第2部
3―木通このは
それからしばらくは多忙な日々を送った。午前中は木通助教と一緒に博物館の収蔵庫に入っている遺物を調べ、午後になると私一人で街に出て、本館を訪れ、そこの収蔵庫でも怪物について未報告の事項がないか調査を続ける。それから、島の何処かにいるかもしれない怪物の生き残りについて、自分でもその可能性は極めて低いと思いつつ、街の人々から聞き取り調査を行った。
博物館での調査は、正直なところ何の進展も無かった。クリスが提出した報告は完璧で、私如きが口を挟む余地はなかったのだ。
聞き取り調査のほうはというと、少し困ったことになった。そもそもこの島のほとんどは未調査であるため、森の奥や周辺の海には真偽不明の情報が溢れていたのだ。もちろん、この島の住人は皆何らかの形で科学に関わっているため、ほとんどの人は幽霊や妖怪といった超常現象を否定している。しかし、そういう人達が、やれ森の奥の沼から長い首が突き出しているのを見ただの、目印にしていた大木が翌日になったら無くなっていただの、夜の湖で何かが自分の名前を呼んでいただの、といった話を平気でしてくるのだ。これらの話を幻覚や幻聴として片付けることもできるが、先の襲撃では実際に長い首をした化け物や、幽霊を見せる霧などが報告されている。一概に否定することができない。実際に行って調べてみるしかなかった。
そういうわけで、私は木通助教と共に、島のあちこちを訪れた。電気自動車で行くこともあったし、ごく短い区間だが、鉄道が設置されているところにはトロッコ列車で赴いた。ただ、島の多くは未調査の危険地帯なので、探索できたのはあくまで道路や線路の付近だけであったのだが。
地球で囁かれている不気味な噂とは裏腹に、ノーチラス島は魅力的な場所であった。緑豊かで、所々に美しい草原がある。メイオラニア丘陵に最近施設された線路からは、風にそよぐ草原とその中に点在する小さな湖、そして彼方に青い海が見えた。夜になると満天の星が見え、その美しさに私は圧倒された。
夜空といえば、カプローナ山の山頂にある天文台からの眺めは格別だった。天の川に似た銀河の周りに地球で見えるものとは全く違う星座が幾つも散りばめられていて、まるで天空の宝石箱だった。
その時の経験が忘れられず、大した用事もないのに再び天文台を訪れた私は、戻る時間を少し遅らせて、今、夜空をを見上げている。
木通助教も私の横で星空に目を奪われていた。
その表情を見て、私は安堵した。半ば強引にここに連れてきてしまったことを申し訳なく思っていたからだ。しかし、彼女にとってもこの体験はまんざらでもないのかもしれない。だといいのだが。
思えば、木通助教が申請を通したから、私は今ここにいる。言い方を変えれば、私が「魔の島」と謂われるここに来ることを、木通助教が仕向けたともいえる。ならば、私がこの島で事故に遭って死に瀕したとき、私は彼女を恨むだろうか?そんなことは断じてない。私は死の間際であっても、ここに来られたことに満足しているだろう。木通助教に感謝しているだろう。
「どうかしましたか?」
私の隣で木通助教が尋ねた。
「なんでもない」
私は夜空を見上げた。
あるとき、大学の食堂で昼食を取っていると、向かいの席にカハール博士が座った。
「熱心に動き回っているそうじゃないか」
すっぽりとマスクを被った博士が嗄れ声で言った。クリスは部屋の外では常に「カハール博士」を演じている。彼女の秘密を守ると約束したので、私も外で会うときには彼女に合わせた対応をしていた。クリス、もといカハール博士は続ける。
「しかしまあ、よくも平気でこの島の奥まで入っていけるものだ。一人で怖くないのかね?」
「そんなことはないですよ、博士。頼りになる同僚がいますからね」
そう言うと、カハール博士は少し怪訝そうな表情をした。いや、顔はほとんど見えないので、そんな気がしただけだ。
「ところで、このあと私の部屋に来てもらえないかね?ちょっと相談したいことがあるのだが」
「いいですよ」
今日は特に差し迫った予定はない。木通助教も今日は別館勤めだ。私は頷いた。
「これを見てほしいんですが師匠」
部屋に入るなり、カハール博士はクリス・アルメールに戻って、私を奥にあるもう一つの部屋に案内した。
「どうですか、凄いでしょう?師匠に見てもらいたかったんですよ」
そう言って彼女が得意満面の表情で示したのは、部屋の四方に設えられた標本棚であった。そこにはこれまでに彼女が集めた様々な動物の脳があった。彼女の専門は私と同じ、動物の脳進化である。
「すごいな」
部屋の四方に設えられた棚を埋め尽くす標本に、私は驚嘆した。
「これは、この島で集めたのか?」
「そうですよ。中には地球では絶滅した種のものもある。師匠が気に入りそうなものもありますよ」そう言って彼女は笑う。 私もそれに答えて頷いた。彼女にとって、これらの標本の前でこんなやり取りができるのはおそらく私だけだろう。ほとんどの人は気持ち悪く感じるに違いない。
「すごいな」私はもう一度言って、標本棚を巡る。そうだ、もしかしてこれらがこの島で集められたのであれば。
「もしかして、一年前の怪物の脳もここに?」
私が尋ねると、クリスは顔をゆがめた。
「そう、それなんですよ師匠、あんなにたくさん怪物がやってきたというのに、あいつめ、全部頭を吹っ飛ばしてしまったんですよ、ひどくないですか?」
それは確かに残念だ。私もクリスと同じく顔をしかめた。
「あいつとは、探査機の操縦士のことか?」
「そうですよ、まったく」
クリスは憮然として手をグルグルと振り回した。
私はそれからしばらく標本を見て回った。これを見せたくて、彼女は私を部屋に呼んだのか。私は尋ねてみた。
するとクリスは、「いいえ」と首を降り、標本室を出た。私も後を追う。
「師匠、今日はこれを見てもらいたかったんですよ」
クリスは自分の机に置いてあった書類の束を私に差し出した。
「これは?」
「論文の原稿です。私の弟子が書いたやつです」
「君の、弟子だって?」私は些か驚いた。弟子を取るだなんて、彼女のイメージからかけ離れすぎている。
「そうです。ということは師匠にとっては孫弟子ですね。ふふっ」
クリスは可笑しそうに笑って、続けた。
「例の事件で現れた怪物について、独自の視点から書かれています。まあ、そう書くように私が指導したんですけどね。彼はこれを学位論文として提出し、博士号を取りたいと考えている。そこで、師匠にも読んでもらって、差し支えなければ副査をお願いしたいんですよ、私の時と同じようにね」
「ふむ」
私は頷き、ソファに座って、その原稿を読みはじめた。クリスは殊勝なことにコーヒーを淹れてくれた。ありがたく飲ませてもらおう。
小一時間ほどかけて読み終わると、私は冷めたコーヒーを飲み干し、原稿をクリスに返した。
「よく書けている。特に怪物の生理機能について、詳細な測定結果が掲載されているのがいい。それらのデータを怪物の形態とリンクさせて考察しているところも、なかなかだ」
「そうでしょう、そうでしょう。何せ、私がね、指導しましたからね。ふふん」
「君に比べると当然まだまだだが、博士の学位には値するんじゃないかな。当然、何処かの雑誌に投稿するのだろう?でも、学位審査はその前にやると」
通常、学位審査は対象となる論文が学術雑誌に受理された後で行われる。しかし、信用のある著名な大学や研究所であれば、雑誌に論文がまだ記載されていなくても、学位審査を始めることができた。
「そのつもりです」
「いいんじゃないか。でも、よくこんなデータを集められたな。公には発表されていないようなものばかりだ。特に、二度目に襲ってきた『チューリップ』なんて、下層部分のデータは存在していないはずなのに、断片的にではあるがここに載っている。それもまるで、自分で見たかのように」
そう言うと、クリスはまるで自分が誉められたかのように、嬉しそうな顔をした。
「それを本人に言ってあげるといいですよ、そうだ、来週ここに来るように言っておきましょう。多分、驚くと思いますよ、師匠」
そういえば、コートニーはどうしているだろう。
大学の廊下を歩きながら、私はふと思い出した。以前、こんな風にクリスの部屋を出た後で、構内でばったり出会ったあの少女。その時に怖い話を聞かせもらう約束をしたが、それ以来彼女の姿を見たことはない。
私は週に一回の予定で、大学で講義をすることになっていた。この島に来てからもう何度か講義を行っているが、彼女が来る事はなかった。まあ、専門的な内容なので、中等部の彼女が参加する方がおかしい。
そんなことを思いながら大学の廊下を歩いていると、
「先生」背後から声がした。私は振り返った。
コートニーが立っていた。
彼女のことを考えていたら、本人が出てきた。まるで、島の妖精が私の召喚に応じて出てきてくれたような、そんな気がした。
「先生、すみません。授業に出られなくて」
彼女は歩み寄ってくると、律儀に頭を下げる。
「新しい探査機ができたので、その調整に追われていました」
「いや、全く問題ないよ。そもそも君が授業に出る義務はない」
「先生の話は面白いので、出たいんですが」
私の話が面白いとは、面白いことを言う。
「まあ、お世辞でも嬉しいよ」
「お世辞だなんて」コートニーは少し眉をひそめて否定した。
私はこんな少女に自虐的なことを言ってしまったことを恥じて、話題を変えた。
「新しい探査機?」
「はい、これまでの機体では潜れないような高圧の場所を調べるためのものです」
「ほう、高圧とは?深海とか?」
「はい、それから、この島の所々にある、高重力の所とか。あ、先生がいる小島にもありますね」
「え、そうなの?」
「はい。知りませんでしたか?」
全く知らなかった。灯台もと暗しというやつか、いや、そういえばこの島に来て直ぐの時に、大学の職員が言っていたな、私が住んでいるところで「奇妙な現象」があったと。もしかしてそれと関係が?
「あ、そういえば先生、あの小島で何か変なことはありませんでしたか?」
私はそれを聞いて、彼女が前に言っていたことを思い出した。
海が啼く夜には気をつけろ
「いや、特に何もないね。前に君が言った怖い現象もまだ起きていない」
「そうですか」
「そういえば、前に会ったときに、この島で囁かれている怪談を聞かせてくれると言っていたけど、その約束はまだ有効かな?」
「もちろん」少女は微笑んだ。
「今からでもいいよ、先生」
思えば、この少女はすっかり打ち解けてくれた。警戒心は強いけれど、素直な性格なのだろう。
私たちは食堂に入る。せっかくなので何か奢ってあげようと思い、私はコーヒーと紅茶のどちらがいいかを尋ねた。あ、この年齢の少女にコーヒーは早すぎたか。しかしコートニーはさも当然のように、言った。
「コーヒーがいいです」
私はそれから、コートニーから興味深い話を幾つか聞いた。彼女は思いのほか話し上手で、私はいつしかすっかり引き込まれてしまった。そんな話の中に、私が滞在しているリール・ド・ラビームに関するものがあった。
「十年ほど前のことだそうです。あの小島は調査が始まったばかりで、小さな建物がひとつ建っていただけでした。その建物は、あの島のへんな地形と丸い深みを調べるためのものでした」
コートニーは芝居っ気を含んだ声音で語る。
「その小さな建物には、研究者がひとりで住んでいました。ある日、研究者がいつものように深みの観察をしていると、不思議なことに気づきました。なんだか水面の高さがスッと下がったような気がしたのです。外海の海位は変わらないのにどうしてここだけ?その研究者は不思議に思いました。その日の夜、彼は海の底から不気味な声のような音がするのを聞きました・・・・・」
ここまで話すと、コートニーはコーヒーを口に含んだ。
「それで?」私は促す。
「次の日の朝には水面の高さは元に戻っていました。それからしばらくして、彼がいつものように建物の中で仕事をしていると、ドアをノックする音が聞こえました。『こんなところに、誰が』彼が不思議に思ってドアを開くと、そこには女の人が立っていました」
ここから、彼女の話はおかしなことになっていった。その女の人は彼と一緒に過ごしはじめ、ちょっとしたロマンスがあって、それから「それじゃさようなら、とうっ!」と言って内海にダイブし、去っていったという。
「怖いでしょう」とコートニーは言った。この子はこの島で出会った人々の中で一番まともだと思っていたが、そうではないのか?この島の住人はやはりみんなどこか変なのだろうか?
「君、その話、いいように脚色してるだろう?」
私は呆れたように言うと、少女は微笑んだ。
「前に、落ち込んでいる人に似たような話をしたら喜んでくれたのですが、ダメでしたか。・・・・海面が定期的に上下するのは本当ですよ、先生。上下すると言っても、ほんの10センチくらいですけど」そして彼女は続けた。
「もともとの話はもう少し怖いです。あの小島には実際には10人くらいの人がいたのですが、ある夜、いなくなってしまって。たった一人だけ生存者がいたのですが、その人も頭がおかしくなっていて、変なことを言っていたそうです。海が啼いた夜、天使を見た、と」
ひとしきり話をした後で、コートニーは「それにしても」と言った。
「それにしても、先生はよくあんな怖い場所に一人でいられますね」
「それ、他の人にも言われたけど、一人じゃないから。時々、館長も来てくれるし、研究チームの代表者をやっている助教の先生はいつもいるしね」
「研究チームの代表は先生でしょう?そもそも、『チーム』でもないでしょう?誰ですか?その助教という人?」
「木通さんという女性だよ。今日は別館にいるけど。いや、午後にここで落ち合う約束をしてた。来るんじゃないかな、もうすぐ」
「先生」コートニーが言った。
「先生の話が一番怖いです」
ある朝、私は部屋を出て一階に下りた。受付からドアを開けて展示室に入る。展示室といっても部屋は広くない。田舎町にある小さな博物館といった雰囲気である。ここは木組みではなく、石造りだった。綺麗な長方形の部屋に標本棚が何列も並んでいる。
ここには、先の事件で襲ってきた怪物の標本もあるが、これまでにこの島で見つかった正体不明のものも展示されていた。
それらが入っている棚の前に、木通助教が立っている。
「おはよう」
私が近寄ってみると、彼女はガラス張りの標本棚を覗き込んでいた。そこには何やら黒い物体が置かれている。ラベルを見ると、2060年、9年前のものだ。
まるで黒いキノコのような物体の表面は、植物の幹のようにも見えるが、動物の皮のようにも見える。菌類なのか植物なのか動物なのか、はたまた生物由来のものではないのか、正体不明の奇妙なものだった。
「これが何か?」
私が尋ね、少しぎょっとする。木通助教はまるで睨みつけるようにそれを見ていた。その眼差しには敵意が籠もっている。この助教、少し前にこの博物館の地図を見たときもこんな目をしていた。どういうことだろう。この博物館とその収蔵品に、何か因縁でもあるのだろうか?
「そんなに注意すべきものかね、これ?」
「先生、私たちは怪物の調査に来たんですよね?」木通助教はその物体を凝視しながら言った。
「ああ、そうだが」
「だとしたら、この場所を調べるべきです。あの内海を」
助教の強い言葉に私は少し気圧された。
「どうして?」
「もし、怪物が生き残っているとしたら、このリール・ド・ラビームである可能性が高いからです」
「何を根拠にそんなことを?」
「館長が言っていました。この内海の最深部には水圧が異常に高い箇所があって、そこは通常の探査機が入れないのだと。怪物がいるならそういう場所だと思います」
妙に結論を急いでいるな。この助教がこういう断定的な話し方をするのは珍しい。というか、これまで聞いたことがない。
「そう決めつけるのは些か無理があるのでは?」
「何か証拠が必要ということですね」助教はこちらを睨みつけるようにして続ける。
「それが、これです」
木通助教は陳列棚の物体を指さした。
「これ、ここで見つかったそうです」
「そうなのか?」
私はラベルを読む。確かに、採集場所はここだ。あの青いブルーホールみたいな場所の深部から見つかったとある。
しかし、
「しかし、これは9年前のものだろう。怪物が襲ってきたのは去年だ」
「先生、頭は大丈夫ですか?例の怪物がこの島でつくられたのは12年前、西暦2057年です。それから、その怪物は去年まで何処かに潜伏していた。この島ではなく外洋にいたかもしれませんが、ある程度成長するまでこの島に潜んでいた可能性は高いです」
「その怪物の一部だというのか、これが?」
「もしそうだとしたら、古巣であるここに、生き残りが今も潜伏していても不思議ではありません」
木通助教は窓の外を指さした。その先には青い中でもひときわ深い色をした、丸い場所がある。
「あそこを、調べるべきです」
木通助教は少し怖い目をしていた。まるであの館長がもつ闇落ちしたような雰囲気が乗り移ったかのようだ。
私は少し怖くなった。そして、少し前にコートニーに言われたことを思い出す。
よく一人で、あんな怖い場所にいられますね
「君」私は尋ねる。
「君は確かに、いるよな。ぼくはここに、一人じゃないよな」
「何を言っているのですか?やはり脳がおかしくなったのですか?しっかりして下さい」
木通助教は困ったような顔をしていた。
そうしている間にも、ノーチラス島はインフェリアの海を巡っていく。いつしか島は人類の勢力圏を離れ、文明圏から隔絶された海域に入っていた。インフェリアの発見から半世紀以上経っているが、この惑星には未だ人工衛星などもなく、GPSネットワークの恩恵はない。文明のレベルは20世紀前半の状態である。しかも、ノーチラス島が回遊する海域には原因不明の電波障害が頻発するため、陸地との連絡は完全に途絶していた。あと一年近く、この島は完全に孤立する。その状況は最初期の極地探検の状況と似ているだろう。
ノーチラス島の浮動に伴って、季節も巡っていく。我々が来たとき、晩春の趣を漂わせていた島には、いつしか初夏の風が吹いていた。
そんな中で、私は木通助教と一緒に怪物の調査を続けた。
森を巡り、草原を横切って、私たちは謎に満ちた神秘の島を巡る。
島に来てから一ヶ月くらい経ったある日、私が研究室から博物館の展示室に下りていくと、シィナ・ライト館長が立っていた。
「博士」彼女は何か思い詰めたような顔をしている。
「言うべきかどうか、迷ったのですが・・・・。ここに来てから、博士、一体誰と話をしているのですか?」
私は頭部をガツンと叩かれたような衝撃を感じた。同時に、胸にすうっと冷たいものが這入り込んだような気がした。
「な、何のことですか?ぼくは木通助教と・・・・」
「それは一体、誰のことですか?」
「誰って?そこにいるだろう、いや、さっきまでそこにいた、あの、女性の・・・」
私の声は自分でもはっきりわかるくらいに震えていた。この館長は一体何を言っているのだ?木通助教のことを知らないだって?私と一緒にここに来たじゃないか?もう一ヶ月以上、ここに住んでいるじゃないか・・・・。
「そもそもここに来られたのだって、彼女をチームに加えたから・・・・」
「チーム?博士のことをヒューベルさんから聞きましたが、あなたはチームを組んでいません。単独で、ここに来たのです」
私の中で、強烈な違和感がふくらみ、それらは幾つかの形をなしていった。この島に来たとき、ヒューベル博士は私に握手の手を差し出した。本来なら、まず初めにチームリーダーの木通助教に挨拶するのではないのか?それに、この別館に来たとき、この館長は紅茶のカップをふたつ持ってきた。私と館長と助教がいるなら3つではないのか?あのとき、木通助教は私の向かいに座っていた。でも館長も私の向かいに座ったのでは?では木通助教はあのときどうした?館長と重なって、消えた?
その他にも幾つかの言葉が浮かぶ。
「よくも平気でこの島の奥まで入っていけるものだ。一人で怖くないのかね?」とクリスは言った。その後、「同僚がいる」と言った私を、彼女は訝しそうに見ていた。
「先生はよくあんな怖い場所に一人でいられますね」とコートニーは言った。
一人、一人だって?
私は更に思い出す。そういえば、この島に来てから、木通助教が誰かと話をしている姿を見たことがない。島の人々と話をするのは、私だけだ。
私は一人なのか?この小島に、これまで二人で滞在していると思っていたこの場所に、実際はたった一人で?
「そんな馬鹿な」私は叫んで、展示室を飛び出し、博物館のエントランスホールに出た。誰もいない。私は木通助教を呼んだ。返事は、ない。私は頭がくらくらして、よろめく。館長が展示室から出てきて、私の名を呼んだ。私は無視して階段を上がる。二階を通り過ぎて、三階、さらに、木通助教の部屋がある屋根裏部屋に向かう。そこには3つの部屋があり、ひとつは物置に、ひとつは私の部屋に、残るひとつは木通助教の部屋にしていたはずだ。私は木通助教の部屋のドアの前に立って、どんどんと強くノックした。
返事はない。もう一度ノックする。やはり返事はない。
私は真鍮製のドアノブを掴んだ。それを回すと、ガチャッと音がする。鍵はかかっていない。私はドアを開けた。
そこには、空っぽの部屋があった。
何もない。荷物も、日用品も、人が住んでいる痕跡は全くない。
そこは、空き部屋であった。
「そんな、そんなことが」
階段を上がってくる足音が聞こえた。がらんとした部屋の中に、館長が入ってきた。
「博士、博士はやはり、誰かとここにいると思っていたのですね」
館長は申し訳なさそうに言った。
「きっと、お疲れなのでしょう。地球を離れて、こんな未知の惑星の、こんな場所に来たのですから、たった一人で」
一人、という言葉が重くのしかかってきた。胸が締め付けられるように痛い。ああ、あれは、申請書の相談に乗ってくれて、遠征に同行することを「いいですよ」と言ってくれた人は、こんな島に一緒に来てくれると言ってくれた人は、何処にもいなかったのだ。私の脳が作り出した幻影、虚構だったのだ。それは今までずっと孤独な生活を送ってきた私自身が見せたものか。私はそこまで、それほどまでに、壊れていたのか?
確かに、私は一人だった。これまでずっとそうだった。他人から好意を持たれることも、必要とされることも無いまま、ただひたすらに研究に没頭してきた。周りの人々が恋をして関係を深めていく様を、私はどこか達観したような気持ちで、傍観していた。それが自分にとって当たり前のことだと思っていた。自分はあくまで観客だった。映画の主人公たちが織りなす人生模様を見るだけの、目の前を通り過ぎていく人々をただ眺めているだけの、観客であった。
それは、いけないことだったのか?私の精神を壊してしまうほど危険なことだったのだろうか?
呼吸が苦しい。いつしか私はゼイゼイと喘いでいた。頭がクラクラして、強烈な吐き気がした。
館長は私に近づいてきた。
「何があったのかは存じませんが」
物語のヒロインのような美少女がすっと私に手を伸ばした。
主人公でない私は、戦いて後ずさる。
「楽にしてさしあげましょうか?」彼女は、そう問うた。
私は更に困惑した。彼女の言葉が理解できない。こんな状態で、こんな目に遭って、自分の在り方すら怪しくなっているのに、一体何を言っているのだ!
彼女は喘いでいる私の正面に来て、私の瞳を覗き込む。あの、鳶色の瞳で。
「よ、よせ」私は反射的に目を逸らした。一瞬見られただけなのに、精神が奧底から揺らめく。これは危険だ。魔法の瞳だ。私は思いだした。街で聞いた噂を。
今はレプティリカ大学付属博物館とよばれている本館。そこはかつて「ノーチラス島博物館」とよばれていた。そしてそこにはもう一つの名前があった。それは、「魔術師の博物館」。
この館長は、この美しい少女は、何者だ?魔術師?魔女なのか?
「き、君は、何者だ?ぼ、ぼくは」
私は戦くように言った。
「ぼくは、狂っているのか?」
「疲れているだけですよ、博士」
後から思えば、このときの館長はただただ優しかった。その鳶色の瞳に宿っていたのは怪しげな魔法などではなく、初夏に降る雨のような慈愛と憐憫であったというのに。
だが、私の精神は激しく警告を発し、その場からの即時撤退を命じていた。
「し、失礼する」
私は館長をその場に残し、博物館を飛び出した。
これではダメだと思います
でも、今のままでは先生は採択されません
じゃ、そういうことで
いいですよ
木通助教の声が聞こえる。これまでに交わした会話が甦る。無愛想で人付き合いが悪く、口も時々悪く、だが研究熱心であった木通助教。彼女はどこに行ってしまった?どこに消えた?私をこの島に残して。
しかし、確かにそうだ。あまりにも都合が良すぎる。こんな島に職を投げ打って来る物好きなどいるものか。それに、こんな私に『いいですよ』などと。そんなことをいう女性などいるものか。
全ては自分の妄想であった。あまりにも身勝手で自己中心的で自意識過剰な妄想。自分の卑しい部分がさらけ出されたような嫌悪感が、私の精神にナイフのように突き刺さる。
そして、
ああ、もう二度と会えない
どうしようもない喪失感が私の空っぽの心に冷たく広がっていった。
やはり私は一人だった。何処まで行っても、ひとりきりだったのだ。
どこをどう移動したのかは覚えていない。
気がつくと私は、街の中にいた。
石畳の通りを歩く。いつしか目抜き通りに入っていて、周囲には綺麗に飾られたショーウィンドウがあった。
ガラス窓の向こうで、木製の人形がこちらを見ている。
「君、君」
そのとき、何処かから声がした。
「君だよ」
どうやら私を呼んでいるらしい。私は声のする方を向いた。
そこには、黒い服を着た男が立っていた。
そして、不思議なことなのだが、私は今もその男の顔がうまく思い出せない。初老の紳士のようだった気もするし、少年だったような気もする。
「酷い顔をしているね。ちょっと話をしようじゃないか」
私は気がついたら小さな部屋の中にいた。そこは小さな机と椅子が二脚あるだけの殺風景な部屋だった。この部屋が何処にあったのか、街の中だったのか、それも今は思い出せない。
私は椅子に座っていて、机の向こうに黒服の男が座っていた。
「さて」
その男は両肘をついて、私を見た。
「最初に、謝っておこう。君の精神に負担をかけすぎたようだ。まさかあそこまで想像を膨らませるとは思わなかった。凄いね、君の妄想力は」
「何のことだ」
私は現実感の喪失した世界で、男をにらみ返す。
「君は一人でここに来た。怪物調査の公募も、一人で書いて一人で通した。だが、」男は一呼吸おいて、続けた。
「君には同僚がいたね」
私は席を立つ。ガタンと椅子が後ろに倒れた。
「何故、それを?」
これまで誰も木通助教を知らないと言ったのに、今目の前にいるこの怪しげな人物は、彼女を知っているのか!
「知っているのか?!あの人を」
「知っている」怪人物は感情のこもらない声で言って、「なぜなら」と続けた。
「なぜなら、君の心に『助教』を植え付けたのは、ぼくだからだ」
「なんだって?」
「実際のところ、君はこの島に来る直前まで、助教のことを知らなかった。君がここに来たときに、ぼくが君の記憶を操作したのだ。覚えてないかい?島に着く前、嵐の中でぼくを見ただろう?あの船の上だ」
私は思いだした。トリオニクス湾に入る前、高波に揉まれる船の甲板で見た黒い影。錯覚だと思っていたあれは・・・・・。
「ぼくだよ。あのとき、君の脳に幾つか核になる情報を入れた。その時のことは忘れるように操作したがね」
私は思いだした。船の上で人影を見たあと、振り返ったら、木通助教がいた。私が彼女を認識したのは、あの時だったというのか?
そうだ、私は別のことに思い至った。彼女の名前、木通このは、アケビコノハ。それは蛾の一種の名前だ。こんな名前の人がいるはずがない。私が知っている昆虫の名前を、彼女に付けたのだ。
「それから、君の脳には木通このはという人物が存在するようになった。普通ならここまでだ。『誰かと一緒にいる』程度の思い込みができるはずだった。だが、君は、脳の中に作られた木通助教のイメージを膨らませ、過去に遡って記憶を改竄し、ねじ曲げた。その助教が一年前から一緒にいたことにして、その設定に合うように記憶を完璧に作り上げたのだ。何という妄想力だ。脱帽するよ。よほどその助教が好きだったのか、それとも孤独が嫌だったのか」
私は頭がクラクラしてきた。この一年の記憶、木通助教に纏わる記憶は全て私の脳が勝手に作り出したというのか?
「あくまでぼくが君の脳に入れた情報は、きっかけになるような些細なものだった。それだけだと、それが必要とされるまで、大きな問題は起きないと思った。だが、君は一人の人格を完全に作り上げ、あろうことかそれが実在するように振る舞い始めた。これはまずい。放っておくと君は精神異常と判断されて、まともな活動ができなくなってしまう。そこで、ぼくは計画を少し変更することにした。こうして君の前に現れて、事実を告げることにしたのだ」
私の中に、当然だが怒りがこみ上げてきた。この人物の言うことが本当なら、彼は私の脳を勝手にいじくったのだ。許されることではない。それで私は今、こんな酷な思いをさせられているのだ。私はそいつを睨みつけていた。
「お前は一体、何者だ?何故こんなことをする?」
「ぼくは、ぼくはこの島の住人の古い知り合いだ。どうしてこんなことをしたかって?それは、その連中を護るためだ。彼らはこれからちょっと不味い状況になる。今のままでは生還できないだろう。そこで、君に託すことにしたのだ」
何を身勝手なことを。そんな、完全にそっちの都合で私を巻き込んだのか!
「なんで私なのだ?自分でやればいいじゃないか!」
「ちょっと、彼らとは因縁があってね、彼らから見たらぼくは敵だ。それに、ちょっと前に格好つけて別れたばっかりだから、顔を合わせづらいんだよ」
その男は私を見て、続けた。
「だから、君を選んだ。君なら、親しすぎず疎遠すぎない、ちょうどいい距離感だ。君に授ける。彼らを護る武器を」
「護る?どういうことだ?」
「そのための記憶操作だった。同僚がいてもいい、いるのが自然だと、君の心にすんなり受け入れさせるための操作だったんだ」
黒服の男は、心なしか居住まいを整えたように見えた。
「紹介しよう、木通このは君を、君の新しい、そして本当の、同僚を」
「何だって?」
私は当惑した。この男、何を言っている?木通助教を紹介するって?さっき、彼女が幻だったと告げたばっかりじゃないか。
「実在の、人物だ。これから君と行動を共にすることになる。ところで、君の想像の中で木通このは氏はどんな姿をしていたかな?こればっかりは君じゃないとわからない。何せ彼女は君の脳の中にしかいないからね。たとえば、身長はどれくらいかな?160センチくらい?」
「いや。もっと高かった」
「それは困ったな、158センチくらいでよくないかい?じゃあ、背格好はどんな感じかな?すらっとしていたんじゃないか?」
「そう。そんな感じだ」
「それは重畳。顔はどんな感じだった?少女っぽい感じだったろう?」
「いや、年相応という感じだ」
「それは困ったな?16歳くらいに見えることはない?」
「ない。学位取ってるんだぞ、20代後半だよ」
「困ったな、当然、額に角は生えていたよね」
「生えてない」
「四足歩行していたよね」
「普通に二足歩行だ。人間なんだから」
「困ったな、ちょっと待ってくれ」
謎の男は思案していたが、やがて口を開いた。
「まあ、細かいことは気にしなくてもいいだろう」
そして彼は、部屋のドアに向かって言った。
「いいよ、入りたまえ」
ガチャッ、と真鍮製のノブが回り、ドアが開いた。
ドアが開いた。
そして、何やらカキン、カキン、という硬質な音がした。
何かが部屋に入ってくる。それを見たとき、私はずっと昔に見たホラー映画を思い出した。悪霊に取り憑かれた少女が仰向けのまま階段を下りてくるシーンだ。
まさにそれのように、仰向けでブリッジのような姿勢をした女性のようなものが、四つ足で歩きながら部屋の中に入ってきた。紺色のワンピースを着ており、反り返った体幹から白くほっそりとした四肢が伸びている。四肢は中程にある関節で折れ曲がり、その先端は槍のように尖っていて、歩く度にカキン、と音を立てた。白い顔が仰向けに仰け反り、灰色の髪が床近くまで垂れている。しかも、仰向けになった顔の額の辺りから、金色の角が突き出していた。いや、今の姿勢では角というよりサシガメかビロードツリアブの口吻のようだ。一言でいうと怖い、凄く怖い。そして、その動きはまるで甲殻類のような、あるいはクモかザトウムシのようだ。まさに怪物である。しかし、身につけているワンピースのせいで、人と節足動物が合体したような、極めて不可解なものとなっていた。
「君」私は怪人物に話しかけた。
「これのどこが木通助教なんだ?似た要素は一ミリも無いぞ」
「まあ、そう言うな、大丈夫、すぐに慣れるよ」
そいつがカキ、カキと動いて、近づいてきた。白い顔がこちらを向く。私はゾッとした。人形だ。顔はまるで陶磁器のような硬質な面であった。目のところに細い隙間があり、その奥に赤く輝く瞳があった。しかしそれは人間の、いや脊椎動物のものではない。まるで甲殻類のような、ガラスのように硬質な瞳であった。口の所も少し隙間が空いているが、その奥は見えない。
白面の奥で、そいつが何やら音を立てた。私はその音が口に相当する位置から出ていないことに気づく。発声器官をもっているが、それは我々の声帯とは全く異なるのだ。
「これは、一体?」
「興味があるかね、そうだろう。君は生物学者だからね。君の記憶に木通このはの記憶を植え付ける必要があったのはこのためでもある。生物学的探究心からいきなり解剖されても困るからね。これを同僚だと思ってくれたら、さすがにそんなことはしないだろう?」
確かに、こんな怪物ではあるが、助教の名前で呼ばれると、実験材料として見ることを躊躇してしまう。木通助教とは似ても似つかないのだが、「木通このは」という名前が呪縛のようになって、この怪物を解剖して内部構造を調べたいという欲求を妨害した。このための記憶操作か。だが私はまだまだ未熟だ。真の研究者なら、例えばクリスならば、記憶操作などお構いなしに捕獲して脳を出すだろう。ところで、脳は何処にあるのだろうか?
「さっきも言ったとおり、君にはこの木通このは氏と組んでもらう。そのために君の心に負担を強いてしまった。それは完全にこちらの都合だ。こちらの都合で君を利用した。そして、さっきから見ていると、彼女は君の知る木通このは氏とはかなり違うらしい。ぼくのことを恨んでいるだろう。それでいい。しかし」
黒服の男は、少し誇らしそうな顔をした。
「彼女はぼくの最高傑作だ。彼女なら大抵のものが来ても対処できる。『下の連中』とも彼女なら充分に渡り合える。ぼくの知る人達をきっと護ってくれるだろう。君はこれからの探検で彼らと行動を共にする。その時は常に彼女と共にいて、危機が訪れたら直ぐに対処するのだ」
黒服の男は鋭い視線をこちらに投げた。正体不明の人物だが、彼の知る人々を助けたいと考えているのは真実のようだ。
「君が知る人々とは、誰だ?」
「君がここに来てから親しくなった者たちだよ、ああ、あのカハール博士とかいう変人は例外だがね」
「・・・・と言われても、カハール博士を除くとしたら、ヒューベル博士、博物館の館長、それから、あの少女くらいしか思い浮かばないんだが」
「それであってるよ。それからもう一人いる」
「誰だ?」
「探査機のパイロットさ。彼とはまだ会ってないみたいだね」
気がつけば、私はアルケロン市の通りに立っていた。
周囲を見回す。しかし、先ほど話をした黒衣の人物の姿はどこにもない。
夢だったのか。先ほどの怪人物と、それから、あの奇怪なものは———。
ではやはり、木通助教のことも、先ほどの経験も、私の壊れてしまった脳が見せた妄想だったのか?
私は周囲を見回した。何もない。誰もいない、そう思ったとき、私は背筋が凍る思いをした。私の直ぐ横にある細い路地に、そいつがいた。
建物と建物の間の狭い隙間に、頭を下にして、異様なものが張り付いている。田舎の古い納屋の壁にとりついていたアシタカグモ、あるいは防波堤の割れ目に潜むフナムシを私は連想した。
それは、紺色のワンピースを着た、あれだった。
灰色の髪を垂らしたそいつは、仰向けになった頭部を回転させて、白い面をこちらに向けている。赤い宝石のような瞳が私を見ていた。
私は愕然とした。やはり現実だったのか?あの出来事は。
すると、そいつは白面の奥から。キチキチキチ、と音を立てた。昆虫の鳴き声のような音に私は戦慄する。
そして、そいつはすすっと流れるように垂直の壁を伝って路地の奥に姿を消した。
あまりにも奇々怪々なことが立て続けに起こったので、私は完全にまいってしまった。私はアルザス風の街を夢遊病患者のようにふらふらと歩く。長年、大学勤めをしてきたせいか、気づけばレプティリカ大学に向かっていた。まるで外灯に引き寄せられる虫のようだ。私は門をくぐり、構内にある北欧風の喫茶店に入った。
コーヒーを飲んでいると、少しだけ気持ちが落ち着いてきた。私は状況を整理することにした。
まず、私は一人でここに来た。一緒に来たはずの木通このは助教は、先ほどの人物によって植え付けられた架空の存在だった。
その人物は、この島の一部の人々を、これから訪れる危機から救うために、同僚となる私に木通助教の記憶を植え付け、木通助教が彼らを助けられる下地を整えた。
そして、現実の木通助教は人間とは似ても似つかぬ怪物だった。
あまりに荒唐無稽な展開に、私は困惑していた。私がここに来た理由は一年前に襲ってきた怪物について調査すること。それが今、全く違う話に否応なく巻き込まれようとしている。
そしてそもそも、あの人物は何者だ?彼は「彼女はぼくの最高傑作」と言った。あんなものを作れるというのか?どうやって作った?そんなことができる人間がいるのか?いやもしかしたら、
彼は人間ではないのか?
私は頭を抱えた。まだ、精神が安定しない。眩暈がする。
そうしていると、男子学生の一人が私を見つけ、挨拶をしてきた。私の講義を聴講している学生であった。私は曖昧な言葉で返した。するとその学生は近寄ってきて、講義について質問をしてきた。私は少しうっとうしさを感じたが、考え直す。ちょうどいいかもしれない。私は今の件をひとまず置いて質問に答える。もしかしたら、こうしているうちに気分が落ち着くかもしれない。
事実、自分が専門としている分野の話をしていると段々楽になってきた。私は質問を続けるその学生に心の中で感謝する。
「・・・つまり、鰾を獲得した魚類の系統は完全なる浮遊生活が可能になったといえるのですね」
「その通り」と私は答える。
「それに関係して真骨類の一部は水底を動くための構造も失った」
「ではそうした進化は地上でも有り得るでしょうか?」
この学生、なかなかユニークなことを聞く。
「それは、一年前なら否定されていただろう。だがこの島で起きた事件がそれを覆した。例の昆虫型怪物だ。体内に空気より軽いガスを蓄えることで、気球のように浮遊することができる。この形質が更に進化したらどうなるか」
「それは、興味深いですね」
「そうだろう?君はこのテーマを更に深く掘り下げたいと思っているかね?」
「ええ、それはもちろん」
「それなら、実際に怪物と遭遇し戦闘をした操縦士に話を聞くのがいい。何か重要な示唆が得られるかもしれない」
そう答えると、その学生は怪訝な顔をした。
「あの、先生はご存知だと思っていたのですが」
私の講義に何度か顔を出しているその学生は言う。
「ぼくが、そうですが」
「はあ?」
私は絶句した。
「き、きみが?」
目の前の学生を凝視する。彼が、そうなのか?
この島に来てから、至る所で話に出てきた人物。最初に会ったヒューベル博士も、博物館の館長も、クリス・アルメールも、コートニーも、そして、先ほどの怪人物までもが告げた名前。
『あの探査機の操縦士』
それが、彼なのか。
「え、でも、何で?」
私の頭には疑問符がたくさん浮かんでいた。
「君は、操縦士だろう?なんで、私の講義を」
「ああ」
その学生は気恥ずかしそうに言った。
「昔から生物学に興味がありまして。ここに来る前は大学で生物学を専攻していました」
そう言って彼は笑った。
その人物は真面目そうで、実直そうに見えた。確かに生物学でもやっている雰囲気がする。むしろ、探査機の操縦士という肩書きに違和感を感じるくらいだ。しかし、彼こそが、襲ってきた怪物をことごとく撃破し、この島の人々の命を救った人物なのである。
確かに、そういう目で見たら、わかる気がする。
彼は私とは全く違っていた。
私は目の前の事象を観察し、傍観してきた。自分は部外者だと思い、いかなる人情劇や愛憎劇も自分には関係のない世界の出来事だと思っていた。人間や社会と関係を持とうとしない、完全な脇役であった。
だが,彼は、そうではない。こういう人物をどう評すればいいのか。難しく考えるまでも無く適切な言葉があるのだろう。しかし、その時の私はそれを心の中から引き出すことができず、ただもどかしい思いをしていた。
館長に謝らなければ
操縦士としばらく話をした後、私はトロッコ列車で密林の中の線路をリール・ド・ラビームに向かっていた。
今朝は酷い対応をしてしまった。
あの館長は言い出しにくかっただろう。彼女から見たら、私は何もないところに話しかけ、あたかも誰かがいるように振る舞う変人であった。さぞ気持ち悪かったことだろう。ふつうならドン引きして距離を置くだろう。しかし彼女は私に真実を告げてくれたのだ。そんな彼女の厚意を私は拒絶し、博物館を飛び出してしまった。
しかし、彼女になんて言えばいい?
木通助教は実在しませんでした。私の脳に誰かが細工し、私がそのイメージを過去一年に遡って膨らませていました、本物の木通このはは怪物でした、などと言えるわけもない。信じてもらえるわけがないし、下手したら狂人扱いされる。この島での今後のことを考えると、「木通このは」に関わることは黙っていた方が良さそうだ。
そういえば、あの怪物、現実の木通このははどうしただろう?
そう思って私が振り向くと、トロッコ列車の壁に紺色のワンピースがかかっていた。私はそのシュールな光景に一瞬思考が停止する。しかし直ぐに気づいた。ワンピースから白い手足が出ている。頭を上にした姿勢で、そいつがハンガーに掛けた洋服のように壁にとりついている。白い顔がこちらを見ていた。
「わああ!!」
全く気配を感じなかったので、私は戦慄した。並のホラー映画なんて比較にならないくらい怖い。心臓が止まるかと思った。
白面から赤い瞳が私を見ていた。
「お、脅かすな」
私はそいつに言った。思えば、これがそいつに投げかけた最初の言葉だった。
「脅かすな」
そいつが言った。白面の後ろ、我々の口とは全く違う位置からその声がした。
低い声。まるで機械が合成したような無機的な声であった。
私は背筋が凍る思いがした。これは、この物体は、話ができるのか?
しかし、そいつはそれ以上喋ろうとしない。私は、こいつが単純に私の言った言葉を反復しただけではないかと想像した。
「話ができるのか」私は問うた。
「話ができるのか」
そいつがそっくりそのまま返す。声が低いのは、私の声の高さに合わせているからではないかと私は気づいた。
やはり、こいつはオウムのように言われたことを反復しているだけだ。
それにしても、ここまで完璧に人の言葉を模倣できるとは。
そんなものが私の傍にいることに、私は戦慄した。
やがて、トロッコ列車はリール・ド・ラビーム前の無人駅に到着した。
私が列車を降りると、そいつもささっと壁を移動してトロッコの外壁に移動した。そしてブリッジしたような姿勢でトロッコを降り、無人駅の壁にさっきの要領でしがみつく。その動きを見て、否応にも家屋に出没する黒い昆虫を連想してしまうが、「木通このは」の名前がそれ以上の思考を止めさせた。
無人の小さな駅舎の壁に、紺のワンピースを着た人間もどきがしがみついている。まるで磔になったようなその姿は恐ろしく、でもどこかシュールであった。
私は異様なものが傍にいることに恐怖を覚えていた。しかし、あの怪人物が木通このは助教の記憶を私に植え付けていたせいか、恐怖の中に不思議な親近感がある。私は自分でもよくわからない感情を抱えたまま、白い桟橋を渡りはじめた。そいつはカマドウマのような動きで私の後ろからついてきた。剣のように鋭い足先で木製の桟橋を歩む度に、ナイフが板に突き刺さるような音がした。
背後から未知の何かがついてくる感じは、正直言ってとても怖い。振り向いたら、仰向けになった少女のようなものが四つ足でついてくるのが見えるだろう。怖すぎて見る気にならない。そもそも、どうして私はこいつと一緒にいるのか?あの怪人物の提案など拒絶すればよかったのではないか?何故わざわざ未知の物体と行動を共にしなければならない?
しかし、私はこの怪物と縁を切る気にならなかった。それは、私が勝手に作り上げた一年にわたる木通助教との思い出のせいか、あるいは私の心に沸き上がる未知の生物に対する知的好奇心のせいか。
だが怖いものは怖い。これからこの怪物がずっと私の傍にいることを考えるとゾッとする。どうすればいいのだろう?
そうだ、と私は思い至った。こいつのことを、「これ」とか「そいつ」などと認識していることが恐怖を助長しているのかもしれない。名前が必要だ。未知のものに対する怖れを取り除く最初のステップは、名前を付けることである。何やら捉えどころの無い恐ろしいものに、「鬼」という名を付けた時点で、それは鬼という実態を得る。そうすれば。例えば豆で祓うといった対応が可能になるのだ。私は恐怖を隠すためにこいつに名前を付けることにした。しかし、すでに木通このはという名前がついている。だが、こいつの印象は私の記憶にある木通助教とは大きく異なっていた。どうするべきか?
しばらく考えた末、私はこいつのことを「通草コノハ」と呼ぶことにした。読みは同じアケビコノハだが、名字の漢字を変えて名前の表記をカタカナにした。こうすることで、こいつを木通このはと別物にすることができるかもしれない。
「コノハ助教」
私は振り向いて呼びかける。だが、そいつは沈黙していた。おかしいな。さっきは直ぐに返してきたのに。
数秒おいて、それは「コノハ助教」と言った。
その返事はまるで、こいつが自分の名前を認識し、「我は、『コノハ助教』である」と確認したように感じられた。私は再びゾッとする。
桟橋を渡る間にコノハ助教の姿は消えた。勘のいいやつだ。おそらく博物館に人の気配を感知して、身を隠したのだろう。
時刻はすでに夕方であったが、別館には館長がまだ残っていた。
灯りが点る博物館の玄関ドアを開けて、私は中に入った。
入口のホールにいた館長が、こちらを見る。
最高レベルのばつの悪さを感じながら、私はどもりがちに口を開いた。
「あ、あの」
「ああ、博士、お帰りなさい」シィナ・ライト館長は落ち着いた眼差しで、まるで何事もなかったかのように私を迎えた。
「館長、その、すみません。今朝は取り乱してしまって」
私は館長の目を見ることができず、視線を左右に泳がせながら続ける。
「あの、やはり、疲れていたみたいで、変な態度を取ってしまいました。ちょっと、その、疲れていたみたいで」
まったく要を得ない私の言葉であったが、館長は微笑んだ。
「そんなときもありますよ、もう良くなられたのですか?」
「はい。もう大丈夫です。館長に指摘されて、正気に戻りました」
言ってから私は後悔した。正気に戻った、という表現は良くなかったかもしれない。言い換えれば今朝まで正気を失っていたことになる。
「そうですね。今朝までの博士とは違う気がします。正気に戻られたのですね」
この館長、意図してなのかそうでないのか、けっこうきついことをさらっと言う。
「ご心配をおかけしました」
「いえいえ、よくあることなのでご心配なく。あ、兄?も前にそんな感じでおかしくなっていましたから」
このノーチラス島では人が正気を失うのは日常茶飯事で、たいした事ではないのかもしれない。なんて島なんだ、と私は思った。しかしそんな狂った島のせいで、どうやら今回は上手く収まったようだ。やれやれ。
それから、やはりこの人の「兄」という呼び方はおかしい。
そうしていると、外から航空機のエンジン音が聞こえた。
「あ、迎えに来たようです。あ、兄?が」
館長は博物館の外に出た。私も続いて、また外に出る。何度か見たことがある超軽量動力機が、リール・ド・ラビームの内湾に着陸する。いつものように館長が桟橋に走り出ていった。しかし今日は桟橋に着岸した機体からパイロットが降りて、こちらにやってきた。その姿を見て、私は驚愕した。
「き、君、君だったのか?」
それは、先程までレプティリカ大学で話をしていた、あの学生であった。
「き、君だったのか」
さっき言った言葉をそっくりそのまま繰り返す。それほど私は驚いていた。
どういうことだ?何なのだこの人物は?先の「ノーチラス事変」で怪物を撃退した操縦士、大学で生物学を聴講する学生、そして、この館長の血縁者?
様々な事に関わりすぎている。まるでこの人物を中心に物語が語られているような。
そして私の中で、さっき大学では言語化できなかった思いが、ひとつの言葉に収束していった。
主人公、そうだ、この人物は、どうしようもないくらいに主人公なのだった。
脇役であり傍観者である私にとって、まさに対極にいる存在であった。
操縦士が館長と話をしている。ああ、これだ。ぴったりだ。まさに物語の主人公とヒロインの姿がそこにあった。しかし私はそこで小さな違和感を感じる。何だか、主人公とヒロインにしてはどこか歪な感じがする。まず、館長は彼のことを兄と言った。兄妹なのか?だとしたらこの操縦士と館長は正統な主人公−ヒロイン像から外れてしまう。そして不可解なことに、二人の容姿は全く異なっていた。でもそれなのに、他人同士とは思えない深い絆のようなものが感じられる。私は昔から変なところで勘が鋭かった。他人の心の機微や女性心理などまるでわからないのに、どうでもいいようなところで不思議な勘が働くのである。
この二人には何かある、そしてそれは、どこか恐ろしいものだ。
私は、そう直感した。
「あ、博士、フェンネルさん、いや兄とお会いになっていたんですね」
館長は不思議な言い間違いをしながら言った。
「あ、ああ、さっき、大学で」
「兄からは博士の講義がとても面白いと聞いていたので、私も聞いてみたいと思っていました。時間ができたら聴講させてください」
館長は今思い出したかのように言った。とってつけたような言い方からすると、本心ではない。兄の手前お世辞を言う気になったか、あるいはさっき言い間違えたことを取り繕っているのか。私は「あ、ああ」と曖昧に答える。
「では失礼します」
館長は別れの挨拶をした。隣にいた操縦士も一礼する。
「それでは先生、また大学で」
その操縦士は、館長と共に帰っていった。
私はその場に立ち尽くす。ふと気がつくと、背後にコノハ助教がいた。
「あれが、君が護るべき存在だよ、コノハ助教」私は特に返事も期待せず話しかける。
「何だかとても妙なことになった。でもとりあえず何か食べようか。今日はコーヒーしか飲んでない」
そう言うと、コノハ助教はカタカタとクモのように動いて私の周囲を回る。仰け反った白面の上から伸びている金色の長い角が左右に揺れた。「食事」という言葉を理解したのか?そして、食事と聞いてアレが動いたということは、あの角はやはり採餌用の口吻なのか、と私は思った。
翌朝、私が一階の展示室に行くと、コノハ助教が陳列棚の間を歩いていた。
あれ、昨日と形が違う。昨日は仰向けの人間離れした形だったのに、今日の彼女は。四足形態ではあるが、うつ伏せの姿勢になっている。しかも角がない。私は些か驚いた。彼女は変形できるというのか?
今の形態は背中側が上になっているので、脊椎動物の形態に近い。ワンピースを着ているのと、体幹のアウトラインが女性型なので、胴体と頭だけ見ると人間の少女のように見える。ただし、陶器のような白面と四肢のせいで、やはり生物離れした、機械のような印象を受ける。何より四肢の形が人間と大きく違う。白い四肢は棒のように真っ直ぐ伸び、その先端は槍のように尖っていた。そんな姿でカツン、カツンと音を立てて歩いている。今回はそんな風に四肢が伸びているので胴部が高い位置にあり、昨日のクモ型形態よりも視点がずっと高い。私の腰の上くらいか。博物館の陳列棚を見て回るような場合はこの形態がいいだろう。でも、彼女はここにある展示物などに興味を持つのだろうか?私が不思議に思っている間にも、彼女は尖った四肢の先端で板張りの床を突き刺すようにして歩きまわっている。せっかく館長が綺麗に磨いた床が台無しになると心配したが、床にはほとんど傷がついていない。先端に何か工夫があるのか、あるいは体重が見かけよりずっと軽いのかもしれない。今の形態では膝や肘にあたる箇所に関節がないので、長槍のような四肢はその基部のみが動く。四肢を真っ直ぐ伸ばしたまま肩と腰の関節だけを使って歩く姿はなかなか奇妙であった。何だか機械のようで、有機的な感じがしない。その姿から、私はカナダのカンブリア紀の地層から見つかったハルキゲニアという動物を連想した。最初、この動物は長い棘のような足で歩くと考えられ、他に類を見ない特徴が注目されたが、後になって背腹が逆さまに復元されていたことがわかった。つまり棘のような足は足ではなく単なる棘だったのだ。実際のところハルキゲニアは現生のカギムシに近い系統で、当然、足も他の動物と同じような様式で動く。
しかし私は初期の復元図にちなんで、彼女のこの形態を「ハルキゲニア・モード」と呼ぶことにした。
仰向けに仰け反った形態の方は、例のホラー映画のヒロインにあやかって「リーガン・モード」と呼ぶことにしよう。
ハルキゲニア・モードになったコノハ助教は、両手を真っ直ぐ下におろし、両足は左右に少し開いた姿勢をしている。人間と同じく手よりも足の方が長いため、両手両足ともまっすぐ下におろすと腰を持ち上げたかなり窮屈な姿勢になる。そのため、両足を左右に開くことで背筋を水平に保っているのだろう。
そんなことをするくらいなら、肘と膝に関節を作ればいいのに、と私は思ったが、何かそれでは上手くいかない形態学的な拘束があるのかもしれない。私がそんなことを考えながら見ていると、コノハ助教はこちらに顔を向けた。赤い宝石のような目で私を見据える。
嫌らしい目で見るな、と言われたような気がした。
白面のせいで表情が全くないのに、私にはそう感じられた。なんとも不思議である。
陳列棚の間をコノハ助教がメカのような動きで巡っていく様子を見ているうちに、私は少し前のことを思い出した。確かこの部屋で、木通助教はある陳列物を見ながら奇妙なことを言っていた。
あそこを調べるべきです。
今となっては、あの時の木通助教は私の脳が作り出した幻影であった。ということは、あのときの木通助教の言葉も私の脳がつくり出したということだ。私は昔から変な勘が働くことがある。私は無意識のうちにあのブルーホールに何か異常なものを感じていて、それが木通助教の口を借りて出てきたということか?
ふと見ると、コノハ助教がひとつの陳列棚の前で立ち止まっていた。そこは、木通助教が指摘したあの物体が収まっている棚であった。あの、キノコとも動物とも植物ともつかない黒い標本である。
コノハ助教は赤い瞳でその物体を見ていた。
コノハ助教まで、アレに興味を示している。どうして?
昨日の怪人物のことを思い出す。彼は我々がこの先どのような行動を取るかを予想しているようだった。我々が調べようとするものについて何か重要な事を知っているのだろう。その情報がコノハ助教に伝えられている可能性がある。そのコノハ助教があの黒い物体に反応している。
つまり、私の勘と怪人物の予想は、同じ方向を指している。
ここの直ぐ脇にあるブルーホール、あの深淵の底を。