彼方の地、死界の王の守るもの
*****
山間の地には、とある修道院があった。
その院長は慈悲と信仰に溢れ、彼を慕ってそこで徳目を積む尼僧と、若き見習いの青年神父達がいた。
その白亜の城のような美しい修道院は、今はもうない。
――――――そこにあるのは、亡霊の館。
*****
「クソが! 何だ、ここはっ!?」
「うるせぇ、知るワケねーだろ! 聞いてねぇ、聞いてねぇぞこんなの!」
かつては美しく整えられていただろう回廊を、二人の男が走る。
どちらも粗野な身なりをしており、手入れの悪い短剣と斧がそれぞれ片手に握られ、もう片手には、今にも燃え尽きそうな松明がある。
男達は、真っ青になりながら、どこへ向かっているかも分からぬまま脚をばたつかせて駆け続ける。
その背に不吉な哄笑と、けたけたと鳴り響くドクロの笑い声を受けて。
「逃げ、逃げないと――――うぎゃっ!」
前を走っていた男が突如倒れて、その衝撃で取り落とした松明から灯が消えた。
後ろの男がその身体をつんのめりながらも飛び越え、しばし足を止めた。
「おい、どうした!?」
「違っ……なんか、何かがオレの足を……!」
「何?」
生き残った松明を向けると、未だ立ち上がれない男の足へすがりつくように……いくつもの白骨化した手が掴んでいた。
「ヒヒ、ヒヒヒヒヒッ!」
間髪入れず、不吉で耳に貼り付く笑い声とともに、“レイス”が壁を擦り抜けて現れた。
そのレイスは不気味に腐り果てた女の死体の姿をしており、しかしその顔面はほとんど骸骨のものだ。
身体は薄く透けており――――暖かな生命力を求め、それを吸い取り、死に至らしめる恐ろしき悪霊。
“彼女”はそこがかつて聖なる地であった事など構わず、悠々と宙を舞い、倒れている男へ踊るように近寄っていく。
その魂から、生命力を吸い上げ――――失った己の肉体、その空虚を満たしたいかのように。
「ひぃぃぃっ!!」
肝をつぶして、松明を持っていた男は仲間を置いて逃げ出す。
助けを求める声と――――レイスの歓喜の声、ややあってからこの世のものとも思えない、生きながらに魂を引きはがされる者の奏でる、生涯耳から消えることのない絶叫から。
「いやだ、いやだ! いやだ、死にたくない……! もう、少しで……!」
激しく揺れる視界には、先ほどからいくつものこの世ならざる者が見える。
壁から現れ壁へ消える女の亡霊、窓際を這う腐った手首、怨みの眼で見つめる三人の子供、稲妻に照らされる、行進するスケルトン達の影。
男達は単なる野盗で……ここへは、噂を聞きつけてやってきただけだ。
旧・修道院の地下には闇の魔術の精髄を秘めた財宝が眠っており、その神秘に触れた者は富も力も思いのままだと。
そして、五人いたメンバーは全員が、死に果てた。
ある者はスケルトンの槍で貫かれ、ある者は死霊の落とし穴に陥り奈落へ引きずり込まれ、ある者は――――レイスに魂を引きはがされ、生命力を貪られた。
最後に生き残った男はようやく玄関へ辿りつき、体当たりするように扉に食らいつくも――――。
「う、わあぁぁぁぁっ!?」
扉に触れた瞬間、血の涙を流すいくつもの亡霊の顔が扉へ浮かんだ。
憤怒、哀しみ、苦痛、そういった表情を浮かべる亡霊たちが寄り集まり、結界をつくり、――――扉を、二度と出られることのない地獄の門へと変えたのだ。
次いで、無作法な“墓荒らし”の最後の一人へ縋るように、アンデッドの群れが姿を現す。
レイス、スケルトン、ゾンビ、ウィスプ、その数は――――見える限りの視界全てに。
「やめ、やめてくれ! 来るな! 来るな、あ、あぁぁぁああぎゃああぁぁぁぁぁっ!!」
その仲間に、また一人が加わる。
いつしか修道院を取り巻く噂は、変質した。
その地下に眠る闇の財宝、暗黒の秘術に魅入られた修道院長が殺戮の限りを尽くして“魔王軍”の尖兵として転生したのだと。
徘徊するアンデッドはかつては清廉な尼僧と神父達の成れの果てであり、迷い込む者を更に仲間に加えているのだと。
封印された礼拝堂には、今もなお不死者の王となった“修道院長”がいると。
真実を知る者は、もういない。
――――ただ二人、“あの日”を生き残ったシスターと少女を除いて。
*****
「――――日ごとの糧を今日もお与えくださった事を、感謝いたします。地と、力と栄えはとこしえに貴方にある事を――――」
全員が集まった食堂で朝食前の祈りを捧げる修道院長アルフレッド・ウォーリスは、絵に描いたような穏やかな聖職者だった。
齢五十を越えて、量を減らさないままシルバーグレーに染まった髪をいつも後ろへ撫でつけ、たくわえた白髭の手入れも欠かさず、その穏やかで澄みきった眼差しは誰しもが心を開き、誰しもが彼と言葉を交わしたくなった。
もしかしたら本当に神の遣いなのではないかと疑うような、曇りない優しさと慈しみ。
修道院の最高権力者だというのに、彼は祈りと同じように人々との対話を重視し、自ら土と戯れて作物の実りに目を奪われ、花も虫もこよなく愛し、警戒心が強いはずの野生の小鳥ですら、彼が指を差し出せば止まった。
「それでは、皆様。いただきましょう。本日も良き日であらん事を」
質素な豆のスープと、パンと、果実が少し。
大柄なアルフレッドには物足りなく見えるのに、眼鏡の奥の彼の眼差しに不平は無い。
「シスター・ニーナ。あの子は……どのような御様子でしたかな?」
「はい、院長。どうもまだ……」
「分かりました。……鍵は、こじ開けるものではありません。焦って扉を壊してしまったところで、何もいい事などないのですから」
朝食の席で、アルフレッドは傍らのシスターと言葉を短く交わす。
その言葉が示しているのは、数日前にこの修道院へ預けられた、一人の少女の事だ。
「彼女は――――まだ口を利けません。昨晩の食事にもほとんど手をつけず……。私が頼み込むと、水だけは飲んでくれましたが」
シスターの溜め息を聞いて、アルフレッドは短く沈黙し、すぐに食事に戻る。
これ以上会話を進めれば、居心地の悪いものになると悟って。
「それはそうと、院長。近頃……夜になると院内を見回っておられるとか?」
「……ええ。最近、どうも寝つきが悪いもので。戒律により、お酒をいただくわけにはいかないもので……書き物をするか、でなくば散歩で眠気を待つしかないのです。ひょっとして、眠りを妨げてしまっておりましたか?」
「いえ……。ただ、気になりまして。そうでしたか……」
*****
そして――――その晩もまた、アルフレッドは皆が寝静まった修道院を、蝋燭の灯りを頼りに歩いた。
硬い石畳の上を歩かぬよう、気配を殺して――――足音を立てず、忍ぶようにして。
神聖なる場所とはいえ、夜に灯りを消してしまえばそれは暗闇の迷宮。
だが修道院長アルフレッドの足取りに迷いはなく、そして……どこまでも静かに落ち着いた目も、迷ってなどいない。
棟をいくつか抜けて、教会の端にある小さな物置部屋の鍵を開けて入る。
中にはかつて使われていた用済みの祭器を詰め込まれており、その隙間――――床に、更に二つの鍵穴が開いていた。
腰に着けた鍵束を取り、その二つに同時に突き立て、捻ると……床下から、かちゃり、と軽快な金属音が響き渡る。
床板に偽装した扉を引き上げ、梯子を下りざまに閉めて――――かび臭い地下室を更にアルフレッドは進んでいく。
一歩、二歩、進む毎に“それ”は大きくなる。
不吉に淀んだ、邪悪な気配。
神職ですらも上手く説明する事のできない、ひどく邪悪で歪んだそれらが……まるで見えざる手招きのように、アルフレッドを導くようだった。
やがて、小部屋に行きつく。
「……やはりだ。やはり……!」
更に三つの鍵穴を開き、扉を開けた先にあったのは――――“闇”の知識達。
この国でかつて行われた、壮絶な“死術士狩り”の際に、聖騎士団が押収した品物の数々。
いくつもの傷痕を残した人間の皮で装丁された暗黒の魔導書。
無風の地下室でなお――――死霊の影のようにはためくローブ。
いかなる技術によるものか、漆黒のクリスタルを異形の頭蓋骨の形へ加工し研磨した、謎の水晶球。
風化しかけているいくつもの魔法の巻物。
木の実のように小さな――――しかし紛れもなく、成人した人間の頭蓋骨。
蛇の舌のように曲がりくねった短剣。
それらの品々が、聖印の刻み込まれた祭壇の上に安置され、なおも……邪悪な魔力を漂わせていた。
そうなり始めたのは、つい最近の事だ。
「何故だ? 何故……! 何故こんな事が起きているのですか? 神よ……!」
かつての死霊術士狩りの際、聖騎士団は各地の主要な都市・教会をあえて避けてそれらの品々を秘匿した。
死霊術士の奪還を阻止するべく行われたその対策に選ばれた一つが、この修道院。
先々代の院長の代でそれを受け取り、以来、ここを密かに守り続けてきたのがアルフレッドだ。
闇の魔術への抵抗力を備え、封印を維持する魔力をも備えるアルフレッドが先代から指名を受け、ここへ赴任したのは三十年ほど前の事。
これまで、かの魔具の数々が脈動を始めた事などないのに……今は、この様子だ。
嘲笑うように、魔導書は自らページをめくってみせる。
そこには――――いつも同じページがある。
十字架の杖で胸を貫き、自害する者の挿絵。
不死者の王としてその身を変じるための、呪詛の言葉。
“貴様もそうしろ”と煽るように――――魔導書は、いつもその態度で彼を出迎える。
「神よ……神よ。どうかお答えください……! 何が、起こっているのですか?」
手を組み、祈りの言葉を念じても答えは無い。
あるのは、水晶球の低い唸り声。
はためくローブの音。
蝋燭の灯に揺れる影が壁に落とされ、いくつもの死者の手が修道院長アルフレッドに差し伸ばされていた。
縋りつくように。
――――引きずり込もうと、するように。
アルフレッドは、その日もまた――――数時間に渡り、手を組み祈るしかできなかった。
*****
やがて、地下室の闇の結晶達が大人しくなり、階上へ注意深く戻ると――――窓から差し込む光で、目がくらんだ。
気付けばすでに朝日が昇り、東の空は暁に輝いていた。
滅入るような地下室とは違って心が現れるようで……アルフレッドは、その光をようやく受け止められた事に安堵し、思わず胸の前で十字を切った。
ふと――――目を焼くような光に慣れ始めた時、間近に気配を感じ、振り向いた。
「……やぁ、おはよう。もう起きたのですか? もう少しベッドに入っていてもいいのですよ、カーラ」
「…………」
彼女は――――件の“少女”だ。
とある都市で、聖騎士団によって偶然に保護された少女カーラは、父と継母に手酷く虐待を受けていたという。
美しい栗色の髪と器量の良さを持ち、しかしあくまで懐かぬカーラに業を煮やした継母は彼女を打ち据え、意思の弱い実父はそれを黙認という形で加担した。
偶然に聖騎士の一人が虐待の現場を押さえた事で、カーラを引き取り保護し……継母と父には、しでかしてしまった事に比べてあまりに軽い罰金刑が科された。
そうして聖騎士団が直々に保護したカーラは、この修道院へと送られる事になり……それは、一週間と経ってはいない。
心の傷が、彼女の口までも縫いとめてしまった。
革帯で打たれた蚯蚓腫れは消えても、顔に押し付けられた火傷の痕は消えない。
身体の傷はいつか消えても……心の傷は、まだまだ塞がるはずもない。
否、大人になってさえもそれに苦しむ者は、決して珍しくも無い。
まだ生まれて十年も経たぬ彼女が負うには……その業は、あまりに重く、哀しいものだった。
「――――ァ」
「ん……?」
カーラが、微かな……耳を凝らしていないと聴こえないような唸りと共に指したのは、今アルフレッドが出てきた物置部屋の扉だ。
「ああ、中の品物を整理していたのですよ。カーラ、君は……今起きたのですか?」
カーラは首を横に振った。
「では……陽が昇る前?」
今度は、縦に。
「……もしかして、昨日から眠れていない?」
――――縦。
「……分かりました。カーラ、今から部屋へ送ります。少しでも寝ないとだめですよ?」
「……ゥ」
「いえ、気にしない事。……貴方の健やかな事が第一です。起きたら、ミルクを暖めましょう。さ……ついてきて」
「ッ……、ゥ」
カーラは戸惑い、神妙な表情を震わせた後……アルフレッドを追い、影を踏むようについていった。
その仕草に、アルフレッドは再び安堵し息をつく。
しかし、ほんのひと時忘れる事が出来ても――――すぐに、疑念が湧く。
(……あの邪気の活性化は? 果たして、何が……起きている? いや、それとも……これから起きるのか?)
*****
それから、一週間。
強まりはせずとも――――修道院の地下で管理している、死術士達の置き土産は夜毎に脈打つ。
先々代も、先代も、このようなことを報告した事はない。
日ごとに沈んでいくアルフレッドの表情を察して、シスター達も、神職見習いも、声をかける事が多くなった。
しかし、その原因を話せるはずもない。
この地下室の秘密は、代々の修道院長にしか知る事を許されないからだ。
だが、一週間の間にも――――嬉しい変化は、あった。
それは……あの少女、カーラは初めて笑顔を、見せたことだ。
*****
「そうですよ、カーラ。こっちが……ああ、院長。どうなさいましたか?」
「いえ、少し散歩を。何をなさっていたのですか?」
「カーラが、刺繍をしたいと言ってきたのです。……ああ、いえ。声でではありませんが……」
「ほう? 見ていてもかまいませんか?」
シスター・ニーナとカーラの二人はとなり合わせに礼拝堂の椅子に座って……刺繍枠の中へ針を躍らせていた。
二人は同じ図案を選び、それは簡単にデフォルメした向日葵のデザインだった。
ニーナの出来は流石で、プロの縫製職人にも決してひけを取らない。
一方、カーラの出来はところどころに引き攣れが目立つものの……むしろ、それは温かみに繋がっていた。
買いたいとしたらシスター・ニーナのものだが、見ていたいのはカーラのものだ。
どこかで聞く、“子供の描く絵に、大人は絶対にかなわない”と言うセリフがアルフレッドに思い出された。
見ているとカーラは顔を上げ、しかし怯えた様子では無く……照れて困るような様子で、少しだけ手を遅くさせる。
彼女の手には、傷一つない。
もしかすれば素質があるか――――もとは、こういった手作業が好きだったのかもしれない。
「すごく……優しい出来ですね。カーラ」
そう言うと、カーラは疑問符を頭の上に浮かべながら顔を上げる。
「見ているだけで心が休まるようです。完成したら、ぜひ私に見せてはいただけないでしょうか? どうか、お願いします」
「……ァ」
カーラの顔は真っ赤に染まり……しかし、確かに――――頷いた。
「ありがとう、カーラ。それでは……楽しみにしていますね。また夕食の時に」
そのやり取りで、アルフレッドは……久方ぶりに、本当に心を癒す事ができた。
カーラは、日ごとに人間らしさを取り戻していく。
それが……本当に、何より、嬉しい事だった。
*****
幾度祈っても――――神の声は、聴こえない。
足を運ぶたびに、嘲笑うように魔導書はページをめくってみせる。
呪詛を呟き、胸に十字錫を突き刺し自害する男の挿絵を。
翻る死霊のローブは旗のようにばたつき、黒水晶のドクロは彼を見据える。
世界に変化が起きたのは、その三日後だった。
*****
麗らかな昼下がり。
修道院長アルフレッド・ウォーリスは中庭で、一枚の刺繍入りのハンカチを透かすように空を見ていた。
不格好な、それでいて温かみを感じる向日葵の刺繍が施された白いハンカチは、カーラの贈り物だ。
彼女は、まだ声を出せない。
しかしそれは時間が必ず解決してくれるだろう。
つたない母音でしか意思を現せない彼女は、元の穏やかで優しい心を取り戻しつつある。
それは、神の思し召しと言えるのかもしれない。
だが同時に……アルフレッドには、そう呼べない。
本当に神がいるのなら――カーラに消えぬ火傷の痕が刻まれた時、何をしていたのか。
聖騎士が偶然通りがからなければ、殺されていたところだと聞く。
あの心優しい少女がそうされるような謂れは無い。
彼女を救った騎士は、間に合ってなどいなかった。
その時、すでに……手遅れ、だったのだ。
痛ましく思い、歯噛みしつつ時を過ごし、流れる雲をハンカチ越しに眺めていた時。
――――向こうに透けていた日が陰り、ほんの一瞬……暗黒に染まった。
「何だ!?」
思わずハンカチを下ろし、懐にぎゅっと押し込むと……そこに浮かんでいたのは“城門”だった。
修道院の中庭に、突如として……光を吸い込むような、木とも石とも金属ともつかない漆黒の城門がある。
とっさにアルフレッドは立ち上がる。
聖職者の知によるものでも、人生経験によるものでもない。
生きとし生ける存在全てに備わる本能が、そうさせた。
――――逃げねばならない。
――――逃がさねばならない。
――――何か、恐ろしい事が起こる。
――――否、何かとてつもなく恐ろしい事が……今、起きたのだ。
「院長!」
「修道院長! 何が起きたのですか? あれは!?」
中庭へまろび出てきた二人の青年が口々に叫ぶ。
当然、アルフレッドにそれが分かるはずもない。
「分かりません! 逃げるのです! 皆に声をかけて……! 早く、早く逃げないと! 私は礼拝堂の方へ――――」
二人を促し、逃げるように触れ回れと伝えた、直後の事だ。
長く軋む音を立て――“門”が、開く。
その音歯、爪の音に似ていた。
よく磨かれた純白の磁器へ尖らせた爪を立て、消えない傷をつける音だ。
誰もが、いよいよ確信した。
後ろを振り向いた時……全てが、終わる。
安穏とした修道院の日々。
神へ祈りを捧げ、敬愛とともに歩んだ人生が。
若き青年、神父見習いのジョシュアが最初に振り向いた。
見えたのは――――こちらへ向けて開いた扉、その中にある漆黒の闇。
そして、無数の……爛々と光り輝く、“魔物”の眼だ。
「うっ……うわああぁぁぁぁぁっっ!!」
叫んだとき――――修道院の日々は、終わってしまった。
*****
「ぎゃあぁぁぁっ!」
「ひっ……こ、来ないで! 来ないでください、い、いやあぁぁぁっ!!」
修道院は――――殺戮の場に変わる。
低級な人型の魔物が、洗濯場のシスターを皆殺しにして、切り刻んだ。
真っ白なシーツは血で染まり、洗い桶の水はもう薄められてしまい……血で満たされてしまった。
全身からトゲを生やした異形のトカゲが打ち出したのに貫かれ、ある青年は全身を壁に縫い止められてしまった。
扉を閉めても、祈りの言葉を口にしても、逃れられない。
斬りつけられた神父見習いへ回復魔法を唱えている最中に、あるシスターは首をもぎ取られて息絶えた。
馬小屋に繋がれていた馬も、その全てを失った。
修道院の白壁は、もう――――名残りすらもない。
血の雨が降ったように、真っ赤に染まってしまっていた。
「っ……シス、ター……ニーナ……カーラも……どうか、無事で……!」
アルフレッドは――――どう逃げたのか、自分でも分からずに修道院の回廊を隠れて逃げ回っていた。
目的地は、礼拝堂。
シスター・ニーナとカーラはこの時間、そこで刺繍に興じているはずだった。
いるとしたら、そこだ。
せめて、そこで二人が無事でいてくれ、と……神に心から縋る。
そこかしこで聴こえるのは、もう咀嚼音と魔物の呻き声だけだ。
悲鳴は、もうない。
もう――――誰も彼もが、殺され尽したからだ。
廊下を徘徊する大柄な魔物をやり過ごしながら、礼拝堂に辿りつく。
扉は破られていない。
慌てて……しかし音を立てぬよう、ゆっくりとノブを捻り、中の様子を窺いながら扉を開ける。
そこは――――何も、変わっていない。
「……誰か、いますか? 私です……誰か、いませんか?」
アルフレッドが小さく呼びかけると……礼拝堂の最奥、説教台が揺れた。
小さな期待と、警戒を抱いて近づく。
その説教台には。
「修道院長……良かった……ご無事だったのですね。一体何が?」
「……ァー……」
シスター・ニーナが、カーラを抱きかかえるようにその中に身を潜めていた。
二人は、アルフレッドの姿を認めてそこから出てくるも……彼の姿を灯りのもとで見て、言葉を失う。
彼は――――右肘から先が、ない。
服もあちこちが切り裂かれ、血で染まっている。
命からがら――――何かから逃げ延び、ここまでやって来れたのだ。
「院長……!?」
「ああ、心配しないで……。回復呪文で血止めはしました。……私にも、何が何だか分からないのです。中庭に……何かが……現れて、そこを通して……魔物が……」
止まってはいても、失われた血は戻らない。
アルフレッドは血を流し過ぎて危険な状況だった。
朦朧とする意識のなか、倒れかけたアルフレッドを、カーラが心配そうに潤んだ瞳で見つめた。
「貴方たちは……何故、ここに?」
「突如、悲鳴が聴こえて……様子を見に行こうかと思ったのですが、廊下を何かが通り過ぎる気配がして思わず身を隠したのです。あれは……いったい?」
「分かりません。何か……っぐぅ!」
「院長!?」
全身の苦痛に耐えきれなくなったその時――――扉へ何かが強く当たる音がした。
他の扉に比べ、多少分厚く作ってあるとはいえ……単なる木材でしかない。
成人の体当たりぐらいであれば破られる事は無いが――――もう、この修道院に生き残った人間などいない。
「私では分かりません。今日、世界に何か取り返しのつかない事が起きた。シスター・ニーナ。貴女は何か分かりませんか?」
そう――――教会で三番目に若い、カーラとそう歳を隔てていない尼僧に訊ねた。
答えの返されるべく唇の動く直前。
――――中庭に起きた地獄変が、再び、礼拝堂で起こる。
「ッゥ、ウゥゥゥゥ……!」
「な、に……!? 何ですか、あれは!?」
礼拝堂の高い天井を突き破るほど……巨大な、漆黒のゲートだった。
その大きさは中庭のものを大きく凌ぐ。
その禍々しさは――――倍などという、生易しいものではない。
「まさ、か……あの扉は、ほんの斥候だった? とすれば、この扉からは……」
滅亡の軍勢、その本隊が這い出てくる。
それを理解した時、アルフレッドは茫然とし……力の抜けた表情筋は、奇妙な薄笑いの表情に似たものを浮かべる。
そんな小虫の変化など知らずが如きに――――無慈悲にも、扉は開き始めた。
その内側に、無数の魔物の貪欲な殺意を、貯めこんで。
「カーラ。今日という日を覚えておいてください。今日は……君の人生の中で、最もつらい日になると思います」
「……ウゥ」
「ですが――――同時に、憶えてください。今日が人生の底。もう君には……これ以上苛酷な、つらい事は……起きません」
「院長? 何をなさるおつもりですか!?」
修道院長アルフレッドは、十字錫を取り出した。
それは地下室の死術士の遺産を封じ込めるために使われていたものだ。
もう、全ては手遅れだ。
それもまた……本能と、かすかばかりの聖職者の賢知で掴めた。
――――だが、まだ終わりではない。
手遅れなら手遅れとして……打てる手が、ある。
その一つが、これだ。
「シスター・ニーナ。恐らくは、今日は……生きとし生ける人類にとって、最悪の日となるでしょう。何か、とてつもなく恐ろしい事が起きてしまった日です」
「え……?」
「……私は、もはや……神を信じられません。私は地獄に行きたい訳ではないのです。ですが天国にもです。……神の顔など、もう見たくはありません。カーラに、今から起こる事を決して見せないでください」
「院長!?」
短剣を握るようにアルフレッドはそれを握り……ぼそぼそ、と、呪詛の言葉を呟く。
その姿は、地下室の魔導書に記されていた図案と同じだ。
「――――二人とも。ここは――――これから地獄へと変わります。だがそうさせるのは、異世界の魔物達ではない。この私が、ここを地獄へ変えましょう。人々にとっても、奴らに取っても平等な、真の地獄へと。私はこれより、門番となります。しかし、貴方たちだけは……何としても、何としても逃がしてみせます」
震える手が、しかし……より硬く握り締められる。
扉は裂けて、そこからは地獄の魔物達が血に飢えた眼を覗かせていた。
「“神”よ。私は御許に行く資格を失いました。地獄にすらも。……日ごとの糧ではなく、不浄なる激痛のもとの永劫を、どうかお与えくださいませ。地獄の炎すら――――私には、受ける価値も無い事を、貴方の名によって、祈ります。さようなら、シスター・ニーナ。カーラ、そして――――“神”よ。」
――――アルフレッドは、自らの胸に、深く、深く十字錫を突き刺した。
反射的にニーナはカーラを抱きしめ、その姿を見せまいと、深く胸元へ沈みこませる。
「ア、アァァァァァ!!」
声にならないカーラの慟哭が礼拝堂の高い天井へ響き渡り――――直後、扉の向こうから魔物達がこぼれ落ちて来て、一人の亡骸と、ふたつの暖かい血の袋を取り囲む。
「――――エサ、エサ……ダ……!」
カーラを、ニーナが抱きすくめて庇おうとする。
その魔物達の姿は……醜悪極まりない。
人型に見えてはいても、知性の欠片も感じられない。
手に持つ武器からは緑色の毒液が滴り落ち、教会の花道に敷かれたカーペットを焦がした。
「ひぃっ……!?」
「――――?」
身を竦めるシスター、怪訝な様子の魔物。
二つが指し示したのは互いではなく、その間。
胸を十字錫が貫通しているのにも関わらず、ぼたぼたと滝のように血を流しているのにも関わらず、それでも庇うように突っ立つ、男の姿だ。
力無く、だらりと垂れ下げられた両の腕に命は無い。
にも関わらずアルフレッド・ウォーリスだったモノは、立ち上がった。
――――不浄の聖域への、帰還者として。
「クァ、アァァァァァァ……ウオオォァァァァァッ!」
叫ぶその声は、もはや……優し気に低く落ち着いた、彼の者とは違う。
甲高く震えた死霊の呼び声。
地獄の底から湧いて出る、ひとたび聞けば二度と耳から離れる事の無い、魔の者の声。
「院長!? 院長、そんな……いやあぁぁぁっ!」
彼の肉体は、青白い火を放ち、焼け落ちていった。
皮膚、筋肉、臓腑――――その全てが落ちた時、彼の身体は骨だけとなり、しばし虚空をたゆたう。
地の底から、いくつもの禍々しい品々が床をすり抜けるように現れる。
ひとりでにはためく暗黒のローブは、アルフレッドの骸骨を覆い、唯一の衣となった。
黒き水晶のドクロは、彼の肋骨の内側へ潜り込み、暗黒の心臓と化して脈動を始めた。
人皮装丁の魔導書は、さながら教えを説くための教典のように彼の左手に収まった。
縮められた頭蓋骨の首飾りは、彼の首を巻くとケタケタと笑い始めた。
曲がりくねった蛇の舌のような短剣が、大きく開かれた顎から飲み込まれて頭蓋骨の中へ消えていった。
そして、最後に……風化した十字錫は一度崩れ落ち、霊体で補われた右手の中で再び“杖”として具現する。
長大な十字をかたどった人骨の杖へと。
礼拝堂に転がっていた燭台には、ひとりでに青い火が灯る。
虚空をびゅんびゅんと飛び交い、空気を焦がすのは蒼白い鬼火。
やがて、姿を再び得る事に成功した“修道院長”だったものは、空中に浮かびながら、魔物達を睥睨した。
不死なる者を統べる、伝説にして最高位のアンデッド――――“リッチ”として。
「カアアアァァァァァァ!!」
再びの咆哮。
それは地獄の天井を開き、地獄をもたらす。
*****
修道院のいたる所で――――地獄の様相は、更に増した。
大鎌を携えた死霊が壁を突き抜け、目に入った魔物を片端から切り裂き、その魂までも切り刻んでゆく。
ナイフを構えた裸身の亡霊が魔物の喉を裂き、倒れていた青年の死体が起き上がり、手近な武器を拾って歩き始める。
寄り集まるウィスプに焼かれた魔物は断末摩すらも封じ込められた。
召喚された亡霊の騎兵隊が礼拝堂を駆け巡り、正面上部の十字架に陣取った骸骨の射手が直下へ霊体の矢を放つ。
地獄の住人達が……魔界の住人達を、葬っていく。
中庭では更に激しい戦闘が繰り広げられている。
ゾンビ化した修道士が隊列を組み、倒されればスケルトンとして起き上がり、骨身までも砕かれればレイスと変わり、更に存在を保てなくなれば数体のウィスプの群体となる。
生者を喰らう不死の亡霊達が今、“王”に号令されるがままに戦うのは……“魔”の軍団。
魔物の群れを切り抜けたアンデッド達は扉へ縋りつき、押し留める。
再び扉が開くと、魔物が現れ――――現れた魔物はアンデッドに引き裂かれ、アンデッドを引き裂き、一進一退の攻防が始まる。
人界、魔界、そして死界の交わる場所で、口を開けた地獄が、魔界の門を待ち構えていた。
*****
礼拝堂の裏手に開けられた穴を抜け――――シスター・ニーナとカーラは、逃げていた。
二人を背に乗せて駆けるのは、半身を失ったゾンビの馬。
生前はアルフレッドの愛馬だったものは――――千切れた下半身を霊体へと変えて、林の中を矢のように駆けていた。
その速さに身を竦め、しがみつく事しかできない二人は……今起きた事が、信じられない。
このアンデッド化した馬が到着するまでのあいだ、彼女らは死者達によって守られていた。
裏手の共同墓地へ確かに埋葬したはずの者達が、手に手に貧弱な武器を持ち、肉の残る者はゾンビとして、ない者はスケルトンとして――ニーナとカーラ、二人を守って戦っていた。
やがて、魔物を踏み殺しながら現れたそれに乗ると……手綱も無いのに、二人を背に、地獄と化した修道院から離れて行った。
カーラは、礼拝堂の穴を抜けて出る直前、“リッチ”が振り向いたのを確かに見た。
すでにカラッポになった眼窩から流れる、一筋の涙を。
その口が確かに、日の終わりに捧げる祈りを呟いたのを。
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修道院から現れた魔物は、わずかに逃れて人界へ放たれたが……すぐに鎮圧された。
後に巡視隊が放たれたものの、中に入る事はとうとう無かった。
見て取れるほどに荒廃した修道院からは邪悪な魔力が立ち上り、離れていても亡霊の叫び声が聴こえ、敷地には不死者が徘徊し、窓から飛び出したレイスがけたたましい声を上げて襲い掛かり、巡視隊を逃げ帰らせた。
それが――――巷で語られる、“噂”の始まりだった。
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修道院長は、戦い続けた。
魔の門を通ってやってくる者達を迎え撃ち、扉を外側から押さえつけるべく、戦い続けていた。
闇の魔力を行使するうちに、残っていたはずの自我は薄れてしまい……礼拝堂に妄執によって縛りつけられた、“司祭姿のリッチ”と化して。
数週間に及ぶ封じ込めの戦いの後、とうとう……その魔門は閉じられ、開く事はなくなった。
後に残されたのは、礼拝堂に佇むリッチと、アンデッドの残骸と、徘徊する無数の死霊。
敵の消えた魔の館で彼らは稀に迷い来る者の暖かな命に引き寄せられ、彼らの魂を喰らう事を目的とした。
もはや誰も訪れる事の無くなった礼拝堂で、リッチは今も説教壇の上に立ち、暗黒の世界へ繋がる魔門を睨み、永劫を刻む。
――――――説教台の上に置いた、もはや色すら読み取れなくなってしまったハンカチを時折、眺めて。