に・・・・私に服を買ってくれた店がある通りに来てくれ」

「え?ここじゃダメなのか?」

「ダメだな。全然ダメだ」

「そうか、わかった」よくわからなかったが、私はそう答えた。

「本当にわかっているのか?」コノハ助教が念を押す。

「ごめん、わかってない」

「その通りのどこかに私がいるよ。もし一時間経っても見つけ出せなかったら・・・・、どうしようかな」

 コノハ助教はにやりと笑った、ように見えた。

 私は理解した。彼女は早速群集の中に紛れるつもりなのだ。そして私に見つけ出せと言っている。そんなことできるのか?私はコノハ助教の甲殻類のような白い外骨格を見た。そして無機質な白い面を。この姿で人間の中に紛れるというのか?

 本当にそれができたら、彼女はまさに魔法使いだ。館長に続いてこの島で二番目の魔術師である。

「わかった」今度はちゃんと理解した。何だか面白そうだ。

「もしぼくが見つけ出せなかったら、何か一つ願いを聞こう、対応できる範囲でだが」

「たいへんよろしい」

 それから、私は先ほどのコノハ助教の台詞で気になったことがある。

「話は変わるが」私はコノハ助教に問うた。

「館長と操縦士がただならぬ関係とは、どういうことだ?」

「言葉通りの意味だ」

「あの二人は兄妹だろう、何があるっていうんだ」何だろう?コノハ助教がそんな深夜アニメか昼ドラみたいな下世話な話をするとは思えないし、あの二人に限ってそんなことはないだろう。いくらなんでも。

「君よ」コノハ助教は少し呆れたように言った。

「君は時々、気味が悪いほどの勘の良さを示すときがあるが、今回はからきしだな。あの二人を見て気づかないのか?」

「気づく?何に?」

 コノハ助教の赤い目はいつも通り表情がない。しかし私はこのとき、その中になにか空恐ろしいものを見たような気がした。

「あの二人こそ、この島の、そしてこの世界の秘密をそっくりそのまま体現している。まるで地球とインフェリアの縮図のようだ」

 秘密?島の秘密だって?

「自分が何を言ったかわかっているのか!」私は勢い込んで尋ねた。いきなりすごい話になった。この異形少女は、知っているというのか?これまで人類が半世紀かけても解けなかった、この島の秘密を?

「君は知っているというのか?」

「ふ〜ん、知りたいのかい、君」コノハ助教は少し意地悪そうだった。のっぺりした白面からそんな感情まで汲み取るとは、私の方も大したものである。いや、ただの気持ち悪い奴なのかもしれないが。

「知りたい、教えてくれ」

「いいけど、でもそれじゃつまらなくないかい?君は推理小説を最後から読むタイプなのかな?そうは見えないんだが」

 意地が悪そうにコノハ助教が言う。はぐらかしているわけではなさそうだ。彼女は本当に知っている。この島に関する核心的な何かを。でもそれを素直に私に伝えるつもりはないらしい。

「推理小説と言うからには、何かヒントがあるのか?」

「あるよ、さっきから言っているだろう、あの二人だ」

 あの二人に何が?私から見ると、二人は正統なヒロインと主人公。でも確かに、兄妹と聞いたとき少し違和感があった。コノハ助教が言っているのはそのことか?

「私に見えるものが君には見えないのか。よく観察してみるんだな。シャーロック・ホームズだって言ってるだろう、『ワトソン君、観察することだよ』と」

 この助教、いつの間にかコナン・ドイルまで読んでいたのか

「それから、そうだな。博物館の本館には何度か行ったことはあるね」

「ある。あそこが何か?」

「博物館の周りは見たかい?」

「いや、博物館の中だけだ」

「今度、よく探してみればいい」

「コノハ助教、君はあの博物館に行ったことがあるのか?」

「行ったよ、何度かね。君が大学内を意味もなく彷徨している間に」

 そうだったのか。私が大学にいる間に,彼女は彼女でいろいろやっているらしい。

「この島はいいところだよ」改めて、感慨深げにコノハ助教は言った。

「そしてここもいいところだ。ここには本があるし。そういえば君の本が見当たらない。どこにいったか知らないかい?」

「知らない」

「とにかく、ここには本があるし、謎があるし、君のような気味が悪い奴がいる」

 コノハ助教の声音が少し変わった。私が知らない気配だ。それを知りたくて私は彼女を注視する。

「物語はいいものだ。でも、大抵、いいことがあると必ず悪い方に展開する。物語は現実の影法師だ。ここの日々も、これからきっと変わっていくんだろうな」

 寂しさ?侘しさ?そんな感情が見え隠れした。

「我々はそれに備えなければならない」

 その時、博物館に館長がやってきた。コノハ助教はそれきり何も言わず、彫像になりきっていた。いつしか姿勢が変わっていて、彼女は片手を天にかざし、祈るような、何かを掴もうとするような姿をしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ