20話 未踏階層への道は開かれた
リオーレ捜索のために、ビルゴダンジョン『第三階層』へ行ってから数日。
結果的に、誰も攻略しなかった『第三階層』を攻略してしまった。
だからといって現状が劇的に変化したわけではない。
ただ、ラックスのことを、今までのようにランク外の落ちこぼれ扱いするような輩は少なくなったような気がする。
それでも居心地の悪さは変わらない。
「あれ? あいつがビルゴダンジョン『第三階層』攻略者のラックスか?」
「先生ですら攻略できなかったんだろ? とうとう頭角を現してきたな。イティ先生の弟が」
「もしかして、今まで目立った動きをしていなかったのはわざと? だとしたら、本当の実力は? 九十九期生筆頭のルナでさえ倒せなかったモンスターも倒したんでしょ?」
「ばーか。どうせルナが弱らせたところを、あのラックスってやつが止めを刺したんだろ? そもそもサーチグラスをかけてなかったんだろ? ヨトゥンとの戦闘時に既に失くしてしまったとか言っているらしいけど、それってなんか都合よすぎないか? 嘘だろ? 記録上、ほんとうにあいつが倒したのかも怪しいもんだ」
「ちっ。点数稼ぎのために人助けか。かっこつけたがりの馬鹿ほどすぐ死ぬぞ」
と、好き勝手に言いまわっている連中が多い。
あまり好意的な噂は聴こえてこない。どうやらインチキをしたと思っている人間も多いようだ。
しかし、褒めてくれる層もわずかにいるようだ。
このままでは本来の実力を披露した時に、なーんだ、やっぱりその程度か、と勝手に期待されて勝手に落胆される未来が予想できる。
それか、こうだ。
速く失敗しろ、失敗すれば馬鹿にできる。ほら、失敗したぞ! やっぱりインチキだったんだな! 俺の言うとおりだった! 俺の考えは正しい! みんなー聞いてくれー。やっぱりそうだったんだ! とでも言ってきそうだ。
はっきり言って迷惑以外の何物でもない。
他人を批判する前に自分を批判して欲しいものだ。
どうせ、目立ちたがり屋だが努力して上にあがるのが嫌。だったら、目立ってるやつを引きずり降ろして、俺が目立てばいいじゃん! みたいな考えなのだろう。労せず注目を浴びれるぜ! みたいな。
周りから好奇の目に晒されることがどれだけ胃に負担をかけるか分かっていないような軽率な行動としか思えない。
そんな奴らは無視して小走りで廊下を抜けて学園の敷地内の端まできた。
ここに来た理由は一つ。
学園の敷地外へと流れている川へ、あるものを流すためだ。
それは、死者を弔うためのもの。
薄い長方形の紙に囲まれ、底は水に浮く軽い木材でできている。
中身は火の灯った蝋燭が入っていて、ボウ、と何やら怪しげな光が灯る。
夜中にやるとより蝋燭の灯が神秘的なものになるが、生憎と今は日中だ。ほんとうならば夜にやりたかったが、夜は先生たちの見回りが強化されてしまう。自分の部屋を外出するのにもそれなりの理由が必要だ。
だから、こうやって誰にも邪魔されない時間を選んだ。
フロウランタンと呼ばれるもので、あまりここらへんじゃ知られていない。
だから売り物として売られているか心配だった。が、少量ではあったが、しっかりと売られていたので安心した。
(俺の『特異魔法』で生み出すこともできたんだけど、それじゃあ、あいつに悪いよな)
闇市ではなく、学園公認の市場で購入した。
そこは日常の生活必需品が多く売られていて、闇市と同じように学生が市場を開いているが、先生も開いている。
学生じゃ手に入らない貴重なものもたまに出回るので、結構市場には頻繁に立ち寄ることが多い。
今回もここら辺では稀少価値のあるフロウランタンは、ゆったりとした動作で、川を流れていく。
「ああ、いた、いた。ラックス、なにやってるの?」
と、待ち合わせなどしていないのに、ルナがいきなり現れた。
すっかり元気になっているようだった。
髪をかきあげながら、少しばかり膝を曲げて話しかけてきたが、どうしたのだろうか。いきなりすぎて、虚を突かれる。
「なにやってるって。お前こそ何やってるんだよ。どっから現れたんだ」
「私のことは後回しでいいでしょ。いいから、教えなさいよ」
「……『魂送り』だよ。知らないのか?」
「悪いけど、私は知らないわ。なにそれ? 綺麗ね」
綺麗、か。
何も知らなければ確かにただの綺麗なものに見えるかもしれない。
だが、これは別に娯楽のためのものじゃない。
これは――
「死者の魂を弔うためのものだよ。成仏したレイユのために『魂送り』しようと思ってな」
ちょっとした儀式みたいなものだ。
死んだ人間の魂を弔うためでもあるが、残された人間のためでもある。
精神的に区切りをつけるためのもので、何回やってもこれは慣れそうもない。
人が死ぬと、自分の世界の一つも死んでしまうような感覚には決して――。
「死んだ人間は川を渡ってあの世に行くっていう説があってな。それを疑似的に行うことで弔いの意味を持つと言われているんだ」
「死んだ人間は川を渡るか……。それって、他の国の風習なの? 私の生まれた地域じゃ、そもそもあの世っていう存在そのものが否定されてただけどね」
「あの世がないって、死んだらどうなるんだ?」
「死んだら生まれ変わるのよ」
「生まれ変わる?」
「そう。生前に積んだ善行によって、生まれ変わる時に人生が決定づけられる。いいことをすればするほど、来世は幸せになる運命を背負う。悪行を働いたら、それだけ転生した後苦労する。私が生まれたところはそういう考えだったわね」
「へぇ。なるほど。そういう考えもあるのか。……いや、そういうのも聴いたことがあるか。ここより東の方を旅していた時だったか……?」
この学園には色々な地域からたくさんの人間が集結する。
だからたまに文化摩擦が起こってしまうが、それが結構楽しかったりする。
新しい価値観を手にできて、探究心をくすぐる。
子どもっぽいかもしれないが、探究心、好奇心がなければ、誰もダンジョンランカーになっていない。
他のことじゃ得られない楽しさってやつが、いっぱいダンジョンにはつまっている。
だが、ダンジョンに入るのは、野蛮な人間がやるという風潮も少なくない。
特に、大人世代の人間が反対意見を叫んでいて、その声が日に日に増えていっている気がする。
子どもたちには危険すぎる。他の子どもにも悪影響を与えるとかなんとか。
確かに一理ある。
ダンジョンで命を落とした人間を何人も目にしてきた。
だけど。
自分たちは危険を承知でダンジョンに挑戦しているし、自分の子どもに影響を与えるか与えないかは親の責任だとは思えないらしい。
「さっき、疑似的って言ったけど、もしかして、人の命は、この蝋燭の火にたとえられるの?」
「ああ、そうだよ。世界の始まりは火だと言われたり、火があるからモンスターに対抗できたり、人間の恐怖の根源でもある闇を照らすことができる。希望こそが火であり、命であるとか、まあ、色々諸説あるよ。どこの国でも、火は神聖なものだと崇めるところは多いけどな……」
燃えても蘇る火の鳥の不死鳥伝説も例に挙げられるし、昔の人からしたらそれだけ火は崇められるものだろう。
蝋燭なんかで火を常用できる時代に生まれた人間としては、あまりありがたみを感じないが、それでも火は必要なものだ。火がなくては人は生きてはいけない。
昔の人ほどではないが『魂送り』の神聖さを分かるつもりだ。
「生きている人のための儀式、か。確かに大切かもね。でも、レイユさんが憑依していた人が大変なことになってるみたいよ」
「ああ、らしいな。リオーレはあれから回復した。体力的には何も問題ないレベルに。……だけど、心には大きなダメージを負ったみたいだな……。この前見かけたけど、声をかけられなかったんだよな。助けてやった金を請求しようと思ったけど、あまりに憔悴していてそれどころじゃないみたいだった……」
「原因は知っているの?」
「ある程度見当はつくけど、確証はないな。何か知っているのか?」
「それがね。リオーレさんのことを見捨てたって、他の女子に告げ口されたみたいなの」
ああ、そういうことか。
善意の目撃者が、よりこじれる方向に持っていったわけだ。
ラックスだってトロワたちのことをリオーレに忠告することは既に考えていた。
だから、今度こそリオーレのために何とかしようと思ったが、そのリオーレは聴く耳を持たないようだった。疲れ切っていた彼女に何があったのか分からなかったが、そういうことだったのか。
「確かにリオーレさんだってその覚悟をもって挑んだんでしょうけどね。だけど、悪口って本人に言われるより、他人から聴いた方が辛いでしょ? それに、その女子がある程度面白おかしく脚色した告げ口をしたみたいなの。それを聴いたリオーレさんはすぐに鵜呑みはしなかったんだけど――」
「トロワたちに真実かどうか訊いたのか?」
「え、そ、そうだけど。もしかして……知ってたの?」
「知らなかったよ。でも、リオーレだったら確認するだろうなって思ってな。きっと、それで演技しきれなかったトロワたちを見て、傷ついたんだろ? 友達だと思っていた奴らが友達じゃなかったって」
――馬鹿が。
中東半端な悪人ほど最低なものはない。
どうせだったら、これからリオーレのことを騙し切って、そして最後まで友達でいつづければ、まだリオーレの傷は浅かったかもしれない。
だが、こうなったらもう、あの三人は友達ではいられないだろう。
「……なんだか、他人事みたいに聴こえるけど」
「実際、他人事だしな。もしも、目の前でまたリオーレの命が危なくなったらそれは助けるさ。だけどな。人間関係ってのは、他人が口出ししたら破綻する。その親切にも告げ口で友情をぶち壊した名無しの女子みたいにな」
「でも、何もしないっていうのは――」
「くどいな。これは、あいつがどうにかしないといけないことなんだよ。自力で立ち上がれない奴は、いくら他人が手助けしようとも本当の意味で助けたことにならない。これは、あいつ自身の力で解決しなきゃだめなことなんだよ。それでも気になるなら、お前がなんとかしてやれ。絶対に逆効果だろうけどな」
「…………」
ここでリオーレに手を貸すのはただの自己満足だ。
もしも、こうなる前だったら、ラックスはリオーレを助けるつもりだった。リオーレと彼女たちを引き剥がすつもりだった。
だけど、こうなってしまったら、あとは、もうリオーレ自身の問題。
友達でもなんでもない今のラックスにできることなどない。
こけた時には手をさし伸ばすぐらいはする。だが、これはまた一からスタートすることなのだ。最初の一歩を踏み出すのに、他人の力を借りていいのは何もできない赤ちゃんぐらいのもの。どんな人間だって、まずは、自分の足だけでなくてはならない。
失敗して、学んで、そして次に生かす。
それが人間関係というものだ。
それは他人が口で言って分かるようなことじゃない。
他人への歩み寄り方は、自分の意志で決めなければならないものだ。
それを他人があれこれ指図したとしたら、全てが終わってしまう。
きっとリオーレは感謝してくれるだろう。
だけど、そこまで面倒を見てしまったら、リオーレはいずれ何もできなくなってしまう。今までのように誰かに操られる日々を送ってしまう。
リオーレは結構流されやすい。
何かする度にこちらを見て行動するようになるだろう。
そんなものは友達でもなんでもない。
それは――ただの依存だ。
リオーレは友達を失って、世界が終わったような顔をしていた。
だが、世界はそうじゃないことを自分の頭で理解しなくてはならない。
(俺だって、かつてリオーレという友達を失った……。ほんとうに、あの時は本当に辛かった。だけど――俺の世界は終わらなかった)
ジェミニアやルナと出会って、終わるはずだった世界は続いていった。
こんな守銭奴ですら手に入れたのだ。
あの人格者なリオーレが、手にできないはずがない。きっとまた新たな友人を手にすることができるはずだ。
「……そういえば。なんで俺のこと、探してたんだ?」
最初に話しかけられた時に、探していたような素振りがあったような気がした。
「うん、まあね。たまたまあなたを見かけたのよ。なんか浮かない顔をしていたように見えたから、気になって尾けてきたの。いけなかった?」
「いや、悪いわけじゃないけどさ……。なんか、お前変わったな」
「変わった? 私が?」
「ああ。ちょっと前までのお前は、他人なんてどうでもいい。自分だけが世界の中心みたいなところあったよな」
「……誰よ、それは……。確かに、他人に興味ないところはあったかもしれないけど、でも、それだけじゃ生き残れないことってことも分かったしね……」
俯いていたルナは、こちらを振り向く。
その瞳は、どこまでも真っ直ぐで、視線でこちらの身体を突き刺すようだった。
「あなたに助けられたことだって、一回じゃない。私よりもランクが低い奴にね。正直、少し前まで他人のことをランクで見下してたけど、その考えもあなたと一緒に行動を共にして打ち砕かれたわ。私、何しているんだろうって思った……」
かるーく、馬鹿にされたような気がするが、どうやら悪気はないようだ。
それどころか、落ち込んでいるように見える。
本当は、こっちが落ち込みたいところなのだが、そうはいかないようだ。
「……まあ、俺だってお前に助けられた部分は大きいよ。それに、上に立つ人間が驕るのは人として当然の人間心理だからな……。だから、そんな気にすることじゃないと思うぞ。結構、誰でも通る道だからな」
「――下手くそ」
「え?」
「下手くそって言ったのよ。それで私を慰めているつもり? どうせだったらもっとうまく慰めてよ」
そういって、挑むようにこちらを見上げてくる。
膝を抱えながら、小悪魔のように笑っている。
(ちくしょう。くやしい。くやしいけど――なんか可愛いな……)
胸中で思っているそんなことは、口が裂けても言わないが。
「――レイユがいなくなったことによって『未踏階層』への道は解放されたらしいな」
「うん。先遣隊を派遣して、確認したらしいけど、やっぱり上へ行けるようになったらしいわね。結局、どうしてレイユさんが道を塞いでいたかよく分からなかったけど」
「それは、あれだろ。レイユは、あの城の城主が上の階層に行っていたのは知っていた。だから、病になって旦那を追うことができない自分と違って、上の階層に行ける奴に嫉妬したのか。それとも、自分の好きな人に脅威となりそうになる奴は排除したかったのか。そのどっちかじゃないのか」
理由はともかくとして、『未踏階層』が解放されたことは重要な意味を持つはずだ。
「一人二人じゃない。きっと、隊を組んでダンジョン攻略に入るだろうな。もっとも、絶対に一人や二人、みんなを出し抜こうとして『未踏階層』へ足を踏み入れる奴はいるだろうけどな。なにせ、他の誰にも手を付けられていない『未踏階層』は宝の山だ。独り占めしたくなる気持ちは分かるよ」
これから始まるのは、争奪戦。
色んな考えを持つ奴がビルゴダンジョンの『第四階層』に集まるだろう。
記録上未だ、誰も足を踏み入れていないダンジョンに――。
学園側が危険だからと言って、今は立ち入りを禁じている。
だが、そろそろ焦れて誰かが行動してもおかしくない。
学園内では教師と、優秀な生徒の混合チームを結成しているらしいが、そいつらを出し抜こうとする連中は必ず現れる。
さて。
そいつらが『未踏階層』から回収したお宝を買って、他の人間に転売するのも一つの手だ。それだけでも、十分な収益を得ることができるだけの商才はあるつもりだ。
だが、それっぽっちの儲けで高笑いするほど、謙虚な性格ではない。
「分かるって言うか、その独り占めしようとする連中の代表格があんたじゃないの?」
「……まあ、そうしたいことは山々だけど、最近、イティの監視が強くなってな。そう簡単にダンジョンには行けないんだよなー。特に『未踏階層』なんて危険なダンジョンへは……」
「そんなことだと思った。……はい」
片目だけ瞑りながら、意味ありげな握りこぶしを突き出してくる。
ポケットから取り出した拳の中には、何かを入れているようだ。
ルナの顔を伺うが、どうやら何が入っているかは教えるつもりはないらしい。
観てからのお楽しみといった感じ。
(……拳の中に何も入ってないっていうオチだったら、キレてもいいよな)
躊躇しながらルナの拳の下に手のひらを広げると、そこにポロン、と何かが落ちてきた。これは――
「なんだ、これっ――て、メモリーキューブじゃないかっ!! なんでこんもの持ってるんだ?」
「ちょっと無理して言って取り寄せてもらったの。どうせ、ラックスのことだから必要になると思ったから」
「おお、流石は金持ち……」
そういってやると、露骨に顔を顰める。
「本当は、そうやって金持ち扱いされるのが嫌だからこんな手段使いたくなかったんだけど……。一応、これ、感謝の印よ。今まで助けてくれてもらったお礼。それに、この前の写真を売買した時に、私の分の報酬ももらったし。だから、ありがたく受け取って」
「おお、悪いな。そんな気をつかってもらわなくていいのに……」
「口では殊勝なこと言っているのに、懐に入れるのが早いわよ。もっとすまなそうにしなさいよ」
ルナはふぅ、と呆れきったように嘆息をつく。
「まったく、大変だったから。私の母親に知られたらまたどんな小言を言われるか分からないから、口が堅い人に頼んで取り寄せてもらったのよ」
「……お前、母親と仲悪いのか?」
「どうして?」
「いや、口調が、な。別に誰かに聴いたわけじゃない。ただの推測だ。ただ、仲が悪いんだったら、母親とは仲良くした方がいいぞ」
「はあ? あんたにだけは言われた――あっ」
その、取り乱し方が妙に神経に触った。
別に気にしてなどいない。
だけど、その気遣いが、逆に苛立った。
距離を取られたように思えてしまったのだ。
「ごめん。そんなつもりじゃなくて――」
「いいよ。昔の話だし。それに、悪かったな。お前の家のことなのに、俺なんかが突っ込んだ話して。お前のことなんだか、お前が決めろよ。もう、俺は口出ししないから……」
「あっ…………」
まずい。熱くなって意地悪な言い方をしてしまったと後悔したが、どうやらそれどころじゃないらしい。
ルナは顔を一瞬で強張らせながら、視線を固定させる。
ラックスではなく、その後方にだ。
振り向くと、そこには殺気を孕んだ瞳で睨み付ける奴がいた。
「やっと見つけたわ」
独り言のような、小さな呟きだった。
だけど、どこまでも響くそれは、まるで呪いの言葉のよう。
向けられている視線はルナなのに、横にいるだけで冷や汗が出た。
面識などないが、人間を殺したことがあります、と告白されても驚かない自信がある。それだけ、迫力があるのだ。
膨らんでいる胸とか、どことなく身体の全体が曲線を描いているところは女性。そして、その女性の中でも、かなりの美人だろう。
だけど、気圧される。
道を歩いていれば、誰もが振り返るほどの容姿をしている。それなのに、限界まで吊り上げている眉と、口をわなわな動かしているのが台無しにしている。
狂気。
それが、彼女に最も似合う第一印象の単語。
子どもでは決して逆らってはいけないような、大人独特の有無を言わせない迫力。こちらの話など右から左に流しそうなプッツン具合。
肩をいからせて、凄い勢いでこちらに向かってくる。
そしてしまいには――ドンッ!! とラックスの肩に肩をぶつけてくる。
「――いっ!!」
わざとじゃない。
ただこっちに気がつかなかっただけだ。
(なん、だ? この人。俺のことを完全に無視しやがった)
脇目もふらず、固まっているルナの前で足を止める。
「……………えっ? お――」
何か言いだしているルナの頬を思いっきり――
パシンッ!! と音を響かせて引っ叩く。
弓を引くみたいに勢いをつけた張り手は、ルナの身体がズレるほど。
思わず、小声でうわっ、と独りごちる。
指の形がくっきりと赤く残ってしまっている。
ルナは痛いというより、いきなり叩かれて困惑しているようだ。
「こんなところにいたのね。随分、探したのよ」
「……どうして?」
「ど、う、し、て? あなた、今どうしてって言ったの? 私は、あなたのことをずっと想っていたの。どれだけ離れていても、あなたのことを心配して、片時も忘れたことはなかった。それなのに、あなたは何も分かっていないのね! 私がどれだけあなたのことを愛しているのかを!!」
ガクガク、とルナの首が折れるんじゃないかってぐらいに、肩を揺らす。
今まで、色々なモンスターと死闘を繰り広げてきた。
旅の仲間の胴体が別れて、無残に死んだ者がいた。
モンスターの中には残虐なものもいて、死に体の人間を弄ぶものもいた。
だからこそ、凄惨たる光景には、ある程度の耐性はついているはずなのだ。
それなのに、どうしてだろう。
別に死人がでるわけでもない。
戦闘をしているわけでもない。
それなのに、人間同士が本気でいがみあっているこの光景は――ギュッと目を瞑りたいほどだった。
「お、お願い、お願いだからっ! もうっ、やめてよっっっ!!」
ルナから無理やり腕を振り払われた女性は、まるで気にしていない様子だ。
蚊帳の外となっているのに、こっちはルナの苦痛の絶叫が鼓膜にこびりついているというのに、こんなことは日常茶飯事のようだ。
ふいっ、と視線を引き剥がすと、突然こちらに向けてくる。
「ふん。このパッとしない子、誰? あなたの友達? やっぱり、ここに来てよかったわ。こんな子と付き合いがあるって時点で、あなたは人生を踏み外そうとしているのよ。いい? 周りの環境や人間関係によって、人の一生は左右される。あなたみたいな子どもの頃は特にね。だから、友達は選びなさい。……いいえ、あなたが正常な判断で友達を選べないって言うなら私が選んであげるわ。オーシャニアンの家にふさわしい友達をね」
「やめてよ! あなたがそんなんだから、私はいつまでたっても――」
唇を噛みしめながら、ルナは下向く。
何を言っても無駄だと悟ったようにも見える。
ただ、拳だけを悔しそうに震わせている。
(待て、いや、待てよ。さっきからこの女が何者なのか全くついていけなかったが、会話の流れで大体分かってきたぞ)
意気消沈しているルナは、まるで水の底にいるよう。
そのままだと溺れ死にそうなルナをすくいあげるためにも、思いつくまま声をかけた。
「ルナ。おい、まさかその人――お前の母親なのか?」
ビクンッ、とルナは飛び跳ねる。
そのまま無言で、唇を動かそうともしない。
だけど、それが肯定の証。
髪の隙間から見える瞳からは、透明な膜が張っていた。
この人が母親だと知られたくなかったのだろうか。
だとしたら、訊かない方が良かった。
「反抗的ね。やっぱり、私の元を離れたせいで、悪い影響を受けたみたいね」
「……お願いだから、やめて。ラックスがいるところで、こんなみっともない母親の姿を見せたくない……」
「口のきき方に気をつけなさいっ!!」
もう一度頬を張ろうしたが、寸前でその手を止める。
ビクついたルアンの頬を撫でる。
先ほど叩いたところを、いたわるように優しく。
それが。
それが怖かった。
さっきまでは口角泡飛ばす勢いで怒鳴り散らすだけだったのに、急に、まるで女神のような笑顔になった。
その切り替わり方が異常過ぎた。
人間は基本的に自分が正しいものだと思いこみたい。
どれだけ激情に駆られて、自分の娘に手を出したとしても、それは正しいことだと思い込みたい。
でも、やりすぎてしまったからこそ、すぐに優しくする。
恐怖だけなら人間はそう簡単に壊れない。
だが、恐怖の後に、間髪入れずに優しくされてはだめだ。その優しさが心の隙間に入りこんでしまうと、心はスクランブルエッグのようにグチャグチャになってしまう。
怒っていいのか、悲しんでいいのか、それとも喜んでいいのか。
本当に分からなくなる。
自分の感情がつかめなくなる。
それが痛いほどわかる。
ルナの心に亀裂が入りそうなのがわかってしまう。
何故なら、暴力を振るったすぐ後に優しくされるこの光景そのものが、昔の自分とピッタリ重なるからだ。
「でもね、もういいのよ、もうそんなこと気にしなくても。だって、あなたはもう、コレクティ学園を自主退学するんだから」