【徒花は花園には咲けない 5】
明くる朝。
まだ日の出前に飛び起きた紫蘭は、行動を開始する。
廃墟近くの水場で顔を洗い、歯を磨き、廃墟に戻って朝食にする。一応、行動食や非常食は数日分持ってきているので、しばらくはこれで凌ぐつもりだ。
全ての準備を終えると、紫蘭は荷物を背負い周囲の様子を窺う。周囲に気配は無い。
「とりあえず、街を進もう」
斥候に出た者達が書き写した街の地図は、利潤の部屋で見た。あの時はまさか利潤が毎日の様に自分を寝台に引きずり込むとは思っていなかった為、かなりザッとしか見ていない。けれど、時間がない状況で資料を読まされたり地図を見させられたりしてきた経験を持ち、またあの方々の軍に居た時に講義を受けていた紫蘭は、地図の上手な見方と言う物を習得させられていた。
すなわち、どこをまず重点的に見るか、どこをざっと見るか、そういった見方が出来るのだ。
まあ、どうしても分からなければ神に聞けば良いし。
そうして荷物を手に、紫蘭は廃墟を出て歩き出した。丁度良い感じで霧が出ている。これに紛れて進めば、下手に目立つ事はないだろう。
その後、歩き続けて街の中央付近まで来る頃には、既に辺りも明るくなり道行く神々の姿も見えていた。大通りには朝市が出ており、多くの店が開店準備を終えて客を呼び込み始めている。
その神ごみに紛れる様に、紫蘭は歩く速度を速めた。
★
その街の下町と呼ばれる場所に、彼は住んでいた。
演無と言う名の彼は、今年18歳になる若者だった。顔つきは凜々しく端正な容姿を持ち、体付きも仕事が肉体労働が主だからそれなりに鍛えられている。
顔も良く体も逞しいーーそれでいて若いとなれば、それなりに女性にモテるが、彼は幼い頃から全くと言って良いほどモテなかった。
むしろ、年齢問わずに相手をキレさせてきた過去を持つ。
性格が悪い?
いやいや、働き者で素直な正直者だ。少々お節介でお神良しすぎる所があるが。
態度が悪い?
それこそ、ある程度の礼儀は今は亡き両親に叩き込まれていた。
では何が原因か?
演無自身、かなり悩んだし、もうお嫁さんを貰ってもおかしくない年頃にも関わらず、異性は遠のく日々に焦る事もあったが、最近ではもう開き直りが入り始めていた。
だって声をかけようとしたら怒るんだもん。
以前は声をかけて少し話をした後で怒られていたが、今ではこちらの顔を見ると嫌そうな顔をされる。
全員が全員では無いが、特に街でも名高い美女が切れるのだ。あと、美男が。
そしてそう言った者達に限って、街でも権力を握る者達の縁者だったりするから、演無は村八分ならぬ街八分の様な扱いをされていた。とはいえ、それでも街自体が大きいし、彼女達の威光が隅々にまで届き渡っているわけではないから、こうして演無は街の隅っこで何とか暮らしていく事は出来ていた。
そうしていつもと変わらない朝を迎えた演無は、昨日で塩が切れてしまった事を思い出した。他の調味料も確かめ、とりあえず塩だけ購入しようとお金を手に持ち、塩屋のある大通りへと向かう。因みに、街八分となっている相手に、普通であれば売り買いをしてくれる者達など居ないものだが、この街は外からの商隊の出入りも多く、そういった者達はおおっぴらにではなくとも、こっそりとお金さえ払って貰えば演無にも商品を売ってくれた。
だから、いつもの様に演無は朝市へと向かい、お目当ての塩を手に入れる。その帰り道の事だ。
「あーー」
朝市から少し離れた裏道で、頭から外套を被り顔を隠した数神の神々に囲まれている神を発見した。その神も頭から外套を被って顔を隠ししているが、周りの者達と違い大荷物を持っている。そんな神の行く手を阻むように少しずつその輪が縮まっていくのを見て、とりあえず余り良く無い光景である事は理解した。もしかしたら、犯罪に巻き込まれているのかもしれない。
この街は大きい分、少し裏道に入ると犯罪もそれなりに発生していた。
もしかしてあの神物を拉致しようとしているのか?いや、そうだろう。
「離して!!」
伸ばされた手に手首を掴まれた相手の様子に、演無は手に持っていた塩の袋を、相手を拘束していた者の後頭部へと投げ付けた。
ドンッ!とそれなりに良い音がした。
周囲の者達がギョッとする中で、後頭部に一撃を食らわされた者が膝をつく。
「え?あ、大丈夫?!」
無理矢理拉致されかけたにも関わらず、相手の心配をするその存在に演無は自身のお神良しを棚に上げて物凄いお神良しだと呆れた。
が、呆れている場合ではなく、演無は困惑する相手へと声をかけた。
「早く!!こっちにっ」
演無の声に、拉致されかけていた相手がハッとする。そして、少しだけ後頭部に一撃を食らって苦しむ相手を見つめた後、その相手は演無の方へと駆けてきた。
その伸ばされた手を掴み、演無は共に走り出す。
「待て!!」
「どこに連れていくっ」
「戻って来いっ」
戻れと言われて戻る馬鹿はいない。
演無はギュッと強く自分の手を握り締める相手の手を握り返すと、そのまま迷路のような裏道を慣れた足取りで走り、自分の住む荒ら屋へと逃げ込んだ。
そして二神して床へと仰向けに倒れ込む。
「はぁはぁ……逃げ切った」
「……」
かなりの距離を走り回ったからか、相手は声も出ないようだ。一方、肉体労働で鍛えられていた演無は、五分もすると呼吸が落ち着き体を起こした。
「あのさ、この街は表の方は治安はそれなりに良いけど、裏道とか下町はあんまり治安が良く無いんだ。だから、そういった所に一神で近付かない方が良いよ」
時には下町の者でも犯罪に遭う事もある。演無も、長年この街に住んである意味庭の様に裏道や下町を動く事が出来るが、それでも年々悪化する治安にかなり慎重に動き回るようになった。まず金を持っていると思われたら終わりだ。同じ地区に住んでいる者同士だって、搾取の対象になるし、隣同士でも被害者と加害者になる。
まあ、街八分的な演無に好き好んで接触しようとする者はなかなか居ないが、それでも物好きはどこにでも居る。
「とりあえず、もう少し時間が経ったら、安全な場所まで送るから」
「……」
「だから、それまでは」
「あの」
その相手が、ゆっくりと体を起こしながら口を開いた。
「ん?」
「その、もう既に迷惑をかけてしまってこんな事を言うのはご迷惑だと思います。でもーーあ、その前にまずお礼を言わせて下さい。下手したら貴方が怪我していたかもしれないのに、私を助けて頂いてありがとうございました」
そう言ってペコリと頭を下げた相手の動きに合わせて、顔を隠していた外套のフードが外れる。
「あーー」
パサリと布が落ちて、相手の顔が露わになる。
礼を言った声からして、女性である事は分かっていた。けれど、その露わになった顔を見て演無は夢見心地の様な表情を浮かべながら、ポツリと言った。
「綺麗だーー」
その相手は、演無が今まで見た事がない位に綺麗な少女だった。年の頃は十代半ばを過ぎたぐらいか。優しげで柔らかい顔立ちの美貌は、聖女、いや、聖母という相応しい物だった。そして全身から滲み出る温かで優しい雰囲気に相応しい、こちらを気遣う様な表情に演無は思わず頬を赤らめた。
「ご、ごめんなさい」
相手がハッとして、外套のフードを深く被り直して顔を隠してしまう。思わず勿体ないと言う言葉が口をついて出た。
なのにーー
「すいません、こんな醜い顔を見せてしまって」
「ーーは?」
なんか彼女がよく分からない事を言った。
醜い?顔?どこが?
絶世の美姫とは違う、慈愛と慈悲の女神の様な美貌の持ち主は、心底恥じ入る様に小さくなる。
「あの、ごめんなさい、醜い物を見せて。でも、お願いがあるんです」
「いや、あのさ」
醜いって誰が?どうしてそんなに謝るのか?
「その、もし可能である、しばらく私をここに置いて下さいませんか?」
「あのさ、君は醜くなんてーーは?」
「帰る所が無いんです。その、出来る限り早く出て行きます。でも、少しの間ここに居させて下さい」
「……え?」
「掃除洗濯料理、なんでもします。滞在費もお支払いします。ですから」
「え?え?え?」
「この通りです!」
土下座までされた。その時に、また外套のフードが落ちた。さらりと絹のような髪が艶めかしく動く様に、思わず生唾をーー飲まなかった。代わりに出た手が、彼女の頭を撫でていた。
「え?」
「あーーご、ごめんっ」
なんか妹にする様な感じで頭を撫でてしまった。いや、自分には妹なんて居ないけれど。でも、必死に頼む彼女を見て、強い庇護欲を覚えた。
そう、遠い昔、どこかでーー
「ーーあのさ、俺の名前は演無。君は?」
「え、あーー私は」
彼女は戸惑いながらも、それでもその名を口にした。
「紫蘭と言います」
紫蘭
ああ、それはとても
「良い名だね。紫蘭ーー」
花言葉は、『美しい姿』、『あなたを忘れない』、『変わらぬ愛』ーー
蘭の中で最も育てやすく丈夫、けれど野生の物は絶滅寸前の花の名。その俯いたように咲く姿から、慎ましく貞淑な女性にも例えられる。
ああ、その名は彼女にこそ相応しいーー。
「演無さん?」
「っ!!」
こちらを呆然と見上げる紫蘭に、演無は我に返った。まるで自分ではない別の自分が歓声を上げていた様な気がする。
なんだろう?の気持ち。
「えっと……その、ここに居る件だけど、こんな荒ら屋で良いんなら」
「ほ、本当ですか?!」
「う、うん。というか、その部屋数とか無いから着替える時とかは俺が外に出るから大丈夫」
「え、あ、いやそれなら私が外で着替えて」
「それは駄目!!言ったろ?!下町は治安があまり良く無い、むしろ悪いんだ。一応、俺の住む家の周りにはあんまり神は住んでいないけれど、それでも誰が見ているか分からないんだ!!あんたみたいに綺麗な子、すぐに目を付けられてしまうっ」
「え、あの、綺麗って」
「それに、嫁入り前ならーーいや、相手が居る?」
何故か演無の口から、そんな言葉が転がり出た。その言葉に、紫蘭がキョトンとした。
「え?あの、私、夫はおろか恋神も居ないんですけど」
当然のことながら、婚約者とか許嫁の類いも居ないと言う。
「そ、そうなの?でも、そのべっとりとついた神気」
あれ?今までどうして気づかなかったのだろう?いや、ちょっと待て。男の神気がべっとりとついた相手を、さっき会ったばかりの男と同じ家に置いていても良いのか?駄目だろ。
「神気……」
わけが分からないといった様子の紫蘭に、演無はがりがりと頭をかきながら説明した。勿論、演無だって全てを知っているわけじゃないし、そもそも自分には相手が居ない。それでも、街の年頃の男女を見ていて分かった内容を伝える。
すなわち、そんな感じでべっとりと神気がつくという事は、相手と肉体関係があり、尚且つ相手にマーキングされているという事だ。そう、自分の番いとして。
「……勘違いでは?」
番い?マーキング?
言葉の意味は分かったが、自分がそういう風にされているとは全く信じていない紫蘭に、演無もまた首を横に振った。どう考えても、そこまでべっとりとついた神気はそういう類いのものだ。むしろ、自分の物だから手出しはさせないと警告すらしているーーが、そこまでは言わなかった。何故言わなかったのは演無自身にも分からなかったが。
「あの、私、本当に伴侶とかは居ないんです」
「でも、それは」
なら、その神気はどういう事か?と疑問に思った演無に、紫蘭は俯いた。何か言いにくい事なのだろう。肩を震わせる彼女に、これはあまり突いてはいけない話題だったとようやく気づき、演無はそれ以上の話を止めようとした。
がーー
「ただ、肉体関係を結んだ相手は居ます」
「え?」
「でも、番いとかそういうのじゃないです。その、最初は償いで」
紫蘭は辿々しくも一生懸命に、話をしてくれた。
自分を疎む者達が、自分を狙って媚薬入りの飲物を用意したが、それを別の相手が飲んでしまった事。そんな彼女には特定の相手がおらず、解毒剤の無い媚薬の効果を抜く為に男と交われとは言えず、彼女の所属する場所の長たる存在が、その効果を肩代わりした事。
けれど解毒剤が無い為、代わりに苦しむその長を解放する為に、そして自分自身が引き起こした事態への償いの為に自分が身を捧げた事。けれど、その一度で媚薬の効果が抜けたにも関わらず、何度も長の寝所に呼ばれた事。
その中で、媚薬の効果から男だろうと女だろうと男に抱かれなければ媚薬の効果が消えず、自分が身を捧げた事が無駄であった事。むしろ、余計な手間暇をかけさせてしまい、尚且つ自分がしゃしゃり出てこなければその長を救う為の存在がきちんと居た事。そこに割り込み、余計な事をしてしまい、罪悪感にかられてその場所から出奔し、この街に辿り着いた事。
「……それで、裏道に入って男達に絡まれてしまったと」
「……」
何も言わない彼女に、演無は腕を組み空を仰いだ。
なんと言うか……凄く壮絶だ。
まあ、その媚薬を飲ませようと思った男達も、紫蘭の美しさに血迷ったのだろう。けれど、だからと言ってそんな所行が許される筈も無い。むしろ、股間の物を潰されなかっただけ良かったと思った方が良い。にしても、その長はなかなかの男前だと思う。普通、媚薬の肩代わりなんて恐ろしくて出来たものではない。しかも解毒剤がない類いのものなんて、かなり悪質な物だ。一度で済めば良いが、中には一度の使用で中毒になってしまう物もある。
まあ、その媚薬も男に抱かれなければ効果が消えない類いのものらしいので、この場合男が摂取してしまうとかなり悲惨な目に遭う。そう、同性愛者でもなければ。
因みに、ただの下町育ちの演無が何故ここまで媚薬に詳しいかと言うと、彼の両親は元薬師だった。特に母は様々な薬草や薬について造詣が深く、腕の良い薬師だったと言う。ただ、演無が物心ついた時には、母はもう薬師の仕事はして居なかったが。
そんな母から薬師としての知識と採取方法、調合技術を叩き込まれている演無は、薬師として働けと言われたらそれなりの収入を得る事が出来るだろう。しかし、母はそれを望まなかった。
その知識と技術は、貴方が真の主と認める相手にのみ発揮しなさいーー
決して無闇矢鱈に神目に触れさせてはならないと、母は死の間際まで演無に教え続けた。その一方で、彼女は自分が死ぬ寸前まで、我が子たる演無に薬の知識と採取方法、調合技術を教え続けたのである。
だが、母が死んで数年。
演無は未だに母が言う様な真の主には会えず、その知識と技術を持て余していた。果たして、演無は真の主に会えるのだろうか?
ーーと、思考がずれてきた演無は、慌てて目の前の紫蘭へと視線を戻した。
今はそれより、彼女の事だ。
「その、色々と大変だったね。まあ、とにかくここは凄くオンボロだけど、君が居たいだけ居ても良いよ。あと、お金とかはいらないよ。むしろ、こんな場所でお金を貰ったら申し訳ないよ」
「こんな場所なんて……凄く綺麗に掃除されていて清潔ですし、補修も」
「ありがとう」
彼女はざっと周りを見回しただけで、それに気づいてくれた。美しく綺麗なだけではなく、気持ちもとても優しいのだろう。
「あ、廁は外になるんだ。あと、風呂は外で水風呂。部屋はここともう一つ。そっちで寝泊まりしてね」
居間と台所がくっついた部屋の他に、自分が寝泊まりしている部屋がある。自分は居間で寝れば良いと、演無は自分の部屋を彼女に譲る事にした。
「それでーー」
そこで、ぐぅっと音が鳴る。
そういえば、朝はあまり食べていなかった。まだお昼までに時間があるが、あの逃走劇は思いのほか胃袋に堪えたらしい。鳴ったお腹をさすりながら、演無は照れ笑いを浮かべた。
「とりあえず、何か食べようか。ああ、確か魚がーー」
そこまで言って、演無は大切な事を思い出した。そう、料理に欠かせない塩。それを全てぶちまけてきた事を。
「……買い物に行ってくる」
流石に塩が無いとこの先、不味い。演無はオロオロする紫蘭を置いて、塩を買いに出たのだった。