第13話 自らの名前
第13話
深い海の、暗い底に沈んでいた。やがて海底にたどり着くと、僕の体はふんわりと落ちて砂埃が立って水を濁らせる。体が冷たくて、気持ちがいい。
とても、心地よくて穏やかな感情が胸を満たしてくれる。
「………っ!…きてっ!」
どこからか、音が聞こえた。体を覆う水が小刻みに震えてくすぐったい。聞いたことのあるような、そんな気がした。目を開けると、水面に波紋が広がった。
「ボンタっっ! 起きてボンタっっっ!!!」
「んっ……おはよ、ララメ、リダ」
目を開けると、ララメとリダが顔を覗き込んでいた。
「ふあぁ〜あ、まだ眠いや。もう朝?」
ぼやけた眼をこすって、辺りを見た。まだ空は暗く、テントの中ですらない。状況が飲み込めず、前後の記憶を探る。
その時、見下ろすくシュージャさんと目があった。
ビクリと体が震えた。無意識のうちに唾を飲み込み、息を止める。視線をずらし腕を、足を見た。
肘と膝には綺麗に赤い亀裂が刻まれていた。傷跡が、すべて夢でないことを物語る。
「あの憎しみはそんなものじゃなかった」
その言葉は重く鼓膜を震わせ、心臓が大きく跳ねた。呼び起こされた記憶は、いつにもまして轟々と燃える炎を瞳に映す。苦痛と憎悪の果に、叫び声を上げる人々の表情が張り付いて離れない。
それでも、やらなくちゃいけない。耳元で、なんども救ってみせると声がした。
次の日が来れば何事もなかったかのようにまた歩いた。夜が来て、僕はまたクシュージャさんに頼み込む。
無言で背を向け歩き出す彼を追いかけた。
その晩、何度切り刻まれたのだろうか。死にかけて、回復してまた死にかける。進歩の見えない繰り返しを、壊れたビデオのようにひたすら繰り返す。
リダはそれを苦しそうな顔で見ていた。最初は心配して止めてくれた。今はただ、見守ってくれている。自分が傷ついているかのように苦々しい表情を浮かべて、彼女はそれでも目を逸らすことはない。
ララメは毎回丁寧に回復魔法をかけてくれた。傷つく度に泣きそうになって、それでも何も言わず僕を癒やした。温かい魔力が体に染み込んでゆくのを感じた。
優しいララメの頭を撫でて立ち上がり剣を持つ。そうだ。この子は立っている。決して諦めず、すべてが助かることを願っている。だから。
僕は感覚を繋げ、殺意の感情と向き合った。
そうして、なんの進展もなく無駄に数日が過ぎ去っていった。
「明日には、村につく」
その晩、クシュージャさんは言うと背を向けて歩き出す。僕は何も言わずに後を追った。
なんど、繰り返しただろう。体中に傷跡を残して、気の遠くなるような痛みに耐えて憎悪の感情を受け止めた。胸を掻き毟りたくなるほどの殺意に抗うことができない。
それでも、やらなくちゃいけないんだ。
あの声は、それを望んでいる。
剣を構えて向き合った。クシュージャさんの瞳が貫くように僕を捉えている。それを周りで心配そうにリダとララメが見つめている。
息をするのを忘れてしまいそうになる。赤く揺らめく視線がじわりじわりと恐怖を染み込ませてゆく。
肌に触れる風が嫌に冷たく背中を撫でた時、大きく唾を飲み込んだ。
喉が鳴り、赤い線が宙に引かれた。リズムを刻む指揮棒のように、緩やかに左右に揺られ軌跡に影を残す。
必死に目で追いかけて、体に力を込める。
パンパンに空気を押し込められた風船に針を刺した。体中から溢れ出す空気が吸い込まれるように一点を目指し流れ込む。
全身から力が抜け、浮遊感に包まれた。
目が合った。
遠い意識の中で、赤い二つの瞳だけが脳に焼き付いた。耳元で囁く、殺せという声に柄を握る拳に力が籠もる。
息が自然と荒くなり、獲物を探して辺りを見渡した。
左腕が軽くなった。
鈍い音が足元でして、左腕から力が抜け出してゆく。凍りつくように断面が冷たい。覗いた骨が燃えるように熱い。
血が流れれば流れるだけ、体温は冷え思考が恐怖で押さえつけられる。でも、殺意は消えた。
右腕だけで剣を持ち、深く息を吸い呼吸を整えた。もう、失敗できない。次はきっと救ってみせる。風が頬を撫で、同時に剣を振るった。
耳元で甲高い音が鳴り響き、火花が散って刹那の瞬間クシュージャさんを写した。
剣は大きく弾かれて、胴ががら空きだ。クシュージャさんの剣は既に走り出し、真っ二つに腹を割ろうとする。
とっさに地面を蹴って、後ろに倒れるように飛んで交わす。細い針で引っかかれたような鋭い痛みが走る。血が滲んで薄く皮が切れた。
すかさず、クシュージャさんが間合いを詰めた。僕に覆い被さるようにして剣を振り上げる。
銀色に光る鏡面に、その背に浮かぶ月が映る。それは揺れ、ぼやけるとやがて落ちる。
ああ、そうだ。まだだ。まだ諦めちゃだめなんだ。
全身の毛穴から、血が吹き出した。クシュージャさんにぶつかって染み込むと、倒れ込む僕が見える。強い強い感情がうねりをあげ、暴れ狂う。もはや体を制御することも聞かず、筋肉が軋み殺意を乗せて動き続ける。
脳内に広がるのは目の前の男が死ぬイメージ。真っ二つに割れた体からはとめどなく血が溢れている。
クソックソックソッヤメロッッッ!混ざるな、俺は……俺は。
「そんな望みなどッッッ!!!」
また、体に意識が押し戻され、とたんに動き出した呼吸に脳が加速し、反射的に右腕が動く。
また、耳元で破裂するような音がして腕に衝撃が走る。
「紛い物がっ! 勇者のなり損ない。そんなお前に何ができるッッッ!!!」
僕を見下ろす赤い瞳が激しく揺れ動いた。燃えるような赤色だ。薪は更にくべられ、炎をより大きくなる。燃え上がり、火の粉が散った。熱い風が吹いた。
僕に何ができるだろう。
平和な世界でのほほんと暮らしてきた。毎日をなんとなく過ごして、ただ生きてきた。そんなとき、この世界に呼ばれた。
多くの犠牲を払って召喚された。白髭を蓄えた男が、夢の中で何度も失敗だと唱えていた。
そうだ、クシュージャさんの言うとおりだ。僕は勇者のなり損ないだ。僕なんか何者にもなれるはずはない。
喉元を突きささんと進む剣に目を閉じた。
最初からこうするべきだった。脱力してただその時を待てばいい。
ようやく、肩の荷が下りる。ゆっくりとまぶたを閉じた。
「ぼんたっっっっっ!」
声がした。そうだ。いつも僕の耳元で泣いていたあの声だ。とても弱く、それなのに強い。いつも悔いていたんだ。救えなかったことを。
だからこそ、諦めなかった。一瞬たりとも、自分にできないなんて思わなかった。
「ニセモノだなんて関係ないっっっ! ボンタは、シモダイラ・ボンタだから救いたいんだっっっ!」
ガンと脳を叩くような衝撃に駆られた。声が鼓膜を震わせて、胸を打つ。
俺は……俺は……
ガリッ
剣が深々と突き刺さった。
クシュージャさんは柄を離し、背を向けた。
「お前の勝ちだ」
決して目を合わせることはなく、それだけ言うとテントへ戻って行く。
腰が抜けてしまって、地面に突き刺さった剣をそのまま杖代わりにして立ち上がる。
そうだ。あの時、たしかに変わった。
救いたいという気持ちが依然として胸を満たしている。
やりきったという充足感、そして解けた緊張に疲れがどっと押し寄せてゆっくりと僕は気を失った。




