第8話 始まり
「何を見た。話せ、全てだ」
逃げるようにして森の中へ入り込む。木々が炎を隠して、ようやく訪れた夜の暗闇がおとずれる。到底、焚き木に火を灯す気にはなれない。
灰色の雲の隙間から月の欠片が覗いている。どこか寂しげな光が、静かに僕たちを照らしていた。
「僕はっ……フードの男で、知っていた? ああ、そうだ。知っていた」
気を失って、夢を見ていた。眠っているのに意識は確かで、それなのに自分の意志とは無関係に、体が動いた。感覚が全て溶け込んで、僕は僕としてでなく、別の誰かとして確かに存在していた。
感じる熱も、映る光景も、感覚の全てが違っていた。
目が覚めて、流れ込む。夢は朧ですぐに形が溶けてゆく。それでも、やはり知っていた。そうだ。殺した。僕が殺したんだ。
「ウッ……おえぇえぇぇぇ」
胃から込み上げるものを抑えきれなかった。暗闇の中でベチョベチョと音を立てて地面に吐瀉物が垂れ流される。どろどろに溶けて、原型のわからないそれらが、ガンと頭を叩きつける。
あの感情はなんだ……安心。そうだ。僕は満足していた。皆が殺し合うあの光景を見て、確かに充足感を感じていた。
脳内に広がる惨憺たる光景と、その不気味な感情が反復して、視界が目まぐるしくと回る。
ぐちゃぐちゃだ。ぐちゃぐちゃだった。肉が潰れて血が噴き出して。鼻の奥に血の匂いがこびりついた。どうやたって離れてはくれない。大勢が、死んだ。
「感覚の共有……それが、あいつとおんなじ僕の能力だ。」
口元を拭って、言葉を吐き出す。氾濫した川の様に溢れる記憶を確かに吟味して、その真実を確かめる。
「殺意と憎悪を共有した。幾人にもその感情を繋げて、何倍にも膨らませた。たった、それだけだった」
未だ震えるララメの背中を優しく撫でながら、それでもリダは目を反らさなかった。クシュージャさんの瞳が静かに僕の目を捉え、離さない。暗闇の中で開いた瞳孔は、赤い虹彩を覆い隠して全てを見通すかのように突き刺さる。
「まだだ。まだあるはずだ」
クシュージャさんはそう言った。静かで平坦な声だった。木にもたれて座る彼の目を見た。まるで月食のように、紅い虹彩が瞳孔を縁って爛々と燃えている。
耳元で鐘をたたくような、鈍い衝撃が何度も脳に響いていた。ゴン、ゴン、ゴン。ああ、まただ。依然として頭痛は鳴り止まず、断片的に記憶が流れ込んでくる。
自らの物でない記憶を、押し出そうと拒絶する。それでもお構いなしに、反乱した川のように、濁流が形となって脳に流れ込む。
「わからないっ。分からないんですっっっ! ただっ、断片的に……」
ああ、失敗だ。失敗だ。
誰かが叫んでいた。
力が足りないっ。あまりにも弱すぎる。
赤く燃える街の中で、立ちすくむ男が見えた。
「僕を……見ていた?」
酷く冷たい目は遠くから僕を見下ろしていた。あれはなんだ。何なんだ。
「こんなものではっ……到底勇者だなどと呼べやしないではないかっ!」
その言葉を聞いて、クシュージャさんは立ち上がり、馬鹿なと声を漏らす。同様に、リダも目を見開いて信じられないという表情を浮かべた。
「もっと、もっとだ。これだけじゃ、足りやしない」
視界が暗く、何も見えなくなってゆく。誰かが、僕を揺らしている。その声は問い詰めるように訊ねる。
なんだ。聞こえない。なんて言っているんだ。
大きな声が、ぼやけて消えてゆく。
意識が深く深く落ちて、まるで深海の中に沈み込むかのような感覚に囚われる。
方向も何もわからない。真っ暗な海の底で、プカプカと浮かび上がる泡を眺めている。
ゆっくりとモヤが貼れるように視界が広がった。また、僕は森の中にいた。
「北へ……」
ポツリと呟いて、また一歩足を踏み出した。