09 加奈の物語2
「……こんなこと言うとすごい不謹慎なだけどさ……」
綾乃ちゃんの言葉。
「加奈がその子に話しかけないままいつの間にかいなくなっていて、
後でその子が自殺したと聞いたとする。
今とどっちが後悔する?
話しかければよかったって思うよね。
力になれなかった自分を責めるんじゃない?
もちろんそんな可能性は低いけど、それは大きなマイナス。
逆に加奈に話しかけられてその子が少しでも救われたなら、それは大きなプラス。
そんなのに比べれば加奈は今、小さなマイナスで悩んでる。
私、数学って何か冷たい感じがしてあまり好きじゃないけど、
この前やった期待値の概念は大切だと思った。
片方の箱には大きなプラスと小さなマイナス。
もう片方にはプラマイゼロと大きなマイナス。
加奈ならどっちのクジをひく?」
言わんとすることは分かった。
どちらを選んでも不利益。
そんな二択はこれから先、何度もあるだろう。
それに比べれば今の問題はプラスが見当たる分、まだマシかもしれない。
もちろんどちらも利益という選択肢もたくさんあるだろう。
人生は山あり谷あり。
その中で如何にマシな、もしくはより良い方を選んでいくかが大切なのだ。
いつもならそれで納得していたかもしれない。
迷わず前者のクジを選んで、気が楽になって、綾乃ちゃんにお礼を言って、
それで終わりだったかもしれない。
でも、その時のあたしは嫌な意味で冴えていた。
そして、あたしはどうしようもなく弱気だった。
「でも……期待値って期待量に確率をかけたものだよね。
確率は半々じゃないよ。
大きなプラス1枚に小さなマイナス99枚の箱と、
プラマイゼロ99枚に大きなマイナス1枚の箱だったら……
あたしは後者からひくかも」
言ってすぐ、あたしは後悔した。
綾乃ちゃんはしてやられたという顔をして押し黙った。
余計な口をきいた。
意地悪な反論だった。
せっかくあたしを元気づけるために考えて言ってくれたのに、あたしはそれを否定してしまった。
でも、綾乃ちゃんは強かった。
再び、口を開く。
「じゃあさ、こう考えよう。宝くじを買うのと、貧乏クジをひくのと、どっちがいい?」
綾乃ちゃんは、まだ暖かい笑みを消していなかった。
あたしも、つられて笑った。
聞く人が聞けば、確率論的だったのが突然感覚的な話に飛んだのを不愉快に思うかもしれない。
でもやっぱりあたしにはそっちの方がよかった。
論理はその気がなくても論理で返してしまえるけど、
感覚は周りがいくら否定しても自分が受け入れるかどうかを選べるから。
あたしは納得して前者を選べた。
今あたしは宝くじに当たった。綾乃ちゃんに反論するという宝くじ。
それは少し高かったけど、買わなければあたしはずっと悩んでいただろう。
今あたしはもう一枚宝くじを持っている。あの子に話しかけたという宝くじ。
当たってるだろうか。外れてたらどうしようなんて不安は要らない。
当たってるといいなという期待。それがきっと今のあたしに必要なもの。
「……ところでさ、ちょっと訊いていいかな」
綾乃ちゃんが突然改まった顔で切り出した。
「何?」
「……気を悪くしたら、ごめんね。答えなくてもいいから」
そう前置いて、小声で、尋ねる。
「もしも加奈をいじめていた子が謝りに来たら、どうする?」
あまりにも突飛な話だった。
綾乃ちゃんは一体何を訊きたいのだろう。
あたしはその質問の真意を見出しかねた。
しばらく考えても分からなかったから、額面通りに受け止めて、素直に答えた。
そういうことを考えたことが無かったわけでもなかったから、答えること自体は簡単だった。
「きっと歓迎は出来ないよ。過去の出来事を書き換えることは出来ないから。
……でも、でも、忘れるべきだとは思わない。忘れようと思っても無理だしね。
だから、それは、多分、いい方向に働くと思う。
辛い思い出をただの辛い思い出にしないために、意味のあることなんだと思う」
「……そ、っか……そう、だね……」
授業開始のチャイムが鳴った。綾乃ちゃんは「ありがとう」と言って席に戻る。
その背中を見つめながら、あたしは考えていた。
綾乃ちゃんは、誰かをいじめたことがあるのだろうか。
それとも、あたしと同じで、いじめられたことがあるのだろうか。
気にはなったけれど、きっと今はそんなことを訊くべきではないと思った。
今、あたしがなすべきことは……
2回、深呼吸をした。