自殺がもったいない理由
私の世界が最愛の人を失ってしばらく経つ。
動けなかった体が動くようになり、やっと冷静に物事を捉えられるようになってくると、私は前に進むことを決めた。
本を読んだり、体験を見たりして、一番良い方法を探せば、私は前へ進むことをそれほど恐れる必要は無いと思えた。
どうやら思ったより苦しまずに終わらせる方法は色々あるようだ。
ただ失敗すると大変みたいなので、入念な準備は欠かせないだろう。近所迷惑になる方法がほとんどだが、もう関係ないことだ。
疲れきった私が、やっとしたことがこれじゃあ、あの人も浮かばれないだろうけど、それでもどうしても会いたかった。
すでに知識だけで決行は可能なほどに調べ尽くして、明日は準備の日にしようと布団に入る。
その日の夜の夢に、なんと最愛の人が出てきた。
何を話したか一言一句覚えてないが、泣いて抱きついて会いたかったと叫ぶ自分と、それをあやしてくれた様子。柔らかな声音で響くのは「まだこっちに来ては駄目」という言葉。痛いほど鮮明に残っている。
きっと見てくれていると思って、私は次の日に出かけるのをやめた。思い出を辿って、あの人によって彩られた世界を再確認しようと、そういう日に変えることにした。
それから歳月は過ぎていき、私は円満にその生涯を終えた。
トンネルを抜けた先で、私はやっとその人に再開出来たのだ。そしてたくさんの土産話と思い出話を、無限の時間の中で話し続けた。あなたの死後にこんな事があったんだと話すと、うんうんと頷いて「見てたよ」と言ってくれたこともあった。
そんな中で、私はあの夢を忘れたことはなかった。自分の一生を変えるメッセージになった「死ぬな」という夢……その時のことを聞くと、「だってもったいないから」と話した。
そう、今ならわかる。死ぬのはもったいなかった。生きてれば良いことがあるから? そうではない。
地球という世界で暮らせたのは、例えるなら「超人気アトラクション施設」に行くようなものだった。
この世界には無限に時間もあるし、欲しい物は願えばすぐに手に入る。だからこそ「厳しい世界」は貴重で、記憶を全て無くして生と死を得るというのは、ゲームも超える最高のエクスペリエンスの一つだった。
だからやっと入場出来た地球から出るということは、地球で言うところ「ディズニーランドを午前中で退園」みたいなものだ。
地球での経験は、全てこっちでのモラルや愛に変わる。心の成長は最も貴重なものだった。
ゲームで潜るダンジョンにはより深く入らないと良いアイテムが手に入らないことも、ディズニーランドには夜までいないとパレードが見られないことも、地球での生活も概ね同じようなものなのだ。