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ノーチラスノートII  作者: 蓬莱 葵
10/13

第10部

 11―真夜中の実験

 戻ってから、実験開始までの日々は足早に過ぎていった。

 私は研究室で今回の遠足に関する結果をまとめつつ、密かにフクラスズメの操縦を練習した。その間コノハ助教は大学と高校に通う。

 博物館前ではフェンネル操縦士とヒューベル博士が機器の調整をしていた。いつの間にかヴァーミスラックスも運び込まれ、ウッドデッキに設えられた台座に設置されている。

 実験開始が数日後に迫る中、私は授業をするために一人で大学に赴いた。コノハ助教はすでに大学の附属高校に行っている。

 授業が終わって大学を出た私は、そのまま街を彷徨していた。

 必要物資の買い出しと、あとは単なる暇つぶしである。調査メンバーはそれぞれ慌ただしくしているが、実のところ、今の私にはあまりやることがない。

 何をするでもなく街をうろついていた私は、思わず立ち止まった。

 少し先にあるケーキ屋のショーウィンドウを、アルザス衣装の少女が覗き込んでいる。ショールを羽織ったコノハ助教だった。

 大学からリール・ド・ラビームに帰る途中に、彼女も街に立ち寄っていたらしい。ついでに制服から今の衣装に着替えたようだ。彼女が前に言っていたように、着ている衣装は少し派手だが、地味な色合いのショールを羽織っているので、あまり目立たない。ただし、艶やかな灰色の髪と儚げな容姿、そして人形みたいに整った顔だちのせいで、道行く人々はチラチラと彼女の方を見ていた。

 彼女はじっとガラスのケースを見ていた。あまりに真剣そうな顔をしていたので、私は声をかけるかどうか迷う。

 彼女はしばらくして、ショーウィンドウから目を離し、そのまま歩き去って行った。

 私は彼女が覗いていたガラス棚を見る。そこには新作のケーキが並べられていた。

 コノハ助教はこれに興味があったのか。

 私はしばらく考えた後、彼女が見ていたと覚しきケーキを買って、そこを離れた。

 しばらく行くと、また彼女の姿を見かけた。

 コノハ助教は何人かの人に囲まれている。

 話しかけられているようだ。

 彼女に話しかけた人々は何やら彼女に頼み事をしているように見える。

 俗に言うナンパというやつだろうか。

 人間態のコノハ助教の容姿なら、街で声をかけられることもあるだろう。

 こんな辺境の島でも、人間の男性のやることは変わらないということか。

 そんな人の性を浅ましいと蔑んでいる私がいた。

 でもそんな私の思いとは裏腹に、彼女は笑顔で応答している。全くそつの無い感じの表情であった。聡明な女子学生といったところだ。言い寄ってくる人々を軽くいなしているようにも見えるし、声をかけられたことに興味を示しているようにも見える。いつの間にか、彼女の対人スキルは私を遙かに凌駕し、そのコミュ力は遙かなる高みに達していたらしい。

 彼女なら、普通に人間社会で生きていけるのではないだろうか。

 そう考えると。何だかコノハ助教が遠くに行ってしまったような気がした。

 まあそれはそうだ。私とあんな小島にいるより、ここでいろんな人と今時の話をしている方がずっと楽しいに決まっている。

 私は彼女に気づかれないように、その場を離れた。


 リール・ド・ラビームに戻ってしばらくすると、コノハ助教が帰ってきた。

「やあ、戻ったよ」

「おつかれさん」私は答えて、「大学はどうだった?」と尋ねた。

「楽しかったよ」ショールを脱ぎながら彼女は答えた。

 私は街で見た一件が気になって、そのことを彼女に尋ねるべきかどうか煩悶していると、

「そういえば、街でね」と彼女が口を開いた。

「ほお、街で、何かあった?」

 私は勢い込んで尋ねる。

「声をかけられたんだ、映画撮影とやらのスタッフに」

「え、映画だって?」予想外の展開に私は驚いた。

「そう、この島のドキュメンタリー番組をつくるとか何とか言ってたな、それで、私を」

「君を、どうするって?」

「出演してくれって、言われた」

「出演、君が?」

「そう、もともとそのための女性スタッフがいたらしいんだけど、この島に来てからちょっと、あれだ、ストレスか何かで正気をね、ちょっとね」

「出演できなくなったと」

「そう、それで代わりの人材を探しているんだそうだ」

「それで、君が」

「ああ、よくわからんが、イメージにぴったりなんだと」

「それで、どうした、引き受けたのか?」

「まさか。断ったよ。・・・・・私はね」

「私は、ということは、どういうことだ?」

「君がほら、前にあいつに変なことを言っていただろう?あいつを主演にして映画を撮るとかどうとか。だから、あいつに代わりにやってもらったらどうかと思ったんだ。それで、紹介した」

「紹介?カレハ助教を?」

「ああ、双子の妹が興味あるかもしれないとね」

「それで、それから、どうなった?」

「明日、街で会うことになった。あのスタッフと。もちろん私じゃない、あいつがだ」

 私はそこで少し考える。そんな話になっていたとは。でも、カレハ助教は承諾したのだろうか?

「カレハ助教の意見は聞いたのか?」

「聞いてない。そこまでは知らない。君が聞いたらどうだ?代わるからさ」

 そしてコノハ助教は目の前でくるりと回る。

 アルザス衣装のスカートがふわっと翻り、こちらに向き直ったとき、少女の瞳は水色になっていた。

「やあ」

 私はカレハ助教に話しかける。だが彼女は黙ったままだった。

「コノハ助教から話を聞いた。思いがけなく君が願っていた状況になったみたいだけど」

「はあ」

 カレハ助教は曖昧に答えた。彼女が大喜びする様を予想していたので、ちょっと意外だった。

「どうした、嬉しくないのか?」

「映画と言いましても」

 カレハ助教はうつむいて、親指どうしを擦り合わせながら答える。

「いわゆる記録映画ですよね?私が忍者魔法少女として登場して、いろいろ活躍とかするんですか?」

「いや、さすがにノーチラス島のドキュメンタリーに忍者魔法少女が出てきたらおかしいだろう?」

「そうですかねえ」

 カレハ助教はため息をついて、何だかすがるような目で上目遣いに私を見る。多分にオタク的な要素を持つ彼女の性格を考えると、見知らぬ人達と話をすることに躊躇しているのかもしれない。私は元気づけるように言った。

「まあ、話だけでも聞いてみたら?もしかしたら君が望むような展開になるかも」

 もし上手くいったら、私が彼女に思わず言ってしまった厄介な事案が片付くことになる。しかし、

「はあ、まあ、そうしてみます」

 カレハ助教は少し沈んだままの顔で言った。

 やはり気が進まないのだろうか。私の心に罪悪感が去来する。あの時は思わず彼女を主役にして映画を撮ると言ってしまった。彼女を正気に戻すためだったとはいえ、あまりにも考えなしに言ってしまったかもしれない。そのせいで結果的に彼女を失望させてしまうことになったら、本当に申し訳ない。

 降って湧いたような今回の話がうまく進めばいいが、でもその前に何か彼女を元気づけるようなことはないか。

 その時、私は街でケーキを買ってきていたことを思い出した。

 コノハ助教が見ていたケーキだ。

 本当はコノハ助教が喜ぶかと思って買ってきたのだが、カレハ助教にあげたら少しは元気になるかもしれない。

 でも、

 私の中でモヤモヤした感情が芽生える。

 これはコノハ助教にあげるために買ったものだ。それをカレハ助教にあげるのは如何なものか。いや別にコノハ助教に申し訳ないというわけではない。カレハ助教にあげるものは、最初から彼女にあげるために買ったものにすべきだ。

 でもコノハ助教もカレハ助教も同じ少女に宿っている。同一人物と言ってもいいかもしれない。実際のところ、ケーキを食べたら二人とも美味しいと感じるだろう。

 私はわけが分からなくなった。

 この少女は一人なのか、二人なのか。

 でも、このケーキをカレハ助教にあげるのは絶対に違う気がした。

 ああ、普通に二人いたなら、単にケーキを二人分買えばいいだけなのだ。なんでこんなことで悩まなければならないのだろう?

 しばらく考えて、私は考えることを放棄した。

「カレハ助教」

「はい」

「冷蔵庫に何かお菓子が入っていた。調査メンバーの誰かが持ってきてくれたんだろう。それでも食べて元気を出せ。それに、明日はきっといい話になるよ」

「ほんとですか?」

 カレハ助教の顔がぱっと明るくなった。

 私は冷蔵庫に向けて走っていく彼女の背中を見る。

 コノハ助教へのケーキはまた今度買えばいいだろう。

 というか、全く意味不明だが、今度からは二人分買うことにする。


 翌日は大学で実験開始前のミーティングをした。

 調査メンバーが会議室に集まって、実験の詳細を確認する。

 ただし、カレハ助教は今回のメンバーから外れていた。彼女(とコノハ助教)はフクラスズメを使って別行動をすることになっているからだ。ただし、それを知っているのはコートニーと館長だけ。それ以外の人々には、今回は彼女の都合が合わず、研究補佐員として採用できなかったと伝えてある。些か驚いたことに、ヒューベル博士が少し残念そうにしていた。前の触手襲撃の時に密かに助けられていたことで、彼女に少なからず恩義を感じているようだ。

 実験開始前の打ち合わせといっても、計画自体は既にずっと前にできていたので、今日はその最終確認だった。

 実験の行程は全三日。

 一日目は例の人工滝を使って深淵の仕掛けを作動させる。私が失踪したお陰で自在に仕掛けを動かせるコツを掴んだので、有人のヴァーミスラックスをいきなり投入するのは避けようということになった。まずは無人の探査機をあちらに送り込んで様子を見る。無人機には通信機がついているが、あの地下世界から分厚い岩盤と4000メートルの海水を隔ててここまで情報が送れるかどうかは不明だ。おそらく無理だろう。だが、各種センサーと記録装置を積んだ無人の探査機をあらかじめ送っておくことは有意義なことである。

 二日目にいよいよヴァーミスラックスであの世界に赴く。

 搭乗者は3名、パイロットのフェンネル君と、私、それからカハール博士だ。カハール博士を送り込むことについては、私は当初危険であると異議を唱えたのだが、本人のたっての願いで、そうなった。というか私は凄い目で睨まれた。マスク越しでもそれが分かるレベルであった。

 前の時に天使の脳を持って帰らなかったせいだろう。

 ああ、あとそれから、カハール博士もといクリスは、この機会にフェンネル君と親睦を深めたいと思っているのかもしれぬ。でもその辺について私は専門外だ。

 とにかく、我々は一日かけてヴァーミスラックスであちらを調査する。その際に前日送り込んでおいた探査機と合流し、データを回収する。

 三日目にこちらで深淵の仕掛けを起動、地底世界にいる我々はこちらに帰還する。

 ヴァーミスラックスにはもともと飛行機能はついていないが、今回の調査のため、ヒューベル博士は耐圧装甲を限界まで少なくして重量を軽減した。さらに、強力なブースターを装着している。それを使えば地底世界の天井まで上昇することが可能だ。ただし燃料等の関係で使用は一回きり。でも、フェンネル操縦士なら大丈夫だろう。これまでに何度かテストをして、問題はなかったそうだ。

 そして、もし天使が襲ってきたとしても、ヴァーミスラックスの装甲なら難なく耐えられるし、何と言っても操縦者は先の事変で怪物群をことごとく退けた彼なのだ。主人公補正とでも言うべき彼の能力に天使が敵うとは思えない。

 今回に備えた一連のテストに立ち会ってきたコートニーも安心したような顔をしていたから、きっと大丈夫だ。

 今回の実験は、9年前に調査隊が失踪した日時に会わせている。

 キャンベル教授は生き残りがあちらにいる可能性を棄てていないようだが、私は有り得ないと思っていた。

 数日前のお忍びでの異世界訪問でも体験したが、あの世界の昼と夜を生き抜くのは、人類には無理だ。

 今回の異世界遠征でも何が起きるか分からない。だが我々にはフクラスズメと、頼りになる守人がついている。

 きっと大丈夫だ。

 会議が終わって大学を出ると、夏の日差しが降り注いできた。

 私は手をかざして天を仰ぐ。

 青い空がどこまでも広がっていた。


 その日の夕方、カレハ助教はどんよりした表情で帰ってきた。

「ただいまです」

 彼女は鞄を放り投げるようにホールに置いて、博物館の階段を上がっていく。

「カレハ助教」

 彼女のただならぬ雰囲気に、私は思わず彼女を追いかけて、階段の下から声をかけた。

「どうした」

 カレハ助教は階段の途中で立ち止まる。でも何も言わない。

「どうした?」私はもう一度尋ねた。とても嫌な予感がする。

 彼女は振り返り、「もういいです」と言った。

「よくないよ、どうした?」

「・・・・・って、言われました」

「え?何て?」

「イメージと違うって、言われました」

 カレハ助教の声は彼女にしては珍しく乱れている。

 私はその場に立ちすくんだ。

 カレハ助教は目に涙を溜めていた。

「私じゃなくて、お姉さんと話がしたいそうです」

 そして彼女は私に背を向けて、階段を上がっていった。

 私は一歩も動けない。私が不用意に発した言葉で、彼女を深く傷つけてしまった。いつもの厨二病的雰囲気がかき消えて、普通の少女になった彼女の姿を見て、取り返しのつかないことをしたという焦燥感が胸をさいなむ。

 あんなこと、言わなければよかった。

 しかし、もう遅い。過去は取り返せないのだ。

 私はゆっくり階段を上った。一歩一歩昇るごとに、目の前が暗くなって、世界が歪んでくる。

 私は屋根裏部屋に上がり、廊下を歩いて、彼女の部屋の前まで来た。

 軽くノックをする。

 返事はない。

 もう一度ノックした。

 返事はない。私はしばらくドアの前に立っていた。

 しばらくして私は再びノックをして、

「カレハ助教、入るよ」と言った。返事がない。だが、入るなとも言われなかったので、私はゆっくりドアを開いた。

 カレハ助教は窓際に立って外を見ていた。

「カレハ助教・・・・」

 私は話しかける。だが、後ろ姿は黙ったままだ。

 私は昨日の彼女を思い出す。撮影スタッフに会うことを「そうしてみます」とやや沈んだ面持ちで承諾した彼女。彼女の性格から考えて、見知らぬ人々に会って話をすることは気が進まなかったに違いない。それでも彼女は一人で街に行って、彼らと会って話をした。彼女はがんばったのだ。

 根は真面目な彼女だから、いつものようなオタクめいたことは言わず、真摯に話をしたかもしれない。でもその結果、彼女は必要ないと言われてしまったのだ。

 窓からはいつしか夕陽が射し込んでいた。

 翳り始めた夕陽で逆光になった彼女は、暫くしてようやく、

「コノハさんは」

 ぽつりと零す。

「コノハさんは、すごいですよね。何でもできるし、知らない人ともちゃんと話せるし」

「カレハ助教・・・・」

 彼女はこちらを振り向くことなく答える。

「でも私は、だめでした。何を言えばいいかわからなくて、何か聞かれてもしどろもどろになってしまって・・・・」

「カレハ助教、君は——」

「助教なんて、私はそんな身分じゃありません」

「いやそれは」

「コノハさんなら、なれるでしょうね。大学に行って、学位を取って、いつか御館様の研究室で———」

「いや、今はそんな、話は」

「コノハさんだったら———」

 カレハ助教はそこで言葉を止め、何かを否定するように頭を強く振った。

「・・・・御館様、今はこれ以上カッコ悪くなりたくないので、どうかご退室ください」

 カレハ助教は全てを拒絶しているように見えた。私の方を見るつもりも無いようだ。

 私は言われたとおり退室しようとした。しかし、彼女の小さな肩が少し震えているのに気づく。

 私は立ち止まった。

 今、私は彼女に言うべきことがあるはずだ。言わなければならないことがあるはずだ。私の中で彼女は絶対に「必要ない」ものではない。

「カレハ助教、君に言っておくことがある」

 少女は振り返らない。私は続ける。

「君はコノハ助教とは違う。いやたとえ使っている体は同じでも、別の人だ。君には他の誰にもない素晴らしい資質がある」

 カレハ助教の肩がピクッと動いた気がした。

「かつて、高校生の頃、ひとつの映画を見た」

 私は少女の背中に語りかける。

「それは音速を初めて超えた飛行機のテストパイロットと、米国で初めて宇宙に出る宇宙飛行士を扱った映画だった。その映画には『正しい資質(ライトスタッフ)』というワードが出てくる。そこに登場するテストパイロットも宇宙飛行士候補生も、皆自分がそれを持っていると信じている。だから危険な挑戦ができるんだ。でもそんなもの、あるかどうかなんて誰も分からない。その映画では、音速を超えたパイロットは、宇宙飛行士には選ばれない。大学を出ていないというくだらない理由でだ。でも映画の終盤、若い宇宙飛行士が言うんだ、彼こそが真の『正しい資質』をもっていると。もう二十年近く前の話だ。そんな映画の事なんてぼくはずっと忘れていた、でも君を見て、思い出した。『正しい資質』という言葉を。君こそ、それを持っている。由緒正しく正統なる資質を。それが何なのか具体的なことはさっぱりわかってないんだけど、約束する。君の資質を描き出してみせる。ぼくは作るよ、君を主役にした作品を」

 私は一気にまくし立てた。正直、自分でも何を言っているのかよくわからない。でも今回の言葉はでまかせではなかった。確かに以前、直感があったのだ。私の中にいる科学者でない私から。彼女は何かを持っていると。

 ふと見ると、カレハ助教はびっくりしたような顔で私を見ていた。

「御館様」

 彼女の目から一筋の涙が流れて落ちた。

「御館様、一体何を言っているのですか?」

 不思議そうな顔をした彼女。その水色の瞳から涙がぽろぽろ落ちていく。

「御館様の言っていることがさっぱり分かりません」

 でも、何故か、そういう彼女の顔から悲しみの色が消えていて、心なしか瞳の色までもが少し鮮やかになった気がした。

「ああ」

 私は呟く。

「自分でもよくわかってない、でも嘘じゃない、信じてくれ、カレハ助教」

 私はこれから自分がすべきことを考える。それは困難で、精神的苦痛を伴うものだ。それに時間もない。でも私はやり遂げなければならない。

 彼女のために。

 そんな私の顔を見てどう思ったのか、

 カレハ助教は泣きながら微笑んだ。

「御意、です」


 そして、夏の日は過ぎてゆき、その日がやってきた。

 当日、実験開始は深夜だったが、午後になると徐々にメンバーが集まり始め、日が傾く頃には全員がリール・ド・ラビームにいた。

 内湾に夕陽が落ち、黄昏れた海はいつもより淋しく見える。我々がこれから挑む深淵は暗く不気味な口を開けて我々を待っているように見えた。既に何度かあちらに行ったことがある私も、何だか不穏な空気を感じてしまう。

 気のせいだろう。

 これまでも大事な実験の前はそうだった。気にしていないようで実はかなり緊張しているのだ。

 だが、傍らに灰色の髪の少女がいないことも少し関係しているかもしれない。これまで「海が啼く」現象に遭ったときはいつもコノハ助教かカレハ助教がいた。

 今、コノハ助教は例の地底湖で待機している。

 予定では今日は無人探査機を送り込むだけで我々が実際に行くのは明日だ。従って、コノハ助教がフクラスズメであっちに行くのも明日である。

 でも、その予行演習も兼ねて、彼女は地底湖で待機している。実験開始にタイミングを合わせてフクラスズメを発進させる演習をするのだ。

 その打ち合わせをした今日の昼頃、コノハ助教は私に小さめの旅行鞄を差し出した。

「これは?」 

「念のためだ」

 開いてみると、6インチのキアッパ・ライノと弾薬が入っていた。

「まだ明日の話だが、あっちで私と会う前に何かあったら、それで対処したまえ」

 コノハ助教は少し素っ気ない感じで言った。

「何かって、何があるっていうんだ?」

「わからない、でも少し胸騒ぎがする」

 コノハ助教は、彼女にしては珍しく、少し緊張しているように見えた。

「ぼくたちがあっちに行くと同時に、君も来てくれるんだろう?心配ないよ」

「まあ、そうなんだが」

 コノハ助教はそう言うと、少し落ち着いたように微笑して、言った。

「まあ、がんばってくれ、また会おう」

 私は頷いた。でも、今日はどうせ実験の後で会うのだ。「また会おう」だなんて挨拶は何だかおかしい気がした。

 私の前で彼女は背を向け、温室の方に歩いていった。ドアを開け、熱帯植物が茂るガラス温室の中に入る。

 その時ふと、彼女は振り返り、小さく手を振った。

 私も手を振り返す。でもそれが何故だか別れの挨拶みたいに思えたので、気になった私は彼女を呼び止めようとした。でもその時には既に彼女の姿は巨大なシダの葉陰に隠れて見えなくなっていた。

 ちらりと隙間風のように直感がよぎった。いつも変なときに働く勘だ。でも私はそれを追うことを止める。その直感の正体を今知るのはよくない、そんな気がした。後で思ったのだが、このときの私は変な勘を突き詰めることで実験が中断されることを危惧していたのだろう。研究を第一とする研究者の宿命と言ってしまえばそれまでだ。このときの私は、勘については今日の実験が終わってから考えればいいと思っていた。

 私が自分の直感を無視したのは、これが初めてのことだ。


 深夜

 空には満天の星が煌めいていた。その星明かりが澄み切った内湾に映っている。

 時刻は23時30分。9年前の事件は午前零時に起きた。今回の実験はちょうどその時刻にゲートが開くように計画している。失踪した調査隊が放り込まれた場所のなるべく近くに行くためだ。

 真夜中の実験だ。それだけで非日常で特別な気がする。

 私達は博物館のエントランスホールにいた。入口のドアが開け放たれていて、幾つかの機器はウッドデッキに出されている。ただし、全ての装置は触手が届く距離よりも離れたところに置かれていた。

「人工滝が起動する」

 ヒューベル博士がそう告げると、小島の上の方からモーターが動く音が聞こえ、博物館の背後にそびえる崖の天辺から大量の水が内湾に降ってきた。

「よし、時間通りだ」

 水が滝になって海面に叩き付けられ、轟音がした。

 人工滝はヒューベル博士によって、午後11時半に自動的に放水されるように設定されている。明日も同じ時間に放水されるそうだ。

 それまで静まりかえっていた水面が、一瞬で嵐のような様相に変わった。

 以前に使っていたポンプ車よりも遙かに水量が多い。

 これまで何度かテストの様子を見ていたが、いつ見ても驚かされる。

 滝壺と化した内海では、霧状に散った水がウッドデッキから投射される照明に映えて虹ができていた。

 夜に見える虹は幻想的であった。

 だが、かつて虹は不吉の象徴とされていたことを思い出す。

 暗闇にぼうっと浮かぶ虹は、何やらこの世ならざる雰囲気を漂わせ、見慣れたこの場所が一瞬で不気味な異界に変わったような気がした。

「これで、あと30分程度で目標水位に達します」ヒューベル博士が滝音にかき消されないように大きめの声で言う。

「了解」とフェンネル操縦士。

「探査機を投入する」

 彼が手元の機器を操作すると、ウッドデッキに備え付けられた砲塔のような装置が深淵の方に向きを変えた。

 これは、払い下げの魚雷発射管を改造したものらしい。

 そのまま魚雷を射出するのだが、弾頭には炸薬の代わりに探査機が収納されている。魚雷なのでスクリューがついていて、自動で深淵の底まで進む仕掛けになっているそうだ。

「探査機、射出」

 フェンネル操縦士が機器のレバーを操作。まさにかつて見た潜水艦物の映画のように、レバーを押し込むと同時にぷしゅっ、と圧搾空気の音がして、発射管から魚雷が射出された。

 それは水中に打ち込まれると、そのまま白い航跡を残して海中を進んでいく。そして深淵の手前で仰角を変えて、深みに潜っていった。深淵の底に雷跡が消えていく。

「魚雷本体ならびに探査機カプセル、正常に作動中。水深80メートルで待機、前方に光が見えたら再起動して突入する」

 フェンネル操縦士が状況を報告した。

「了解」ヒューベル博士が頷く。

 このへんの二人の呼吸はさすがだった。

「水位、上昇しています」

 背後からコートニーの声がした。彼女は緊張した面持ちで水位計を睨んでいる。前はカレハ助教が一緒だったが、今回は彼女一人だ。小さな彼女が一所懸命に計器を覗いていて何だか健気な感じがした。

 その傍らではシィナ・ライト館長が緊張した顔で水の降り注ぐ深淵を見ている。

「さて、どうかな」

 コートニーの傍らにいるキャンベル教授は人工滝を見上げていた。

「9年前の同じ場所、同じ時刻、ここは嵐だった」

 教授は独り言みたいに言う。

 私はその時のことを想像してみた。

 嵐の中、臨時の建屋の前で、10名近い人々が作業をしている。照明装置の前を矢のように雨筋がよぎり、海面に突き刺さっていく。風雨に乱れている内海には潜水艇が浮かんで、波に揺さぶられながら潜水の準備が進んでいる。

 やがて、その深淵から不可視の触手の群が現れることなど、彼らは何も知らない。

 凄まじい雨が内湾に叩き付けている。

 その情景が、今の内湾の光景と重なった。

「今のところ、順調みたいだな」

 カハール博士が他人事みたいに言った。

「水位、目標値まで30%」

 コートニーが告げる。すっかりオペレーターを任せられるようになった彼女だが、テストの際に彼女にそのことを言うと、「先生のせいだよ」と睨まれた。

 私が失踪した時、二日連続で深淵への注水作業を行ったことで、手際がよくなったのだという。

「だから好きで上手くなったわけじゃないよ」

 彼女は不機嫌そうに言った。私は「ごめん」と言うしかなかった。

「水位、目標値まで40%」彼女の声が私の感慨を止めた。

 ふと、先ほどコノハ助教と別れるときによぎった直感が、また頭をよぎる。

 このときも、私は頭を振ってそれを追い払った。

 どうしてこんなときに変な勘が働くのか?

 これから我々は未知の世界に赴くのではないのか?

 そのために準備もした。

 既に自身で偵察もしている。何を心配することがあるのか。

 しかし、何かが引っかかっていた。

 今までの実験とは違う何かが、ある。でもその正体が掴めない。

 それに、実際に赴くのは明日だ。今日は探査機を送り込むだけ。何も問題はない。

 目標時刻になってあの触手群が現れたら、安全圏で観測機器を操作し、探査機をあそこに送る。そして今日の実験は終わりだ。皆でデータをまとめ、カフェで夜食をとるかもしれない。皆はここに宿泊するだろう。その頃にはコノハ助教も地底湖から上がってきて————。

「水位、目標値まで60%」

 コートニーの報告が続く。

 それがまるで不吉な何かに向けたカウントダウンみたいな気がした。知らず知らずのうちに、私は拳を握り締めていた。

「どうした、落ち着きがないな」

 カハール博士が横に来ていた。

「ああ、いや、何でもない、何でもないです」

 私は思わずクリスに話しかけるように言ってしまい、慌てて訂正する。

「大丈夫ですよ」

 耳元でクリスの声がした。

「いよいよ明日です。私と師匠と、あいつ、師弟三人組であっちに行くんですよ」

「あ、ああ」

 私は彼女の声にほっとする。そうだ、我々で行くのだ。あの場所へ。あの、未知の生物が溢れる世界へ。今度は最新型の探査機がある。天才的な生物学者もいる。私とコノハ助教が行った時とは比べものにならない成果が得られるだろう。

 私は胸に手を当てて大きく呼吸をした。

「水位、目標値まで80%」

 水音が響いている。

 夜の虹が目の前で妖しく輝いていた。

 ふと、私は何かが気になって館長の方を見た。

 館長はフェンネル操縦士を見ている。その鳶色の瞳が不安そうに揺れていた。

 これでいいのか?

 ふっと、黒い霧のように考えがよぎった。

 あの人物、アーベル氏が護りたかった人物は彼女だ。

 その彼女が、今ここにいる。

 私はそのとき、底知れぬ不安に襲われた。

 彼女は、ここにいていいのか?

「水位、目標値まで90%」

 コートニーの声。そう、彼女もそうだ、ここにいていいのか?来たばかりの頃、緊張しながらも話しかけてくれた少女。私にとってこの島での最初の友人になってくれたこの少女。彼女は今ここにいていいのだろうか?

 だめだ、いけない

 ここにいてはいけない。

 私の直感が鋭く胸に突き刺さる。

 精神が警鐘を鳴らしていた。

 彼女たちだけでも、ここから逃がさなければ。

 わけの分からないことを考えている自分に戦きつつ、私は叫ぼうとした。

 館長、コートニー、今すぐここから逃げろと。

 そのとき、

「水位、目標値まで100%、現象が起きます」

 コートニーの声が最後通牒のように響いた。そして私は既に何もかもが手遅れだと気づく。

 深淵がぼうっと光った。でも前見たときより,何だかざわついている気がした。

「探査機、再起動、投入!」

 フェンネル操縦士の声がした。

 私は深淵から触手の群が現れることを予想し、身構える。あの触手はここまでは届かない。大丈夫、問題ない。

 だが、

 触手の群は現れなかった。

 それに、女性の悲鳴のような声も聞こえない。

 人工滝が打ち付ける水音だけが響いている。

 いつも聞こえてきたあの絶叫のような声は恐ろしかったが、それが聞こえないことが、今はもっと恐ろしかった。

「おかしい、いつもと違う」

 私は呟く。そのとき、私の周囲で世界が暗闇に変わった。

 誰かの悲鳴が聞こえた。コートニーか、館長か、もしかしたらクリスだったかもしれない。

 コノハ助教と別れたとき、脳裏をよぎった直感の正体はこれか、と思った。

 そうだ、私はあのとき、降ってきてくれた勘を無視するべきではなかった。そう、彼女と離れてはいけなかったのだ。

 コノハ助教の姿を思い出す。まるで別れの挨拶みたいに手を振った彼女。

 また会おう

 コノハ助教の最後の言葉が脳裏で反響する。

 彼女も、薄々気づいていたのかもしれない。だから無意識に別れの挨拶をした。

 また会おう

 それはこれ以上ないくらいの、別れの言葉だ。

 別れ、別れだって?

 いきなりすぎる、今まで当たり前に傍にいたのに、こんな突然に?

 こんなにあっさりと

 あのアルザス衣装の少女に、もう逢えないのか———。

 唐突に、彼女が私を呼んだような気がした。

 暗闇の中、私は目測で博物館の奥へ、彼女がいる方向に駆けだした。しかしすぐに重力が失われたような浮遊感を感じて、大きくよろめく。

 そして私の意識が途切れた。


 何とも言えない妙な感覚がした。

 私は目を開く。

 周囲がぼんやりと明るい。

 さっき我々を包んだ漆黒の闇はない。

 僅かな明かりがある。赤い照明だ。

 そのほかに、周囲でいくつか明かりが瞬いていた。

 記録用機器の液晶とスイッチ類のランプだ。

 さっきまでリール・ド・ラビームで使っていた装置である。

 薄暗がりの中、周囲を見ると、そこは博物館のエントランスホールだった。

 さっきまで実験を行っていた場所だ。

 私は赤い明かりが、非常用の電灯だと気づく。

 電源が落ちて、切り替わったのだ。

 薄明かりに照らされたホール内には、機器が並び、その中に何人かの人がいる。

 私の横には白衣を着た人物がいた。

 カハール博士か。

 更に見回すと、暗がりにフェンネル操縦士とヒューベル博士がいた。さっきまで一緒に実験をしていた人々がちゃんといる。

 私はとりあえず安堵する。

 よかった。

 ここはリール・ド・ラビームだ。ということは、異常なことは起きなかったのか。前みたいにあの世界に転送されたようには見えない。一瞬、黒い闇に覆われた気がしたが、ただそれだけだったようだ。送電設備の故障だったのかもしれない。

「み、皆さん」

 私は口を開いた。極度に緊張したせいか、言葉がうわずっている。

「みなさん、大丈夫ですか?怪我は?」

 私の横で、カハール博士が頭を振った。

「ああ、大丈夫だ」

 私は振り返る。そこには観測機器があって、コートニーと館長がいたはずだ。

 二人は無事なのか?

「館長、コートニーさん、大丈夫ですか?」

 二人はそこにいた。館長は頷いて、「大丈夫です」と言った。コートニーも怯えたような顔をしていたが、私にむけて頷いた。

 よかった。彼女達にもしもの事があれば最悪だったが、その心配は無いようだ。

「予備の電源を入れます」

 館長はそう言って壁の方に歩いて行き、スイッチを押した。

 すると、館内に灯りが点る。これは博物館に設置されている太陽光発電のものだ。

 明るい光に照らされた館内は、さっきと全く同じだった。私は安堵する。ということは、やはり停電か?

「本島からの電源供給は?」

 私は尋ねた。ここにはアルケロン市から送電ケーブルが繋がっている。通常はその電気を使っていた。

「あ、ダメですね、切れてます」

 館長が答えた。

 どうやら、何かの事故で送電ケーブルが損傷したようだ。でも、それだけなら大したことはない。

「機器の方はとりあえず、大丈夫みたいですね」とフェンネル操縦士。

「ああ、何か大事が起きたような気がしたが」ヒューベル博士が気を取り直したように答える。

「気のせいだったのかな」

「いや、待て」

 その時、鋭い声がした。キャンベル教授だった。

「聞こえない」

「え、何がですか?」私は尋ねる。

「滝の音が、聞こえない」

 教授は博物館の外を見ている。照明装置は点灯しているが、その光は漆黒の闇に消えていた。

 外は真っ暗だった。

「おかしいな、さっきはこんなに暗くは・・・・」

 ヒューベル博士が訝しそうにしながら、外に出た。彼がウッドデッキを歩く音がする。

 暫くして、ヒューベル博士が私を呼んだ。

 私は博物館のドアを出て、ヒューベル博士のところに向かう。ヒューベル博士は私に話しかけた。

「博士、私は夢でもみてるんでしょうか?」

 私は困惑したような彼の声を訝しく思い、彼が見ている先を見た。

 暗闇だが、何かがおかしい。そこに当然あるべきものが無い気がした。それがあまりにも普通になくなっていたので、暫くそのことに気づかなかった。

 ヒューベル博士が口を開く。その声が震えていた。

「海が、ない」

 私はそれで気づいた。

 ウッドデッキの先に、当然あるべきはずの海面がない。

 私は振り返った。博物館の建物が見える。ここはリール・ド・ラビームなので、その背後には崖があるはずだ。でもそこには博物館の建物だけがあった。その背後は闇に包まれている。

 どういうことだ?

 博物館は確かにここに在る。でもその周りの海も崖もないなんて——。

 では空は?私は天を仰いだ。

 星々が瞬いている。

 夜空だ。

 ということは、ここはやはりリール・ド・ラビームなのか。

 しかしそこで、私は恐ろしいことに気づいた。

 天に無数の星が瞬いている。でもそれは、数日前にカレハ助教と見た光景に似ていた。

 ということは、

 あれは、星じゃない。

 私は気づいた。

 ここは、リール・ド・ラビームではない。

 あの上で蠢く明かりは、巨大なイモムシのものだ。

 夥しい数の光る虫が這いまわっているのだ、岩の天井を。

 我々は、つまり調査メンバーの全員は、博物館ごとあの世界に転送されたのだ。


 12―転移

 私の心臓がきゅっと収縮したような気がした。

 とんでもないことが起きた。

 よくわからないが、これまでに経験したことのない怪事象が起き、博物館ごと異空間に運ばれた。

 調査メンバーがまるごと地底世界に移されたのだ。

 博物館の建物がある。ではそれ以外はどうなっているのか?どの規模で転移事象が生じたのか?

 私はウッドデッキの周囲を見た。照明の明かりでは、ウッドデッキの大部分がそこにある。ヴァーミスラックスの機影も見えた。

 デッキから視線を走らせて博物館の横を辿ると、隣接しているカフェの建物があった。だが、その端から先が見えない。

 展示室に繋がる手前ぐらいで、カフェの建物の壁が唐突に終わっている気がした。まるでそこで壁ごと切断されたように見える。

 私は博物館の中に駆け込んで、奥の方に行った。そこには上に向かう階段がある。さらにその奥に向かう廊下を進んでみた。突き当たりにドアがある。図書室に通じるドアだ。ここもちゃんとある。このドアの向こうでは、いつもコノハ助教が本を読んでいた。私は何となくその姿が見られるような気がして、ドアを開いた。

 そこに図書室はなく、暗闇が口を開けていた。外気が入り込んでくる。

 博物館はここまでしかなかった。

 コノハ助教の幻が暗闇に消える。

 どういうことだ?

 つまり、博物館のうち、受付や研究室がある三階建ての建物と、カフェの部分だけが切り取られているのか?

 博物館の展示室やガラス温室はここにはない。あちらに残っているのか?もしそうなら、地上ではちょうどスプーンですくい取ったように、博物館の建物とカフェ部分だけが削られて消えているということなのか?

「先生」

 気がつくと、コートニーが傍にいた。

「何が起きたの?」

 少女の青い瞳には怯えの色があった。

 私は現状について知らせることを躊躇する。

「もしかして、ここはあの異世界なの?」

 少女が訪ねた。私は彼女をこれ以上怯えさせないように気を使いながら、

「おそらくそうだ」と答えた。

「どうしてそう思うの?」

「空が」私はゆっくりと答える。

「星みたいなのがあって空みたいに見えるけど、あれは、発光生物だ。天井に生息している生物の明かりなんだ」

「それじゃあ、やっぱり・・・・」

 私は頷いた。「ここは岩の天井に覆われた、地底世界だ」

「そうなのか?」

 我々の話を聞いていたらしいキャンベル教授が、こちらに来ながら言った。

「でも、そうだとしたらおかしいだろう?ここがあの世界ならノーチラス島の光源があるはずだ。明るいはずだ。でもここは・・・・」

 私の心に、最悪の可能性がよぎる。言うべきかどうか迷ったが、言わないと危険かもしれないと思い、私は口を開いた。

「ここがノーチラス島の真下なら、明るいでしょう。我々が知る出入り口を使って来たのなら、当然そのはずです。でも暗い、ということは・・・・」

 私はコートニーをちらっと見た。この可能性を彼女に聞かせていいものかどうか迷う。

「先生、私は大丈夫だから、言って」

 彼女は健気にもそう言った。

 私は頷く。

「ということは、ここはノーチラス島の現在地からかなり外れていることになる。島が通り過ぎた後の場所か、島が来る前の場所か、それとも」

 そこで私は最悪の可能性を告げた。

「それとも、島の航路から外れた、地底空間の内側にある未知の場所か」

 私が畏れていた場所だ。

 島が巡る場所には緑の帯がある。そしてそこの内側には、南極大陸にも匹敵するサイズの広大な世界があるのだ。もしここがそうだとしたら、我々はノーチラス島から遠く離れた場所にいることになる。どれくらい遠いのか、わからない。数キロメートルということはあるまい。その程度なら明るいはずだ。数十キロか、数百、あるいはそれよりも遠いところに飛ばされているかもしれない。

 そして、そうだとしたら此処は全く未知の場所なのだ。何があるか分からないし、何がいるかも分からない。

 最も恐るべきは、この場所には何者かが潜んでいるかもしれないことだ。ノーチラス島とこの世界を作った未知の存在が。

 本来ならじっくり時間をかけて調べ、周到な用意をして来なければならなかった場所に、我々はいきなり放り込まれたのだ。

 私の意見を聞いたキャンベル教授は表情を硬くした。

「今のところ君の考えを裏付ける証拠はない、でももしそうだとしたら」

 キャンベル教授は博物館の入口の方を向いた。

「油断はできない。情報を集めて、対策を練るのだ」

 教授は皆がいるところに戻っていく。今できることをするつもりなのだろう。

 私はその後ろ姿を見ながら、自分にもできることはないかと考えた。

 地上はどうなっているだろう。

 もし、私の考え通り、博物館の一部のみがこちらに来たとしたら、展示室や温室はまだあっちにある。そして地底湖も。そしてそこにはフクラスズメと、コノハ助教がいる。

 もしそうなら、彼女はこっちに来るだろう。

 でももし、地上でもっと大きな異変が起きていたら?たとえばあの小島全体が破壊されるようなことが起きていたら・・・・・。

 私はそれ以上考えるのを止めた。

 悪い可能性はいくらでもある。それをいちいち挙げていたら切りがない。

 彼女は無事だ、そう信じるしかないのだ。

 だがもし、彼女が無事だとして———。

 止せばいいのに、私の中でまた不穏な考えが浮かぶ。

 彼女はこちらに来てくれるだろう。そして我々を探してくれるはずだ。だが、彼女が探すべき空間はあまりにも広い。

 地底空間は南極大陸くらいの広さがあるのだ。広大な大陸の何処かにある一軒の家を、人工衛星も使わずに探し出すことができるか?しかもそこは全く未知の場所なのだ。

 不可能だ。

 コノハ助教の感覚がどれほど鋭いとしても、絶対に無理だ。

 私は奈落の底に落ちるような不安感を感じた。

 彼女の助けは期待できない。

 此処に残された我々だけで、何とかするしかないのだ。

「先生・・・・」

 不安そうなコートニーの声がした。

「あ、ああ、大丈夫、心配ないよ」

 私はコートニーにそう告げた。

 だが少女は訝しそうな顔をしている。

「どうした?」

「先生が、クレイと同じことを言うから」

「フェンネル君が、何て?」

「大丈夫だから、と言うけど、いつも大丈夫じゃない」

「そうか、そいつはダメだな」

 私は不安そうな彼女を見る。

「わかった、じゃあ彼の真似はしない。正直に言う、あまり大丈夫じゃない」

「・・・・・わかった」

 少女は気丈な顔でそう言った。まだ中等部に上がりたての少女が見せた勇気ある態度を受けて、私は悲観的な考えを改める。そうだ、ここで絶望してもどうしようもない。何とかするのだ。

「コートニー」

 私は少女に語りかけた。思えば、彼女の下の名前を「さん」を付けずに呼ぶのはこれが二回目だ。

「なに?先生」

「我々は研究者だ。研究者は考えるのが仕事だ。これまでそれで給料をもらってきたんだ、何とかするさ」

 そう言うと、少女の顔に少しだが明るさが戻った気がした。

 そうだ、我々は研究者ではないか。

 その知恵を結集させるのだ。

 私は暗闇に開いたドアを閉じて、皆がいるエントランスホールに歩いていった。


 それから暫くして、我々は節電のために照明を落としたカフェで顔を突き合わせていた。

 館長がどこからか持ってきてくれた旧式のオイルランプの明かりがカフェを照らしている。カフェは古風な作りなので、まるで19世紀に戻ったように見えた。

「状況を整理しましょう」

 私はそう言って、現状を確認する。

「とりあえず、我々は地底空間にいます。だが何処にいるのかは不明です。周囲は暗くてどうなっているのかはわからない。この闇が今後も続くのかどうかも不明です」

 私が周囲を見回すと、皆が小さく頷いている。ここまでは異存は無いようだ。

「我々がいるのは博物館の建物で、私が借りている研究室や居室がある3階建ての建物がそっくりそのまま転送されています。ただし建物は隣接するカフェまで。博物館の展示室や温室はありません。建物内の設備は、本島から供給されていた電気は遮断されていますが、建物自体に装備されていた発電施設は使用可能です。館長、電気はあとどれくらい保ちますか?」

 シィナ・ライト館長が手元のメモを見ながら答える。

「太陽光発電で蓄えた電力がありますが、このまま暗い状況が続けば、あと二、三日で蓄えは無くなります」

 あまりいい状況とは言えない。

「わかりました。では水と食料は?」

「水は貯水槽に残っています。食料はカフェの棚に幾らか蓄えがあります。でもこの人数だと水も食料も一週間保つか保たないかくらいだと思います」

 これもあまりいい状況ではない。

「わかりました。では続けます。我々の手持ちの物品として、あとは今回の実験用に用意した機器があります。観測用機器は一揃い残っていて、周囲の状況を探ることは可能です。あと、探査機のヴァーミスラックスがありますね。これについて、ヒューベル博士から何かありますか?」

 博士はしばし考えてから答えた。

「さっき確認しましたが、機体は運用可能です。予備の燃料もありますから、そうですね、慎重に使えば10日程度は稼働できるでしょう。太陽エネルギーが使えれば稼働時間はさらに延びます」

「ヴァーミスラックスで周囲の探査を行う事は可能ということですね」

「そうです」

「もし外部から襲撃された場合、戦闘は可能ですか?」

 私の問いに周囲から息を呑む気配がした。

「博士、その可能性は高いのですか?」ヒューベル博士が逆に問いかけてくる。

「・・・・私の経験では、この地底空間にはかなり攻撃的な種がいます。しかも空中から襲ってくる。今みたいな暗い状況だと危険度は不明ですが、暗所に適応した肉食の種がいる可能性があります」

「・・・・そうですか。残念ながらヴァーミスラックスに武装はついていません」

「フェルドランスがあったら・・・・」

 フェンネル操縦士が呟くように言った。だが無いものは仕方がない。

 その操縦士が手を挙げて言った。

「あ、ぼくからもいいですか?この調査が始まったとき、無人の探査機をこの世界に送り込みました。モニター画面に白い世界が見えて、そこに向けて探査機が突入するのを確認したので、こっちに来ているはずです」

 そうか、探査機投入は上手くいったわけだ。

「ということは」

 操縦士の言葉を受けて、ヒューベル博士が言う。

「探査機はノーチラス島の真下に出たはずだ。もしその探査機と交信ができたら、ノーチラス島の位置が分かる。つまりこちらの位置もわかる。さらに、探査機がいるところに行ければ帰還の可能性が出てくる」

 その言葉で、メンバーの緊張が少し解けたような気がした。

「でもちょっと待て、島の下に行けたとして、帰れるのか?」

 キャンベル教授が尋ねた。そう、それは私も懸念していた。我々が知っている通路は、一定量の真水を深淵に注がないと開通しないのだ。

 ヒューベル博士は落ち着いた口調で答える。

「あの人工滝は一定時間水を供給したら自動的に切れて水を補充し、さらに23時30分に起動する設定にしています。不慮の事態が生じて、操作担当の私がかっ攫われても対処できるようにね。崖の上の装置は完全自律制御です。博物館の機器とは繋がっていませんから、崖の上の装置はまだ稼働していると思います。ということは、毎日夜になると水が自動的に供給される、つまり、あの現象は毎日起きるでしょう」

「そうなのか?」

 キャンベル教授が確認するように聞くと、ヒューベル博士は頷いた。

「でもまあ、こんなことになるとは全く想像していませんでしたが・・・・」

「いや、すごいよ。ペンクロフト・ヒューベル君、君は大した人物だな。それなら、島のところに行くことができれば、我々は戻れる」

 教授はほっとしたように言った。私も安堵する。

「その無人探査機が頼みの綱ですね。交信の見込みは?」

 私が尋ねると、ヒューベル博士が答えた。

「数百キロ圏内なら、可能です」

「わかりました。受信はヴァーミスラックスでも可能ですか?」

「可能です」

「では、早速試してみてください。もし受信できなかった場合には、無人探査機からの電波を拾うために、ヴァーミスラックスでなるべく広範囲を探査する必要がありますね」

「ここを中心に円を描くように動いて、受信用のビーコンをばらまいていけばいいと思います」

「わかりました」

「————先生、ちょっと」

 その時、コートニーの声が割って入った。予想していなかった彼女の声に皆がびっくりして少女を見る。

「何か聞こえる」

 彼女はカフェの窓から外を伺っていた。

 私は皆に静かにするように言い、自分も耳を澄ます。

 沈黙。壁に掛けられた時計の音が聞こえた。

 そして、遠くから何かが聞こえてきた。

「何の音だ?」私は呟く。

 段々大きくなってくるその音は、何かが唸っているように聞こえた。だが、生物が発するような鳴き声ではない。もっと規則的な————。

 そう、それはまるで、

「まるで電車の音だ」誰かがそう言った。

 だが、こんなところで電車の音が聞こえるはずはない。

 私は困惑し、同時に恐怖した。なぜならそれはまさに電車の音だったからだ。

「見て」

 コートニーが窓の外を指さした。その先に、私は見た。

 何かが近づいてくる。

 それは遠くから、こちらに近づいてきた。

 何やら長い物体の先端が、一つ目のように光っている。

 それ自身が深海生物のように光を発しているのだ。でもそれは生物発光のような有機的なものではなかった。

 そうこうしている間にそれは近づいてきた。我々の前を横切るような進路で進んでくる。まるで長くて巨大なミミズのように見えた。でもそれは箱のように四角くて、ずらっと並んだ四角い窓のような所から光を発している。

 規則的な音が大きくなってきた。

 そしてそれは、我々の目の前を横切っていく。距離はここから100メートルほど離れていたが、それが何なのか、我々にははっきりと分かった。

 ごく平凡な、何処にでもあるものが我々の前を通過していく。

 ガタン、ガタン、という規則的な音と共に、四角い光が規則的に前を過ぎていった。

 どこにでもある、当たり前のもの。

 しかしそれがここに在ることが、とてつもなく恐ろしい。

 私は信じたくなかった。それをそれと認めることを、私の脳が全力で拒否していた。

「こんなことが」

 館長が怯えたような声で言った。

「こんな怖いことが、本当にあるんですか」

 私の目の前を通り過ぎたもの。未知の惑星の海面下4000メートルの更に先、分厚い岩盤の下に広がる未知の地下世界で、私の前を通り過ぎていったのは、地球ならどこででも見られる、ごく平凡な————。

 電車であった。


 それから暫く後、私達は今まで以上に息を潜めて話をしていた。

「あれ、どう見ても・・・・」

 ヒューベル博士が怯えたように言う。

「電車だった。レールの上を走っている音がした」

 私は無言で頷いた。

 そして何ヶ月か前に、博物館でコノハ助教が山手線の駅名を言っていたことを思い出す。あの時はただただ可笑しいだけだったが、今になるととても恐ろしい。

「どういうことでしょうか?」ライト館長が不安そうに尋ねた。

 でも、誰も答えない。

 さっぱり分からないのと、可能性を考えたとき、とても恐ろしい可能性しか浮かばないからだ。

 誰も答えないから、私が答えるしかない。一応私は責任者なのだ。

「皆さんがあれを見た。つまり幻覚とか自然現象という線は皆無なので、可能性は二つです。ひとつ、我々と同じ人間が、ここにいて、あれを運用している。ふたつ、我々とは違う存在が、あれを運用している」

「一つ目の可能性について考えられることは」キャンベル教授が答えた。

「9年前の失踪も含め、この世界には何らかの原因で人類が到達している可能性がある。彼らが此処で自活し、その文明レベルが地球と同じく電気の運用まで至っているということだ」

「それが妥当でしょうね、でも、そんなこと有り得ますか?」

 私はそう問い返した。

 キャンベル教授は「正直、難しいと思う」と言った。

「ぼくもおかしいと思います」フェンネル操縦士が言った。

「もし人間が動かしているなら、電車だけ走るというのは変です。それを利用する人達が出す明かりが見えてもいいんじゃないですか?でもここからだと何も見えませんよ」

 誰もいない世界を、電車だけが走っている。その光景に私は戦慄した。

「ちょっと、見に行ってみますか?」

 フェンネル操縦士が言った。

「見に行くって、何を」相棒のヒューベル博士が問う。

「さっき電車が走っていたところさ。もし本当に電車ならレールがあるだろう、それを確認しに行く」

「おまえ、正気か」

「危ないよ」コートニーが声を挟んだ。

「そうですよ」館長も言った。

 さすが、主人公殿は慕われている。

「でも、そうですね」私は答える。

「確かに、ちょっと見ておいた方がいいかもしれない。私が行ってみます」

「先生、それは——」コートニーが否定するように口を挟んだ。

「いや。この中で、ここに来たことがあるのは私だけだ。私はこの世界の危険のことを少しだが知っている。私が行くべきでしょう」

「でも」館長も首を振った。

「危険です」

「いや、でも誰かが行かなければ」

 そして、適任者はどう考えても私なのだ。責任者だし。

 そう言うと、皆が黙り込んだ。

 コートニーも館長も、もう止めるつもりはないようだ。やはり私は主人公ほどには慕われていないな。当然か。

 いや、ちょっと意地悪な考えだな、それは。

 やはり緊張しているのか、思考がネガティブになる。

 あの二人は私のことだって心配してくれているだろうに。

「では、私も同行しよう」これまで黙っていた人物が発言したので、皆が驚いたようにそちらを向く。

 カハール博士が腕組みしたまま続けた。

「私もこの世界のことは画像で何度も確認した。ししょ、博士から話も聞いている。先の事変でも怪物を詳しく調べたのは私だ。未知の怪物が出てきても対処できる自信はある。まあ、此処の生物の事が知りたくてうずうずしているというのが本音だがね、でも大丈夫、無理はしないつもりだ。危険を感じたらすぐ引き返す。怪物から逃げるのは得意なのだよ、これでも。前の事変では真ん前にマンディブラスが出現したが、それからも逃げおおせたのだ」

 珍しく多弁な博士に皆が少し驚いたようだが、博士の口調は有無を言わせぬものだった。

 そういうわけで、私とカハール博士が「線路」の調査に赴くことになった。


「何だかよくわからんことになりましたねえ、師匠」

 懐中電灯が照らす丸い明かりを手がかりに歩きながら、クリスが言う。

「こんなところで師匠と一緒に探検とは」

「まったくだ」

 私は周囲に気を配りながら応える。肩からかけた小さめの鞄に、何かあった際に使えそうなものを入れてきたが、甚だ心許ない。

「でも君が来るとは意外だった」

「そうですか?」

「アウトドアはあまり好きじゃないんだろう?」

「これはアウトドアなんでしょうか?」

「いや、わからないけど」

「・・・・私は師匠とフェンネル君とでこの世界に来たかったんですよ」

 既にマスクを外しているクリスは拗ねたような顔をした。

「確かに当初はその予定だった。ぼくもそれを望んでいたよ。でも来たかったのはこんな所じゃない。もっと明るい、普通の場所だ」

「私は何処でもよかったですよ。三人で来られればね」

 クリスは歩き方も女性的になっている。実に器用な人物だ。でもそのせいで、こんな所を若い女性と二人で歩いていることに思い当たる。

 そういえば、人間の女性とこんな風に夜歩きするのは久しぶりだ。

 いや、そもそも過去にそんなことがあったか?

 なかったかもしれない。

 そう考えたら柄にもなく恥ずかしくなったので、私ははぐらかすように話しかけた。

「じゃあ、やはりフェンネル君にも来てもらえばよかったかな」

「・・・・まあ、今回に限って言えば、彼はあっちに残った方がいいでしょう」

「どうして?」

「彼がこっちに来ると、ほら、あの館長やちびっ子がね、面倒くさくなりそうで」

 クリスは投げやりな感じで言った。「面倒くさい」という言い方が彼女らしい。

「まあ、今は師匠と二人でもいいですよ」

 嬉しいことを言ってくれる。私は何か皮肉めいたことを言おうとしたが、何も出てこなかったので、

「ありがとう」と言った。

 私の何のひねりもない返答に些か面食らったのか、彼女はぷいっと顔を背けた。

「どういたしまして、まあ、いざとなったら師匠にやってほしいこともありますし」

 私は暗闇の先を照らす。

 博物館からさっき電車が見えた場所までは、緩やかな下り坂になっていた。周囲は低い木が生えていて、周りの様子はあまり見えない。

 ん?灌木?木が生えているのか?

「クリス、見ろ、木が生えているぞ。種類はよくわからないが」

 私がそう言うと、クリスは懐中電灯で周囲の植物を観察した。

「私も植物には疎いですが。何せ脳が無いですからね。でも、落葉樹だと思いますよ。ということは、あれですね」

 さすがクリス、こちらが言いたいことを一瞬で見抜く。

「そうだ、あれだよ」

「バカみたいですが、せーので言いましょうか?せーの!」

「「光合成だ(ですね)」」

「その通り、光合成する植物が生えているということはつまり、此処は光が差す可能性がある」

「今は夜で、そのうち日が昇ると」

「日が昇る可能性は低いが、何らかの仕組みで明るくなるはずだ」

「だとしたら、私達が生き残る可能性が上がりますね、いいじゃないですか、たくさん脳が採れますよ」

 そんな果物でも取るような調子で言わないでほしい。

「こちらの脳を取られないように気をつけないと。今のところ上に何か巨大なものがいる気配は無いが」

「いたらすぐ教えてください、捕まえますので」

「どうやって?」

「師匠が襲われている隙に、倒します。そして脳を出します」

「それはひどいな」

 そして、彼女なら本当にやりそうなのが怖い。やはり、天使の脳を持って帰らなかったことを怒っているのだろうか?

「まあ冗談ですが」

 そう言った彼女の顔は、冗談を言っているようには見えなかった。

 そういえば、さっき「師匠にやってもらいたいことがある」と言ってたのはこれのことか。いざという時は私を囮にするつもりなのだ。何て奴だ。

「・・・・そろそろだ」

 私は注意深く前方を照らした。

 茂みの向こうに何かが見えた。

 あれは————。

 私とクリスは灌木をかき分けて、そこに立つ。

 私達の目の前、懐中電灯に照らされた丸い視界に、それはあった。

 鉄でできた物体が二本、平行に並んでいる。それがずっと先まで続いていた。

「レールだな」私が言う。

「どう見てもそうですね」クリスが確認した。

「枕木もちゃんとありますよ」

 砂利を敷いた上に、木製の枕木が並び、その上にレールが施設されていた。ごく当たり前の、線路だ。

 懐中電灯で照らすと線路の上部がライトの光を反射して光った。

「錆びてない。現役だ、上を何かが通っているんだ」

 さっきの電車は、やはりこの上を通っていたということか。

「ここが地球なら、驚くことは何もないんですがねえ」

 クリスが感情のこもらない声で言った。さすがの彼女も不気味さを感じているようだ。

 私はこの時点で、恐れ戦いていた。

 こんな恐ろしいことがあるだろうか。あるはずのない人工物が目の前にある。それがこんなにも怖いことだったとは。

 何か未知の恐ろしい存在に見られている気がする。

 私は逃げ出したくなった。クリスがいなければ悲鳴を上げて逃走していただろう。

「この線路、どこに続いているんでしょうか?」

 なんと、彼女は更に調べるつもりだ。さすがはクリスである。

「辿ってみましょうか?」

「君、すごいね」

「なに言ってるんですか、師匠だって、島に来た頃は一人でいろんな場所に・・・・、あ、あの時は正気を失っていたんでしたっけ?今は大丈夫ですか?」

「大丈夫だよ、お陰様でね」

 私はそう言いながら、懐中電灯の明かりを線路の先に向けた。

 二本のレールが暗闇に消えている。

「わかった、ちょっと辿ってみよう」

 私達は、20世紀の終わり頃に流行った映画のように、二人で線路の上を歩き出した。


 10分ほど歩いたが、景色に変化はない。線路は暗闇の中を真っ直ぐ伸びている。頭上には巨大イモムシが作る青い明かりがあった。

 電車が来る気配もない。

 先ほどの電車がまるで悪い夢のような気がした。

「集団幻覚、と言う可能性はないかな?」

「ないでしょうね」

 クリスが素っ気なく返す。

「師匠はあれを信じたくないようですが、電車が走ったのは事実です。録画してますから後で見てください」

「君、あの状況でよくそんなことができたな」

「去年の事変で鍛えられましたからね」

 私は改めて、彼女が歩んできた人生を思った。少女の頃から変人扱いされて、親には精神異常を疑われ、死亡したことにされて施設に入れられた彼女。その彼女が一流の研究者になって、地球を離れてこんなところに来て、その上更に未知の怪物の襲撃を体験した。

「この線路を見てると、思い出しますねえ」

 少し感慨深げにクリスが言った。

「思い出すって、何を?」

「フェンネル君と一緒だった頃のことですよ。通学路の近くに線路があって、二人でそこを歩いて帰っていました。それから私は例の件でそこを離れたけど、何年か後でようやく施設を出ることができて、あの町に戻ったんです。彼に会えるかと思って。でも彼はもういなかった。私は一人で線路脇の道を歩きました。こんな風に」

 彼女もいろんな何かを失ってきたんだな。彼女みたいな天才であっても、それは免れないのだ。

「・・・・・でも、今は彼に会えたんだからいいじゃないか。じゃあいっそのこと、ここを彼と歩けばいいよ。昔やれなかったことを今果たせばいいんだ。今のところ危険は無いみたいだし。怖いけど。何だったらぼくが後ろから密かに護衛しておく」

 そう言うとクリスは笑った。

「地球ならともかく、こんな変な場所の変な線路で、懐かしい過去の追想なんて無理ですよ」

 淋しそうな笑みを浮かべる彼女に何か言いたくて、口を開きかけたその時、私は遠くの方に明かりがあることに気づいた。

「見ろ、何かある」

 そう言うとクリスも緊張した顔でそちらを見た。

 私の視線の先にぼんやりした明かりがある。

 ということは、何かがある。何かが、いる?

 私はここでふと、何か異常なことが起きて、彼女の頭脳がこの世から消えることを危惧した。

「ここで待っててくれ、ちょっと見てくる」

 そう言ったのはヒロイズムでも何でもなく、ただただこの天才の脳をこの世に留めたいという科学者としての欲だった。

「でも、師匠」

「大丈夫、実は武器を持ってきたんだ」

 私は肩掛け鞄に入っていたキアッパ・ライノを取り出した。

「どこでそんなものを?」

 クリスがびっくりしている。

「ちょっとした伝手でね」

 実験前にコノハ助教から渡された武器だ。彼女がこのことを予想していたことはないだろうが、お陰で心に少し余裕ができている。

 私は恐る恐る、明かりが点っている方に歩いて行った。

 50メートルくらい歩いて、私はそれが何であるかを知った。

「・・・・・駅だ」

 それは線路の脇に設けられた、小さな駅舎だった。

 この場所で初めて見る、建物だ。線路に加えて、こんなものがある、明らかにここには人間世界のものがあるのだ。

 しかも、灯りが点っている。

 得体の知れない場所にある夜の無人駅は、何とも不気味だった。

 ふと、昔から囁かれている怪談を思い出す。

 電車の乗客が、聞いたこともない駅に迷い込んでしまう話だ。

 私は恐怖に戦きながらも、そろそろと近づいた。

 近づくにつれ、それの詳しい様子が見えてきた。

 それは、ヨーロッパでよく見かけるタイプの駅舎だった。

 欧州では日本のような改札はなく、支払いをする簡単な機械だけが置いてある場合が多い。そのため駅舎も近代化改修などはされず、石造りの古い建物が残っている場合がある。

 ここもそんな感じだった。石組みの土台に、木製の駅舎が載っている。

 どことなく、日本の田舎の無人駅みたいな雰囲気もある。

 線路の脇にプラットホームがあった。

 土台は石造りで、旧式のコンクリートが上に張られているが、それは至る所に亀裂が入っていた。

 私は様子を探った。

 だが、人がいる気配はない。

 私はプラットホームの端に設けられた階段でホームに上がり、明かりがついている方に行った。

 明かりは、駅舎から漏れている。

 そこに行く前に、プラットホームに駅名を記した白い板が建てられている事に気づいた。

 どの駅にもある、あれだ。

 駅名を読もうとしたが、かなり痛んでいて、よくわからない。

 でも、アルファベットが書かれているような気がした。

 変な話だが、それで少しほっとする。もしここに「きさらぎ駅」なんて日本語が書かれていたら卒倒していただろう。

 私は呼吸を整えて、駅舎の方に行き、銃を構えながら窓からそこを覗き込んだ。

 薄明かりが点る建物内には、誰もいない。

 幾つかベンチが置かれているが、人がいる気配は全くない。

「誰もいませんね」

 いきなり背後から声がしたので、私は飛び上がった。

「く、クリス、線路で待っててくれと言っただろう、心臓が止まるかと思ったぞ、いや、実際止まったかもしれないぞ」

「止まってませんよ、そんだけ喋れるんだから」

 クリスは冷ややかに言って、中の様子を見ている。

「電気はついているのに、誰もいない、何とも不思議ですね」

「ああ、さっぱりわからん」

「師匠は何だと思いますか?この場所」

「わけがわからないね」

「実は私、ひとつ思いついたことがあるのですが」

 クリスが真剣な顔をしていた。私は彼女の考えがこれまで一度も外れたことがないことを知っている。

「言ってくれ」

 するとクリスは小さく息を吐いた。

「あっちでフェンネル君にも聞いて欲しいです。ここで言ってもいいですが、何が起きるか分からないし、同じことを二回言うのも面倒くさいです」

 彼女がそう言うなら仕方ない。私は頷いた。

 私達は引き返すことにした。今回の偵察で、ここが明るくなる可能性があること、人工の建物があること、生きた人間がみられないこと、上空から何かが襲ってくる危険が少ないこと、がわかった。最初の偵察で得た情報としては充分だろう。

 私は駅舎から線路に降りる時に、駅舎の外を見てみた。駅から何処かに通じる道があるのではないかと思ったからだ。

 確かに、駅舎の出口の向こうにある暗闇に、道のようなものがあった。あれを辿っていけば、何処かに通じているのか?

「師匠、戻りますよ」

 クリスの声に私は「ああ」と頷き、線路に降りる。

 その時、視界の隅に何かが見えた気がした。

 さっき見ていた道。

 暗闇に続くその道に、誰かが立っている。

 私は再び振り返ってそこを見ようとした。しかしそれを、心の中で何かが止める。

 だめだ、今、あそこを見てはいけない。

 きっと、見てはいけない物があそこにいる。

 科学者にあるまじき妄想だ。でも私は見ることができなかった。

 線路に降りて、来た道を戻る。

 私は帰る間中、一度も振り向かなかった。


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