45 亜深の物語9
朝。
俺はいつも通り、家を出た
いつも通り、電車に乗る。
いつも通り、会社に来る。
そしていつも通り――
ドンドン
ドンドン
ドアを叩く音がした。
ドンドン
ドンドン!
何かがおかしい。
「いつも通り」じゃない。
俺は音のするほうへ向かう。
そこにいたのは事務の女性だった。
名前は覚えていない。
「あ、神林君」
「何かあったんですか?」
「どいて。鍵取ってくるから」
「……?」
言われるがままに道を譲る。
彼女は事務室の扉を開け、走りこむ。
「……」
不信に思った俺は、隣の部屋を覗き込む。
彼女が叩いていたのはここだろう。
休憩室。
中には須賀がいた。
机に突っ伏していた。
俺は入ろうとドアノブをひねる。
ガチャン
……
開かない?
そうこうしているうちに
先程の女性が駆けて来た。
「今開けるから」
言うと同時に鍵の外れる音。
突っ立っている俺に構わず、
彼女は中に入り、須賀の体を揺さぶる。
「須賀君!? ちょっと、大丈――」
突然、彼女が顔をしかめた。
頭を押さえる。
そして。
その場に座り込んだ。
「!?」
ここで俺はようやく異常事態に気付く。
落ち着け。
状況を把握しろ。
どうなっている?
窓。閉まっている。
扉。閉まっていた。
石油ストーブ。点いている。
換気扇。止まっている。
ふらふらと女性が出て来た。
俺の頭も痛み出す。
何だこれは?
一体何が……
「おい、どうした!?」
異常を察知した社長が飛び出してくる。
……!
そうか!
密閉。炎。頭痛。
俺は社長に向かって叫ぶ。
「一酸化炭素です!」
「窓を開けろおォ!!!!!」
社長の怒号が社内に響き渡った。
何事かと社員が廊下に顔を出す。
「全員、全ての窓を開けろ!
早く! 今すぐにだ!」
再び鳴り響く声。
今までに聞いたことが無い大音量だった。
数瞬遅れてあちこちから
ガラガラと窓を開ける音がする。
社長は息を深く吸うと、休憩室に入り、
奥の窓を開け、換気扇をつけた。
そして須賀を抱え、外に連れ出す。
「おい、救急車を呼べ!」
「ここからなら電話より
直接呼びに行ったほうが早いです!
俺、行ってきます!」
「車に気をつけろよ!」
まるで子どものおつかいだな
という思いを慌てて打ち消す。
今はそんな場合じゃない。
交番も消防署もすぐ近くだ。
会社を出ると、
目の前の歩行者用信号が点滅していた。
畜生、何て悪いタイミングだ。
渡るべきか待つべきか一瞬考えてしまう。
思わず足を止める。
次の瞬間。
目の前を一台のトラックが通り過ぎていった。
俺は呆気にとられる。
呆然と、その後姿を見つめていた。
俺の後ろから左折してきたのだろう。
……今……もし何も考えずに渡ろうとしていたら……
想像したくもなかった。
我に帰ると、信号は赤になっていた。
それから数日。
須賀は一時昏睡状態になったものの、
どうにか持ちこたえ、現在命に別状は無いらしい。
助けに入ろうとした女性も程度は軽く、
その日のうちに退院、既に職場に復帰している。
俺は仕事帰りに、社長と見舞いに出かけた。
須賀はぼんやりと天井を見つめていたが、
俺たちに気がつくと体を起こした。
思っていたよりも元気そうだ。
社長が嬉しそうに声をかける。
「おい、須賀。心配したんだぞ」
「……すみません」
「全く、ちゃんと換気を徹底しないといかんな。
お前も、朝っぱらから
あんな所に閉じこもってるなよ」
「今度から気をつけます」
須賀の血中から睡眠薬は検出されず、
不注意による事故として片付けられた。
狭い部屋で換気をせずに
ストーブを焚き、煙草を吸う。
冬場に陥りやすい危険な状況だ。
俺は1歩退いた所から2人が話すのを眺めていた。
「あとお前、いくら用心深いからっていって、
部屋に入るたびに鍵かけるのやめろ」
「注文多いっすね……癖なんですよ、もう」
「――じゃ、そろそろ帰るか」
社長が腕時計に目をやる。
まだ1時間も経っていないが、
今日は仕事をいつもより早く切り上げた。
残りを片付けなくてはいけないし、
家族だって帰りを待っているはずだ。
「社長、俺、ちょっと残ります」
対して俺はどちらにも当てはまらない。
むしろ、早く帰ったほうが退屈というものだ。
それに……
「ん。そうか。迷惑かけないようにな」
社長はそう言って出ていく。
あとには俺と須賀だけが残された。
「……個室なんだな」
「救急ってことでな。
明日にでも相部屋に移るらしい」
「そうか」
「……」
「……なあ、須賀」
他に声をかける相手もいないというのに。
「何だ?」
「……知ってるだろう?
俺さ、人のいうことを真に受けられないんだ。
何でも疑ってかかってしまう。
……だから、少しだけ質問してもいいか?」
「……ああ」
須賀が助かったと聞いたとき、
俺は心底ほっとした。
しかし同時に、漠然とした疑問が芽生えた。
「……あまり人に話すことじゃないけどさ、
俺、一度自殺しようと考えたことがあるんだ。
その時に色々調べた。
その中に練炭自殺も入ってた。
そりゃあ俺は頭よくないから
正確に理解できたかは疑わしいさ。でも……」
俺はあの時実際に体験した。
一緒に運ばれた彼女からも話を聞いた。
頭痛、目眩、吐き気。
そして練炭自殺の典型といえば、山奥の車だ。
内側から目張りして練炭に火をつける。
その時に睡眠薬を飲む。
でも須賀は飲んでいないからこれは自殺なんかじゃ……
「自殺の前に睡眠薬を飲むのは、
死ぬ前に訪れる苦しみを感じないようにするためだ。
でも逆に言えば、睡眠薬を飲まなければ
相当苦しくなるはずなんじゃないか?
どうして、気付かなかったんだ?
気付く前に倒れてしまうような濃度だったら、
お前がちゃんと椅子に座っていたのもおかしいし、
……言っちゃなんだが、助からないと思うんだ」
「……」
「……すまん。違うなら、それでいいんだ。
奇跡的に助かったというなら、それでいい。
今回ばかりは、俺も『信じる』ことにするさ」
「……」
長い長い沈黙。
俺も帰るかな。そう思ったとき、須賀がポツリと言った。
「……最初は、そんなつもりじゃなかった」
「……」
「ただ、何の気無しに煙草をふかして、
時間になるまで寝てようと思ったんだ。
本当に、それだけだった。
しばらくして、頭が痛くて目が覚めた。
体も痺れて、動きづらくなってた。
でも、出ようと思えば出られたし、
助けを呼ぼうと思えば呼べたんだ。
その時な、思っちまったんだよ。
こんな俺が生きてていいのかな、ってさ。
このまま消えていってもいいかなって、思っちまった」
「……馬っ鹿野郎。
そんなことしたら、社長がどうなると思ってんだ」
「……」
帰ろうとした。
「……なあ、神林」
ドアに手をかけた俺の背中に、須賀が声をかけた。
「……何だ」
「信じられるって、ツライなぁ……
信用されるって、苦しいなぁ……」
「……信頼されることの方が、もっと苦しいさ」
「……そうなのかもな……」
部屋を出た。
夜風が寒かった。
もうすぐ、虫の音も聞こえなくなるだろう。
雪が降ってもおかしくない。
その中で俺の耳は人の声らしきものを聞きつけた。
「……うっ……ウッ……ううぅ……」
男の嗚咽のようだった。
音のするほうへ顔を向ける。
ベンチに座った中年の男が、
両手を顔に押し付け、声を漏らして泣いていた。
息を呑む。
社長だった。
……何故? 何故社長が?
まさか、俺たちの話を聞いていた?
そんな馬鹿な。
社長に限って、そんなわけがない。
社長に限って……
薄々感づいているのかもしれない。
俺ですら思ったことだ。
もしかしたら騒ぎが大きくならなかったのは
社長が嘘の証言をしたからじゃ……
俺は気付かれないようにその場を離れた。