第13部
15―旅の終わり
それから数日はめまぐるしく過ぎた。
あの日、しばらくして、ヴァーミスラックスが帰還してきた。
元通りになった博物館と、そこにいる私を見て、全員が目を丸くしていたが、私は「あのあと勝手に戻った」と言い訳をした。
全員が訝しそうな顔をしていたが、精霊さんのことを明かすのはいろいろ不味い。おそらく皆が私のことを「ほっといたら異世界から勝手に帰ってくる変な奴」と認識したことだろう。
ただしばらくして、コートニーと館長は真相を知ったようだった。おそらくコノハ助教経由で情報が伝わったのだろう。
「だからあんな嘘を」
館長は少し不機嫌そうにそう言った。別れ際にカハール博士とフェンネル操縦士が同級生だと言った件だ。あの後カハール博士が「私が一体何歳に見えるんだ、愚か者め」と巻き返し、あれは私のタチの悪い冗談ということになったようだ。さすがクリス。
「私達を逃がすためだったんですね、でももっとましな嘘はつけなかったんですか?」
そう言われたので、私は「すみません」と謝った。
「でもやっぱり、私の思ったとおりでした」
館長はそう言って私に微笑んだ。
「やっぱり、あなたに任せておけば大丈夫でしたね」
その微笑みのあまりの破壊力に、私は精神防御障壁を最大レベルに上げて、なんとか対抗した。
そしてコートニーからは、
「先生は精霊使いになったんだね」
と感心された。そっちだって蟲使いの妖精少女だろうに。
彼女は興味津々といった感じで私を見て、
「カレハさんにあのことは言ったの?」と尋ねた。
「いや。まだだよ」
「言ったらすぐに教えてね、絶対に、約束だよ」
「あ、ああ」
これでいいのかどうか未だに判断しかねている私は、苦笑いして誤魔化す。
今回の事件について、ノーチラス島ではけっこうな騒ぎになっていた。何せ博物館が消失して、数日経ったらまた元に戻ったのだから当然だ。
それについては、キャンベル教授、カハール博士、そして私が報告書をまとめている最中だ。
博物館が戻ってきた理由を知っているのは私だけなので、そこは「原因不明」で誤魔化すしかない。あちらの世界についてどこまで情報を公開するかについて、キャンベル教授は慎重な意見をもっていた。
「今の段階ではすぐには信じてもらえないだろう」と教授は言う。
「証拠がもっと必要だ。それに、あの世界への行き方にも不明な点が多い。今回みたいな異常事態がまた起きるかもしれない。現時点では危険すぎる。当面の間は我々で調査を続けるべきだ」
私も同じ意見だった。幸い、あっちに行ける装備はヒューベル博士のところにしかないし、リール・ド・ラビームの調査権は私が持っているので、しばらくは我々だけで研究を続けられる。
私はあの世界は人類にはまだ早すぎるのではないかと思っている。
既に地球人類は見捨てられているのだ。そんな人類が大挙してあそこに行った場合、ろくな事にならない気がする。
当面の間は現在のチームで調査を進めるのがいいだろう。
これについてはカハール博士も同じ意見だった。まあ彼女にしてみれば、誰にも邪魔されずに好きなだけ研究ができるのが一番なのだ。
あの世界の生物を調べるのに彼女以上の人材はいない。しばらくは彼女の好きにしたらいいだろう。
当のカハール博士は、今回持ち帰った標本の調査に加えて、目下フェンネル操縦士の学位論文をまとめるのに大忙しだ。
いつ大学に行っても彼女は研究室にいて、隈の入った目でジロリと私を見る。
「酷いじゃないですか師匠」
例の件についても彼女は不平たらたらである。
「誤魔化すのにすごく苦労したんですからね」
「すまないと思ってるよ」
「まあ、師匠が私達をあそこから逃がすためにやったことなので、今回は大目に見ますが」
「そうしてもらえるとありがたい」
「その代わり、あんな自己犠牲みたいなことは今後絶対しないと約束してください」
そうは言っても、私と彼女では人間としての価値が違う気がする。彼女を助けるためなら、私はまたやるかもしれない。
私が黙っていると、クリスはため息をついた。
「結局、師匠はあれから博物館ごと帰還するという一大イベントに遭遇したわけです。私もそこにいたかったですよ。そんな凄いことがあるときは自分だけで楽しまずに、私も呼んでください」
「そんなこと言って、何かあったら一緒に死ぬんだぞ」
そう言うとクリスは「ふふん」と不敵に笑った。
「一緒に死んであげてもいいですが、多分、師匠は死んでも私は死にませんよ。何せ、先の事変でも生き延びましたからね」
私は何か言い返そうとしたが、「一緒に死んでも」のくだりでかなり精神的に衝撃を受けていたため、「ぐう」と言葉に詰まって終わった。
あるとき、私がメイオラニア丘陵にあるヒューベル博士の格納庫を訪れ、白い桟橋から海を見ていると、フェンネル操縦士がやってきた。
「先生、ちょっといいですか」
「何かな」
操縦士は眩しそうに海を見ている。
「一年前、何度もここから出撃しました」
「そうみたいだね」
「あの時は怪物襲撃の裏でぼくにもいろいろあって・・・・・」
「それは、館長とのことかな」
「そうです、先生は、何処まで知っていますか?」
「君が館長と同一人物だったこと、あの館長がマンディブラスの逃亡に関わっていたこと、くらいかな」
そのことで館長は心を痛めていた。私がこの島にきた頃、彼女はまるで闇落ちしたみたいな暗い表情をしていた。
確か、自分の罪は怪物を逃がしたことだけではない、とも言っていた。
「そのことと、前にぼくが話した、中学時代の夏休みに宝探しに行ったことを合わせて考えると、どうなります?」
「・・・・・君はたしか宝の地図を見つけて、そこに書かれた小島に行ったんだったね。そこで、石の井戸を見た。君はそこに落ちて、そうだ、君はノーチラス島に行ったと言った」
「そうです、その時ぼくは15歳だった、同じ頃、ノーチラス島にはぼくの分身がいた」
「館長か、その頃彼女は7歳か8歳か・・・・・季節は夏・・・・あの事故が起きたのも・・・・.もしかして」
もしかして、そんなことが、
「そんなことがあるのか?君が石井戸を通ってこの島に来たとき、その日、その日に彼女は」
「そうです、その日はちょうど、彼女がマンディブラスを逃がした日、そして彼女の、そしてぼくの父親が殺された日だった」
「き、君たちは出会ったのか、その日に、その時に」
フェンネル操縦士は頷いた。
「そうです、ぼくは彼女の目の前に転送された。では、その時に何があったと思いますか?」
彼はそう尋ねたが、私なら既にわかっているだろう、といった口調だった。
私は闇落ちしたような館長の顔を、彼女の言葉を思い出す。
——罪は、あるんです。私はあのとき——
——そうでなければ、その人が、報われない——
私がもつ変な直感が、足らないピースをすっ飛ばして、出来損ないのジグソーパズルを組んでいく。
「・・・・君と館長は出会った。ちょうどマンディブラスが逃走したときに。その時に館長はどう思ったか?きっと取り返しのつかないことをしたと思った、それと共に、目の前で父親を殺されたことで、復讐を、考えた」
フェンネル操縦士は黙って私の話を聞いていた。
「その場には君がいた。彼女はそこにいた君に言ったんじゃないか、あいつを殺せと、そう言って、君に呪いをかけた」
操縦士は頷いた。
「そうです、でも彼女の名誉のために言わせてもらえば、彼女は目の前にいきなり現れたぼくを、この世ならざるもの、幽霊だと思ったようです。だからそんなことを言った。もしぼくが人間だとわかっていたら、そんなことは言わなかったでしょう」
そうか、彼女は幽霊に依頼したのだ、復讐を。
あの異世界で「幽霊」という言葉が出たときに、この二人の間に流れた雰囲気を思い出した。幽霊とは二人にとって特別な意味を持つのだ。
「・・・・それから君は地球に戻った、だけど、この島に帰ってきた」
「そうです。すぐに転移が起きてぼくは地球に戻され、その際に彼女のことは忘れてしまいましたが、ノーチラス島のことはずっと気になっていた。だから、戻ってきた。11年も経ってしまいましたけどね」
「そして、君は依頼通り、復讐を果たしたんだな」
——あの怪物は姿を消しました。ひとりの人の人生を犠牲にして——
館長の言葉がまた甦る。
館長は事変の間に、過去に復讐を依頼した幽霊が彼だと知った。しかもその時、彼女は彼に深い愛情を抱いていた。何という皮肉か。そして、
なんて、哀しくて、罪深い————。
「でも、先生が彼女に何か言ってくれたんでしょう?先生がここに来てから、彼女は明るくなった。呪縛から解き放たれたみたいに」
そう、私が彼女の過去を暴いたとき、私はよく知りもせずに、彼女に言葉をかけた。あの時は自分が言いたいことを一方的に告げただけだった。あの言葉が間違っているとは今でも思わないが、あれが、あんなことが彼女を救ったのか?
「だから、お礼が言いたかったんですよ」
フェンネル操縦士は恥ずかしそうにそう言った。
「ではぼくはこれで、学位の準備もありますので」
彼は踵を返した。格納庫の方に歩いていく。
私はその背中に呼びかけた。
「君たちは、これからどうするんだ?」
「さて、どうすればいいんでしょうね、でも」
そう言って彼は振り返り、蒼い水平線を眩しそうに見つめた。
「きっと彼女は、好きなことをすると思いますよ」
最近、コノハ助教はあの場所がすっかり気に入って、夜な夜な遊びに出かけていた。
確かに、夜になるとあの建物群は古今東西の建物がライトアップされていて、とても幻想的で美しい。地球だったらとっておきのデートスポットになるだろう。そんなところを独占できるのだ。しかも夜の遊園地で遊べる。気分が良くないわけがない。
数日前のことだ。コノハ助教が夜の野外博物館を訪れていたとき、私は遊園地の方に行って、観覧車に乗ってみた。
ゆっくり回る観覧車のゴンドラの中で、遠くに見える夜の湖を見ていると、いきなりゴンドラが揺れて、ドアが開いた。
空中でいきなり開いたドアに驚く間もなく、
「やあ、調子はどう?」
そこには、黒い衣装を着た少年が立っていた。
「あ、ああ」
私が意表を突かれて戸惑っていると、アーベル氏はそのままゴンドラの中に入ってきて、私の向かいに座った。
「あの、登場するならもっと普通の場所にしてくれ、心臓に悪い」
「いや、君がなかなか楽しそうなことをしていると思ってね」
アーベル氏は彼にしては珍しく、悪戯っぽい表情を浮かべている。
「ところで、何だか妙な感じになったね」
「ああ、ちょっと自分でもびっくりしている」
「まあ、結果良ければ全てよしさ」
アーベル氏はそう言って眼下でライトアップされている遊園地を見た。
「あれは君の精霊達が地球から運んできたものだ。あっちの建物もね。つまり君は地球の事物を自在に転送する権能をもっている。しかも精霊の強力な護衛つきでだ。それをどう使うつもりなのかな?」
彼の口調は穏やかだが、会話の内容から察するに、私のことを警戒しているのかもしれない。
「・・・・ここを作った存在は、人類に嫌気がさしてここを放棄したみたいだ。実はぼくも20世紀以降の人類にはあまり魅力を感じない。だからここを拡張するつもりはない。このままここを維持して、今後の探査のための基地として役立てられればそれでいい」
「ふうん」
アーベル氏は湖の先の地底空間を見ていた。
「まあ、君の好きにするがいいさ」
「君は、この世界のことをどれくらい知っているんだ?もしかして・・・・」
「この世界を作った奴らのことかい?いいや、知らないね。あまり興味もないし、せいぜい君らで調べてくれ、でもバチが当たらないように気をつけろよ」
なんだかんだ言っても、彼は我々のことを気遣ってくれるみたいだ。
私はそんな彼の厚意に素直に頷いた。
ずっと先のことになるが、いずれこの権能を誰かに委譲しなければならないだろう。その継承者は地球の人間ではない方がいい気がする。彼には黙っておくが、私は遠い将来、この少年に継承してもらおうと考えていた。
彼は人類ではないが、我々と同じ、ノーチラス島の乗り人なのだ。
ヒューベル博士の格納庫から博物館に戻った私は、三階の研究室に入った。
コノハ助教は今日も博物館の中にいなかったので、あっちに行っているのだろう。私が異世界に通じるドアを開けかけたとき、
「御館様」
背後から声がした。
振り向くと、水色の瞳をした少女が立っていた。
「や、やあカレハ助教」
私はちょっとびっくりして、声がうわずってしまう。
「きょ、今日はあっちに行ってなかったんだな」
「はい、まだ時間も早いので」
カレハ助教は窓辺に歩いて行って、少し窓を開けて、外を見た。
「そろそろ夏も終わりですねえ」
彼女の視線の先に、蒼い内海と、その上に秋の装いを始めた木々が見えた。少し冷たくなった風が入ってくる。
「ああ、もうそんなになるんだな」
「御館様は、いつまでここにいられるのですか?」
「怪物調査の仕事は一年契約だから、あと5ヶ月くらいかな」
そうか、ここに来てからもう半年以上経つのか。早いものだ。そして、旅にはいずれ終わりが来る。
「そうですか」
彼女の声は少し淋しそうに思えたが、気のせいかもしれない。
そして私は、ここ2ヶ月ほど奮闘していたあれを彼女に告げることにした。
コートニーからも急かされていたし。
「あ、え〜と、カレハ助教」
「なんですか?」
「憶えてるかな、あの探検の前に、君に約束をした・・・・」
「忘れるわけがありません」
カレハ助教はこちらに向き直る。
「御館様は、私を主役にした映画を撮ってくれると言いました」
「あ、ああ、そのことなんだが」
「撮影を始めるんですか?」
「いや、ちょっと思い出してほしいんだが、あの時ぼくは君に、『君を主役にした作品を作る』と言ったんだ、そう、映画とは言ってないんだ、騙したみたいで悪いんだが」
「はあ」
カレハ助教は首をかしげた。
「それでだね、前にも言ったが、ぼくがここで映画を撮るのは無理だ、機材もないし能力もない、キャストもいないし金もない。そこで」
私は研究室の机に座って、引き出しを開けた。そこにはあの異世界に飛ばされる前から、そしてあの異世界でも、作り続けてきたものが入っている。
私は引き出しから自前でラッピングした包みを取り出した。
「これだ、これを君に」
私はそれを差し出した。
「はあ、なんですか、これ?」
カレハ助教は訝しそうにしている。
「開けていいんですか?」
「どうぞ」
彼女はおっかなびっくりな感じで、その包みを開いた。
中には、大きめの封筒が入っていた。
「分厚いですね、この感じは、書籍?図鑑でも入っているんですか?」
「まあいいから」
カレハ助教が封筒を開ける。その中に手を、入れた。
「ちょ、ちょっと待て!」
私は思わず制止する。
「え、何ですか、びっくりするじゃないですか」
「え、いや、ちょっと、こっちの心の準備が」
「何を言っているんですか」
カレハ助教はそのまま封筒を開けて、中のものを取り出す。
それは、大きめのファイルだった。
「なんですかこれ」
彼女がそれを開こうとする。私は死刑宣告を受ける容疑者みたいな気分になった。
「ちょっと待ってくれ、それを開くのはちょっと」
「はあ、何回も止めないでください、何なんですか?」
カレハ助教は少しうんざりしていた。
「映画の話は嘘だったんでしょう?」
「い、いや、まあ、結果的にはそうだけど」
「わかってますよ、御館様、御館様は落ち込んでいる私を元気づけようとしてあんな嘘をついたんです。優しい嘘ですよ、私はそれでいいです。で、これは何ですか?文書データを印刷してファイルに綴じたんですか?分厚いですね、アニメか何かの画集か設定資料集ですか、あいにく私は————」
「小説」
私はぼそっと言った。
「は?」
「小説だ、君を主役にした、小説」
「ほえ?」
「ぼくが書いた」
「へ?」
彼女は目を丸くした。
「しょ、小説って、これ」
「650ページある。この2ヶ月で書いた。あっちにいるときも、書いた」
「へ?わ、私が主役って、私が主役の作品って?」
「そう、それだ。ぼくは約束通り作った。君を主役にした作品を」
ああ、ついに言ってしまった。
ついにやってしまった。
あまりにも恥ずかしい。そしてあまりにも痛々しい行為。
よりにもよって、彼女を主役にした物語を想像し、それを文章化するなんて。
これはおそらく、99パーセント以上の確率でドン引きされる奴だ。下手したら通報される。
しかもその分厚さよ。ずしっとくる重さが痛さを増幅する。
「君が望んでいた、魔法忍者少女カレハの物語だ」
私は穴を自分で掘って、そこに入りたくなった。今すぐあの窓から下の海にダイブしたくなる。
カレハ助教は放心したまま、ファイルをぱらぱらとめくる。どのページにもびっしりと文字が書かれているはずだ。どのページを開いても、カレハ助教の物語が綴られているはずだ。
「こ、これ、は・・・・」
私は耐えきれなくなって目を伏せた。カレハ助教がドン引きして後ずさり、そのまま部屋を出て行く様を想像する。
自分ではがんばったつもりだが、相手の立場で考えると、これはかなり酷い。
私はちらっとカレハ助教を見た。
彼女はファイルを胸に抱いて、こちらを凝視している。
その彼女の瞳の雰囲気が、いつもと違う気がした。
やはり、不味かったか。
そのまま、時が止まったように私もカレハ助教も動かない。
少し隙間が空いた窓から秋の風が入ってきて、彼女の灰色の髪を揺らした。
「・・・・・あ、あのう」
たっぷり5分くらい経って、私はようやくカレハ助教に話しかけた。
「や、やっぱり、気持ち悪かったな、か、返してくれないか、それ」
私は彼女に手を伸ばして、その忌まわしいファイルを回収しようとした。思えば、過去に書いた本も全く売れなかったし、ダメージが大きくなる前に抹消しよう。
カレハ助教はそれをぎゅうっと抱きしめる。
「ほ、ほら、返して、焼却するから」
私は手を伸ばした。
彼女は更にしっかりそれを抱きしめる。
「は、はやく、焼却——」
「ダメです!」
カレハ助教は叫んだ。
「そんなこと、この私が、この私の魔眼が断じて許しません!」
彼女は、世界を救う勇者が魔王を罵倒するような感じで叫んだ。
「これを私から奪おうとする者は、何人であっても滅ぼします!」
そして彼女は、ファイルを両手に持ってバンザイするみたいに上に掲げて、叫んだ。
「ひゃっほう!」
秋風が入る部屋に彼女の声が響く。
「ひゃっほう!」
彼女は部屋を跳ね回る。何故かさっぱりわからないが、彼女の目からキラキラと涙が散っていた。
「ひゃっほう・・・・」
彼女の声はいつしか泣き声に変わっていた。
いつもと違う色の瞳から、止めどなく涙が散る。
彼女の瞳は、出来損ないの私の視覚でもはっきりわかるほど、美しい紫色に変わっていた。
そうして季節は巡り、翌年の3月、私はノーチラス島を去った。
トリオニクス湾に設けられた港では、この島で知り合い、一緒に異世界を訪れた人々が見送ってくれた。ここに最初に来たとき、私は二人で来たつもりだったが、実際は一人だった。今回、帰るときも一人だけど、来たときとは違う。私の前には多くの愛すべき人達がいた。
フェンネル博士とヒューベル博士は別れを惜しんでくれた。キャンベル教授は元気でと言い、カハール博士は少しそっぽを向いて、「またな」と言った。
館長は丁寧に一礼し、コートニーは「じゃあね、先生」と手を振った。
それがもうずっと昔みたいだ。
今、私の大学の窓から、冬景色が見える。
ノーチラス島を離れて、もう一年近くが経とうとしていた。
あの頃のことがまるで夢みたいだ。
私は日本の地方大学で、相変わらず授業やら研究やらを続けている。
窓の外は北風が吹いて、葉の落ちた木々を揺らしていた。
今日もいつもと同じ日常だ。午前中の用事が終わり、私は午後の授業の用意をしていた。
その時、ドアをノックする音がした。
「どうぞ」
私が投げやりに返事すると、ドアが開いた。
「やあ、辛気くさい部屋だねえ」
冬の装いをした少女がそこに立っていた。
コートを着てマフラーを巻いた少女は、ずんずん部屋に入ってくる。
「な、なんで!」
私は思わず立ち上がっていた。まじまじとその人物を見る。
それは紛れもなくコノハ助教だった。
「ど、どうした」
私はびっくりして尋ねた。
「な、なぜ、ここに」
「おや、公募を見てないのかい?」
コノハ助教はコートを脱いで、マフラーを外すと、
「よっこらせ」
部屋のソファに座った。
「公募だって?」
私は机の前のパソコンを開いた。公募のページを開いて,内容を確認する。
「ノーチラス島、レプティリカ大学、教授公募?」
「公募要件の、『人材』のところを見てみなよ」
「ええと、希望する人材、生物学を専門としていて、怪物に関する調査・研究経験があり、異空間の探査経験をもち、探査機による探査が可能な人物、なんだこれ?」
「そんな条件に当てはまる人物は、世界中探しても一人しかいない」
コノハ助教はにやりと笑った。
「レプティリカ大学があそこの調査を始めることになったのさ、そのために常勤の教授ポストができたんだよ。そのための公募さ。まあその文章には、あのいけ好かない博士の意図が多分に含まれていると思うが」
「え、それじゃあ?」
「さっさと応募したまえ、ここで待ってるから、書類を出したら、島に行こう」
「き、君、もしかして、島から来たのか?最近見ないと思ったら」
「そうだよお」
コノハ助教は人差し指をクルクル回す。
「インフェリアから、カリビアントンネルを抜けて、ここまで?」
「そうだよ、面白い旅だった」
「どうしてそんな、ここからならすぐに」
私は部屋の壁にあるドアを指さした。実はここもノーチラス島と繋げてある。このドアをくぐったら、いつでもあの博物館に行けるのだ。事実、私は毎日行っていた。あろうことか昼食はいつも向こうで食べている。
「博士、午後の会議に出なくていいんですか?」と館長に呆れられるくらいだ。
このことを知っているのはコノハ助教、館長、コートニー、そしてアーベル君だけ。フェンネル博士やクリスに会えないのはとても残念だったが、仕方ないと思っていた。
コノハ助教はこの数日間姿が見えなかった。てっきりあの遊園地にでも入り浸っているのかと思っていたのに。
「迎えに来たんだよ、我が精霊の王をね」
そして彼女は笑った。ソファから立ち上がって、私の傍にやってくる。
「書類は今出したら一週間くらいで結果が出る、大丈夫、通るさ。そしたらあっちで面接だ。なら今から行ってもいいだろう、旅費は大学持ちだ、せっかくだからその通路は使わずに、二人で旅をしようか」
私はまだ事態に追いつけなかったが、コノハ助教がこっちに手を伸ばした。
冬の日の差す大学の部屋で、私はその手を取る。
私はまたあの島の乗り人になるのか。
あの島は、謎と神秘に包まれて、今もそこにある。
- 完 -