第24話 ドブの中で
まさかと思うでしょ?
まさかのまた過去変なんですよー
小さい頃の記憶は酷く曖昧だ。
両親というのにあったことがないこと、俺を育てた道楽爺さんが、冬の寒さでポッキリ逝っちまったことくらいがボンヤリと覚えている記憶。
どうでもいいことだ。面白くもない。
暖かい暖炉も、優しくしてくれる人も、色さえも無いクソみてぇな世界だった。
目に映るのはいつも白と黒の灰色の光景。そんなふうに生きていた。いつもゴミ溜めで起きて、眠った。楽しいとか、つまらないとか、嬉しいとか、悲しいとか、そんな感情を知りさえしない。
自分は、ドブで生まれたクソネズミだと本気で思っていた。
あの頃、あったのは一つだけ。死なないこと。生きているのだから、それが自然だ。そこにあるのは生への喜びなんかじゃなく、もっと獣に近いなにかだ。
いつもお腹が空いていた。生きるためには、空腹から抜け出す必要があった。自分の腕を食えば、少しは腹が膨れるだろうか。そう思って目を落とす。皮と骨しかない。これじゃあ、足しにもならない。
ゴミ袋のような、薄くてあちこち破れたシャツ。夏だというのに常に震えていた。どこまでも寒かった。いつだって、すぐ目の前に死があった。死なないために、ゴミの中を這いずって食べ物を探した。
這い回るゴキブリも、蛆もごちそうだった。俺を育てた爺さんは、生で食うなと言っていた。だから火を焚いて焼けるのを待った。煙と匂いは、俺と同じ、クソネズミを集めた。腹を殴られて奪われた。そしたらまた飯を探す。ドブに浮いている腐った魚は食えないこともなかった。
幸いだったのは、子供というだけで需要があった事だ。クソネズミが、舌をだらしなく垂らしたまま腰を振り、汗を撒き散らした。メスネズミがいやらしく体を舐めまわした。
ギラついた目を見ると、なにか食われているような気分になった。すべてが終わると、動けなくなった俺の横にパンを置いていく。ガサガサで、青カビが端々についていた。それでも、あまりに美味しかった。
案外、優しい奴もいた。ニヤついて三日月のように歪んだ目を光らせて、俺を見下ろす。そいつらは飯を分け与えた。そして、すべてが食い終わったあと必ず謝罪する。息を荒くして、腹を殴る。何度も殴っては飯を吐くのを見て、恍惚とした表情を浮かべた。
吐瀉物を啜るのは惨めだ。
それでも、死なないように。
体が大きくなるにつれ、飯にありつける回数が減った。歩き回って、小さなクソネズミを探す。昔されたように、蹴飛ばした。飯を奪った。結局、もっとでかいクソネズミに奪われた。
いつものようにゴミを漁った。ガサガサの黒ずんだ手で飯を探して、ふと、目に付いた。何度も見た光景だ。クソネズミがヨダレを垂らしながら、腐ったメスネズミに棒を突っ込んでいる。
蛆が沸いた穴を挿して抜いて、心底楽しそうだった。
「そうイやネズミ、食エんだよな。」
ふと思った。メスネズミみたいにすれば、焼いて食えるかもな。
皮を引きちぎって、鈍く光を反射する剣心が胸から突き出した。クソネズミは倒れ伏せ、ビクンビクンと痙攣しながら口から血を垂れ流す。
奥歯に隠していた、火の魔石を吐き出して男を燃やした。焦って、右手が軽く焦げた。気にならなかった。腹が一杯になったから。クソネズミの肉は、今まで食った何よりも臭かった。
それからは、飯を探しにゴミ溜めを漁り、帰りは暗い場所を探すようになった。ジメジメした薄暗い場所には、必ずクソネズミがいた。
飽きもせず、呼吸を荒くして必死に腰をふる。穴から剣をぶっ刺して、串焼きにしてやった。頭を切ってやった。腹を割ってやった。肥え太った奴は最高に臭いが、甘かった。骨張った奴は食うところがほとんどなくて、仕方なく骨をしゃぶった。
繰り返すうちに、暗い場所を、小さなクソネズミを探すばかりになっていた。わざわざ苦労する必要もない。
目にしてしまったんだ。ゴミ山の下で、ハエのたかるネズミの死体を貪るネズミを。ああ、そうか。殺す方がよっぽど楽なんだな。
倫理観なんて物は持ち合わせちゃいない。
あれはもっと綺麗な場所で生きる奴が、自分の身を守るために、みんなに言って聞かせる物だ。そんなことをしてる暇があるんなら、みんな殴っちまえばいい。ここじゃあ、そっちのほうがよっぽど利口だ。
そういう意味では、生まれたその時から、タガが外れちまっていたんだろう。
ひたすらに、臭い肉を貪った。
ただ、そんな獣じみた場所にでも、ルールがあった。数に逆らうな。
ガキと遊ぶような連中を狙っていたものの、そんな奴らにも仲間がいたらしい。救ってやったどっかのガキが、俺のことを言いふらした。
足一本程度じゃ満足できなかったらしい。ガキの頃から欲張りやがって、長生きはできないだろう。
何度も繰り返してきたように、相対するクソネズミの首が切れる様を思い描く。すると、腕に剣が収まった。襲ってきた奴は皆、燃やしてやった。
それでもやはり限界が訪れる。
とうとうゴミ溜めの中でさえ居場所のなくなった俺は、町へ入っていった。
なぜ、今までそこへ行かなかったのだろうか。
それが分からなかった。
不気味な、忌避感があった。そこに行けば、生きていられなくなるという、そんな気がしていた。
綺麗な町で、ハエのたかる俺だけが異質だった。
ああ、まさしく迷い込んだネズミだ。
小汚い俺に、すれ違う人が鼻を塞いで、石ころを投げつける。俺は代わりに剣を投げつけてやろうと考えた。それでも、剣は一向に現れない。
大勢が俺を見ていた。夜の猫のように、ギラギラと光る瞳が、俺に集まって、どうやって遊んでやろうと、舌舐めずりしている。そんな気がした。
俺は、冒険者になった。
いらなくなったガキ、仕事のないろくでなしが最後に行き着くくだらない仕事。だが、まさにそこは天国だった。外の世界へ出て、緑を見た。灰色しかなかった俺の世界が色鮮やかに彩られていくのを感じた。
森へ入って、狩りをして、金をもらう。夢のような生活じゃないか。性に合っていたんだと思う。町へ戻ると、嫌な顔をされて、ギルドへ入ると、唾を吐きかけられる。そんなことさえ、もはや気にもならない。
居場所なんて最初から持ち合わせちゃいない。
初めて、綺麗な水で身体を洗った。初めて、臭くない食べ物を食べた。全てが楽しくて、俺は初めて、生きていたいと思った。
ギルドへ行って、クエストを受ける。ボードに貼られた依頼書は、文字が読めなくても良いように決まった形式で簡単なイラストが描かれていた。
一枚を剥がし、受付に渡す。その度に嫌な顔をされた。
文字が読めないのを良いことに、別の危険な依頼を押しつけられ、他の冒険者に足を引っかけられた。
初めて得た喜びは、大きな苛立ちへと姿を変える。
だから、ぶん殴ってやった。黄ばんだ歯が抜け落ちて、小便を漏らす惨めな大人。なんて痛快か。
旨い肉を食って、酒を飲んで、ベッドで寝る。
絶頂だ。
充実している。
だから、自惚れた。幸福を知って、もっと、もっとと欲して、深みに嵌まっていく。欲求は止めどなく溢れて、より危険な依頼を受ける。
町の外へ出て、森の奥にまで入り込んだ。あんがい簡単に目的の魔物を仕留め終わって、俺は、酷く油断していた。
森の奥は誰にも荒らされておらず、貴重な薬草が生い茂っていた。仕留めた獲物をつるして、そのまま俺は金になる物を夢中で漁った。コイツラはスープに化ける。
なんて、愚かだったと思う。
俺はとうとう最後まで、近づく巨大な魔物に気がつかなかった。紫色の身体に、巨大な二本の巻き角。牛によく似た体躯をしているものの、肥大化した筋肉がそれとはまったくの別物であることを語る。
何度も土を踏みならし、鼻息を激しく吹き出して睨み付けてきた。
瞬間、走り出していた。
押し寄せる死のイメージが払えない。
死にたくないと思った。俺は、それが普通だと思って生きてきた。そこに何の疑問もなかった。でも、今は違う。生きていたいから、死にたくない。
初めて、死を実感して、恐怖が身体を満たしていく。
不意に、頭をよぎったのは、俺が今まで殺してきた人間達。
何がクソネズミだ。俺も、殺してきた連中も、おんなじ人間だ。共食いをするような汚らわしい獣とは違う。
これは、罪なんだと思った。
生きたい誰かを殺して、生きたい俺は殺される。
ああ、なんだ、そうかよ。
ふざけるなッッッ
何が罪だ。俺はただ、生きてきただけだ。
町の連中が、暖炉のある家でぬくぬくと育つ中、俺はヘドロさえ喜んで頬張ったのに。優しさなんてどこにあった。生きるためにはそうするしかなかった。死ぬか殺すか、それしか道はなかった。
今さらになって、悪だとか、罪だとかフザけたこと抜かしやがって、それなら最初から救ってくれりゃあ済んだ話だろうが。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。
絶対に死んでなんかやるものか。
どんなに汚くたって良い。どんなに醜くたって良い。死んでなんかやらねぇ。生き足掻いてやる。
そうだ。
俺が死ぬときは……俺が決める。
顔を涙と鼻水、汗でぐちゃぐちゃにしながら走り回った。足に木の枝が刺さって血が出ていたけど、気にしている余裕すらなかった。
後ろで、木が倒れる音が聞こえて、だんだんと近づいて来る。走りながら、後ろに何本も剣を生み出して飛ばす。それでも、音は鈍ることなく近づいてくる。
「クソックソックソッッッ! 来るなよ、どっか行けよっっ」
一本、また一本と剣を作っては後ろへ飛ばす。勢いは収まるどころか、次第に加速していく。
一際大きな音がして、後ろを振り向いて、ドス黒い瞳が見えた。
「あっ」
気がついたとき、視界がぐるぐる回っていた。どっちが地面か分からなくなって、身体が吸い寄せられて、ようやく叩き付けられる。
口から血を吐き出した。
なんだよ、なんだよ。クソみてぇじゃねぇか。ようやく幸せに慣れたと思ったのに。
ああ、そうか……だからか。
ふと、小さな頃に抱いていた町への忌避感を思い出していた。
そうだ。俺が恐れていたのは、幸福だった。
知ればもう戻れない。この麻薬は身体を蝕んで、やがて殺す。
俺はそれを知っていたはずなのに。
全身が痛くて、立ち上がれない。なんとか目を開けて、また、紫色の肌が見えた。
悪魔。その言葉が頭に浮かんだ。
次に体当たりをされたら、俺は間違いなく死ぬだろう。
逃げなくちゃ、逃げなくちゃ、逃げなくちゃ。地面を這って、指が切れて、血が滲んで、どうでもよくて、ただ死にたくなかった。
「誰か……助けてくれよっ」
向かってくる牛野郎を見ながら祈った。
何を今さら。俺は今までその祈りを何度無視してきたことか。
ああ、死にたくない。
ようやく抱けたその感情を抱いて、ゆっくりと瞼を閉じた。
I think "MASAKA"




