【短編】本好きの恋
父方の家系は親戚での集まりが多かった。
月に一度定期的に、さらにクリスマスや新学年のお祝いなどの節々にも開かれるそれで、ゲームも漫画もないおばあちゃんの家で暇にしている私にいつも構ってくれたのは、六歳上のいとこだった。
構うといっても、「学校は楽しい?」「今どんな勉強してるの?」と質問を投げかけ、私が答えるのをうんうんと聞いて、少し自分の話もする、ただそれだけ。そうして会話のネタがなくなると、気まずそうに鞄から本を取り出して隣で読み始めるのだ。
人と話すのが苦手なんだろうなと思っていた。質問のバリエーションがえらく少ないし、彼の話し方もぎこちなかったから。それか年下の子供が苦手か。とにかく本人の意思じゃなく、お母さんか誰かに私の面倒を見るよう言われているんだろうとなんとなく分かってしまって、私は少し気の毒に思っていた。
一度、「わざわざ話しかけなくていいのに」と言ってしまったことがある。彼は困ったように笑って、ごめんねと言ってそのまま本を読み始めた。
その背中があまりにも寂しそうに見えて、それから、今日はもう会話はないのかと思うと私もちょっぴり寂しくて。
「それ、なんの本」
そう聞いた。私から話しかけたのが初めてだったからか彼は驚いた顔をして、それから嬉しそうに表紙を見せてくれた。題名だけではピンと来なかったが、どんなお話なの、と私が聞くより先に彼は物語のあらすじを楽しそうに語り始めた。
いつもはあんなにぎこちなく話すのに、その時の彼はいきいきしていて説明もとても流暢だった。あらすじを追ってるだけなのに思わず引き込まれてしまう。
一通りの説明が終わったあとに「面白そう」と私が言うと、ぱっと顔を輝かせて「読む?」と手に持っていた本を差し出した。
「でもお兄ちゃん読んでるし」
「いいよ、他にも持ってきてるから」
そう言って鞄をごそごそと探って、なんと三冊も本を取り出した。
「いっぱい持ってるんだね」
そう言うと、照れくさそうに「どれを持って来るか絞りきれないんだ」と言って笑う。そんな自然な笑顔を見たのは初めてだった。きっとお兄ちゃんは本がすごく好きなんだなと気付くと、それまでのぎこちない態度もなんだか可愛く思えて、もっと仲良くなりたくなった。
当時はまだ活字慣れしていなかったからその日のうちにはとても読み切れなかったけれど、彼が快く貸してくれた。その次の集まりで返した時に拙いながらも感想を伝えると、こちらが困るほどに喜んでくれたのがなんだかくすぐったかったのを覚えている。
それからは集まりがある度に私に本を勧めてくれて、それが恒例になった。新しい本を読むことと、それから、感想を伝えたときのお兄ちゃんの笑顔も毎月の楽しみになった。
お兄ちゃんの勧めてくれる本を読む。それが好きになる。同じ本が本棚に増えていく。それは、まるで自分が彼とひとつになっていくような、彼を構成するものが自分をも形作っていくような。 すっかり本の世界のとりこになってしまった私は、お兄ちゃんが勧めてくれる本以外でも興味を引かれれば手当り次第に読むようになった。そして私がスマホを手に入れてLINEを交換してからは、たまに私から気に入ったものを勧めることもあった。お兄ちゃんは必ず読んでくれて、生真面目に細かく感想を送ってくれる。私と同じポイントに感動したり同じ感想も持ったりしてくれるのがとっても、とっても嬉しかった。
中学高校はどちらも図書委員になった。休み時間に友達と話すのも楽しいけれど、委員会だからと輪を抜けて図書室でゆっくり本を読む時間が大切だったからだ。
お兄ちゃんが好き。
やりとりを重ねるにつれてその気持ちはどんどん大きくなった。
私じゃなきゃ滅多に見られないあの笑顔も、優しい声音と洗練された言葉遣いも、年下だからと私のことを軽んじないところも、全部、全部好き。
いつかお兄ちゃんと結婚する。働きながら慎ましく、二人で本を読んで暮らす、そんな生活を送る。
当然のようにそう思っていた。たった一か月前まで。
私が高校三年生でお兄ちゃんは大学四年生。お兄ちゃんは就職活動で忙しくて親戚の集まりに顔を出せないことがあったけれど、それでもLINEでのやりとりは続いていたから寂しくはなくて、その日も図書室でカウンターに座って勧められた本を読んでいた。
お兄ちゃんからのLINEは本の感想を含むからいつも長く、小分けにして送られてくる。スマホが短く間をあけてバイブで通知を伝えてきて、きっとお兄ちゃんからだと心が弾む。既読をつけないよう通知窓から内容を盗み見ていて、最後の一件を読んで心臓が凍りついた。
『話は変わりますが、結婚することになりました。』
「お兄ちゃん、結婚するんだって!」
家に帰ってきたお母さんがそう興奮気味に言った時、ああ本当なんだと足元の床が抜けてしまったような絶望を感じた。
知ってるよ、と平静を取り繕って返すとお母さんは笑顔のまま「次の親戚会に連れてくるって」と言った。そして「楽しみだね」と続ける。
そしてその日がやって来てしまった。こんなに憂鬱な親族会なんて初めてだ。少し遅れて登場したお兄ちゃんと彼に寄り添う女性に、親戚たちは今までにない盛り上がりを見せた。
案の定質問攻めにされてたじたじなお兄ちゃんを見て、可愛いと思ってしまうことが苦しかった。みんなと一緒になって笑いながらも気分は暗くなるばかりだった。
小綺麗な外見とハキハキした受け答えが親戚達には気に入られたようで、彼女もすっかり楽しそうに輪に加わって話している。
お兄ちゃんが選んだとは思えない女性だった。全然お似合いじゃない、と思ってしまったことに罪悪感を覚える。
「かずくん、ほんとに本が好きなんだねぇ」
そう言って笑う彼女。かずくん、と心の中で呟く。和久だから、かずくん。お兄ちゃんをそう呼ぶんだ。耳慣れないその響きに私はひどく不安になった。
「小説とか読む質じゃなかったのに、俺が勧めた本を全部読んで感想をくれるんだ。そういうところが……まぁ」
そこで言い淀んで誤魔化すように笑ったお兄ちゃんをお父さん達が冷やかす。その場はこれ以上無いほど盛り上がっていたけど、私は体の芯が冷えていくように感じた。心なしか息が浅くなる。
それなら、私で良かったじゃん。
お兄ちゃんの勧める本を読んで感想を言い合って、私からも勧めて、それをお兄ちゃんが読んで。
ささやかで、宝物みたいなやりとり。私がそれを楽しんでいる間にこの人はお兄ちゃんに近づいて仲良くなっていたんだろうか。当然のようにお兄ちゃんの隣に立つ目の前の知らない女性が憎くて仕方なかった。
顔だって、可愛いけれどずば抜けてるわけではない。私とそう変わらないのに。
そこに居るのは私でも良かったのに。私が居たかったのに。
そして、なにより――私の方がお兄ちゃんのことを知ってる。だって、好きな本を全部知ってる。読んできた本を知ってる。本棚の中身を全部知ってる。
「和久ちゃんと言葉遣いがよく似てるね」って、何気なく親戚の一人が言ったその言葉がどれだけ嬉しかったか。
同じ本を読んで、同じストーリーに感動して、同じ語彙を得たのなんてきっと私だけなのに。だから私は誰よりお兄ちゃんが好きなのに。
気付けば親戚会を終えて自分の部屋に帰ってきていた。どうしても落胆や嫉妬を悟られるのが嫌で必死になんでもないように装っていたからか、会話の内容はほとんど覚えていなかった。
アウターを脱がないままベッドに寝転んで、かずくん、と声には出さずに呟いてみる。ずきずきと胸が痛んだ。
ふと本棚を見ると、とある本が目に飛び込んできた。『ライオンと魔女』。映画化もされたナルニア国物語の原作本だ。
初めてお兄ちゃんの笑顔を見られたきっかけ。
のそりとベッドから降りてシリーズのうち一冊を手に取りページをぱらぱらめくっていると、あるシーンで手が止まった。
ナルニア国の英雄とされる四人きょうだいの末っ子ルーシィが奇妙な夢を見るシーン。夢の中で彼女は姉であるスーザンの姿になっており、スーザンとして周りの愛を受ける。無邪気で純真なルーシィの、美しい姉に対する嫉妬が表面化するのだ。
『自分が先に生まれていれば、愛されているのは自分だったのに』
文章として書かれてこそいないが、ルーシィのそんな切なる気持ちが伝わってくる、そんな場面。今自分の中に渦巻いている醜い感情とあまりにも似通っていて、そんな汚い思いを強引に暴かれたような気になった。
「っう、ゔぅ〜〜〜………」
涙が数滴こぼれて紙面を滲ませたが、そんなことは気にしていられなかった。
漏れる嗚咽を無理にこらえようとして、喉の奥がくぅ、と鳴る。持った本を胸に抱え込んでベッドに飛び込み、布団を頭から被った。
なんで私じゃだめだったんだろう。年下だから?血が繋がっているから?だから、女性として見られない?
あと数年先に産まれていれば、お兄ちゃんと別の立場で出会えてたら、私はお兄ちゃんと恋仲になれたのだろうか。
は、は、と時折息の塊を吐き出しながら静かに涙をこぼす。
でも、親族会でお兄ちゃんと出会えない私なんて私じゃない。私が年下じゃなかったら、きっと面倒をみるように彼が頼まれることもなかっただろう。
お兄ちゃんと私が親戚で、あの親戚会の場で出会えたから。お兄ちゃんが私の面倒を見るよう言われていたから。私がお兄ちゃんの笑顔に惹かれたから。お兄ちゃんと長い間ゆっくりと本を通じて心を通わせられていたから。
だから私はお兄ちゃんに恋をしたし、だから私とお兄ちゃんが結ばれることはないのだ。
途中からはもう嗚咽を抑えることも忘れて夢中で泣いて、そうして泣き疲れて眠った。
了