29 亜深の物語5
「俺だって、社長のことは信じてたさ」
いつの間にか須賀のビールは無くなっていた。
新しく注文する。
「……実は俺、遺児なんだ」
「……そうなのか」
初耳だった。知り合って1ヶ月なら無理も無いかもしれないが。
「10歳の頃、親が交通事故でな。
頼れる親戚もいなくて、施設に預けられた。
そんなんだから、保証人が弱い。
学歴も無かったし、ずっと働き口が見つからなかった。
でも2年前……3年前か、ここを受けて、採用された。
嬉しかったさ。ありがたかった。頑張ろうと思った」
「……そのこと、同僚たちは知ってるのか」
「どうだろうな。
俺からは言ってないが、話の流れから察したことはあったかもしれない」
「……」
今朝のやり取りが思い出される。
馴れ馴れしいとは思った。
こいつは、俺を「信用」しているのだろうか。
須賀のビールが来た。
ついでに俺も2本目を頼む。
「……最近、仕事がきつくなってきた。
量が多くて、処理しきれなくなってきた。
それで、社長に抗議……いや、
仕事を減らしてくれるように頼みに言ったんだ。
そこで少し口論になった。
頭に血が登っていた俺は言っちまったんだ。
『だったらこんな会社辞めてやる』ってな。
もちろんそんなつもりは無かった。
ただ、口をついて出てきただけなんだ。
……それを聞いて、あいつが何て言ったと思う?」
「……さあ」
今朝のやり取りが思い出される。
須賀の様子が最近おかしいと。
そういえばコイツが仕事が片付かないことを
咎められていたのを見たことが何度かあった。
それを踏まえると……そう言うことなのだろうか。
須賀は赤くなった顔を歪め、吐き捨てるように言った。
「『だったら辞めればいい』。笑って、そう言ったんだ。
売り言葉に買い言葉っていうふうじゃなかった。
本音が漏れたんだよ。化けの皮が剥がれたんだ。
知ってると思うが、この会社は中卒や高卒者も比較的多い。
学歴にとらわれず人間性で雇用するってのがウチのポリシーらしいが、
そんなのは嘘っぱちだ。分かるか?」
「……」
「つまりは、そういうことなんだ。
あいつは俺が他に勤め先が見つからなくて辞められないことを知っている。
だから、俺に仕事を押し付けられる。
最初からそのつもりだったんだよ。そのつもりで俺を雇ったんだ。
結局、人間なんてそんなもんだ。
どいつもこいつも、そんなことばかり考えてやがる。
畜生。善人面して、とんだ狸だよ。畜生……畜生……」
須賀はそこで口をつぐんだ。黙ってジョッキを飲み干す。
俺は頭の中で今の話を反芻した。
……まさか、社長が?
それが本当だとしたら、確かにショックだろう。
好悪は表裏一体。片方が大きければ、裏返ったときの気持ちも大きい。
確かに、こいつが社長と話しているのを見たことはあまり無い。
忘年会に出たくないというのも、そういうことなのだろう。
でも……本当にそうなのだろうか。
別に社長を擁護するつもりは無い。
だからといって、こいつが何らかの目的で嘘を吐いていないとは言い切れない。
いや、そう思うこと自体が社長の肩を持つということだろうか。
分からない。
ただ一つ言えるのは、別にこれが俺に直結するわけじゃないということだ。
なら、話半分で聞いておこう。
帰り際に水を1杯頼んだ。
鞄から総合ビタミン剤を取り出し、3錠飲む。
須賀から、「いつもそんなもの持ち歩いているのか」と笑われた。
一人暮らしを始めて、食事を疎かにするようになってから飲み始めたものだった。
健康管理、のつもりだった。
でも、母親が見たら一体どんな顔をするだろうか。
喧騒の中から出る。
外は非常に寒かった。慌ててコートのボタンを留める。
須賀はアルコールに弱いのだろうか。多少足がふらついていた。
が、帰るのに支障は無いだろう。
別れ際に、須賀は言った。
「他の奴等なら絶対信じないだろうと思う。
でも、お前なら受け入れてくれると思う」
「……」
初めて会った時、共通項を感じた。
日を追ううちに、俺とこいつは底に流れているものが似ていると思うようになった。
でも、違う。
決定的に、違う。
こいつは誰も信じられないと言う。
でもそれを俺に言う。
俺を「信じて」、言う。
その矛盾に奴は気付いていない。
逆に、俺が誰も信じないというのなら、
自分の言葉も信じてもらえないのではとは思わないのだろうか。
誰も信じられない。でも誰かを信じたい。
コイツは、どうしようもなく不安定なのだ。
でも、だから何だというのだろう。
だからといって俺がすべきことは何も無い。
俺には関係の無いことなのだ。
しかし、火の無いところに煙は立たないという。
社長が善人でない可能性もあるということだけ、頭に留めておこう。
そう、それだけだ。
後のことは、忘れることにした。