不老不死薬
人生に行き詰った青年がもう全てを終わらせようと高層ビルの屋上に立った。
後はここから飛び降りるだけで良かった。靴を脱ぎ、遥か下の地上を見下ろした時、不意に後ろから呼び止められる。
「もしもし、少し構いませんか?」
振り返れば白衣に身を包んだ女性がこちらを見ていた。
「何の用ですか? まさか、僕を止める気ですか?」
うんざりした気持ちで青年が尋ねると女性は頷いた。
「ええ。どうせ、死ぬならば私の研究に協力をして欲しいのです」
彼女はそう言うと懐から小瓶を一つ取り出した。
「これは私が開発した物で不老不死薬と言います。その名の通り、この薬を飲めばあなたは死ななくなります。もっとも、この薬はまだ試作品ですので本当に役に立つかは分かりませんが」
「では、どうせ飛び降りるならそれを飲んでほしいと」
「話が早い、そうなります。それに一度死んだ気持ちになれば、見えて来る世界もまた変わるでしょう」
青年はとんでもない話だと思ったが、どうせ飛び降りる事に変わりは無いのだからと思い女性からその薬を受け取った。
「ありがとうございます。では、どうぞ続けてください」
青年は頷き高層ビルから飛び降りた。
今までに経験した事の無い速度を出しながら、今までに経験した事の無い角度で地面に向かっていく。見た事もない景色が流れていく。やがて、地面が近づいてきて、そして……。
青年はうめき声を上げながら体を起こした。どうやらあの女性の言った言葉は本当だったらしい。
「死んでませんね」
まるで魔法でも使ったかのように、いつの間にか側に居た女性に青年が言うと女性は満足そうに頷いた。
「ええ、この実験は成功です。本当に良かった」
微笑む女性を見ながら青年は改めて自分に見える風景を見直した。先ほどまではあれだけ絶望していたのに、今となっては何と気持ちが晴れやかな物だろうか。
「笑っていますね」
女性の言葉に青年は頷く。
「ええ。あなたの言う通りでした。一度死んだ気持ちになれば世界は全く違う物に見えるようになりました。先ほどの気分が嘘のようです。僕は一からやり直そうと思います」
「本当に良かった」
「ありがとうございます。あなたのお陰です。もし僕に協力出来る事があったら仰ってくださいね。あなたは命の恩人だ。僕は出来る限りあなたの力になりたいと考えています」
女性は嬉しそうに笑うと「では」と青年に声をかけた。
「少し実験に協力してくれませんか?」
「いくらでも協力しますよ。あなたは命の恩人だから」
「ありがとうございます! では、私の家に来ていただけますか?」
数日後。
「気分はどうですか?」
女性は青年に尋ねたが彼は返事をしなかった。女性は持っていたノートに次のように書き込んだ。
『実験№746 2023回目のナイフにて生命活動を休止』
女性はため息をついて呟いた。
「今日もダメだったか。不老は結構簡単に出来たんだけど、不死って言うのはまだまだ出来ないな。一体、いつになったら出来るんだろう。完璧な不老不死の薬」
およそ、千年を生きる魔女の実験薬は今日もまた彼女のおめがねに適わなかった。
大きなため息をついた後、魔女は物言わなくなった死体へとにっこり笑って言う。
「けど、いつかは作って見せますよ!」
彼女の746番目の実験動物は魔女の無邪気な決意を虚ろな目のままぎょろりと睨んでいた。