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ノーチラスノートII  作者: 蓬莱 葵
11/13

第11部

 13―幽霊

 博物館に戻ると、皆が警戒した顔をしていた。

 話を聞くと、私達が出ている間に、上空に何かが現れたのだという。

 大きさは正確にはわからないが、10メートルはあったらしい。航空機のように各部が発光していて、全体の形はエイに似ていたようだ。

 やはり、ここにも出たか。

 私は少し前に見た発光生物を思い出した。話を聞く限り、浮遊性の脊椎動物だろう。

「こちらを襲う素振りはありましたか?」

 そう訊くと、ヒューベル博士は首を横に振って、「多分、こっちに気づかなかったんだと思う」と答えた。

 私は十分注意するように伝えつつ、屋内にいれば大丈夫ではないかとコメントした。

 そして私は、先ほどの探検で得られた情報を説明した。駅の話を聞くと、皆不気味がっていたが、明るくなるかもしれない可能性が出たことで、場が少し明るくなった。

「今の時刻は?」

 キャンベル教授が尋ねながら、自分で壁の時計を見た。

「午前2時半か」

 そういえば、こっちに来る前後は緊張が続いていたので、時間のことを気にしていなかった。既にずいぶん遅い時間である。

 このままの状態が続くのはよくない。疲労が溜まって集中力が失われたら非常事態に対処できなくなる。

「では、交代で休みましょう。屋根裏部屋に寝室として使える部屋が3つあります」

 ここにいるのは7名。ちょっと苦しいか。

「あ、私は三階の研究室にソファがありますので、そこで。・・・・あ、そういえば二階の所蔵庫にも大きめのソファがあります」

 結局、コートニーと館長がコノハ助教の部屋を使うことになった。ここには私しか住んでいないことになっているので、コノハ助教の部屋のことがバレると面倒だと思ったが、ちょうど彼女達はコノハ助教のことを知っているので都合がいい。

 カハール博士にはその隣の部屋を使ってもらい、私の寝室はフェンネル操縦士とヒューベル博士が使うことにした。幸い、それぞれの部屋にはベッドの他に大きめのソファがあるので、それらを交代で使ってもらうことにする。

 私は研究室を、キャンベル教授は収蔵室を使うことになった。

 暫く様子を見たが、危険なものが襲ってくることもなさそうなので、午前三時頃に仮眠組は各々の部屋に引っ込んだ。見張り組はそのまま一階のカフェに残る。

 こうして、異世界に放り込まれた我々の、最初の夜が過ぎていった。


 見張り組として残ったのは、私とフェンネル操縦士だった。

 私はこの世界の「経験者」として見張りに残るべきだと思ったし、フェンネル操縦士は何と言っても先の事変の英雄だ。異世界最初の夜の警戒において彼ほど頼りになる者はいないだろう。

 だが実はカハール博士が見張り組になることを強硬に主張した。さっきの小探検で精神的に疲弊しているから、私は休むように言ったのだが、なかなか聞いてくれない。

「私は夜行性なので、まだまだ眠くないのだよ」

 などと言いながら、マスクの奥で私を睨みつけてくるのである。怖い。だがもしかしたら、さっきの道中で彼女が何か言いかけたことと関係があるのかもしれない。

 結局、フェンネル操縦士がカハール博士と二人で暫く話をしていた。

 そうしたらようやく、彼女は休むことを承諾してくれた。

 多分、さっき彼女が私と彼に伝えようとしていたことを、操縦士が聞いておいてくれたのだろう。

 私はカフェの椅子に座って、窓ガラスの向こうの世界を見ている。

 だが、窓ガラスの向こうは真っ暗で、カフェの明かりで鏡となって、焦燥しきった私の顔しか見えない。

 外は闇の世界なのだった。

 その闇の向こうに、さっきの駅がある。そこにはまだ灯りが点っているだろう。そしてその前の道には・・・・・。

 私はさっき、あの駅でちらっと見えたものについて考えようとして、すぐに止めた。

 研究者は未知の事柄を探究するのが仕事だ。ここはまさに未知の世界で、私は今まで誰も見たことがない物を見たかもしれないのに、思索を止めるなんて普通では有り得ない。

 でも私は考えるのを止めた。

 恐ろしかったのだ。

 私が見たものが怖くて怖くて仕方がなかったのである。

 今もし、もう一度あの駅に行けと言われたら、何があっても絶対に断るし、今このときも暗闇の中であそこに灯りが点っていて、それがあの道を照らしていることを想像するだけで背筋が凍る思いがした。

 あるマウスの実験を思い出す。確かヘビの匂いを嗅がせたマウスの脳の活動と体温を調べた研究だ。天敵であるヘビの匂いを嗅いだマウスは、脳内の扁桃体が異常なまでの活動を示し、体温が低下した。

 そのマウスは恐怖を司る脳中枢が活性化すると共に、実際に寒さを感じていた。つまり、身が凍る思いをしていたのだ。今の私はそれに近いだろう。

 そのとき、鏡になった窓ガラスに、フェンネル操縦士の姿が映った。

「先生、大丈夫ですか?」

 操縦士は心配そうな顔をしている。

 彼は私の向かいの席に座った。

 彼はそこで、息を潜めるようにして私に尋ねた。

「さっき、先生、何か見たんですね?」

 彼は真剣な目をしていた。私はそのせいでまたさっきのことを少し思い出して身震いをした。

 私は首を横に振った。

「見たかどうか?わからない。見たかもしれない、でも確証がない。見間違いかもしれないし、今は何とも言えない」

「そうですか、でも、先生」

 操縦士は私の表情を探るように見ている。

「先生の様子が気になります。ぼくは、かつて先生と同じような顔をした人を見たことがある」

 そう言って彼は階段の上の方を見た。つまりその人がここにいるということか?彼は何とも言えない複雑な表情をしている。

「それは、クリスのことですよ」

 私は操縦士を見る。彼も私を見ていた。私の反応を待っている。

「わかった」私は頷いた。

「・・・・見た、さっき、駅のところで、何かが立っていた、ぼくの方を見ていた」

「やっぱり」と操縦士が言った。彼は少し青ざめた顔で尋ねる。

「手招きはしていましたか?」

 私は首を横に振った。

「声は、聞こえましたか?」

 私はまた首を振った。

「そうですか」

 操縦士は暫く思案するようにしていたが、やがて口を開いた。

「もうずっと前、ぼくが中学生だった頃のことです。学校帰りに同級生から声をかけられまして」

 そういえば、その話は前に聞いたことがある。クリスから聞いた実話怪談だ。

「ああ、クリスから聞いてる。その同級生が彼女だろう?森の中に誰かが立っていたという話だった」

「そうです。彼女はそれに悩まされていた。その時の彼女の顔と、さっきの先生の顔がそっくりでした。それで」

「それで、君は察したのか」

「ええ、でも、彼女が体験したところまではいかなかったようですね。安心しました。それから、さっきクリスが言っていたのですが、彼女が「誰か」を見た時と今回の駅は雰囲気が似ていたそうです」

 さっき彼女が言いかけたのはこれのことか。

「あと、ぼくからも話しておきたいことがあります」彼は何かを決心したような目で私を見ていた。私は少し気圧されつつ、「何かな」と尋ねた。

「・・・・同じ頃、ぼくの側にも不可解な出来事が起きているのです」

 操縦士は遠くを見るような目をした。過ぎ去った少年の日の記憶を辿っているのだろう。

 暫くして、彼は「このことはクリスにも話していません。どうかご内密に」

 と釘を刺した。

「待ってくれ」

 私は何かを言おうとする彼を止める。

「何でそんな秘密をぼくに話すんだ?」

「それは、先生には知っておいてもらった方がいいと思ったからです」

 操縦士は私を見ていた。私を信頼している目だった。わからない。私のような人間が、これまで世界を他人事のようにしか見てこなかった人間が、そんなに価値ある者とは思えない。

「先生は、既にご自身が考えている以上に、この件に深く関わっています」

 何かを悟っているように彼が言った。それは主人公補正された彼の勘なのだろうか?わからない。とにかく彼は話し始めた。

「クリスから相談を受けて一緒に帰っていた頃、夏のことだった。ぼくは家の納屋で古い地図を見つけました。近くにある島の中に×印がついたところがあったので、ぼくは宝の地図だと思った。だから、クリスに一緒に探しに行こうと言った。あっさり断られましたが」

 その話も、そういえばクリスから聞いたことがある。何だか嫌な予感がして断ったのだとか。

「だからぼくは一人でその島に行った。そこには小さな集落があった。でもそこには誰もいなくて、とても不気味な感じでした。そして、地図に印があるところには、石でできた井戸があった」

「石の井戸だって?」

 私は少し前に彼から聞いた話を思い出した。確かノーチラス島にも石の井戸があって、そこで彼は————。

「そう、あれとそっくりでした。ぼくはその中を覗き込んだら、奥の方から何か悲鳴みたいな声が聞こえて」

 そこで一旦彼は口を止めた。私は促すように彼を見た。

「それでびっくりした拍子に、ぼくは井戸の中に落ちた。そしたら、ノーチラス島にいたんです」

「え、そんなことが」

 操縦士は頷いた。

「ノーチラス島にいたのはほんの僅かの時間で、ぼくはすぐに元の場所に戻りました。でも今になったらわかる。あの井戸は転移装置なんです。ノーチラス島と他の場所を結ぶ装置。そして、クリスの話を合わせて考えると、転移が起こる場所の近くで、幽霊のようなものが目撃される」

「ぼくがさっき見たもの・・・・」

「そうです」

「どういうことだ?」

「今回の転移は、ぼくたちが過去に経験したことに酷似しているということですよ。何者かが、ノーチラス島や地球に干渉している。そして時折、転移現象を起こす。人間を対象にして。我々はそれに巻き込まれたのです」

「転移?例の触手みたいにランダムに攫うのではなく、人間を狙っているということか?一体何のために?」

「クリスが見た幽霊は手招きしていたという。人間のサンプルを採集したいのではないでしょうか?あるいは我々には計り知れない理由があるのか」

「我々は宇宙人に連れ去られたと言うことか?前世紀のアメリカ映画みたいに」

「宇宙人かどうかはわかりません。まだ誰もそれを見たことがないので。でも、我々がとてつもなく奇怪な現象に出会ったことは間違いない」

「では、これからどうなる?」

「相手が知的生命体だったら、何らかの方法で接触してくるでしょう。それに備えておくのがいいと思います」

「備える、とは?武器を用意するということか?」

「まあそうですね」

「でも、ヴァーミスラックスに武装はついてないんだろう?」

「はい、残念ながら」

「では、どうしようもないのでは?」

「あの機体をうまく使えば、何とかなるかも」

 何とも心許ない。

「まあでも、とりあえずは周囲の状況を探るべきだと思います。先生の話だと、光合成植物があるんですよね、なら光が差す可能性がある。ぼくの推測ですが、もしここが地球のものを集める場所だとしたら、地球の環境に似せている可能性がある。せっかく地球からものを運んでくるんだから、それを受け入れる環境を整えるのが自然でしょう」

「熱帯魚の飼育とかならね、でもこれはそうなのか?それにしてはちょっと変な気が。今のところ何も起きずほったらかしだし」

「まあ、様子を見てみましょう。今は午前三時半です。もし地球の環境に似せているなら、あと数時間で明るくなるはず」

 そう言って操縦士は、真っ暗な窓の外を見た。

 私もつられて窓を見る。

 あの闇の向こう、そのどこかに、今もノーチラス島があるはずだ。そして下界を白い光で照らしている。そこにはきっと、送り込まれた探査機と、コノハ助教がいる、はずだ。

 しかし窓の外は暗いままであった。

 暫くそうしていると、私は何か異様な気配を感じた。

 背筋が寒くなるような、嫌な感じだ。私は時計を確認する。四時を少し回ったところだ。四という数字が悪い予感を増幅させる。四は日本語では「死」に繋がる。そしてドイツ語でもVier、フィアー、英語で訳したら、すなわち恐怖だ。

 その時、唐突にノックの音がした。

 私の体がビクッと跳ねた。

 咄嗟に、カフェの入口に目をやる。そこのドアは開いている。ではあの音は、外から?

 そのときまたノックの音がした。その音は閉ざされた博物館の入口から聞こえるようだ。でもそこは、カフェからでは見えない。

 誰か来た?

 私は反射的にフェンネル操縦士を探した。さっきまですぐそこにいたはずだ。でもいつの間にか席を外したのか、彼の姿はない。

 また、ノックの音がした。さっきより回数が多い。

 玄関のドア、その向こうに、何かがいるのか?

 もしかして、さっきあの駅で見た・・・・。

 あれがここまで来て、今、ドアの前に立って、叩いているのか?

「そんな、バカな」

 私はゆっくり立ち上がった。膝が震えている。

 これまでこの地底世界で、様々な生物に遭遇してきた。空を飛ぶ怪物もいたし、急降下してくる天使もいた。

 でもそれらはすべて動物だった。形態学で説明のつく、進化の過程を経て現れた、肉も骨も神経もある動物だ。

 でも、外に立っているあれは・・・・・。

 恐ろしい存在に遭遇したことによる恐怖に加えて、研究者としての常識が通じない事象に遭遇したことに凄まじい恐怖を感じた。それは、自分がこれまで信じてきたものが瓦解していく、奈落に落ちるような感覚だった。

 暗闇の世界に入ってしまった気がする。

 私は暗いカフェを進み、エントランスホールに出た。

 節電のためランプの灯りだけが点っている。がらんとしたホールはそれだけで恐ろしいが、今、あの玄関ドアの向こうに何かがいるのだ。

 ノックの音がした。私はびくっとして後ずさる。

 ありえない。こんな時間に、誰かが尋ねてくるなんて。

 その時唐突に、私の脳裏に天恵のように一つの可能性が去来した。

 もしかして、コノハ助教か?

 私はその可能性を考える。もしここが、ノーチラス島の航路に凄く近かったとしたら?そして彼女は持ち前の観察力で我々を見つけてくれたのだとしたら?

「コノハ助教、なのか?」

 私は呟いた。あの向こうでドアを叩いているのは彼女なのか?だとしたら何も怖れる必要はない。

 私はゆっくりとドアに近づいていった。

 ノックの音がする。ドンドンと打ち付けていた。思い切り叩いている。

「コノハ助教、わかった、すぐに開けるから」

 私はノブに手をかけ、ひねった。

 ガキッと止まる。

 そうだ、鍵がかかっている。

 私はゆっくりと鍵をひねって、カチリ、と解錠した。

 そしてノブに手をかける。ガチャッとノブが回る音がした。

「御館様、だめです!」

 背後で声がした。

 カレハ助教か?

 私は振り返る。でも誰もいない。でも確かに彼女の声が、後ろから。

 ということは、前にいるこれは?

 私はぱっとドアノブから手を離した。

 ドアは開く寸前で、止まる。私は取り乱しながらまた鍵をかけた。

 その時、ドアの向こうで何かの気配がした。

 残念だ、それはそう言ったような気がした。


「先生」

 私は肩を揺すられた。

 はっとして目を覚ます。私はカフェの席に座っていた。そのまま少しウトウトしていたらしい。

 私の肩を揺すっていたのはフェンネル操縦士だった。

 傍らにヒューベル博士もいる。起きてきたようだ。

 私はじっとりと汗をかいていた。

「大丈夫ですか?」

 操縦士が尋ねる。

「あ、ああ、さっき、ノックの音が・・・・」

「何のことですか?さっきまで館内の巡回をしていましたが、そんなのは何も」

 彼はヒューベル博士の方を見た。博士も頷く。

「私もさっき降りてきましたが、何もありませんでしたよ」

「そ、そうか」

 では、あれは、夢だったのか。いったい何処からが夢だった?

「い、今、何時だ?」

「午前4時40分です」

「そうか」

 私は自分の手が震えているのに気づいた。

 緊張のあまり、精神に負担がかかっていたのかもしれない。

 恐ろしい夢だった。そしてふと、あの夢の中でドアを開けていたらどうなっていただろうか、と思った。

 もちろん夢だから、何ともならないだろう。でも、不安がよぎる。ドアを開けて、そこに立っているものを見ていたら、私は今頃発狂していたのではないだろうか?

「お疲れのようですね、どうぞ」

 ヒューベル博士が水の入ったコップをくれた。

 レモンの果汁が入った水を飲むと、気分がようやく落ち着いてきた。

 ふう、と深呼吸をする。

 その時、フェンネル操縦士の驚いたような声がした。

「ほら、見てください、明るくなってきました」

 彼は窓の外を指さしている。

 私はカフェの窓を見る。さっきまで真っ暗だった窓は、まだ黒かったが、うっすら明るくなっていた。まだ周囲はよく見えないが、上の方が明るくなっている気がする。地上の早朝なら遠くの方が明るく見えるものだが、上が明るいので少し違和感があった。

 でも、

 明かりだ。

 私はそれだけで救われた気分だった。あんな悪夢を見た後だから尚更だ。

 そして、

「やはり、明暗サイクルがあるのか」

 私は呟いた。

 ヒューベル博士も窓の外を見ている。

「よかった、ヴァーミスラックスに充電できる」

 彼は安心したように言った。

 その横顔を見て、私はようやく精神が現実に帰還したことを知る。


 やがて、周囲が明るくなってきた。

 鏡になっていたカフェの窓から、外の世界が透けて見えてくる。

 目の前には灌木が所々に茂る草原が広がっていた。

 少し先に、横に走る一本の筋が見える。

 あれがおそらく線路だ。それを右手に辿っていくと、ずっと先に小さく建物のようなものが見えた。あれが、夜の間に私とクリスが訪れた無人駅だ。

 それ以外に、人工的なものは見えない。

 線路の先に、青い湖が見える。かなり大きそうだ。

 私は上を見た。

 予想通り、ずっと上に、岩の天井がある。そこには黒い皿のようなものがあった。

 それが、円形のライトのように光っている。

 黒い部分はノーチラス島の航路で見たものに似ている。ただし、

「向きが逆だ」

 私は呟いた。

 前に見たものは、黒い皿の窪んだ部分が蓮の葉のように上を向いていた。

 だがここに在るものは、下を向いている。ちょうど皿を逆さまにしたみたいだ。でもそれでわかった。前に見たものはノーチラス島から来る光エネルギーを受け取るためのものだ。だから集光部が上を向いていた。だがここにあるものは、集めた光を放出するためのものなのだ。だから、ちょうど電灯のように下を向いている。

 やはり、前に予想したように、あの黒い皿は光エネルギーを集めて、それを地底世界の内部に送っていたのだ。そしてこの場所は、そうした光が送られてくる場所なのだ。

 しかもご丁寧にも、地上の光サイクルに合わせている。こちらの時刻で明け方頃に光が差したということは、おそらく夕方頃にまた暗くなるのだろう。

 そんな仕組みになっているという事実は、否が応でも一つの可能性を示していた。

 こんなものがひとりでにできるわけがない。

「何者かが、この場所をつくっているんだ」

 私は呻くように言った。

 その時、

「クレイ、あれを見ろ、博士、こちらに、早く」

 ヒューベル博士だった。

 エントランスホールの裏手、我々が見ているのとは逆の方角から声がする。

 私とフェンネル操縦士は急ぎ足でそちらに向かった。

 ヒューベル博士は博物館の奥側、本来なら図書室に繋がるドアのところにいた。ドアが開いている。彼はそこから外を見ていた。

「どうした?」操縦士が尋ねる間もなく、

「あれを見ろ」ヒューベル博士が外を指さした。

 私は明るい光が射し込むドアのところに駆け寄って、外を覗いて、絶句した。

 目の前に、建物がある。

 アメリカの西部劇に出てくるような木製の家が白い光を受けていた。

 家は、他にもある。一つや二つではない。

 たくさんの建物が並んでいた。

 そこは小高い丘に続く上り坂になっている。

 その丘の斜面に、無数の建物がずらっと建ち並んでいるのだ。

 その様子はまるで、

「まるで、野外博物館だ」

 操縦士が呻くように言った。

 そう、そこには数多くの、そして多種多様な建物があった。

 目の前にある西部劇風の家の向こうには地中海沿岸にあるような白壁の家がある。石造りの家もあったし、アルザスみたいな木組みの家もあった。

 そんなものが、丘の斜面いっぱいに並んでいる。

 そして、丘の天辺には、

「あれは、何だ、ストーンサークル?」

 ヒューベル博士が言った。そう、まるでイギリスの辺境にある遺跡のような石組みが、丘の天辺にあった。

 その周りに、古代ギリシアかローマにあったような石の建物があり、さらにその下に中世のヨーロッパや中東にあったような家々がある。そしてさらにその下には、アメリカの開拓時代やヴィクトリア朝の英国で見るような建物が並んでいた。

 つまり、建物は丘の天辺から麓にかけて、旧石器時代から近代まで年代順に並んでいるように見える。つまり、我々の博物館の裏手は、人類がその歴史の間で構築してきた建物の展示場みたいになっていたのである。


 私達はしばし絶句して、その光景を眺めていた。

 すると、ヒューベル博士がバタンとドアを閉める。

「これ、見なかったことにできないかな?」

 私も同じ気持ちだった。正直、考えることが多すぎて面倒くさい。

 もっと小出しにしてくれ、と思った。

「そうもいかないだろう」フェンネル操縦士が答える。

「見てしまったものは、仕方ないよ」

「それに」私も口を挟んだ。

「それに、あれだけ家があるんだ。中に何かが潜んでいるかもしれない。早急に調べないと」

「何てこった」

 ヒューベル博士がため息をついた。

「じゃあ、どうする?」

 そう聞かれたフェンネル操縦士は、思案しながら私の方を向いた。ヒューベル博士も意見を求めるようにこちらを見る。

 二人ともかなり疲れているようだ。考えることを私に押しつけようとする。

「・・・・とにかく様子を探る必要がある。いきなり我々が赴くのは危険だろう。ヴァーミスラックスのセンサーを使って危険なものがいないか監視しては?それなら無人でやれるし」

 私が提案すると、二人は素直に頷いた。やはりこちらに丸投げしている。

 私はもう一つ、厄介な考え事が残っているので、ここで吐き出しておくことにした。

「せっかくなので言っておきます。何が原因で私達がこんなところに来たのかも調べないと」

 昨夜フェンネル操縦士は、我々が何者かにここに連れて来られた可能性を指摘していた。多分そうだろう。ならばその罠が発動した仕組みを知る必要がある。

「ああ、それがありましたね」フェンネル操縦士は少しうんざりしたような顔をした。ヒューベル博士も顔をしかめる。

「厄介な問題だな、でもそうだな、触手にやられたとしても、本来なら島の下に出るはずだったんだ。なんでこんな所に」

「多分、イレギュラーな何かが起きたんでしょう」

 私は自分の考えを整理しながら言った。

「今回の件では、博物館の建物ごと転移している。この世界へのゲートになる触手は嵐が来る度に出現していたはずなのに、過去にこのような事態が生じた報告はありません。つまり、いつもは島の真下に通じる通路が開いているのに、今回に限って、これまでに無い転移現象が生じた・・・・」

「これまでにないって、今回の実験で特別な何かが?」

 フェンネル操縦士が首をかしげた。

「これまでの実験と、今回の実験で違っていたことがないか、それが手がかりだと思います」

「ふうむ」

 ヒューベル博士も首をひねる。

「今までと違うといえば、あの人工滝を使ったことか?でも真水を入れることには変わりないし、入れた水も同じ川から引いている。転移が生じる水量も同じだった。あれが原因とは思えないな」

「そうですか」

 私も思案したが、特に何も思い浮かばなかった。

 とりあえず、ヒューベル博士とフェンネル操縦士はヴァーミスラックスの起動準備をすることになった。

 私はそこを離れる前に、もう一度ドアを少し開けて外の世界を見た。

 朝靄が立ちこめる中、様々な家屋が丘の斜面に沿って建ち並んでいる。

 少し、違和感がした。

 家が皆きれいなのだ。

 今のところ人がいる気配はない。それなのに、白壁は美しく、暗い窓ガラスには曇りがない。煙突から今にも煙が上がってきそうな、ドアが開いて誰かが出てきそうな、そんな気がするのだ。

 誰もいないのに、生活感がある。

 私は背筋がゾッとして、ドアを閉めた。


 少し仮眠を取った後、カフェに降りていくと、全員がそこにいた。私と同じタイミングで仮眠を取った操縦士も既にそこにいる。

 私は彼がちゃんと休めたのか心配になったが、彼は大丈夫、というふうに頷いた。確かに表情が少し明るい。

 心なしか、他の皆の表情も和らいでいる。やはり外が明るくなったせいだろう。これで心配事がかなり減った。だが、皆の表情には一様に不安そうな蔭がある。それはあれを見てしまったからだろう。博物館の裏に立つ無数の家々を。

「よく休めたかね」キャンベル教授が言った。私は頷く。

「こんな状況だ、睡眠はしっかり取った方がいい。ところで、君が言っていたことについて皆で考えていたんだが」

「はあ、何のことですか?」

「我々が博物館ごと此処に来た理由だよ。君は何か特別な理由があると考えているんだろう?」

「ああ、そのことですか、そうですね・・・ん?」

 私は教授の言葉が引っかかった。我々がここに放り込まれた仕掛けについて私は皆目見当がつかなかった。だが、もしかしてこの教授は———。

「もしかして、気づいたのですか?その仕組みに!」

「考えられる可能性がひとつある。証拠はないがね」

 教授は手元のコーヒーを口に運びながら言った。

「先生もどうぞ」コートニーがカップを差し出してくる。

「ありがとう、で、その可能性とは?」私は勢い込んで尋ねた。

「今回の実験の日付だよ。我々は、過去に失踪事件が起きた日時に会わせて実験をした。そうしたら9年前に調査隊が失踪した現場に行けると考えたからだ」

「そうですね」

「今回の実験に他の場合と違う特別な点があるとしたらそれしかない。我々は、島が過去に一度失踪事件を起こした地点に到達したまさにその時間に、あの転移装置を起動させたんだ」

「・・・・・島の航路上で、同じ場所で二回、転移機構が発動したということですね」

「そうだ、島には何かの仕掛けがあって、同じところで転移現象が生じた場合、2回目の転移で此処に運ばれるように仕組まれていた、とは考えられないかね」

「・・・・・何故そんな仕掛けを?」

「島に干渉する知的生命体を見つけるためさ。転移現象は嵐という自然現象によって生じる。そんな偶然の事象が、島の航路のある地点で二回起きる可能性はかなり低い。あるとしたら、何かがそう『仕組んだ』場合だ。あの島を設計した何者かは、そういう意思を察知できる仕掛けを施していたのだ」

 私はコーヒーを口に含む。コートニーが煎れてくれるコーヒーはいつも絶品なのだが、今回は味がわからない。

「つまり、我々は何者かに嵌められたと?」

「そういうことになるな」

 キャンベル教授がフェンネル操縦士と同じことを言っている。やはりその考えに至るか。

「では此処は、この場所は?」

「未知の存在が作った場所だろう。おそらく彼らは地球を監視していた。そして、地球人がつくったものを此処に転移させてきたのだ。ここは我々が嵌められたトラップとはもともと関係ないのかもしれない。でも、見つけた知的生命を放り込むには都合がいいから、二つの仕組みが連結された、とか」

「知的生命を見つける仕掛けと、地球の事物を集める仕掛けがそれぞれ別々にあったということですね。でも、後者の仕掛けではそれが発動したとき、地球では家屋がいきなり消失することになる。大事件だ、大騒ぎになりますよ」。

「そうならないように、おそらく長い時間をかけて、少しずつ転移させたのだ。そんな話がないわけではない。少しオカルトめいた話になるが、いきなり家が消えたとか、一つの村が消失したとか、そんな話は世界中にある」

 私もそうした怪奇譚は幾つか知っている。日本にもあるし、欧州にもたくさんある。家に限らず、船や航空機が失踪した話も数多い。マリーセレスト号の怪談とか、有名なバミューダ・トライアングルとか。

 待てよ、もしそうなら。

「もしそうなら、人間も此処に運ばれてきているということですか?家とかと一緒に?」

「その可能性はある。あの家々の何処かに、人間がいる可能性はある。もしかしたら昨夜の電車は、やはり人間が動かしていたのかも」

「そんな・・・・」

 バカな、と私は言いかけて、止めた。こんなものを見せられたらどんな可能性だって考えられる。とはいえ、こんな場所で、地球から来た人間が今も生活を営んでいるというのか、電車まで動かして。

 それはやはり、ありえないと思った。

 私は昨夜の無人駅を見ている。あそこを見たら、生身の人間がいるイメージがわかない。私はあそこに一緒に行ったカハール博士を見た。

 私の視線に気づいた博士は、首を左右に振った。

「私は昨夜彼と外に出て線路や駅舎を見た。でも、何というか、科学者としては避けたい言い方なんだが、あれらを人間が管理しているようには見えなかった」

 ヒューベル博士がそれを聞いて尋ねてくる。

「ということは、どういうことですか?あのたくさんの家屋は廃墟になっているようには見えない。まるで誰かが生活しているみたいにきれいですよ、人間じゃないというなら、一体何がいるんですか?」

 カハール博士もキャンベル教授も口をつぐむ。もちろん私にもわからない。

 私はそこで何となく、ライト館長の方を見た。

 私を含め、科学者連中はお手上げだ。では魔法使いなら何かいい考えがあるかも。

 私の視線を察した美少女は、ふるふると首を振った。

 何だか告白する素振りを見せただけでフラれたみたいな感じになってしまった。青春時代の苦い経験が甦り、余計なダメージを負ってしまう。

 それはともかく、これで現状について、「さっぱりわからない」ことがわかった。

「では観察するしかないですね。ヴァーミスラックスによる偵察はどんな感じですか?」

「AI任せでやってますが、特に何も映っていません、でもちょっと・・・・」 

 ヒューベル博士が言い淀んだ。気になる。

「どうかしましたか?」

「誤作動だと思うのですが、時々、動体反応が検出されるんです。でも何も映ってなくて、反応もすぐに消えます。それに、ちょっと不思議なんですが・・・・」

「はあ」

「顔認識機能が」

「はあ」

「ほら、市販のカメラにもついているでしょう?人間の顔を自動的に認識するやつ。あれが時々作動するんですよ、何もないところで」

「ちょ、怖いことを言わないでください」

「まあ、誤作動でしょうけどね」

 でもヒューベル博士のその報告で、場が静まりかえってしまった。コートニーはあからさまに怯えている。

「幽霊」誰かがぼそっと言った。

 すると、館長がほぼ反射的にフェンネル操縦士を見る。

 操縦士は館長の視線を受けて、何ともやるせない表情を浮かべ、何でもないという風に小さく首を振った。

 幽霊。というワードが、この二人の間では特別な意味を持つらしい。

 いろいろややこしい二人だ。ややこしい何かがあるのだろう。

「と、とにかく」

 私は凍り付いてしまったカフェの雰囲気を何とかしようと、話題を変えた。

「明るいうちに、できることをしましょう。まずはやはり、探索ですね。ここから脱出するには、この世界の何処かにある無人機と連絡を取る必要があります」

「ああ、それなら準備を進めてます」とヒューベル博士。

「ヴァーミスラックスを出せますよ。搭乗員は最大三名です、操縦するクレイの他にあと二名、どうしますか?」

「では私が行こう」カハール博士が当然のように言った。

「わかりました、あと一名か、私はこっちで仕事があるし、博士、どうしますか?」ヒューベル博士が私を見る。私はチラリとカハール博士を見た。彼、いや彼女はフェンネル操縦士の方を見ている。昨夜の彼女の話を思い出した。ずっと前、少女の頃に果たせなかった事を、いま、こんな場所だけど、叶えるのもいいかもしれない。

「私は裏手にある建物群を調べたいと思います。ヴァーミスラックスはフェンネル君とカハール博士にお任せするのがいいかと」

 私がそう言うと、カハール博士がこっちを見て、「いいぞよく言った」というふうに頷く。想像だが、マスクの中でにま〜っと笑っている気がする。

「あの、私も行けますけど?」

 コートニーがおずおずといった感じで手を挙げる。そういえば彼女は前にフェンネル操縦士と一緒にあの機体に乗っていた。整備もできる。実はカハール博士より適任かもしれない。しかも、この少女はフェンネル操縦士のことを・・・・。

「いや、この世界のことがまだよくわからない以上、君はここにいた方がいい」

 カハール博士がぴしゃりと言った。皆が、「おお、この博士もまともなことを言うんだな」と感心した顔をしている。ただ私だけがクリスの思惑を知っているので、何とも複雑な気分だった。

 でも、こんな少女を異界に遣るのは私も反対だ。だから今回はクリスの側につく。

「そうですね。コートニーさんはここでヒューベル博士と一緒に探査機のモニタリングをして下さい。何かあったらすぐ対処できるように」

「・・・・・わかりました」コートニーは渋々と言った感じで承諾した。

「となると、あの建物群の調査は、私とキャンベル教授で行きますか?」

 私がそう言うと、教授は大きく頷いた。

「そうしよう、惑星考古学をやってきて、ここまで凄いものを目にしたのは初めてだ。実は行きたくてうずうずしていたのだ」

「気をつけてね」

 コートニーが心配そうに言った。

「あの、私も同行しましょうか?」

 館長が遠慮気味に言う。ちょっと意外だった。

「いや、でも、危ないですよ、さっき怪談みたいな話もあったし」

「いえ、それならなおさら、人数が多い方がいいかと。目も届きますし」

「まあ、それはそうですけど」

 私は不安だったが、彼女がこれまで私に見せた幾つかの魔法を思い出す。彼女がいれば、こちらで検知できない何かを見つけてくれるかもしれない。

「・・・・・では、お願いします」

 これで役割が決まった。

 私達はそれから軽く食事をして、それぞれの担当に分かれた。


 私がこれから向かう場所は、あの謎の建物群だ。

 これまで、ノーチラス島では残存しているかもしれない怪物の調査を行い、この地底世界では実際に存在していた怪物たちを相手にしてきた。でもそれはいずれも現実の生物たちだ。

 これから私が向かう先には、本物の幽霊がいるかもしれない。いや、科学者としてそんなものは信じられなかったが、もしかしたら、幽霊に限りなく近いものがいそうな気がする。自分が今、科学のギリギリの端にある未知の何かに触れている気がする。それが恐ろしい。

「さて、行くか」

 キャンベル教授が言った。

 そして今、私はもともと図書館に通じていたドアの前に立っている。

 私の横にはキャンベル教授がいて、後ろには、館長が白いブラウスに水色のスカートという、探検にはおよそ似つかわしくない格好で立っていた。

 突然こんなところに来たから、替えの衣装も無いのだろうが、何だろう、この人のこれ以外の格好を想像できない。

 とにかく、

「いいですか、開けますよ」

 私が言うと、館長は頷いた。

 私は意を決して、今や博物館の裏口になったそのドアを開いた。

 明るい光が射し込んでくる。

 私は天を仰いだ。数百メートル上に岩の天井があるはずだが、そこは丸い円盤がびっしりと折り重なるように並んでいて、岩の部分は見えない。まるで盆状のキノコが下向きに密生しているように見えた。それらの円形の部分が白く発光しているのだ。それがちょうどこの丘の上を覆って、下界を照らしている。ここから外れたところでは円盤の数が疎らになり、黒い岩肌が見えた。

 夥しい数のキノコが明かりを投げかける斜面に、小綺麗な建物が並んでいた。

 私達は恐る恐る、ドアの外に出る。

「館長」私は背後にいる少女に声をかけた。

「はい」

「上に注意していて下さい」

 私は空を指さして言った。前にここに来たとき、最も厄介だったのが空からの襲撃だ。捕食生物が上空から急降下してくるのである。高速で真っ直ぐ上から突っ込んでこられると、地上にいるとほとんど気づかない。地上性の哺乳類が猛禽類に襲われるようなものだ。一瞬気づくのが遅れたらたちまち捕食されてしまう。前回はコノハ助教が事前に察知して対処してくれたので,私は生存できたのだ。ここには見たところ上空に巨大な生物が浮遊しているようには見えない。でもいつ高空から襲ってくるかわからない。

「何か点のようなものが見えたらすぐに教えて下さい」

「わかりました」

 館長は緊張した顔で頷いた。

 私達は、身近にある建物を目指して歩き出した。

 西部劇風の木造建築だった。

 19世紀末のアメリカのテキサス州辺りに建っていたようなものだ。

 私は頭上を警戒して、なるべく屋根に隠れるようにしながら、それの壁に沿って歩いた。粗末な窓ガラスがあったので、中を覗く。

 歪んだガラス越しに見える室内は西部劇で見る酒場のような感じで、木製のテーブルや椅子が置いてある。

 でも誰もいないようだ。

 私が窓から目を離したその時、視界の隅に何かがちらっと見えた気がした。

 私ははっとして再度中を覗く。

 でも何もない。廃屋にしては埃もあまり積もっていない室内は静まりかえっている。

「おかしいな」

 何かいたような気がしたのだが。

 私は釈然としなかったが、そのままそこを離れた。


 その建物も含め、何件かの家を回ってみたが、特に異常なものは見つからない。

 ただ、見つからない事が異常だった。

 ギリシアのサントリーニ島にあるような白塗りの家の中で、キャンベル教授が怪訝そうな顔をしている。

「整然としすぎてる」

 教授は周囲を見回した。

「まるで今さっきまで人がいたような感じじゃないか」

 私も家の中を見た。白塗りの壁に囲まれた室内には黒木のテーブルと椅子があり、壁には乾燥した花束が逆さまに吊してある。

 窓からはエーゲ海が望めそうな家だった。

 でも人影はない。

 ずっと人が住んでいない家はすぐに荒れていくものだ。でもそんな感じがしない。

「気味が悪いですね」館長がテーブルの上を指でなぞりながら言った。彼女がなぞったところには埃一つ無い。

 ちなみに館長のような美少女がそんな仕草をしていると様になりすぎていて、まるでフランス映画でも観ているみたいだった。

 私は壁に吊られている乾燥した花を観察してみた。

 どこにでも生えていそうな種類だ。それはリンドウだった。

 コノハ助教が胸飾りにしていて、フクラスズメの機体にもエンブレムとして描いていた植物だ。

 彼女達はどうしているだろうか?

 否応にもその考えが浮かぶ。

「リンドウですね」

 いつの間にか館長が傍にいた。

「コノハさんは大丈夫でしょうか」

 そういえば、館長はコノハ助教の秘密を知っている。

 キャンベル教授はいない。奥の方を調べているようだ。だから館長は話しかけてきたのだろう。

 思えば、今回の調査メンバーの間にはいろんな秘密がある。館長とフェンネル操縦士の関係は私以外の人は知らないし、コートニーがモゲラをかくまっていることは私と館長、操縦士、ヒューベル博士だけの秘密だ。カハール博士がクリスであることは私とフェンネル操縦士しか知らないし、コノハ助教のことは私とコートニーと館長しか知らない。

 それぞれの秘密は他者にばれるとまずいものばかりだ。そしてそんな厄介な秘密をまとめて知っているのは私だけ。

 この厄介な関係の真っ只中に立たされているみたいで、何ともやりにくい。

 私はため息をついた。

 館長がそんな私を訝しそうに見ている。

「もしかして、かなりお疲れですか?」

 鳶色の瞳に見つめられて、どきっとする。凄い破壊力だ。人外のアーベル君でさえも虜にしてしまう眼差し。まさに魔法の瞳だ。これに対抗できるのは絶対的脇役補正を持っている私くらいだろう。

 しかし私は、彼女がずいぶん落ち着いていることに違和感を憶える。

 いや、彼女に限らずここに来ている人はみんなそうだ。

「館長、それに他の人もですが、落ち着いてますよね、こんな状況なのに。普通ならパニックになりますよ」

 私は無人の室内を見る。こんな実話怪談の舞台みたいな所に放り込まれて、まともでいられる精神構造が理解できない。

「ああ、たぶん皆さん、先の事変を経験しておられるから」

 館長が声の調子を少し落として言った。その口ぶりから、一年前の出来事がいかに過酷であったかがわかる。

 こんな世界に放り込まれても耐えられるくらいに、あの事変は皆を変えてしまったのか。

 そして館長とフェンネル君の悲劇も、その時に明らかになったのだ。

 私は当事者ではないので、あまりその頃のことは聞かないことにした。話題を元に戻す。

「そうそう、コノハ助教のことでしたね、はい、私も気がかりなのですが、多分あっちの地底湖は無事だと思います。だとしたら彼女は今頃、こっちに来て私達を探してくれているでしょう」

 そして私は、あの少年のことを思った。思えば、彼が危惧していた事態になっている。我々の調査予定では、こちらに来るのは一部のメンバーだけで、館長やコートニーは安全圏にいるはずだったのだ。でも今は、彼女達もこちらに来てしまっている。

 彼はこれを予想していたのか?

「館長、アーベル君から何か聞いていますか?」

 私がそう尋ねると、館長は首を横に振った。

 ということは、彼もここまでは予想していなかった。そのことは、コノハ助教がこっちにいないことからも裏付けられる。彼はコノハ助教に館長達を護ってもらうつもりだった。もし彼がこのことを予想していたら、コノハ助教が私と別行動することはなかっただろう。

 つまり我々は、アーベル氏すらも予想し得なかった事態に直面しているのだ。

「すみません、彼からあなたのことを任されていたのに、こんなことになってしまいました」

 私は頭を下げた。

 館長を、そしてコートニーまでも守れなかったことに憤りを感じる。

 あの時降りてきた直感に従えばよかったのだ。科学的な好奇心を優先させたせいで、事態を悪化させてしまった。

「いえ、そんな」

 館長は恐縮するように手を振った。

「博士がいてくれるお陰で、とても心強いです。それに、コノハさんも私達を探しているでしょうし、ヒューベルさんが言うように、帰れる見込みはあるのですから、それに」

 そう言うと、館長は私に向けて微笑んだ。

「あの時に感じた、あなたに任せておけば大丈夫という予感は、まだ消えていません」

 魔法の瞳に見つめられて、私は息が詰まる。頼むから、その眼差しを私に向けないでくれ。

 私は自身の精神防御隔壁を最大レベルに上げた。

「博士、ちょっと」

 その時、家の奥の方から声がした。

 キャンベル教授が呼んでいる。

 私は声がした方に行った。

 キャンベル教授は建物の奥にある小部屋にいた。

「どうしましたか?」

「ああ、ちょっと、これを見てくれ」

 教授は、部屋の真ん中にあるテーブルの上に乗っている花瓶を指さした。

 黄色い花が挿してある。

「これが何か?」

「我々は此処でまだ誰にも会っていないよな?でもこの花はまだ萎れていない」

 そうだ、あまりにも普通にテーブルに花瓶が置いてあったので、一瞬気づかなかった。でも、あまりにもおかしい。

「誰かいる、としか考えられませんね」

 私は部屋の中を見回す。小さな部屋だ。人が隠れるような場所もない。

 私がふと入口のドアを見ると、髪の長い女がこちらを覗いていた。

「うわあっ」

 思わず悲鳴がでる。

「あの」

 女が口を開く。

「何かありましたか?」

 ライト館長であった。

 思い切りびびってしまったので、大変ばつが悪い。

 そういえば前にも館長に死ぬほど怖がらせられたことがあったな。

「な、何でもありません、あ、いや、不可解なことがあります」

 私は部屋に入ってきた彼女に花瓶を見せた。

「花が生けられてから、そんなに時間が経ってないですね」

 館長も訝しそうにしている。

 私達は暫くその部屋にいたが、特に何も起きなかった。

 それから私達は他の部屋も巡ってみたが、誰に合うこともなかった。ただし、どの部屋も今さっきまで誰かがいたかのように片付いている。

 私達は花瓶がある部屋に戻った。

 相変わらず誰もいない。だが、この家を探索している間ずっと、私は何かに見られているような気がしていた。

 視線を感じて振り向くと、誰もいない。でも振り向く直前にちらっと視界の隅に何かが見える気がすることが何回かあった。まるで何かがいて、振り返る直前にさっと姿を消しているような感じだ。

 近い経験で言うと、潮干狩りの時に見かけるシオマネキやコメツキガニみたいな感じか。遠くからはそれらがたくさんいることがわかるのに、近くに行くと一匹もいない。人間の気配を察すると一瞬で砂に潜るからだ。本当に一瞬なので消えたように見えるのである。

 此処にも実は気づかないだけで、湿った砂浜みたいに夥しい数のシオマネキがいるのか?

 そう考えると背筋がヒヤッとした。

 そのせいだろうか。

 その部屋を出るとき、キャンベル教授が花瓶を持ち上げて「博物館で調べてみるかね」と言った。

 私はじっとその花瓶を見る。今挿したばかりのような新鮮な花。それを調べる価値は充分にある。だが、

「いや、今は止めておきましょう」私はそう言った。

 何となく、恐ろしかったのである。

 キャンベル教授も何かを察したのか、花瓶をそのままテーブルに置いた。


 結局、博物館の周囲にある建物を10軒ほど見て回った後で、私達はいったん博物館に戻ることにした。

 今回の調査では住人の姿を見ることはなかった。

 やはり誰もいないのか。だが——。

「あれ?」

 博物館の手前にある建物を通り過ぎるとき、館長が言った。

「どうしましたか?」

 頭上に注意を払いながら、私は尋ねた。

 館長は西部劇風の建物を見ている。そこは我々が最初に調べたところだった。そこにはバルコニーがあって、オープンカフェのようにテーブルが出されている。その上にはコップや皿が並んでいた。

「さっきここを調べたとき、コップを手に取ってみたんです。コップはもともとテーブルの縁に置いてあったんですが、戻すとき私はテーブルの真ん中に置いたんです」

「はあ」

「そのコップが、あれです」

 館長は、()()()()()()()()()()()コップを指さした。

「私は確かに、真ん中に置いたんです」

 私はまじまじとそのコップを見た。

「・・・・・・戻りましょう」

 私は館長とキャンベル教授を促して、逃げるようにそこから離れ、博物館に戻った。


 やはり、ここには何かある。

 とても不可解な何かだ。

 そんなことを考えながらエントランスホールに戻ったとき、コートニーがこちらに駆け寄ってきた。

「先生、大変!」

「どうした?」

「クレイが、何かの襲撃を受けて!」

「何だって!」

 私はホールに設置してある機器の所に向かう。そこにはヒューベル博士がいて、通信機に向かって叫んでいた。

「とにかく、そこから離れろ!ヴァーミスラックスの装甲なら大丈夫だ、少々被弾してもいいから、逃げるんだ!」

 私は博士のもとに駆け寄った。

「何があったんですか!」

「襲撃です、上から攻撃されています」

「攻撃、何による攻撃ですか?」

 博士は隣にある機器を指さす。

「それです、機体の上を映しています」

 私はそれを覗き込んだ。

「なんだこれは!」

 そこに映っていたのは、暗褐色をした何とも奇怪なモノだった。まるで巨大な肉のチューブのようなものが、うねりながら迫ってくる。それには口があり、そこに左右に開いたハサミのような顎がついていた。そして口以外に何もない。目も鼻も見えなかった。

「触手?いやこれは、巨大なゴカイか?」

 私が見ている間にも、それが画面一杯に迫ってきて、ガツンとガラスに激突した。

 強化ガラスのキャノピーはそいつの攻撃を何とかしのいでいる。

 すると、画面に別の個体が映った。

「一匹じゃないのか!」

「ざっと30はいるな」

 無線機からカハール博士の声がした。少し興奮しているようだ。

「フェンネル君、開けてくれ、脳を出すから」

「ちょっと、だめ、だめですよ」操縦士が慌てて止めている。

「カハール博士、落ち着いて」

 私もこちらから呼びかけた。

「どういう状況なんです?」

 私は傍らにいるヒューベル博士に声をかけた。

「ここから一キロくらい先で天井が少し低くなっている場所があったんですよ。そこを通ろうとしたら、急に上から襲ってきたんです。見てください、岩の天井に穴がたくさん開いているでしょう?あれがどうやら巣穴みたいで、そこから伸び下がっているんです」

 私は画面の奥を見た。天井が見える。確かに他の所より低い。100メートルくらいか。そこから、無数の巨大ゴカイが伸びでていた。まるで触手の群だ。その光景は、地球の海底にいるガーデンイールを彷彿とさせる。ただし上下逆さまだが。

 それらが強大な顎を左右に開き、次々にガツン、ガツンとぶつかってきている。その度に画面が揺れた。

「大丈夫なんですか!」

「今のところは」とヒューベル博士。

「でも急いで撤退しないと、機関部を何度も攻撃されたらまずい」

「退避できないんですか?」

「現在、関節部分を縮めて防御姿勢をとっています。関節を伸ばして移動形態にシフトすればいいのですが、その際に攻撃されたら厄介です、最悪、転倒して動けなくなる」

「武器は?」

「残念ながら」

 ヒューベル博士の声に焦燥感が漂っている。

 私は状況を判断した。このままでは数十匹の巨大ゴカイの攻撃に晒され続けてしまう。ゴカイはおそらく、捕食対象として見ているだろう。その場合、攻撃が止む可能性は低い。

 私はしばし考えて、方角を確認した。現場はちょうど昨夜クリスと偵察した線路の先であった。

 あそこなら、途中までは地理がわかる。線路があるから移動も容易い。

「私が行きます」

 私はそう言って、博物館の入口に向けて駆けだした。

 入口のドアを開けて、外に出る。誰かが止めにくるかと思ったが、誰も反応しない。

 おや、実は凄く嫌われていたのか、と思ったが、多分そうではない。皆、私の行動が意外すぎて何が起きているのかわからなかったのだ。

 私が外に飛び出してから暫くして、博物館の中でコートニーの悲鳴のような声が聞こえた。

「だめ、先生!」

 だがその時、私は線路に向けて全力疾走していた。

 灌木の間を走り抜ける。こちら側には一軒も家がない。博物館は建物群の外縁に転移してきたようだ。

 どうやらあの建物群は年代順に並んでいるような気がしていたが、博物館が最外縁にあるということは、その考えは正しかったようだ。

 そんなことを考えているうちに、線路にやってきた。

 昨日、クリスと歩いたところを走り抜ける。

 頭上から何かが来たらどうしようか。

 私は鞄からキアッパ・ライノを取り出していた。

 これがあるから、こんな冒険をする気になったのだ。

 だが今は、頭上には何もいない。

 私は薄々気づいていた。

 我々が転移してきた場所には捕食性の浮遊動物がほとんどいない。さっきの探検でも見なかった。

 この世界で、頭上が安全なのは不思議だった。

 クリスとフェンネル操縦士を襲っているのも、天井の岩盤の中に住んでいるものだ。自由に動ける浮遊生物ではない。それに、あいつらの巣穴がある場所も建物群からかなり離れている。

 何か理由があるのか?

 そんなことを考えながら、私は昨夜の駅までやってきた。駅舎が見える。だが私は線路に沿って進んだ。昨日チラリと見たものは、駅舎の外にいた。そこには絶対に行きたくない。

 線路を更に進んでいると、天井が近づいてくるような気がした。確かに、この辺から天井が低くなっている。地底世界なので所々こうして狭くなっているのだろう。

 その先に、何かが見える。

 天井から無数の蛇かイソギンチャクの触手のように、長いものが伸びでていた。

 あそこか

 幸いというか、線路はそちらの方向に伸びている。だが、暫く行くと線路が左方向に大きくカーブしていた。それを目で辿っていくと、なだらかな下り坂を下りて、湖の方に伸びていた。そこで更に向きを変え、もと来た方に戻っている。建物群がある丘の方だ。

 昨夜見た電車は、あの後湖畔を巡りながら元来た方に戻っていったらしい。線路の先は丘の裏へと続いていた。ちょうど、丘と湖の間をぐるっと囲むように施設されているのかもしれない。

 さっきあの建物群を調べたときには丘のこちら側しか見なかったが、あの丘の裏には何があるのだろうか?

 それはともかく、ここからは線路から外れて、何があるかわからない荒野を進まなければならない。

 いつもの私ならこんなことはしない。

 行く先にいるのが、クリスとフェンネル操縦士だったから、私はこんな強行策をとる決心をしたのだ。

 クリスは私の数少ない友人で、操縦士は私の精神を救ってくれた恩人だ。二人にここで何かあったら悔やんでも悔やみきれないではないか。

 それに、私にはアーベル氏からもらった武器があった。

 私は線路の横を通り過ぎ、荒野に入る。

 巨大ゴカイの群は200メートルほど先にあった。

 天井に開いた無数の穴からしゅっ、しゅっ、と伸び出ている。ヴァーミスラックスを攻撃しているのだろう。

 キアッパ・ライノの射程距離がどれくらいかわからない。銃などまともに撃ったことはないのだ。

 私は立ち止まって、銃を構えた。あの巨大ゴカイは天井から100メートル下の地面まで伸びることができる。全長がどれくらいあるかわからないが、これくらい距離を取っておかないと危ない。近づきすぎて、あいつの射程距離に入ったら、生身の私はひとたまりも無い。

 私はゴカイの群に銃を向けて、とりあえず狙いを定め、撃った。

 重い銃声が響く。

 キアッパ・ライノはリコイルが少ないと聞いていたが、それでもずしっと手応えがある。さすが357マグナム弾。

 銃弾は巨大ゴカイの間を抜けていった。外れだ。それでも、何匹かのゴカイがびくっと反応する。

 よし、これでいい。

 素人の射撃で当たるはずがない。銃声に反応して彼らが捕食モードを止めて警戒モードに入ってくれることがこちらの目的だ。生物は自身に危険が迫っているとわかると、警戒し、多くの場合は退避する。

 私はもう一発、撃った。

 銃弾はゴカイの中を通り過ぎたが、一匹の胴体をかすめたようだ。そいつが一瞬で巣穴に引っ込んだ。

 他の個体も警戒するように縮む。雨のように続いていた攻撃が止んだ。

「今だ、こっちへ!」

 私は彼らに聞こえるはずもないのに、叫んでいた。

 その間にも、射撃を続ける。

 三発目、四発目と撃つうちに、一発が岩の天井に当たったらしく、天井で岩が飛び散るのが見えた。

 すると、一斉にゴカイが引っ込む。

 初めから天井を狙えばよかった。

 その隙に、フェンネル操縦士が機体を走行モードにしたようだ。ゴカイの下辺りから、濃紺色の物体がこちらに近づいてきた。

 数匹のゴカイがにゅっと出てきたので、その辺りの天井を狙って銃弾を撃ち込む。

 弾倉が空になった。

 慌てて、シリンダーをスイングアウトさせ、次の弾丸を込める。だが慣れていないので大変手際が悪い。

 その間に、ヴァーミスラックスが急接近してきた。

 よかった、無事だったみたいだ。

 私は安堵して、彼らに向けて手を振った。

 ガラスのキャノピーが見え、その中にいる操縦士が見えた。

 彼は大声でこちらに何か叫んでいる。上を指さしていた。

「何だって?」

 私は上を向いた。

 すると岩の天井に黒い穴が開いているのが見えた。

 あれは、巣穴?

 ゴカイの巣がひとつ、この上にあった?

 そう思う間もなく、その黒い穴からに何かがしゅっと伸びてきた。

 私の目に、巨大な顎を左右に開いたものが、スローモーションで迫ってきた。人間緊張すると、時間分解能が高まって対象の動きがゆっくり見えると言うが、本当だったみたいだ。

 コンマ何秒かの世界だった。

 私の目の前で巨大な顎がみるみる大きくなった。

 あ、これ、ダメなやつだ。

 私の反応速度では絶対に躱せないことがわかった。銃はまだシリンダーを戻していない。

 まったく、主人公でもないのに、こんなことをするからだ。

 自分の中の冷静な自分が語りかける。

 まったくもってそのとおりだ。

 でも、クリスは護ったぞ。

 私は顔のすぐ前に来た巨大な顎を見た。

 その時、何かが目の前をさっと横切った。

 次の瞬間、大顎が消えていた。

 私は、ヴァーミスラックスが横切り様に前肢のマニピュレーターで大顎をひっかけ、そのままの勢いで引きちぎっていくのを見た。

 濃紺色の機体が宙を滑るように奔って、10メートルほど先に着地する。

 凄い機動性だ。

 キャノピーが開いた。

「先生!」

 操縦士が叫ぶ。

「背部座席を開くのですぐに乗ってください!」

 ぱかっと機体の背中にある球形部分の蓋が開いた。そういえばこれは三人乗りだった。

 私は駆け寄って、機体をよじ登り、あたふたとそこに入った。

 そこはカプセルみたいになっていて、中に座席がある。

 この機体は前のコクピットに二人乗って、ここに一人乗るようになっているようだ。

 私が乗り込むと、キャノピーが閉じた。

 中は潜水艇の内部みたいに狭い。周囲にモニターやら無線機やらがあった。

「先生、大丈夫ですか!」

 操縦士の声が無線機から聞こえる。

「ああ。大丈夫だ、助かった」

 私は返答した。

「助かったのはこっちです、ありがとうございました、でも無茶しすぎです」

 まだかなり緊張した声であった。

「さっきはギリギリでした。まだ心臓がバクバクしてます」

「そうか、ごめん」

「おい、それを離さないでくれよ」

 クリスの声がする。どうやらさっき引きちぎった巨大ゴカイのことを言っているようだ。未知の脳が出せることに比べれば、私の事なんてどうでもいいのだろう。実に彼女らしい。

「帰還します」操縦士が言った。

「そうしてくれ」

 私は答え、深呼吸した。

 博物館を出てから無我夢中だったが、何とかなったみたいだ。見ると、手がガクガクと震えていた。止めようとしたが、どうしても止まらない。

 やはり慣れないことはするもんじゃない。

 私はシートに背を預けて、ため息をついた。

 外を映すモニターを見る。

 機体は右腕に巨大ゴカイを抱えていた。さっきはじっくり見る余裕は無かったが、あれをどうやって仕留めた?

 よく見ると、腕の形が通常と違う。肘から先の部分がコンパスのように開いて、腕にこれまでなかった関節がある。ちょうど、カマキリが普段は閉じている鎌足で獲物を挟み込んでいるような感じだ。そうか、あの腕には二の腕にさらに関節があって、カマキリの腕みたいに伸ばせるのだ。そしてそこにはカマキリみたいに鋸歯がついていて、それで巨大ゴカイを挟み切ったのだ。

「すごい、よくできてるな」

 私が感心して言うと、操縦士が答えた。

「ペンクロフトの考案です。こうしたところは本当に頼もしいです」

「さっきの急加速は、どうした?この機体にあんな動きができるとは知らなかった」

「脚部にももう一つ関節があるんですよ。高電圧カートリッジを使って起動させると、バッタの足みたいに一瞬で伸びます。それを使って跳躍できます」

「まさにバッタだな」

 さっきの神速の動きはそれか。

 一見鈍重そうに見えて、武装もなくて、正直あまり頼りにしていなかった機体だが、こんな隠された機能があったのか。

 さすがは、有名なドラゴンの名前を冠するだけのことはある。

「ふふふ」

 何処かから、奇怪な笑い声がした。

 完全に悪役の笑いであった。

 クリスだ。

「とうとう手に入れたぞ」

 カハール博士になっている彼女は、マスク越しに変調した声で、悪役がいかにも言いそうなことをのたまっている。

「この世界の生物の脳を手に入れたぞ。天使でないのが非常に残念だが」

 彼女は独り言を言っているらしい。

 この様子ならやはり、さっき私が死んでいても気にもしなかったかもしれない。

「よかったな、おめでとう」

 私はあまりにも真っ直ぐな彼女の生物学者魂に敬意を表して、パーソナル回線で祝辞を送った。

「あ、師匠、いたんですか、死ななくてよかったですね」

 彼女は他人事のようにそう言った。


 博物館に戻ると、私はめちゃくちゃ怒られた。

「何を考えているんですか!」とヒューベル博士に怒鳴られた。彼が怒っている姿を見たのはこれが初めてだ。館長からもやんわりとたしなめられた。コートニーが泣きそうな顔でこちらを見ていたのがなにげに一番きつい。

「まあまあ、彼も悪気があったわけではないんだし」

 カハール博士がどこかピントのずれた擁護をしてくれる。

「次からはこんな無茶は止してくれよ」キャンベル教授がそう言って、ようやくその場が収まった。

 それから、ウッドデッキに設けられた簡易テントで巨大ゴカイの解剖をすることになった。

 解剖学の知識があるカハール博士と私が担当することになったが、フェンネル操縦士も解剖会に参加したそうだった。だが、ヒューベル博士から「データの整理を手伝え」と言われ、断念していた。誠に残念そうな表情であった。

「ではここは私と博士で行う、皆は席を外してくれたまえ」

 カハール博士がそう言って、皆を博物館の中に追いやった。

 そして、私とカハール博士だけが巨大ゴカイの頭部があるテントに入る。入るやいなや、カハール博士はマスクをがばっと剥ぎ取った。

「うふふ、うふふふふふふ」

 カハール博士もといクリスが、地の底から沸き上がるような笑いをもらす。

 顔が歪んでいた。あんなに美しかった彼女の面影は全くない。

「クリス、嬉しいのはわかるが、顔が変になってるぞ」

 私がそうたしなめると、彼女は黙って解剖皿を取り出し、その裏面をこちらに向けた。

 丁寧に磨かれたステンレスの解剖皿は鏡になって、私の顔を映す。

「人のことが言えますか」

 そこには、醜く歪んだ私の顔があった。

 狂気のような薄笑いを浮かべている。

 あ、あれ?こんな、はずでは・・・・。

「さあ、師匠、時は来ました、遠慮はいりません、いきますよ」

 彼女が解剖バサミとメスを両手に持って、笑う。

 この探索に備えて、解剖用の器具は一揃いリール・ド・ラビームに持ってきていた。それを使うときが来たのだ。

 私は目の前にある、熊くらいの大きさがある巨大な頭部を見た。

 この中に、未だ人類の目に触れたことのない、未知の脳があるのだ。

「ふ、ふふふ」私の口から無意識に不気味な笑い声が漏れていた。

「うふふふふ」それにクリスの妖艶な声が重なる。

 私達は完全に悪役だった。フェンネル君がここにいなくて本当に良かった。

 そしてクリスが、解剖用のメスを手品師のようにクルクルと回した。

「ひゃっはあ!」彼女は口から舌を突き出して、分厚い表皮にメスを突き立てた。


 そこから数時間、私達は至福の時を過ごした。美人の研究者と二人で作業すると言えば、何かロマンチックなことを想像するかもしれないが、実際そこで交わされた会話はおおよそこんな感じだ。

「この神経はどこにつながってますか」「第二付属肢だ」「え、第一じゃなくて?ちゃんと見て」「いや、第二だよ」「おおっと、じゃあこの枝は?」「背部の空気嚢だ」「空気嚢を支配してるのはこの側枝ですよ」「いやこっちからも来てる」「ちゃんと見ましたか?」「みた、それよりその枝はどこから出てる?前大脳副葉か?」「正中葉でしょう」「え、そんなところ?」「師匠の目は節穴ですか、反回枝ですよ」「ぐぬう、何てこった」

 以上のやりとりでだいたい30秒くらい。それが延々と続く。

 作業が終わったのは二時間後だった。

 そのとき、私達の白衣は環形動物の血液にまみれていた。ちなみに環形動物の血液はヘモグロビンが含まれているため、我々と同じく、赤い。

 体力をかなり消耗して、私はウッドデッキのベンチに座り込んでいた。隣でクリスもベンチに背を預けている。

「すごかった」私が呟くと、

「すごかったですね」恍惚とした顔で血まみれの美人が答えた。

「生きててよかった、こんなものが見られるとは、長生きはするもんだな」

「まだぎりぎり若手でしょうに、何を言ってるんですか」

「そう言ってもらえると嬉しいが・・・・核酸抽出用のサンプルは?」

「確保しました、充分です」

「おっけー」

 私達はまるで素晴らしい映画を見た後のように、暫くそこで余韻にふけっていた。

 こんな様子を見たら我々がまるで凶悪な解剖狂のように写るかもしれないが、いや私は実際そうかもしれないが、クリスは解剖の最中に怪物の神経配線や感覚器の形態、筋肉のサイズを基に、この生物のおおよその生理機能を割り出していた。この怪物が何を情報源にしているのか、攻撃はどれくらい届くのか、どこが弱点なのかを彼女は詳らかにした。その手際は見事としか言いようがなかった。先の事変でも彼女は一晩で怪物の性状を明らかにしたという。これで、この怪物に再び出会っても対処が可能になる。さらには怪物に気づかれないようにすることもできる。今回フェンネル君達を苦しめたあの場所も、次回は怪物に襲われることなく通過できるだろう。言い換えれば、怪物と我々との間で無益な争いを避けることができる。私はここに生物学の神髄を見た気がした。

 私は尊敬の眼差しで彼女を見る。私よりも遙かな高みにいる天才。私は彼女に追いつくことはできるのだろうか?それは遠い遠い道だ。

 当の本人はニヤニヤ笑いながらゴカイの標本を眺めていた。

 目の前には領域ごとに綺麗に切り分けられた巨大ゴカイの頭部がある。脳その他の重要な部分は既に固定液に入れて保存庫に入れてあった。

 しかし、個体があまりにも大きいので余った部分もたくさんあった。これをどうしようか。

 昔から祖母に「喰わぬ虫殺しはするな」と言われている。

 解剖の間にゴカイの組織を採取して簡単に成分分析をしたが、有毒な成分は含まれていないようだ。

「今日の夕食はこれかな」

 向こうから襲ってきたとはいえ、我々の探究の犠牲になった生命だ。自然の摂理に従い、その尊い命をいただくことにしよう。合掌。


 そうこうしているうちに、日が暮れてきた。

 日が暮れるといっても太陽はないので、地上とはかなり違う。天井の光源から光の強度が落ちていくのだ。まるで室内にいて、そこが段々暗くなっていくような感じだった。

 そして、博物館の中では昼間の建物探訪に関する意見交換が行われている。

「何かがいる気がするんだ」

 キャンベル教授がそう言って皆をびびらせる。

「何って、何ですか?」

 ヒューベル博士が不安そうに尋ねた。

「あの建物はきれいすぎる。あれらがこちらにいつ持ち込まれたのかはわからないが、長い年月をかけて少しずつ集められたとすると、相当な年月が経っているはずだ。事実、丘の上に行くほど古いものがある。最も古い建物がどれくらい前なのか、想像もつかないくらいだ。そんな何千年も前のものが、ずっと残っているのはおかしい。普通ならすぐに朽ちてしまう。誰かが管理していない限りは」

「誰かって、誰もいないんじゃ」

「我々が調べたところ、人間はいない」

 キャンベル教授がそう言って私を見たので、私は頷いて同意した。

「じゃあ、誰が」

「ちょっと気になったのは」と私が受けて言った。

「我々が少し目を離した隙に、ちょっと動かしたものが元の位置に戻っていたりするんです。まるで何かが我々の死角で働いているような。そういえば、ヒューベル博士がヴァーミスラックスで確認したときも何か変なことがありましたよね」

「動体センサーや顔認識機能が反応した事ですか?誤作動だと思っていましたが」

「そうかもしれません、でも誤作動でないとすると、何かがいることになる。それはおそらく」

 私はそこで一呼吸おいた。皆が私の次の言葉を待っているが、どうせみんな気づいている。あまりに非科学的なので自分で言うのが嫌なだけだ。

「おそらく、この建物群の管理をしている存在です。ここが野外博物館とするなら、学芸員のようなものだ。それが、我々の目に止まらないようにこっそり活動しているのです」

 皆は黙っている。やはりそう思っているのだ。

「きっとここは、未知の存在が地球の環境に似せて作ったものだ。その存在は、地球から持ってきたものを永続して保存するために、未知の学芸員をつくったのです」

「学芸員、じゃあ、昨日の電車も?」ヒューベル博士が尋ねた。

「おそらく、そいつらが動かしている」

「ということは、かなり知性があるということですか?」

「それはわからない。昼間の感じだと、我々にコンタクトしてくるような能動的な気配はなかった。決まったことを機械的にやり続けているだけかもしれない」

 すると、フェンネル操縦士が手を挙げた。

「それに関係しているかどうかわかりませんが、ちょっと気になることが」

 皆がそちらを見ると、彼は続けた。

「さっき、我々を巨大な環形動物が襲ってきました。あれはちょうど、線路が途切れて暫く行ったところだった。あの辺に行くと巨大な捕食動物がいるのです。でも、この場所の周りにはそんな奴がほとんどいない。昨夜、発光する浮遊生物がいましたが、上空を通過しただけでした、これはぼくの想像ですが、この場所はまるで蟻塚のように見える。蟻塚の周囲には動物が寄りつきません。近づいたら有毒の蟻の群に攻撃されるからです。ここには、捕食動物が忌避する何かがある。さっきの話だと、建物を維持している存在がいるという。そうであれば、あれだけの建物を維持するんだ、夥しい数の『学芸員』が必要になるでしょう。それらが蟻塚のアリみたいに、ここを護っているのでは?」

「そんなことが」と私は異議を唱えた。

「であるなら、我々が真っ先に攻撃されるんじゃないか?」

「我々は建物ごとここに送り込まれました。他の生物みたいに外から侵襲したわけではありません。我々はイレギュラーな存在なのです。襲われないのはそのせいでは?ただし、我々が建物を壊したり、建物から何かを持ち出したとしたら、敵と見做されて攻撃されるかも」

 フェンネル操縦士は真剣な顔をしている。彼は自分の考えにある程度確信があるようだ。もしそうなら、

 私は昼間の探検を思い出した。あのギリシア風の家の中で、花が生けられた花瓶を持ち出そうとして、止めた。

 もしあれを持ち出していたら・・・・・。

 私達は今頃、ここにいなかったかもしれない。

 そう考えて、私は肝が冷える思いがした。


 様々な不安要素を抱えたまま、二日目の夜がやってくる。

 周囲に未知の存在がいることがほぼ確定したので、我々は博物館の出入り口をしっかり施錠した。

 出入り口は、三つ。エントランスホールの正面入口と、もともと図書室に繋がっていた裏口、そしてカフェの奥にある、もともと展示室に繋がっていたドアだ。そこのドアを開けたら、すぐ先に建物が見えたので少し恐ろしかった。カフェ奧のドアは特に念入りに施錠する。

 ウッドデッキに出していた機器も、ヴァーミスラックスを除いて全てエントランスホールに入れた。

 出入り口は固めたが、背後の家屋群に潜む存在に対してどれくらい有効かはわからない。

 ヒューベル博士、フェンネル操縦士、そしてコートニーの探査機担当三人組は、こちらに送り込んだ無人機からの電波が受信できないかいろいろ試していた。

 今回、フェンネル操縦士はこの周辺に探査用のビーコンをばらまいてきたそうだ。何処かにいるはずの無人探査機からの電波を受信したら反応するし、こちらからも電波を出して、相手に受信してもらうこともできる。

 だが今のところ何の兆候もないようだ。

 私たちは食事を済ませたあと、カフェで簡単な状況確認をした。その後、暫く警戒を続けたが、特に何も起きなかったので解散した。仲がいい何人かはカフェに残ったが、私は研究室に戻る。

 今回のメンバーは皆いい人物だが、やはり一人の方が落ち着く。

 それに、やらなければならないこともあった。

 研究室に籠もって机に向かっていると、ノックの音がした。

「どうぞ」

 ドアが開いた。

「先生」

 コートニーが部屋に入ってきた。実験の時からずっと中等部の制服だったが、今は白のブラウスに茜色のスカート姿だ。ここに泊まり込むつもりで着替えを持ってきていたのだろう。

「ああ」

 昼間のことがあるので少し気まずい。昼間の行動はやはり無茶だった。ダメな大人の行動だ、未来ある少女に見せるべきではなかったと反省する。

「悪かった、昼間のぼくの行動は、反面教師だと思ってくれ」

「・・・・先生は智恵で何とかすると言ってたよね?死んじゃったら、何とかなるはずのものもダメになっちゃうよ」

 全くもってその通りである。中等部に上がりたての少女に言われていたら世話はない。

 しかし、この少女もたいそう落ちついている。どうしてノーチラス島の住人はこんなに肝が据わっているのだろう?

「君がしっかりしてくれているから助かるけど、不安じゃないのか?」

「異世界で迷子になるのは、これが初めてじゃないから」

 そう言いながら、彼女は窓辺においてある椅子に腰掛けた。

 そういえば彼女はかつて、アーベル氏の協力、というか彼にそそのかされて、フェンネル操縦士を探すためにあの「K−13縦孔」の奥に潜ったらしい。その辺のことは父親にも秘密にしているそうだが。

「先生、コノハさんとカレハさんからは何の連絡もないの?」

「残念ながら、ないね」

「こっちには来てるはずだよね」

「そう思う」

「ずっと遠くなのかな?」

「さあ、ぼくも知りたいけど、残念ながらわからない」

「そういえば」

 コートニーはテーブルの上にある本をぱらぱらめくりながら言う。

「カレハさんが、とっても喜んでたよ」

「喜ぶ?彼女が?何を?」

「先生、カレハさんが喜ぶようなことを何かしたんじゃないの?」

「ああ、それか」

 そう、こんなことが起こる数日前に、私はカレハ助教とある約束をした。

 コートニーが興味津々といった表情をしていたので、私は彼女を主役にした映画を撮ると言ったこと、ドキュメンタリー番組の出演を彼女が断られたこと、その代わりに私が彼女を主役にした作品を作ると約束したことを話した。

「えええ!そんなこと言っちゃったの!」

 コートニーはびっくりしていた。まあ、普通びっくりするよな。

「それで、大丈夫なの、先生」

「ううん、実は・・・・そんなに大丈夫じゃない」

「そうだよ、どうするの?」

 コートニーが心配そうに尋ねる。だが、私も何も考えていないわけじゃない。実は、私が今机に向かっているのはそれが関係している。

 だが実のところ、彼女にはもう二度と逢えないかもしれない。

 でも、もしそうだとしても、約束は約束だ。私がこの作業をすることにはきっと意味があるだろう。

「今、その約束を果たす準備をしているんだ」

「何をしているの?」

 コートニーは興味を抱いたみたいだが、私は答えることに躊躇する。

「あ、いや、それは、ちょっと・・・・」

 少女は訝しそうな顔をした。彼女には教えてもいいかもしれないが、ドン引きされるかもしれない。私が今やっているのはそういうことなのだ。

「私には教えてくれないの?」

 コートニーはちょっと失望したような顔をした。私が彼女を信用していないように思われたか?こんな状況下で彼女にそんな表情をさせるのは気が引ける。

「わかった、君には見せよう、これだ」

 私は意を決して、彼女を手招きした。

 コートニーは私の机までやってきて、覗き込む。

「ぐぬぬ」やはり恥ずかしくて私は呻いた。彼女に引かれる可能性はおよそ65%、これは自分でもリアルな数値だと思う。

「こ、これって!」

 少女は大きな瞳を見開いて、私の顔を見た。

「先生、本気なの?」

 私は頷いた。

 コートニーはまじまじとこちらを見ている。

「先生」

 少女の青い瞳がきらきらと輝いた。

「素敵です先生!きっと帰ろう、カレハさんにこれを伝えないと!私も協力する、今度銃を使うときがあったら言ってね、私が撃つから」

「何を言ってるんだ、君は」

「多分、先生よりはうまく使えるよ」

 銃社会で過ごしてきたわけでもないのに、彼女は力強く頷いた。

 そういえば、異世界に行ったときにアーベル氏に拳銃を渡されたとか言っていたな。

 この少女はこの年で一体どれだけの経験を積んできたのか。

 しかし私も今回のことで彼女の経験値を上げるのに一役買ってしまった。

 この少女には普通でいてもらいたいのに。

 私はため息をついた。

 その時、

  誰かがドアを叩いた。私が返事をする間もなく、ドアが開く。

「博士」

 そこにはヒューベル博士が立っていた。


「博士、大変です」

 彼は入ってくるなり、バタンとドアを閉めた。

 様子がおかしい。

「どうしました?」

「ヒューベル博士、どうしたの?顔色が悪いよ」コートニーも尋ねた。

 そうか、何か変だと思ったが、顔色が悪いのか。色弱だとこの辺がわからないのだ。

 多分私はそれもあって、人間関係が上手くいかないのだろう。

 いや、今はそんなことを考えている場合ではない。

「今、下にいたんですが」

 彼は精神を落ち着かせるように息を整える。

「皆、休んでしまって、私だけが残っていたんです、エントランスホールで機器の調整をしていたんですが、そしたら・・・・」

「そしたら?」私は促した。

「外から、ノックの音が」

 ヒューベル博士は青ざめていた。さすがにここまでくれば私にも顔色が悪いことがわかる。それほどまでに彼は焦燥していた。

「何だって?」

 私はこれまで見たことないほど狼狽えている彼に尋ねた。

「ノックって、どこから?」

「正面のドアです」

 そこで私は昨夜のことを思いだした。

 私もノックの音を聞いた。あれは悪い夢だと思っていたのに、もしかして、事実だったのか?

 いやでも、そんなはずは・・・・。

「聞き間違いでは?」

「そんなことありません、確かに聞こえました」

 彼はそう断言した。

「なら、夜行性の動物が来たのかな?」

「・・・・私もそれを考えました。何かしらの動物が徘徊しているのかと。でも、恐ろしいことに気づいたんです、動物なら外壁を引っ掻いたりするかもしれませんが、それは、それは、ドアをノックしていたんですよ」

 私は息を呑んだ。ピンポイントでドアをノックする野生動物なんて聞いたことがない。ということは、それは「ドア」の事を理解している存在なのか?

「それで、私は、外を映しているモニターを見たんです」

 ヒューベル博士は続けた。この博士がこんなに怯えているのだ。ノックだけではない気がしていたが、彼の話には続きがあるのだ。

「見た?ドアの向こう側をですか?」

「ええ、そうです」

「何が見えたんですか?」

「博士、こんなことを言うのは不本意なのですが、もしかしてこれ、本当に超常現象なのでは?」

「科学者がおいそれとそんなことを言うもんじゃありません」

 私はちらっとコートニーを見た。

 彼女はカタカタ震えていた。ヒューベル博士の尋常じゃない様子を見て怯えているようだ。

「話してみてください、あなたが見たものを」

 私は加熱しっぱなしにしていたせいで、すっかり苦くなったコーヒーを彼に差し出した。

「・・・・どうも」

 ヒューベル博士はそれを受け取って、話し始めた。

「モニターを見たら、確かに何かがいました。ドアの外に立っているんです。白い服を着て、じっと立っているように見えました。まるで人間みたいな気がして、でも、暗くてよくわからないんです、暫く見ていると、それがドアを叩きました。手があったんです。両手を体の前で垂らしていて、その手でドアを叩いているんです。私は誰かここに生存者がいて、尋ねてきたのかと思いました。でもこんな真夜中に誰が来るというのか。そしたら、それがふと、監視カメラの方を向いたんです。私はその顔を見ました」

 コーヒーを持つ手がガクガク震えていた。

「どんな顔だったんですか?」

「長い髪が顔に被さっていて、目の辺りは空ろな穴みたいに真っ黒で、口だけがやけに大きくて、にいっと、まるで、笑っているみたいに」

 私はゴクリと息を呑んだ。

「そ、それで?」

「私がびっくりして声を上げたら、それは消えました」

「消えた?いなくなったんですか?」

「そうです」

「消えたというか、その場から離れたのでは?」

「ドアの左右は開けているので、それがどちらの方向に動いてもわかると思います。文字通り、消えたんですよ」

 それで、彼は超常現象だと言っているのか。

「いやでも、まだ超常の存在と決めるのは早計です」

「私だってそんなことは考えたくありません、でももうひとつ、変なことがあるんです、それには足がなかったような気がするんです。白い着物の先がこう、すうっと先細りになっていて、そのまま消えていました」

 足が無いだって?まるで日本の幽霊じゃないか。白い着物を着て手を体の前にたらしているというのも、幽霊めいている。

 そんなことがあるのか?

 ここを、死者の霊が訪れたというのか?

 確かに私はここが科学と超常現象の境界にあるような気がしていた。それでもギリギリ科学の世界に留まっていると思っていた。今ここでその境界を越えてしまったというのか?裏の建物群で感じたあの気配は、『未知の学芸員』などではなく、この世ならざるもので、それが今ここにやってきた?

「ここにいてください、様子を見てきます」

 私はそう言って、机の上の手提げ鞄をひっつかんで部屋の外に出た。

 そろそろと廊下を進んで、階段に足をかける。

 昨夜の私の体験と、ヒューベル博士の話を反芻する。

 深夜、入口のドアを叩く。

 白い服を着て、手を体の前に垂らして立っている。

 髪が長く、真っ黒な目。

 異様に大きな口。

 突然消える。

 足がない。

 これはやはり、

「お化けなのかな」と女の声がした。

「うひゃあ!」私は飛び上がった。

 振り向くと、コートニーがいた。

「き、君、なんでいるんだ!部屋にいないと!」

「だって、先生が」

「ぼくはいいんだ、昨日ぼくも何か聞いた気がするんだ、それを確かめる、君は戻って、早く」

 少女は意外にも首を横に振った。

「先生、それ、昼間使ってた拳銃でしょう?私が使う、貸して」

「何を言ってるんだ」

「さっき言ったでしょう、私の方がうまく使えるよ」

 何を言っているんだこの少女は。

「ば、バカを言うな、相手は何かわからないんだぞ、銃なんて効かないかも」

「あの人がくれたんでしょう?特別な弾はなかった?それを使えば大丈夫だよ」

 そして彼女は、私の肩掛け鞄を開け、キアッパ・ライノと、弾倉の箱を取り出した。

「ほら、これ」

 彼女が出したのは、これまで使っていた357マグナム弾とは別の箱に入っていた弾丸だった。見たことないタイプなので使っていなかったのだ。

 コートニーは手慣れた手つきでシリンダーをスイングアウトさせ、弾丸を入れ替える。

 ガチャッ、とシリンダーを元に戻した。私がやるよりずっと早い。

「君、どうしてそんなこと」

「前の時は命がけだったからね、それに私がもらった銃と似てる」

 少女は微笑んだ。でも目は笑っていない。精一杯強がっているのだ。前に異世界に行ったときも、彼女はきっと凄く恐ろしい目に遭ったのだろうに。

 それでも私についてきてくれる健気さに私は感動した。

「ありがとう、でもやっぱり危険だ、二階の収蔵室に君のお父さんがいるはずだから、そこに戻っていたまえ」

「大丈夫、先生はカレハさんに会わないと。そのために私はがんばるから」

 少女が真っ直ぐ私を見ている。

 私は暫く考え、彼女に告げた。

「わかった、だがホールは危険すぎる。君は階段の踊り場で待機してくれ、そこからなら入口のドアが見える。ぼくがドアのところまで行く。もし何かが入ってきたら、撃ってくれ」

「わかりました」

 コートニーは頷いた。

 こんな子供に援護を頼むなんて大人のすることじゃないが、背後から誰かがカバーしてくれていると思うと、かなり心強い。

 私たちは階段を降り、それから私は踊り場にコートニーを残して、ホールに入った。

 そろそろと、入口のドアに向かう。昨日もこんな感じだったような気がするが、違う気もする。

 ドアに近づく。

 何も聞こえない。

 もしかしたら、ヒューベル博士は幻聴を聴いたのかもしれない。だとしたら私が聴いたあれもやはり夢だったのか。こんな状況だから、外の風の音がそれらしく聞こえることもあるだろう。そしてそんな精神状態だったら、監視カメラに何かが見えた気がするかもしれない。外は暗いのだ。それに、極限状態の人間は容易く幻覚を見る。

 その時、ノックの音がした。

 私はびくっとして、後ずさる。

 とん、とん、と続けざまに音がする。

 前にあるドアを誰かが叩いていた。

 これは、幻聴ではない。

 その時、ホールの奥からも音がした。

 そこにも外に通じるドアがある。

 そのドアを何かが叩いている。

 前後から、不気味な音が響いていた。

 それほど大きくはない。まさにノックするくらいの音だ。

 でもこれは、幻聴じゃない。

 それに、博士の言ったとおりだ。「ドア」を叩いている。

 野生の獣がドアを選んで叩くなんて事は有り得ない。

 私はドアを凝視していた。

 これは、いよいよ超常現象か?

 ここには家屋と一緒に人間も転送されてきたかもしれない。あれはここで命を失った人々の霊なのか?

 そう思ったとき、別の考えがぼんやり浮かんできた。

 もしかして、でも、そんなことが————。

「有り得るのか?」

 私は口に出して呟いた。

 私はホールにある観測機器の所に行った。ヒューベル博士が見たという監視カメラの画像を確認する。

 モニターにはまだ外が映っていた。

 博士の話では突然消えたそうだが、今またノックの音が聞こえるということは、またやって来たのだ。

 私は暗いモニターを見た。

 画像は光量が足らないせいでかなり粗い。

 カメラはドアの上にあるので、見下ろすようなアングルになっている。

 ノイズが混じる画面に、黒いものが映っていた。

 人間が、項垂れているように見える。

 確かに両手が幽霊みたいに体の前に垂らされている。

 胴体は、まるでぼろぼろの白い服を纏っているみたいだ。それが下にすうっと垂れている。

 足は、暗くてよくわからないが、白い服の先は先細りになり、地面についていない。つまり、宙に浮いている。

 そしてそれの顔は、長い黒髪に隠れて見えなかった。

 一言で言うと、幽霊だ。それ以外の何者でもない。ここであえて科学的に説明を加えたら、ホラー映画で常識者が間違った解説を述べているような感じになってしまう。ちなみにそうした映画ではそんなことを言っている奴はまず死ぬ。

 もし、さっきの思いつきがなかったら、私もヒューベル博士と同じく悲鳴を上げて逃げていただろう。逆に、これを見ても正気を失わなかった博士はたいしたものだ。

 私は気持ちを落ち着け、さっきの考えに基づいて画面の幽霊を見た。

 私の持つ究極奥義、あのコノハ助教をも驚愕、いやドン引きせしめた秘技「じっくりしっかり・みる」を発動させる。

 確かに足がない、だが、そこには別のものがあった。博士は暗くて気づかなかったのだろう。その幽霊は足があるべき所が下にいくにつれてすうっと細くなり、それが白い服のように見えている。そしてその先が地面の少し上で消えて、足のない幽霊のように見えるが、実際は下半身の先は後ろに曲げられ、さらに上に折れ曲がり、また広がって、扇のようになっていた。

 つまりそれは、人間のような上半身と、人間とは異なる形の下半身をもち、下半身の先をサソリの尾のように持ち上げたものだ。そしてその先端は扇のように広がっている。幽霊というより、それはまさに———。

「先生、大丈夫?」

 踊り場にいるコートニーから、心配そうな声がする。

 私はそろそろと階段にむけて後ずさり、コートニーがいるところまで戻った。

「先生、確かに音がしてる」少女が声を潜めて言う。

「ああ」

「幽霊なの?」

 私はそこでさっきの考えを反芻する。

「ひとつ、考えがある、でも・・・・・」

「どんな考え?」

「ちょっと、前から考えていたことがある。ひとつの可能性だ。もしこの世界で・・・・・でもそんなことが本当にあるか?」

 私は独り言のように呟いていた。

「先生、大丈夫?」

 コートニーが心配そうに覗き込んできた。もしかしたら私が悪霊にとりつかれたと思ったのかもしれない。

「・・・・・コートニー、部屋に戻ろう。コーヒーを飲みながらじっくり考えたいことがあるんだ」

 思えば、私が彼女の下の名前を呼び捨てにするときは、いつも大事な決定をしている。

「いいよ、先生、私がとっておきのを煎れてあげるよ」

 少女は不安そうにしながらも微笑んでくれた。

 幽霊が来訪する博物館で一夜が過ぎていく。


 私は部屋に戻り、状況をヒューベル博士に報告した。

 コートニーもコーヒーを煎れながららそれを聞いている。

「それ、やっぱりお化けじゃないの?」

「そう結論づける前に、ひとつ仮説がある」

「どんな仮説ですか?」

 大分落ち着いたらしいヒューベル博士が尋ねた。

「どうぞ、先生、ヒューベル博士も」

 コートニーが湯気の立つコーヒーをくれた。彼女も自分のカップを持って机の側の椅子に腰掛ける。

 私はコーヒーを口にしながら考えを整理して、仮説を述べた。

「この世界では、特殊なパクテリアのせいで、空中浮遊生態系が形成されている。そこでは、地球にいる動物が様々に姿を変え、空中生活に適応している。例えばあの天使は、鳥類が姿をかえたものだ。地球では有り得なかった進化が、ここでは実現している。ぼくは、あんな感じで鳥類以外の脊椎動物が進化したらどうなるか、考えていた。特に、哺乳類が進化したとしたらどうなるかを・・・・・」

 私はヒューベル博士とコートニーを見た。二人とも真面目にこっちを見てくれている。これからの話を聞いた後でも、彼らは私を狂人扱いしないでいてくれるだろうか?

「・・・・哺乳類の完全なる空中適応、それを考える際にヒントになるグループはふたつある、一つは翼手類、つまりコウモリ類だ。もうひとつは偶蹄類、その中でもクジラ類だ。前者は実際に飛行することができるし、後者は海という環境に戻ることで、重力からある程度解放されている。この二つの動物の特徴を基に、空中で過ごすのに必要な形態を想像してみた。まず、コウモリの翼は揚力や推進力を得る装置としてはあまり必要なくなって、主に空中での姿勢制御に使われるだろう。だから、翼はかなり簡略化されて、ものを掴む手のようになるだろう。だとしたら、上半身は頭と肩がついたサルみたいな外形になる。ひょろ長い手には、膜のような翼が手のひらや肘に残るだろう。胴体は浮袋を収納するために長くなる。そして、哺乳類の特徴として、体が尺取り虫みたいに前後に曲がる。これは腹部に肋骨がないせいだ。この形質を残し、体の前後運動によって空中で前に進むには、クジラのような形態が必要になる。クジラは水中を効率良く進むために後肢を退化させ、代わりに尾ビレを作った。この世界でも空中を移動するために同じような進化が起きる可能性がある。ただし、空気は水よりも密度が低いから、粘性が小さい。だから、空気をオールみたいに掻いて進むにはクジラよりも大きな尾ビレが必要になる。それはちょうど扇を開いたみたいになるだろう。そんな生き物を想像したら、どうなる?霊長類みたいな上半身に長い手があって、下半身は長めで、先端に大きな尾ビレがあるんだ、これはつまり、人魚だ」

「ほえ?」

 コートニーは意外な結論に目を白黒させた。

「人魚だよ、ここで哺乳類が進化したら、人魚ができるんだ」

 私は大真面目に言った。実際、真面目に考えた結果だ。

 これなら、先に見たものに説明がつく。

 直立していて、手がついていて、足がなく、体の後端が扇状になっている。

 ドアの前には人魚が立っていたのだ。尾ビレを後ろに折りたたんで。

「でも、ドアをノックしていましたよ、それはどうして?」ヒューベル博士が尋ねた。

「それは、哺乳類だからです。哺乳類は概して嗅覚が発達している。だから、我々人間の匂いを嗅ぎ取ったんです。この博物館で人間の匂いがもっとも濃く残っているのは、ドアです、ドアのノブです。だから彼らはドアのところに来た。そして、彼らには自由に動く手がある。それを使ってドアを探っていた。その音がノックに聞こえたのです」

「じゃあ、消えたのは?」

「上にジャンプしたんですよ、尾ビレを使って。暗かったし、一瞬の動きで垂直に移動したから、消えたように見えたんです。実際、ノミがジャンプしたら消えたみたいに見える」

「じゃあ、白い服は?」

「体表に白い毛が生えているんでしょうね。現生のコウモリにもそんな種がいます」

「じゃ、じゃあ、口が耳まで裂けていたのは?」

「あの哺乳類が翼手類をベースにして進化したのなら、有り得ます。オオコウモリを思い出してください、頬がないでしょう。猫とかイタチと似たような感じですよ」

「なんということだ」

 ヒューベル博士は信じられないという顔をした。

 とりあえず私の頭がおかしいとは思ってないみたいだ。よかった。

「じゃ、じゃあ」

 コートニーが身を乗り出してきた。

「空飛ぶ人魚がいたってこと?」

「そうだね」

「じゃあ、外にあるたくさんの建物の中にいたのは、そいつらなの?」

「いや、多分違う、あの建物群にいたのは別の存在で、こっちの世界で進化した我々の同類じゃない、そんな気がする。姿が見えなかったし、あの深淵から現れる触手と何か近い気がする。それに対して、今回の人魚はこの地底世界で進化した哺乳類だ。きっと夜行性で、昼間は何処かに潜んでいたんだろう。夜になると活動するんだ。昨夜もノックの音が聞こえたし」

 そう言ってから、昨日クリスと線路を探検したとき、こいつらに会わなかったのは幸運だったかもしれないと思った。こんなのに襲われたらただでは済まない気がする。

 あるいは、と、フェンネル操縦士が言っていたことを思いだした。

 この場所は蟻塚のように感じるという。あの建物群に怪物達は入ってこない。おそらく、あの線路も人魚達から蟻塚の一部と認識されていて、忌避されているのかも。だから我々は無事だった———。

 そして、この博物館はイレギュラーな存在で、「蟻塚」には組み込まれていないのかも。だから毎夜、人魚が訪れるのだ。

 私が二人にそれを告げると、コートニーは口をつぐみ、ヒューベル博士は頭を抱えた。

「博士、あなたに言われるとそんな気がしてきた、私もあれが幽霊だなんて思いたくありません、でも・・・・空飛ぶ人魚ですか・・・・ちょっと、想像を絶することが多すぎて」

「博士、それからコートニーさんも、今夜はもう休んだ方がいい。夜が明けたら、私の考えについて皆に話そうと思います」

 私がそう言ったところで、ドアをノックする音がした。

 私達は同時にビクッとした。今夜のノックは心臓に悪い。

「ど、どうぞ」

 私が答えると、ドアが開いて、フェンネル操縦士が入ってきた。

「先生、大変です」

 彼は入ってくるなり、バタンとドアを閉めた。

 様子がおかしい。

「どうしました?」

「クレイ、どうしたの?顔色が悪いよ」コートニーも尋ねた。

 何だかさっきも同じような会話をした気がする。

「ペンクロフトと交代しようと思って」

 彼は精神を落ち着かせるように息を整える。

「さっき、下に行ったんです、そしたら・・・・」

「そしたら?」私は促した。

「外から、ノックの音が」

 フェンネル操縦士は青ざめていた。

「ああ」と私達三人は顔を見合わせる。

 また同じ話をしないといけないのか。

 私は少しうんざりした。


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