左遷聖女のほのぼの療養記
「セレナ・フォン・ブライフェスブルクをエンデアヴェント地方の大司教に任ずる。正式な辞令書が届き次第、至急エンデアヴェントに赴くように」
白髪交じりの老人が厳かな声で言った。
真っ白い法衣に身を包んだこの老人は大陸最大にして唯一の一神教、イブラヒム教最高指導者パウルス二十三世である。
「……教皇聖下、すみませんよく聞こえませんでした。何と、今言いましたか?」
そう聞き返したのはやはり白い服に身を包んだ少女。
髪はミスリルでできているのではないかと思うほどの美しい白銀で、瞳は本物の紫水晶が嵌め込まれているように見える。
肌は最高級の陶磁器のように白く、きめ細やか。
顔は極めて整っており、彫刻品のように美しい。
特に唇の形は美しく、見る者を魅了させる。
もっとも……
一つだけ欠点があるとするならば、その美しい瞳には生気が感じられないことだ。
まるで死んだ魚のような目をしている。
また表情も硬く、近寄り難い雰囲気を出していた。
「エンデアヴェント地方の大司教に任ずる、と言ったのだよ聖女セレナ、いやブライフェスブルク大司教」
「エンデアヴェントというのは、あのエンデアヴェント地方のことですか? 辺境の」
「辺境かどうかは判断に任せるが、少なくとも私はエンデアヴェント地方は一つしか知らない」
淡々とパウルス二十三世は言った。
すると無表情であったセレナの顔に感情の色が浮かぶ。
それは動揺と怒り、悲しみだった。
「……私は聖女として魔王を討伐しました。聖下のご命令だからです。私を聖女に選んでくれた聖下のご命令だからこそ、死線をくぐり、魔王を打ち倒したのです。そ、それなのに左遷ですか?」
何度も何度も死ぬ思いをした。
それでも一人の聖職者として教会の、教皇の命令には従わなければならないと……他でもない恩人の命令だからと、セレナは歯を食いしばり、歴史上最悪の迷宮“魔王城”の最深部まで進み、魔王と呼ばれていた最強の魔物を打ち倒したのである。
「故に司教から大司教への昇級、そして新たに枢機卿の地位も与えた」
「で、ですがエンデアヴェントと言えば人口二十万も満たない田舎ではないですか!」
神聖イブラヒム同盟に加盟する国々の総人口は八千万以上。
司教となれば十万から三十万程度の信徒を管理することになり、大司教となれば百万は下らない。
今までセレナに与えられていた司教区に属する信徒数は四十万であり……
これは実質的な降格を意味していた。
「せ、聖下は私に次期教皇の座を約束してくださると……」
「そのような約束はしていない。期待はしている、と言ったが……」
「わ、私はその期待に応えようと、頑張ってきました!!」
セレナは声を荒げる。
するとパウルス二十三世は淡々と言った。
「君は……その期待に応え過ぎた。まだ十八の若さでそれだけの功績。無視できない」
「そ、そんな……無茶苦茶な……」
功績を上げ過ぎた、優秀過ぎるが故に左遷。
それは今まで順調に、いや順調すぎるほどに出世街道をひたすら走って来たセレナには考えられない価値観だった。
「で、では神聖同盟の大結界は誰が管理するのですか!!」
大結界。
それは聖都ヒエソリアムを中心として、各大司教座を霊脈で結び、構築された神聖同盟加盟国全土を覆う巨大な結界である。
魔物や各地の迷宮の活動を低下させる効力があり、この結界が壊れれば凶暴化した魔物が人々の生活を脅かすことになる。
「それは既にカリクストゥス枢機卿が後任として就くことになっている」
「か、カリクストゥス? あ、あの男が!?」
カリクストゥスと言えば、ねちねちとした嫌がらせをセレナにしてきた五十代ほどの枢機卿である。
神聖魔術の才能に恵まれず、優秀なセレナに嫉妬している……とセレナもセレナ以外の聖職者たちも認識していた。
ただ政治的な駆け引き、汚いやり方だけは得意で、何度もセレナの足を掬おうとしていた。
ここまで来ればセレナも自分の身に起こったことが何か、分かった。
カリクストゥス枢機卿に嵌められたのだ。
おそらくセレナが出世をすると都合の悪い高位聖職者、多くの枢機卿や大司教たちを集めて教皇パウルス二十三世に直訴したのだろう。
それに押されてパウルス二十三世はセレナの左遷を決めたのだ。
「せ、聖下……こ、これは一時的な処置ですよね?」
セレナは震える声で尋ねた。
あくまで一時的な処置、つまり折を見てセレナを中央に呼び戻すつもりだと。
あくまで圧力が掛かったため仕方がなく行っただけであり、あくまでパウルス二十三世はセレナの味方だと……
そう言って欲しくてセレナは尋ねた。
それに対しパウルス二十三世は淡々と答えた。
「君も知っていると思うが、原則的に司教や大司教の任地を短い期間で変えることはない、混乱が生じるのでな」
「そ、そんな……」
つまり決して一時的な処置ではない、と。
それはパウルス二十三世が自らの意志でセレナを左遷させたということを意味していた。
「わ、私が何をしたというのですか!」
「胸に手を当てて考えてみなさい。……分からないうちはそれが原因だ。もう良いかね? 早く任地に赴き給え。もし命令を違えるというのであれば、除名処分も考えられる。できればそのようなことはしたくないのでな」
「おのれ、あのクソ教皇め……私に嫉妬しやがって……」
数日後、正式な辞令を受け取ったセレナは怒りに震えていた。
少し前までは本当にショックを受けて、家で枕を濡らしていたのだが……
今のセシリアにあるのは怒りと憎悪である。
「ふ、ふざけるな! 何が胸に手を当てて考えてみなさいだ! そんなもの、あるわけないでしょうが!」
要するに特に理由はないけど、お前優秀過ぎるし俺の地位脅かしかねないから左遷ね。
という意味なのだろう。
セレナはそう確信していた。
「いくらカリクストゥスから貰った! あの腐れ坊主め!!」
パウルス二十三世は一見真面目そうな聖職者だが……
実は金酒女が大好きな典型的な腐れ坊主である。
愛人は無論、隠し子も無数にいる。
そんなんでも仕事だけはちゃんとやり、何よりセレナを見出してくれた恩人でもあるので、セレナはそれなりには尊敬していたのだが……
「見損なった! くぅー、よりにもよってカリクストゥスに大結界を奪われるなんて!!」
大結界の維持は聖職者にとって花形の仕事である。
歴代の教皇のうち、三分の二はこの大結界の維持管理を務めていた過去がある。
セレナがその職務から外され、カリクストゥスがその職務についたということは……
セレナが次期教皇から外されて、カリクストゥスが次期教皇となったことを意味する。
「まあ良いわ。……どうせカリクストゥスにはあの大結界を維持できないもの。精々後悔するが良いわ!!」
カリクストゥスは神聖魔術の才能はからっきしである。
現在の地位は政治や交渉、そして限りなくグレーな不正行為によって得たものだ。
しかし大結界や魔物、迷宮には彼がお得意とするグレーな行為は通じない。
「ざまぁしてやるわ、今に見てなさい……」
セレナは責任を負わされて聖職者を解任されるカリクストゥスと、責任を取って退位するパウルス二十三世の姿を脳裏に浮かべた。
無論、その後釜はセレナである。
「しかしいつ来るのよ! 従者ってのは!!」
セレナは怒りの声を上げた。
そろそろ教会がセレナのために選んだ従者がくるはずなのだが……
「も、も、も、申し訳ございません……ブライフェスブルク大司教様」
「ブライフェスブルク大司教様、只今参上いたしました。……それとまだ時間ではないはずですが?」
荒ぶるセレナの前に現れたのは、二人の少女であった。
おどおどと震えている少女は桃色、堂々と答えた少女は水色の髪をしている。
顔の造形は全く同じであり……一卵性双生児であることが一目で分かる。
セレナは二人を見て、一言。
「チェンジで」
「ひ、ひぃ……す、すみません、か、代わりの人を用意します……」
「ブライフェスブルク大司教様、私たちは決して娼婦や男娼ではありません、ですので誠に申し訳ございませんが、チェンジすることは不可能です」
「五月蠅いわね、分かってるわよ。早く名前を言いなさい!」
セレナはイライラした顔で言った。
反射的に包帯が巻かれた左手の左手首を掻きむしる。
「え、えっと、わ、わたしは……ら、ララと申します。階級はし、司祭です」
「リリです、同じく司祭です。……ララは私の姉です」
「ふーん」
臆病者の姉としっかり者の妹。
分かり易いなと、セレナは思った。
「……にしても何で女なのよ」
「ブライフェスブルク大司教様が女性だからではありませんか? 女性の、それも聖女様の従者ですから特別な配慮がされたのかと」
「特別な配慮、ね」
セレナは溜息を吐いた。
「どうせならイケメンが良かったわ。イケメンと田舎の辺境でのスローライフならまあ左遷は悪くないとも思ったけど、はぁ……女か。生憎女は趣味じゃないのよね」
「お、女ですみません……」
「それは良かったです、私も女性を性の対象とすることはありません」
セレナはげんなりとしてしまった。
趣味とか、性の対象とか……そういう問題では無いのだ。
「私は女嫌いなのよ。……良いからもう一度教皇庁に行って、代わりの男性を連れてきて」
「は、はい! わ、分かりました!!」
「はぁ……しかし難しいと思いますよ?」
セレナに命じられてララとリリは教皇庁に赴いた。
そしてしばらくしてから帰って来た二人はセレナに言った。
「す、すみません……も、もう決まった人事だと……」
「まことに申し訳ございませんが、諦めて頂くしかありませんね」
「あ、あのクソ教皇め……」
セレナは少しだけ涙目になった。
女嫌い、というのはセレナのちょっとした強がりである。
オブラートに包めばセレナは嫌いというよりは女性が苦手なのであり……
より正確に言えば女性恐怖症なのだ。
女性が女性恐怖症というのは珍しいが……
いないこともない。
そしてその辺りの事情もしっかりとパウルス二十三世は知っているはずである。
それなのにわざわざ数少ない女性の聖職者を宛がった。
つまり……
(と、とことん私を追い詰めようというわけね……)
同じ空間にいるだけでも怖い。
触られると心臓が跳ね上がる。
もし裸を見られようなら気絶してしまう。
そのレベルの女性恐怖症のセレナにとって、この双子の従者二人との旅、そしてこれからの仕事はもはや苦行、拷問の域である。
だが……
「良いわ、この程度では私は屈しない。絶対に戻って見せるわ」
「が、が、がんばってください……」
「その意気です、ブライフェスブルク大司教様。頑張りましょう」
事情を知ってか知らずか、ララとリリはセレナに声援を送る。
それを聞き、少しだけ二人に対して心理的な距離を縮めたセレナは言った。
「……ブライフェスブルク大司教は呼びにくいでしょう。セレナで、良いわ」
「ひゃ、はい! セレナ様!」
「分かりました、セレナ大司教様」
斯くして二人はエンデアヴェントへと赴いたのである。
神聖イブラヒム同盟は複数の王国・諸侯領・自由都市が連合した、一種の巨大な連邦国家である。
そんな神聖イブラヒム同盟を取りまとめている事実上の盟主、皇帝とも言っても良い存在がイブラヒム教最大指導者である教皇である。
教皇を皇帝とするのであれば、その教皇の手足となる聖職者たちは言わば官僚と言っても良い。
聖職者たちの地位は大司教、司教、司祭、助祭の順に高くなる。
枢機卿に関しては少々説明が面倒なのでここでは省くとする。
さて教会は神聖イブラヒム同盟加盟国の全土各地に教区を設置することで支配している。
基本的には教区=領地だと考えても構わない。
さて教区には二種類存在する。
一つは普通教区。
これは諸侯や騎士、自由都市など世俗の支配地の上に設置されたもので、その土地の支配権に関しては世俗の支配者に委ねられ、教区の司教や大司教は最低限の十分の一税や寄付金、そして裁判権のみを有する。
もう一つは教会直轄教区。
これは教会そのものの直轄地であり、その地の支配権全てが教区長である司教や大司教に委ねられることになる。
つまり教会の司教と世俗領主を兼任した存在……と考えても良い。
セレナが赴任するエンデアヴェント大司教区は後者、教会直轄教区に分類された。
「……百歩譲って左遷は良いわ。でもね、住む場所すら無いってのはどういうことよ!!」
セレナは思わず怒鳴り声を上げた。
住む場所は用意されている……と説明は受けていたが、そこにあったのは空き地だけであった。
「じ、自分で、た、た建てろという意味では、な、な、ないですか?」
「ふざけんじゃないわ!! 私は大工じゃないのよ!!!」
セレナは教皇からの辞令書を何度も踏みつける。
すでにここに来るまでの間にセレナの八つ当たりを受けた辞令書はボロボロになっていた。
「まずは教会に向かいませんか? セレナ大司教様。しばらくは教会で寝泊まりし、折を見て屋敷を建てるなり、借りるなりすれば良いかと」
「……そうね、そう言えばあなたたちも住む場所が無い点では同じね。悪かったわ」
上司である自分がイライラした様子を見せれば、困るのは部下であるララとリリだろう。
セレナはそう思い、一先ず教会に向かった。
幸いなことに教会はこじんまりとしてはいるが、確かに存在した。
教会の存在に安心するとも変な話ではあるが。
セレナはララとリリを引き連れて、教会の中に入る。
「こ、これは……も、もしやブライフェスブルク大司教様ですか?」
「そうよ、一日早く到着したわ。あなたはクレマン司教ね?」
対応してきた中年の司教にセレナが問いかけると、司教は頷いた。
「お出迎えすることができず、誠に申し訳ございません。ブライフェスブルク大司教様」
「連絡をしなかった私が悪いわ。それとセレナで良いわ」
セレナはクレマンを観察する。
エンデアヴェント大司教区が教区であった頃の教区長を務めていたというが……
妙に頼りない印象を受けた。
「聞きたいんだけど、何で私の家がないの?」
「も、申し訳ございません。よ、予算不足で……」
話によると土地の確保はできたが、そこで予算が尽きてしまいセレナのための屋敷を用意するころができなかったようだ。
「予算不足ね……二十万人程度の人口を抱える教区なら、それなりの家くらいは建てられると思うけど。そもそもここは直轄教区だし」
直轄教区ということは十分の一税以外にも、その他地税などを徴収することができる。
それを考えれば財政的にも豊かなはずだが……
「そ、それがですね、司祭たちが……」
クレマンによると司祭たちがまともに税金、十分の一税を徴収しないのだという。
「どうして指を咥えて見てるのよ」
「そ、それが多数の冒険者と共に徒党を組んでおりまして……」
不良冒険者たちが司祭たちを守っているため、手を出すことができないのだという。
「中央に報告すればすぐに武装神官か聖騎士を派遣してくれると思うけど……」
「何度も報告したのですが、今は人を派遣できるほどの余裕はないと言われまして……」
「なるほどね」
最近まで教会は世界最悪の迷宮“魔王城”の攻略とその周辺地域でも魔物の活性化に手を焼かれていた。
それを抑えるために多数の武装神官、聖騎士が動員されたため……
ド田舎辺境のエンデアヴェントは放置されていたのだ。
(っち、あの教皇、まさか厄介払いついでに私に解決させるつもりで寄越したの? 腹立つわね)
だが解決しないわけにはいかない。
セレナは溜息を吐いた。
「分かったわ。司祭共は私が逮捕する」
「し、しかし多数の冒険者たちが……」
「有象無象など、怖くもないわ。これでも聖女、武装神官よ」
魔王を打ち倒し、“魔王城”を攻略したセレナにとって冒険者など怖くもなんともない。
まあ本来セレナは後方支援が担当なのだが……
前衛もできるのだ。
「但し……その前に書類のチェックね。ちゃんと証拠を中央に提出してから、逮捕に踏み切るわ」
さて、それからしばらくの間、セレナ、ララ、リリ、クレマンの四人はせっせと書類の整理をしていた。
司祭たちから提出された書類の不備を確認し、まとめ上げる。
これを中央に提出し、受理されて初めてセレナは司祭たちを捕まえて裁判に掛けることができる。
辺境ではどうしても現地の司祭、司教の力が強くなる。
そのため多少なりとも寄付金や税金が横領されてしまう……ことは仕方がないのだが、物事には限度がある。
「よくもまあ、これだけ横領されて黙ってみていたわね」
「も、申し訳ございません。わ、私に力がないばかりに……」
酒をグビグビと飲みながらセレナが言うと、クレマンは申し訳なさそうに謝罪する。
セレナの足下には既に二本の瓶が転がっていた。
「この金で司祭共が腹を膨らましていると考えると腹が立つわね。信徒から集めた大切なお金、個人的なことに使って良いわけないわ」
「セレナ大司教様、良いことを言いますね。……お酒を飲みながらでなければもっとかっこよかったですけど」
酒精の強い酒をグビグビと飲みつつ、書類を捌いていくセレナをリリはジト目で見た。
セレナは鼻で笑う。
「飲んでないとやってらんないわよ、こんなクソ田舎。いくら何でも資金が少なすぎよ! これじゃあ私の懐に入る額まで少なくなるじゃない!!」
「……信徒から集めたお金ですよ?」
「私の取り分は私の取り分! 横領とは違うわ!」
司祭や司教は中央から与えられる年金以外にも、いくつか収入源がある。
寄付金や税金として集めた金額のうち、五%以内ならば自身の収入として懐に入れても良いのだ。
無論、限界額は定められているが。
「これじゃあ私の酒代だけで全部無くなってしまうわ」
三度も飯よりも酒が好きなセレナにとって、酒代の確保は死活問題。
だが酒だけでは人間生きていけない。
特に高位聖職者はそれなりに人付き合いがあるため、多少のお金は必要になる。
「あ、あの……そ、そもそもお酒の飲み過ぎじゃあ……」
「口を動かすのは良いけど手は止めない!」
「ひ、ひぃ!! すみません!!」
ララは慌てて書類に取り掛かった。
横領は過去数十年に渡って行われていたため、必然的に作業量は多くなる。
(しかし困ったわね……)
世の中綺麗ごとだけではどうにもならないことは、既に左遷で学んでいる。
中央に戻るにはそれなりに汚い手が必要になる。
つまり……
「世の中、やっぱり金ね」
セレナはこの世の摂理を再確認する。
酒・金・イケメン。
セレナの三大好きな物だ。
「セレナ大司教様、それは聖女として聖職者としてどうなのでしょうか?」
「手を動かす!」
「動かしています」
手を動かしながら反論するリリを見て、セレナは舌打ちをする。
「やっぱり少し面倒だけど、本腰入れて開拓に力を入れないといけないのね」
厄介払いついでに辺境に流した聖女が、辺境を開拓してくれたら嬉しいなぁ……
と、思っているだろう教皇の顔を思い浮かべると、セレナは腹立たしい気持ちになった。
半ギレになりながらもセレナは書類を次々と処理する。
その速度はララやリリ、クレマンよりも遥かに早く、とても酒を飲んでいるとは思えなかった。
さて、そんなことをしていると……
誰かが屋敷のドアを叩いた。
現在、セレナとララ、リリはクレマンの屋敷で寝泊まりをしているのだ。
面倒な書類仕事もクレマンの屋敷で行っている。
セレナは立ち上がり屋敷のドアを開ける。
すると……
「よぉ、セレナ。久しぶりだな」
金髪の男が経っていた。
少しチャラチャラした雰囲気を纏っている。
セレナは首を傾げた。
「……どちら様かしら?」
「……忘れたとは言わせないぞ」
「忘れたわ」
セレナはそう言って屋敷のドアを閉めた。
リリがセレナに尋ねる。
「誰でしたか?」
「ちょっとした変質者よ」
「おい、てめぇ! セレナ!! 開けろ!!」
ガンガンとドアを叩く金髪の男。
セレナは溜息を吐き、ドアを開けた。
「五月蠅いわね、アレックス!! どっかに行きなさい!!」
「お、お前やっぱり覚えてるじゃないか! 大体少し前まで背中を預け合って、ちょっといい雰囲気になった男に対する態度じゃねえだろ!!」
「何勘違いしてるの? クソ童貞」
「ち、ちげぇし。ど、童貞じゃねぇし」
「じゃあ素人童貞なのね。さようなら」
セレナは再びドアを閉じた。
「アレックス、ってあの勇者アレックスですか」
「そうよ、素人童貞勇者アレックスよ。一応私の仲間だわ。変質者に堕ちたとは知らなかったけど」
クレマンの問いにセレナは頷いた。
暫くすると、またガンガンとドアをノックする音が響く。
「おい、開けろこのクソビッチが!!」
「ああ!? 誰がビッチよ!! 見たいか、見せてやろうかぁあああ!!!!!」
再びドアを開けたセレナはアレックスの胸倉を掴む。
負けじとアレックスもセレナの胸倉を掴んだ。
「ああ、やんのかてめぇ!!」
「なに、やるの? 受けて立つわよ。今度こそ殺してやるわ」
一触即発になったところでメイド服を着た少女が二人の間に割り込んできた。
「まあまあ、落ち着いてくださいセレナ様。それに兄さん」
アレックスの妹であり、ロアナが二人の喧嘩を止める。
その仲裁はとても手慣れたものであり、ララとリリは思わず見とれてしまった。
(な、な、なるほど、せ、セレナ大司教様が怒った時にはああ、すれば……)
(参考になりますね、さすが勇者様の妹君)
ララとリリはメモ帳を取り出して、すらすらとメモをした。
「はぁ、で、何をしに来たの? アレックス」
「お前が左遷されたと聞いて、笑いに来た。ははは! やーい、間抜け! 教皇になって俺に靴を舐めさせるんじゃなかったのか、ああ?」
アレックスがそう言うと……
ロアナは溜息を吐き、小声でつぶやく。
「素直に心配になって手伝いに来たって言えば良いのに。天邪鬼なんだから……」
このままだと別の男に盗られるぞ、とロアナはアレックスを睨む。
一方セレナは……
「そ、そう……笑いに来たのね」
プルプルと震えた。
アレックスは間違いなく来るであろうセレナの拳を受け止めるために身構えた。
しかしセレナは……
「う、ひぐぅ……ど、どうせ私は左遷された間抜け聖女よ……」
泣きだした。
その場にしゃがみ込み、人目も憚らずうぇんうぇん泣き始めるセレナ。
ララ、リリ、クレマン、ロアナの冷たい視線がアレックスに注がれる。
これにはアレックスもビビる。
「お、おい! な、何だよこれ、俺が悪いみたいじゃないか!」
「いや、さっきのは兄さんが悪いです。……セレナ様のメンタルが豆腐なのは知ってたでしょ」
「せ、せ、セレナ大司教様はこ、こう見えて傷つき安いんですぅ……」
「人を罵倒するのは得意でも人に罵倒されるのは苦手な方なんです……勇者様、謝ってください」
「勇者、アレックス殿。世の中には言って良いことと悪いことがあるのですよ」
ロアナ、ララ、リリ、クレマンに攻められるアレックス。
それとなく割と散々なことを言われたセレナの泣き声がさらに強くなる。
アレックスは慌ててセレナに駆け寄った。
「す、すまん……さっきのは冗談だ」
「うう……良いのよ、どうせみんな心の底で私のことを笑ってるのよ、大口叩いたくせに左遷した馬鹿女だって……ひぐぅ……」
「そ、そんなことはない! 悪いのはカリクストゥスと教皇だろう! お前は全然悪くない! お前ならきっと教皇になれる!!」
「本当に本当?」
「本当に本当だ!!」
アレックスがそう言うと……
セレナはグスグスと泣きながら言った。
「でも信じられないし……」
「な、何をすれば泣き止んでくれる?」
「う、うぅ……キャンパーニュ産の高級葡萄酒三十五年モノを買ってくれるなら……」
「よし、買ってやる。買ってやるから泣き止め!!」
「う、うぅ……最近、まともなものも食べてなくて……」
「飯を奢ってやる、どうだ?」
「できればこの街で一番高いところが……」
「分かった、任せろ。俺も勇者だ、これでも金を持ってる」
「できればみんなで食べた方が楽しいし……」
「ロアナとお前の従者の二人の司祭、そして司教の分も奢ってやる! どうだ、これでどうだ?」
アレックスの言葉を聞いたセレナはピタリと泣き止み、立ち上がっていった。
「ララ、リリ、証拠は取ったわね?」
「は、はい……一字一句逃さず書き留めました……」
「はい、バッチリです」
セレナはガッツポーズをする。
「喜びなさい、今日は高級ガリア料理よ!!」
「ま、待て! お、お前嘘泣きだったのか!!」
「涙は女の武器よ」
平然というセレナにアレックスは抗議の声を上げる。
「ひ、卑怯だぞこのクソビッチ!! 無効だ、無効!!」
「誰がビッチよ、えええ? 私は処女だって言ってるでしょうが、このクソ素人童貞がぁぁぁああああ!! 私は三回も処女膜検査を受けてるのよ!! 何なら、今ここで四回目の処女膜検査をしてやっても良いのよ、このクソ素人童貞!!!」
「ああ!! じゃあ見せてみろや!! 確認してやるよ!!!」
アレックスがそう言うと……
セレナは顔を真っ赤にした。
「な、何言ってるのよ……へ、変態……そ、そんなに見たいの? ま、まああなたがど、どうしても見たいって言うなら……は、恥ずかしいけど……」
「な、な、何言ってるんだお前は!! お、おいスカートに手を掛けるな!! じょ、冗談だよ、ば、バカがぁあああ!!」
するとセレナはアレックスを鼻で笑った。
「ふん、その反応。やっぱり素人童貞ね」
「お前、ふざけるんじゃねえぞぉぉおおおお!!! 殺す! 絶対に殺してやる!!」
「あああ!! おら、掛かってこいや、このクソ素人童貞勇者が!!!!」
そんな二人を無視して、ロアナとララとリリは親交を深める。
「こんにちは、兄がお世話になります。妹のロアナです」
「クレマンと申します。かの御高名な勇者様に出会うことができて、光栄です」
「は、はい……こ、こんにちは……ら、ララです」
「リリと申します……あの二人は昔からああなのですか?」
リリが効くとロアナは頷いた。
「はい、そうなんですよね。早く付き合っちゃえばいいのにお互い素直じゃないから……ほらほら、いい加減にしてください、二人とも。早く高級ガリア料理を食べに行きましょう」
ロアナはセレナとアレックスの仲裁に入る。
それを見たララとリリは、やはり神業だとメモ帳を取り出した。
「まあ高級ガリア料理は後日でも良いとして……」
「本気で奢らせる気か、てめぇ」
「男なら自分の発言に責任を持ちなさい、だから素人童貞なのよ」
「だから素人童貞じゃねえって言ってるだろ!!」
「じゃあ童貞なの? ふーん」
「そ、そう……い、いや、ち、違う! 童貞じゃない!!」
アレックスがそう言うと……
セレナは目を見開いた。
そしてアレックスから距離を取った。
「お、おい、ど、どうしたんだよ……」
「い、いや、べ、別に……た、ただ……アレックスって、その、たくさんの女性としたことあるんだなって。い、いや別に何とも思わないけど、ちょ、ちょっと幻滅というか……」
セレナがドン引きした様子を見せるとアレックスは首を横に振った。
「い、いや今のは嘘だ! 童貞だ、童貞です!」
「童貞なの? ヤダ、その年になって童貞とかありえないでしょ」
「お前はどっちなら良いんだよ!!」
再びドン引きするセレナに対し、アレックスは絶叫を上げる。
が、しかしロアナは見逃さなかった。
(セレナ様、嬉しそう)
アレックスが童貞だと聞き、少し嬉しそうな、ホッとした顔を一瞬だけ浮かべたセレナ。
自分が処女だからアレックスが童貞でないと立つ瀬がないからか、それとも憎からず思っているアレックスに相手がいないと知り、安心したのか。
「まあ、アレックスは彼女居ない歴=年齢=20歳だから仕方がないわね。あと十年頑張れば魔法使いよ!」
「一応彼女はいたことあるぞ。故郷の幼馴染が一人。まあ大昔のことだが」
アレックスが真顔で言うと……
セレナの表情が強張った。
明らかにショックを受けている。
「大体、処女の癖に偉そうなんだよ!! この彼氏居ない歴=年齢=18歳が!!」
「ち、ち、違うわよ! わ、私だって、か、彼氏くらいいたことあるわよ!」
「へぇー、そうなんだ。何人くらい?」
するとセレナは視線を泳がせながら答える。
「ひゃ、百人くらい……」
(えぇ……)
(セレナ様、いくらなんでもその数字のチョイスはないでしょ)
(う、ウソつくの下手くそすぎですぅ……)
(処女丸出しの回答で安心感が湧きますね)
クレマン、ララ、リリはセレナの回答からセレナが間違いなく処女であり、その上『彼氏居ない歴=年齢=18歳』であることを確信した。
「わ、私の彼氏の人数なんてどうでも良いのよ! あんた、結局何しに来たの?」
「こんな感じだ」
アレックスはセレナに書類を見せた。
それは……
「これは……婚姻届? そ、そんな、ま、待って、わ、私まだ心の準備が……」
「兄さん! それはサンプルとして貰った婚姻届です!!」
「え、ええ? い、いやすまん、セレナ。今のは違う、忘れてくれ」
役所でサンプルとして貰った婚姻届を間違えて出してしまうアレックス。
字の読み書きが覚束ないアレックスは、書類の区別がつかないのだ。
「な、な、な、なんて間違いするのよ!! あ、あやうく勘違い……い、いや、べ、別に何ともおもってないけど……」
「あった、こっちだ、セレナ」
アレックスは別の書類をセレナに見せた。
「……冒険者ギルドエンデアヴェント支部長?」
「そういうことだ。晴れてエンデアヴェントの支部長になった」
「ふーん……エンデアヴェントの支部長なら、栄転ね。アレックスの癖に」
エンデアヴェントは迷宮や魔物が多いため発展が遅れており、田舎、辺境である。
が、しかしそれはあくまで領主、聖職者として見た視点だ。
その迷宮を攻略したり、魔物を討伐することが仕事の冒険者ギルドとしての立場で考えれば、エンデアヴェント支部長はポストとしては最上位だろう。
ちなみにアレックスがエンデアヴェント支部長になったのはセレナがエンデアヴェントに左遷されたと聞いたからである。
丁度ポストが空いていたため、手を挙げたのだ。
魔王討伐の英雄であり、そして次のエンデアヴェント教区の大司教と懇意であることが加味され、見事このポストを手に入れたのだ。
「一緒に頑張ろうぜ?」
「……丁度良いわ。今度、司祭のところにカチコミに行くのよ。どうやら不良冒険者共が絡んでいるみたいだし、協力して」
「了解、じゃあその時は声を掛けてくれ。では俺はそろそろ失礼する。冒険者ギルド支部に行かなくちゃいけないからな」
アレックスとロアナはそう言って教会から去っていく。
セレナは再び書類と向き直った。
「ふぅ……五月蠅い奴がいなくなると清々するわね」
「す、素直じゃないですぅ……」
「寂しそうですね」
「寂しくないわよ!!」
「良いですねぇ青春。私も若いころは……」
「ふん、また来たぞ。新しく赴任した大司教様からの出頭命令だ」
とある村の司祭は不愉快そうに命令書を投げ捨てる。
もうすでに長い間司祭をやっている身からすれば、外からやって来た余所者、それも若い女の命令などに従うなど腹立たしい限りだ。
その出頭命令が、自分の税金の横領を咎めるものであるならば余計に。
「しかし良いんですかい? 相手はあの聖女様ですぜ?」
司祭に雇われている冒険者の男が言った。
冒険者と言えば聞こえは良いが、ごろつきのようなものである。
「聖女だか、なんだか知らんが……所詮女だろう。無理矢理追い返せば良い。中央はこんな辺境に構いうほど暇でもない。それともお前たちは聖女に勝てないのか?」
「まさか。聖女ってことは、所詮後方支援でしょう? ボコボコにして可愛がってやりますよ。なぁ?」
リーダー核の男がそう言うと、五人ほどの冒険者の仲間たちはゲラゲラと笑う。
司祭は相変わらず品性の無い連中だと見下すが、それを口に出すことはしない。
「どうも、出前のピザでーす」
「……」
おい、誰だピザ頼んだ奴は。
司祭を含めた男たちは互いの顔を確認するが、しかし誰も名乗り出ない。
そこでリーダーの男が教会のドアを開けようとドアノブに手を掛ける。
その瞬間。
ドアと共にリーダーの男が吹っ飛んだ。
司祭と冒険者たちはぎょっとした顔でドアの向こう側を見る。
そこには四人の人影。
先頭にいるのは銀色の髪の少女。
「直接御足労してやったわ。感謝しなさい、えっと……名前は忘れた。うん、ハゲで良いわ。このハゲ!」
その一歩後ろには呆れ顔を浮かべた金髪の男。
「ハゲてはねえだろ。にしても乱暴な開け方するな。まあ、確かにドアを蹴破るのをやってみたい気持ちは分かるが」
その後ろには二人の双子。
「ら、乱暴ですぅ……」
「これ、修繕費って経費で降りるんですかね? 明らかにセレナ大司教様の故意的な破壊な気がしますが」
セレナ、アレックス、ララ、リリの四人であった。
「速攻で決めるわ」
そう言うや否や、セレナは一気に冒険者に肉薄する。
そして一人を右ストレートで昏倒させ、後ろから襲い掛かって来た冒険者を左足の後ろ蹴りで鎮める。
さらに左手で持っていた司祭杖で二人を吹き飛ばした。
「せ、セレナ様って、こ、後衛じゃないんですかぁ?」
「後衛だがあいつは肉弾戦もできるぞ。というか殴る方が得意だったな。聖騎士長よりもタンクやってたぞ、あいつ」
「……治癒魔術師ですよね? セレナ大司教様は」
「“魔王城”クラスの迷宮になると一撃一撃が即死レベルだから、治癒魔術なんぞ役に立たないぞ。攻撃こそが最善の防御であり、かつ最善の治癒だ」
「む、無茶苦茶ですぅ……」
アレックスの解説を聞き、ララとリリがドン引きをする。
「さて、俺も動くか。一応支部長として働かないとダメだしな」
アレックスはそう言って、丁度セレナに襲い掛かろうとしていた冒険者を飛び蹴りで吹き飛ばした。
そしてもう一人の胸倉を掴み、床に叩きつける。
セレナは残りの二人をアレックスが片付けたのを確認すると、司祭に向き直った。
「十分の一税を始めとする諸々の税金および、その他諸々の教会法違反の罪で逮捕するわ。言い訳は宗教裁判でじっくり聞いてあげるから、大人しくしなさい」
「ひ、ひぃ!!」
司祭は慌てて逃げ出す。
しかしセレナの右手から出現した、銀色に光る魔力でできた鎖に囚われ、床に体を思い切り叩きつけた。
その他の冒険者たちも鎖で捕まえ終えたセレナは踵を返す。
「さあ、アレックス。ララ、リリ。残りはあと三件よ。ぼっこぼっこにしてやるわ。ストレス解消に丁度良いわ。……あのクソ教皇!!!」
「ぼ、ぼ、ぼっこぼっこにするのは過剰攻撃ですぅ……し、しかも左遷は関係ないですぅ……そ、そんな性格だから左遷されたのではないですかぁ?」
「これが聖女の実力……聖女って、拳で戦うんですね」
「うーん、まあ先代もこんな感じだったって聞いてるし。全く間違ってないのが悲しいところだな」
四人は次の村へと向かった。
カチコミを行い、司祭と不良冒険者たちを逮捕したセレナとアレックスは街の高級レストランで食事を取っていた。
高級ガリア料理の店である。
当然アレックスの奢りだ。
一応約束ではララとリリ、ロアナ、クレマンにもアレックスは奢ることになっていたが……
気を利かせた四人はアレックスとセレナを二人切りにした。
が、しかし四人の期待とは裏腹に二人の会話は弾んでいるとは言えなかった。
理由は二つ。
一つはセレナが一心不乱に無言で食事をしていること。
セレナは聖女養成施設の出身であり、そこでは食事中に会話をすることを禁じられている。
一言も発することなく、無言で食べる。
それが身に沁み込んでいるセレナは話しかけられない限りは基本的に食事中に口を開くことはない。
もう一つの理由はアレックスがセレナの食べる姿に見とれているからだ。
(相変わらず……黙って飯を食ってる時は綺麗だな)
アレックスはぼんやりとセレナに見とれていた。
銀製の食器がセレナの口元に移動し、美しいピンク色の唇が動く。
その様子はとても美しく蠱惑的であり、官能的だった。
前菜を早々に食べ終えたセレナは食器を置く。
そのタイミングを見計らい、アレックスはセレナに話しかけた。
「セレナ、お前はエンデアヴェント大司教区を与えられたことを左遷だと思っているようだし、実際そういう見方がされるのも事実だが……考えようによっては悪くないぞ」
「……どういうこと」
ナプキンで唇を拭いてから、セレナはアレックスに尋ねる。
「エンデアヴェントが発展していない理由は知っているな?」
「魔力が溜まりやすい土地柄で、多数の迷宮、魔物がそれを妨げているからよ」
特に迷宮は厄介だ。
迷宮は一種の時空の捻じれであり、魔力の淀みである。
迷宮を攻略しない限り迷宮に支配された土地を開拓することは不可能であり、また迷宮から溢れる魔物はその迷宮周辺の土地の開拓を困難なものとする。
「その通り。だが考えようによってはそれだけ開拓の余地があるということだ。迷宮を攻略すれば莫大な富も得られるし、魔物も重要な資源だ」
「それもそうだけど、エンデアヴェントの迷宮難易度はとんでもなく高いと聞いたわよ」
迷宮難易度が高いからこそ、今までエンデアヴェントは開拓されることはなかった。
また同時にエンデアヴェントの迷宮は非拡大型に分類され、外へとその大きさを拡大することはない。
アレックスやセレナが攻略に着手した、歴史上最悪の迷宮“魔王城”のように周囲へと急速に拡大して世界を飲み干そうとするような厄介な性質のものは少なく、捨て置かれてきた。
「だが俺たちなら攻略できる、違うか?」
「それは……」
「それに“魔王城”が無くなった今、世界中の冒険者が注目しているのがエンデアヴェントだ。一旗揚げたい奴らがたくさんいる。それに現在、人口増加の影響で土地不足が深刻になっている。エンデアヴェントの開拓が上手く進めば、世界中から人が集まってくるぞ」
アレックスはニヤリと笑みを浮かべた。
「セレナ、一緒にエンデアヴェントを開拓しようぜ。そうすればエンデアヴェントはお前にとって、重要な支持基盤になるはずだ。俺がお前を教皇にしてやる!」
「アレックス……」
セレナの死んだ魚のような目が揺れ動く。
「……そうね、いつまでもくよくよしても仕方が無いし。頑張るわ」
「その意気だ!」
その後アレックスとセレナは話し合った結果、冒険者を連れてくるのはアレックス、そして冒険者が住むことができるような環境整備を行うのはセレナの仕事、ということになった。
さてまず問題となるのは増えた人口に対する食糧供給である。
まず食糧を増やさなければ増えるモノも増えない。
大部分は他の地方からの輸入で賄うにしても、一定量はエンデアヴェントで生産できるようにしなければならない。
そこでまずセレナは荘園の経営に専念することにした。
大司教区直轄地は荘園と行政区で分けることができる。
荘園は大司教が自由に扱っても良い農奴付きの私有地であり、行政区はあくまで税金を取る権限はあれども、そこに住む者にそれ以上のことを命令してはならない。
また荘園が教区長の事実上の私有地、全てを教区長やその部下の給料に当てても良いのに対し、行政区の場合は一定額を中央に収めなくてはならず、そしてあくまで行政区で集められた税金は行政のためのものであり、教区長が自由に扱っても良いわけではない。
「しっかし、本当に田舎というか……随分と遅れた農業をやってるわね」
農奴たちに案内をさせ、荘園の端から端までを見て回ったセレナは……
思わず溜息を吐いた。
荘園の人口は二万人と、そこそこ期待できる数だが……
農業方法が未熟なためか、収穫量は低いようだった。
「申し訳ございません、大司教様」
「良いわ、知らないものは仕方がないもの。……良い? 私が指示するようにやりなさい」
セレナの指示は大きく分けて二つ。
一つは近い内にセレナが持ってくるポレト芋と呼ばれる救荒作物を植えること。
もう一つは休耕地にクローバーを撒くことだった。
農奴への指示を終えたセレナにララが尋ねる。
「あ、あの、も、もしかしてが、ガリア農法と呼ばれるやつですか?」
「よく分かってるじゃない。まあ正確に言えば改良三圃制だけど」
農地を三つに分け、夏穀、冬穀、休耕地を一年交代で回していく三圃制。
それを少し改良したのが改良三圃制である。
ガリア農法と呼ばれるのはガリア地方が発祥だからだが、改良三圃制そのものは地方によって微妙に異なり、セレナが教えたのもエンデアヴェント地方に合うようにアレンジしたものなので、ガリア農法とは微妙に異なる。
(それにしても妙に指示が具体的だったなぁ……)
ララとセレナの会話を聞きつつ、リリは思った。
セレナの農奴への説明はただ本で覚えただけというよりも、大きな実体験を含んでいるように思われた。
(でもセレナ大司教様はあのブライフェスブルク選教侯の御息女。農作業をやったことがあるとは思えない)
ブライフェスブルク選教侯と言えば、神聖同盟の中では十指に入る名門貴族家である。
下手な王家よりも歴史があり、そして財力を持っている。
何より通常は枢機卿しか参加できない教皇選挙への出席と投票権であり選教権を持つ。
その名門貴族家の娘が農作業経験があるとは考えにくい。
無論家庭菜園を趣味で行う貴族は別に珍しくも無いのだが、家庭菜園で生産される作物は薔薇などの花だったり、トマトやキュウリといった野菜で、少なくとも改良三圃制で生産されるような作物や、ポレト芋のような救荒作物ではない。
(そもそもブライフェスブルク選教侯領はガリアではなくゲルマニア……おかしい)
改良三圃制は別名ガリア農法。つまりガリア地方をその発祥の地とする。
ゲルマニアではポピュラーな農法ではない。
少なくともセレナの立場、出身地では書物の中の農法であり、それを具体的な実体験のようなものまで交えて教えることは不可能だ。
リリは試しにセレナに尋ねる。
「セレナ大司教様は農作業の経験があるのですか?」
「無いわよ」
包帯が巻かれた左手首をポリポリと書きながら、ぶっきらぼうに答えるセレナ。
そして不機嫌そうな声で言う。
「私はセレナ・フォン・ブライフェスブルク。ブライフェスブルク選教侯の娘である私が、農作業の経験があると思うの?」
「……申し訳ございません」
今の発言はセレナの出自を疑う行為である。
リリは確かに不味かったと思い、素直に謝った。
セレナはリリの謝罪を聞き、鼻を鳴らす。
一応謝罪を受け入れてくれたようだ。
「まるで実体験があるような、分かり易い説明だったもので。本でお知りになったのですか?」
「……まあね」
セレナは曖昧に答えた。
ここでララが尋ねる。
「ぽ、ぽ、ポレト芋って、せ、せ、セレナ大司教様は、ど、ど、どういう食べ方がす、す、好きですかぁ?」
「シンプルに蒸かしたやつに塩を振ったり、バターを塗るのが好きね」
「へぇ……意外です」
ララがそう言うと、セレナが首を傾げた。
「だ、だ、だって、せ、せ、セレナ大司教様みたいなお、お酒好きの方、って、あ、あ、揚げたのがい、一番、す、好きかなぁって。ふ、ふ、蒸かし芋が好きなんて、あ、あ、案外庶民的だなぁって」
ララの指摘にセレナは左手首を掻きむしりながら怒鳴る。
「う、五月蠅いわね……わ、私の芋の食べ方なんて、どうでも良いでしょ!!」
機嫌を損ねてしまったのか、セレナは地団駄を踏む。
そしてどこかに立ち去ろうとする。
「ど、ど、どこに行くんですか?」
「酒を飲むのよ!」
「も、も、もう一瓶も、の、飲んで、る、じゃないです、か。の、の、飲み過ぎでは?」
「あなたには関係ないでしょ!!」
「ひ、ひぃ、す、す、すみません……」
セレナはララに怒鳴ると、本当にどこかに行ってしまう。
酒を取りに行ったのだろう。
「た、大変だなぁ……」
「……何か大変なの、ララ?」
呟いたララに対し、リリが尋ねると……
「い、い、いや……く、苦しそうだな、って思って」
「……」
「この足、何年前の?」
「五年前です、大司教様」
セレナは冒険者の右足……の切断面を見る。
非常に粗雑な処置の仕方だ。
「医者に恵まれなかったのね」
セレナはポーションを塗った後、治癒魔術を掛ける。
すると切断面が盛り上がり……
あっという間に右足が元通りに戻った。
冒険者は目をパチクリさせる。
「ほ、本当に戻った……」
「これでも聖女よ。……出世払いで良いわ。元Bランク冒険者だったんでしょ? すぐに治療費は稼げるはずよ」
「あ、ありがとうございます! あ、あなたは恩人だ!!」
セレナは縋りつく冒険者の男を追い払い、次の患者を診る。
次の患者は失ったのは右目だった。
これも再びセレナは治癒魔術で回復させる。
その後、二十人以上の冒険者の傷を治療したところでセレナは今日の治療を終えた。
「宜しいんですか、セレナ様?」
「何が?」
「ただ同然治療じゃないですか。ポーションだって、良い値段するんじゃないですか?」
治療を終えて後片付けをしていると、リリがセレナに尋ねた。
セレナが治療の対象としているのは、エンデアヴェントの街の貧民街に住む元冒険者たちである。
冒険者という職業はどうしても怪我が付き物であり、怪我で引退せざるを得ない状況もある。
そうなると冒険者が行きつくのは貧民街だ。
手足や眼球の欠損のためまともな仕事ができず、飢えに苦しむ者たちはエンデアヴェントにはたくさんいるのだ。
「そもそも教会の役割は弱者救済よ。治療さえすれば働ける人が大勢いる。ならばそれを救済するのは当然のことよ」
「……お酒を飲みながらじゃなかったら、感動しました」
リリは苦笑いを浮かべる。
酒好きのところさえ除けば、やはりセレナという女性は聖女、聖人なのだ。
「それに後払いだからちゃんと治療費は貰うわよ」
「でも期限は設けませんでしたよね?」
「私は金貸しじゃないからね」
払うか払わないかは、冒険者たちの善意に任せる。
それがセレナの方針だ。
そもそも冒険者たちが活躍してくれれば、その分セレナには税金が入るため問題無い。
「おかしな話よね。ああいう人たちがいる、こういう最前線にこそ、私のような治癒魔術師はいるべきなのよ。でも、現実は違う」
四肢欠損を治癒できる治癒魔術師は神聖同盟の中では数人しかいない。
本来ならそういう存在がこのような都市に滞在し、治療をするべきなのだ。
だが治癒魔術師はイコールで聖職者である。
優秀な治癒魔術師ほど、高位聖職者であり、実際セレナ以外の四肢欠損を治せる治癒魔術師は皆枢機卿であり、中央や豊かな大司教区にいる。
冒険者など、眼中にない。
「まあ左遷されるまで、見向きもしなかった私が言うのも何だけどね。あの人たちの笑顔を見れたことお考えると、左遷したのも良かった……とはならないけど多少の慰めにはなるわ」
「セレナ大司教様……み、見直しました! やっぱりあなたは聖女様です!!」
リリはセレナの手を握り締める。
その目はキラキラしていた。
「ちょ、ちょ、や、やめなさい! わ、私が女が苦手ってのは知ってるでしょ! い、嫌がらせのつもり?」
「あ、いえ、す、すみません。つ、つい……で、でも尊敬します! 私もセレナ大司教様のような聖職者になりたいです」
「ならもう少し人を気遣えるようになりなさい!」
詰め寄るリリに、本気で嫌がるセレナ。
それを丁度通りかかったララが止めに入る。
「り、り、リリ! せ、セレナ大司教様が怖がってるから……」
「え、あ、ああ……ほ、本当にすみません」
「べ、べ、べ、別に怖がってなんかないもん。こ、怖く無いし、す、少し苦手なだけだもん」
半泣きで震えるセレナにリリは何度も頭を下げた。
ララは溜息を吐き……
「せ、せ、せ、セレナ大司教様。ご、ご命令通りの物を、よ、よ、用意しました。ご、ご確認ください」
「あ、ああ……み、見せなさい」
セレナはララにも若干ビビりながら、ララから本を受け取る。
そのタイトルを確認し……
「うん、大丈夫よ。後は蝋版とペンを用意するだけね」
蝋版とは神聖同盟に於いては非常にポピュラーな筆記具である。
羊皮紙や木草紙は非常に高価なので、使い捨てにはできない。
そのため表面を削れば再び使える蝋版が筆記用具として使われる。
セレナもメモ書きには蝋版を利用している。
「あ、あ、あの、な、何に使うんですか?」
「貧民街の子供に字の読み書きと計算を教えるのよ。出来が良い子は聖職者見習いにするわ」
セレナがそう言うとララとリリは目を丸くした。
「どうしてそのようなことをするのですか?」
「どうしてって、貧民街の子供なんてこのままだと売春婦か盗賊にでも落ちるしかないじゃない。良い、聖職者の仕事は三つ。一つ、悪意から人々を救済すること。二つ、悪意に染まった犯罪者を救済すること。三つ、悪意に染まる前に信徒を未然に救済すること。このままだと何しでかすか分からない子供に字の読み書きと計算、そして道徳ってものを叩きこんでまともな大人になれるようにするのよ」
やっぱりこの人、超良い人だ。
ララとリリは唖然とした表情でセレナを見る。
グビグビと酒を飲みながらの発言なのが少々残念だが、それを差し引いても聖女と呼ばれるだけのことはある。
「し、し、し、しかし来るでしょうか? べ、勉強なんて、み、みんな嫌なんじゃあ……」
「何のために日々炊き出しで子供を集めてると思ってるの? 勉強をちゃんとした子にだけご飯をあげることにすれば、みんな必死にやるでしょ」
「な、な、な、なるほど……」
セレナは毎日、貧民街の子供たちを対象に炊き出しを行っていた。
そのついでに勉強まで教えようというのである。
「で、で、ですが、せ、セレナ大司教様には他にも職務があ、あるのでは?」
ララは知っていた。
セレナが街の牢獄に何度も訪れていることを。
なんと、セレナは牢獄の罪人たちからの告解を受けるために足を運んでいるのである。
罪人に寄付金を払うだけの所持金はなく、完全にセレナの善意からの行動である。
他にもセレナはいろいろと手を出していた。
「やるのはあなたたちよ」
「わ、わ、私たちですか?」
「私たちも仕事があるのですが……」
ララとリリが驚きの声を上げる。
二人の正直な本音としては、そんな面倒なことをしたくない。
「私よりは仕事、少ないでしょう。聖職者の仕事の基本は奉仕よ、奉仕。修行だと思いなさい。私が教皇になった暁には司祭枢機卿に出世させて上げるから」
ララとリリは溜息を吐いた。
上司の命令なので、逆らうわけにはいかない。
教会は縦社会だ。
セレナが左遷を断れなかったのと同様に、ララとリリもセレナの命令を断れない。
「と、と、ところでセレナ大司教様。す、す、貧民街の子供にべ、勉強を教えるというのは、あ、あまりい、一般的な発想ではな、ないように感じますが、な、何か、思いついた切っ掛けとか、あ、あるんですか?」
ララが尋ねる。
これにはリリも興味があり、セレナに視線を向けた。
「うーん、切っ掛けね。まあ私自身も昔は字も全然読めなくて、司祭様に教えて貰ったことで今があるというか。教育を受けるというのはやっぱり大切……」
と、そこまで言いかけて……
セレナは首を大きく横に振った。
「な、何でないわ。今のは忘れなさい! も、もう私は寝るから!!」
セレナは左手首を掻きむしりながら、その場から離れる。
ララとリリは訝しそうな目でセレナを見送った。
「一年で五万増加して二十五万……順調ね!」
「全くだ。……これもお前のおかげだな」
「ふふ、そもそも私の領地なんだから私が頑張るのは当たり前。……今回ばかりはあなたに随分と助けられたわ」
一年後、セレナとアレックスはガリア料理のレストランで食事をしていた。
互いに葡萄酒の入ったグラスを掲げる。
「「乾杯」」
軽くグラスをぶつけ合い、二人は葡萄酒を口にした。
「それにしても……『自営農地法』だったか? 想定以上の効果だったな」
「まあね。土地が欲しい連中は大陸にはどこでもいるのよ」
セレナとアレックスは迷宮を攻略した後、そこで開けた土地を自分たちの物にしなかった。
そして代わりに『自営農地法』と呼ばれる法律を出した。
これは自分で開拓した土地を自分の農地としても良い、という法律である。
セレナはこの法律を大陸全土に宣伝した。
結果、無数の農民たちが殺到し、あっという間に開拓が進んだ。
「荘園も折を見て解放するつもりだわ」
「へぇー、良いのか? 収入は減らないか?」
「一時的には減るけど、労働意欲が上がるからすぐに戻るわ」
荘園制度と農奴制は既に時代遅れになっている。
今は自作農から地税を徴収するやり方が主流になっているのだ。
「でも迷宮攻略って、儲かるのね」
「そいつは俺も思った」
迷宮を攻略すれば莫大な財を得られる。
セレナはその財を道路や治水灌漑などの公共事業の整備にしようした。
治水灌漑は農地拡大のために、道路は魔物の素材を他の地方に運搬するのに必須の設備である。
「港も作りたいわね」
「そうだな……あと、エルフとの交易ができたら良いなと思うんだが、どうだ?」
「……エルフ?」
「そろそろ連中の集落にぶつかる頃合いじゃないか? 森の中にあると聞いているぞ」
エルフは元々大陸の先住民族であったが、イブラヒム教の勢力に押され、最終的に辺境の森に追いやられた。
しかし決して文明的に劣るわけではなく、中でもポーションを調合する技術に関してはイブラヒム教勢力よりも優れている。
「そうね、私……実は連中のポーションには興味があるのよ。ただ、私はイブラヒム教の神官よ? あっちは受け入れてくれるかしらね?」
「それは……俺が先に交渉してみるか?」
「それが良いと思うわ」
エルフはイブラヒム教を嫌っている。
元々イブラヒム教に迫害されて森に追いやられたこともあり、またイブラヒム教とエルフの精霊信仰は宗教的に折り合いがつかないというのも大きい。
「正直、私も異教徒と正面切って交易するのは抵抗あるし、批判の対象になるかもしれないのよね。だからあなたたちギルドが間に入ってくれるとありがたいわ」
「おう、任せておけ」
アレックスがそう言うと……
セレナは笑みを浮かべた。
「ありがとう。本当に……助かってるわ」
「ああ。……それと、セレナ」
「……どうしたの?」
アレックスは包帯が巻かれたセレナの左手首を一瞥してから言った。
「辛かったら、言えよ?」
「辛いことなんて、ないわよ。まあ左遷されたことは今でも腹立たしいけど……これはこれでチャンスだと、思うことにしているわ」
「そうか、いや、なら良いんだ。変なこと聞いたな」
アレックスはセレナに謝る。
そうこうしているとすぐに料理が運ばれてきた。
「……さあ、食べましょう。ところでこれ、あなたの奢りで良いのよね?」
「ああ、好きなだけ食べて良いぞ」
「何よ、それ。その言い方だと私が食い意地張ってるみたいじゃない」
「……いつも俺の倍以上食ってる奴が何言ってるんだ」
アレックスは呆れ声を上げた。
「全く、何という複雑な魔法陣だ……」
セレナがエンデアヴェントに左遷された直後……
司教枢機卿カリクストゥスは大結界の制御室で唸っていた。
大結界は霊脈を汲み上げ、神聖同盟加盟国全土に流すことで巨大な薄い結界を張り、迷宮や魔物といった存在を不活性化させる大魔術である。
歴史は古く、イブラヒム教を創始した預言者が聖都ヒエソリアムを守るために設置したのが始まりだ。
預言者の後を継いだ歴代の教皇たちはこの結界を改良、拡大させてきた。
大結界はまさにイブラヒム教の歴史を象徴する大魔術と言える。
さて規模が規模なために、この大結界は常に何らかの異常が発生する。
当然と言えば当然だ。
神聖同盟加盟国全土を覆う巨大な結界なのだから、どこかで霊脈が傷ついたり、何かが霊脈を妨げたり、またどこかの教会の接続魔法陣が故障を起こすことはある。
一つ一つの異常は大したものではなく、大結界は正常に作動し続けるが……
これが長時間放置され、異常の数が増えると、負荷に耐えきれなくなり魔法陣は停止する。
すでに大結界は過去に三度、停止してことがあり……
その時は大変なことになった。
そのため大結界の維持管理には相応の神聖魔術の使い手が選ばれる。
だが……
「わけが分からん。どうなっている? こことここが繋がって……いや、こっちと直列しているのか? これは並列……いや、直列になっている。ここも……直列? い、いやまて、こことここの接続を考えると、並列になっているのか? む、無茶苦茶な……」
カリクストゥスは魔法陣の模型と、大結界の魔術式が記された冊子を見比べる。
カリクストゥスが確認しなければならないのは基本式が記された十冊と、それに上書きされるように付け足された追加式が記された五冊。
合計十五冊である。
その確認に悪戦苦闘していると……
「カリクストゥス猊下、私がセレナ猊下に一度確認してきましょうか?」
見かねた女性司教が声を掛けると……
「余計なことをするな!!」
カリクストゥスは声を荒げた。
慌てて女性司教が頭を下げると、カリクストゥスは流石に言い過ぎたと後悔する。
だが……
「あのような小娘に、頼るなど言語道断だ。私だけでも大結界の維持程度、十分できる」
カリクストゥスは再び大結界の模型と魔術式と睨めっこを始めた。
そんな上司を見て、女性司教は本当に大丈夫なのかと不安に駆られた。
「ふむ、どちらも頑張っているようだな」
セレナ、カリクストゥス双方の報告を聞いた教皇パウルス二十三世は笑みを浮かべた。
パウルス二十三世の本当の目的はセレナとカリクストゥスの双方を競わせることである。
「一方は神聖魔術の才能を含む、聖職者に必須な才能がからっきし。しかしその才能の無さであそこまで上り詰めた政治感覚に関しては十分に評価できる。またやる気もある。神聖魔術に長けたものが輔佐を行えば教皇として職務を十分に果たせるが……本人が嫉妬してしまうため難しい」
少なくとも現状のままではカリクストゥスは致命的な失敗をするだろう。
パウルス二十三世はそう予想していた。
もしカリクストゥスが、セレナに頭を下げるだけの器があれば別だが……
「一方は百年、いや千年に一度と言っても良い天才。神聖魔術だけでなく、全方面に秀でている。問題は若すぎることと、経験不足であること。そして何より……」
心身に爆弾を抱えている。
あまりに優秀過ぎるため本人はそれを巧みに隠しており、パウルス二十三世ですらも把握し切れていないが……
教皇になった後にその爆弾が爆発するようなことがあれば大変な事態になる。
一番の問題は本人がそれを自覚していないこと。
いや、巧妙に隠そうとする辺り自覚はしているのだろう。
だが認めたくない一心からか、ひたすら目を逸らし続けている。
「どちらでも良いのだよ、どちらでも。さて、どう転ぶか……」
パウルス二十三世は楽しそうに笑みを浮かべた。