永久の歯
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
うーむ、「8020運動」か。
80歳まで20本以上の歯を残そう、という運動だったっけ。これ、つまりは気にしないで暮らしていると、80歳まで20本も歯がもたないことがある、と話しているようなものだよね。
歯のお手入れ、君は意識しているかい? 聞いた話だけど、人によって口内の具合って異なるみたいでさ。虫歯になりやすい口内と、歯槽膿漏になりやすい口内があるんだって。
僕の一族は代々、虫歯になりづらい家系らしい。その代わり、歳をとってから歯を無くしてしまう人が多いんだ。
じいちゃん、ばあちゃんも入れ歯。おかんはまだ大丈夫だけど、おとんはぼちぼちやばい歯が出てきているらしい。僕もいまから、将来の自分のことが心配で歯磨きをもう少し丁寧にやり出したところさ。
けれど、僕の末のおじさんは珍しい虫歯体質。そのうえ、奇妙な体験もするというおまけつきだったとか。
どうだい、聞いてみないかい?
小学校低学年といえば、乳歯の生え変わりが盛んな時期だと思う。
クラスメートたちが次々と「歯抜けじじい」「歯抜けばばあ」と化しては、その様子で盛り上がるのだけど、おじさんはなかなかその輪に入れなかった。
歯がなかなか抜けずにいたからだ。抜けるどころか、ぐらつく気配すら見せない。
前々から歯がぐらぐらすると話していた子が、給食中に抜けたとかで、わずかにみんなの注目を集めた件もある。下に生える永久歯に押されてぐらつき、それが抜歯につながるものだと聞いていた。
でも、それが自分はやってこない。前歯だけ抜ける子ならば、もはやクラスのほぼすべてといっていいのに、それがない。
――ひょっとして、自分は病気かなにかなんじゃないか。
おじさんはそう思いつつも、それを話せば歯医者に行かされるんじゃないかと思い、自分から話を振らなかったそうだ。
まだ歯医者に行ったことがないこともあって、経験者に話だけから想像する歯医者は、この世の地獄のような場所だと思っていたから。
きっかけは、あるガムを食べていたときだ。
当時のガムは、味のついたものが増えていて、子供のおやつにはちょうどいいものが増えていた。
おじさんは歯の件もあって、みんなと同じ状態であること。同じことができることに、飢えていたらしい。自分がクラスでも有数の、フーセンガムをふくらませられない人間と分かると、すぐ特訓にかかった。
慣れた人なら、一粒で十分なフーセンガム。それを二つ三つと口の中へ放り込み、もっちゃもっちゃと咀嚼し始める。そうすれば、ふくらみやすさもいくぶんか増すだろうという考え方だった。
ガムを舌に巻き付け、舌を引っ込めたすき間に、息を吹き込む……そんな経験者の教えてくれるコツを、おじさんはなかなか掴むことができなかった。
おそらく、噛む回数が足りていない。そう信じて、歯に力を入れていくおじさんは、ふと強い痛みを覚える。
右糸切り歯の、すぐ後ろ辺り。
キリを突き立てられたかのような、頭まで響くほどのものだ。思わず顔をしかめてしまうほどで、すぐおじさんはガムを吐き出し、洗面所の鏡をのぞき込んでみる。
問題の部分は何もないように思えた。もちろん、目で見えるほど穴が開いているなら、歯にとって重傷も重傷だろう。
そっと水を手にくみ、一口ふくむ。
左側へ寄せる。染みわたる水は、どこに触れても刺激をよこしてくれない。
右側へ寄せる。ぬるまった水は、やはり糸切り歯の後ろへ届くや、静電気さながらの刺激を歯へ、顔を通して頭へ突き抜けさせた。
おじさんも、本格的にまずいと思ったらしい。けれども、なお自分でどうにか食い止められるんじゃないかと、その日から歯磨きに、いっそうの力を入れたのだとか。
たかがガムごときで歯が痛むなど、なにかの間違いだ。
おじさんは、そう信じてやまない。最近の学校の授業で、先生が脱線した話を聞かせてくれた時、ものの硬さが話題にあがっている。
その中で知ったんだ。歯は人の身体の中で、もっとも硬いものだと。脳みそを覆う頭蓋骨すら超える、最大の防御力。それがやわさでいったら、上から数えた方が早そうな、「へちょい」ガムごときに、負けるはずがない。
そう信じて、引かない痛みを前にして歯磨きを続けるおじさんへ、転機が訪れる。
歯のぐらつき。そして、抜け落ち。
歯磨きをしている途中、不意に例の歯がぐらついたんだ。「ん?」と思ったときには、すでに半開きの口のすき間から、少し黄ばんだ乳歯がシンクを滑り落ちていった。
気づかないはずだ。その歯の穴が開いていた部分は、前後の歯がほどよく隠す、根っこに近い部分だったのだから。肉眼ではっきり見える、針の先ほどの大きさの穴に、おじさんは顔をしかめる。
初めての乳歯抜けだというのに、その記念に思い切り傷をつけられてしまった。虫歯にしか見えない痕も、親へ堂々と見せられるものじゃない。ただ、上の歯は縁の下へ投げ込むことだけは聞いている。
おじさんはひとり、縁の下へ歯を投げ込み、歯が抜けたことに関しては外出中に抜けたと、ごまかして回ったらしいのさ。
けれど、このあと。おじさんはまともに歯が抜けることはなかった。
乳歯20本いずれもが、虫歯のような痛みを伴ったうえで、口に別れを告げたんだ。やはり、ところどころに小さな穴をうがった姿を見せながら。やがて来る永久歯が、待ち受けていたように彼らの後釜へすわっていく。
これだけなら幼いころの思い出で済んでいただろうけれど、おじさんの歯はなおも災難にさらされる。
一人暮らしを始めてほどなく、おじさんは忘れかけていた歯痛に、再び悩まされるようになったんだ。痛み止めなしでは、食事どころか落ち着いて歩くことすらおぼつかない、それほど強力なものがね。
その原因は、ことごとくが虫歯だったという。親から離れた環境にあることもあり、遠慮なく飛び込んだ歯医者では、当初は開いた穴への詰め物で対処がされた。
それが次の予約した診察日の訪れる前に、約に立たなくなってしまう。穴は一日たらずでその大きさを増してしまい、詰め物が外れて、痛みがより強く降りかかってきたんだ。
歯医者さんも目を疑う、進行速度だったらしい。打てる手は片っ端から潰されていき、遅かれ早かれ最終兵器抜歯の出番に追いやられる。
幾本も同じような目に遭い、痛みの出ない時に定期検診を受けて調べてもらったおじさんは、結果に愕然としたらしい。
過剰歯の存在。
すでにおじさんの永久歯は失われていて、入れ歯のお世話になってまだ日も浅いうちに、発覚したことだった。これまでの検査でも、それらしき影も見当たらなかったそれらは、急に現れたとしか思えない。
それも数といい位置といい、失った歯すべてを取り戻しかねないほど、気味悪く揃っていたみたいなんだ。
だが、おじさんの決断は迷いなく、それらの過剰歯をあらかじめのぞいてもらうことに決めたらしい。
確かに自分の歯をもう一度揃えられる可能性は、それこそ望外のこと。けれどもそれ以上に、30本ほど苦しめられた虫歯の痛みが、おじさんの心の底まで穴を開けて、いまなお埋まろうとしていない。
もしちゃんと神経がつながった歯であるなら、また失う恐れが出てくる。入れ歯によるもろもろの苦労より、その苦痛の方がおじさんは勝ったそうなんだ。
それから20年あまり。
周期こそ開くものの、おじさんは過剰歯の存在にいまも悩まされているらしい。やはり一日にして、急に現れたとしか思えず、頻繁に検診を受けないと入れ歯や身体がどうにかなる恐れがありそうだとか。
その間、おじさんは何度か奇妙な光景を見たことがあるらしいんだ。
もっとも印象に残っているのが、数年前のこと。
駐車場でマイカーから降りたおじさんが、ふと足元を見ると歯が転がっていた。けれど、その歯はじりじりと動いていて、よく見ると歯を大勢のアリが運んでいたのだとか。
「歯も栄養になるんだろうなあ」と、ぼんやり見ていたおじさんだけど、のたのたした歩みのアリたちは、近くの車止めの前まで来るや。
歯を掲げた姿勢のまま、猛然とそこへ突進したんだ。
ただ一度の激突。それは歯を大きくひび割れさせるも、車止めにもほぼ歯の大きさの穴を開けることに成功していた。
そこから出てくるアリ、アリ、アリ……ホースから流れ出る水のような勢いで、たちまちアスファルトを黒く染めていく彼らに、おじさんは鳥肌を隠せずに、その場を去ったのだとか。
虫歯の由来。
それは諸説あるものの、おじさんはやはり生物の虫を語源とするんじゃないかと、考えているのだそうだ。
歯は彼らにとって強固な武器や防具となる。そうすると自分は、彼らかあるいはもっと上にいる何かの武器庫みたいな存在として、この世につかわされているんじゃないかと、考えてしまうんだって。