【徒花は花園には咲けない 4】
利潤は彼女と何か話し、彼女は嬉しそうに微笑み利潤に抱きつく。そんな利潤と彼女を大切な宝物の様に抱きしめる、彼。
――あれ?これどういう関係?
とりあえず、仲が良いのは確かだ。利潤も嬉しそうだ。ただ、この三角関係の矢印の方向が分からない。
そうこうしている間に、彼女が利潤から離れ、彼が利潤を抱きしめる。そして――。
「…………」
利潤の艶めいた紅い唇が、彼のそれと重なる。
「…………」
紫蘭は静かにその場を立ち去った。軍神顔負けの気配の消し方だっただろう。
そうして暫く距離を取ってから、紫蘭はその場に膝を突いた。
「私、私――」
ああ、なんて事だろう!!
基本的には異性愛者だと思っていた。基本的な性的嗜好は、異性を好きなのだと思っていた。
でも、利潤は男でも全然イケたらしい。
ってか、それなら自分がわざわざしゃしゃり出なくても良かったし、むしろ余計なお節介をしてしまったという事か!!
「……というか、あれ?」
紫蘭はそこでふと大事な事に気づいた。
自分に飲ませようとして別の相手が飲んでしまったあの媚薬。
あの媚薬は、単純に性的興奮を高めるものではたぶん無いだろう。というか、そんな普通の物をあの男達が使う筈が無い。
それこそ、薬で苦しむ自分を見て、男達は嘲笑い散々馬鹿にしてくれただろう。そしてお情けを寄越して欲しければとか何とか言ったに違いない。
というか、利潤も言っていたではないか。その効果を無くす為に男に抱かれて来いとは言えない――と。つまり、男に抱かれなければ効果が消えない類いのものだ。
その効果を利潤は肩代わりした。
そう、その効果を肩代わりしたとなれば、それこそ男に抱かれなければその効果は消えない。
つまり、利潤は紫蘭が相手をしても、全く媚薬の効果なんて消えなかったという事だ。むしろ好きでも無い醜い女と強制的に関係を持たされた挙げ句に、媚薬で更に苦しみ続ける羽目となったという事だ。
でも媚薬の効果は、次の日には無かったのは確認している。となると、自分が眠った後に誰か別の男の所に行った?それとも隠していた?じゃあなんて次の日もそのまた次の日も自分が寝台に引きずり込まれる?それこそ、余計に苦しませやがってこの野郎!!とかいう報復?!
紫蘭の顔から一気に血の気が引いた。
あ、駄目だこれもう死亡フラグだ。
立ち上がり、ヨロヨロと歩き出した紫蘭は近くにあった木にぶつかって止まる。そのまま、しばらく木に寄りかかったまま考え、そして決めた。
「……軍から出て行こう」
良かれと思ってやった事が、思い切り相手にとっては余計なお世話だった今回の件。流石の紫蘭も利潤に合わせる顔がないとして、軍から出て行く事に決めた。単純だとか無作法とか言うなかれ。誰でも当事者になったら同じような選択になるから!!
もう、今の紫蘭は自分の顔から絶対に火が出ているとすら思った。
しかし、いざ行かんとした所で、紫蘭は利潤の命を受けた女性達に囲まれる事となった。
それでも、これ以上失敗を犯せないし早く居なくなりたい。
だから、もう一神で入れるからと手伝いの女性達の手を断り、体を身ぎれいにする。これから暫くの間はまともに入浴は出来ないだろうと思ったから、念入りに体を綺麗にした。
そして身支度をする前に忘れ物があるからと、半ば強引に自室に戻り予め荷造りしていた荷物を手にする。大きな鞄を背中に背負い、肩に鞄をかけ、そして大きな巾着袋を手にする。動きやすい服装の上に外套を身に纏い、その上に更に頭からすっぽりと覆い隠す白い外套を身につける。
そうして後はもう外に逃げ出すだけ――となった時、付き添いの女性達が現れた。
なかなか来ない紫蘭に、痺れを切らしたのだろう。
完全武装した――というか、どう見ても出奔間近のその装いに彼女達は大いに困惑した。分かる。
「一体何を――」
「出て行きます」
「は?」
「ごめんなさい、理由は聞かないで」
「何を――それよりも早く利潤の様の所に向かわなければ」
彼女達が困惑しながらも、隙の無い足取りでこちらに近付いてくる。
「すいません見逃して下さい、むしろなんで私を毎日呼ぶの?!」
あと、そろそろ周囲が勘付き始めている様な気もする。そしてもし、自分が利潤の寝台に引きずり込まれている事をはっきりと確信されたら、「この泥棒猫!」、「阿婆擦れ女!」、「利潤様を惑わす毒婦!!」と、周囲から罵られる事確実である。
それともあれか?それを狙っているのか?というか、その先に待ち受けるのって確実に追放だろ。散々罵られて身一つで追放されるなんて冗談ではない。
今のこのご時世。昔、花街の焼け跡から出発した時よりも、更に治安が悪いのだ。確実に殺されてしまう。普通女性であれば襲われたり売られたりという事があるが、自分をよく知っている紫蘭は、自分に関してはそういう事はない事を十分理解していた。
という事で、殺害一択である。
色々と謝らなければならない事が山積みだが、流石に死んでお詫びというのは嫌だった。というか、利潤に殺されるならばまだしも、この場合は盗賊とか山賊とかが相手だ。なんで縁もゆかりも無い相手に、そんな事をされなければならないのか。断固拒否する。かといって、利潤に殺されるのも嫌だ。まあ、無理矢理襲った犯罪者と言われれば、ぐうの音も出ないけれど。
「――紫蘭様」
「土下座?!利潤に土下座したら――え?」
紫蘭、様?
紫蘭は、自分をあり得ない敬称付けで呼んだ彼女達の一神に、視線を向けた。クスクスと笑う姿は、まるで我が儘を言う子供を優しく見守る母親のようだった。しかし、紫蘭は酷い胸騒ぎを覚えた。今すぐ逃げろと、本能が警告を発する。
「紫蘭様、この様な我が儘を仰らないでください。さあ、利潤様が――我が君がお待ちでございます」
「っ……」
逃げようとした体が動きを止めた。
かと思えば、足が勝手に思わぬ方向へとーー彼女達の方へと動き出す。
まるで操られる様に自分の体が意思に反して動き出す様に、紫蘭は目を見開いた。
「さあ、その様な無粋な物は脱いで。我が君に相応しい装いを致しましょう」
「そうですわ。その荷物も下ろして下さいな」
「まあまあ、御衣装が皺に――でも、他の物はまだありますから大丈夫。そちらの物よりも別に用意してあった物の方が、紫蘭様に似合うと常々思っていましたの」
「何も恐くはありませんわ。ほほほ、ほんに千載一遇の好機が来た事。まさか、災い転じて福と成す。これで我らが悲願も」
彼女達が笑いながら紫蘭に近付いてくる。駄目だ、このままでは駄目だ。でも逃げられない。足はどんどん彼女達へと近付いていく。
何故?何故?何故?!
心の中で叫ぶも、体の自由はきかない。混乱の余り、心臓が口から飛び出しそうだった。
そうして彼女の手が、紫蘭へと伸ばされその頬に触れようとしたーーその時だった。
「貴方様は、ただそこに在れば良いのですーー昔のように」
その言葉に、紫蘭は横っ面を張り倒された様な衝撃を感じた。
自分の意思を無視し、神形である事を強要するその言葉に、紫蘭の中を言いようのない何かが駆け巡った。それが、紫蘭の体の自由を取り戻させた。
「っ!!」
彼女の手を振り払い、紫蘭は踵を返す。そして窓側へと駆け寄る。いつもは一階の部屋を割り当てられる事が多いが、今回は珍しく二階の部屋を割り当てられていた。けれど、唯一の廊下に繋がる扉は彼女達の後ろで、逃げるには窓からしかない。
紫蘭はタックルする様にして窓へと突っ込み、そして眼前にある木に飛びつくと、そのまま木を伝って地面へと降り立った。荷物は勿論手放さない。
「紫蘭様!!」
彼女達が慌てた様子で窓から覗き込む姿を見上げた紫蘭は、彼女達の必死な形相に怖じ気付き、少しでもそこから逃れる為に走り出した。
そうして今、紫蘭は街の外れにある廃墟へと辿り着き、こうして身を休めている。
「疲れた……」
全力疾走した疲れは回復したけれど、何と言うか精神的にドッと疲れてしまった。しかも、更に色々と新しい悩みが積もり積もっていく。
紫蘭は、自分が逃げ出す前の彼女達の様子を思い出す。軍から出て行くと言う自分を引き留め、訳の分からない事を言っていた彼女達。分かるのは、彼女達は自分が出て行く事を良しとしなかったという事だ。そして強引に利潤の所に連れて行こうとしていた。
そんな彼女達が、あんな風に強引に逃げ出した紫蘭をそのまま見逃すだろうか?いや、きっと利潤に報告する筈だ。利潤が捨て置けと言えばそれまでだが、そうでない場合は、追っ手がかかる可能性がある。
利潤様に目をかけられながら逃げ出すなどの無礼!手打ちにするべきですっ!!
とか言われて、ズバッとやられるんじゃないだろうか?
それか、また利潤の寝台に放り込まれるかもしれない。いや、そこはもう利潤が目を覚ましてくれる事にかけたい。っていうか、他の相手が居るだろおぉぉぉぉぉ!!あと、彼も居るだろおぉぉぉっ!!
「いや、私の気にしすぎ。絶対に追いかけて来ない、来ないったら来ない」
半ばそう信じる事にして、紫蘭は傍に置いてあった荷物を引き寄せた。朝になったらここを出て行くつもりだが、それよりも早くに出た方が良いかもしれない。ただ、出て行くにしても、足になるものがない。
大戦が始まる前は、他の村や街に向かう乗合馬車などもあったが、今はそういった物も数少なくなっている。理由は、治安の悪化だ。盗賊や山賊が増え、【魔獣】と呼ばれる物達が彷徨く。だから、村や街を行き来する商隊などは、強い護衛達を雇うのが常だったし、腕に覚えのある者達はそれで生計を立てる事も多かった。
一応、この街は事前の情報では、それなりの規模を持つ街だというから、今までの経験で言うなら商隊なども幾つか出入りしている事が考えられる。
因みに、盗賊や山賊、【魔獣】が多く彷徨くほど治安が悪くなっているにも関わらず、紫蘭が拠点からいくら近いと言ってもそれなりの距離があるこの街の外れまで無事に辿り着けたのは、単純な運の良さの他、彼女がサバイバル生活に慣れていた事が大きかった。
あの三年にも及ぶサバイバル生活で、彼女の危険な場所に対する察知能力はかなり上がっており、嫌な予感がする場所は無意識に避けて通ってきたのだ。
ただ、これが毎回通用するわけでない事も重々承知している。
だからこそ、安全にこの街から更に遠くに行く方法を考えなければならない。
商隊の護衛役にはなれないのは分かりきっていた。何せ紫蘭がまともに扱える神術は一般的ではないからだ。基本的な攻撃系の神術も使えない。ならば、下働きぐらいしかないが、それだって運による。それか、この街で暮らしていくという事も考えたけれど、それをするにしても利潤達の軍がこの街から離れていった後での事だ。
というか、利潤達の進軍ルートの途中に、この街がある。つまり、この街は重要な通過点であり、物資の補給場所及び情報収集場所でもあるのだ。
仮拠点で数名斥候を放ち、街の情報は先に得させていたのを、紫蘭は知っている。そして、特にここの街が自分達に敵対するものではないという事が先日はっきりと確認され、物資補給の為の者達が近々来る予定となっていた。物資が補給されたら、そのまままた進軍を開始する。
え?軍が街を訪れないかって?いや、それは無理だろう。突然大神数が大挙して訪れたら街は攻め込まれたと勘違いするだろうし、下手したらそこで戦闘が起きる。
勿論、状況に応じて軍が街を訪れ滞在する事もあるが、その場合はその街の統治者と秘密裏に連絡を取り合い、街の者達に周知した上で訪れるようになっている。
ただし、全ての街や村でそういう事はせず、必要な時に最低限の滞在とする事で、混乱と、あと街や村の者達の負担を最小限にしていた。
いくら事前連絡を受けているとはいえ、大勢の者達を受け入れるというのはやはり大きな負担になるからだ。
とはいえ、この街に関しては、利潤達の軍が多かれ少なかれ関わる事が分かっている。早々におさらばした方が良いだろう。はい?なら逆方向に進んで元来た道を戻れば良かったのではないかって?
それが出来たらとうの昔にやっている。
紫蘭は、現在の仮拠点に来るまでに渡った橋を切り落とした馬鹿を思い出し、ギリィと歯ぎしりをした。絶対に許さない、あの山賊ども。まあ、一神残らず利潤達に討ち取られたけれど。あと、あの落ちた橋に関して直さなくても良いか疑問に思った紫蘭に利潤はこうのたまった。
「僕達が落としたわけじゃない」
軍の者達を全員無事に渡らせた後で、山賊達があの橋を落とそうがどうしようがこっちの責任ではない。むしろ、山賊達を殲滅したのだから、それで十分に釣りが出るとのたまったあの男。こっちと向こうの交流と物流が断たれるではないか――と窘めたが。
「は!山賊どもが次々と沸いて出てきた時点で、んなもんとっくに断たれてんだよ」
可愛い顔してとんでもない言い草。
清楚可憐さと妖艶な美しさを併せ持つ美貌の持ち主の癖して、血も涙も無いお言葉。あんたに比べれば、いくつもの国々を傾けてきた歴代の傾国の美姫達なんて、まだ可愛いものだと思う。
少なくとも、彼女達は自らの手で山賊どもを討ち取ったりなんてしてないし。
「それに僕、山に入る前に最後に滞在した向こうの街の権力者、全力でうざいと思ってたんだよね。なんていうか、次に僕の前に姿を現したら、サクッとやっちゃう気がしてさぁ」
やっちゃうは、確実に殺っちゃうだと紫蘭は確信した。確かにあの権力者、利潤にとても執着していて言い寄りはおろか、時には実力行使で既成事実を作ろうとしていた。そして利潤の近くに居た紫蘭を敵認定して刺客を送り、利潤に返り討ちに遭う事数回。利潤はとびっきりの悪夢を彼に送りつけていた。彼は神として再起出来るのだろうかと、流石の紫蘭でも心配になったぐらいだ。
いや、今はその馬鹿の心配をしている場合では無い。
「とにかく、少しでも距離を稼がないと」
何とか向こうと鉢合わせしない内に、危険地帯を抜けるか隠れる場所は探さなければ。
紫蘭はとりあえず行動の指針を決めると、固い床の上に寝っ転がりすぐに眠りについたのだった。