39 亜深の物語8
俺の知っていることなんて高が知れている。
説明には3分とかからなかった。
「……そうか」
社長の反応は静かだった。
「……要するに、最初の一言でショックを受けて、
次の言葉が耳に入らなかったんでしょうね。
後であいつに話して誤解を解いておきますよ」
そうやって話を切り上げる。
こうなった以上、これが最善の策だ。
社長が善人だろうが悪人だろうが、
須賀との関係を悪化させたくないのは変わらないはず。
俺は社長を信じた振りをすればいい。
自分を信じて問題の解決を買って出るヤツに
罰を与えようなどとは思わないだろう。
実際にこのことを須賀に伝えるかは考え物だが。
そう思っていた。
だから、次の社長の言葉に、俺は目を丸くする。
「いや、伝えんでいい」
「……はい?」
「伝えんでいいさ。
むしろ、このままの方がいいのかもしれん」
「……何、言ってるんですか」
「ワシのことを嫌ってくれれば、
あいつも辞めやすいだろう」
「嫌われ役をやろうって言うんですか。
そんな、無理にやる必要なんて……」
「あいつももう30だ。
職を変えるなら、そろそろ急いだ方がいい。
退職金もできる限りのことはしてやるつもりだ。
そうだ、神林、ワシがいい勤め先を探しておくから、
お前の紹介ってことにして
あいつに伝えてやってくれないか?」
耳を疑った。
どうしてそんなことが言える?
どうしてそんなことを考えられる?
どうしてそんなこと……
「それで……あなたに何の利益があるんですか」
「まあ強いてあげれば、自己満足だろな」
「代わりにあなたは須賀からの信用を失うわけだ。
見合いませんよ。あまりにも不釣合いだ。
あいつはあなたに感謝していた。
その分憎しみも深い。
何かしら危害を加えることだってありえる」
「それはないさ」
「どうしてですか」
「ワシは、あいつを信じてるからな」
「……」
分からない。
俺には分からない。
理解できない。
何を根拠に?
言葉を失う俺に社長は背を向ける。
もう日は落ちている。
窓ガラスに、社長の顔が映っていた。
「……なあ、神林。
本当は……忘年会で言うつもりだったんだが……」
「……何ですか」
「人を信じてみるつもりは、無いか?」
「……」
見透かされていた。
俺の貧弱な考えなんて、読まれていた。
でも。
でもそれは。
「……あんたに、何が分かるっていうんですか」
「……」
「分かりませんよ。俺の気持ちなんて。
裏切られる恐怖なんて。
信じることはギャンブルです。
成功したあんたには、
負けたことの無いあんたには、分からない」
「……」
沈黙が流れる。
実に気まずい。
社長を「あんた」呼ばわりだ。
自分で自分の首を絞めた。
でも、言いたかった。
生き方を指図されたくはなかった。
社長が窓を開けた。
冬の夜の冷たい空気が流れ込んでくる。
「たまには換気せんとなぁ」
そう、独りごちる。
「……お前を見てるとな、若い頃を思い出すよ」
「……?」
「ワシもそうだった。
人のことなんて信じられるかって、
周り全てに敵意を抱いてた。
ずっと独りで強く生きていくんだって、思ってた」
「……そんなわけ……」
「子どもの頃な、両親が自殺したんだ」
「!?」
「親父が親友に連帯保証人にされてな。
ありきたりだが、裏切られてドロン。
一家心中だったんだが、ワシだけ生き残った。
親戚の家で育てられた。
悔しかったよ。親父が信じたばっかりに。
だから、ワシは誰も信じまいと思った。
お前くらいの年になるまでな」
「……」
こういうのを厄日というのだろうか。
意味が分からないことばっかりだ。
ロクに口も挟めない。
ただただ、言われるがまま。
「……だったら、どうして……」
「ある時な、ふと思ってしまったんだよ。
人生ってつまらないな、って。
生きている意味が急に分からなくなった。
でも、死ぬのも嫌だった。
だから、手を出してしまったんだよ。
お前の言う、ギャンブルにな。
もうどうなってもいいと思った。
裏切られて死ぬならそれでもいいと思った。
それがどうだ。
今じゃカミさんもいる、息子もいる。
一国の主になって、真面目な部下も大勢いる。
ワシは果報者だと思える。
恩返しがしたいと、もっともっと頑張れる」
「……」
「そりゃたまには負けることだってあるさ。
でもな、やってみれば分かる。
パチンコや競馬なんかよりよっぽど割がいいさ」
「……」
窓を閉める。
空気の流れが止まる。
一緒に時間も止まってしまいそうだった。
俺は全く動けなかった。
「ゲームの戦闘に例えたっていい。
勝つことだってある。負けることだってある。
でもさ、それを楽しむもんだろう?
『逃げる』しか無いゲームなんて、つまらんよ」
部屋を出るとすぐ脇に須賀が立っていた。
壁にもたれかかり俯いている。
「……聞いていたのか」
「……大体な」
防音設備など無い。意識すれば盗み聞きもできるだろう。
でも俺はそれを不快には思わなかった。
むしろこのことをどう伝えようか
考えあぐねていたところだ、丁度良い。
「つまりは、そういうことだ」
それだけ言って立ち去ろうとした。
「……信じるのか?」
須賀が呟いた。
「……」
「……お前は、あいつの言葉を信じるのか?」
……分からない。
悪い噂を作り上げるのは簡単なことだろう。
そして自分の非にもっともらしい言い訳をするのもまた、
人によっては造作も無い。
須賀を信じるのか。社長を信じるのか。
2人とも信じるのか。2人とも疑うのか。
「……さあな。今の俺には関係無いさ」
そうだ。
この問題はあくまで須賀と社長の問題だ。
俺が信じようと信じまいと関係ない。
俺が信じるかどうかは、俺に必要になったときに決めれば良い。
「逃げるのか?」
「……」
その言葉を無視して俺は立ち去った。
帰宅途中に橋を渡る。
ふと、途中で立ち止まった。
手すりに体を預け、川を眺める。
水平線が見えた。この川はそのまま海に繋がっているのだ。
溜息を吐いた。
「……逃げる、か……」
社長の言葉が、須賀の言葉が頭に蘇る。
2人の言葉の意味は異なる。
だが、両方が俺に当てはまる。
俺はまた逃げている。
人を信じようとせず。
でも社長の言葉で、疑うことに徹することもできなくなっている。
2つの間で揺れている。
これじゃあ須賀と同じだ。
人のことは言えない。
煙草を吸いたくなった。
今は切らしていただろうか。
ポケットを探る。
何かが手に当たった。
取り出して街灯の下でそれを見る。
サバイバルナイフだった。
買ったのはいつだっただろうか。
「仲間」に裏切られたとき? いや、もっと後だ。
義母が死んだ、その辺りだったと思う。
サバイバルという言葉に惹かれた。
1人で生きていこうと思った。
これは不信の象徴だった。
川に投げ捨てようか。そう思った。
生き方を変えるというのなら、これはもう必要無い。
むしろ俺に昔を思い出させてしまう邪魔物だ。
人を信じようとするのなら、持っていてはいけない。
……
……やめた。
ナイフをポケットにしまった。
家に向かって歩き出す。
別に捨てる必要は無いじゃないか。
目に付かない所にしまっておけばそれでいい。
そう思った理由は3つ。
第1に、結構高価なもので捨てるのは勿体無かったから。
第2に、「あの事件」を思い出させてくれるものだったから。
そして何より、
ゴミのポイ捨てはいけないことだからだ。