38 亜深の物語7
「過ちが無くなったら、人は成長しない」。
彼に会ってから、その言葉が頭の中で蘇った。
俺は間違えないように生きてきた。
裏切られないように生きてきた。
だから俺は、成長していないのかもしれない。
「相談した方がいい」。
自分で言った言葉なのに、頭から離れなかった。
須賀は俺に相談したんだ。
俺を「信じて」、打ち明けたんだ。
俺は、それを忘れていいものだろうか。
社長室といっても、それほど特別な場所じゃない。
事務室の隣が休憩室、トイレ、会議室、そして社長室。
個室ではあるが、別段広くもない。
一応応接の場はあるが、至って質素だ。
俺のような下っ端でさえ、時々出入りする。
社長に先週の作業報告の書類を渡して、
今日の仕事は終わりだった。
ドアをノックする。
小窓が付いているので、お互いに顔が見える。
「おう、入れ入れ」
「失礼します」
中に入り、3枚綴りの用紙を提出する。
「ご苦労さん」
一礼。
改めて軽い場所だなと思った。
中学の頃に入った校長室の方がずっと物怖じしたものだ。
まあ、あの頃は怒られてばかりだったしな。
ふと、壁にかかっているカレンダーに目がいった。
27日に丸が付いている。
……
社長も俺の視線に気付き、目を向ける。
「もうすぐだな、忘年会。楽しみだ」
「はい」
「初めてだもんな。
どっぷり話し込もうや」
「お手柔らかに」
ハハハ、と社長が笑う。
須賀のことを話そうか。
そう思った。
須賀の話を伝えて、問いただそうか。
そしてすぐに首を振る。
何を考えているんだ、俺は。
そんなことをして、何の意味があるというんだ。
嘘吐きのパラドックス。
人に「あなたは嘘吐きですか?」と尋ねたところで、
返ってくる答えは決まっている。
肯定はありえないのだ。
訊くだけ無駄な質問だ。
加えて須賀の話が本当なら、
それが社長に伝わることで須賀にいい影響があるとは
とても思えない。
そしてそれが俺に飛び火する可能性もある。
だから、口を閉ざしているのが一番。
……
「どうした?」
「……あ、いや。
……須賀は来ないんだなと思いまして」
探り手を入れる。無理はしない。
危なくなる前に引っ込めるさ。
「あー、お前ら仲がいいからなぁ。
ま、彼女とデートの約束でもあるんだろ」
……やっぱりこんなところか。
早々に諦める。
損失も利益も無し。それでいい。
「……最近話す機会が無いから、
出てきて欲しかったんだけどなぁ……」
「……何か、あったんですか?」
「ん? いや、ちょっとな」
俺の耳が反応する。
やはり……本当なのか……?
「そういえば神林、
お前須賀から相談を受けたことは無いか?」
ドキリとする。
落ち着け。
落ち着くんだ。
ポーカーフェイスは得意だろう?
「どういうことですか?」
「悩んでんじゃないかって思ってな」
やはり……
やはり……そうなのか……?
「転職するとか、仕事を辞めるとか、
そういう話は聞いてないか?」
!!!
疑念が確信に変わる。
どうやら須賀の言ったことは本当だ。
ここは……こいつは……
ああ、そうかいそうかい。そういうもんか。
良かったよ、早く気付けてさ。
他の奴等は可哀想だ。
散々社長を信じておいて、
文句を言えばクビをチラつかされる。
ショックだろうな、そん時は。
俺は違う。元から誰も信じていない。
だから失うものなんて……
「……いえ、聞いてませんね」
上辺だけで話をつなげる。
もういい。もう分かった。
さっさと切り上げて、帰ろう。
帰りに求人誌でも見てみようか。
大卒とはいえ、俺だって
いつ無理な仕事を押し付けられるか分からない。
その時は、自分から辞めてやるべきだ。
そうだ、俺がここに来た理由の欠員だって、
もしかしたら――
「……そうか……」
これで失礼しますと言おうとした。
しかし、社長の溜息に俺は言葉を飲み込む。
どうして、ここでそんな風に?
社長からすれば、ここで須賀を失うことは
ある程度のダメージになるはずなのだ。
確かに求人を出せば新人は集まるだろう。
だが、新人は育てる必要がある。
仕事を効率よくこなせるようになるまで、
全体の作業速度も低下する。
年末年始や年度末は忙しい。
ここで戦力が低下することは防ぎたい。
俺が支部からここに移されたのもそのためだし、
同じことをするにも限度がある。
だから、その点からすれば、
須賀が文句を言っていないというのは
安心すべきことなのだ。
「辞められると困るんじゃないんですか?」
気がつくと俺は危険地帯に踏み込んでいた。
しかし社長は大して気にする素振りでもない。
「まあ、会社としてはな。
……でも、須賀にとってはそうとは限らない。
少なくとも、ここにずっといるべきでは
ないんじゃないかって思ってな」
「……よく、分かりません」
分からなかった。本当に。
「神林、お前、学校は好きだったか?」
「……どうして、そんなことを?」
「いいから教えてくれ」
「……時期によります。中学までは楽しかった気がします」
「なら、勉強は好きだったか?」
「それもいつの話かで変わります。
中学に入ってすぐに嫌になりました」
「つまり、学校は好きだけど
勉強は嫌いだっていう時期があったんだな?」
「……まあ、ほんの1,2年ですけど」
「須賀はな、そういう状態だと思うんだ。
あいつはここに居心地良さそうにしている。
でも、仕事自体が楽しそうには見えないんだ。
下手っていうわけじゃない。ずいぶんと上達してる。
でも、何か違う。
あいつの家に行ったことあるか?
金属の彫刻っていうのか、それが趣味らしくてな。
子どもの頃から手先を使うことが好きだったって言ってた。
だから、そういう仕事に就きたかったんだとさ。
去年の忘年会で話したとき、すごく生き生きしててな。
今の仕事も近いっちゃ近いが、求められるものが違う。
ウチは流れ作業だし、他にも雑務をこなさにゃいかん。
あいつがやりたいのは、もっと最初から最後までを
根詰めて手がける、職人の仕事だと思うんだ」
「……」
知らなかった。
俺は須賀のことを何も知らなかった。
考えてみれば当たり前だ。まだ2ヶ月も経っていない。
社長は1年前の酒の席での一社員の話を憶えている。
それは、当たり前のことなのか?
「だから、一回言ってやった。
お前が辞めたいなら辞めればいいってな。
その時は、ワシが全力で手伝ってやるから」
「そんな……そんなこと聞いてない!」
俺は叫んでいた。
社長はニヤリと笑う。
「やっぱり、聞いてたんだな」
しまった、と思った。
しかしその笑みに悪意は感じられなかった。
いや、そんな主観を頼りにしてはいけない。
それは分かっている。
でももう後には退けない。
ばれた嘘を吐き続けることほど醜いものは無い。
俺は話すことにした。