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私文商会  作者: オブロンスキー
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プロローグ 歴史の歯車

 1615年5月7日、大坂夏の陣、天王寺・岡山合戦において豊臣方武将真田信繁は敵方徳川幕府軍本陣に決死の突撃を仕掛け、徳川家康の殺害に成功。これにより歴史の歯車が動くこととなる。




 敵総大将の首をとった豊臣方だったが、大坂城陥落は時間の問題だったため、家康の首を手土産に和平交渉を幕府側に申し入れる。家康を失ったことで動揺し、仮に大坂城を攻略したとしても戦後処理に不安を覚えていた幕府側はこれを受け入れ、豊臣家が徳川家に服従する形で和平が結ばれた。豊臣家は形の上では幕府に服従することとなったが、その後も隠然たる影響力を保った。


 


 1630年代になると、幕府は南蛮貿易による金銀の流出に苦しめられたため、鎖国政策を打ち出そうとするも、当時南蛮貿易で大きな利益を得ていた豊臣家の激しい反発にあい断念。西洋諸国が行っていた重商主義的政策を採用し、関税引き上げ、税制優遇並びに補助金制度、蝦夷地入植を始めとする植民地政策などを実施する。


 17世紀を通してそれらの政策は功を奏し、幕府は商業軍事両面において積極的に海外、特に西洋諸国と交流し、利益の拡大をはかった。また、朱子学や神道の教義を体系化、合理化することによって日本にキリスト教が深く浸透することを阻むことにも成功した。


 植民地政策についても大きな成果を上げ、17世紀半ばまでには蝦夷地、樺太、台湾を完全に掌握し、17世紀後半には外満州、カムチャッカ半島にも進出した。その際ロシアと衝突したが、補給の面で日本側が圧倒的に有利だったため、次第に日本が優勢となり、シベリア以東におけるロシアの進出は挫折した。ネルチンスク条約におけるロシア側の権利がそのまま日本に移ったと考えればよい。清帝国は若干の干渉を行ったものの、もともと領土的野心が薄い国家だったため、日本の進出を半ば黙認した。


 植民地政策の費用は外様大名が出し、運営は幕府が行ったため、幕府は外様大名の力を削ぐことにも成功した。“我々の歴史”においては参勤交代で浪費された資本が、“別の歴史”では海外拡大に活用されたのである。


 


 18世紀にはいると徳川家は植民地経営と貿易からさらに利益を得るようになったため、日本国内において経済軍事両面で圧倒的な力を持つようになった。徳川幕府は植民地への出費で疲弊した豊臣家などの外様大名を次々に改易し、また、親藩譜代も強力な支配機構の中に再編成し、フランスブルボン王朝に匹敵する絶対主義的支配体制を確立した。植民地政策に関しても拡大を続け、ベーリング海峡を越えて、ついにアラスカなどの北米大陸北西部に進出した。




 18世紀末、イギリスとほぼ同時期に日本は産業革命を達成した。一般に産業革命に必要とされる要素は、①市場となる植民地、②技術力、③鉄を作るための鉄鉱石と石炭、④科学力、⑤都市部へ流入し労働者となるための人口とそれを支えるための余剰食糧、⑥資本の蓄積、⑦資本主義を正当化する思想、などであるが、日本はこれらの条件をすべて満たしていた。


 


 まず、①市場となる植民地は、台湾、外満州、蝦夷地、樺太、カムチャッカ半島などがあり、さらに植民地ではないが、東南アジア地域への輸出も無視できないものであった。


 ②技術力は、戦国時代から続く火器生産を下地として、「極東の武器商人」と西洋人から言われるまでに成長した日本の武器産業と、それに付随して発達した時計などの各種手工業の発達が、技術力の成長を促した。


 ③鉄を作るための鉄鉱石と石炭は、17世紀の頃から武器生産のために国内で生産される少量の鉄鉱石に加え、清帝国アンシャン(鞍山)や朝鮮イーウォン(利原)から輸入していた鉄鉱石などがあった。特に朝鮮は、石ころをやると鉄にして送り返してくれる日本に対して、大量の鉄鉱石輸出を行った。日本の産業革命が進むと、両国は日本を警戒し輸出を渋ったが、日本は産業革命によって得た武力を背景にイーウォンを占領し、鉄鉱石の確保に成功した。石炭は日本国内の三池や筑豊などの炭鉱から入手できた。


 ④科学力は、17世紀に朱子学の理気二元論から発達した合理的思考を土台に、18世紀にイギリス、オランダを通して摂取した西洋科学を接ぎ木させることによって発展をみた。


 ⑤労働力と余剰食糧であるが、植民地への移民によって労働力が一時不足した日本本土において、牛鍬などの各種道具を利用する資本集約的な農業が発達したことで、結果的に労働力が余ったため、余剰人口は都市部に流入した。余剰食糧に関しても、国内の資本集約的な農業から生産される食糧に加え、蝦夷地などの植民地でヨーロッパの三圃農業などを取り入れた粗放的な農業生産を行ったことにより、大量の穀物が確保されたことで、都市人口を支えるだけの余剰食糧が確保された。


 ⑥資本の蓄積と活用は、16世紀から17世紀にかけて発達してきた豪商の財力が利用された。


 ⑦資本主義を正当化する思想であるが、質素倹約を旨とする儒教思想を母体することで、資本主義思想が発達した。同様の事は西洋でも発生していて、質素倹約を旨とするプロテスタンティズムを母体として資本主義思想が発達したのは有名な事実である。資本主義的生産は、手元にある大金を浪費せずに、新たな投資に回すことによって行われるが、儒教やプロテスタンティズムなどの禁欲的思想は、その様な生産形態には必要不可欠なものなのである。




 かくして、一方では西洋諸国と極めて酷似し、一方では西洋諸国とは極めて異質な帝国主義国、日本が成立したのである。日本はその後、19世紀初頭のブルジョアジーの発展や、自由主義思想の流行といった歴史の嵐の中に突き進んでいくのである。

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