第30話 偽物だから
短い爪で、壁をひたすら削った。カリカリという無機質な音が心地よかった。振り返ると、まだそこに少女がいるような気がした。
「お前が死ねばよかったのに」
まだ、そう言い続けているような気がして、カリカリ、カリカリと永遠と続けた。
そのまま、数日がたった。
爪が割れて、空腹のあまりに噛み付いた跡が腕に幾つも残っている。永遠と、水だけでしのげるわけもない。
もはや、立ち上がる気力さえなかった。
ガチャリと音がして、地面に当てていた右耳に振動が伝わり誰かが近づいてくるのがわかった。
「ああ、すまなかった。辛かったろう。これを食べろ」
無理矢理に顔を起こされ、液体が流し込まれていく。久しぶりの温度を持った液体は、咽て殆どを吐き出してしまう。
「あああっ、あああああ」
どこにまだ、そんな力が残っていたのか。僕は起き上がって、吐き出した温かいスープをかき集めて啜っていた。味がした。美味しかった。
体の芯の芯まで染み渡り、温もりが体を満たしていく。確かに、何かが切れる音が聞こえた。
もはや、首に枷を付けられることもためらわない。
広間へ連れて行かれると、ナイフを握り、指示される前にめった刺しにした。
ズチャズチャと下品な音を立てて、肉を刻んだ。機械的に、刺しては抜いてを繰り返し、麻袋が動かなくなるのを待った。
毎日、繰り返した。麻袋を外した。目を覆っていた布を取り、猿轡を外す。幼かった犠牲は、より大きくなっていく。
既に成人しているであろう男性が、女性が僕を弾劾した。汚い僕を口汚く罵り、卑しい奴隷だと叫んだ。必死に、助けを求めるものもいた。家族がいると、娘が息子が待っているのだと。懇願し、潤んだ目で僕を見つめた。
ズチャッズチャッズチャッ
楽しげなリズムが耳にこびりついて離れない。
ああ、あああああ。僕は、必死に耳をふさいで眠った。
その日、ナイフは渡されなかった。逃げられないようにと、足枷が地面へと打ち付けられていた。恐怖に泣き叫び、今から殺す僕に助けを求めている。
「お前ならできるはずだよ」
また、その目が三日月のように歪んで光を漏らす。
何を言わんとしているのか、分かってしまった。
ズチャッズチャッズチャッ
耳元で音がなっている。何十にも重なって、同時に、声が聞こえてきた。耳の奥で激しく反響し、脳を揺らす。
お前が、お前が、お前が。
「お前が死ねばよかったのに」
胸の奥から、黒い球体が浮き出た。
ふわりふわりと宙を飛んで、少女に近づいていく。少女の目の前で弾け、ピシャリと地面を濡らす。
ロウソクの炎がユラユラと揺れ動き、地面をオレンジの光が照らす中、その黒い円だけが静かに鎮座していた。
細い、紙を切ってできたような腕が黒い穴から這い出てきた。その腕は揺れ動きながら、どんどんと伸びて少女に近づいていく。
震える少女の体に、腕がすっと入った。
その瞬間、少女は体を痙攣させ地面に倒れた。腕は、満足したように穴へと戻り、穴は次第に収縮を始めやがて消えた。
少女は依然として、地面で痙攣を続けていた。
死んではいなかった。上手くできなかった。飛んでくるであろう暴力に身構えていると、伸び切った髪がわさわさと揺れ、頭に人の温度が伝わった。
「よくやった、よくやったぞっっっ!」
老人は今までで一番の大きな声で喜びを顕にした。優しい表情で、僕を褒め称え、そして「長年の彼岸がようやくっ」と壊れたラジオみたく何度も繰り返していた。
また、その日々は繰り返される。永遠とも思われる月日が流れた。胸の内から現れる黒い球体は、弱った子供をいたともたやすく殺した。やがて、血色のいい子供さえもあっけなく死ぬようになった。
しかし、順調にばかりは進まなかった。
殺しきれるようになるまで、次第に時間がかかるようになっていった。あまりに膨大な時間を費やして、ようやく殺せるようになり、終点を迎えた。
成人したばかりであろう女性を、いつまで立っても殺すことができなかった。次第に老人の態度は豹変していく。いや、戻ったという方が正しいだろう。
殺せなければ、罵倒され、暴力を振るわれた。その時が過ぎ去るのをじっと待った。反抗する気なんてとうに起きなくなっていた。
動けなくなるほど殴られ、引きずられて元の牢にまで連れてこられると中へ放り投げられた。
もはや、立ち上がる気にもなれない。
時間が立つと、次第に地面と体の輪郭がぼやけていくような感覚に襲われた。体が溶けて、元の自分がどうあったかもう思い出すことができなくなる。
繰り返される日々は、精神をすり減らして、いつの間にか何かを失ってしまった。あまりに空虚で何もなく、何があったのか、そもそも本当に存在したのかさえももはや証明できやしない。
どろどろに溶けた体が、寄り集まって一つの塊になっていく。目も、口も、表情も、凹凸のない、人間の形をした人形。まっくろな人形は、何度も僕に問う。
「お前は誰だ」
答えようとして、言葉に詰まってしまう。
僕は……誰なんだ?
その言葉が脳に浮かび、また、溶け出していく。どこに、どこに僕はいるんだ。分からない。
ただ、日常が過ぎ去っていった。痛みに対して、どのような感情を抱けばよかっただろう。分からない。僕はどうすればいい。私はどうすればいい。俺は一体、どうすればいいんだ。
その日、牢に戻ると見慣れない少女がいた。俺が放り投げられるのを見て、ビクリと体を震わせ、怯えていた。
「今日からは二人で暮らせ」
それだけ言い残すと、老人は足早に牢をあとにした。
カツンカツンという足音が聞こえなくなった頃に、少女が横たわる俺に近づいてきた。とうとう、殺されてしまうのだろうかと考えた。もはや、動く心は残っていなかった。そのような可能性を考えながら、体は微動だにしない。
だけど、当然そんなこと起こりえず、体に優しげな温もりが満ちていく。鈍い痛みをずっと残していた傷跡が嘘のように癒えていく。
「だいじょうぶですか?」
光の一片も差さないこんな地下牢の中で、少女は首を傾げ、実に心配そうに俺の顔を覗き込んできたのだった。理解することができなかった。
少女は、その後もなにかをひたすらに喋り続けていた。どこか別の世界の出来事のようで、口が動くのが見えるのに声が耳に入ってこなかった。
俺は、壁にもたれて何も言わず、ただジッと少女を見つめていた。
「アガァッッッッッッッ!!」
必死に息を吸うと、灼熱の空気が肺を焼いた。体を焦がす炎を消そうと、地面を転がり回るが、炎を更に皮膚も燃やしてゆく。
叫び声すら挙げられなくなり、全身が激痛に包まれた。熱は鋭く、幾億という針で肌を差されているかのようだった。
殺せ、殺せ、殺してくれっっっ。
そう懇願することさえ許されない。
見上げると、老人が楽しそうに笑みを浮かべている。何故なんだ。俺は従順に従ってきたのに。何故こんな仕打ちを受けなければいけないんだ。
体中の皮膚が炭化して、それでも俺は生きていた。頼りなく酸素が口から漏れ、入り込んでくる。
目を開けることすら叶わない。体に衝撃が走り、何かにぶつかったところが悶絶するほど痛い。それでも声が出ない。
次の瞬間、全身を痛みが襲った。熱くて、また全身が燃えているようだった。しかし、それもすぐに痒みへと変わった。くすぐられているような感覚が肌に残り、ようやく目を開けると少女がまた心配そうに顔を覗き込んでいる。
その時、理解してしまった。老人の笑みを、少女の存在を。
正しくその予感は的中し、次の日、皮膚の内側で無数の虫がのたうち回った。肉を直接触れられる痛み。そして虫は皮膚を食いちぎり外へ出て、酸素が皮の内側へと染み込んでゆく。仮に地獄があるのなら、これがそうなんだと確信が持てた。
脳の奥で、チリチリと殺した人たちの顔が燃えていた。
拷問が繰り返され、痛みが脳に張り付いた。少女に傷を直してもらい、瞼を閉じても、まだ残っている。
腕を貫いた釘の感触、喉から押し寄せる水の感触、体を削ぎ落としていく風の感触。それがふとした瞬間によぎり、目を覚ました。
「その、勇者ってやつの話を効かせてくれ」
気まぐれだった。話を聞いていれば、気を紛らせられるだろうかと思ったのだ。少女は、いつも俺に語りかけていた。
壁によりかかり、何も言葉を返さない俺に足して、ずっと明るく話し続けた。この暗闇の中で、自分を見失ってしまわないように必死に笑顔を浮かべ続けていた。
「勇者様は、困っている人を皆救ってくれるんです。強い思いを持って、信念を捨てずに、頑張っていれば勇者様が来てくれるんです」
少女は「きっと明日になれば勇者様が来てくれます」と、口癖のように繰り返していった。言葉通りに、諦める気配を見せず毎日明るく振る舞い、勇者とやらが助けに来ると信じていた。
毎日拷問にさらされ、少女に傷を癒やしてもらい話を聞く。そのうち、次第に少女に憧れさえも抱くようになっていた。自分よりいくつも小さいこの女の子が、自分より幾倍も大きく見えていた。
「俺も、信じてみるよ」
「はいっ!」
俺のその言葉に、驚いた様子で目を丸くすると、心底嬉しそうな表情を浮かべて少女は首を立てに振った。
そうだ。俺はこんなにも頑張っている。大丈夫だ。きっと、勇者様が俺を救ってくれる。
いつものように、格子が開けられると首輪をはめられた。その様子を、少女が心配そうに見つめていた。心配するなと首を降って、引かれるままに広間へと連れて行かれた。
既に、そこには男が立っていた。どこか、見た覚えがあるような気がする。いつだっただろうか。魔法を見せられたときか、拷問されていたときだろうか。いや、どうでもいい。
「すこしだけまっていろ」
老人はそう言って、広間をあとにする。数分か、数十分か、それなりに時間が過ぎた。戻ってきたとき、その肩には麻袋が乗っていた。
「いいか、お前が今までヤラれたように、これにしてヤルんだ」
そう言って、麻袋を俺の前に放り投げる。ジタバタと、麻袋が暴れた。また、最初からやり直すつもりなのか、麻袋は一メートルほどの大きさしかなかった。
「ああ、ああ、もちろんだとも。そうだ、なんでも願いを一つ叶えてやる。ああ、なんでもだ」
なんでも、その言葉に幾つもの考えがよぎった。俺を開放してくれ、俺を元の世界に返してくれ。
そして、同時に返ってきた。
お前は、帰ってどうするんだ?人の形をした真っ黒の人形が俺に問う。何一つ、答えることができなかった。
「あいつを……俺と一緒の牢にいる、あいつを開放してやってくれ」
その言葉を聞いて、老人の口が酷く歪んだ。
「ああ、いいとも! もちろんだっ! 約束する、さぁ、早くコイツを殺してみせろ」
目を閉じて、思い出した。何度も受けた苦痛が再生され、すべてが寄り集まっていく。なんども、感じた死のイメージがより強固なものになって、一つの塊になる。
胸から、黒い球体が溢れ出た。それは、人の頭ほどと、今までの比にならない大きさを持っていた。
「いいぞっいいぞっ!!! その調子だっっっ!」
いつもと同じように、麻袋の前で弾けて地面に黒い円を作る。ペラペラの紙のような腕じゃない。おどろおどろしい、不気味な腕が這いずり出て、麻袋に近づいていく。
無数の腕が同時に、麻袋を取り囲んで中へ入り込んた。
声にならない声が広間を満たし、空気を震わせて牢の明かりを一つ消した。部屋が少し暗くなり、やがてジタバタという動きが止まる。
「さぁっ、今だ。やれっっっ!」
背中で、老人の叫び声が聞こえた。
心臓がバクンと跳ねる。
体が震えて、幾重にも重なり、ブレてやがて輪郭が曖昧になってゆく。
「大丈夫……怖くないです」
やめろ。
「だって、信じてるから。諦めないで、一生懸命頑張れば、」
やめてくれ。
「そうしたらきっといつか、勇者様が救ってくれるって」
心臓がより大きく、跳ね上がる。
その瞬間、黒い円が広間中を満たし、すべての明かりが消えて何も見えなくなった。
「そうだっ! いいぞっ! 成功だっっっ! やはり私の理論は間違えていなかった!」
老人の歓喜の声が、暗闇の中で響くのが聞こえた。
何も見えはしない、それでも、穴から命を求め、腕が溢れ出しているのがわかった。
「おいっ! もういいっ! 止めろっっ! やめろっっっ! 私までっっっ」
そこまで言って、言葉が切れた。もう一つの、男の悲鳴も小さく消えた。
少女と繋がった感覚を残し、再度結合していくのがわかる。
なぜ、あいつは女一人でさえ殺せないのだ―――
伝承の勇者のとおりならばより強大な力を―――
イメージが……それとも願いか―――
そうか、勇者。多くの感情を、信念を繋げし者―――
ようやく、完成する―――
願いを力に変換せしものっっっ―――
写実的に、幾つもの光景が脳にフラッシュを焚き付けた。
あまりにあっけなく理解してしまう。
俺は、勇者という兵器として呼ばれたんだ。国さえ滅ぼしえる最悪の兵器として。
よもや、なんの未練さえも残ってはいない。
階段を登り、ギィと蓋を上に開けた。薬品の匂いが鼻を刺す。あちこちに薬やらがこぼれているのが見えた。部屋から出て、少し歩いたところに玄関が見えた。
一体、いつぶりだろうか。
外へ出て、腕で光を遮りながら空を見上げた。あいにく空はオレンジ色で、なんどもみたロウソクの火と酷似していた。
ドンッと、小さな存在が足にぶつかった。
「こらっ! この子がすみません。 ほらっ、頭下げて」
少年の母親のような女性が頭を下げると、少年の手を引いて立ち去っていく。町を見渡した。なんて、不気味な光景だろうか。
ただ、当然のように幸せを享受する人々が町を闊歩している。
思い出していた。
自分が、この世界に来た日のことを。
燃え盛る町を目にして、二人の顔を見た。老人と、先ほど地下であったあの男だった。
とうに、理解していた。その感情を、何度も向けられてきたから。
また、始まりを示すように町は燃え盛る。
勇者なんてものは、おとぎ話の存在だ。
この世にいるわけもなかった。
感情も、信念も、全て偽物だ。だって、こんな簡単に壊せてしまう。あまりにもろく、あっけない。
ああ、ああ。勇者様。
もしも本当にあなたがあらせますならば、この私を退治して、人々を救ってみせてください。
なんども過ぎった男の記憶か、老人の記憶か、いつの間にか、魔法を使っていた。燃え盛る家々の中、呆然と立ち尽くす少年が見えた。
なんて哀れなことだろう。
一瞥し、振り返りもしない。
そうして、見つけた。ザラリと胸を撫でる感触を覚える。
やめろ。お前のような奴がいちゃいけないんだ。
感情も、信念も―――
やめろっっっ。
泣きながら、人々を癒やす少女が、俺の瞳いっぱいに映った。
集中力改善のためにラムネでも買ってブドウ糖取ろうかなと思ってたんですけど
結局直接ブドウ糖買いました
天才かもしれん




