これからも、入り浸る美少女
成田山新勝寺を出た後、二人は成田名物であるうな重を食べにお店に向かった。費用は全て、悟の母から支給されていた。
茜は、高級食であるうなぎを振舞われるのは少しだけ気が引けたのだが、悟が気を利かせて、自分がどうしても食べたいから付き合ってくれ、と言ったために一緒にお店に入ることにしたのだった。
お店で出されたうな重は、今まで食べたことがないほどに身が簡単に割けて、口に入れればすぐに解れて、タレも甘く美味しく、二人はそれに舌鼓を打つのだった。
「あれ」
うな重をひとしきり満足した頃、二人はお会計を済ませてお店を後にした。その時初めて、悟はいつの間にか外で雨が降っていることを知った。
「さっきまで晴れてたのにね」
「そうだね」
午前中とは打って変わっての雨模様だった。坂道を歩く観光客も、傘を差したり、足早に歩いたり、先ほどとは打って変わった光景が、二人の眼前に広がっていた。
「傘、持ってきてたかな」
茜は鞄をガサゴソと漁った。天気予報では、一日雨が降る予報は出ていなかった。
「あちゃー、傘、ないや」
「僕、一本だけなら折り畳み傘あるよ」
悟は、リュックサックから黒色の折り畳み傘を取り出した。
「……一本だけだけど」
ただ、残念ながら二本は準備していなかった。渋い顔で、悟は伝えた。
「櫻井さん、傘使いなよ」
つい一週間前、発熱した少女の身を案じて、悟はそう提案をした。
「えぇ、でもそんなの……悪いよ」
「僕は大丈夫。パーカーのフードを被っておけば、なんてことないよ」
現在地から駅までの徒歩での所要時間は約二十分。既に本降りの雨に、茜はとても大丈夫じゃないと思った。
「いつまでも店先で立ち往生も、お店の迷惑だし……使ってよ」
二人が入ったうなぎ屋は、どうやらこの辺でも一番の人気店らしく、店の前ではたくさんの人が列を成し順番待ちをしている状態だった。そんな連中から、怪訝な目をされていることに、悟は気付いていた。
「……じゃあ」
急かされ、迷惑をかけて、茜はその現状を鑑みて、一つの提案をしたのだった。
「二人で使おう。傘」
「……えぇっ」
皆まで言わず、それは相合傘。悟はわかりやすく、頬を染めた。
「貸して」
照れる悟から、茜は傘を受け取って、開いた。
「さ、入って」
「えぇ……?」
「宝田君、店先で立ち往生するのも、お店の迷惑だよ?」
先ほど言った台詞をそのまま返され、悟は渋々茜の開いた傘に入るのだった。
ただ、悟が持参していた傘はあまり大きくなく、二人が入るには少し狭かった。
濡れないように。
そう思って、一歩傘の方へ歩み寄って、悟と茜は、肩をぶつけ合った。
「……ごめん」
「……ううん」
二人は俯き、照れ合った。
「……僕が傘、持つよ」
止む気配のない雨に辟易としつつ、悟は茜に傘を持たせた現状を申し訳なく思うのだった。茜から傘を受け取った。
それからは、二人とも気が気ではなく碌な会話もないまま、駅まで歩いていくのだった。
途中、コンビニエンスストアの前を二人は通ったのだが、照れ合うばかりに、そこで傘を購入すればいい、という発想には至らなかった。
不思議と、悟は周囲からの熱視線を感じているような気がしていた。通り過ぎていく人達を見れば、当然カップルでも相合傘をしているような人はいなかった。
お熱いカップルにでもなった気分で、頭がおかしくなりそうだった。
そして、それは茜も同じ気持ちだった。悟への好意を自覚している茜は、むしろ悟以上に現状が恥ずかしかった。
ただ、羞恥に悶えながらも、茜は気付いた。
折り畳み傘が小さいばかりに、二人は肩が触れ合うくらいの至近距離にいた。
悟の、顔が。
悟の、目が。
悟の、唇が。
一歩踏み出せば、もうそこにあった。
茜は衝動に駆られていた。どんな衝動か、そんなことは、最早言うまでもなかった。
いいやいけない。
ただ茜は、それを理性で押さえつけた。そうするべきだと判断したのだ。
しかし、茜はどうしても……悟から、目を離せなかった。
だから、茜は気付いた。
悟が茜を濡らさないように、右肩を傘の外へ出していることに。悟の右肩は、雨でぐっしょり濡れていた。
溢れる気持ちは、もう留まらなかった。
「えいっ」
掛け声を出して、茜は悟に近づいた。
「ちょっ、櫻井さん?」
戸惑う悟の声が、観光地に響いた。
「……肩、濡れてる」
茜は、多くは語らなかった。語れなかった。本当は邪な感情で身を寄せたのに、言い訳するみたいで気持ちが悪かったからだ。でも、悟に触れていると、そんな気持ちも何処かへ飛んでいきそうになっていた。
悟は、茜を引き剥がすことはしなかった。
周囲の目があるし、茜が善意でそれをしてくれたのに、袖にすることなど出来なかった。
羞恥に悶え、二人は無言のまま駅までの道を歩いた。
雨の匂いが鼻孔をくすぐり、雨音が静けさをかき消し、雨で濡れたズボンが二人を正気に保たせた。
ただそれはあくまで一過性のもので、意識すればすぐに二人はどうにかなってしまいそうだった。
だから二人は、駅に着いて、電車を待っている間、互いに何も口にすることは出来なかった。電車に揺られて成田空港に出て、スカイライナーに乗り込んでもそれは変わらなかった。
車窓が、雨粒により埋め尽くされていた。
朝見た時は緑と青だった景色は、緑と灰色に。灰色に引きずられて、緑もどこかくすんで見えた。
いつの間にか、悟は眠ってしまっていた。
「起きて、宝田君」
茜にそう起こされたのは、スカイライナーが日暮里に着く少し前だった。
成田ではびしょ濡れになるくらい降り続いていた雨は、都内ではまるで降っていなかった。
もしかしたら、夢を見ていたのかもしれない。
悟は思った。
茜と相合傘をしたのも。茜に身を寄せられたのも。うなぎ屋に行ったのも。成田山新勝寺に行き、お揃いの御朱印帳を買ったのも。
全部、全部夢だったのかもしれない。
電車が停車する直前、悟達は下車の準備を始めた。そこで悟は、傍らに置いていた折り畳み傘を見つけた。
心臓が、高鳴った。
夢ではなかった。雨に濡れたのも。相合傘をしたのも。身を寄せられたのも。うなぎ屋に行ったのも。成田山新勝寺に行き、お揃いの御朱印帳を買ったのも。
全て……。
高鳴る心臓が痛かった。思わず、一度座席に腰を下ろしなおしたくなるくらい、悟の気持ちは動転していた。
そこまで取り乱して……。
悟は、どうしてこんなに心臓が高鳴るか、理由がわからなかった。
家の最寄り駅に着いた頃には、外はもう夕暮れで赤々としていた。やはり、雨は降っていなかった。
カラスの鳴き声が遠くで聞こえた。
悲壮げだろうと鳴くカラスと違い、二人は何も言葉を発せられないでいた。
一歩。一歩と歩みを進めるにつれて、当然家へと近づいていく。
不思議な気持ちだった。
一日の疲れを癒すためにも、早く家に帰りたいと悟は思っていた。
でも、家に帰りたくないとも、思っていたのだ。
このまま、悟は家に帰りたくなかった。まだ悟は、茜と一緒にいたかった。勿論、そんなことは言えっこない。勿論、どうしてそう思ったのかは、理解出来ない。
……でも。
「今日は、ありがとうね」
茜は口を開いた。
その声色は、悟から聞いて……どこか名残惜しそうに聞こえた。
「準備不足で、ごめんね」
茜の謝罪は、傘を忘れたことを言っていた。
傘なんて、天気予報が雨じゃなかったのだから、仕方ない話じゃないか。悟の口から、言葉は漏れ出ない。
「高い昼ご飯を振舞ってもらっちゃって、ごめんね」
いつもお世話になっているのだから、そんなの問題ないじゃないか。悟の口から、言葉は漏れ出ない。
何か、言わないと……。
何か。
いつもなら、こんなに言葉が詰まることはなかったのに。
今日は……今は、どうしてか。悟の口から、気の利いた言葉も。気の利かない言葉も。何も出なかった。
「……でも、楽しかった」
茜は、微笑んでいた。
悟の心臓が、ドキリとまた跳ねた。
「宝田君とお出掛けするの、とても楽しかったよ」
……ようやく。
「……本当?」
悟の口から、言葉が漏れた。
でもそれは、気の利いた言葉でも、気の利かない言葉でもなかった。
「僕なんかと一緒にお出掛けして、本当に楽しかった?」
それは、自己保身。独りよがりの言葉だった。
悟は俯き、目を泳がせながら尋ねていた。目を泳がせてしまったわけは、楽しかったはずがないと。陰気な自分と一緒に出掛けて楽しめたはずがないと。
いつもならそこまで思わない。
なのに、今。
今に限って……悟は、そう思ってしまった。
「楽しかったよ」
「……そっか」
悟は思った。茜であれば多分、誰と一緒にお出掛けしても、きっと楽しめるのだろうと。
「今までで、一番楽しかった」
しかし、悟のそんなくだらない予想は……。
「宝田君と一緒のお出掛け、多分あたし、一生忘れられない」
茜の言葉で、覆されるのだった。
悟は慌てて茜を見た。きっと、自分を立ててくれるために言っているに違いない。お世辞に違いない。
茜の、満面の笑みを見るまでは、悟はそうだと疑っていなかったのに……。
その笑みを見て、再び悟の心臓は高鳴った。
「……宝田君は、どうだった?」
自分は、どうだったのか。
今日一日茜と行動を共にし、写真を撮り、御朱印帳を買って、ご飯を食べて、そうして一緒に帰って。
……夕日を背にし、微笑む茜を見て。
「楽しかった」
溢れる気持ちが、悟の気持ちを言葉にした。
「楽しかった。とても。とっても……楽しかった」
今までの人生において、悟は友達が多い人ではなかった。
家庭事情が、自身の性格が災いし、碌な友達に恵まれてこなかったし、友達が出来てもすぐに別れらさせられてきた。
こうして、友達と一緒に出掛けることなんて、悟は初めてだった。初めてだったのだ。
初めて……。
悟は気付いた。
今のマンションに引っ越して。
自らがこれまで撮って来た写真を一緒に鑑賞して。
発熱の看病をしてあげて。
友達づくりのお節介を焼いてもらって。
部活動への考えを改めさせてもらって。
家に出たゴキブリを退治してあげて。
我が家に、入り浸ってもらって……。
茜としてきたそれらは、悟にとって全て……初めての体験だったのだ。友達とする初めてを、悟はたくさん、茜に捧げてきたのだ。
そんな茜に、悟が特別な感情を抱いたとして。
果たして、誰がそれをおかしいと嘲笑出来ようか。
悟は気付いた。
ただ一人、いることを。
悟の気持ちを蔑み、愚かだと罵倒出来る人がいることを。
その資格を持った女の子は。
「嬉しい……」
にやけた口元を隠すように手で覆い、
「嬉しい。人生で一番、嬉しいっ」
そして、その場で飛び跳ねた。
悟の心臓が、また高鳴った。
さっきまではそれが、酷く不快だった。
でも今は、何故かそれが心地よかった。いつだって笑顔を振りまくかの少女の顔が、不快感などすぐに拭ってくれるのだ。
何故ならそれは、悟が茜に、特別な感情を持っていたから。
それが何なのか、さっきまでは悟はわからなかった。
でも今、悟はその特別な感情の正体を知った。
「……櫻井さん」
特別な感情の正体を知り、
「……僕、文芸部に入部するよ」
不思議と、悟の脳内にひしめていた悩みは全て吹き飛んでいた。
「え?」
茜は、先ほどまでと一変、戸惑った顔をしていた。
「いいの?」
そして、そう尋ねた。
悟にとって部活動は友達づくりの場。文芸部の部員は数少ない。つまり友達の数が減ることになる。本当に、それでいいのだろうか。
「いいんだ」
しかし、悟には既に迷いはなかった。
「それが、いいんだ」
その理由は、茜が悟を文芸部に誘った理由と、酷似していた。
夕日が、ゆっくりと沈んでいく。
これからこの町は闇夜に沈み、そして再び朝を迎える。
それまでの何時間、茜と悟は一緒に入れるだろうか。
今日。
そして、これからも。
それは悟にはわからない。
別れの日がいつやってくるか。悟は……茜も、それを知る由はない。
「櫻井さん」
だから、悟は願った。
「今日も、オススメ本の紹介をしてくれない?」
いつ訪れるかわからない別れの日に、笑えるように。
そう願った。
……そして、
「うんっ! 勿論っ!」
茜は今日も、悟の家に入り浸る。
最後までご一読ありがとうございました。
もう少し続ける気はあったのですが、タイトル回収は出来たのと今後の展開がただひたすら現状の焼き増しになる気配しかなかったからここで区切ります。完結押しといてなんですが、もし目新しい展開浮かんだら唐突に復活させるかもしれないです(多分ない)。
評価、ブクマ、感想頂けると嬉しいです。またよろしくお願いします。