【徒花は花園には咲けない 2】
事の始まりは、一週間前だった。
前回顔を遠くから見たのは一月前、言葉を交わしたのは更にその一月前。その相手が、今日も元気に下働き仕事に勤しんでいた紫蘭の前に現れた。
その時、残念ながら紫蘭しかそこには居なかった。
「おい、ブス」
「……」
紫蘭は無視した。
昔は常に一緒に居たし、余りにも遠くなってしまった彼に、感傷めいた物を覚えてしまったりもしたが、そもそもこいつはこういう奴だった。神の顔を見ればブス、不細工と言い、何かにつけて紫蘭の事を馬鹿にしてくる。小馬鹿ではなく、馬鹿にしてくるのだ。
ああ、なんでこんなのに「遠くなってしまった」なんて思ったのだろうか。その時の私に全力で説教をしてやりたい。というか、感傷めいた思いを抱いて、その後こいつにブス、不細工呼ばわりされて後悔するというパターンは今までにも何度も繰り返してきた筈だ。
にも関わらず、同じ事をまたしている私の学習能力はどうなっているのか……と、紫蘭は心底自分の学習能力の無さにげんなりとした。でもきっとまたやってしまうのだと思い、更にげんなりとした。
しかし、そんな紫蘭を無視して、彼は――利潤はスタスタと紫蘭に近付いてくる。
相変わらず美しい顔と滴る様な色香を滲ませ――るどころか、もう全力で放出している。空気の色が見えたら、ここは確実にドピンクである。
というか、何故こうにも色気を振りまいてくるのだ。いつもは常に制御しているではないか。どうして今ここでもそれが出来ない?気合いはどうした。それが制御出来て初めて一神前だと言うのに。
本来であれば、その色香を向けられた瞬間、あっという間に傀儡になってもおかしくない程の濃密で蠱惑的な色香も、長らく一緒に居た紫蘭には何故かそれ程効力を発揮しなかった。
色香ダダ漏れなのは分かるが、ただそれだけだ。
おかげで、紫蘭は利潤の色香に対して耐性持ちと呼ばれているが、彼女も含めてそれを知るのはそれ程多くはなかった。
そう――まるで耐性を持っているかの如く、紫蘭は平然と色香溢れる利潤と対峙する。
今度はこいつ、一体何の厄介事を持ち込んでくるのやら。
そもそも、花街の焼け跡から共に出発した時点で、紫蘭の神生はお先真っ暗だった。
はっきりいって、特別優れた所などなく、これといった才能も能力もない紫蘭だったが、それでも一神であれば、何とかかんとか食べていく事は出来た筈だ。それこそ、どこかの村の農作業の手伝いや、街で下働き、それも無理であれば、体を売れば良い。まあ、買ってくれる相手はブス専を探さなければならないが、世の中には一定数物好きが居る。
しかし、利潤――そう、この超絶美形の女性と見紛う様な絶世の傾国級の美姫が共に居たもんだから、そんな紫蘭の未来は閉ざされてしまった。
はっきりいって、この利潤を不用意に神々の目に晒したが最後、その身を巡って多くの者達が争い始める事は必至だったし、実際幾つかの村や町で事が起きた。時にはお互いつぶし合いが始まったり、領主まで出てきたり、盗賊や山賊も出てきたりと凄い事になった。
毎回毎回何とか寸での所で利潤を引っ張って逃げだし事なきを得たが、騒ぎとなった村や街はそうではなく、利潤の身を得ようとした事で崩壊した村や街、また全てを失った者達が大勢出る事となった。
そうした事が五回ほど繰り返された結果、紫蘭は村や街に滞在する事を諦め、野宿生活を開始した。
ここで、それなら利潤と別れれば良かったんじゃないか?という疑問も出るだろうが、その利潤。何故か紫蘭の傍を離れなかった。
多くの老若男女を狂わしてきた、男ながらにして魔性の美姫だが、数少ない神格者に出会った時もそうだった。利潤を保護してくれると聞いて、これ幸いと離れようとした紫蘭の前に、利潤は現れるのだ。本気でストーカーかと思った。
そんな様子に、「残念だが、それがその姫君の望みであれば」と、神格者達はそれはそれは微笑ましい物でも見る様に、紫蘭と利潤を見送ってくれた。物資を分けてくれたのは嬉しいけれど、全く微笑ましくないから。むしろ回収してくれこいつを。
そんな彼らは現在、軍を率いる利潤のパトロンになってくれている。ただし、肉体関係はない。
その後も利潤は紫蘭の傍から離れず、とうとう紫蘭は「こいつ、どんだけ好みの基準が高いんだよ」と思う様になった。今まで出会った神格者達はきっと利潤の基準に合わなかったのだろう。ならばもっとこう、超が付くスパダリの登場を待つしかない。いや、むしろこっちから探す。
しかし、そんな紫蘭の血反吐を吐くような願いは、利潤とのサバイバル生活を初めて三年後のある日、半分だけ叶った。
共に放浪していたある日、紫蘭と利潤はとある軍に拾われた。そのトップの夫婦は、それはもう利潤すら足元に及ばぬ麗しき御方だった。そして神格者達だった。利潤はまるで心酔する様に彼らを慕い、紫蘭はホッと胸をなで下ろして離れようとしたが、捕まった。げせぬ。でも、彼らは紫蘭にも優しく、そんな彼らが率いる軍の者達も紫蘭に優しかった。
彼らが率いる軍に所属したのは、三年程だった。
けれどその三年の間に、利潤はまるでスポンジが水を吸うが如く、様々な知識と技術を吸収していった。まあ、元々サバイバル生活の時にも、食べられる果物や山菜の見分け方、魚や獣の仕留め方と裁き方、火のおこし方、料理、安全な野宿場所の探し方、森や山を遭難せずに安全に進む方法、川の渡り方、天候の読み方、その他を紫蘭よりも完璧に物にしてしまったぐらいだ。
そんな利潤である。神相手、獣相手に対する実戦にも数多く出され、その強大で無尽蔵に近い神力の制御方法と使い方を学び、数多の神術を習得するのにそれ程時間を要さなかったのは言うまでもない。そうして、幾つもの武器の使いこなし、素手での戦いでもそれなりの威力を発揮出来る様になってしまった。というか、幾度か盗賊の集団をそれで瞬殺していたのを、紫蘭は知っている。
そんな生活を続けて三年。
生きる為に必要な知識と技術の他、戦闘技術その他を一通りを学び終えた利潤は、かの軍を出る事となった。
その理由は、かの軍を補佐する為の戦力を得る為だった。
そう、新たに神材を集め、かの軍を守る為の戦力手にする。
それは利潤であれば間違いなく出来る事だったし、同じような思いを抱いて今まで軍を出て行った者達も少なくは無かった。
実際、敵対する勢力は、どれだけ倒しても次々と沸いて出てきていたから、かの軍を助ける力は多ければ多い方が良かった。
それに三年軍に居たにも関わらず、掃除洗濯調理ぐらいしか物に出来なかった紫蘭とは違い、利潤は正しく天才で、先に軍を出て行った者達にも能力的に引けを取らなかった。
ただ不思議だったのは、利潤は軍を出る時に紫蘭も連れていった事だ。
は?と唖然としながらも、軍の仲間達に見送られながら利潤に連れ去られる様にして引きずられていった日を、今でもありありと紫蘭は思い出せる。私は此処に居たいです、と言う希望を伝える暇もなかった。だって、朝起きたらもう荷造りが終わっていて、そのまま見送られる事となったのだから。
それから五年。
利潤は着実に多くの者達を魅了し、惹き付け、そして一軍を率いるまでとなった。その軍の規模は、あの紫蘭達を保護してくれた軍に比べると小さく神員も少ないが、それでも他の数多の軍から見れば規模も大きいし神員も多い方だった。また、烏合の衆とは決して呼べない統一と規律のあるそれは、誰が見ても立派な軍隊だった。
そして紫蘭は、その五年で戦闘技術が格段に成長するわけでもなく、交渉技術がマスタークラスになるわけもなく、ただ掃除洗濯料理に勤しんでいた。あと、荷物運びも頑張った。
街や村を訪れれば、買い物もしたけれど、買い出しで上手く値切れるわけでもないので、主に荷物持ちだ。
一方で、利潤は軍の頂点に立ち、それはもう様々な仕事をしていた。一応今では、中心となる軍事面の他、規律面、財政面、福利厚生面、医療面、総務面と各部署を造り、その方面に特化した者達を据える事で利潤の負担は減った。
ただ、最終決定権を持つのは利潤だから、責任の重さ自体は変わらないだろう。
むしろ、今でも仕事に日々追われている。
そんな余裕のない日々を送っているくせに、何故だか紫蘭の前には現れる。最初の頃に比べればずっとずっと減ったけれど、それでもこうして紫蘭の前に現れてくれる。そして感傷に浸りかけた紫蘭が後悔する様な毒舌を吐き、面倒事も色々と押しつけて去っていくのだ。
たぶん、今回もそれだろう。
というか、毎回こっちに顔を見せに来る度に毒舌を吐くのは、もしや紫蘭でストレス発散をしているのだろうか?私はサンドバッグじゃないんだぞ?
思い切り警戒する紫蘭の視線を受け、利潤がその麗しい尊顔に不満げな色を浮かべた。
「なんだよその顔」
「デフォルトですけど」
そう言うと、利潤が溜息をついた。
というか、そんな姿も様になるなんて、流石は顔が良すぎる男だ。他者からは、まず間違いなく穢れ無き深窓の巫女姫が世を憂いて嘆き悲しむ様にしか見えない。
「まあいい。お前に聞きたい事があるんだよ」
「聞きたい事?」
なんだ?聞きたい事って。
首を傾げる紫蘭に、利潤が何処か苛立たしげな様子で口を開いた。
「午前中に、お前が軍の男どもを殴り飛ばしたって聞いたんだけど」
「………………………………うん」
利潤の言葉にを聞き、紫蘭はしばらく考え込んだ。今日の午前中の出来事をフィードバックしていく。そして、あのムカつく男達の事を思い出して頷いた。
本音を言えば、そのまま股間を蹴り飛ばしたかったけれど、若い身空で種なしも可哀想だと思ったのでやめておいた。しかし、紫蘭ならばまだしも、他の女性に同じ様な事をしでかすのならば容赦はしない。
以前、無理矢理女性に迫った馬鹿の顔を平手打ちで吹っ飛ばした紫蘭は、毎日の平手打ちの練習を欠かさなかったし、これからも欠かすつもりは無い。
「で、何?その事でお咎め?懲罰?」
「いや。ただお前が殴り飛ばしたとしか聞いてないから、詳しくは何があってどうなったからお前が殴ったのか知らない。だから」
「私に聞きに来たって事?でも、私が自分の罰を軽くする為に嘘ついたらどうするの?」
「どちらにしろ、向こう側にも話を聞くし、目撃者も探す」
だから、嘘など無意味だと言外に伝えてくる利潤の顔をジッと見つめた紫蘭は、ゆっくりと口を開いた。
「いや、目撃者はいないよ」
だって、あいつらはそういう時を狙ってやってきたのだから。
そう……紫蘭が一神になった所でやってきて、こう言ったのだ。
お前、花街出身なんだってな?どうせ下働きなんだろうけど、体は女なんだから俺達に奉仕しろよ
仕方ないから使ってやっても良いぜ、と嘲笑う男達に、普通の女性なら身の危険を感じるだろう。しかし、紫蘭は無視して箒で掃き掃除を続けた。
確かに花街出身だけど来た当日に壊滅したし、そもそもサンドバッグじゃないっての――と、心の中で文句を吐きつつ、表面上は無表情で掃除に没頭した。
そんな紫蘭に、無視されたと思った男達は、完全に下に見ていた相手の不貞不貞しい態度に腹を立てた。当然の如く、実力行使に出た男達に、紫蘭は持っていた箒でその横っ面を殴り飛ばしたのだった。
紫蘭は無能と呼ばれている。
戦闘では足手まといだ。
しかし、これでもサバイバル生活を三年も続け、利潤ほどではないが獣狩りをしていた身である。驕り高ぶり胡座をかく男達の横っ面を叩く事ぐらいは、紫蘭にも出来た。
まあ、長期戦になれば不利だが、その前に紫蘭はさっさとその場から走り出し、神の多い場所へと避難した。流石に男どもも大勢の前で暴力行為に出られなかったのだろう。
悔しげにこちらを見る男達を無視し、さっさとその場は立ち去ったが――。
その事を説明し終えると、利潤は頭から湯気を出して怒った。
「お前!!なんでさっさとその事を言わないんだよ!!」
「そうね。女に手を上げる様な男の存在は抹殺するべきだわ」
やはり股間にあんなものは必要ない。踏んで女にするべきだった。
「違う!!どうして助けを求めないんだ?!って事だよ!!」
「自分でどうにか出来たしっ」
「馬鹿!!相手は男、それも複数だ!!しかもそういう馬鹿は阿呆みたいに矜持が高いんだよ!!絶対に報復行動に出てくるぞっ」
「え?袋だたき?」
それは大変だ。
睡眠時間はきっちり八時間はとりたい紫蘭は、睡眠妨害してくるかもしれない奴等の行動を阻止する罠をしかけようと固く心に誓った。
「くそっ!!しかも、このブスに何をするって?くそくそくそっ!!」
「利潤、言葉使いが下品一直線だよ」
黙って過剰な色気や妖艶な艶とか抑えていれば、見た目は深窓の巫女姫や穢れ無き傾国の美姫にしか見えない。しかし、その実恐ろしいまでに口が悪いのだ、この男は。いや、周囲には物腰柔らかで上品な所作を心がけているけれど、近しい者達の前では途端に口が悪くなる。中でも、最古参の付き合いである紫蘭の前では、最も口が悪くなった。
その濡れた様な紅い唇から、「くそっ」だなんて言葉を吐かないで欲しい。利潤に憧れを持っている者達が、悪夢に魘されたらどうするのか?
「別にいつもの事だし」
「は?」
「だから、そういう風に来るのはいつもの事だよ」
「……そいつらはいつも来てるのか?」
「ん?今回の神達は初めてかな。まあ、別の神達も居るけど」
それに、今まで立ち寄った村や街でも、紫蘭が花街出身だと知りサンドバッグになれと言ってきた者達は居た。相手しろ?ようは殴ったり蹴ったり出来るサンドバッグが欲しいだけだろ。
確かに紫蘭は体付きも女らしくないし、色気なんて皆無だ。だからそういう対象にはならないが、だからといってサンドバッグ扱いされて黙って居られる程お神好しではない。
というか、そんなお神好しなら、今まで生き延びる事なんて出来なかった。
隙を見せれば利潤を手に入れようと襲いかかる者達の手を必死に掻い潜り、利潤を連れて逃げ続けた日々。ある時、壁を上っていた最中に「あれ?なんで私、こんなに苦労しているの?というか、普通の女の子からどんどん離れてない?」と我に返った事もあった。勿論、すぐにまた壁を登り始めたが。
サバイバル生活を送るようになってからも、利潤を求めて山狩りをしてくる馬鹿達が居た。そういった者達から遭難しない様に山や森を逃げ続け、川を渡り湖を突破し。毎日毎日死と隣り合わせだった。いや、利潤は丁重に傷一つつけずに保護される様に連れて行かれるだろうが、紫蘭は邪魔者として確実に殺しにかかられる。というか、実際何度も紫蘭は殺しにかかられた。
途中から、利潤の方が逃げ足も速くなり、逃げる事自体が上手くなって紫蘭が逆に手を引っ張られて走らされたが、それまではもう本当に大変だった。
おかげで、木登りだって泳ぐのだって上手いものだ。
そんなサバイバル生活をしてきたのだ。
のうのうと村や街で文化的な生活を営んできた者達に、紫蘭が負ける要素は何も無い。
鼻息荒く胸を張る紫蘭に、利潤は片手で顔を覆った。駄目だ、こいつ――という声が聞こえてくるようだった。
「ちっ!監視はどうなってる……報告すらまともに出来ないのか?」
あと、なんかぶつぶつ言っているが、内容は全く分からない。
「それで、それがどうしたの?」
「お前、今自分の身が危機に瀕している事が分かるか?というか、そういう馬鹿どもを野放しにする事の危険性をお前は分かっているのか?」
「後悔してる。股間のものを潰しておけば良かったって」
心底残念そうに言えば、利潤が後ずさったのが分かった。別に貴方の物を潰すとは言ってないが。
「お前……」
「というかさ、男のくせして他の女性に手を上げる事態に腹立たしさしかないわ。ああいうのって、絶対に結婚したらディーブィ夫になると思うの。それなら、先に男じゃなく女にすれば良いのよ」
「正しく発音しろ――って、お前、顔に似合わず意外に過激だよな」
「少なくとも、私は自分をサンドバッグ代わりに扱う男達に優しくする義理はないわ」
そう宣言すれば、利潤は両手で顔を覆った。
「だから、違う。なんでサンドバッグ。お前あいつらの台詞を聞いてなんでサンドバッグ」
「利潤?」
「くそっ、くそっ、くそっ!しかも僕が知らない間になんだってこんな」
「利潤~?」
呼びかけるが、なんだか酷く落ち込んでいる利潤には、全く聞こえていないようだった。
でも、流石に緊急の笛の音は、しっかり聞こえていたらしい。
「ちっ……おい、紫蘭。いいか?絶対に一神で彷徨くなよ?」
「うん?」
「いいか?!彷徨くんじゃないぞ!!あと余計な事はするな!!分かったな!!」
そう叫びながら、利潤は走り去っていった。