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ノーチラスノートII  作者: 蓬莱 葵
12/13

第12部

 14―精霊の丘

 夜が明けて、我々はカフェに集まっていた。

 私はそこで昨夜の出来事を語り、自分の見解を述べた。

「ほお、もしそうなら、終脳に新皮質があるはずだな」

 案外あっさりとカハール博士は私の考えに同意した。

「今夜にでも捕まえて脳を出そう」

 そしてすぐに、脳を出す計画を練っている。

 その時、慌ただしくヒューベル博士が駆け込んできた。

 そして、事態は急展開を迎えた。

「電波を受信した」

 ヒューベル博士が興奮気味に報告する。

 我々は息を呑んだ。

「本当か?」キャンベル教授がガタンと椅子を倒して立ち上がった。

「本当です、ヴァーミスラックスがばらまいた受信機が捉えました。ここから西におよそ300キロメートルです」

「それは、遠いのか、近いのか」

「ずっと近いです」私が答える。

「正直、そんなに近いとは思わなかった。考えてみて下さい。ここは南極大陸くらいの広さがあるんですよ、最悪、4000キロくらい離れていてもおかしくなかった」

 私は心底安堵した。これは、何とかなるかもしれない。コノハ助教とカレハ助教の顔が浮かぶ。もう逢えないかもしれないと思っていたのに。彼女達がずっと近くに来た気がした。

「だが、どうする?」

 キャンベル教授が言った。

「そこまで全員で行くのか?それとも・・・・」

 そう、それが問題だ。

「ヴァーミスラックスに乗れるのは三人までですよね」私が確認すると、ヒューベル博士は頷いた。それを受けて私は続ける。

「あの機体の中にいれば安全だが、入れるのは三人。ということは、残り四人はほぼ丸腰の状態で、この空間を300キロ走破することになる」

「やはり難しいですよね」とヒューベル博士。私は頷く。

「そうですね、ここを出ると、おそらく明かりはない。島の航路につくまで暗闇が続く。上から何が襲ってくるかわからない状況で移動するのは危険すぎます」

「じゃあ、どういう方策が考えられますか?」

 私は頭を抱えた。

「考えられる策は一つ、ピストン輸送するしかない。まず三人が島の所まで行き、安全なところを見つけて待機する。その間にまたヴァーミスラックスがこちらに戻り、三人移動する」

「でも、ヴァーミスラックスがない状態でこっちに残るのか。ここも安全というには、ちょっと」ヒューベル博士が不安そうに言った。

「それに、途中までは通信が可能だが、あまり離れると無理だ。つまりこちらに何かあっても助けに戻ることはできない」

「そうですが、ここにいる我々には、今のところ直接の危害は及んでいない。あの建物群にいるものの正体は不明ですが、こちらが変なちょっかいを出さなければ大丈夫かもしれない」

 私の意見を受けて、皆は重苦しい表情で暫く黙っていたが、やがてキャンベル教授が口を開いた。

「その方法しかないかもしれない、だが、それは可能か?燃料は足りるのか?7人いるんだぞ、しかもクレイ君はパイロットだから実質2名しか移動できない。となると三往復することになる」

「そうですね」とヒューベル博士が答える。

「それは大問題です、燃料のことを考えると二往復が限界です」

 そしてヒューベル博士は私に向けてダメだという風に首を振った。

 だが、これ以外の方法を思いつかない。

 私は言葉を選びながら、答えた。

「無理かもしれないけど、ちょっと検討してみませんか?まず一回目の移動で、操縦士であるフェンネル君、それから無人探査機と交信するためにヒューベル博士、あとはこうした探検の実績があるキャンベル教授がノーチラス島の所に向かう」

「君は残るのか?」教授が私に尋ねた。

「あの建物群に潜む存在が正体不明であることと、毎夜未知の生物が接近してくることを考えると、生物学の知識がある者が残った方がいいと思いました。私とカハール博士が残って、館長とコートニーさんを護衛します」

「私はその人魚とやらの脳を出さないといけない、絶対に残るよ」

 カハール博士は相変わらず脳に執着している。

「そして二回目、フェンネル操縦士が迎えに来て、館長、カハール博士、コートニーさんを運ぶ。あの機体は三人乗りですが、館長さんとコートニーさんの体格なら二人でも一人分の座席に何とか入れるのでは?」

 私がそう言うと、ヒューベル博士は暫く考えて、

「それは可能かもしれない」と言った。

「だが」と教授。

「そうなると君が一人でここに残ることになる。しかも燃料の関係で迎えは来ない」

「そうですが、ずっと来ないわけではないでしょう?ノーチラス島の下まで行けば皆さんは帰還できるはず。一旦地上に戻り、その後ゆっくり私を迎えに来て下さい」

「で、でもそれでは」とフェンネル操縦士が口を挟んだ。

「いつになるかわかりませんよ。あっちに戻って準備を整えている間に島はどんどん離れていくでしょう、またここに来るには、ざっと考えても一週間はかかる」

「でも一週間でしょう?一ヶ月とか一年じゃない。それくらいなら何とかなりますよ。私はここでサバイバルしたこともあるんです。ここで快適な一人暮らしを楽しみますので、ご心配なく」

 私は努めて陽気に言ったが、カフェは重苦しい雰囲気に包まれた。

 でも、他にどんな方法があるというのか?

 私は脇役なのだ。メインキャストの人々とは違う。ここで脇役らしくおとなしくしているのが最善だろう。

 しかし、キャンベル教授は諭すような目で私を見た。

「そういう自己犠牲的な考えには賛同できないな。君を残してここを出る我々の心情も考えてほしいものだ」

「自己犠牲ではありません。私は死ぬつもりはありませんよ。何とかできる算段があるから、提案しているのです」

 実際のところ、そんな算段なんてない。もしかしたら私は自分を過酷な状況に置くことで、歪んだヒロイズムを満たしたいのかもしれない。だとしたら何とも浅ましい。

 ふと、コートニーの方を見ると、私の方をじっと見つめていた。何か言いたそうだ。それに、館長も私を見ている。何故か、二人とも同じような表情をしていた。ということは、二人は同じことを考えている?

 そして私は二人の考えに思い至った。

 彼女達はコノハ助教のことを考えている。

 コノハ助教と接触して、私のことを伝え、ここに来てもらうように頼むつもりなのだ。

 そうだ、コノハ助教のことを知っているから、あの二人はこの案に賛成してくれるだろう。私を一人残してここを出て行ってくれる。

「それしかないんじゃないですか?」

 だから、私がそう言ったとき、もう反対意見は出なかった。


 その日のうちに、第一回目の遠征が開始された。

 予定通り、フェンネル操縦士、ヒューベル博士、キャンベル教授がヴァーミスラックスに乗り込み、出発する。

 時刻は昼過ぎだった。だが時刻は関係ない。ここを離れたらいずれ暗闇の世界になるし、ノーチラス島の下は常に明るい。島に近づいたら段々明るくなってくるだろう。

 運がいいことに、無人探査機の電波をキャッチした方角には広い湖があった。ヴァーミスラックスは水上を移動した方が燃費がいいらしい。湖なら直線的に移動できるので、予定より早く目的地に着けるかもしれない。

「じゃあ、行ってきます」

 フェンネル操縦士が見送る我々に声をかけた。

「お気をつけて」

 館長が不安そうに操縦士を見ながら言う。

「無理しないでね」とコートニーも言った。

「大丈夫だよ」操縦士はいつもの当てにならない台詞を言い、機体を発進させた。

 濃紺色の機体は湖の方に向きを変えて、歩き出す。

 私は手を振った。

 コクピットの中から、強化ガラス越しに操縦士とヒューベル博士が手を振る。

 背部の丸い座席はハッチが開いていて、そこからキャンベル教授がこちらに手を振った。

 教授にはキアッパ・ライノを渡してある。ノーチラス島の近くには強力な捕食生物がいるだろう。フェンネル操縦士がピストン輸送でこちらに戻る間は、ヒューベル博士とキャンベル教授には向こうでしのいでもらわないといけない。アーベル氏はヒューベル博士の生存を望んでいるはずだ。だから教授に銃を渡したのは彼の意に沿っていると言えるだろう。

 やがて、機体は茂みの影に隠れて見えなくなった。

「行ってしまいましたね」

 館長がぽつりと言う。

「上手くいけばいいのですが」

「きっと大丈夫ですよ」

 私は元気づけるように言った。実際、あの機体とフェンネル君なら大丈夫だと思う。

 館長は私に何か言いかけたが、口を閉じた。

 きっとコノハ助教のことを話そうとしたが、周りを見てカハール博士がいるのに気づいたのだろう。館長は聡明だから、カハール博士がコノハ助教のことを知ったら不味いことになると理解しているのだ。

 私もクリスがコノハ助教を解剖するために追い回す光景は見たくない。

 クリスはというと、ぶつぶつ何か呟いていた。

「どうしました、何か問題でも」

 だから私は気になって、カハール博士に話しかけた。

「ああ、フェンネル君は早ければ明日の夜にでも戻ってくるだろう。だとしたら人魚を捕まえるチャンスは今夜しかない」

 そんなことを考えていたのか。

「博士、まずはご自分が助かることを優先して下さい。人魚はまた次の機会にでも」

「君は一期一会という言葉を知っているかね」

 カハール博士は、以前私がこの世界で思ったことと同じことを言った。私も前にここに来たとき、生物を観察することなく先に行くことがたまらなく残念であった。

「お気持ちはわかりますが・・・・」

「ちょっと意外だな。君はあれの脳を見たくないのかね」

 そう言われると弱い。私は言葉に詰まる。見たくないわけない。見たい。凄く見たい。

 だが、今回はちょっと状況が違う。例えば、南米の森にヘラクスレスオオカブトを探しに行こう、といわれたら躊躇せず行くだろう、だが、グレートバリアリーフに潜ってホオジロザメを捕獲しよう、と言われたらどうか。それに、ここにはコートニーと館長がいる。彼女たちを危険にさらすわけにはいかない。

 アーベル氏は私に彼女達のことを護ってくれと依頼した。

 だがここに守人であるコノハ助教はいない。

「ぐぬぬ」

「今更善人ぶっても、君は君だ。私の同類だよ、だから協力したまえ、今夜だ」

 カハール博士はそう言い捨てて、博物館の中に入っていった。

 外には館長とコートニーと私が残される。

 私が彼女らの方を見ると、館長がそれに気づいて、こちらに歩いてきた。

「明日、ここを出たら、コノハさんを呼んできます、約束します」

 館長は鳶色の瞳で私を見つめる。

「だから、間違っても自暴自棄にならないで下さい」

「大丈夫だからね」

 いつの間にかコートニーも傍にいた。

「ああ、わかった」

 私は答える。何だかアーベル氏の思惑とは逆の状況になっている気もするが、最善を尽くすほかないだろう。

 そして私は、何とかしてクリスを止めなければと思った。


 夜になった。

 あれから暫く、ヴァーミスラックスとは通信ができていた。

 あの湖はかなり広いようなので、予想していたよりも早く目的地に着けるらしい。だが、距離の関係で、夕方くらいに通信は途絶した。

 カハール博士はエントランスホールにいて、入口のドアの前を落ち着き無くウロウロしている。

「博士、人魚が来たのはもっと遅い時間でしたよ。それに、さっきも言ったでしょう。捕獲は難しいと思います。こちらには武器もない」

「解剖用の道具があるだろう?」

「昨日のカメラの画像を見たでしょう?サイズは我々と変わらない。そんなのに対して解剖用のメスやハサミじゃどうしようもないですよ」

 設置してある観測機器のところに館長とコートニーがいるせいか、カハール博士はクリスに変わろうとはしない。

「ふうむ、外にある建物に武器になるものがないだろうか?」

「あるかもしれませんが、持ち出せませんよ。前に言ったとおり、あそこにあるものを不用意に動かすのは危険です」

「でも、この博物館にある物は動かしても大丈夫だったじゃないか」

「それはおそらく、ここがイレギュラーな存在だからです。人魚を見てもわかるでしょう?ここには来るけど、他の建物には入ろうとしない」

「ふむ、ここにあるものを使うしかないか」

 カハール博士は少し思案していたが、「君、ちょっとそれを取ってくれないか」とでも言うような軽い口調で私に言った。

「君、ちょっと外で散歩してくれないか?」

「何ですか?」

「外は気持ちがいいかもしれないぞ」

 私はマスクの向こうのカハール博士の表情を伺う。この女、確か前の鉄道探検の時も剣呑なことを言っていた。私を囮にするつもりか。

「お断りします」

「まあそう言わずに」

「なら、博士が行けばいいじゃないですか」

「それでいいなら、そうする」

 カハール博士はあっさり同意した。

「その代わり、確実に仕留めてくれよ」

 そして博士はずんずんとドアに向かって歩き出した。

「ちょ、ちょっと」

 私は慌てて止める。

「なに考えてるんですか!」

「何って、あいつの脳を出すことだよ」

「他に方法があるでしょう?誰かを囮にしてはいけません」

「じゃあどうするんだ、ニンジンでも吊しておくのかね?」

「人魚がニンジンを食べるとは思えません」

「じゃあやはり、君か私が囮になってそいつの注意を逸らしているうちに、背後からフライパンで殴るしかない」

「相手は一匹とは限りません、無茶です」

「じゃあ、フライパン役はあの館長にやってもらおう、おおい、館長!」

 館長はあっけにとられてこっちを見ている。

「館長、気にしなくていいですから」

 私は大声で館長を制止した。

「君、私の素晴らしいアイデアの邪魔をするな」

「フライパンで殴打することが名案とは思えません、そ、そうだ、脳がそれで損傷するかもしれませんよ、それでもいいんですか?」

 そう言うと、はっ、とカハール博士が息を呑んだ。

「そうだ、それはまずい。そんなことになったら先の事変で怪物の脳をことごとく破壊したフェンネル君と同じになってしまう」

 そしてカハール博士はビシッ、と館長を指さした。

「館長!」

「は、はあ」

「君からも彼にきつく言っておいてくれたまえ!」

「は、はあ」

 館長はあっけにとられていた。

「それからそこのちびっ子!」

 ビシッ、とカハール博士はコートニーを指さす。

「な、何です、か?」

 矛先が自分に向いたので、彼女は狼狽えていた。

「君は一体何なんだ、いつの間に彼とあんなに親しくなった?その秘訣をレポート用紙10枚程度にまとめて提出しろ」

「そ、そんな、こと」

「ちゃんと、要旨、導入、材料と方法、結果と考察に分けて書くんだぞ、引用文献とわかりやすい図も忘れるな。上手くできてたら学位をやるぞ」

 滅茶苦茶だ。わかりやすい図ってなんなんだ?

 この茶番をあとどれだけ続ければいいんだろう、と私が思ったとき、

 唐突に、ノックの音がした。

 私達は雷に打たれたように、ドアの方を見た。

「来た」

 私が呟くと、「昨日より早かったな」とカハール博士が答えた。

 館長とコートニーは監視カメラの画像を見ている。

「外の様子は?」

 私は彼女達に尋ねた。館長が怯えたような顔でこっちを見る。

「何か、います」

 私は二人のもとに駆け寄った。

 モニターを覗く。

 そこには、幽霊のようなものが立っていた。

 昨夜のことがあるので、監視カメラの感度を上げている。

 白黒の画像ではあるが、昨日よりはっきり見える。

「やはり、そうか」

 そこには、私が想像したものとよく似た怪物がいた。

 長い髪を垂らし、口は大きく耳まで裂けている。コウモリの延長線上にあるような顔だった。両手はひょろりと長く、肘の所に飛膜がある。折りたたんだ指の間にも膜がありそうだ。

 そして、上半身は白く短い毛に覆われていて、下半身には針状になった長い体毛がある。これが白い服みたいに見えているのだ。腰から下がイルカのように先細りになり、先が背後に折れ曲がっている。その先がまた広がって、ジュゴンの尾ビレみたいになっていた。ただし、尾ビレはかなり大きめだ。

「まさに人魚だな」

 いつの間にかカハール博士が傍に来ていた。

 館長が恐る恐るといった感じで私を見た。

「宙に浮いていますね」

「ああ、そうですね。あの幽霊みたいな下半身の辺りに浮袋があるんでしょう」

 モニターに映るそいつが、トン、トンとドアを叩く。その音がホールに不気味に響いた。

「どうするの?」

 コートニーが心配そうに尋ねた。

「決まっているだろう、脳を出すのさ」

 カハール博士が当然のように言う。少女の頃、フェンネル操縦士にもこんな風に話していたのだろうか?だとしたら彼はかなり困惑したに違いない。

「いや、きまっていませんから」と私は慌てて言う。

「大きさは我々とほぼ同じ。しかもほら、一匹じゃない。画面の奥を見てください」

 モニターの奥の暗がりに、幾つかの影が見えた。昨日、博物館の前と後ろのドアからノックが聞こえていた。やはり、群で行動するのだろう。

 しかも今日は昨日より数が多い。

「これは厄介だぞ、ドアは頑丈だから、破られることはないと思うが」

 一応、二階や三階から進入される可能性を考えて、窓は鎧戸を閉めている。だが、鎧戸はこのドアほど頑丈じゃない。

 侵入を防げるだろうか?私は何としても、フェンネル操縦士が迎えに来るまで、彼女達を護らないといけない。

 その時、モニターの中で、そいつの姿がかき消すようになくなった。

「消えた」コートニーが驚愕している。

「ヒューベル博士が言っていたやつだ、上昇したんだよ」

 あの団扇みたいな尾ビレを一振りして地面に叩き付け、その反動で跳んだのだ。何という運動能力。

 あの速さの物体を捕獲するなんて、無理だ。

「また来ました」

 館長が報告する。見ると、別の個体がドアの前に来ていた。

 上昇した個体は、別の入口を探しているのだろうか?

「すごい数だよ」

 コートニーが言った。モニターの暗がりに無数の影が見える。

 この博物館は、人魚の群に取り囲まれているらしい。

 やはりこの世界は恐ろしい場所だ。ここ数日は人魚どもも警戒して様子を探っていたのかもしれない。今日になって本格的に侵攻してきたということか。

「どうするの?」

 コートニーは心配そうに尋ねた。

「もし万が一、このドアが破られたら、君は館長と一緒に屋根裏部屋に避難しろ。そして息を潜めているんだ。・・・・・カハール博士」

「何かな」

「あなたも避難してください」

「いや、私はここで奴らを捕まえて脳を出すよ」

「無理ですよ、あなたも生物学者ならわかるでしょう?ヒョウに生身で対抗するようなものだ」

「ヒョウとはなかなか適切な喩えだ、確かにそれくらいの身体能力だろうな」

「しかも相手は群です」

「でもあいつらの頭蓋骨の中には未だ人類の目に触れない脳が」

「それを見る前にやられてしまいますよ、あなたはまだ天使の脳も見ていないんでしょう?それを見る前に死ねますか?」

 それを言うと、天敵に遭遇したウサギみたいに、カハール博士が固まった。私が博士用に考えた殺し文句だった。よかった、効いてる。

「さあ、今のうちに」

 そう言ったとき、何かがドアにドン、とぶつかった。

 コートニーが悲鳴を上げる。

「どうした!」

 聞かなくてもわかった。人魚がドアに体当たりしたのだ。

 続け様に、背後のドアにも何かがぶつかる音がした。

 ドン、という重い音がホールに響く。

 ドアがみしっと軋んだ。

「けっこうな強さだな」

 カハール博士が冷静な声でコメントした。

「ドアは頑丈だよ」私はコートニーを安心させようとしたが、

「でもそんなには保たないだろう」

 カハール博士が無駄にする。

「どれ、フライパンを」

 博士はカフェの方に歩いていった。

 どうする?

 不気味な音が響く博物館で、私は考えを巡らせた。前にコートニーに偉そうなことを言った手前、ここは何か解決策を考えないといけない。

 その間にも、ドン、ドンとドアに人魚がぶつかってきた。

 予定通りに屋根裏部屋に逃げるか?いやでも窓が外から破られるかもしれないし、こいつらは嗅覚を頼りに獲物を探す。このドアが破られたら、この建物の何処に隠れていても匂いで探し出されてしまう。

 こんな時、怪物と闘った経験のあるフェンネル操縦士がいたら、何か思いついてくれたかもしれない。あるいは、コノハ助教なら。

 その時、私の脳にも、唯一の方法が浮かんだ。

 そうだ、それしかない。

 だが、できるのか?

「館長、コートニーさん」

 私は二人に話しかけた。

「私が合図したら、あのカフェの奥にあるドアを開けて、全速力で隣の建物に入ってください」

「え?」館長が驚いた顔をする。

「外に、出るんですか?」

「それしかない、奴らは何かを怖れて、外の建物には近づかない。今、前と後ろのドアはああしてドンドン叩かれていますが、カフェの奥にある、もともと展示室に繋がっていたドアの所にはまだ奴らが来ていない。あそこからなら、近くの建物まで10メートルくらいです」

 多分あそこは外の建物群に近い。だから人魚どもは避けているのかもしれない。だがこの調子で襲撃が続けば、いずれそこのドアも狙われるだろう。逃げるとしたら今しかない。

 外の建物にも何かがいるのは間違いないが、これまで襲ってきたりはしていない。今外にいる人魚に襲われるよりはまだマシだ。

「ぼくが合図します、さあ用意して、カハール博士はフライパンを持ってください」

「やはりこれが要るじゃないか」

 カハール博士はフライパンを楽器みたいにカンカンと叩いた。

「いいですか、くれぐれも脳を出そうとしないように、私も奴らの脳が見たい,だから、襲撃できるチャンスがあれば言いますから」

「わかったよ」

 よかった。わかってくれたようだ。でも何せクリスだから、油断は禁物だ。

「じゃあ、ぼくが合図したら行ってください」

「せ、先生はどうするの?」コートニーが不安そうに尋ねた。

「念のため、ぼくはこっちで奴らの注意を引く」

「またそんなこと、ダメだよ」

 コートニーは怒ったように言った。

「お父さんも言っていたでしょう?自己犠牲はダメだって」

「自己犠牲じゃない、ぼくも死にたくない。対処する方法は考えてる。無事に建物に着いたら、そっちで奴らの注意を引いてくれ、その間にぼくはここから出る」

「本当に?嘘ついてない?」

「本当だ」

 私もこっちに来てから、地球にいるときとは違う考え方が出来るようになった。今私が死んだら、ここにいる人達はきっと悲しむ。それは、よくないことだ。

 だが私はアーベル氏に彼女達を護ると約束した。約束は果たさないといけない。

 ん、でも、待てよ、約束までしていたっけ?

 まあいい。彼女達には絶対に死んでほしくない。それは間違いないことだ。

 私はタイミングを計った。

「今だ、外へ!」

 叫ぶと同時に、私は正面のドアに駆け寄り、鍵を外して、外に向けて開いた。今、人間の匂いが外に発散されたはずだ。嗅覚が優れた人魚どもはきっと反応する。

 同時に、カフェの奥の方でドアが開く音がした。

 彼女達も外に出た。

 私は暗闇に向けて上着を投げる。その匂いで人魚を引きつけ、その隙にまた建物の中に戻るつもりだった。

 上着が地面に落ちる音がやけに大きく響いた。

 そして私は気づく、何かがおかしい。

 よくわからない、だが、やがて気づいた。

 静かすぎる。

 さっきまであんなに騒がしかったのに、何も、聞こえない。

 辺りを静寂が支配していた。

 私は、ドアを開いたまま、暗闇を凝視し、そして立ち尽くす。

 建物の外には信じられない光景があった。

 暗闇の中に無数の人魚が横たわっている。

 それらは、一匹残らず絶命していた。


 私はその光景を前に呆然と佇んでいた。

 一体何があった?

 さっきまであんなにドアを叩いていたのに。

 ざっと見ただけで10体近くの人魚が転がっている。

 建物の背後から聞こえていた音も止んでいた。あっちにいた人魚もこうなったのか?

 一瞬で、人魚の群が死に絶えた。これは一体————。

「奴らは騒ぎすぎたようだな」

 いつの間にか、カハール博士が後ろにいた。

「は、博士、あとの二人は?」

「こっちに戻ってきたよ。ホールにいる」

「・・・・・博士、こいつらは何にやられた?どうやったらこんな一瞬で」

「さてね、それを調べるためにも解剖しようじゃないか」

 カハール博士はぶれない。どんなに不可解なことに遭遇しても、調べたら答えが出ると信じているのだ。その自信が未知のものへの怖れを抑制しているのかもしれない。私の方はというと、現在の光景がただひたすら恐ろしい。

「クリス、君はやはりすごい奴だ」

 私は振り返って、後ろに立つ博士に呟いた。

「お褒めにあずかり光栄ですよ、では早速始めますか、師匠」

 彼女はそう言った。マスク越しなので表情はわからないが、絶対に笑っている。

 私はその時、嫌な予感がしていた。

 クリスは「やりすぎた」と言っていた。彼女は人魚どもが大挙して押し寄せたことで、ここにいる何者かの逆鱗に触れたと考えている。

 でも、そうなのだろうか?

 昨日も一昨日も、人魚達はここに来ていた。その時には何もなく、今日に限ってこれが起きたことに、別の理由は考えられないか?

 もともとネガティブにものを考える私は、ついつい悪い方に考えを進めてしまう。

 この博物館はイレギュラーな存在だ。だから、これまで干渉されなかった。

 だがもし、少しずつ、背後にいる存在が、こっちを侵食しているとしたら?

 じわじわと水が染み込むように迫ってきて、この建物の周囲を囲み、すでにそこを自分たちの「備品」と見做してきているとしたら?

 昨日まではイレギュラーな存在であったこの場所は、すでに入口付近まで侵食されていて、さっき襲ってきた人魚は、背後にいる存在に領土に侵入したと見做され、排除された?

 では、ここにいる我々はこれからどうなるのだ?


 翌朝

 ヴァーミスラックスから通信が届いた。

 コートニーが通信機にしがみつくようにして、フェンネル操縦士と交信している。

「それで、今どこにいるの?」

 彼女が通信機に呼びかけた。

「今、湖に出た。あと3時間くらいでそちらに行く」

 ノイズ混じりの操縦士の声が通信機から聞こえた。

「わかった、気をつけてね」

 コートニーがそう言って、安堵したように椅子に背を預けた。

「ようし、これで次は天使の脳だな」

 ホールではカハール博士が試料の整理をしている。

 昨夜から休みなく解剖やらサンプリングをして、私も彼女も一睡もしていない。私はフラフラの状態なのに、彼女はまだまだ元気であった。

 正直、人魚10体分の試料収集は大変だった。

 だがそれで、色々なことがわかった。

 やはり人魚は浮遊生活に適応した哺乳類だった。

 骨格も哺乳類のそれだったし、筋肉の付き方もそうで、何よりその脳が哺乳類であることを如実に示していた。

「やっぱり新皮質があったな」

 カハール博士は満足そうに標本ビンに入った脳を見ている。前回の巨大ゴカイと今回の人魚、もし帰還できたら彼女は大忙しだろう。

 だが、その時間はあるか?

 私は念のため、建物のホールにある本やカップなどの位置を頻繁に変えるようにしていた。

 館長によると、外の建物では、動かしたコップがいつのまにか元の位置に戻っていたという。

 つまり、未知の存在によって「備品」と見做された物はその場所が固定されるのだ。

 ということは、もしもここにあるものが「備品」と見做された場合、そこから動かしたら元の位置に戻るだろう。

 だからもし、私が動かした物品が、動かす前の位置に自動的に戻ったなら、それは既に「備品」と見做されていたことになり、それがあった場所が既に侵食されていることを示している。

 あくまで仮定だ。最悪の仮定だ。カハール博士が言うように、人魚は騒ぎすぎたために殺害されたのかもしれない、そうであればこの建物は安全なままだろう。私が動かした品が元の位置に戻ったりはしない。彼女達は何事もなくここを出ていき、私も何日か後にここを離れることができる。

 だが、そうでなかったら。

 そして、あちらからの侵食が、生き物を、つまり人間を取り込んでしまったらどうなるのか?

 一つの可能性は、昨日の人魚と同じく殺されることになる。もし未知の存在が博物館の学芸員のように、物品にしか価値を見いだしていない場合、生物である我々は邪魔者として消されるだろう。

 二つ目の可能性は、ちょっと難しいな。もし我々人間が「備品」と見做された場合だ。

 その場合、他の物品と同じ扱いになるのではないか?つまり、その場所に固定される。物品の場合、少し動かすことは可能だ。ということは、建物の中で人間が動き回ることはできるだろう。つまり、これまでと同じく、この建物の中で生活できるかもしれない。だが、物品は外には持ち出せない。ということは———。

 固定された人間は、この場所から外に出ることができなくなる。

 そんな恐ろしいことがあるだろうか?

 私は自分の考えにゾッとした。

 目の前がさあっと暗くなる。血の気が引くとはこのことだろう。

 つまりこの博物館が、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」になるのか?

 私の脳裏に、あの曲の最後の歌詞と、あのギターの旋律が流れる。美しく、退廃的で、そして今の私にとっては何よりも恐ろしい。

 勘弁してくれ

 せっかくここまで生き延びたのに、それは酷すぎる。

 私はさっき棚から出してテーブルの上に置いたコーヒーカップを見た。

 それはまだ、テーブルの上に置かれている。


 私は一人で、裏の建物群に行ってみることにした。

 私の考えた可能性を確かめたかったからだ。

 もし、過去にこの場所に建物ごと転送されてきた人間がいたとしたら、その人達は「備品」になったのだろうか。

 その人々はどうなった?もしかしたら、あの建物群の何処かに、何らかの記録があるかもしれない。

 私は博物館を出て、裏の建物を巡る。

 建物の間には細い路地があるので、それらを辿りながら、建物の中を覗いていった。

 しかし、これは思ったより怖い。

 誰もいない建物はそれだけで恐ろしいし、いま私はこれらの中に未知の存在が潜んでいることを知っているのだ。今も背後に嫌な気配がする。

 一人で来るんじゃなかった。

 私は後悔した。

 恐れ戦きながら家々を巡っているうちに、私はいつしかこの丘をぐるっと横に巡っていた。

 博物館の裏は小高い丘の頂上に続くことはわかっている。今私はその丘を回り込んで、博物館の裏手にある場所に来ていることになる。

 下を見ると、少し先にある湖の縁に沿って線路がこちらに伸びていた。

 ちなみにあの電車は、夜になると動くようだ。ただし、一晩に一回くらいしか走らない。

 その線路の先を目で追っていくと、ちょうど私が目指す方向に続いているようだった。つまり、この丘の裏側だ。

 私の前からはいつしか建物が少なくなって、小さな森みたいになっている。

 そこを抜けると,視界が開けた。

「おお」

 私は思わず声を漏らした。あまりに思いがけないものを見たからだ。

 そこには、驚くべき光景があった。

 山の裏側の斜面に、日常離れしたものが林立している。華やかな飾りのついた様々な遊具の間にメリーゴーランドの天幕やジェットコースターのレールがあり、ひときわ高い位置に古びた観覧車があった。

 そこは、遊園地だった。

 異世界の地底空間にある遊園地。それはあまりにもシュールな光景だった。

 遊園地に人気はない。

 ただし廃墟、というわけではない。

 遊具はどれも綺麗で、今にも動き出しそうだ。

 ただ、人が誰もいない。

 人っ子一人いない遊園地は、空虚で不気味だった。

 この遊園地も、地上の何処かから来たのだろうか?

 でも遊園地がいきなり消失したら大騒ぎになるのでは?

 そう思ってよく見ると、遊園地は何だかパッチワークみたいだった。何というか、統一されたコンセプトがない。

 ある遊具はストラスブールのマルシェ・ノエルの移動遊園地で見かけたブリキの潜水艇みたいだったし、あるものは場末の遊園地にあるお化け屋敷みたいだ。

 ということは、これらの器具は、世界中にある遊園地から時間をかけて少しずつ集められたのか?向こうにあった住居と同じように。

 更によく見ると、遊園地の遊具はどれもレトロなつくりだった。おそらく19世紀末から20世紀初頭くらいのものばかりだ。つまり150年以上も前のものばかりということになる。

 それについては、あの建物群の所でも気になっていた。

 新しい時代のものがない。

 旧石器時代のストーンヘンジから中世ヨーロッパの家屋、近代アメリカ西部の建物はあるが、最近の物は一つも無かった。

 最も新しいものは我々の博物館。次に新しいのはあの電車くらいか。でもあれも20世紀初頭のニューヨークかロンドンを走ってそうな骨董品だ。

 何故、最近の物がないのだろう?

 そんなことを考えながら、私は帰路についた。

 帰り道でも家屋をいろいろ覗いてみたが、結局、ここに来た人間がどうなったのかを示す遺物を見つけることはできなかった。

 私は博物館に戻り、テーブルの上を見た。ここを出るときくるっと逆さまにしておいたコーヒーカップは、そのままの姿でそこにあった。

 思い過ごしかもしれない。そうであって欲しかった。

 私はそのカップを再びひっくり返してそこに置いた。


 昼過ぎ、ヴァーミスラックスが戻ってきた。

 予定よりもかなり早い。

 コートニーが駆けだしていき、館長がそれに続いた。

 カハール博士も作業の手を休めて外に出て行く。

 私も続いて外に出た。

 なだらかに続く下り坂を濃紺色の機体が登ってくる。

 コートニーも館長もそれを見ていた。彼女たちの瞳が潤んでいる。

「よかったですね」

 私がそう言うと、館長は頷いて目元を拭った。

 ヴァーミスラックスは博物館の前に止まり、コクピットハッチが開いてフェンネル操縦士が顔を覗かせた。

「なんとかなりました。ペンクロフトとキャンベル教授はあっちで待機してます」

 フェンネル操縦士が報告する。詳しく聞くと、湖を越えて暫く行くと、島の航路の下に広がる森林地帯に着いたそうだ。そこは明るくて、島からあまり離れていなかったらしい。

 この場所はこの地底空間の中心にかけて広がる未知の場所の奥深くかもしれないと思っていたが、存外ノーチラス島の航路のすぐ脇だったわけだ。

 つまり、この地底世界の内部はまだ未知のヴェールに包まれている。

 操縦士たち一行はあちらで隠れるのに適した洞窟を見つけ、ヒューベル博士とキャンベル教授はそこに潜んでいるらしい。

 キアッパ・ライノもあるし、大丈夫だろう。

「天使はいましたか?」

 私が尋ねると、操縦士は頷いた。

「いました。刺激しないように注意しましたが、一度襲われました。でもこの機体なら対処できます」

「ほほう、では向こうで早速捕まえよう」

 カハール博士は既に心ここに在らずといった感じだ。

「先生、やはり燃料のことを考えると、もう一往復は無理です」

 申し訳なさそうに操縦士が言った。それはわかっていたことなので、私は「心配ない」と答える。

「ここにいる限り、大丈夫だよ」

 昨日の人魚襲撃については黙っておく。結局無事だったわけだし、ここで敢えて言う必要はなかろう。

「では、荷物を取ってきます」

 館長がそう言って博物館に入った。寝泊まりしていた部屋に置いてあるものを取りに行くのだろう。コートニーもそれに続く。カハール博士は既に標本類を機体の腰の辺りについているキャリアに積み込み始めていた。

 私も博士を手伝って、ホールに置いてある標本類を運ぶことにする。

 私は博物館に入り、何気なくテーブルを見た。

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 私の心臓がぎゅうっと収縮した。

 あれは、あのカップは,私が探検から戻ったときに,逆さまにしておいてあったものを、普通に、つまり飲み口を上にして、テーブルの上に置いた。

 それが今、逆さまになっている。

 つまり、私が外から戻ってくる前の状態になっている。

 外の建物を最初に探検したとき、館長が言っていた台詞が脳裏をよぎった。

 ———私は確かに、真ん中に置いたんです

 あれと同じだ、動かした物が、動かす前の状態になっている。

 私の視界が揺れた。そのまま膝をつきそうになるのを、何とかこらえる。

 呼吸が苦しい。

 私の考えは、正しかったのか?

 いつもろくでもないときだけ、予想が当たる。私は自分の脳に嫌気がさした。

 私は無造作にテーブルに載っているカップを見据える。

 つまり、少なくともこの博物館のテーブルの所まで、侵食されているのか?

 私は慌てて周囲を見回した。

 特に何も無い。

 だが、頭を巡らせたとき、視界の隅に何かがちらっと見えた気がした。

 外の建物を巡っているときに感じていたものであった。

 未知の存在が、既にここにいる。

 私の心が恐怖で満たされる。いつもなら悲鳴を上げていただろう。

 でもこのとき、意外にも、私の心の中で何かが作動した。おそらくそれは自身の防衛本能だ。火事場の何とかというやつだろう。それが壊れそうになっていた心身を無理矢理に動かして、私に行動をさせる。

 私はそこにあった標本類をひっつかみ、外に出てクリスの横に叩き付けるように置いた。

「ちょ、貴重なものだぞ」

 カハール博士が文句を言うが、そんなの気にする余裕は無い。

 私は博物館に駆け込んで、階段の上に向かって呼びかけた。

「急いでください、出発します」

 侵食はどれくらい進んでいる?少なくとも一階部分の縁までは来ている。もしもすでに建物の奥深くまで侵食されていたら?

 館長たちが侵食されていたら?

 館長達はこれまで何処にいた?

 私は記憶を辿る。私が戻ってきたとき、彼女達は確かカフェで昼食の準備をしていた。そしてその後に四人で食事をした。

 あの時使った食器類は?

 私はカフェに駆け込んだ。テーブルの上やカウンターを見回す。

 食器類は綺麗に片付いて棚の中にあった。

 もし昼食時に侵食されていたら、食器類はテーブルの上に「戻って」いる可能性がある。だが片付いているということは、未知の何かはまだここには来ていない。

 私は念のため食器棚から陶器の皿を取り出した。それをカウンターに置く。

 そのとき、私の手はガタガタと震えていた。

 暫く様子を見る。

 だが、皿はそのままだ。念のため視線をずらし、一旦それを視界から外して、また振り返る。

 皿はそこにある。

 ということは、ここはまだ侵食されていない。

 しかし————。

「急いで」

 私はまた階上に呼びかけた。

 今は一分一秒が惜しい。

 ようやく館長とコートニーが降りてくる。

 私は彼女らの荷物をひっつかんで、ヴァーミスラックスまで走っていった。

「フェンネル君、人魚がいるところに生身の人間を残しておくのは危険だ、すぐに出発したまえ」

「は、はい」

 彼はここでちょっと休憩を取るつもりだったかもしれないが、私は有無を言わさず、行かせることにした。

「カハール博士も、さあ、乗り込んでください」

「ああ、わかってるよ」

 カハール博士は操縦席から下ろされたタラップを登って、フェンネル操縦士の後ろの席に乗り込もうとした。彼女の心情を鑑みるとそうさせてやりたい。だが、そうなると残りは背部にある球形の搭乗席しかない。私も乗ったことがあるが、そこは狭い。

「カハール博士、申し訳ないが背部の席に移ってください」

「私はこっちの方がいいんだがね」

「我が儘を言わずに、お願いします」

 カハール博士はぶつぶつ文句を言っていたが、退いた。

「館長、コートニーさんはこちらに。二人だと狭いですが、何とかしてください」

 私は二人の荷物をキャリアに積み込みながら、促した。

「は、はい」

 コートニーがやや戸惑いながらタラップを登り、後席に乗り込む。

 彼女は何とか体をずらして、もう一人分のスペースを確保しようとしていた。

「さあ、館長も」

 私は彼女の背中を押すような勢いで促した。

「あ、あの、博士」

 館長は少し狼狽したように私を見た。

「どうなさったんですか?急ぐ必要があるのはわかりますが、それにしても・・・・」

 そして彼女は、例の全てを射貫くような鳶色の瞳で私を見た。

「博士、もしかして、私に何か隠していませんか?」

「いいえ、何も」

 そう言いながら、私は目を逸らした。

 まずい、今気づかれるのはまずい、この人のことだ、このまま素直に行ってはくれないだろう。それに、彼女が事態に気づいたら、私を置いてここを去ったことを後悔するだろう。彼女のそんな姿は見たくない。もちろんコートニーにも、クリスにも、そんな思いはさせたくない。

「あっちに帰れるチャンスなんです、急いだ方がいい。そしたら私が帰ることにもつながる」

「でも、やっぱり、少し変ですよ、どうしたんですか?」

 館長はちらっと、博物館の中を覗いた。

「さっき、食器を出したりしてましたね、何か理由があるんですか?」

 まずい、女性というのはどうしてこう勘が鋭いんだ。

 しかも私は嘘をつくのが苦手ときた。最悪の取り合わせだ。

「・・・・食器は、いい磁器だと思ったんです、それだけですよ」

「本当にそれだけですか?」

 館長が訝しそうにこちらを見ている。

「博士、もしかして・・・」

 館長の目がすっと細まった。万事休すだ。その時、私は天啓を得た。

「あ、そうだ」

 私は記憶の中から最強のカードを取り出し、そして切った。

「思い出しました、そういえば」

 そのカードとは彼女が知らない、とっておきの秘密だ。

「そういえば、あれですよ、カハール博士はなんと、フェンネル君の同級生だったんですよ、中学の」

「ええっ!」

 館長は素っ頓狂な声を上げた。私は彼女のこんな声を初めて聞いた。

「えええ!」

 コクピットからも悲鳴のような声がする。コートニーだ。

「え、ちょ、君、それは」

 背部の座席でカハール博士がわたわたしていた。その姿が否応にも、私の言葉が真実だと告げている。

「本当ですか、カハール博士?」

「本当なの、クレイ!」

 館長とコートニーが同時に尋ねる。

「え、いや、それは」

 フェンネル操縦士は困惑しきった顔で少女を見て、次に私の方を見た。

 すまない。でも仕方ないんだ。

 私は操縦士に心の中で謝ってから、言った。

「その辺の話を道すがら聞いてみるといいですよ」

 館長はすでに何かに取り憑かれたように、コクピットへのタラップを登っていた。

 私には目もくれない。

 よかった。

 当事者のフェンネル君とクリスには悪いが、カハール博士が彼と同級生だったと言っただけだ。それがクリスという女性だとは言ってない。ぎりぎりセーフのはず。

「じゃあ、いい旅を」

 私はコクピットに向かって言った。

 だがすでに当の本人達は私のことなど眼中に無いようだ。

 コクピット内で何か騒々しいやり取りをしながら、機体は動き出し、坂を下っていく。

 私は手を振った。でも誰も気づかない。

 機体が茂みに隠れて見えなくなるまで、私は手を振っていた。

 そして、がっくりと膝をつく。

 両手を見ると、ガクガクと震えていた。

 体全体が震えている。

 恐怖ではない。その時の私は歓喜にうち震えていた。

 やりとげた。

 成し遂げた。

 彼女達を無傷でここから送り出した。

 コートニーを、館長を、送り出した。

 彼との約束を果たした。

 アーベル君、見たか、果たしてやったぞ。

 クリスも送り出した。

 類い希な頭脳を、そして古い友人を、私は護りきった。

 ああ、この気持ちを何に例えればいいだろう、それまで誰もできなかった実験を成功させたときか、いやそれ以上だ。

 天も照覧あれ

 私は、私の能力で、勝ったのだ。


 暫くそこで呆然としていた私は、我に返って、今後のことを考える事にした。

 背後の博物館を見る。

 既にそこは安全地帯ではない。どこまでかはわからないが、未知のものたちの領域になっている。

 どこまで侵食されているのか?

 私は恐る恐る、博物館に入った。

 さっきまでは賑やかだったそこは、静寂が支配している。

 仲のよかった友人達が帰ってしまった後の部屋みたいだ。

 いや、私にはそこまで仲のいい友人はいなかったな。

 私はホールをめぐり、至る所にある物品を移動させたり、向きを変えたりした。同じことをカフェでも行う。

 数分ほど外に出て、また戻る。

 すると、幾つかの物は、動かす前の状態に戻っていた。ただし、全部ではない。部屋の中央付近に置いた物は、そのままだ。

 カフェも見てみた。奧の食器棚から出した食器類は棚に戻っていた。だが、ホールに近い側の棚から出した食器はそのままだった。

 つまり、侵食はされているが、建物全体にはまだ及んでいない。

 様子を見るに、外側からジワジワと侵食が進んでいるようだ。

 では、その速度は?

 私はまだ侵食されていない部品箱の中からナットを100個ほど取り出し、それをホールの床に一直線に並べた。その状況をスケッチして、20分ほど時間を潰す。それから、全部のナットを5センチほど横にずらし、ちょっと外に出て戻ってみた。

 幾つかのナットがずらす前の位置に戻っていた。つまりそれは、20分の間に新たに侵食されたことを示している。私はこの作業を何回か繰り返し、侵蝕速度を計測した。

 だいたい、20分で10センチくらいか。

 少しだ、少しだが、でも確実に侵食が進んでいる。このペースなら、1時間でおよそ30センチ、10時間で3メートルか。これを早いとみるか遅いとみるか。

 私は縦方向についても壁に付箋を貼り付けて同じように調べてみた。

 侵食は床から進んでいるようで、今のところだいたい床から1メートルくらいまで侵食が進んでいる。

 建物の外から内へ、そして下から上にかけてジワジワと水が染み込んでくるように進行している。

 ということは、建物の上にいたらしばらくは逃れられる。

 だが、どれくらい?

 このペースだと、建物全体が侵食されるまで、おそらく三日とかかるまい。

 フェンネル操縦士が戻ってくるのにどれくらいかかるだろう?ノーチラス島の真下まで行って深淵に戻り、そこから準備を整えて再度ここを訪れるのにどれくらいかかるか?

 当初の見積もりでは一週間だった。だが状況は比較的良いようなので、そんなにはかからないかも。でも三日では絶対に無理だ。

 そうなると、私はこの建物にいられなくなる。得体の知れないモノに取り込まれるのはごめんだ。

 ならば、手はひとつしかない。ここを出るのだ。ここを出て、未知のものの手が届かないところに潜んで、助けを待つ。

 でもそうすると、例の人魚の勢力圏に入ることになる。あんな奴らに対抗できるだろうか?昨夜襲ってきた奴らを解剖しながらその生理機能を推測してみたが、武器が無い状態では勝てる見込みが無い。しかも相手は夜、匂いを嗅ぎつけてやってくる。匂いを消すのは無理だ。どうする?

 それに、あの巨大ゴカイもいる。未知のものの領域外の天井は不気味な巣穴だらけだ。夜になると巨大ゴカイがそこから這い出してきて、岩の天井を這いまわっているだろう。あるいは何十匹もの個体が天井からぶら下がって、地上の獲物を狙っている。

 どうする?

 これは万事休すというやつかもしれない。

 絶望したせいか、どっと疲れが出てきた。さっき気力を振り絞った後遺症も出ている。私は博物館の屋根裏部屋、今考え得る最も安全な所に引っ込んで、ベッドに倒れ込んだ。

 意識を失う直前、暗闇の中に何かが見えた気がした。

 ぼんやりとしたそれが、あの灰色の髪の少女の姿になる。

 私は眠りに落ちた。


 どれくらい眠ったのか。

 私が目を覚ましたとき、周囲は既に暗かった。

 仮眠のつもりが、しっかり眠ってしまったらしい。今日は徹夜したうえに、精神的にかなり疲弊してしまったせいだろう。

 私は周囲を探る。見たところ異常は無い。

 階下に降りた。一階のホールも寝る前と変わらない。でもきっと、かなりの所まで侵食が進んでいるはずだ。

 床に並べたナットがあったので、それを動かしてみる。昼に計った感じでは侵食速度は1時間で30センチだった。あれから6時間あまり経っている。ということは、だいたい2メートルくらいか。

 ずらしたナットが元に戻る場所を確認してみると、だいたい予想通りだった。自分の目測が当たっていることにほっとするが、すでに一階の外周はほぼ侵食されている。

 侵食されている場所を歩いても特に問題はない。外にも出られる。おそらく私はまだイレギュラーな存在と見做されている。ではその状態はいつまで続くだろう?

 それを知ることは重要だ。もし私がこのままここにいると、いずれ建物全体が侵食され、前に考えたように、私は殺されるか取り込まれるかのどちらかになるだろう。では、建物が侵食されたとき私が「外」すなわち未知の存在の領域外に出ていたらどうか? 仮説1、私は完全な部外者になる。その場合は敵と見做されて、もし「中」に入ろうとしたら昨日の人魚みたいに殺されるだろう。だが、仮説2、博物館が占拠された後も私がイレギュラーな存在であり続けるなら、私は攻撃されないし、「中」に入ることもできるかもしれない。そうしたら、助けが来るまで安全な「中」にいられるかもしれない。

 でもそんな都合のいい話があるだろうか?

 もし仮説2が合っていたとしても、「中」にいたらいずれ侵食されるのではないだろうか?そして「中」から出られなくなる。そうなったら助けが来てもどうしようもない。

 それに仮説1と2のどちらが正しいか確かめるためには、一旦外に出て、建物が侵食された後に「中」に入れるかどうか確かめる必要がある。そして仮説1が正しければその場で死ぬ。これでは実験できない。

 結論として、私は建物が侵食される前にここを出ていかなければならない。そして怪物どもが跋扈する「外」で生存しなければならない。

 やっぱり、ちょっと無理かな。夜を越えられる気がしない。

 また目の前が暗くなってきた。

 私は暫く考えるのを止めて、とりあえずカフェで夜食を取ることにした。

 幸い、厨房の辺りはまだ侵食されていない。

 有り難いことに、冷蔵庫に何食か作り置きがされていた。館長が作ってくれたようだ。ありがたい。

 それを食べると、少し気力が湧いてきた。

 自分でも不思議なことに、思ったほど絶望していない。

 今までずっと一人だったせいで孤独に慣れていることもあるし、護るべき人を無事に送り出したこともあるだろう。

 あとおそらく、コノハ助教とカレハ助教の存在が大きい。

 フェンネル君達はおそらく間に合わないが、彼女達なら、あるいは。

 だが、彼女達は何処にいるのだろう?我々を探して、この広大な地底空間の暗闇を彷徨っているのか?

 そうだとしたら絶望的だ。見つけられるわけがない。だが、フェンネル君達はノーチラス島のすぐ近くまで行っているのだ。そこでコノハ助教と邂逅する可能性がある。もしそうなれば彼女は彼らの帰還を助け、その後すぐにここに来てくれるだろう。

 その可能性に賭けるなら、彼女達は数日以内に来るかもしれない。ならば私はその間、未知の存在に取り込まれることなく、生存しなければならない。

 さっき考えたとおり、外に出て生き延びるのはほぼ無理だ。

 私がいま持っている情報では、生存するルートが見いだせない。

 ならば、まだ持っていない情報が必要だ。この場所のことを更に詳しく知る必要がある。

 私は外に出てみることにした。

 今は深夜で外は真っ暗だが、昨日の件があるので、人魚どもの気配は全くない。おそらくこの建物には、そして未知の存在の気配がするところには近づかないだろう。

 もう一度、あの線路の所に行ってみよう。


 私は建物の外に出た。

 数日前にクリスと歩いた道を一人で歩き、線路に出る。

 空を仰ぐと、星灯りならぬ虫灯りが満天の星のように広がっていた。あの青い光の全てが巨大なイモムシによるものと考えるとぞっとしないが、こちらへの実害はないみたいなので、あまり気にしないことにする。

 暫く歩くと、例の駅が見えてきた。ぽつんと灯りが点っている。

 相変わらず不気味だ。

 私はプラットホームに上がった。

 線路を前に、つまり駅舎を背にして立つ。

 駅舎の外には道がある。そこで見たものがまだ恐ろしくて、そちらを見ることはできない。ここに来ると前の時に感じた恐怖が甦ってきた。

 よりにもよって、真夜中に来てしまった。自分でも頭がおかしいのではないかと思う。

 何故私はこんな恐ろしい場所に立っているのか?

 それは、ホラー映画なんかで、それまで恐怖に震えていた主人公が終盤になっていきなり勇ましくなって、恐怖の中枢に入っていく現象と似ていたかもしれない。

 閾値を超えた恐怖で脳が誤作動を起こしている、言い方を変えれば、狂っているのだ。

 ———そろそろのはずだ。

 私が待っていると、やがて遠くから規則的な音が聞こえてきた。

 来た。

 ここに来た夜に見た電車が、近づいてくる。

 それは、近くで見るとかなり古びた車両だった。形式もかなり古い。リバイバル上映していた1933年の「キング・コング」で見たような車両だった。1900年代初頭のものだろう。

 私の前で、電車が止まる。中は無人だ。

 私はドアにある真鍮製の取っ手を掴んで、ドアを開け、中に入った。

 私が入ると、やがて電車は動き出した。

 一番前の車両に入ったので、本来なら運転手がいるはずだが、運転席には誰もいない。

 でも視界の隅に何かがいる気がする。

 とても、恐ろしい。

 しかし、このままでは私は確実に死ぬ。生き残るために情報を集めなければならないのだ。今回ばかりは、差し迫った死の恐怖がオカルト的恐怖を上回っていた。

 電車は走っていく。やがて大きくカーブしながら丘を下っていき、湖の縁を走り出した。そしてまたあの丘の方に戻っていく。

 窓の外は暗い。湖岸を走っているので昼間だと美しい景色が見えるかもしれないが、電車に点った淡い明かりのせいでガラスが鏡になっていて、外の様子は見えない。幽鬼のように立つ私の姿が見えるだけだ。

 今の私を外から誰かが見たとしたら、幽霊にしか見えないだろう。

 電車はどこにも停車することなく、丘の裏手に来た。そして、私が昼間に見た遊園地の前で停車する。

 そこは小さな駅になっていた。前に予想したとおり、この線路は丘と湖の間を一周するように施設されている。

 私は電車を降りた。

 目の前に、遊園地がある。だが、明かりは一切無い。

 電車を動かせるなら、ここの設備も動かせそうな気がするが、観覧車もメリーゴーランドも沈黙していた。

 まるで、動かす意欲を無くしたみたいだ。

 その時、昼間にちらっと浮かんだ考えが甦った。

 まるで打ち棄てられたかのような遊園地、そしてあの建物群。

 それに、ここには未知の存在が潜んでいるが、あれはこの世界をつくり、ノーチラス島をインフェリアに浮かばせた存在ではない。おそらくその使い魔のようなもので、主人が作った施設の維持管理を任されているものたちだ。

 ではその主人はどうした?

 私はこの世界に何度か来たが、一度としてその存在に会ったことはない。

 彼らは何処にいるのか?

 この場所を作ったときには、彼らの意思が働いていただろう。彼らはノーチラス島で世界を複製し、様々に分岐した世界が様々に多様化していく様子を記録していた。そのうちに人類の存在に気づき、その歴史が始まってからずっと、監視していたのだ。

 この場所はそうした記録のための場所、野外博物館として作られたはずだ。

 だが、今は打ち棄てられていて、学芸員だけが取り残されている。

 何があった?

 建物の年代は、我々の博物館を除けば、1900年代初頭で止まっている。

 我々は別のトラップに引っかかってここに放り込まれたイレギュラーな存在らしい。ということはやはり、ここは20世紀の最初の時点で野外博物館としての機能を放棄されたのだ。

 ここで、一つの考えが浮かんだ。

 普通の人間ならおよそ浮かばないような考えだ。

 私は、ノーチラス島に来たときに最初に会った存在、あのコノハ助教をつくりだしたアーベル氏を思い出していた。

 もしかしたら、彼ならこう言うのではないか?

 飽きたんだよ、と。

 この世界を作った存在は、20世紀までは人類を観察していた。だが、その有り様を見て、失望した、あるいは、これ以上観察しても無駄だ、と考えた。

 それは人類の行く末が彼らにとって興味ないものになってしまったからかもしれない。それとも、こいつらは遠くない未来にほぼ確実に滅ぶと予想したか。

 20世紀初頭に何があった?

 私は歴史の教科書を思い出す。すぐにいろんな単語が浮かんできた。

 どれもろくでもない物ばかりだ。

 私は歴史が好きで、歴史書や歴史小説をよく読んできたが、近代になると殺伐としてきて、読む気を無くしてしまう。

 ここの観察者も同じではなかったか?

 そして観察者は、人類に観察する価値なし、と判断した。

 だから、ここも放棄した。

 ここは、そして人類は、飽きられ、棄てられたのだ。


 抜け殻のような遊園地の前に、私は立っていた。

 その時、ふと気配を感じた。

 私は振り返った。

 そこには、最初に行ったあの駅舎で、暗い道の上に立っていたものがいた。

 私は無言でそれを見ていた。

 それは人のようにも見えたが、何かもっと朧気であった。

 まるで何かの意思の集合体のような気がした。

 ぼんやりと、霧のように揺らめいている。

 私は黙ってそれを見ていた。

 それは揺らめきながら、一点を示しているように見えた。

 私はそれが指す方に目を向ける。

 それは、観覧車の向こう、丘の頂上を指していた。


 私が視線を戻したとき、もうそこには何もいなかった。

 私は無人の駅に立ち尽くしている。

 私は再び丘の上を見て、そこに続く坂道を登り始めた。

 遊園地の中の小径をたどり、メリーゴーランドの脇を通り、ジャングル探検の遊具を通り過ぎて、観覧車の下に行く。道は更に丘の上に向けて伸びているので、それを辿っていった。

 私の前にはまるで私を導くように小径が伸び、頭上には青い光が星のように瞬いている。あれらは全てイモムシの光だ。しかも私の目には青く見えても、他の人には違う色かもしれない。緑色かも、紫色かもしれない。世界がまるで狂っているようだ。その下を歩く私もきっとおかしいのだろう。

 道が急勾配になった。

 私は息を切らしながら斜面を登る。

 そして、頂上に着いた。

 そこには巨大な石が並んでいる。まるでイギリスにあるストーンヘンジのようだ。

 ストーンヘンジは祭壇だったのではないかと言われている。

 ではここは何なのか?

 私は巨石群の中央に歩いていった。

 丘の頂上をぐるりと囲むような巨石群。

 そしてその真ん中に円形の石が置かれている。

 私はそこに歩いていき、地面から一メートルくらいの厚さがあるその巨石をよじ登って、その上に立った。

 頭上を仰ぐと、まるで銀河系のようだった。

 少し前にあの灯台でコノハ助教と一緒に見た夜空に似ている。だがこちらの方がずっと禍々しかった。星の一つ一つが虫で、よく見ると蠢いている。

 ここは打ち棄てられた野外博物館。

 ただ、守人だけが残っている。

 その守人はさっき私に告げた。

 継承せよ、と。

 何処かに行ってしまった管理者に代わって、ここを引き継げと。

 私は巨石群の中心で天に手を掲げた。

 すると、どこからか何かがやってくる。

 それは私の意識に働きかけてきた。

 今まで役に立たなかった様々なものがフル稼動する。

 必要なときには全く役に立たなかった思慮も、妙なときにだけ鋭かった勘も、傍観者としてただただ客観的に世界を見続けてきた意識も、ただ形態をしっかり見ることのみに特化した視覚系も、そして、いるはずのない人物を一年に渡って想像した妄想力さえもが、今は正しく働いて、異質な意思を解読していく。そして、ここに来るときにあの少年が植え付けた核が、まさに中核となって、それを解析し、私のものとした。

 何かが覚醒し、開花して、満天の星が蒼く輝き、ぱあっと広がった気がした。

 私が管理者の権能を継承し、手を下ろしたとき、私の周囲には精霊が集っていた。

 この野外博物館を何千年も維持し、あの人魚どもを一瞬で葬り去った精霊達が私の傍に控えている。

 今はわかる。

 消えかけていた火を灯すやりかたもわかる。

 私は右手を挙げ、さっと振った。

 丘の下に広がる建物群に灯りが点っていく。暖炉に、古びたランプに、外灯に、未知の明かりが灯され、建物の窓や小径に光が溢れた。

 そして、私の背後で遊園地に灯りが点り、白い観覧車がゆっくりと動き出す。何処からかアコーディオンの音色が聞こえてきた。

 イモムシの青い銀河の下で、野外博物館と遊園地が息を吹き返していく。


 私は灯りの点る丘を降りて、博物館の所まで戻った。

 私達を護ってくれた博物館は、私を迎えるようにそこに建っていた。ノーチラス島に来てからずっと住んでいた場所、色々な出会いや事件の舞台となったそこは、背後の建物群から漏れる明かりを受けて静かに佇んでいる。

「では、お願いします」

 私は精霊さんに命じた。彼らを使役する権能は引き継いだが、何だか命令するよりもこうしてお願いする方が性に合っている。

 私の声で、博物館は一瞬で目の前から消えた。

 ここに来たときと同じやり方で、送り返したのだ。

 今頃、ノーチラス島では前と寸分違わぬ位置に、博物館が建っているだろう。

 フェンネル君達はもう戻っているだろうか?まだかもしれない。

 戻ったら、きっとびっくりするだろう。

 その時、精霊たちが騒いだ。

 何かがこちらに近づいているようだ。

 私は精霊が示す方角を見た。だが暗くてよく見えない。

 私が手をさっと振ると、天井の灯りが次々に点る。それが劇場の照明みたいに幾筋も光を投げかけて、スポットライトみたいに周囲が照らされた。

 蒼い湖に幾つも丸くライトが落ちる。

 その光の筋の中に、ぽつんと黒い点が見えた。

 それはみるみる近づいてくる。

 エンジン音のようなものも聞こえてきた。

 精霊たちが迎撃態勢を取る気配がした。彼らの姿は見えないが、何となくわかる。このままだとこの領域に入ったものを即座に攻撃するだろう。

 私は精霊たちを制して、臨戦態勢を解除させた。

 そうしている間も、一直線に、それが接近してくる。

 天井からの光を受けて、それの姿が見えた。

 戦闘ヘリか飛行機のような胴体に四肢と四枚の翼がついていて、機首の先端から一本の長い角のようなものが突き出している。

 そして、カーキ色の機体にリンドウの紋章が描かれていた。

 フクラスズメだった。

 フクラスズメはあっという間に頭上を通り過ぎる。背部エンジンの蒼い光芒が流れ星のようによぎった。そしてブーメランのように反転すると、機体を傾け、大きくバンクした。ガラスのキャノピーが見え、その中に華やかなアルザス衣装を纏ったコノハ助教の姿が見えた。

 機体は旋回しながら急減速し、翼を一杯に広げて揚力を得ながら、ふわりとそこに着地する。まるで妖精が降り立つみたいだ。見事な操縦だった。

 ちょうどその位置にスポットライトみたいに照明が当たる。慌ただしく、キャノピーが開いた。

 コノハ助教がひらっと跳んで私の前に降り立つ。スポットライトを浴びた彼女はまるで女神みたいに見えたが、私を見るなり、声を荒げた。

「なにをやってるんだ、君」

 彼女は赤い瞳で周囲を睥睨した。

「そこにいる禍々しいものたちは何だ?」

「見えるのか、君、かれらが」

 再会の喜びに浸る間もない。コノハ助教は警戒している。

「うっすらとだが。前に深淵から出てきたやつに似てるが、比べものにならないくらい、何というか、酷いぞ」

 そうなのか。私には見えなくて良かったかもしれない。

「まあ、大丈夫だよ」

 コノハ助教は胡散臭そうに、私とその周囲にいる何かを見ていたが、やがて困惑したように言った。

「・・・・・君、ちょっと目を離すとこれだ、いいかげんにしてくれよ」

「まあ、君が来てくれるまで生き延びようと思ってね、賭けだったが、何とかなったみたいだ」

「もうちょっと我慢できなかったのか?そんな精霊の王みたいにならなくても・・・・」

 コノハ助教はそこで申し訳なさそうな顔をした。

「君がそんなになる前に、私はここに来るべきだった・・・・・でも、来られなくて・・・・・・本当にごめん」

「いいよ、君は充分に早かった。それに、私がこうなってなかったら、君はここに入った瞬間に落とされていたぞ」

「そんなへまはしない、君じゃないんだから」

 コノハ助教らしい強がりだ。でも彼女なら本当に何とかしたかもしれない。

 なら、私の苦労は無駄だったのかもしれない。

 でもいいさ、人生なんて、無駄なことばっかりだ。

 今はとにかく、

「今はとにかく、君に逢えてよかった」

 いつもは出ないような恥ずかしい台詞がするっと出てしまった。

「ああ。私もだよ」

 コノハ助教は特に気にすることもなく普通に返答してくれたが、瞳の色が少し変わったような気がした。

「あれ、君、瞳の色が、何か・・・・」

「ああ、これか?やっぱり今まで気づいてなかったんだな。私もあいつも、時々瞳の色が変わるのさ。私は赤から緑に、あいつは水色から紫色に変わる」

「なんだそれ、そんな変化をされても、ぼくにはわからないぞ」

 まさに私の視覚系の弱点だ。赤と緑、青と紫は区別がつかない。ほんとに、

「ほんとになんだよそれ、嫌がらせか?」

「まあそう言うなって、こっちでもどうしようもないんだ」

「じゃあ、どんなときに変わるんだ?」

「うん、それはまあ、あれだよ・・・・・」

「あれって?」

「ま、まあ、今はいいじゃないか」

 コノハ助教の瞳がますます綺麗な緑色になった。さすがにこれだけ鮮やかに変わると私にもわかる。

 そういえば、過去にも何度か瞳の感じが変わったような気がしたことがあった。あれはいつだったか・・・・・。

「よ、よせ、そ、そんなに記憶を辿らなくていい」

 コノハ助教はわたわたと手を振る。このことに踏み込んでほしくなさそうだったので、私は話題を変えた。

「君、フェンネル操縦士たちには接触した?」

「・・・・ああ」

 コノハ助教は気を取り直したようにこほんと咳払いをして、続ける。

「島の近くにあった無人機と接触したら、交信記録があった。それを調べたらあの探査機がすぐ近くまで来てることがわかった、びっくりしたよ。まさか君たちがこんな近くにいるとは思わなくて、かなり遠くまで探しに行ってた。そのせいで遅れてしまったんだ」

「いろいろ苦労したんだろうな」

「まあ、それなりにね」

「それで、フェンネル君達は?」

「私がここに来る前は帰還の準備をしていた。そろそろ第一陣が帰還した頃じゃないかな」

「え、じゃあ君は、彼らをほっ放ってきたのか?」

「そうだよ、無人探査機からこの座標がわかったからね」

「だ、ダメじゃないか、君の仕事は彼らを護ることだろう?本業を疎かにするな」

「まあ、大丈夫だよ」

 コノハ助教はそっぽを向いた。

「いやよくない。すぐに戻って彼らを護ってやってくれ、ぼくはここにいるから、後でまた来てくれたらいい」

「ええ〜、めんどくさいよ、それ、せっかく来たのに」

「いいから」

 コノハ助教は不機嫌そうだったが、私は何とか彼女を説き伏せて、戻ってもらうことにした。

「じゃあ、戻るけど・・・・」

 不承不承といった感じで彼女が言う。

「戻ってきたら、あそこで遊ばせてくれ」

 彼女は山の向こうを指さした。

「さっき上から見たら、何やら楽しそうなところがあった」

「わかった。おそらく君が最初のゲストだ。歓迎するよ」

「約束だぞ」

 そして彼女はフクラスズメに乗り込み、去っていった。

 私は博物館の跡地に戻る。

 こっちで博物館があった場所は空き地になったが、その横に小さな白壁の建物があった。

 そのドアを精霊さんに頼んでノーチラス島の博物館に繋げてもらう。

 私はそのドアを開けた。

 目の前に、当たり前のように部屋があった。

 木のテーブルがあり、書き物をしている書類がある。

 博物館の三階、私の研究室だ。私が部屋の中に入って振り返ると、そこに今までなかったドアができていた。

 このドアがあの世界に通じている。

 私は正面の窓まで歩いていって、外を見た。

 時刻は明け方近くだった。

 まだ暗いが、うっすらと内海が見える。

 異世界に続く深淵が深い青でそこにあった。


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