第1話 出会い
「はぁっ……はぁっ……」
呼吸が荒くなり、舌が乾いた。額へ垂れる汗を何度も拭いながら足を動かすが、差は縮まるどころか広がってすらいる。「ちょっと待ってくれ」そう言って待ってくれるような人じゃない。それはこの短い付き合いでさえなんとなく分かった。
道を遮る草をかき分け、踏みならしながら前を行く。僕はその後を追う。それでなぜ差が生まれるのか。
腰あたりにまで伸びた背の高い草が生い茂り、見渡す限りを苔むした木で占める蒸し暑い森。なんども目の前を、小さな虫が横切った。
歩きやすいコンクリートが恋しくなる。過保護すぎる現代で育られ、無事すくすくと貧弱に育った。かえって舗装された道が憎い。
あちこち出っ張っては凹んでの、できの悪い道が体力を奪う。足を上げようとすると、腿の筋が引きつってちぎれそうになった。
たまらず、すり足になり、かえって足を取られる。
「っとととブエッッ」
赤くなった鼻をこすりながら見上げると視界に影が落ちた。オレンジ色で、後ろにかけ上げて尖る髪の毛が見えた。さっきまでは、ペースを落とす気配すらいっこうに見せなかったのに、いつの間にかクシュージャさんが目の前で立ち止まっている。
前へと進むことに意識をとられ、足を止めていることに気がつかなかった。
「大丈夫? ボンタくん」
同じ年頃の少女に心配されるのは、なんとも情けない気分になる。
「ぅん。問題ない」
少し前から、興奮した犬並に息が荒くなっていることも、汗をかきすぎて逆に寒くなり始めたことも、もちろん全身が棒で感覚がないことも問題ではない。
微笑みと返答を受け、リダはすこし不安そうにしながらも納得した。
今はそれよりも気になることがあったのだろう。
「クシュージャさん……?」
体当たりを受けてもピクリともせず、それどころか返事もない。電池が切れたみたいに、予兆もなく動きを止める。電源の入らないおもちゃの様だ。確かに気になる。
「…………。そっちかッ」
ピクリと顔が動いた。スイッチが入り、見開いた目はどこか遠くを睨み付ける。
真似をして辺りをを見渡すが、相変わらず、背の高い草ばかりが目に入る。いい加減うんざりする。
「一体どうしたんですか」僕がそう口にするより早く、クシュージャさんは走り出した。
腰につけたポーチから赤く光る石を取り出し、前に投げる。空になった右手には、いつの間にかナイフが収まっていた。同様にして投げる。
風を切りながら進むナイフが石を砕き、赤い粉を散らした。光が乱反射して、パチパチと破裂音が鳴った。
ごおっと熱い向かい風が生まれて、夕焼けみたいな赤に包まれると、炎が走り道を切り開いていく。
クシュージャさんは、姿勢を低くして加速する。邪魔な草が焼け焦げて、風を受けると灰が崩れて空へ舞った。その後にリダ続いた。二人がみるみるうちに小さくなっていく。
「あっ! ちょっ、ちょっと待って下さいよっっ」
なんとか追いつこうと必死に足を振り上げるが、それでもいつもの半分も上がっていない。息が詰まる。今までどうやって息をしていたっけか。
汗が頬を伝い、喉をなぞった。ひんやりと冷たい。細かく何度も吸って吐くべきか。大きく丁寧に呼吸を整えるべきなのか。疲れた頭にモヤがかかって考えがまとまらない。
やばい。このままじゃ見失う。
「ブエッッ」
本日二度目だ。どうやったらこんな牛蛙のような声が出るんだ。なにわともあれ、お尻が痛い。
「大丈夫? ボンタくん」
デジャビュだ。このやり取りには既視感を感じる。僕の記憶が間違っていなければ、かなり最近のはず。
同じように答えると「立って。」と言われた。
状況を急いで確認する。腰の剣に手をかけるクシュージャさん。その正面に、森に不釣り合いなコートを着た男。フードをかぶって顔が見えない。
ただ、いかにもだ。男の後ろに、木を背にしてへたり込む少女が見えた。体を小刻みに震わせ、怯えている。これだけそろえば十分だろう。お手本のような不審者だ。
いつの間にか息を止めていた。膠着状態。睨み合いの中で動くこともできず、もどかしさだけが募った。
僕はフードの男から視線を外し、クシュージャさんを見た。どうにかしてくれ、情けないけどそんなことを考えていた。実際、僕なんかじゃ何もできない。自分の力も分からず、不用意に動いて迷惑をかける様な間抜けにはなりたくなかった。
背筋が凍り付くような、不意に、悪寒が走った。雪のふる寒い夜のように、気がつかないうちに肺から酸素が漏れ出す。ずいぶんと震えていた。
それが合図となった。
クシュージャさんが、右手を腰の剣の柄から離し、横に大きく振る。嫌な予感が見事に的中した。手が辿った軌跡を追いかけ、数本のナイフが空中に浮かび上がり、一点をめがけて走り出す。
映ったのは最悪の光景。フードの男が少女の首を掴み、自分の前に掲げた。
「っっっッ」
叫ぼうとした。言葉が見つからなかった。樽に閉じ込められた海賊のおもちゃが、頭の中に浮かびあがっていた。
カラフルなナイフを同時に差し込まれた海賊はたまらず飛び上がる。チープな胴体はおもちゃらしいコミカルな色。重ねるように、新しい赤の色が塗られて行く。顔だけが夢の中で剥離して、口からは絶え間なく血が流れ落ちていた。たこ焼きみたいなまん丸の顔が、少女の顔に変わって、苦しそうにこちらを見た。
目をつむりそうになった。
ナイフが遂に少女の胸へと到達した。
鉄を打つような高い音がした。
ナイフが弾かれて地面へと落ちて行く。横を見るとリダが片手を突き出し、二人を睨み付けていた。緑色の瞳が、鋭く光っている。
良かった。思ったのもつかの間、もう少し安心の感情に浸らせてほしい。
そうなるのが分かっていたのか、クシュージャさんは間髪入れず、走りだしていた。
不意に、男が首を傾けた。背後から迫っていた剣が、男の顔の横を通り抜け、フードの端を切る。剣の勢いは止まらず、クシュージャさんに迫った。咄嗟に首を傾げる。頬に一本の赤い線が引かれ、剣が通り過ぎていく。ちょうど、顔の横を柄が通り過ぎようとした時、そのまま剣を掴む。
「クソッ」
まさか。まだ少女は盾にされたままなのに。
クシュージャさんはそのまま、大振りで剣を振った。まるで少女がどうでもいいみたいに。
男がとっさに少女を投げ捨てた。ああ、よかった。たまには嫌な予感も役に立つ。的中しないでくれるのが一番ではあるのだけれど。
「っっっと」
胸にぐっと重力が掛かる。男に向かって走り出していた僕は、無事に少女を抱きとめた。もやしのような足では耐えきれず、背中から地面に倒れ込む。肺から一ミリも残らず空気が飛び出して、グラッと空が揺れた。
消えかけの意識の中で、胸に乗った重さが鼓動するのが分かった。抱きかかえた腕に温度が伝わった。良かった。
霞んだ視界のまま、辺りを見た。男は咄嗟に身をかがめ、斜めに振られた剣を躱わしていた。息をつく間もなく蹴りが放たれる。唾を吐き、木に背を打つ男が見えた。クシュージャさんが剣を握り、歩み寄った。男に影が落ちた。とっさに少女の目を覆った。
その時、風が吹いた。なんてことのない、通り風。木の葉がすれて、できた隙間から陽が差す程度。
フードが揺れて、口元を照らす。その口角は、歪んでいた。
地面から光が溢れた。土の下でウネウネと辺りを覆う、太い管が灰色の煙のような光を発している。
「リダッッッ」
「でもっ!」
「リダッ!」
怒鳴り、青と黄色の石を空に放る。それを追うようにナイフを投げつけ、砕け散ると、破片が舞い落ちながら発光し、幻想的な風景を作り出す。
たちまち、辺りに霧が立ちこめ、電流が宙を走った。
瞬間、地面から陰が飛び出した。小さな体、背びれ、鋭い刃、土色の肌。ミニチュアのサメが、肉をめがけ飛びかかる。光が途切れ、夜が訪れた。数千、数万のそれは綺麗に空を覆い隠す。一瞬にして視界が灰色に覆われた。
咄嗟に、少女に覆い被さる。
ガキンッ
金属をたたくような音が脳に響いた。
ガラス越しに、放り投げられた赤色の石が、砕けるのを見た。
太陽のような赤い光に包まれて、目が眩む。
大きな破裂音、その後で、耳がトンネルに入った時みたいになって、音が聞こえなくなる。
どれだけたっただろう。やがて、氷の結界が端から、光の粒子になって空へ立ち上っていく。
地面には大量の肉片。時間と共に灰色の炭となり、風に流され空へ溶けていく。
見るに堪えない真っ赤の地面は、五分とせずに元通りの苔だらけの緑色となった。まるで何もなかったみたいに。それが少し怖いと思った。
「生きてるっ……?」
実感が沸かない。正に生きた心地がしなかった。
「苦しっっ、だしてぇーっ」
慌てて離れると、ようやく解放されて、少女は大きく息を吸った。
「ははは。生きてるのか。生きてる……ははははは」
乾いた笑い声をあげていた。腰が抜けて、気がつけば地面に座り込んでいる。そのままダランと頭をもたげて、上を向いて笑った。右手で顔を覆って、少し涙が出てきた。
「なんだ」
向き直ることもせずに言う。リダはクシュージャさんの横に立つと、俯むいてボソボソと呟く。
「何ですか! 今の戦い方はっ!」
今までの、穏やかな声はどこにもなかった。
夕焼けが灰の粒子を絶え間なく照らし、リダの青い髪を揺らした。怒鳴り声が木々で反響し、森を満たしていった。