入り浸ることにした美少女
転勤族の父の影響で再び引っ越しをすることになったのは、僕が高校二年になったばかりの春のことだった。子供の頃から父の仕事の影響で引っ越しすることが日常茶飯事となっていた。
おかげで、昔は体力的にも精神的にも辛かった引っ越しが、最近では少しだけ気楽になりつつあった。
とはいえ、引っ越し業者のトラックの前にある程度の事前準備を終わらせる必要があるから、と深夜に以前の住居を出て、早朝に新天地に乗り込む日はやはり慣れない。
一晩を過ごした車から降りて、凝り固まった体を伸ばして解して、僕は大きなため息を吐いた。
春の早朝。
これから五月へ向けて、初夏並の暑さが始まっていくはずだが、現状ではその兆候はまるで見えず、むしろ薄着だと肌寒さを感じる始末だった。
「悟、行くわよ」
「うん」
時間がないからと気持ちが逸る母に返事をして、僕は母の後に続いた。
「悟の部屋はここにしましょうか」
父がカギを開けて入った部屋は、まだ家具が一切置かれていないからか、声がよく反響した。引っ越しの時にしか聞けないこの反響具合も、気付けば目新しさが一切なかった。
一瞬、そのことが寂しく感じもしたが、まもなく家族三人で一斉に始めたフローリングのワイパー作業でそんな感情も忙殺された。入居前に不動産屋がクリーニングしている部屋であるものの、我が家では荷入れの前にそれを行うのが通例になっていた。
ワイパーが終わる頃、引っ越し業者が到着し、荷物を運び入れて去っていく。
そして、三人がかりでの荷入れ作業がスタートする。
荷入れの前のワイパーは一通り終えていたが、両親の気持ちは未だ急いていた。
今日は日曜日。
父は、明日には仕事のため、こちらの支部へ出向く必要があった。課長職というある程度の役職であるばかりに、最近の父の転勤はいつも直前連絡、短期間準備となっていた。
つまり、三人がかりでの引っ越し作業は今日を除いて他に出来ない。だから、今日中にある程度引っ越し作業を完了させておかなければならなかった。
何度も何度も、この引っ越し作業を行ってきたから、この後の展開は相場が読めていた。
深夜帯の長時間運転、そして明日の仕事で引っ越し作業に身が入らない父。
そして、それが気に入らなくて少しヒステリック気味になる母。
せめて僕に火の粉が降りかからないようにと、僕は僕の作業を順調に行った。
作業は順調、とは言えないながら着実に進んでいった。
「おうい、さすがにそろそろ休憩にしよう」
疲労困憊の様子の父。
「そうねえ、もう十四時だもんね」
母も、どうやら小腹が空いてきたようだった。
「悟、ご飯食べ行こう」
「うん」
そして、新天地初日の最初の休憩時間がやってきた。
先ほどまでのピリついた空気も消えて、僕達は談笑交じりにお出掛けの準備に取り掛かった。向かった先は、新居となるマンションの傍のファミレス。
注文を終えて、人数分の水を取りに僕は行っていた。
「それにしても、今度の新居は近場に色々あって便利だな」
席に戻ると、父と母はリラックスして談笑していた。
「前は傍にあったのお墓だけだもんね。あれに比べたら全然マシ」
「アハハ」
父が微笑む。
「悟も、来週から学校なんだからちゃんとこの辺の道覚えておけよ?」
父にしたら何の気なしの話題提供。
ただ僕は、学校という言葉に一瞬固まってしまった。
「うん。そうだね」
なんとか、上手く微笑むことは出来ただろうか……?
ウェイトレスが運んできた料理を食しながら、僕は戻った後の引っ越し準備のことも忘れてぼにゃりと物思いに耽っていた。
学校。
父がさっき言った言葉が、未だに頭に引っ掛かっていた。
以前の地区での学校生活を、思い出していた。いいや、もっと言えばそれよりも前から、ずっと。
いつからだろうか。
僕が学校生活において、積極的に友達を作らなくなったのは。
子供の頃から父の仕事の影響で引っ越しすることが日常茶飯事だった。だから引っ越しの度、仲良くなった友達と涙を流しながら別れるという、そんな辛い出来事を何度も繰り返してきた。
そんな引っ越し続きの生活に辟易として、引っ越し先の地で僕は積極的に友達を作らなくなった。
そして、元々が日陰者の性格だった僕が積極性を失えば、もう友達が出来る機会などなく……気付けば学校にいる時間中に人と話すことはかなり極稀になってしまったのだ。
友達が欲しくないわけではない。
僕だって、高校生の身としてごく平凡な青春を味わいたい気持ちだってあるんだ。
……でも、あんな辛いお別れをまた味わうくらいなら。
そう思うと、いつも気後れしてしまうのだ。
運ばれてきた料理を食べながら、僕は思っていた。
多分、今回もまた変わらないのだろう。
何も変わらない友達がいない学校生活を、僕は送ることになるのだろう。
……ただ、僕は出会った。
それは、ファミレス帰りで腹が膨れて、午後の引っ越し準備は睡魔との戦いになるだろう、とぼんやり思っていた時のことだった。
僕達の隣の部屋。角部屋に住む一人の少女と、僕達一家は出会った。
「こんにちは」
「こんにちは。今度お隣に引っ越しさせてもらった宝田です」
「あ、私は櫻井茜、と申します。これからよろしくお願いします」
長い艶やかな黒髪をたなびかせ、丁寧に会釈した少女。
なんとなく、彼女が僕と同じ年頃だろうということはすぐにわかった。そして、自分と同じくらいの年の割に、目上の人への丁寧な対応をこなせる姿を見て、感服する気持ちで一杯だった。
午後の引っ越し準備中。我が家では、櫻井さんに気を良くした母による僕への文句で終始した。
ただ僕は僕で、その事で気を悪くすることなどは一切なかった。仮に僕が彼女と逆の立場だったとして、あれだけしっかりとした挨拶を相手に出来ただろうか。そう考えるととてもそう出来たビジョンが浮かばなかったのだ。
「あんたもあれくらい、しっかりしないとね」
だから、母にこんなことを言われても、
「うん。そうだね」
そう答えることしか出来なかった。
ただ、この時は彼女に敬い以上の感情が芽生えていたわけではなかった。
彼女に対して、別の感情が生まれ始めたのは僕達が引っ越ししてから五日が過ぎた頃。引っ越し準備はなんとか終えられたものの、来週からついに学校に行くのか、と僕が辟易としだした頃だった。
「きゃあああああっ」
角部屋である櫻井さんの家から聞こえた断末魔のような叫び声に、部屋にいた僕と母は飛び退くくらい驚いた。
「ちょっと、様子を見てきなさいよ」
厄介ごとを察した母は、いの一番に僕にそう指示した。
「なんで僕が」
「なんでって、何かあった時に男手が必要でしょう。お父さんは今日も終電帰りだし」
父への文句も忘れず付けて、母は譲らず、強引に僕を櫻井家に向かわせた。
あの叫び声にただ事ではないと思いビビる気持ちと、同学年の女子の家に初めて入る羞恥で、扉の前で数秒制止してしまった。
それでも何とか体を動かし、チャイムを鳴らすが、反応がない。
扉を開けると、鍵は掛かっていなくて……この当たりからさすがに非常事態な気配を察知して緊張しながら部屋を進んで。
「……あれ?」
リビング。
見つけたのは、泣きながら腰を抜かす櫻井さんだった。
「ど、どうしたの?」
一瞬、状況を飲み込めずに固まった僕だったが、まもなく櫻井さんへ声をかけた。思えばこれが、僕達の最初の会話だった。
「……ご」
部屋の角を指さしながら、櫻井さんは震えた声で話し出した。
「……ご?」
「…………ゴキブリ」
部屋の角にいる黒い羽根を持つ虫。世間からの嫌われ者のそいつを見て、櫻井さんは腰を抜かしたらしかった。
それから僕は、スリッパを借りて奴を屠り、トイレを借りて奴を流して見せた。
「あ、ありがとう……」
櫻井さんは安堵のあまり、その場にへたり込んだ。
「ううん。……その、ゴキブリ駄目なの?」
「……うん」
「そっか」
沈黙。
コミュニケーション能力に長けていない僕では、櫻井さんと会話を続けるのも一苦労だった。
「……いつもなら、お父さんがやっつけてくれてたの」
「そっか。今日は、帰り遅いの?」
「……この前、中国へ転勤したの」
「え?」
「お母さんも、しばらく遊びに行くってついていったの」
「……えぇ?」
「この家、当分あたししかいないの……」
両親不在の寂しさからか。
はたまた、しばらくゴキブリが出たら自分で退治しなければならないからか。
「……どうすればいいんだろう?」
震えた声で、櫻井さんは泣き出すのだった。
そんな彼女に、僕はかける言葉を見つけられず、その場でただおろおろとするばかりだった。
「悟、茜ちゃん? だいじょ……ぶ」
そんな中、いつまでも帰ってこない僕を心配して櫻井さんの部屋に母が様子を見に来た。
母の眼前に広がっていた光景は。
泣きじゃくる櫻井さん。
そして、おろおろと取り乱す僕。
「か、母さん。ど、どうしよう……?」
「どうしようって、あんた……」
パチン、と頭を叩かれた。
「女の子泣かすだなんて、そんな男に育てた覚えはないよ」
「……えぇ?」
叩かれて冷静になって、どう見ても現状は僕が櫻井さんを泣かしたように見えることに気が付いた。
しばらく僕は、櫻井さんそっちのけで母に事情を説明するのだった。
「ふうん、そういうこと」
何とか母を納得させることには成功した。ただ、親しくもない女子に気遣いすることや、母に身の潔白を証明することのせいで、すっかり僕は疲弊していた。
誰か話題を提供してくれないか。
「茜ちゃんも大変ね。そんな事情があっただなんて」
そんなことを考えていると、年の功がある母は大層普通に櫻井さんに話しかけた。
「いえ、その……突然、泣いたりして、ご迷惑をおかけしました」
「何を言ってるの。子供なんだから、泣くことも迷惑かけることも当然じゃない」
平然とする母に、少しだけ櫻井さんは恥ずかしそうだった。
「むしろ、親元離れて一人で頑張ろうとするだけ偉い! 凄いわ、茜ちゃん」
そう励ます母。
「そんな、なし崩し的にそうなっただけで……」
「でも、ウチの子なんて未だに自立してないんだから。しっかり者よね、茜ちゃんは」
「引き合いに出さないでよ」
呆れて言うと、
「……ふふっ」
櫻井さんは、小さく笑った。
僕は、少しだけ恥ずかしかった。
しかし母は、櫻井さんの態度に安堵したように見えた。
「茜ちゃんは自炊しているの?」
「……えぇと、半々です。帰りが遅い日はお弁当を」
「駄目よ。若いんだから。栄養バランスを考えた食事をしないと」
先ほどのようなおどけた声ではなく、優しい声色で母は続けた。
「じゃあさ、これからはしばらく、ウチで朝と夜、ご飯を食べるってのはどう?」
「え?」
櫻井さんは驚いたように声を上げた。声には出さなかったが、僕も驚いたのは一緒だった。
突然、母は何を言い出すのか。
「学業に集中しなきゃいけない時期なんだし、家事までこなす必要ないわ」
それに、と母は付け足した。
「こうして隣の部屋同士で住まうのも、何かの縁でしょうしね」
そう言って優しく微笑む母に、母が櫻井さんの部屋に来てくれて良かったと心から思った。
さっきまで泣いていた櫻井さんは、驚いた顔でいたが、まもなく逡巡するような顔付きへと変わった。
「……いいんでしょうか?」
「勿論じゃない」
まもなく、櫻井さんの顔がパーッと晴れた。そして、母の申し出を快諾するのだった。
こうして、櫻井さんは朝食と夕食の時に我が家へ赴くことが決まったのだった。
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