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ノーチラスノートII  作者: 蓬莱 葵
3/13

第3部

 4―深淵より

 しかしどうしたものか。

 博物館の一階の海寄りの場所にあるカフェで朝食の後片付けをしながら、私は思案していた。

 今日も多分館長がやってくるだろう。その時にコノハ助教の存在を知られるのはまずい。

 ちなみに彼女は食事の際にはリーガン・モードになる。さっきまで私がつくったトーストと卵焼きにあの長い角を突き刺して採餌していた。やはりあれは口吻なのであった。その姿はとても人間には見えない。まるで巨大な昆虫と一緒に食事しているような感覚であった。

 食事が終わるとコノハ助教はハルキゲニア・モードになったが、その変形は見物だった。仰け反った姿勢から、片側の手足を支点にして体をくるりと回転させ、うつ伏せ型になる。その際に肘と膝の関節がピンと伸びてカチンと音を立てて連結され、四肢が長槍のようになった。灰色の髪が翻って、その時に白い顔が一瞬カパッと開いたような気がした。髪がさっと白い顔に被さると、金色の角が無くなっている。どうやら白面の裏に収納されたようだ。どうなっているんだ?あの角は折りたたみ式のアンテナのようになっているのか?

「コノハ助教」

 私の呼びかけに、カフェの中をカツカツと歩いていたコノハ助教が反応した。白い顔が私の方を向く。

「博物館の館長がもうすぐやってくる。君は見つからないように隠れていたまえ」

 通じているかどうか全くわからないが、私はそう告げた。

 するとコノハ助教はくるりと回転してリーガン・モードに変形した。長い棒みたいだった四肢に関節ができて、仰向けの腹這いになる。

 コノハ助教の姿がすっと消えた。同時に天井からカッという、何かが木に突き刺さるような音がした。

 私が一瞬遅れて天井を仰ぐと、天井にとりついたコノハ助教がいた。天井に仰向けにはりつき、赤い瞳で私を見下ろしている。あの手足の関節はどうなっているのか?一見すると人間とは逆方向に曲がっているようにも見えるが、本当にそうなのか?とにかく、その姿を見て私は時代劇に出てくる忍者を連想し、いやむしろ「遊星からの物体X」という古い映画に登場したモンスターに近い、と思った。

 折しも、隣にあるエントランスホールで、玄関の鍵が開くガチャッという音が聞こえた。玄関のドアから館長が入ってきたらしい。

 コノハ助教が天井に張り付いたのは、この気配を察したからかもしれない。私の言葉を理解しているかどうかは、従って未だ謎である。

 私はドアを開けて、カフェからエントランスホールに出た。

「おはようございます、博士」

 隣の部屋の天井に怪物が張り付いているとは想像すらしていないであろう館長は、明るく挨拶をした。私は少し申し訳なくなる。

「おはようございます、館長」私はそう言いながら、館長に気づかれないように隣のカフェをみる。ドアのガラス窓越しに、コノハ助教の姿がちらっと見えた。驚いた。コノハ助教の姿が段々と天井に溶け込んでいく。体色変化だ。周りの色に合わせて自分の体色を変えているのである。カメレオンみたいな奴だ。

 やがて、紺色のワンピースだけが天井付近に浮かんでいるようになった。そのワンピースがくしゃくしゃになって見えなくなる。脱いで体の背後にでも隠したのだろう。

「いいお茶があるのですが、いかがですか?」

 こんな時に限って、館長が気を利かせてくれる。おそらく私を気遣ってくれているのだ。しかしタイミングが悪すぎる。

「いま、煎れますね」

 そう言って館長は天井にコノハ助教が張り付いているカフェに入った。私はヒヤヒヤしながら後に続く。さりげなく天井を見て、やばい、と思った。

 コノハ助教の輪郭がうっすら見える。本人は周囲の色に完全に溶け込んでいるつもりかもしれないが、色が完全には合ってない。これでは、館長が上を向くとバレてしまう。

「どうしました?」

 私の焦りが少し面に出ていたらしく、館長が訝しそうに尋ねた。

「い、いえ。何でもありません」

 ここで怪しい態度を取っていたら、コノハ助教のことを知られてしまう。そうなったら大事だ。

「上がどうかしましたか?」

 館長は勘が鋭いらしく、天井を見上げた。

「うわあああ!!」

 私は思わず大声を上げた。

 館長がびっくりして目を丸くした。

「どうしました?」

「い、いえ」私はしどろもどろになる。コノハ助教のことを見られてしまった。もうだめだ。

 しかし、館長は不思議そうにこちらを見ている。

 その眼差しから、「この人、またおかしくなったのかしら」という思いが伝わってきた。ああ、また狂っていると思われてしまった。でも——。

 あれ?

 コノハ助教に、気づいていない?

 私は少し困惑した。上目遣いにちらっと天井を見る。やはり、コノハ助教の輪郭がうっすら見えた。

 どういうことだ?私はわけがわからなかった。しかし、幸いなことに館長にはまだバレていない。ならば、ここは何事もなかったように対応すべきだ。

 私は、平静を装いつつ、そして館長が要らぬ注意を天井に向けないように、彼女の気を引くような話をすることにした。

 気を引くといっても女性好みの話などできるわけがない。私は過去にこの場所で起こったことについて、館長に尋ねてみることにした。

 紅茶の準備を始めた背中に話しかける。

「確か、10年ほど前に、ここで調査が行われていたそうですね」

「そう聞いています」厨房で館長は答えた。

「その時のことを、何かご存知ですか?」

 私はさりげなく上を見る。コノハ助教は、こちらをじっと見ていた。聞き耳を立てているようにも見える。

「私も詳しくは知らないのですが、この内海の潮位が毎日決まった時間に変動するということがわかって、その原因を調べようとしていたようです。内海に深みがあるのはご存知ですよね」

「あ、はい、あのブルーホールみたいな所ですね」

「そうです。今でもあそこに潮位計を置いて計っています。展示室の隅に記録装置があるので見ていただければいいですが、夜になると5センチくらい潮位が下がります。朝には元に戻りますけどね」

「その原因を調べようとした?」

「そうです。あそこに探査用の機器をいれて、物理的・化学的な調査をしていたようです。その時、あの深みの奥で、異様に高い重力が検出されました。同時に、あの黒い物体が採集されました。もうご覧になりましたよね」

 私は頷いた。

「あの物体については生物の残骸のように見えます。実際にDNAも採取できて、配列解析が行われたのですが、損傷が酷くてよくわからなかったそうです」

 そして、「どうぞ」といって館長が紅茶をくれた。湯気の立つカップにはミントの葉が浮かんでいる。

「いただきます」

 彼女が向かいの椅子に座るのを待って、私は一口飲んだ。

「美味しいですね、これ。ありがとうございます」

 そう言うと、館長は微笑んだ。やはりこの人はいい人である。

「・・・・それから、何か進展はあったのですか?」

「その後、多分あの深淵の調査が行われたと思うのですが、それに関する資料は残っていません。調査隊は消息を絶ちました」

 確か、コートニーの話では、その時生き残った人がいて、何やら不思議なことをいっていたとか、確か、天使を見たと。

「生き残りがいたと噂で聞いたのですが」

「そんな噂はありますね。でも記録には残っていません」

 そう言って、館長は紅茶を口に運んだ。

「では、海が啼くという話については」

「それも、調査隊失踪事件に関連して生まれた怪談でしょうね」

「ふむ」

 どうやら、実際の記録として残っているのは調査隊の失踪と、あの黒い遺物だけのようだ。

「あの遺物、DNAの解読ができなかったそうですが」

 私はかつての木通助教の言葉を思い出し、少し突飛すぎる仮説であることを認めた上で、尋ねた。

「あれが、先の『ノーチラス事変』で襲撃してきた怪物と関係がある可能性は?」

 話が飛躍しすぎたか、と思ったが、館長の反応は予想外のものだった。館長は怯えたようにびくっと体を震わせた。手に持っていたカップから紅茶が溢れそうになる。細い手がカタカタと震えていた。

「・・・・ど、どうしてそんな、ことを」

 これまで他人事のように受け答えしていた館長が、明らかに狼狽していた。鳶色の瞳が不安の色に染まっている。私は館長の突然の変化に戸惑っていた。

「いえ、すみません。特に根拠はありません。ただ、もしもあの怪物がこの島に潜んでいた期間があるとしたら、高い重力のために探査機器が入れない、あのブルーホールが怪しいのではないかと」

「そ、そうですか・・・・。確かに、あの黒い遺物がマンディブラスか、その眷属の一部である可能性は否定できません。でも・・・・まさか・・・・・」

 館長の態度は明らかにおかしかった。何故だ?この人はなぜ例の怪物についてこんなにうろたえているのだ?その時、いつも何の役にも立たない私の直感が働いた。

「館長」私は、後になってから尋ねるべきではなかったと後悔した問いを口にした。多分、こんなことをするから私には友人ができないのだ。

「きみが、あの怪物を野に放ったのか?」

 館長の表情がみるみる変わる。彼女はまるで死神でも見るような目で私を見ていた。

 私の直感からずいぶん遅れて、それを補填するようにあたふたと推理が追いついていく。マンディブラスの研究は「ノーチラス博物館」で行われていた。ということは研究拠点である博物館の経営者がその研究の代表者であった可能性が高い。マンディブラスを生み出した人工進化研究の関係者は全滅したという。だが、彼らに幼い子供がいたらどうだ、研究関係者が全滅したのは12年前。そして、その子供が館長だと仮定すると、その当時彼女はまだほんの7歳か8歳だ。その年齢なら「関係者」には含まれないだろう。館長が研究主任かつ博物館の館長であった人物の子供であるとする仮説は、この少女が博物館の館長をしていることで補強される。この年齢でそんな職に就いているにはそれなりの理由があるはずだ。例えば、もともと博物館の住人であった、とか。そして、怪物脱走事件が発生して関係者が全滅する中、彼女だけが生き残った。その理由はおそらく彼女が何らかの形で怪物に関わり、そいつが逃亡するきっかけを作ったから————。

 館長は死人のような顔で私を見ていた。カタカタという音がした。ティーカップがテーブルにあたる音だった。細い指がガクガクと震え、紅茶のカップは手元から離れ、テーブルの上でひっくり返った。

 溢れた紅茶がテーブルを伝い、端からぽたぽたと床に落ちる。

 館長の口元が震えている。鳶色の瞳が怯えの色に染まっていた。

 私はあまりにも酷いことをした。今更後悔しても遅すぎる。昨日からずっと私のことを気遣ってくれた人に、私は酷いことを聞いた。恩を仇で返してしまった。

 そして、私は最も見たくないものを見た。館長の目に涙が滲んでいた。自らの言葉が浮かばせた涙に、私はこの場から逃げたしたくなる。

 絶句している館長の目から涙が溢れて、頬を伝っていく。

 沈黙が続いた。壁に掛かっている古びた時計から、振り子が揺れる音だけが響いていた。

 やがて、彼女は震える声で話し始めた。

「言いたいことをはっきりおっしゃる方ですね、博士。でもその方がいいかもしれません。そうです。私はマンディブラスをよく知っています。報告書は読まれましたよね。あれは島で秘密裏に進められていた人工進化計画でつくられました。そしてその主任をしていた研究者が、私の父なのです」

 私の勘は概ねあたっていたようだ。本当に、ろくでもないことにだけ勘が鋭くなる。そのことでいつも人を深く傷つけてしまう。この人は身内が死亡した場所にたった一人残されて、これまで生きてきた。そんな人の触れられたくない過去を私は暴いてしまったのだ。

 館長がそっと涙を拭い、話を続けた。

「その日は——」

 私はその時、初めて館長に会ったときに感じた、暗い闇のようなものが、すうっと彼女の背後に広がるのを見たような気がした。

「その日は雨が降っていました」

 館長はぼつりぼつりと語り始めた。

「私が研究所に行くと、マンディブラスが外に出ていて、・・・・その頃はまだ幼体で、小さくて、私にも懐いていたのですが・・・・」

 館長は語った。後に島を襲撃することになるその怪物は、すでにその時点で研究員を殺戮していた。だが館長はそのことを知らなかった。するとただ一人生き残っていた彼女の父が研究所から出てきて、そいつを射殺しようとした。館長は咄嗟に怪物をかばい、そして———。

「そして父は倒れました。私が血に染まった父の背中を見ているあいだに、それは逃げていきました」

 館長は俯いて話を終えた。この人は、自分が怪物を逃がしてしまい、そのために11年後の災禍を招いてしまったと思っている。その後悔は今も深く彼女の心に残っているのだ。話したくなかっただろう。私が要らぬことを聞かなければ、彼女はこんな話をしなくて良かったのだ。

「すみません」

 私は自分の浅慮を恨みながら、館長に声をかけた。

「でも館長、あなたに罪はない。あの怪物を作ったのはあなたではないし、逃がしたのだって、どうしようもなかったことだ。あなたには関係のない話ですよ。どうか自分を責めないで下さい」

「いいえ」

 館長は唇を噛み締めるようにして、言った。

「罪は、あるんです。私はあのとき・・・・」

 それきり、館長は黙ってしまった。

 沈黙が流れる。館長の後悔は怪物を逃がしたことだけではなかったのか。何か、とても暗く不気味な気配が見え隠れする。彼女の周りに漂う闇のような気配の正体はこれだ。

 私は冷えてしまった紅茶を見つめていた。

「博士」

 唐突に、館長が顔を上げた。

「調べてみましょう」

「え?」

「そこの深淵です。あなたが言ったことが本当かどうか、確かめるべきです」

 私は館長を見返す。人形のように整った顔。鳶色の瞳が私を見つめていた。

「あの怪物はこの世から姿を消しました。ひとりの人の人生を犠牲にして。でももしもあれの眷属が残っているのだとしたら、滅ぼすべきです。そうでなければ、その人が、報われない」

 唇を噛み締めながら、館長はそう言った。私には館長の事情はわからない。だがおそらく、館長は12年前のその日、怪物に関して、何か恐ろしい選択をした。一人の人物の運命を変えるようなことをしてしまったのだ。そしてそのことを今でも悔やんでいる。でも私には詳細がわからないから、どう答えたらいいのかわからない。人の気持ちもわからないから、こんなとき何を言えばいいのかもわからない。普段の私なら沈黙を決め込んで、この状況から逃避していただろう。調査の同意が得られたことに安堵すらしたかもしれない。

 だが、館長の覚悟を決めたような眼差しと、思い詰めたような言い方は、私にらしくもない回答を強いた。私は、「いいお茶ですから」と言って館長が煎れてくれた紅茶を見つめ、そして、一息に飲み干した。

「館長」私は言葉を選びながら、答える。

「あなたはきっと見なくてもいいものを見て、しなくてもいいことをした。あなたがその人に何をしたのかは知らない。だが、私はそれでその人の人生が狂ったとは思えない。人それぞれに背負うものは違うし、背負い方も違う。あなたに何を言われたにせよ、結局はその人が決めたことだ。あなたはとてもいい人です。だからその人はきっと、あなたを助けたいと思ったのでしょう。それでもし、あなたが助かったのなら、その人はそのことを誇りにしていることでしょう。死の間際にでもふと思い出して、自分の人生は無駄ではなかったと思うほどに。あなたはその人に呪いをかけたつもりで、その人を救済していたのです。あなたはもう何もしなくていい。あなたはあなたらしく生きればいいのです」

 館長は黙っていた。自分の罪を暴いた者から知ったようなことを言われて、さぞかし気持ち悪いだろう。私は要らぬことを言ったと後悔し、でも言いたかったのだから仕方ないと自分を納得させて、テーブルにこぼれた紅茶を片付け、退席した。

 私がカフェを出た後も、館長はそのまま、そこにいた。

 その肩が少し震えているような気がして、私はいたたまれない気分になった。

 私はふと上を見る。私と共にカフェを出たらしいコノハ助教が、頭上から私を見下ろしていた。宝石のような赤い目がまるで非難するような鋭い眼差しで私を見ている。


 館長には後悔してもしきれないことをしてしまった。私はしばらく自分の部屋に籠もって自己嫌悪に沈んでいた。最悪のやり方でリール・ド・ラビームのブルーホールを調査する同意を得たことに、死にたくなる。私はしばらく頭を抱えて苦悶していたが、波のようにやってくる胸の痛みから逃れるために、その手配を進めることにした。まず、調査計画書をつくって保安局に提出する必要がある。書類一式はもらっているので、私は小一時間かけて必要書類を作成した。調査の申請理由は概ね木通助教が、つまり私の深層意識が、提案したものである。博物館の黒い標本を根拠にして、「ノーチラス事変」の怪物の残存個体がブルーホールの深部に潜んでいる可能性を検証するというものだ。

 私は書類を携えて博物館を出た。電子媒体で送信することも可能だが、しょっちゅう原因不明の電波障害が起こるこの島では、重要な事柄はアナログで処理するに限る。

 私は白い橋を渡り、トロッコ列車に乗り込んだ。コノハ助教の姿は見えない。何処かに潜んでいるのか、あるいは博物館の中にいるのかもしれない。もしそうなら館長に見つかる可能性があるが、さっき擬態していた感じなら大丈夫そうだ。ちなみに館長がまだ博物館に残っているかどうかは不明だ。さすがにあんなことを言った後では顔を合わせづらいので、私は忍者のようにコソコソと博物館を出ていた。

 一時間ほどで私はアルケロン市に着き、街の広場の脇にある保安局に調査の申請書類を提出した。ちなみにこの保安局は、平時には街の治安維持や事故への対応を行っている。この島に出資している国々から払い下げられた軍用装備を幾つか保持していたことが幸いし、先の「ノーチラス事変」では怪物撃退に大いに貢献した。

 私は次に、調査に使う探査機を見たいと思い、保安局の電話を借りてヒューベル博士に連絡をした。探査機を見せてもらえまいかと尋ねたところ、「いいですよ」との返事。しかも今からでもOKだという。私は感謝して、ヒューベル博士が実験場にしているメイオラニア丘陵まで赴くことにした。


 メイオラニア丘陵には、できたばかりの線路が延びている。その路線はアルケロン市から始まり、森に入ってしばらくすると、リール・ド・ラビームに向かう線と分岐して、博物館前を通り、更に森の中を伸びていた。かつて木通助教と一緒に乗ったことがある。実際は私一人だけだったのだが。だが今は、トロッコの荷台にコノハ助教がいた。街中にいたときには全くいる気配がなかったのに、列車に乗ると、いつの間にか巨大な昆虫のように壁に張り付いていた。屋根がない荷台に初夏の風が吹き込んできて、リーガン・モードになったコノハ助教の灰色の髪とワンピースを揺らす。ところで、彼女の髪は何でできているのだろう?我々と同じケラチンだろうか?少し違う気もする。しかし調べさせてくれるとは思えなかったので、私はそれ以上考えないことにした。

 やがて、森の中の線路は登りになり、しばらく行くと森を抜けて、周囲はなだらかな草原地帯になった。線路は緩いカーブを描きながら草原を巡っていく。草原には初夏の風が渡り、色とりどりの花が咲いていた。しばらく行くと海が見えて、その先の崖に小さな家が建っているのが見えた。切り立った崖の中腹に洞窟があり、その入口から海に向けて白い桟橋が延びている。崖上の家がヒューベル博士の住居兼実験室で、洞窟が探査機の格納庫だ。洞窟の入口はかなり高い位置にあるので、そこから出る桟橋には長い橋脚がある。白い桟橋の両側からヤシの梢が覗いていた。桟橋は滑走路になっているようだ。

 ヒューベル博士の家の手前くらいに小さな駅が作られていたので、そこで降車し、乗ってきたトロッコ列車を駐車場に移しておく。周囲は草原であった。所々に小さな池が点在している。至る所に花が咲いていて、高山の湿原のような美しいところだった。コノハ助教はいつの間にか姿を消している。よく見ると草原の中を紺色のワンピースが移動していた。手足や顔の部分は周囲の色に合わせているらしく、不明瞭だ。草原の中をワンピースだけが移動していく様子はシュールだった。ただし目をこらすと彼女の輪郭が見える。やはり周囲に溶け込めていない。それがどうも腑に落ちない。コノハ助教の能力なら完全に周囲の色に合わせるのは可能に思えた。そして、コノハ助教の体色変化は館長には確かに有効であった。

 もしかして、

 私は思い当たった。実は私は色覚異常、いわゆる色弱なのである。通常の人とは色の見え方が違うのだ。特に赤と緑の色が判別しにくい。それは私の網膜にある視細胞に発現する遺伝子が異常であるためだ。もしかしたら、コノハ助教は人類の健常者の色覚のことを知っていて、周囲の色にぴったり合わせるだけでなく、人類の色覚に合わせて補正しているのかもしれない。そのせいでコノハ助教の姿は健常者の視覚から完全に隠されているのだ。だがそのせいで、私のような色覚異常者の視覚世界からはズレが生じてしまい、姿が見えてしまうのだ。

 ということは、コノハ助教の姿が第三者に見られる可能性はかなり低いと言うことだ。しかも、私には見える。これはいい。

 そんなことを考えながら歩いているうちに、私はヒューベル博士の家に着いた。

 私がドアをノックすると、「はい」と返事がしてドアが開いた。

 私は驚いた。中等部の制服を着たコートニーが立っている。

「ようこそ、先生」

 少女は微笑んだ。

「き、君、どうしてここに?」

 反射的に尋ねたが、私は直ぐに、少し前に彼女が探査機について話をしていたことを思いだした。

「そういえばヒューベル博士と知り合いだったか」

「はい」

「ここの仕事を手伝っているんだったね」

「はい、学校帰りとか、休日に」

 そうしていると、奥からヒューベル博士が出てきた。

「博士、ようこそ。探査機を見たいという話ですね。これから案内しましょう」

 彼は上機嫌で家の中に入るように勧めた。私がそうすると、廊下の中程にあるドアを開く。そこには下に降りる階段があった。この家から崖の洞窟にある格納庫まで、この階段で降りられるらしい。

 コートニーが先導するように階段を降りてゆく。私はそれに続いた。


「これは」

 薄暗い格納庫の中で、私は息を呑んだ。

 洞窟内部は広く、その床には金属製のターンテーブルがあり、そこにまるで装甲車か戦闘ヘリのような物体が置かれている。淡緑色に塗装された機体は、人型と言えなくもないが、全体の外形は人の形とはかなり違っていた。胸部が前方に長く突き出しており、その下にある腰部には装甲板で保護された二本の脚がついている。さらに、胸部の両脇には腕がついていた。ただし、人の手のようなマニピュレーターがあるのは右側だけで、左側には観測用の付属機器のようなものが装着されていた。

 胸部はおそらく操縦席だろう。そしてその上に小型の頭部がある。頭部には複数のカメラとセンサーやアンテナらしきものがついていた。

 そして、この機体の背後にはまるで昆虫の翅のような形をした翼が四枚ついているのだった。

「すごい」私は感嘆した。これが、フェルドランス。ノーチラス事変の時に敵生物をことごとく撃退し葬り去った機体が、これか。

「これが、あの機体なのか」

「正確には違います」ヒューベル博士が少し気まずそうに答える。

「もともとの機体はマンディブラスに撃破されました。まあ、相打ちでしたがね。これは一号機をベースに制作した二号機です。一号機よりも性能的にはかなり上がっています」

「背中についているのは、ターボファン・エンジンか。まるで戦闘機だ」

 探査機に何故このようなものが付いているのか理解に苦しむが、それがこの設計者が天才と呼ばれる所以なのだろう。

「潜水もできますよ、先生」

 コートニーが指さす先を見ると、脚部の背面にはスクリューがあり、頭部の後方には潜望鏡らしきものもあった。

「万能探査機だな」

「おっしゃるとおり、陸海空何れの状況にも対応できます」

 ヒューベル博士は得意満面であった。この機体を誉められたことが本当に嬉しいようだ。

「でも、先生、あまり特殊な環境は無理なんです」コートニーが口を挟む。ヒューベル博士は顔をゆがめた。

「また余計なことを。確かに、成層圏より上とか、深海とかは無理ですが、それ以外なら大丈夫ですよ。でもまあ、もしそんな状況になったら、あれです」

 ヒューベル博士は視線を機体の奥の方に向けた。そちらは洞窟の出口がある方で、丸い入口から日の光が射し込んでいる。その先には水平線が見えた。私が今いるところから洞窟入口に向けて金属製のレールがあり、その上にある整備台には、もう一つ別の機体があった。

 ヒューベル博士がそれを指さす。

「あれが、最近完成したばかりの探査機です。フェルドランスでも入れないような過酷な環境を探査するための機体です。耐圧・耐衝撃に偏向しているので、汎用性はあまりないですが」

 博士がそう言っているうちに、コートニーがそちらに走っていき、声をかけた。

「クレイ、先生が来たよ」

 すると、コクピットらしきところのハッチが上に開いて、中から操縦士らしい者がひょこっと顔を覗かせた。

「あ、先生、どうも」

 先日、大学と博物館で会った青年がそこにいた。


 その機体にはヴァーミスラックスという仮の名前が付けられていた。これは確か古い映画に出てきたドラゴンの名前だ。フェルドランスと同じく、この操縦士、クレイ・フェンネル氏が名付けたそうだ。

「爬虫類に何か強い愛着でもあるのかね」と尋ねると、彼は少し照れくさそうに頷いた。

「あと、前に似た名前の無人機があったのですが、先の事変で破壊されまして、それを受け継いだ名前です」

 何処か懐かしさと侘しさを含んだ声音でフェンネル操縦士が言った。その無人機のことなら知っている。最初に襲ってきた昆虫型怪物「ハンマーヘッド」と戦い、相打ちになった機体であった。

 ヴァーミスラックスは、濃紺に塗装されている。その姿はフェルドランスよりも重厚で、脚部も太い。

 フェルドランスが航空機のイメージだとすると、こちらは深海探査艇といった印象である。全体的にどっしりした感じだが、腕部は細くて、我々の上腕に当たる部分はまるで骨のようだ。だが、肘から先の所は太くなっており、我々とは90度ずれたような感じについている。何となくカマキリが鎌状の前肢を折りたたんだような形に見えた。

「博士が依頼されたリール・ド・ラビームの調査には、これを使おうと思います」

 ヒューベル博士が言う。

「報告によると、あそこの深淵の底は重力負荷のせいで一万メートルの海溝底に匹敵するレベルの水圧がある。フェルドランスには難しいですが、この機体なら行けます。ちょうど各種のテストが終了し、正式に探索機として登録されました」

「有人機だね。操縦士以外にも人が乗れるということかな?」

 私が気になっていたことを尋ねると、ヒューベル博士は頷いた。

「パイロットを含めて3名まで乗れます。フェルドランスは単座なので、その点はこの機体のいいところですね」

 ということは、私以外にあと2名。一人はパイロットのフェンネル君だから、もう一人は?

 私の頭にコノハ助教の姿が浮かんだ。しかし、直ぐに否定する。あんなのが乗れるわけない。

「それについては」フェンネル操縦士が口をはさんだ。

「興味を示している人がいます。博士はお聞きでしょうか?カハール博士なのですが」

「え?」

 初耳だった。クリスもこれに興味があったのか?

「何でも、深淵の底で見つかった黒い物体に興味があるそうで」

「ふうん、あれが未知の生物だとしても、脳があるようには見えないが」

 彼女が脳に異様な執着を示すことはよく知っているが、こんなものにも興味があったのか。しかし彼女のことだ。何か根拠があるのだろう。しかしこの操縦士はクリスとも知り合いなのか。あまり人付き合いが上手そうには見えないのに、人は見かけによらないな、と私は思った。


 探査機の視察を終えて、ヒューベル博士の家を出た私は、アルケロン市に戻るために無人駅の方へ歩き出した。

 周囲の草原を見回すと、ヒューベル博士の家の更に向こうの丘の上に、もう一つ家があるのが見えた。そこに行くには坂になった道を少し登る必要がある。

 私は何気なくその家を見ていたが、その時、草原の中でコノハ助教がそちらの方向をじっと見ていることに気づいた。彼女はハルキゲニア・モードになって、赤い瞳がまるで何かを探るように、その家を見ている。そして彼女は私を置いて、草原の中をそちらに向けて早足で進み出した。

「どうした?」

 これまでコノハ助教が私を無視して動いていくことはなかったので、私は戸惑ったが、彼女の行動が気になって、その後を追った。

 坂を登ると、そこには小さな湖があった。

 湖の中に家がある。湖の中に白い石で土台が作られ、その上にアルザス風の家が乗せられていた。小島のようになった家と湖の岸をアーチ型の橋が結んでいる。家は二階建てで、一階には広いベランダがあり、湖の上に張り出していた。まるで童話の一場面のような洒落た光景に思わず見とれてしまう。更によく見ると、家から湖の中に向けて桟橋が作られ、そこに白い飛行艇が係留されていた。あれは、リール・ド・ラビームで見たことがある。あの操縦士が館長を迎えに来たときに乗っていた超軽量飛行機だ。では、この家はフェンネル操縦士の家なのか。私はてっきり彼は妹である館長と一緒に博物館に住んでいると思っていたので、少し驚いた。

 人気のない家が湖面に映ってゆらゆら揺れている。湖には睡蓮の葉が浮かび、その間を藍色の羽をしたトンボが舞っていた。

 コノハ助教が、湖の畔を巡るように移動する。家から少し離れたところまで来て、周囲を見回した。何かを探っているように見える。

 その時、コノハ助教が見ている先、岸から十メートルくらい離れた湖面に、泡がブクブクと上がってきた。それに続くように黒いものが水面にぬっと姿を現す。私はスコットランドの湖で1933年に撮影された怪物の写真を思い出した。水面に浮かんだ黒いコブのような物体がすーっとこちらに移動してくる。

 すると、コノハ助教の四肢からカチカチッ、と音がして肘と膝に関節ができた。彼女は両手を支点にして体操選手のような優美な動きでくるりと体を回転させ、逆立ちの姿勢になる。折り曲げた両足をまるでハサミムシかクワガタのように前に突き出した。両手を地面に突き刺して立ち、頭を前に向け、鋭い眼差しで湖面を見ている。これは、コノハ助教の新しい形態だ。しかもこれは、攻撃態勢だ。

 湖から黒い物体が浮上してくる。大きさは数メートル。ワニか、小型のカバくらいか?こんな所に一体何がいるのだ?

 その時、

「だめ!」

 鋭い声が聞こえた。私は振り向く。坂を駆け上がってきたコートニーが私の横を走りすぎ、湖岸で叫んだ。

「出てきたらダメ!どうして出てきちゃうの!この人はダメなの!」

 しかし、その物体はざざっ、と水しぶきを上げて浮上した。そのまま湖岸に這い上がる。

 私はそこに信じられないものを見た。

 黒い外骨格、トゲだらけの6本の足、背部に畳まれた羽根、昆虫のような頭部に、左右に長く伸びた眼柄。

 地球にいるシュモクバエを巨大にしたような怪物がそこにいた。

「こ、これは」

 私は目を疑った。実物を見るのは初めてだった。これは、

「ハンマーヘッドじゃないか!」

 私は叫んでいた。先の「ノーチラス事変」で街を襲った怪物がそこにいた。私がずっと探していた怪物、島のあちこちを探しても痕跡すら見つからなかったものが、人家の直ぐ傍にいる。なんてことだ、これは、危険すぎる。こいつは恐るべき怪物なのだ。それがこんな所に!一体どうなっているのだ!

 そして、コートニーが涙を浮かべてこちらを見ていた。

「先生、違うんです、違うんです、どうか、お願い!!」

 彼女は私の服にしがみついて懇願した。

「お願い、黙っていて、黙っていて下さい!」

 私は思いだした。初めて会ったとき、彼女は警戒しながら話しかけてきたのだ。

 怪物を探しますか?人が住んでいるところも調べますか?

 それは、彼女が生きたハンマーヘッドをここに隠していたから。それを私が探し当てるのではないかと心配になったから。 だからわざわざ私を探して、尋ねてきたのだ。

「君は、このことを、自分が何をやっているのかを・・・・」 私は呻いた。

 その時、コノハ助教がまたくるりと回転して、ハルキゲニア・モードに戻った。戦闘形態を解除した?どういうことだ。

 さらに見ていると、そのハンマーヘッドが水から上がってコノハ助教に近づいていく。そして、カチカチカチ、と音を立てた。するとコノハ助教も同じ音を発した。

 交信して、いるのか?

「・・・・・先生」

 コートニーが、私を訝しそうに見た。

「あれは、なに?」

 私は混乱していた。ハンマーヘッドがいる。コノハ助教と会話している。そして、コートニーにコノハ助教を見られた。

「あ・・・・いや・・・」

 私はしどろもどろになり、

「あれは・・・・なんだろうね・・・・」

 間抜けなことを言った。


 私とコートニーはその家の二階にいる。

 コートニーの話では、ここはやはりフェンネル操縦士の家であった。ただし、ここは一階と二階が別々になった集合住宅であり、コートニーは「ノーチラス事変」の時から二階を借り受けている。父親がハンマーヘッドに襲われて大怪我をしてしまったので、一階を借りていたフェンネル操縦士の計らいで、二階に住むことになったのだ。父親が回復したので、彼女は元の家に戻っているが、ここは相変わらず彼女が借り受けているらしい。

 二階の彼女の部屋で、私はコートニーが煎れてくれたコーヒーを飲んでいた。美味しい。

 そして、私は彼女からだいたいの事情を聞いた。

 下の池に住んでいるハンマーヘッドは、島を襲った個体ではなく、マンディブラスによって作られたものでもない。ある事件でフェンネル操縦士が失踪したときに、彼女は不思議な少年と知り合い、その少年に教えられたやり方で操縦士を探しに行った。その時、彼女はあのハンマーヘッドの卵をその少年からもらったのだという。最初、卵から孵化したハンマーヘッドを見た彼女は戦慄し恐怖した。彼女の父親はハンマーヘッドのせいで重傷を負ったのだから当然だ。だが孵化したハンマーヘッドは島を襲ったものとは性質がかなり違っていて、彼女を護ってくれた。それ以来、彼女は何度もそのハンマーヘッドに命を救われることになった。

「だから、モゲラは悪くないんです」

 彼女はあれにモゲラという名前を付けていた。モゲラとはモグラの学名だ。そう言われればなんとなく雰囲気が似ている。

「クレイはセンスのない名前と思ってるみたいだけど」

 コーヒーを飲みながら彼女は言い、そして、部屋の隅でハルキゲニア・モードになっているコノハ助教をちらっと見た。

 私はため息をつき、こちらも事情を話す。あの怪人物には申し訳ないが、バレてしまったものは仕方がない。ただし、彼女達が危険な状況に陥ることになると彼が言及していたことは、できる限り伏せておいた。

「先生が変なことを言っていた理由がわかりました」

 コートニーが少し安心したように言った。

「どう見ても一人なのに、誰かいるような言い方をしていたので、心配していました」

 私はこの小さな女の子に感謝した。こんな私を心配してくれるとは、物好きな少女もいたものだ。

「先生、その人、私は多分知っています」

 コートニーが少し遠くを見るような面持ちで言った。

「私を助けてくれた人です。もう遠くに行ってしまったとクレイから聞いていたんですが」

 コートニーは安心したように、何か大切なものを抱きしめるように言った。

 それについては私も同意見だった。さっきモゲラとコノハ助教は謎の音で交信していた。それは彼らが同族である証だろう。同じ創造主によって作られた可能性がとても高い。

 コノハ助教のことを知られてしまった私は、モゲラのことを知られてしまったコートニーと相談して、お互いの秘密を守ることにした。モゲラのことはフェンネル操縦士、ヒューベル博士、それから博物館の館長が知っている。その秘密に私が加わったわけだ。彼らがモゲラを問題ないと捉えているなら、危険はないのだろう。私としても「マンディブラスに関係する怪物は見つかりませんでした」と報告すればいいだけのことだ。モゲラはマンディブラスの眷属ではないのだから、嘘は言っていない。コノハ助教については、あの怪人物の話しぶりから鑑みて、これ以上誰にも知られない方がいいということになった。コートニーは彼女のことを黙っていてくれるらしい。

「コノハ助教さんですか」

 コートニーは彼女の所におっかなびっくりで歩いて行き、しげしげと観察した。コノハ助教にとってはコートニーも保護対象と認識しているのか、特に大きな反応はしない。

「服が痛んでるね」

 コートニーがコノハ助教のワンピースを見て言った。さっき草原を四つ足で駆けていたせいか、草きれが付着し、所々綻びている。

「あの、先生、私の服をコノハさんに着てもらってもいいのですが、多分サイズが合いません。街で買おうと思うのですが?」

 ということで、私とコートニーは街に出ることになった。


 街に戻ると、コートニーは目抜き通りに行き、衣類を売っている店に入った。さすがにコノハ助教を連れて入るわけにはいかないので、服のサイズについては、あらかじめコートニーがコノハ助教の胴体の外形を計測している。

「本当に女の人そっくりなんですね」

 コートニーはトロッコ列車で私に話してくれた。ちなみに採寸の時、私は外に出ていた。人類とは全く違う生物の形態には興味があったが、やはり「木通このは」という認識があるせいか、どうしても女性としてのイメージがついてしまう。やはり私は研究者として未熟だ。それに、「形態学的観察」などとほざいて部屋に居座った挙げ句、コートニーに軽蔑されてしまうのは正直つらい。

 コートニーはコノハ助教が女性に似ていると言ったが、似ているのは外見だけで、表面の構造はかなり違うらしい。金属と昆虫のクチクラを合わせたような感じがすると彼女は言っていた。

「やっぱりモゲラみたい。でもすべすべで白くて、とっても綺麗でした」

 当のコノハ助教は、街に入る手前くらいで姿を消していた。体色変化で周囲にとけこんだわけではなく、実際にいなくなった。もしかしたら人類が嫌いなのかもしれない。私のこともやはり嫌いなのだろうか。それはそうだ。今朝だって館長に酷いことを言ってしまった。人語を理解しているかどうかわからないが、もし理解しているなら、嫌われて当然だ。

 コートニーが選んでくれたのは、アルザス地方の民族衣装風の衣装だった。この島は建物がアルザス様式のせいか、衣装もそれに合わせたものが流行っている。通常、アルザス地方の民俗衣装は白いシュミーズと飾り襟、茜色の長いスカート、黒の胴衣とエプロンが基本で、それにコワフと呼ばれる黒くて大きな髪飾りがついた、白・黒・赤のコントラストが鮮やかなものである。しかし、実際にはそんな派手な格好をしている人はあまりいない。あくまで衣装にアルザス風のアレンジをしている程度である。

 コートニーが選んだのも生粋のアルザス衣装ではなく、黒を基調にした落ち着いたものだった。黒いコワフは小さめで、エプロンには赤の刺繍飾りがついた洒落た作りである。灰髪で赤い瞳をしたコノハ助教に似合いそうだ。さすがにコートニーはセンスがいい。

「では早速これを着てもらいましょう」

 コートニーはやる気満々であったが、時刻はすでに夕刻であった。さすがに今から着付けをするには無理がある。私はコートニーを説き伏せて、明日の午後、学校が終わってから大学で落ち合うことにした。

「先生、ありがとう」

 夕暮れの街で、別れ際にコートニーが言った。モゲラのことだろうか。私は笑って手を振った。


 翌朝は雨だった。

 三階にある研究室の窓ガラス越しに,雨に煙るリール・ド・ラビームが見える。雨粒が内海に幾つも波紋を作っていた。木製のベランダでも雨粒が跳ねている。

 私は研究室でひと仕事終えると、一階に降りて、エントランスホールから図書室に入った。図書室はアルザス風の家ではなく、その奥から崖に掘られた洞窟の中にある。洞窟といっても四方の壁は綺麗に整えられ、一見すると崖の中には見えない。それに、温度や湿度も安定しているので、こんな雨の日でも、図書室の中は静かで落ち着いている。

 私がそこに入ると、誰かが書架に向かって立っていた。こちらからはその人物の背中が見える。本を読んでいるようだ。この博物館は公開されているので、入館料さえ払えば、島の人が自由に出入りすることができる。しかし、ここに人が来ることは希だ。誰が来たのだろう。こんな雨の日に。

 訝しみながらも、私は挨拶をした。

「おはようございます」

 その人物がくるりとこちらを向く。

 私は絶句した。

 それは、二足で直立したコノハ助教であった。また変形したのだ。しかも、今回の変形ではシルエットが人間のそれに近くなった。手足に関節もちゃんとある。一見すると紺色のワンピースを着た灰髪少女のようだ。

 しかし、それは人間ではない。関節は人形の球体関節みたいだし、手足の先は鋭く尖っているし、その表面は甲殻類の外骨格か、あるいは白磁のような光沢を放っている。最大の違和感はやはりその顔であった。白い面の隙間から赤い目がこちらを見ている。人型になったことでいっそう、彼女の異様さが際立っていた。

 今、コノハ助教は両足でバランスを取って立っている。先端が剣のように鋭くなった足で立つとは器用なものだ。

 私は、人間を模倣している今のコノハ助教の形態を「ミミック・モード」と呼ぶことにした。

 不思議なのは、両手の先も剣のようになっているのに、どうやって本を読んでいるのかということだ。 いやそれより、

 本が、読めるのか?

 私は驚愕していた。

「おはようございます」

 コノハ助教が言った。私の言葉を反復しているのか、それとも本当に挨拶を返したのか、わからない。そしていつしか、前はやけに低かった彼女の声が、人間の女性と同じような声色になっていた。しかもかなりきれいな声だ。

 私は動揺しながら、コノハ助教が手に持っている本を見た。18世紀後期に編纂された博物学図鑑の復刻版であった。様々な動植物の形態が美しい銅版画で掲載されている。

 コノハ助教は剣状の両手を使って本を抱えていた。しかしその状態ではページがめくれない。どうやってページをめくったのか?もしかしてあの口器を使ったのか?そう思っていると、コノハ助教は片足をすっと挙げた。体操選手がI字バランスをするように足を高く上げているので、膝関節が肩の辺りに来ている。コノハ助教はそのまま膝を曲げ、足先を使ってページをめくった。なんて行儀の悪い、ではなくて、何というバランス感覚だ。先の尖った足一本で立ったまま、もう一本の足で本のページをめくるとは。驚愕している私をよそに、彼女は難度の高いヨガのようなポーズからすっと足を下ろし、本のページに再び目を落とした。

 そのまま読み続ける。集中しているようだったので、それ以上話しかけることが憚られ、私は退散することにした。

「お邪魔しました」

 私は図書館を出た。

「お邪魔されました」

 私はどきっとして振り返る。しかし、コノハ助教はさっきと同じ姿勢で本を読んでいた。聞き間違いか?単なる反復ではない言葉が聞こえたような気がしたが・・・・。


 しばらくすると、雨の中を、傘をさした館長がやってきた。

 よかった。昨日のことがあったので、彼女はもう来ないのではないかと心配していた。

「博士、おはようございます」入口で傘を畳みながら館長が言う。

「いい天気ですね」その声は昨日よりも、何というか、弾んでいた。

 私は、この人がシニカルなことを言うとは珍しい、と思いながら、「全くですね」と返した。

「早速ですが博士、何か見たいものはありませんか?私が見せてあげます、さあ、どうぞ」

 そう言うと、館長は私に走り寄ってきて、私の頬に細い両手を当てた。予想外のことに私が呆然としている隙に、彼女は私の瞳を覗き込む。

 しまった、と思ったが、遅かった。私の前で鳶色の瞳が揺らめき、

 次の瞬間、私は雨が降る東京の街に立っていた。


「それじゃ、先生、私はこれで」

 雨の中、中央線の改札口の前に、木通助教が立っている。

 彼女は私の勤める地方大学で5年の任期を終え、数ヶ月前に東京の大学に移っていた。若手の研究者は基本的にはこうして5年の任期制の仕事を繰り返してキャリアを重ねていき、運が良ければ常勤の職を得る。木通助教も例外ではない。私は彼女と共に仕事をしている間、なるべく多くの論文を書いて彼女が生き残れるように努力したつもりだが、これから彼女が常勤職を得られるかどうかはわからない。

 今回、たまたま葉山で学会があり、私はそれに参加した。ちょうど東京にいた木通助教もこの学会に参加したのである。そして、学会が終わり、私は大学に戻るところだった。

「私もまだ実験が残っていますので」

 木通助教もそう言って、我々はここで別れることになった。

「それじゃ、先生、私はこれで」

 彼女は雨の中を改札口へと歩いていく。私はふと、彼女を見るのはこれが最後かもしれない、と思った。この業界は非情だ。上手く行かなかった人はいつしかいなくなる。どんなに一生懸命に研究をしても、チャンスが掴めなければ消えてしまうのだ。その人の名前で検索しても、研究員時代の情報しか出てこなくなってしまう。

 木通助教が改札口をくぐる。こちらを振り向いてくれるかな、と淡い期待を抱くが、彼女は前を真っ直ぐ見たまま、歩いて行く。

 やがてその姿は人波に紛れて見えなくなった。

 ただ、雨が降っている。

 木通助教は上手くやるだろうか?

 この世界で生きていけるだろうか?

 次の居場所は、見つかるだろうか?

 私は暗い空を見上げた。

 無数の雨粒が降ってきて、私の顔を濡らす。


「はっ」

 私は我に返った。

 目の前に、びっくりしたような表情の館長がいる。

 エントランスホールに雨音が響いていた。

 あれは、あの情景は。

 私はさっきまで見ていた光景を思い出す。夜の東京に消えていく木通助教の姿。

 あれは何だったのか?私の心の中に残っていた木通助教の残像が、もし本当に彼女がいたら有り得たかもしれない情景を見せたのか。

 いずれにせよ、彼女は消えた。現実からも、幻想の世界からも。

「あの、博士・・・」

 館長が、恐る恐るといった感じで、話しかけてきた。

「涙が・・・・」

 この館長は、どうしてこんなことを?

 私は混乱していた。見たくないものを見せられたという負の感情と、もう一度木通助教に会えたという正の感情が混ざり合い、わけがわからない。でも、木通助教はもう何処にもいない、という喪失感が再び甦ってきて、胸が痛くなった。

 この人は一体何がしたいのだ?昨日私が彼女にしたことへの復讐か?

 そうかもしれない。いや、きっとそうだ。

 この人は本来こういう嫌がらせをする人ではないはずだ。そんな人がこんなことをするとは、きっと怒り心頭に達しているに違いない。

 私は俯いた。全ては私が招いたことである。どうしようもないが、正直、今回の復讐は、効いた。

「館長、昨日のことは謝ります。お怒りはご尤もです。甘んじて受けますが、ちょっと、物理的に胸が痛いので、失礼します」

 私は胸を押さえ、研究室に戻るべく、踵を返した。

「ま、待って!」

 背後から大声がして、館長が駆け寄ってきた。

「な、何故ですか?私は博士にお礼がしたくて、楽しく、なってほしくて」

 館長は涙声になっていた。

「博士が言ってくださったから。自分のやりたいことをしなさいと。だから、私は・・・」

「これ、昨日の復讐じゃないんですか?」

 キリキリと痛む胸を抱えるようにして、私は振り返った。

「大変効果的なやり方だと感服しているのですが」

「そんなわけないでしょう!」

 館長は叫びながら、スカートの脇をギュッと握った。

「どうしよう、私、なんてことを」

 そして、彼女は私の前に回ってきて、再び私の頬を両手で挟んだ。

「次はちゃんとします」

「ま、待て!」

 堪らず、私は叫んだ。

「もういいです、充分です。悪気はなかったのでしょう、充分です、ありがとう、ございましたっ!」

 私は必死で彼女を振りほどいた。館長はうろたえている。明らかに昨日の館長とは違っていた。何だか、自分自身の有り様を把握しかねているように見える。さっき、思い切り雨が降っているのに「いい天気」などと言っていた時点で気づくべきだった。

 今日の館長は、おかしい。

「落ち着きましょう、館長」私は言って、彼女をカフェに引っぱっていった。椅子に座らせ、私は紅茶を煎れる。そうしていたら胸の痛みが少し引いた。

「どうぞ」

 紅茶を差し出すと、館長は最高レベルで恐縮していた。

「わ、私、あの、本当に・・・・」

 しどろもどろになっている。昨日といい今日といい、私は館長から落ち着きを奪っていた。よほど相性が悪いに違いない。

 私はため息をついて、窓の外を見た。

 リール・ド・ラビームに雨が降っている。


 それから私は、館長と少し話をした。

 前から気になっていた、館長の不思議な能力について尋ねると、館長は少し言葉を濁しながら、「知り合いに教えてもらいました」と言った。

「ちょっとしたコツがあるだけです。それがわかれば誰でもできます。私に教えてくれた人はもっとずっと上手でした。だから、『魔術師の博物館』なんて言われるようになって・・・。あの、やっぱり、気持ち悪いですよね」

「そんなことないですよ」

 私は答えた。さっきはかなり驚いたが、この人は悪人ではない。むしろいい人だ。そんな人がその力を行使するなら、特に問題はない。ただ、今日みたいな時には使って欲しくないが・・・・。

「あなたに魔法を教えた人は、もういないんですか?」

「ええ、少し前に、去っていきました」

 少し寂しそうな口ぶりから、館長はその人物と親しかったことが覗える。私は悪いことを聞いたと反省したが、ふと思い当たった。

 もしかしたら、あの人物のことか。

 コートニーにモゲラを与え、私にコノハ助教を託したあの人物。彼は博物館の館長も保護対象だと言った。館長の言う「あの人」が彼である可能性は極めて高い。

 その人物のことを館長に詳しく尋ねようとして、やめた。もし館長がその人物に対して、私が木通助教に対して抱いていたような気持ちがあったなら、あまり思い出したくはないだろうと思ったのだ。

 館長が私の地球時代のことを尋ねてくれたので、私はしばらくその話をした。ちょうど話が一区切り付いたとき、私は言った。

「館長、ありがとう。ちょっとびっくりしましたが、会いたい人に会えました」

 館長は嬉しそうに笑った。正統派ヒロインの笑みであった。

 危ない。私レベルの正統派脇役でなければ、危うく恋に落ちるところだった。

 やはり、この館長は危険である。


 その日の午後、雨の中を、私はアルケロン市に赴いた。

 昼食を済ませて、レプティリカ大学に行く。コノハ助教はいなくなったが、多分その辺にいるだろう。

 コートニーとの約束の時間にはまだ間があったので、私はクリスの研究室を訪ねることにした。

 この島に来てからたびたび訪れている部屋のドアをノックする。

「入りたまえ」カハール博士の嗄れ声がした。

 私が入室すると、クリスが振り返った。

「あれ、師匠、どうしました?」

 彼女はさっさとマスクを外した。ふと見ると、彼女が座っているソファの向かいにも誰かが座っている。あれ、クリスはいつも他人に会うときは「カハール博士」の姿をしているのに?

「こんにちは」

 その人物が私に挨拶した。私は絶句する。

「また、君か」

 クレイ・フェンネル操縦士だった。

 そういえば、と私は思いだした。この島でクリスと再会したとき、彼女は、正体を知っているのは「師匠が2人目」と言った。そして、もう一人の人物のことは、「探査機の操縦士」と言っていたじゃないか。

 それにしても、この操縦士にはいつも驚かされる。

 やはり、彼はどうしようもなく、主人公なのだ。

「え?でもどうして君がここに?」

「ああ、師匠、あの件ですよ、ほら、この前お話しした、学位の」

 私は思いだした。少し前にここで学位論文の原稿を見せてもらったのだ。では、学位申請をしている人物が、彼なのか?

「びっくりしますよ、と言ったでしょう?」クリスがからかうように言う。

 フェンネル操縦士は謙虚に頭を下げた。

「クリスから、副査になっていただけると伺いました。たいへん光栄です。よろしくお願いします」

「あ。ああ」

「師匠、師匠」クリスが寄ってきて、耳打ちする。

「孫弟子ができましたね」

 孫弟子だって?この年で。何だか自分が随分年を取ったような気がする。しかも、私のような脇役が主人公を孫弟子にするだなんて。

 事態の展開についていけず、私は額に手を当てた。

 とりあえず、コーヒーでも飲もう。


 外は相変わらず雨が降っている。

 私が大学内をあてもなく彷徨っていると、「先生」と声がした。

 振り返ると、コートニーが立っている。大学内で彼女と会うときはいつもそうだ。私がなんとなく彼女のことを考えていると、どこからともなく現れる。やはりこの島に棲む妖精ではないのだろうか?そうでなければ、こんな私に親しくしてくれる理由がない。もし物の怪の類なら木通助教のように消えてしまうかもしれないと、私は不安になった。でも、逆に考えれば、本当に島の妖精だったら、私が島にいる間は消えないだろう。

「どうしましたか?」妖精少女が尋ねる。

「なんでもない。あいにくの雨だけど、どうする?」

「どうしましょうね」コートニーも少し困っていた。

「とりあえず、外に出なければ。ここにいたらコノハ助教は姿を現さない」

「そうですね。ならいっそ私の家か、リール・ド・ラビームに行きませんか?」

「リール・ド・ラビームか。館長は午後には本館に戻ると言ってたな。なら大丈夫か、いやだめだ。ここから一時間くらいかかってしまう」

 現在は午後三時過ぎ。リール・ド・ラビームと街との往復に二時間。用事を済ませて少女が街に帰り着く頃には暗くなっているだろう。そんなことはとてもできない。

「ああ、それなら大丈夫」コートニーは悪戯を思いついた子供のような顔で笑った。いや、そもそも子供なのだった。

「リール・ド・ラビームに行きましょう、先生」

「いや、でもそれでは帰りが・・・・」

「大丈夫です」

 コートニーさんは自信たっぷりなのだった。


「え、これって・・・」

 コートニーは絶句していた。我々は博物館のエントランスホールにいる。彼女の前にはミミック・モードになったコノハ助教が立っていた。

「変形したの?人型に?」

 そう言いながら、コートニーはコノハ助教の姿に見とれているようだった。

「凄く綺麗で、かっこいい」

 そして彼女はコノハ助教を引っぱって階段を上っていく。コートニーは屋根裏部屋の一室、前に木通助教の部屋だった(私がそう思っていた)ところを、コノハ助教の部屋にしようとしていた。

 コートニーとコノハ助教が部屋に入ってからしばらくして、「どうぞ」と声がしたので私は入室した。

 そこには、アルザスの衣装を着たコノハ助教がいた。

 黒を基調とした衣服に、白い四肢と白い仮面が映えている。黒のコワフが灰色の髪によく似合っていた。まるで美しい人形だった。いや、顔は本当に仮面なのだが。ただ、手足は先端が尖っているので、さすがに靴を履くのは無理だったようだ。

「どうですか」コートニーが心底嬉しそうに言った。

「すごい、よく似合っている」

 まるで人間みたいだ、と言いかけて、その言い方は良くないかもしれないと思った。

「まるでお嬢様みたいだ」

「そうですよね」コートニーが相槌を打つ。

 そうしている間も、コノハ助教はずっと黙っていた。しかし、なすがままに着替えに付き合ったところを見ると、少なくとも嫌ではないのだろう。

「でもこれ、リーガン・モードやハルキゲニア・モードになっても大丈夫なのか?」

 服を着てもらうという話になってからずっと抱えていた懸念を私は口にした。

「大丈夫だと思います。手足の関節のところは外に出てるし、肩まわりも余裕があるし、下はスカートなので。でもコノハさん」

 コートニーがたしなめるように言う。

「スカートなんだから、気をつけてね。あまりアクロバティックな動きをしないように」

 そんなことを言っても、理解できるんだろうか?

 そうこうしているうちに、時計の針が5時を回った。

「君、そろそろ帰らないと」

「はい」

「でもどうするんだ?フェンネル君にでも迎えに来てもらうのか?」

「クレイは今日はダメです。大学に行く日は忙しいんです」

 探査機の仕事と学位論文の掛け持ちか。主人公も大変だ。

「じゃあどうする?」

 今からトロッコ列車で帰ったら街に着いた時点で夕方になってしまう。彼女の家は町外れにあるそうだ。そこに着くまでに暗くなってしまうだろう。

「これを使います」

 コートニーは学校から持ってきた鞄から、黒い箱を取り出した。それを開くと、中にはフルートが三分割されて入っていた。彼女はそれを手早く組み立てた。

「窓を開けてもらえますか?」

 私はそうした。いつしか雨は止んでいた。雨上がりの風が部屋に吹き込んでくる。

 コートニーは窓の外に向かってフルートを奏で始めた。

 ビゼーの「アルルの女」第2楽章のメヌエットだ。しっとりと流れるような旋律がリール・ド・ラビームを、そしてノーチラス島の森の上を巡っていく。薄日がさす部屋で少女がフルートを奏でている様は、遠い過去に置き忘れてしまった懐かしい何かを見たような気がして、不思議な気分になった。

 横を見ると、コノハ助教も少女に目を向けている。心なしか音楽に聴き入っているように見えた。

 しかしなぜ、この少女はこんな場所でこんな時間にフルートを吹いているのか?

 私が怪訝に思っていると、本島の方から、何やら不思議な音が聞こえてきた。

 それは回転翼機のローター音のようであったが、ローターのような無機質なやかましさがない。でもどこか機械のような不思議な音であった。

 突然、部屋の壁に掛けていた多目的時計がアラームを発した。突然のことにビクッとする。怪奇現象?いや、あの時計は電動だ。電波障害か?

 その時、コノハ助教がカチカチカチ、と音を立てた。

「あ」

 私は見た。真っ黒な巨大な物体が、こちらに向けて飛んでくる。先ほどからの音はそいつの羽音だった。あれは、昨日見たハンマーヘッドだ。

 そいつはこの建物まで飛来してきて、我々のすぐ前の窓でホバリングを始めた。

 私は信じられない思いだった。これまで見たこともない光景であった。巨大な節足動物が羽ばたいている。羽音が室内で反響し、羽根が作る風がカーテンを派手に波打たせた。ハンマーヘッドがカチカチと音を立てる。コノハ助教と交信しているようだ。

「じゃあ、先生、今日もありがとう」

 コートニーが悪戯っぽく笑って、そのままひらりと窓から身を乗り出す。彼女の黒髪が雨上がりの風に踊った。

「え、うそ、マジか」

 小さな体が一瞬空を舞って、彼女はハンマーヘッドの胸部にしがみついた。そして慣れた動きで巨大昆虫の背に跨がる。

「さよなら先生、コノハさん」

 そして、少女を乗せたハンマーヘッドは体を翻した。もと来た方に凄い速度で戻っていく。あれなら10分もしないうちに家に着くだろう。

 私は遠ざかっていくハンマーヘッドを見ていた。森の上すれすれを低空飛行している。あの高度なら誰にも見つからないだろう。それに、さっきの電子機器の不調は、おそらく電波妨害だ。あの怪物はそんなこともできるのか。ならレーダーの類に引っかかることもない。それにしても、

 あれが妖精じゃなければ何だというのだ。


 その日はそれからまた雨が降り始めた。今度は雷を伴って激しく降っている。

 コートニーはいいタイミングで帰ったな

 カフェの窓ガラスを叩く雨を見ながら、私は夕食を食べていた。

 私の向かいでは、コノハ助教が食事をしている。私が作ったシチューと、街で買ってきたパンを黙々と食べていた。

 今日の彼女はミミック・モードである。これまではリーガン・モードで怪奇映画にでてくる化け物のような格好で金色の口吻を使ってサシガメのように採餌していたのに、今日は普通に椅子に座って、フォークとスプーンで食事をしていた。

 彼女の両手はブレードのように尖っている。そのままでは食器など持てないのであるが、今の彼女は手の先端が数センチくらい割れてハサミ状に開いていた。下側のハサミ部分は稼働せず、上側だけが動く、カニのハサミの様式である。それで慎ましく食器を挟んでいるのだ。あの両手にはそんな仕掛けがあったのか。いや、もしかしたら新しく作ったのかもしれない。

 コノハ助教はスプーンでシチューを器用にすくうと、白面の口元に持っていき、そこにある狭い隙間にスプーンを押し当てる。すると音もなくシチューが消えた。パンの時も同じく、口元に持ってくるとパンが口の中に吸い込まれるように消える。私は一瞬だけ、白面の口から昆虫の口器かイソギンチャクの触手のようなものがわらわら出て食物を捕らえているのが見えたような気がした。しかし、あまりに素早いので詳細が見えない。生物学的な興味から観察していると、コノハ助教がこちらをじろりと睨みつけてきたので、私は目を逸らした。

「ごちそうさまでした」

 私が食事を終えてそう言うと、

「ごちそうさまでした」

 コノハ助教も木霊のように返した。

 今朝、彼女が会話をしたような気がしたのは、やはり気のせいだったか。

 私が食器を片付けている間、コノハ助教は窓の外を見ていた。アルザス風の衣装を着て後ろを向いていると人間にしか見えない。窓外を見やるその姿は深窓の令嬢のようで、映画の一場面のように様になっていた。

 コノハ助教の背中の向こう、暗い世界に雨が降っている。雨に曇る窓ガラスの向こうでは、外灯が射す灯りの中を雨粒が光の針のように幾筋も通っていく。

「どうした、コノハ助教」

 私が話しかけても、彼女は黙ったまま、暗い内海を見ていた。その視線の先にはあの深淵がある。

 雨音が響いていた。

 私はふと、嫌な予感がした。


 その日の深夜、雨はいっそう激しくなり、時々雷鳴がとどろいた。博物館の壁に雨が叩き付けるバラバラという音がする。そういえば、私がこの島に来たときもこんな嵐だったな、と思っていたとき、それは起きた。

 窓の外から、内海の方から、何か音がする。

 それは最初、子供がすすり泣くような音であった。だが、次第に大きくなり、やがて、女性が泣き叫ぶような音に変わった。

 私は全身に鳥肌が立つのを感じた。

 海が啼く夜には

 コートニーの言葉が甦る。

 気をつけて、先生

 私は窓に駆け寄った。

 外は嵐だった。大粒の雨が窓ガラスをばちばちと叩きつける。雨水が流れ落ちるガラスの向こうに、深淵が見えた。いや、こんな真夜中に、外灯も消えているのに、見えるはずがない。しかし私の前には丸く暗い穴が見える。

 私は気づいた。

 深淵が光っている。怪しげに青くぼうっと光っている。

 私はその時、私の父が語った怪奇譚を思い出した。父が子供の頃、雨の日に墓場で青い火が燃えるのを見たという。その火は足で踏んで消そうとしても決して消えなかったという。

 私は震え上がった。

 そして私は気づいた。深淵の底から光が漏れているのだ。

 そして怪しく光る海の底から、その音が響いてくるのだった。

 私は戦慄した。こんなことがあるのか。そして、研究者として甚だ情けないことに、心底から恐怖を感じた。足がガクガクと震えている。あの暗い海の底に吸い込まれるような気がした。しかも、ここには誰もいない。館長も。木通助教も。

 誰も。

「コノハ助教!」

 私は叫んでいた。

「コノハ助教、いるか!」

 すっと背後に気配がした。

「おそばに」

 まるで影のように、私の脇にコノハ助教がいた。彼女も深淵を覗き込んでいる。それを見て、私の足の震えが止まった。そして私はようやく、自分が研究者であることを思い出した。

「記録だ、この現象を記録しないと」

 そして私は寝室を飛び出し、階下にある研究室に駆け込んだ。

 不気味な叫び声が響く中、研究用の棚からカメラを取り出し、あたふたと動画モードにする。私は研究室の窓に駆け寄って、それを開け放った。

 窓が開いたせいで、女性の絶叫のような声が大きく部屋に響く。私は再び心臓が止まりそうな恐怖を感じた。開け放した部屋の中に雨が吹き込んでくる。

 私は怯えながら窓に近づき、動画の撮影を開始した。

 その時、唐突に音が消えた。同時に深淵からも光が消え、周囲は漆黒の闇になった。雨だけが相変わらず部屋に降り込んでくる。

 私は暗い部屋に立ち尽くしていた。

 何もない。まるで映画が突然終わったかのように、全ての異変が消えていた。

 今起きたことが信じられない。夢の中の出来事のようだ。でも、

 海が、啼いた。確かに、啼いた。

 動画にはおそらく数秒しか記録されていないだろう。それでも確かに、それは起きたのだ。


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