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ノーチラスノートII  作者: 蓬莱 葵
1/13

第1部

AMP-02 特殊探査機ヴァーミスラックス

挿絵(By みてみん)

  Nautilusnautes II


挿絵(By みてみん)


 1−公募

 甲板を大粒の雨が叩いていた。窓ガラス越しに見える暗い海は斜めに傾き、舷側の手摺りの向こうで灰色の波頭が山脈のようにいくつもそびえている。波がぬうっと高く切り立って視界いっぱいになったかと思うと、船の舳先がぐうっと持ち上がって、濃い灰色の空が見えた。次の瞬間、船は谷底に向かうように傾き、奈落に落ちるように落下する。遊園地の過激な遊具のような浮遊感。遊園地と異なるのは、この落下が全く制御されていないことだ。

 甲板を臨む船室の窓に雨粒と波しぶきがばらばらっと叩き付けた。

「なんだこれ、沈むんじゃないのか」

 船室の中で転げそうになりながら私は窓の外を見ていた。まだ昼間のはずなのに、外は夜のように暗い。

 私が乗る船は荒波に木の葉のように翻弄されながら、それでも決められた方向に進んでいた。しかし、船の行く手には荒れ狂う海の他には何もない。

 その時、灰色の海を背景にして、一瞬、黒い人影が甲板にいるように見えた。

 私は目をこらす。船首の方に、誰かがいた。ぼんやりとした輪郭で、立っている。そして、それは私の方を見ていた。

 その時、山のような大きな波を乗り越えた船は、船首から海に突き刺さり、そのまま海に突入した。前部甲板が完全に海に没し、次の瞬間、潜水艦が浮上するように跳ね上がった。

 私は目をこらした。しかし甲板に人影は無い。先ほどの波に流されたか?いや、やはり見間違いだろう。こんな状況で、甲板に人がいるはずがない。

 私は振り返った。斜めに傾いた船室では、同行していた助教が青ざめた顔をして荷物を押さえている。その時更に船が揺れて、彼女は小さく悲鳴を上げた。

 船内に無機質な声でアナウンスが流れた。

「本船は目標の南西2海里を航行中。これよりトリオニクス湾に進入し、接岸する」

「こんな状況で港に入れるつもりか?インフェリアの船乗りは頭がおかしいのか!?」

 私は再び舷窓から外を見た。目標がある方向を見たが、真っ黒な空と荒れ狂う灰色の海しか見えない。

 この嵐の先に、目指す島があるはずであった。斜めに傾く暗い世界の先に、真っ黒な影が一瞬だけ見え、おそらく幻であろうが、瞬間、強風に翻弄されるヤシの木々が見えた気がした。


「これではダメだと思います」

 書類を見ながら彼女は言った。

 私は書き上げたばかりの申請書類を見ている助教の様子を窺う。興味なさそうな表情で、彼女はそれを私に突き返した。

「独自性が足りないと思います。他者が真似できない唯一無二のアイデアが必要だと思います」

 私は自分が苦心して書いた書類に目を落とした。ノーチラス島探査計画の公募書類である。ここ数週間ほどかけて仕上げた申請書の草稿を見てもらおうと助教の部屋を訪ねたところ、即座にダメ出しをくらったのであった。

 現在、地球にはカリビアントンネルと名付けられた特異点が存在している。その先にはインフェリアと名付けられた未知の惑星があり、謎多きその惑星の中でもとりわけ謎と神秘のベールに覆われた場所がノーチラス島であった。つい半年前のことだが、そこで恐るべき事件が起きた。その島が未知の怪物の群に襲撃されたのである。

 幸い、事態は収束し、怪物どもの正体についても、未知のエイリアンなどではなく、人類が遺伝子操作で作り出したものであると判明した。ただし、島の研究者から送られてきた報告を読む限り、怪物の形態や習性はこれまでの生物学の常識から大きく外れている。この報告に書かれていることは果たして真実なのか?それを確かめるため、外部の専門家による詳細な調査が必要とされている。今回の公募はそのためのものだ。

「唯一無二とは?」

「無脊椎動物の形態に詳しい専門家を入れるべきですね。それも若手を。先生はぎりぎり若手の範疇に入るでしょうが、もっと若い方がいいと思います」

「プロジェクトチームをつくるということか」

 助教はさらりと言ったが、私は唸った。確かに今のご時世では有能な若手研究者を研究に組み込むことが重要視される。ただし、

「無脊椎動物、若手・・・」

 残念なことに、私にはこんなリスクの高い計画に参加してくれそうな知り合いはいない。自分の交友範囲の狭さを恨みながら、私は書類の束を机でトントンと叩いて揃えた。

「わかった。貴重な意見をありがとう」

 私は席を立って、退室する。


 数日後、大学の廊下を歩いていた私は、背後から呼び止められた。

「先生」

 振り返ると、助教が立っていた。

「例の計画書はあきらめましたか?」

 いきなり容赦ないな、と思いながら私は答える。

「いや、計画自体はいいと思うんだ。ぼくも留学中にけっこう良い研究をしたと思っているし、この分野には専門家もあまりいないしね。採択される可能性はある。共同研究者さえ何とかなれば。若手の」

 更に言えば若手が女性であれば採択される可能性が飛躍的に上がる。今はそういうご時世だ。

 私は目の前に立っている助教を見た。彼女は一年前にこの研究室に配属されたばかりの若手で、専門は節足動物の形態発生学であった。そう、こんな人材がいてくれればいい。私はしかしこれ以上この助教にいろいろ言われたくなかったので、最大限のお世辞でこの場を退散することにした。

「君のような人物が参加してくれればいいんだが。業績も申し分ないし。間違いなく通るよ、ははは」

 私はお世辞笑いをして、身を翻した。

「いいですよ」

「そうだね。だから他にいい人を・・・・」

「いいですよ」

 私は廊下を歩き去りながら、何か凄い違和感を感じて、振り返った。

「ちょっと耳がおかしい。君が『いいですよ』と言ったように聞こえた。聴覚障害か、新皮質の言語野がおかしい可能性がある。これからすぐ病院に行くよ」

「いいですよ」

 助教は先ほどと全く変わらない表情のまま、立っていた。


 船は無事に島に着岸した。

 雨はまだ激しく降り続け、灰色の海はまだ大きくうねっていたが、外洋のような恐ろしさはもう感じない。眼前には木製の桟橋があり、その向こうにヤシの木が立ち並ぶ砂浜が見え、さらにその先に白壁に黒木組の家々が雨にくすぶっている。

「ノーチラス島へようこそ」

 そう言って雨合羽から右手を差し出したのは、二十代後半くらいに見える若者であった。気さくな好青年といった感じだ。地球では、こんな島に来ている奴は皆頭がおかしいと吹聴されているので、そのギャップに些か困惑した。

「酷い雨ですね。特殊探査担当のヒューベルです」

 私と握手しながら、若者は名乗った。そうか、彼がペンクロフト・ヒューベル博士か。いきなり有名人に会ってしまった。彼こそが、例の「ノーチラス事変」に関わり、事件を解決に導いた人物なのだ。

 私は自己紹介をした。隣にいた助教も「研究チーム代表の木通(あけび)このはです」と挨拶をする。

 ヒューベル博士の気さくな態度を見て、緊張気味だった彼女も少し安心した様子だった。

「遠いところをようこそ。この島に新たな研究員が来るのは久しぶりです」

「私たちはこの島の常勤ではなく、あくまで共同出資している国の研究員ですが」

 私は一礼して、続ける。

「お世話になります。あなたが率いるグループが今回の調査に協力してくれると聞きました」

「そうですね。探査が必要であれば協力を惜しみません。新型の探査機も完成したところだし」

 探査機。そうだ。確か一年前の事件では、一機の探査機が怪物を撃退したのだった。

「そうだったね、あなたの探査機が皆を救ったんだ」

 そう言うと、ヒューベル博士は少し申し訳なさそうに笑った。

「私だけじゃありません。功労者は他にもいますよ」

「でも、あなたがあの探査機をつくったのでしょう?探査機にそんな凄い性能があるのかと驚きました。新型ができたのですか?」

「改良型です。つい先日、テスト飛行を行いました」

「確か、ちょっと変わった名前だったような」

「フェルドランス、ですね。同僚の操縦士が付けた愛称です。正式な登録名ではないですが、今はこっちの方が有名ですね」

「・・・その同僚の方、中米あたりの出身ですか?」

「いいえ、どうして?」

「そういう名前のヘビがいるので。最近はフェルデランス、とも言われますが」

「ああ、それから取ったみたいです。毒ヘビの名を付けるなんて、ちょっと変わった奴ですよ」

 そう言って、ヒューベル博士は激しい雨に霞む街の更に遠くを見つめた。おそらくその視線の先に、その操縦士がいるのだろう。


「な、何だって!!」

 私は廊下で大声を上げた。

「君、正気か!?」

 私は助教の返事を待たずに続けた。

「あの島がどんなところかわかってるのか?正体不明の恐ろしい場所だと知っているのか?」

「恐ろしいかどうか知りませんが、動くんですよね」

「そうだ、それに、過去に何度も調査隊が消息を絶っている。半年前にも凄惨な事件が起きたばかりだ。生きて帰れる保証はない」

 それに、と私は続けた。

「それに、これに採択されたら、一年間はここを離れることになる。君はテニュアだろう、貴重な一年を無駄にすることになるんだぞ」

 このご時世に研究者として職を得ることは極めて難しい。彼女はテニュアトラック、すなわち5年間の「お試し教員」として採択されている。この制度では、5年の契約期間の間に充分な成果が挙げられれば晴れて常勤職になれる。だが、ここで丸一年無駄にしたら、常勤職を得るのが極めて難しくなるだろう。この女は、せっかく手に掴んだ常勤職へのチャンスをむざむざ棄てるというのか。

 しかし、彼女は全く表情を変えない。

「でも、危険なのは先生も同じでしょう」

「ぼくはいいんだ、あの島にはずっと行ってみたかった。この機会を逃す手はないと思っている。帰ってこられない可能性も考えた、それでも行きたいのだ。でも、君は」

 そこまで言って、私は大声で喚き散らしていたことに気づいた。慌てて声のトーンを落とす。

「わ、悪いことは言わない。考え直せ、考え直してくれ」

「でも、今のままでは先生は採択されません」

「確かに、絶望的だ。もしも君が入っていたら選ばれる確率はずっと上がるだろうが」

 そしたら、あの島に行けるかもしれない。そして、もしそこで何かを発見できたら、と私は考えた。そうなれば、チームを率いていた代表者としてハイレベルな雑誌に論文が出せるだろう。あわよくばここよりもっといい所に転職も可能だ。でも共同研究者にすぎない彼女は・・・・。

 そこまで考えて、私は天啓を得た。

「君、そうだ、君が代表者になれ」

「は?」

「代表者が新進気鋭の女性研究者、しかも専門分野もぴったり。業績も文句無し。これなら、必ず通る」

 助教は面食らったような顔をしていた。

「先生、私の記憶が正しければ、反対していましたよね」

「・・・・あ。・・・え」

「何故急に考えが変わるのですか?やはり頭が。いい薬があるので教えます」

「いや、そうじゃなくて」

 そうじゃなくて、君がリーダーなら申請も通るだろうし、君の将来も拓けると思っただけだ。

 しかし、私はそれ以上何も言わなかった。助教は訝しそうにこちらを見ていたが、「じゃ、そういうことで」と言って踵を返す。私はそこに立ち尽くしていた。

 何が「そういうこと」なのだろうか?彼女が代表者になる件か、それとも私に良い薬を教えてくれる件だろうか?

 彼女の後ろ姿が廊下を遠ざかってゆく。


 ちょうど今から一年前、あの助教、木通(あけび)このははこの大学に採用が決まった。その時、私は三ヶ月ほど海外に出ており、人事については学科の意向に任せていたのだが、帰国早々に学科長から今回の助教は私の研究室に配属されると聞いた。私にとっては寝耳に水の話だった。詳しく話を聞いてみると、今回の助教の専門分野が私に近いことと、私の研究室には他にスタッフがおらず、本来は二人分の実験スペースを私が独占する状態になっていたことで、私のところに配属となったらしい。最初、私は研究スタッフが増えたことを喜んだ。これで、雑用に追われて思うようにいかなかった研究が進むに違いない。しかしすぐに、その考えが誤りだったと気づく。その助教は研究分野が私と全く違っていたのだ。私が脊椎動物を対象にして脳の発生や生理機能を調べる研究をしていたのに対し、彼女の専門は節足動物で、しかも私とは全く異なる手法を使っていた。つまり、私と共同研究する余地は一ミリもなかったのである。私は深く絶望し、かくして我々は完全に独立して研究をすることになった。研究室が同じであるため事務関係の用事があると彼女の居室を訪ねて相談したりするが、あくまでその程度である。

 しかも彼女はかなり私に冷たかった。いや、無関心だった。これまで女性にモテた経験が全くない私にとっては何の不思議も無いことだが、どうやらこの助教は他の誰に対しても似たような態度を取っているようだ。優秀な研究者にはまま見られる傾向なので、私は気にも留めていなかった。

 だから、今回の彼女の態度は私を極限まで困惑させたのである。


 我々が島に着いた翌日、嵐は過ぎ去り、ノーチラス島は明るい日差しに溢れていた。この島にはアルケロンという小さな街が一つだけある。そこが、島の探検のための基地として、生活のための基盤として機能していた。驚いたことに、その街は西欧のアルザス地方に似せて作られている。街には黒木組に切妻屋根の家が並び、まるで中世の旧市街に迷い込んだようだ。アルザス地方にある研究所に留学していた経験のある私にとっては、初めての場所なのにとても懐かしく思えた。アルザスにはストラスブールやコルマールという街があり、昔の家屋が多く残っている。ここはそうした大きな街というより、郊外のワイン街道沿いにある、リクビルやカイゼルベルクのような小さな村の雰囲気に近い。街の中を通る石畳の道の両脇には飾り看板のついた家々がたち、ガラス越しに様々な物が売られている様子からは、とてもここが異郷の離島だとは思えなかった。

 その日、私と木通助教が訪れたのは、街中にある比較的大きな建物であった。そこは古風な建物で、石造りの壁には蔦がからみつき、やわらかな春の日差しが新緑の葉の上できらめいていた。蔦に覆われた玄関アーチには「レプティリカ大学」と彫られている。この大学は、つい最近になってから、これまで個別にあった幾つかの研究機関を統合して編成された組織である。付属研究所や附属博物館を擁しており、大学という名の通り、学生も少数ではあるが所属していた。それらの学生には地球から来た研究者の家族もいるが、何割かはこの島で生まれ育った者たちである。この島が最初に見つかってからすでに半世紀以上が経過している。その間にこの島は人が生活するのに支障の無い場所になり、すでに多くの人がノーチラス島の戸籍を持っていた。

 私たちはレプティリカ大学の一室に通され、そこで客員研究員になるための書類にサインをして、大学ならびに付属施設を使用するための手続きを行った。それらが一通り終わると、大学の事務担当者が机の上にノーチラス島の地図を広げた。

 島は西洋の神話に出てくるドラゴンのような形をしていることから、「爬虫類島」という別称がついているのだが、私に言わせれば島の形は爬虫類というよりアリジゴクか、ハンミョウの幼虫のように見えた。島の舳先部分にある岬なんて、昆虫の大顎にそっくりだ。私たちが今いるアルケロン市は、島の右舷、ドラゴンで言えば前肢の付け根あたり、アリジゴクで言えば胴部の前くらいの位置にある。それより左舷には広大な森林地帯があり、その中にカプローナ山がそびえ、幾筋かの川があり、船尾の方角にはハルピュイア湖があった。この森のほとんどは現在調査中である。島の中で拓けていると言えるのは、アルケロン市とそれに隣接するメイオラニア丘陵くらいだ。島が見つかってから随分経つのに、この状態なのである。それだけ、この島は調査の手を阻んできたということだ。

 ちなみに、ノーチラス島の地図には、普通の地図には必ずついている東西南北の方位表示がない。そんなものは意味をなさないからだ。なぜなら、この島は海上を浮動しているからである。まるで船のように、インフェリアの大洋をほぼ一年かけて回遊しているのだ。こんな岩の塊がどうして海に浮かび、どのような力で推進しているのか、それはまったくの謎である。重力制御がなされているという説があるが、はたして・・・・。

 そして、この島は一体何なのか?それも全くわかっていない。何の目的でここに在るのか?島が決まった軌道を回遊する理由とは?

 何も、わかっていない。

 島の地理についての簡単な説明の後、大学の職員は、我々の探検に関する情報をくれた。それによると、我々が調査することになっている怪物の標本は、先日の事変の際に回収されたものがレプティリカ大学附属博物館に保管されているという。博物館は島に二箇所あり、本館と別館とよばれている。標本はそれぞれの博物館に分けて収蔵されているそうだ。私たちはそれらの博物館のうち、別館の建物の一室を研究室として使わせてもらえるらしい。

「でも、この別館」

 木通助教が渡された地図を見て困ったような顔をした。

「街から離れすぎていませんか?」

「そうだね」私も相槌を打つ。

「島の向こう側だ。ここから行くには島を横切らなければならない。何でこんな場所に?もう一つの、こっちの本館は街から近いのに」

 私は地図を指さして担当の事務員を少し恨めしそうに見た。事務員は少し申し訳なさそうに応えた。

「近い方は、前に『ノーチラス島博物館』だったところですね。もともと個人経営の博物館だったところを、今回の大学再編の際に付属施設として編入したという事情があります。すでに人が住んでいるので、入居は無理です」

「もう一つの」私は事務員に尋ねる。

「こっちの、研究室を用意していただいた別館は、どういった経緯が?」

「そこは、古くから奇妙な現象が見られる場所でして、ずっと前に観測用の建物が建てられました。それから、島で見つかる稀少植物を生体保存する設備が増設されて、ついこの間の怪物の襲撃の後、博物館として改装されました」

 私は、「奇妙な」という単語が何の抵抗もなく出てくることに驚き、この島が本当に未知の場所なのだと言うことを実感した。

「ということは、実質的には本館とは無関係ということですか?」

「いいえ、本館も別館も、先日の事件で現れた怪物の標本を継続的に維持・研究するための機関として登録されています。それに、本館と別館は同じ学芸員が管理しています。これについては人材不足のせいですが・・・」

 では、と一礼して、事務員は部屋を出て行った。残された我々は再び地図に目を落とす。

「ふうむ」

 私は記憶を辿った。確か、先ほど事務員が触れた「ノーチラス島博物館」は、裏で人工進化研究が行われていた秘密研究機関だった。つまり先のノーチラス事変の発端となった場所である。そこでマンディブラスという怪物がつくられ、それとその眷属が三度にわたり島を襲撃した。それがかの忌まわしき事変の顛末だ。現在、本館が怪物の標本を維持しているというのも、そこがその発端と言うことであれば頷ける話だった。マンディブラスの創出に関わった関係者は全員死亡したという。標本はたくさんあるだろうが、その因縁を考えるとあまり行きたくない場所である。

「ふむ、それにしても、我々がいく方の博物館はずいぶんと変なところにあるな」

「島から少し離れた小島ですね」

「島の中にある島、とはな。名前がついているぞ、フランス語だ、“リール・ド・ラビーム”?」

「深淵の島、という意味ですね」

「変わった名前だな。何だか気になる名前だ。それに、さっきあの人が言っていた『奇妙な現象』、というのも気になる」

「行けばわかりますよ」

 木通助教はあまり興味なさそうに応えたが、彼女は島の地図を食い入るように見ていた。私にはその表情が妙に恐ろしく見え、彼女がまるで初めて会った他人のような気がした。


 2−深淵の島

 私は木通助教が退室した後も、部屋に残っていた。この後、レプティリカ大学の学生を対象として、簡単な講義をすることになっている。今回の研究計画にはこうした仕事も盛りこまれていた。文明圏から遠く離れたこの島では、外部から来る専門家の話には価値があるのだろう。たとえそれが私のようなマイナーな分野の研究者であっても。

 時間になったので、私は講義室に行った。

 大学でよく見るような階段教室には、二十人くらいの学生が集まっていた。思ったより平均年齢が若い。どうやら大学生だけでなく、付属の高等学校の生徒も混ざっているのだろう。よく見ると中等学校の生徒までいるようだ。

 私は学生達に自分の専門分野について話をした。学生達は退屈そうに聞いていて、一時間ほどの講義が終わるとそそくさと出ていった。興味がある学生はいなかったようだ。いつものことなので、私は手早く資料を片付け、部屋を出て行こうとした。

「あの」

 小さな声が背後から聞こえ、私は振り返った。

 薄日が差す講義室に少女が立っていた。年は十三歳くらいか。中等部の制服を着ている。黒髪に青い瞳が印象的な少女だった。

「ああ、君は中等部かな。今日の話は専門的すぎたと思う。すまない、もっと簡単な内容にすれば良かった」

「いえ、大丈夫です」

 少女は否定するように首を振り、小さな声で、「生物学は、好きなので」と続けた。

「そうか、それは何よりだが、何か質問ですか?」

「あの・・・」

 少女は緊張した声で言った。他人と話をすることに慣れていないのだろう。そんな人見知りの少女が私に一体何の用があるのか?

「先生は、あれを、調べに来たのですか?」

「あれ、とは?」

「あの・・・」少女は言葉を選ぶようにして慎重に続ける。

「前にやってきた、怪物・・・」

 私は自分たちの計画について、こんな少女が知っていることに驚愕した。

「君、そのことをどうして?」

 少女はびくっと震え、口ごもった。私は大いに慌てる。

「あ、いや、ごめん、ちょっとびっくりして」

「聞いたんです」

「聞いた?誰に?」

「た、探査機の、操縦をしている人に」

 私は状況を理解した。どうやら彼女は、我々に協力してくれる、あのヒューベル博士の関係者らしい。

 少女は蚊の鳴くような声で続けた。

「何を調べるのですか?あの怪物の生き残りを探しますか?」

 私は頷いた。

「今回の調査の目的は、例の事件に関係した怪物の形態を調べることと、それから、そう、君の言うとおり、この島にまだ生きた状態の個体がいるかどうかを確認することだ。後者の場合にはヒューベル博士の探査機を使わせてもらえることになっている。でも、残存個体はあれから一匹も見つかっていないんだろう?だったら、探査機を使うことにはならないかもしれない」

 少女はまだ不安そうだ。

「人が住んでいるところも調べますか?」

「おかしなことを聞くね。人が住む近くに怪物がいたら、すでに見つかっているだろう。調べるのは怪物が潜む可能性がある場所だよ。森とか、海中とか」

 それを聞くと、少女は安堵したようだった。

 彼女は小さく礼を言って、部屋を出ていった。小さな足音が遠ざかっていく。私は少し気になって、出席者の名簿を確認した。中等部から参加していた生徒はたった一人。

「コートニー・キャンベルさん、か」

 私が講義室を出たとき、廊下にはもう誰もいなかった。


 翌日の朝、私と木通助教は、今回の探検で我々にあてがわれた博物館に赴くことにした。レプティリカ大学の近くに、最近できたばかりの小さな駅があり、そこから島を横断する鉄道が伸びていた。この軌道もつい最近施設されたばかりだそうだ。我々は旧式のトロッコ列車を自分で動かして、島の横断を試みていた。細い鉄道の周囲は鬱蒼としたジャングルだった。線路の両側から木々が迫り、頭上は巨木の梢に覆われていて、無数の蔦が垂れ下がっている。そんな場所をトロッコ列車で移動していると、まるで遊園地のアトラクションを体験しているような気がした。この島はそのほとんどが緑に覆われている。これは極めて異常なことだった。そもそもこのインフェリアという惑星はサイズも自転・公転周期も地球とほぼ変わらない。地球のカレンダーがほぼそのまま使えるのだ。それが大きな謎なのだが、インフェリアでは地球と違って土着の生物がほとんど見つかっていない。インフェリアにいるのは「カリビアントンネル」を通って迷い込んできた地球の生物たちである。もちろんそんな迷鳥のようなものが生き残れるはずもなく、インフェリアのほとんどの場所は火星のように不毛な環境であった。しかし何故か、このノーチラス島では地球由来の種が夥しく生息しているのだ。この現象は「ノーチラス生命圏」とよばれている。その恩恵により、この島の人々は自給自足が可能になっていた。

 鬱蒼とした森からは、時折奇怪な鳴き声が聞こえた。地球とインフェリアを結ぶ通路たるカリビアントンネルは、その場所を時々刻々と変えていくため、ここには地球の各所から多種多様な生物が迷い込んでくることになった。そのため、ここでは地球産の種がカクテルのように混在している。あの鳴き声にも南米産の種やアフリカ産の種が混ざっているだろう。それに、この島には地球ではすでに絶滅してしまった種がいくつか生存していることがわかっている。ということは、あの鳴き声の中には現代の地球では聞くことのないものもあるだろう。そしてもしかしたら、未知の怪物のものが混ざっているかもしれない。

 ゴトゴトと密林の中を走破し、何度か粗末な橋が架けられた川を渡って、我々は一時間くらいかけて島の対岸に到着した。


「こ、これは」

 その景色を見て、私は文字通り息を呑んだ。

 小さな停車場でトロッコ列車を降りた我々の眼前には青い海があり、百メートルほど先に小さな島がある。ノーチラス島の周囲にはこうした小島が散らばっているが、それらは当然ノーチラス島の一部である。小島と本島の間の土地が水没しているだけのことだ。

 その小島が「リール・ド・ラビーム」だった。ちょうど火山の火口をスプーンでえぐり取ったように見える。島の三分の一くらいが大きくえぐれ、その部分に海水が入り込んで、丸い池のようになっていた。その周囲を屏風のように崖が囲んでいる。崖は切り立っていて、岩の隙間から様々な植物が生えている。崖の上には緑が生い茂っていた。ここからは見えないが、島の反対側は鬱蒼とした密林になっているだろう。崖は我々から見て奥側が最も高く、こちらに近づくにつれて低くなり、我々に最も近い側では白い砂浜になっていた。海岸沿いにはヤシの木が何本も立っている。砂浜の横の少し高くなったところから、こちら側まで白い桟橋が延びていた。

 そして、その桟橋の先には。

「あれが、博物館」

 私はその光景に目を奪われた。

 アルザス風の家が、島の崖に半ばめり込むように建てられている。本場アルザス地方のコルマールにあるような三階建てくらいの建物は、豪邸と言ってもいいだろう。茶色の切妻屋根がとんがり帽子のように立ち、黒木組の間の壁はパステル調の明るい色で塗られている。まるで中世の童話に出てくるような洒落た建物だった。そして、アルザス風の建物の隣に展示室と覚しき横長の建物があり、それに寄り添うようにガラス張りの温室がある。温室は多角形をしていて、ちょうど鉛筆の先のように天井が尖っていた。温室の中には色とりどりの植物が植えられている様子がガラス越しに見える。

「温室も立派ですね。まるで高級リゾートです」

 白い桟橋を歩いて渡りながら、木通助教が言った。ふだん感情をあまり表に出さない彼女も、その光景に目を奪われているようだ。

 桟橋を渡ったところは海から一段高くなっていて、眼前には崖に囲まれた内海が見えた。この島はもともと火山のような形をしていたのかもしれない。そこが抉られて、火口にあたる場所に海水が入ったようだ。そのせいで、眼下の海はほとんど円形をしている。まるで箱庭のようだ。内海には小さいながら砂浜があり、数本のヤシが春の風に揺れていた。砂浜には白いボートが置かれている。何気なくそこにあるだけなのに、まるで映画の一場面のように見えた。

 奥の方に建つ博物館までは内海をぐるっと巡るように木製の回廊が作られていた。我々は回廊を歩き、博物館の前まで来た。

 回廊は博物館の前でベランダのように大きく広がり、海に張り出していた。ここのベランダというかウッドデッキには頑丈な太い木材が使われており、その下には礎石となる石垣もあるようだ。その上に博物館と温室が建っている。どちらも半ば壁に埋もれるような作りになっている。足場は充分頑丈だが、こうすることで更に建物の強度を上げているのだろう。これならよほどの天変地異でも起きない限り大丈夫だ。そして、こんな作りになっているからには、崖の中にも通路や部屋があるに違いない。

 下にある青い水面に博物館と温室が鏡のように映り込んで、ゆらゆらと揺れている。海は驚くほどに青く、美しかった。博物館に近い側ほど深くなっていて、ちょうど温室の側くらいが丸く切り取られたように深い色になっている。そこだけ特別に深いのだ。地球の珊瑚礁にあるブルーホールと、中米の密林の中にあるセノーテを私は思いだした。この島が、リール・ド・ラビーム、すなわち『深淵の島』と呼ばれている理由を私は理解した。

 私はしばし、その光景に見とれていた。正直なところ、想像以上だった。こんな地の果てに、こんな美しい場所があったとは。

「ようこそ、いらっしゃいました」

 唐突に声が聞こえて、私ははっとして博物館の方を見た。入口の所に若い女性が立っていた。ブラウスが白い日差しに映え、水色の長いスカートと亜麻色の髪が風に揺れている。

 その女性はきれいな鳶色の瞳をしていた。その瞳がこちらを見ている。私は頭がくらっとした。現実感が薄れていく。これまでの人生では、物語のヒロインが実際に出てきたときの対処法を全く考えていなかったことに私は気づいた。

「地球から来られた方ですね」

 その女性はこちらに歩いてきて、一礼した。その優雅な仕草に応えて、私は挨拶の言葉を述べたが、口からは「う、うぅ」と奇妙な音がした。こんな時、物語の主人公なら、小粋なセリフが浮かぶのかもしれない。主人公でない私には無理だ。

「そ、そうです」いつも冷静な木通助教さえも、どもっている。

「はじめまして、シィナ・ライトと申します。この博物館の館長兼管理人をしています」

 まだ少女と言ってもいいくらいの年頃であった。こんな若い人が館長だって?一体どういう経緯でそんなことになったのだろうか?

 だが、その女性はとても大人びた雰囲気で微笑んだ。まだ二十歳にもなっていないだろうに、不思議な落ち着きと気品がある。私はようやく落ち着いて、自己紹介をする。

「お世話になります」と言うと、ライト館長は微笑んだ。

「大学に再編されてから間がないので、足りないものが多いのですが、使えそうなお部屋を用意しました。研究室としてお使いください」

 美少女館長は、せっかくですからお茶でもいかがですか、と言って玄関のドアを開けた。我々は彼女に続いて博物館に入る。

「あの」

 館長が私に並んで歩きながら口を開いた。

「探査機を使った調査もされると伺ったのですが」

 この島の人達はこっちのことを何でも知っているな、と私は思い、その通りのことを口にした。

「よくご存知ですね。少し前にも大学で同じことを聞かれました」

「ああ、そうですか」

 館長はなんとなく納得したような表情をした。私は大学で中等部の少女に語ったことをそのまま答える。

「状況次第ですね。例の怪物が生存している可能性がある場合は調べたいと思います」

「では、探査機を担当されている方にはもう会われましたか?」

「ヒューベル博士にはここに来てすぐお目にかかりました。いい方ですね」

「そうですね。もう一人の方には?」

「もう一人?」

「操縦をされている・・・・」

「いえ、まだですね」

 そう言っている間に、我々は博物館の食堂に入った。そこはまるで小さなカフェのような落ち着いた場所で、ガラス窓から箱庭のような海が見えた。

 私と木通助教が窓際の席に向かい合わせに座ると、ライト館長はカウンターに行って、しばらくして湯気の上がる紅茶をふたつ持ってきてくれた。

「どうぞ」

 そして彼女は私の向かい側の椅子に座って、この博物館のことや街への行き来について説明をしてくれる。正直、とてもありがたい。

 しかし、何故だろう。この少女の前にいると落ち着かない。この少女はとても親切に受け答えをしてくれている。きっと、本来とてもいい人なのだろう。というのに、私の心の奥の何かが、あの鳶色の瞳に気をつけろと警告を発している。私はこの美少女の背後に、ぼんやりした暗い影を見たような気がした。あの眼差しの奥に、何か恐ろしいものがあるような、そんな気がする。


 ライト館長が事前にいろいろやってくれていたので、研究はすぐにでも始められそうだった。でも、生活に必要な細々したものが不足している。そこで私は木通助教をそこに残し、一人で街に戻って必要物資の買い出しをすることにした。

 鉄道を使ってアルケロン市に戻ると、まず大学に向かう。今回の研究をする上で、どうしても協力を仰がなければならない人物に会っておこうと思ったのだ。ちなみにこの人物は、一年前の事件で主導的な役割を果たしたにも関わらず、その実像が謎に包まれている。常にマスクで顔を隠しており、その素顔を見たものは誰もいない。名前も「カハール」と名乗っているが、これは十中八九偽名だ。ただ、その能力は超一流で、先の事件で怪物に対して完璧に対応し、ヒューベル博士の探査機と共同して、全ての化け物を撃退してのけた。つまり、例の怪物について、この島で最も詳しい人物ということになる。

 私も今回の研究にあたって、事前にこの人物に連絡を取ろうとしたが、その努力は全て徒労に終わった。こうなれば直接出向いて会うしかない。

 カハール博士は大学付属の研究所にいるはずだ。私は大学構内の見取り図を確認して、研究所に向かった。

 研究所は大学本館のすぐ隣にあった。入口のドアを開け、綺麗に磨かれた階段を上がっていると、二階の奥の方から声が聞こえてきた。

「何度も言っているだろう、協力するつもりはない。やりたければ勝手にやればいいのだ、できるものならな」

 機械で変調したような嗄れ声が廊下に響く。

「そうは言われましても、協力するように学長からも言われています」

「他所から来た奴に仕事の邪魔をされるのは御免だ。例の事件については報告した、必要な情報は全部開示したはずだ」

「そうは言われましても、第三者による外部調査というのが必要だそうで」

「そんなの知ったことか、それに、あの探査機を使いたいとか言っているのだろう、なんて図々しいんだ、死ねばいいのに」

「博士、それはさすがに」

 私は階段を上がり、ひょいと廊下を覗いた。研究所の殺風景な廊下で、白衣姿の男と事務員が話をしている。先ほどのやり取りからして、あの白衣の男がカハール博士である可能性は極めて高い。職員も「博士」と言っていたしな。

 何より、頭からすっぽり袋のようなマスクをかぶっている。

 そして私は、その姿に強烈な既視感を感じていた。


 あれはいつだったか。私がまだフランスで研究をしていた頃のことだ。ある学会で、私と似た研究テーマでポスターを出している研究者がいた。様々な動物の脳形態を扱う私の研究分野はかなりマニアックではあったが、そのお陰で競争相手が誰もいなかったので、私は些か驚いた。そんなことは絶対にないのだが、まるで自分の偽物が現れたような気がした。ポスターの所には誰もいなかったので、私は発表者不在のままその研究内容を見たのだが、それはお世辞ではなく極めて優れていた。私はこの研究者の才能に舌を巻いた。明らかに天才の所業だ。私が声を失い圧倒されていると、背後に気配を感じた。この発表者が戻ってきたに違いない。私は振り返った。そして目を疑った。そこにいたのは、二十歳そこそこの女子学生であった。この人物がこれの発表者?この学生が、これだけのことをしたというのか?私が困惑していると、こちらを訝しそうに見ていたその学生は、私の名札に目を留め、そして次の瞬間、叫んだ。

「師匠!!」

「はえ?」私は間の抜けた声を出した。

「あなたの論文を読みました。この研究を私よりも先んじて始めていたなんて、さすがとしか言いようがありません、師匠」

 それが、後に天才の名をほしいままにする、クリス・アルメールとの出会いであった。

 それから、私は彼女と少し話をして、学会を後にした。フランスにいる間に、その女子学生の噂は何度か耳に入ってきた。とびきり優秀で、飛び級で博士課程に進み、史上最年少で学位を取る見込みらしい。しばらくすると、パリの研究所から連絡が来た。学位審査の依頼であった。

 私が指定された研究所に赴くと、クリス・アルメールがにっこり笑って出迎えてくれた。

「この度は副査をお引き受けいただき光栄です、師匠!!」

 この頃すでに彼女は私よりもずっと優秀で、ずっと良い研究をしていたので、私は戸惑い、「ぼくは君の師匠でも何でもないよ。君はすでにずっと高みにいる」と答えた。

「いえ、師匠はずっと私の師匠です、師匠」

 そして学位審査はつつがなく終わり、私はその夜の祝賀会に招待された。こういった場合の例として、受賞者はドレスで着飾って登場する。クリスはたいそう美人なので、さぞかし皆の目を引くだろうと私は思っていた。しかし、

「やあやあ皆さん、ごきげんよう」

 パーティー会場に入ってきたのは、白衣を着て頭に袋みたいなマスクをかぶり、嗄れ声で話す怪人であった。会場は度肝を抜かれ、出席者は皆唖然としていた。

「私の変装はいかがですかな?」

 そして、その変人はぶわっと白衣を翻した。次の瞬間、そこには深紅のドレスに身を包んだクリス・アルメールがいた。


 私は廊下の人物を凝視する。あのマスク、白衣、そしてあの喋り方・・・。

「とにかく、そんな奴に誰が協力などするものか。何度も言うが、死ねばいいのに」

 廊下での暴言は続いている。

「あのう」

 私は白衣姿の怪人物に話しかけた。

「うお」

 背後から話しかけられたことに驚いたようで、カハール博士がへんな声を上げて振り向いた。

「何だね君は、いきなり失礼じゃないかね!!ほえ!!」

 カハール博士は明らかに動揺したようだった。

「あ、博士、こちらが例の・・・」大学事務員が口を挟む。

「お、おお、げほっ」博士はうろたえたように咳き込んだ。

「あの、カハール博士、ですか?」私は尋ねる。

「い、いかにも」

「そのお名前は本名ですか?もしかしてクリ」

「おおあ!!」博士は大声を出した。

「きっ、君がッ、地球から来た研究者か、は、話は聞いている。全面的に協力しよう」博士は私のセリフを遮るように続けた。

「必要なことがあれば何でもいってくれたまえっ」

「博士、さっきと言っていることが」事務員が口を挟む。博士はそれを完全に無視した。

「きっ、君に協力する探査機の二人組は最高のチームだ、きっといい成果が挙げられるだろう。私からも口添えをしておく」

「それはどうもありがとうございます、で、あなたはやはりクリ」

「おああ!!」

 博士は叫ぶと、私に急接近して、がしっと私の腕を掴んだ。

「研究のことで、聞きたいことがあるのだろう?私の部屋に行こうじゃないか、行こうじゃないかっ」

 そして博士は凄い力で私を引っぱり、廊下の端にある部屋まで連れていって、ドアを開け、私を部屋の中に突き飛ばすと、自分も飛び込んで思い切りドアを閉めた。

 ドアに背をもたせかけ、マスク越しに額に手を当て、呻く。

「うう」

「博士?どうされました?」

「うう、どうして、どうしてこんな所にいるのですか師匠」

 やはり。

「やはり君か、クリス・アルメール。聞きたいのはこっちだ。なんで君がここに?てっきり地球の有名な研究所で主任とかをやってると思っていた」

 ちなみに、こっちは怪物調査の公募に採択されたから来た、と私は付け足した。

「私が来た理由ですか?この島が私を呼んだからですよ、師匠。しかし、こうもあっさりバレるとは。変装には自信があったのに」

「祝賀会の時とそっくりだったからね」

「はあ」

 クリスはドアにもたれたまま、しばらく息を整えると、おもむろにマスクを剥ぎ取った。長い髪が流れるように垂れて、懐かしい顔が現れた。

「お久しぶりです、師匠」

 そして彼女は白衣のポケットからメガネを取り出してかけた。

「師匠にはバレてしまいましたが、私はこの島では『カハール博士』としてやっています。どうか内密に」

「どうしてそんな変装を?」

「女性だと、いろいろ制約が多くて」

「そんなことはないだろう、もしかして、変装に味を占めたのか」

「ぐっ」

 クリスは口をつぐんだ。図星だったらしい。昔から変わった人物だったが、ここまでとは思わなかった。

 彼女はコーヒーでも淹れてくれるつもりなのか、テーブルの方に歩いていく。さっきまでとは違って、その足取りは完全に女性のそれだった。

「歩き方まで変えてるんだな。大したものだ」

 私は感心したが、そもそもやる必要が全くないことである。しかしクリスは「ふふん」と得意げに鼻を鳴らした。

「師匠もやってみたらどうですか?病みつきになりますよ」

「遠慮しとく」

「まあとにかく」クリスが湯気の立つコーヒーカップをふたつ持ってきた。

「秘密を守ってくれるなら、協力しますよ師匠」

「わかった。誰にも言わない」

「よろしい」

 そして私とクリスは、研究所の一室でとりとめのない話をした。国外の学会でばったり会ったときのことや、彼女が私の研究所を訪ねてきたときのこと。あの頃からまだ5年くらいしか経っていないのに、もうずっと昔のような気がする。

「ふふっ」クリスが小さく笑う。

「どうした?」

「師匠が二人目です。私の秘密を知ったのは」

「へえ、もう一人は誰なんだ?」

「操縦士ですよ、あなたが使う探査機の」


 クリスがいる研究所を出て、大学構内を歩いていると、廊下の角から小さな人影が現れた。

「あ」

 向こうもこちらに気づいたらしい。立ち止まって会釈をしてくれる。

「やあ」

 私は手をあげた。

「先生」コートニーはこちらにやってきて、「別館に行きましたか?」と尋ねた。

 この子は何でも知っている。

「ああ、さっき行ってきたところだよ。いいところだね」

「そう、いいところです」コートニーが答える。心なしか前よりも気安くなったような気がした。私は純粋に嬉しくなる。

「でも」彼女は眉をひそめた。

「でも?」

「あそこ、怖い噂もあります」

 コートニーは周囲を伺うように小声になった。私は少女らしい姿が微笑ましくて、つい笑ってしまう。

「怖いって、学校の怪談みたいな?」

「そうです」

「この島にも、そんな話があるんだな。実はさっきも知り合いから怖い話を聞いた。ここに来る前は、こんな謎だらけの島だから,怪談の入り込む余地なんてない気がしてた」

「そんなことないですよ。時計台の屋根裏部屋とか、山の上の天文台とか、森の中の廃屋とか、怖い話はたくさんあります」

「へえ、聞かせてほしいな、面白そうだ。で、あの博物館にはどんな話が?」

 そこまで言ってから、私は彼女が何かの用事で急いでいるように見えた。

「いや、今度でいいよ」

「はい、すみません。今日は潜水試験のための整備をしなければならないので、これで失礼します。また今度」

 コートニーは身を翻した。小走りに去っていく。しかし、入口付近で彼女は振り返った。

「海が啼く夜には気をつけて、先生」


 すっかり遅くなってしまった。

 私は買い出しを終え、トロッコ列車でリール・ド・ラビームに向かっている。まだ夕方なのに密林の中は夜のように暗くなっていた。こんな時間に、こんな場所を一人で移動することは危険であったが、致し方ない。別館には木通助教が残っている。今日中に何としても生活に必要な物資を持ち帰らなければならない。

 宵闇の線路をトロッコ列車のライトがまるく照らしだす。それ以外は真っ黒な森だ。正直に言うと、恐ろしい。いつもならこれほどではないと思うのだが、今日は特に恐ろしかった。

 あんな話を聞かなければよかった。

 私は大学でのクリスの話を思い出した。彼女は「島に呼ばれたから来た」と言っていた。その理由を尋ねてみたのである。

「あれは、そうですね。中学生くらいでしたか。私はスイスの田舎に住んでいました。そこの通学路は淋しくて、人気が全くないんですよ。特に、森の傍で道がカーブしているところ、何だか古い道路標識が立っているところは特に不気味で。ある年の夏の日のことなんですが、学校帰りにそこを通るとですね、森の中におっさんが立っているんですよ。それで、私にむかって手招きしてるんです」

「なんだそれ、怖いじゃないか」

「怖いですよ!心底びびりましたよ!でも、通学路はそこしかないんです。しかたなく同級生に頼んで一緒に通ってもらうようにしました」

 クリスは冷めたコーヒーを口に含んだ。

「それで?」

「まあ、おっさんはずっとそこにいましたけど、何とか通れるようにはなって、私もだんだん慣れてきました。そうしているうちにですね、その同級生がへんな地図を持ってきたんですよ」

「地図?」

「そう。何だか古い地図で、私が住んでる場所と、近くにある島が描かれていました。その島の中に×印がついているんです。その同級生は『宝の地図だ』なんて言ってはしゃいでて、私も一緒に行かないかと誘ってきたんですが、私は何とも言えない厭な感じがして、断ったんです」

「ほう、それで、その同級生はそこに行ったのか?」

「行ったようです。でもその後、その人は少しおかしかった。何というか、大事なものを無くしたような顔をしていました」

「ふむ」

「そうしている間も、あのおっさんは消えなくて、ある日、私に向かって呼びかけてきたんです」

 クリスは当時を思い出したのか、目を伏せて体を抱くように両手を組んだ。

「なんて言われたのか忘れましたが、来い、来い、とか、おいで、おいで、とか。そんな感じでした。そんなとき、ノーチラス島について特集している番組を見たんです。そしたら・・・」

「そしたら?」

「森林地帯を映した画像の中に、あのおっさんが・・・」

 私は背筋がゾクッとした。折しも、外で鳥の声がして、私はびくっと跳ねた。

「なんだそれ、滅茶苦茶怖いぞ」

「それで、私もちょっとおかしくなってしまったんです。でもね師匠、私は気づいた、閃いたんです。ノーチラス島と地球とは何らかの方法で繋がっている。あのカリビアントンネルみたいな虫食い穴が、無数にあるんだと。そのうちの一つがあそこにあった。同級生が行ったあの島にも。そんな虫食い穴の周りには何か他と違う雰囲気があって、勘の鋭い人はそれを感じ取り、幻覚をみる。世界のあちこちに、怪しげな噂が囁かれる場所があるでしょう?そういう場所はきっとこの島と繋がっていますよ」

「そ、それで?」

「ノーチラス島はそうやってこちらを覗いている。でも、もしそうなら、こっちからも覗き返せるかもしれない。ほら、ニーチェでしたっけ?『深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ』。あれの逆ですよ。私のほうからも深淵を覗こうと思ったのです。だから、夏の終わりに、あのおっさんのところにいった」

「行ったのか!」

「ええ。でも、その時のことはよく覚えていません。気がついたら森の奥で倒れていて、同級生が見つけてくれなかったら死んでいたと思います。それから私は頭がおかしくなったと思われて、精神病院に放り込まれました。その後、いろいろありましたが、ノーチラス島のことが頭から離れなくて・・・・」

 ノーチラス島に呼ばれたから来た、とはそういうことだったか。しかし、

「君は変わっているな、普通はそんな考えにはならないと思うぞ」

「そうですかね。でも、今は来て良かったと思っていますよ」

 そう言ってクリスは微笑み、コーヒーを飲んだ。


 クリスの怪談のお陰で、私は別館に戻る道行きのあいだ要らぬ恐怖をたっぷり味わった。怪しげな人影が写っているのを見たという森を、自分は今まさに走っているのだ。しかも辺りはどんどん暗くなっていく。ライトが照らす木々の間や、目の前の線路の上に何かがいるような気がして、私は怯えながらトロッコ列車を走らせた。

 ようやくリール・ド・ラビーム前の無人駅に辿り着き、白い橋を渡ったときには、辺りはすっかり暗くなっていた。しかし、ここには灯りがあった。木製の回廊に沿って外灯が点り、博物館にも灯りがついている。温室も内部から照らされて、中にある植物が葉を茂らせている様子が見えた。そうした光景が水面に映っている。

 こんな幻想的で美しい場所が、アルケロン市から、いや人類の文明圏から遠く離れた場所に存在しているとは。博物館の下にある丸い内海は波一つ無い。黒い鏡のようだ。昼に見たときにはその中にひときわ深そうな場所があった。あれはどのへんだろう?

 その時、大学で少女から聞いた言葉が浮かんだ。

 海が啼く夜には気をつけて

 私はまたゾッとする。何なんだこの島は。皆が私を怖がらせにくる。

「勘弁してくれ」

 私はつぶやいて、博物館に向かった。


 驚いたことに、館内には煌々と灯りが点り、中ではライト館長が忙しく働いていた。あの館長、この時間になるまで手伝ってくれていたのだ。なんていい人なのだろう。私は今朝会ったときに「眼差しの奥に、何か恐ろしいものがある」などと感じてしまったことを反省した。この人はもともとこういう人なのだ。少し闇落ちしたような感じがするのは、もしかしたら、この人をそうさせる何かが最近あったのかもしれない。

 しかし、若い女性がこんなところでこんな時間になるまで働いていていいのだろうか?私は心配になった。

「あの、館長」

「あ、博士、おかえりなさい」

 ライト館長は私に気づくと明るい顔で挨拶した。やはりいい人だ。

「戻られたのですね。明日でもよかったですのに」

 木通助教もいるのだ。そういうわけにもいかない。

「館長、手伝っていただけるのはたいへん有難いのですが、時間が時間ですし、そろそろ・・・。あとはこちらでやりますので」

「はい、そろそろお暇しようと思っていました。これを片付けたら失礼致します」

 私は、この人はどうやって帰るのだろう、と思った。まさかこれからあの鉄道で街まで帰るわけじゃないだろう。私は先ほどの道行きで体験した恐怖を思い出した。もう二度と御免だ。

「どうやって街まで?」

「ああ」

 館長は少し逡巡するような表情をした。

「ああ、それならご心配なく。あ、兄?が飛行艇で迎えに来てくれますので」

「そうですか」私は安堵した。飛行機なら問題ない。それから、この館長には兄妹がいるのか、しかし、先ほどの言い方は少し変だった。まるで「兄」という言葉を言い慣れてないような。

 ちょうどその時、レシプロ機のエンジン音が聞こえた。窓から外を見ると、小型の飛行艇が内海の上を旋回するところだった。小さな機体だ。超軽量動力機というやつか。機体はすうっと下降し、さーっと水を切って着水する。しかし、小さいにしても飛行艇をこんな狭い場所に着水させるとは。あのパイロットの操縦技術はかなりのものだろう。

「あ、来たようです。それでは」

 そう言って、館長は博物館を出て行った。内海に下りる階段を駆け下りて、浮き桟橋を渡る。ちょうど桟橋に横付けした機体に、館長は軽やかな仕草で乗り込んだ。エンジンを止めていなかった機体は、そのまま出力を上げ、水面を滑らかに滑っていく。内海を半周して博物館の前を通ったとき、一瞬だけ、その機体の操縦士の姿が見えた。こちらに気づいたのか、操縦士が軽く会釈する。だが、風防に外灯の光が反射して、その顔は見えなかった。機体は離水、そのまますーっと闇の中に消えた。


 残された私は背後を振り返った。博物館が夜の闇の中に黒く聳えている。この博物館は、アルザス風の建物の一階に博物館のエントランスホールがあり、そこのドアが隣接している展示室に繋がっていた。二階は収蔵室になっている。収蔵室はアルザス風の建物だけでなく、そこから崖の奥に掘られた洞窟に続いていた。この博物館にはこのように洞窟をくりぬいた部屋がたくさんある。洞窟は気温と湿度が安定しているので収蔵品の保管にはもってこいだろう。

 館長が用意してくれた研究室は建物の三階にあった。そこはやや小さめの部屋で、顕微鏡や遺伝子解析装置がすでに設えられている。その上にある屋根裏部屋が我々の宿泊施設となった。屋根裏には小さい部屋が三つあったので、それらのうち二つを私と木通助教が居室としてそれぞれ使い、残りの部屋は生活物資をいれる物置にした。

 木通助教はさっさと自分の部屋に入った。ドアが閉まり、鍵がかかるガチャッという音がした。このまま明日まで出てこないだろう。

 私も自分の部屋に入る。屋根裏部屋なので天井が斜めになっていて、黒い梁がそこを横切っていた。ヨーロッパの田舎に来たような錯覚にとらわれるが、ここは地球とは隔絶した未知の惑星なのだ。地球に似すぎている事がかえって少し怖い。

 部屋を横切って向かいの窓を開けると、眼下に夜の内海が見えた。その周囲を巡る木製回廊に等間隔で立てられた外灯が、海に映り込んでいる。まるで海から来る何かを迎え入れるかのようだ。

 何か恐ろしいことを想像しそうだったので、私は窓を離れた。木通助教がいてくれてよかった。もし私一人きりだったら、こんな恐ろしい場所にはとてもいられない。私は部屋の片付けを始めた。明日からいよいよ本格的な調査が始まる。


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