24話 背後から現れない刺客の正体
何もない雪原のように真っ白な景色の中。
ぽつん、とラックスの存在だけが浮き彫りになっている。
何かを考えようにとしても、すぐに掻き消されてしまう。
ラックスにとって今唯一、心の支柱になり得るテルクルの一挙手一投足を注視することしかできない。
「さて、と。記憶は……元に戻すとしても後日でいいでしょう。今記憶を元通りにしても邪魔されるだけでしょうしね。今は、気絶したルナをここから運び出すことだけを考えましょう」
何を言っているのか半分も理解できない。
ルナ、という人間が誰なのかも知らない。
止めなければならないような気がするのに、身体が動かない。
透明なものが、瞳から流れ落ちるのが止まらないのが不思議だった。
ポタポタと顎から滴り落ちる涙を眺めていると――
とすっ、と腹部を何かが突き刺される。
「…………えっ?」
涙が落ちて、その何かの輪郭をなぞる。
それは、透明だった。
凝視していると、だんだんとくっきり瞳に反射するようになって――それは剣となる。
何者かに、刺されたのだ。
だけど、振り返った先には誰もいない。
「これ、は――ッ!?」
テルクルの方が先に、何者かに正体に気がついたように叫ぶと、彼女の頭上に――
太い柱が狙いすましたかのように倒れこんできた。
「なっにいいいいいいいいいいっ!?」
柱の下敷きになったテルクルは、柱と床に挟まれて身動きが取れない。
どうしてそうなったのかを、ようやく理解した。
そして、自分が何者なのか、どうしてここにいるのか、何が起きたのかを教えてもらった。
ラックスを後ろから剣で突き刺した相手に全てを教えてもらった。
「どうして、柱が独りでにっ!? いや、どうして!? 音が――なかったの!? 私だった、こんな不意打ち簡単に避けられたはずなのにっ!?」
咄嗟に全身を『スライム化』して衝撃を吸収したらしい。
気絶するように頭から落としたというのに、まだ意識があるのがその証拠だ。
「『五分の魂』だよ。不可視のヒトダマでその柱の落下音を事前に抜き取っていたんだ。だからお前も柱が倒壊してくるのを避けられなかった。ま、俺が後ろから刺されたのも、お前の注意をこちらにひきつけ、背後への警戒をなくすためだったらしいがな」
「いや、そもそもっ! どうやって私に知られずに、柱を倒せたのっ!? 私はお前の記憶を読み取ったっ!! その時はこんな作戦――思いついていなかったはずッ!! 仮に私の『特異魔法』を使って自身の記憶を改竄したとしても、必ずその痕跡は残るはずっ!! 念入りに私は調べたわ!! その時は、絶対に『後催眠』のような形跡もなかった。私がそれを見逃すはずがないッ!!」
後催眠とは、洗脳系・催眠系の『特異魔法』の催眠の種類の一つ。
テルクルで例えるならば、頭に直接手を当てて思い通りに操るのをただの催眠、洗脳と呼ぶ。
だが、後催眠は違う。
催眠をかけられた相手が、後から時間差で自分の意志とは無関係に動く催眠のことを言う。
催眠系や洗脳系の相手と対峙する時に、最も有効な対抗手段。
それは、自分自身にも催眠をかけることだ。
そこで有効となるのが、後催眠。
相手が催眠をかけた瞬間、その後に『催眠を解除する催眠』といったような催眠を自身にかけていれば安全なのだ。
だが、それはあくまで経験の浅い者にしか通用しない。
テルクルのような熟練者には、その痕跡が必ず発見されてしまう。
そんなこと、予測できないはずがない。
テルクルよりも経験が浅いからこそ、自分の身の丈というものは痛いほど分かっている。彼女の専門分野で勝てるはずがないと分かっていた。だから、後催眠という最善策は思いついたが、すぐに捨てた。
「そう。いくら俺にお前の『特異魔法』が使えたとしても、お前ほどの奴を騙すことはできなかった。だから、使わなかったよ。――俺はな」
「まさか――さっきの剣はやっぱり――『もう一人の自分』で造りだしたもう一人のお前の剣かっ!?」
「そうだな。どうやらもう一人の俺は透明になって隠れていたらしい。ずっと身を潜めていたのは、少しの動きであってもお前に悟られるから。だけど、逆から言えば、最初からここに先回りして潜伏していたら、お前だって気がつかないはずだろ?」
欠落した記憶はもう一人の自分によって、補完された。
それのおかげで、もう一人の自分が何をやっていたのかを知れたのだ。
「隠れていた、らしい……?」
他人後のような口ぶりに違和感を覚えたようだ。
だが、さっきの言葉は別に言い間違いじゃない。
「俺はここに来る前に一番恐れていたのは、記憶を改竄されることだった。それをされたら、どんな奴だろうが終わり。その最悪のパターンを予想して、俺は自分の身体を二つに分けていた。だけど、そこで俺がお前の『最弱の侵略者』を使って記憶改竄してしまったら、記憶の前後の繋がりがどうしても不自然になってしまう。その誤差をお前が見逃すはずがない。だから、俺は使わなかったんだ。そして、俺は何か思考する前に二人に別れた。少しでも作戦を考えたら、お前に記憶を読まれてしまう。だから、もう一人の俺がどんな作戦、どんなタイミングで動かすかなんて知らない。ただ、別れていただけだったんだ」
「全部、もう一人の自分任せだったってこと……そんなこと……!?」
全ては賭けだった。
だが、戦う前から無策で立ち向かえば負けると分かっていた。
だったら、希望を捨てずに、少しでも勝てる可能性に縋る。
それが、戦いってものだ。
「お前は俺の記憶を読み取った時。戦いが始まってから俺が自分自身を洗脳することだけを読み取ったんだろ? 俺が事前に打った策は一つだと決めつけたんだ。俺が使ってきたのは、超強力な『冥土の土産』だけだとな。まあ、そう思わせるように、俺が仕組んだ訳だが……それが、慢心と言わないで、なんて言うんだろうな?」
「……くっ!」
「熟練者の弱点は、思い込みの強さだ。なまじ知識が豊富な分、見切りが速い。自分の想定外の攻撃パターンなどないと思い込む。もしも、あんたがもっと用心深く俺の記憶を読み取っていたら、あんたの勝ちだったのにな」
先読みできる奴には、こういう思い切りのいい運任せなやり方が逆に有効な時もある。
(中途半端に知識がある俺とテルクルとじゃ、歯車が合うのは当然だ。俺は、相手の出方を見てから自分の戦闘スタイルを変える傾向が多い。それは、手札をたくさん持っているから。今回の戦いでは、それを逆に利用されていた。テルクルはこちらがどう手札を切るのか誘導していたような気がする。一つ一つの可能性を潰すようにして俺の心を折ろうとしていた……。それにはまんまとやられた訳だが……それでも――これで――)
「あんたの負けだ。もう動かない方がいい」
手で触れて、足のねじれを治す。
それ以外の戦闘の傷も触ると、みるみるうちに塞がっていく。
これで、ようやく全回復できた。……と、いいたいところだが、『特異魔法』の連続多様で魔力のほとんどを使い果たしてしまった。
あと、よくて一回。
一回ぐらいしか『特異魔法』を使えそうにない。
「こちらがッ、手心を加えていれば調子に乗ってッ……! ここで大暴れすれば、あの化け物じみた強さを持つイティがすぐにでも駆けつけてくるッ!! 激高したアイツが暴れ出したら私でも止められないッ!! だから、なるべく力を押さえていたというのに……ッ!!だが、もうッ――いいッ! あの化け物が来るまでにさっさと逃げればいいだけなんだからッ!!」
グラグラと、地震が起きているかのように、建物が揺れる。
それだけじゃない。
床や天井がブクブクと、気泡のようなものを発している。
「これはまさか――この建物全体に『スライム化』しているのかっ!?」
これだけ広範囲に『特異魔法』を使えるなんて、相手の魔力は無尽蔵か。
テルクルはふらつきながらも立ち上がると、
「この建物ごと、生き埋めにしてあげる。あなたの『鍛冶合成屋』の効果範囲なら、あなたは生き残れないでしょ? 私と私の娘以外は、ね」
天井が崩れてきた瓦礫全てを、確かにテルクルならば『スライム化』できる。倒壊する建物から脱出できるだろう。だけど、
「待てッ! ここには守衛の人もいるんだぞっ!」
「ああ、そうだったわね。じゃあ、あなたがその人を助ければ? あなたが、その人の上に覆いかぶさっていれば、もしかしたら助かるかもね?」
「なっ――!」
テルクルならば、他ならぬテルクルならば――守衛だって助けられるはずだ。
その余力がないようには見えない。
魔力残存はまだまだ余裕があるようだった。
(だけど、助けないのは、俺が身を挺して守衛の人を助けると確信しているから。いや、仮に俺が助けないとしても、どうでもいいのか。他人が死のうが、どうだっていい、そんな顔をしていやがるッ!!)
「そもそもその人を連れてきたのはあなたでしょ? 私には無関係なんだから、あなたが助けるべきでしょ? 仮にその人が死んだとしても、あなたが悪いのよ。あなたが全部悪いの。私は何も反省すべきことはしていないのよ」
「……それが、お前の考え方か?」
「あら。私はね、ちゃんと私のやるべきことを考えているの。そこらの自己中心的な親とは違うわ。私のやっていることは、全部、娘のためなの。娘のためだったら、私はどんなことだってできるんだから」
見開く目の焦点が合っていない。
まるで用意された台詞をそのまま言っているようだった。
「全部、娘の――ルナのせいにする気か?」
「何言っているの? 聴こえなかったのかしら。全部娘のためなの。私の母さんだって、私のことを思って、あんなに毎日厳しくしてくれたんだから。全部私のためで、昔はずっと恨んでいたけど、今はきっと恨んでなくて、感謝しているんだから。だから、私も娘のために、娘のために、娘のために、私はああああああああああああああッ!!」
テルクルの心は摩耗し、もう何も残っていないのかもしれない。
きっと、もう自分自身何を口走っているのかも分かっていないようだった。
他人を犠牲にしても勝とうとするその執念は恐ろしく。
親の心、親としての葛藤など、まだ子どものラックスには何一つ理解できない。
だけど、どうしてだろう。
何かがルナと似ているような気がするのは――。
「……俺はあんたを倒す。いや、倒さないといけないらしいな……。イティの名誉を守るためだけじゃない。ルナを助けるためだけじゃない。あんた自身のためにもっ!!」
ここで倒さなければ、きっとテルクルはもっと壊れてしまう。
娘のためにという大義名分で他人を平気で殺せるようになってしまったら、もっと――。
その崩壊を止められるのは、きっとここにいる奴だけだ。
そのための手なら――既に打っている。
崩壊が、揺れが――勝手に止まるこの音を聴けば、それが成功したことに確信した。
「身体が、動かない。ど、う、し、て?」
テルクルはギギギ、と糸のねじれたマリオネットみたいに腕を動かすが、それが限界。関節の可動域は極限に狭くなっている。
「言っただろ? もうあんたの負けだってな」
動かないテルクルに近寄っていく。
テルクルの身体には今や、赤い斑紋が全身を覆っている。
動かなければ、こうはならなかった。
大人しく、柱の下敷きになっていれば、魔力をあれだけ使わなければ赤い斑紋もここまで拡散しなかったはずだ。
「この赤い斑紋は、まさか――」
「ムシカの『特異魔法』だ。あんたからは見えないだろうが、首筋に傷跡があるだろ?」
「いったい、いつ!? 爪をたてられたおぼえなんて――」
「柱が倒壊した瞬間だよ。あんたは咄嗟に全身を『スライム化』した。確かにあんたの『スライム化』は、どんな衝撃だって吸収できる。だけど、毒は別だろ? もう一人の俺は『透明化』したまま、毒をあんたに盛ったのさ」
「倒壊の衝撃の時のどさくさに紛れて、爪を立てていたのかッ?」
透明になっていたラックスの分身体ならば、毒の爪で攻撃できた。今の今までテルクルが毒だと気がつかなかったのは、それだけ興奮状態だったってだけ。
効果は既に現れ、もう手遅れだ。
「これで、あんたはもう動けない。そうだよな?」
「あまり、舐めないでよ。この程度の毒、どうってことないのよ」
ブシュッ!! とテルクルの血管が破裂する音がする。
ドロドロな血液が間欠泉のように首筋から噴き出す。
「血を『スライム化』させて、毒の巡った血ごと正確に取り出せる。あんたには無理だったでしょうけど、私だったら毒の回った箇所だけ選別して最小限の出血で動けるようになるッ!!」
「させると思うか?」
手のひらをテルクルの腹に当てる。
この距離ならば、最大限の破壊力を発揮できる。
このために近づいたのだ。
問題は、テルクルがどう対処してくるかだ。
「無駄よ。『全身スライム化』させれば、どんな衝撃だって――」
「忘れたのか? かつてあんたと一緒に戦ったイティの『特異魔法』の特性をッ!!」
「と――『特異魔法』の無効化をッ!!」
この密着状態ならば、テルクルに木の根を直接当てることができる。テルクルの『スライム化』も防ぐことができる。ということは――
破壊力最大の木の根によって、テルクルの身体が吹っ飛ばされるのは必然だった。
グングン伸び行く木の根によって押され、後ろの壁に鈍い音を立てながら激突する。
「かはっ!」
壁には蜘蛛の巣のような亀裂が入る。
もう意識は半分もなく、戦えない状態ではあるが、万全を期して木の根からテルクルの魔力を根こそぎ吸い取る。
「これで分かったろ? 子どもだっていつかは大人を超える時があるってな。いや、誰だって親のことを超えなきゃいけないんだ。それがある意味親孝行なんだよ」