35 亜深の物語6
いつも通りの仕事を終え、俺は帰途についた。
電車がやってくる。
人の流れに乗って、俺も車両に入る。
背後でドアが閉まる。体にかかる加速度。
たった一駅。
俺が電車に乗るのは、ほんの短い時間だ。
定期が切れて雪も降らなくなる春からは
自転車で通勤すべきだろう。
「まもなく、井武、井武です。降り口は左側です」
すぐに俺の降りる駅に着いた。
さっきとは逆方向の加速度。
俺は降りる準備をすべく、体の向きを変える。
「……?」
そこで。
俺は、見つけた。
扉が開く。
扉が閉まる。
俺は、降りなかった。
再び動き出す電車。
次の駅は終点。
俺の定期の範囲外だ。
乗り過ごしになるが、勘弁願いたい。
せっかくイレギュラーを見つけたのだから。
その方向へ歩く。
もう客もあまりいない車内。
向こうもすぐに気付いたようだった。
そう。
「気付いた」んだ。
俺に、気付いた。
それはつまり、俺を「知っている」ということ。
それはつまり……
確認すべく、俺は口を開いた。
「……久しぶり。誠君、だったか」
ペコリとお辞儀を返された。
「やっぱり……そうなんだよな……」
「……何が、ですか?」
一駅間の移動時間はほんの数分。
それでもいい。
どんなに少なくても、0よりはずっといい。
「アレを現実だと確認する手段が無かった。
君達と違って、俺は一人だったからな」
彼ら4人は知り合いのようだった。
だから、後で記憶を照合すれば、
あの事件が本当にあったことを確認できる。
でも、俺は違った。
俺一人が見た夢だと思うこともできた。
かろうじて得られた客観的証拠が……
「これだけだからな」
あの事件の新聞記事を取り出す。
これさえなければ、
俺は否定していたかもしれない。
あんな非現実的なこと、起こるはずが無いと。
今は違う。
あの事件を共有した、彼に会った。
彼もまた、俺のことを覚えていた。
俺たちの間の接点は、あの事件のみ。
だから、もう否定はできない。
「あの時は、まだ半信半疑だった。
だから君に声をかけられなかった。
だから今、礼を言わせて貰う。
助けてくれて、ありがとう」
カタンカタン
カタンカタン
線路の隙間の音が、一定のリズムで流れる。
そんな中で、彼はぽつりと言った。
「……お礼なんて、いいです」
「そう言うな」
「本当に、いいんです。
僕である必要は無かった。
僕にしかできないことじゃなかった。
だから、いいんです」
「その理屈はおかしいだろう」
久しぶりの、本当に久しぶりの言葉を否定されて、
俺は少しカチンと来た。
「他の人ができようができまいが、
君が功績を残したという事実は変わらない。
道を教えてくれた人に感謝しちゃいけないのか。
落し物を拾ってくれた人に感謝しちゃいけないのか。
ナンバーワンとか、オンリーワンとか、
そんなの関係無いだろう」
「……」
「……すまん、年甲斐も無いな」
「……」
「……何か、あったのか?」
思えば様子が違う。
あの時より弱々しく見えるのは状況のせいだろうか。
「……ごめんなさい、なんか、寂しくなって……」
「寂しい?」
「突然なるんです。
時々、ふと無力感に襲われるんです。
僕は『発作』って呼んでるんですけど。
ちっぽけな人間だなって。
友達だって少ないし、行動力も無いし。
他の人が、すごく羨ましくなるんです。
……あ、すみません。いいんです。
寝れば、治りますから」
「まもなく終点、三佐奈、三佐奈です。
降り口は左側です。
本日は当列車をご利用いただき、
誠にありがとうございました」
もう時間は無いか。
無理に引き止めるのも悪い。
しかし、これで別れるのも後味が悪い。
「隣の芝は青い。そう見えるだけだ。
君が劣っているようには、俺には見えない」
「……みんな、そう言うんですよね」
彼は笑う。明るくはない。
「……何で君がそこまで自分を見失うのか、
俺には分からんね。
だって君は、俺たちの命を救ったんだぞ」
「でもあれは僕がいなくても――」
「君がいなかったら、死んでいた」
「そんなわけ……」
「君は覚えていないのか?
本当に憶えていないのか?
あの極限状況の中で、
君は『自分』を守り通したじゃないか」
あの日。
「生きて帰りたいなら、誓え。
今後一切の過ちを犯さないと、誓え。
悪の一切存在しない世界にすると、誓え。
誓うことが出来ないなら、死ぬだけだ」
アイツはそう言った。
俺たちに、完全なる「正義」であれと言った。
そうしなければ、俺たちは死ぬと。
なのに、彼は言ったのだ。
「それはできない」と。
でも、だからこそ、俺たちは助かった。
「あの発言には本当に驚いた。
俺はてっきり死ぬと思った。
君がいなかったら、あんな言葉は出なかった。
その場しのぎの言葉しか言えなかっただろう。
そんなの、きっとアイツにはばれて、
きっと俺たちは殺されていた。
あれは、君にしかできないことだった」
「……」
駅が見えてきた。
あと1分も無いだろう。
「あの時、君はこうも言ったな。
『間違えなきゃ、人は成長しない』と。
今の君はどうなんだ。
人生を間違えたんじゃないかって、
悩んでるんじゃないのか。
だったら、それでいいんじゃないのか。
たくさん間違えて成長すればいい。
そんなことができるのは、今のうちだ。
俺みたいになってからじゃ、遅い」
「……」
「だから、もう一度言わせてくれ」
扉が開く。
もう終わりにしよう。
今度こそ、届けばいい。
「ありがとう」
数秒間の沈黙の後、彼は立ち上がった。
そして、小さな声で、でもはっきりと、言う。
「……どう、いたしまして」
ホームに降りる。
俺は反対側の電車を待つ。
彼は階段を登っていく。
最後の最後に、俺は声をかけた。
「あの時一緒にいた君の友人……隼人とかいったな。
彼には、その話をしたのか?」
「……してません。言ったら馬鹿にされそうで……」
「ありうるな」
「……」
「それでも、相談した方がいい。
君は信頼されている。きっと、力になってくれる」
話はそれで終わり。
俺は体の向きを変える。
「……ありがとうございます」
声が聞こえた。
俺は首を動かさず、答える。
「……どういたしまして」
頬が熱くなった。
自分で言って、やっと気付く。
……何て恥ずかしい言葉だ。