獅子の足跡:摂理
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その日、人類は再び“世界”を奪われた。
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街道を進む長蛇の列は、この世界ではもう珍しくない。
魔物に追われ、あるいは迫りくる戦線に怯えて住むべき地を放棄して、どこにあるのか分からない安全な土地を求めて旅する無力な弱者達。
みな一様に疲れ果て、その歩みは牛のように鈍い。
その目には精気が宿らず、ロバに引かせた家財道具がこぼれ落ちても誰も拾わない。
一歩でも、前へ進む。
一歩でも、後ろへ下がる。
一歩でも、逃げねば――――。
それが、百人に満たない彼らの、たったひとつの目的だった。
「ねぇ、パパ。……帰らないの?」
継ぎの当たったチュニックを着た少女が、傍らの父に訊ねた。
父親はロバの轡を引いて、困憊しきった顔を力無く愛娘へ向け、疲労で引き攣って不気味にしかならない微笑みを浮かべて答えた。
「もう、帰れないんだよ……サラ。あの村には……」
「どうして? どうして帰れないの?」
「……どうしてもだ」
幼子を連れた者は、必ず我が子に訊かれた。
“どこにいくの?”、“まだ村に帰らないの?”、“疲れた、休もう”。
その度に沈黙で答え、子供をおぶってやり、無理に作った荷台の空きに座らせ、あくまで足を止めずに続けた。
子供達には、自分たちの身の上を示す“難民”という言葉が、理解できないからだ。
戦のある限り、戦に追われて逃げる弱者は後を絶たない。
自分たちの与り知らぬ“戦場”を持ち込まれ、小さく穏やかな日常は踏み潰され、彼らは蹴散らされる。
収穫を控えていた畑も、催すはずだった収穫祭も、皆が楽しみにしていた宴も。
迫り来る闇に飲み込まれてしまった。
そして無力な者達は、逃げる。
都へ。
国の外へ。
いずれ知らぬ理想郷がどこかにまだあるはずだと、胸にせめて描いて。
しかし、この世界のどこにも逃げ場はない。
――――“魔王”が、現れたのだから。
「うぉっ……ぐっ……ふ……っ!」
「……どうしたの? パパ。 どこか、痛い痛いなの?」
「うぐっ……! ちく……しょう……! 俺達の……村、だぞ……! 俺達の……」
肩を震わせ、“父親”は泣いた。
見れば……周りの者達も、引きずられるようにだ。
恐ろしい灰色の空の下、数日降った雨による泥濘の街道を力無く歩いて、難民の一団は涙した。
大人たちが泣いているその様を見て、子供達にも涙がうつる。
すすり泣きとともに街道を埋め尽くす彼らは、この世界でも珍しくない。
――――――ふるさとを失った、難民でしかなかった。
「なに、が……魔王……だ……! ちくしょう……ちくしょう……!」
涙を落として歩く一団はやがて、停止した。
先頭を行く若者達の間に、狼狽する声が上がった。
「……なんだ……?」
続けて……前方から、大柄な何者かが近づいてくる。
涙に濡れた難民の列を真っ二つに割って――――荷運びのロバも、農耕馬までも怯えたように喉の奥に鳴き声を潜めて、その者の行く道を開けた。
何者かの風体は、異様だった。
目方にして大人たちの倍近い身の丈を持ち、姿はヒトのものではない。
その肉体は岩肌のように鋭く尖り、鋼のような筋肉を体毛の下に封じ込めていた。
上半身はボロ切れのようなマントのみで覆われ、下肢にはズボンは穿いていても、裸足だ。
丸太のように太い脚、膨れ上がった豪腕、岩石のようにゴツゴツとした拳。
そして――――顔の周りから胸まで覆う鬣を生やした、“獅子”の顔。
男は、獣人だった。
それも圧倒的な威を放つ、堂々たる王の風格の。
眼下を行く、背を丸める難民たちなど視界に入っていないように……獅子は傲然と街道の先を見つめ、生臭く湿った向かい風、難民たちにとっての追い風に鬣を揺らして遡るように歩き続ける。
難民たちはみな道を空けながら、その獣人の男を見つめた。
光を絞る黒一点の瞳孔を中心に抱き、世界の果てまでも追うような黄金の眼。
それが見ているのは……暗黒の未来などではないと、誰もが感じたからだ。
「……おい」
「えっ」
「キサマらは、何から逃げた?」
サラを脚にしがみつかせていると、父親は訊ねられた。
目の前で足を止めた獅子に、目だけをこちらへ向けて。
その迫力に怯え、答えかねていると……。
「もう一度訊こう。この道の先にいるのは、何だ? 小動物」
「あっ……ぅ……お、オーガだよ! 山の向こうから、オーガの一団が押し寄せてきて……!」
「……“オーガ”とは?」
暴の香りを漂わせた風体とは違い、獣人の男はどこか思慮の深さをも感じさせる声で訊き返す。
答えたのは……サラだ。
「おにだよ! 猫のおじさん、知らないの?」
「“おに”……とは何だ?」
「こ、こら……サラ! ……オーガてのは、恐ろしい人喰い鬼です。耳まで裂けた口、やじりみてぇに尖った牙、恐ろしく振り乱した髪、体なんてそりゃもうデカくて……強くて……」
「つまり、俺の事を言っているのか?」
「い、いえそんな!」
「……俺は、“オーガ”……なのか?」
聞こえぬかのように、獣人の男は呟き、更に足を進めようとした。
先ほどまでの話を全て無視するかのように。
押し寄せたオーガのいる方角へ、向けて。
「だ、ダンナ! どこ行くんですか!?」
「……俺に“目的地”などない。あるのは“目的”だけだ」
それだけ言うと、男は大股で難民をかき分けながら街道をなお歩き続けた。
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“猫”は、旅をしていた。
どこまでも続く世界に身を置き、挑みくる者を叩き伏せ、強者と魔物を糧とし、自らの存在を表現し、確かめるかのように。
ワイルドハントの一団とマンティコアを屠り、更に続けて旅するうち、この世界の広さに“猫”は打ち震えた。
人々の伝承には、数々の恐ろしい魔物が登場する。
遠く離れた国には“矢を放つ森”が存在して、その生涯の時を“冬”へと変えた魔女殺しの将軍がいて、“絶対防御”の巨兵の軍団が存在すると。
この世界には――――刺激がある。
かつて拳奴として身を置いていた、小さな処刑闘技場とは違う。
正真正銘の強者と、恐ろしいモンスターがこの世界の野に生きている。
それを知るたびに……“猫”は、うれしくてたまらなかった。
まだ、試せる。
まだ――――自分は“その名”を得るには早い。
だから――――まだ、戦い続けられる。
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“猫”が辿りついたのは、“砦”だった。
人獣の骨で飾り立てられた、悪趣味な石造りの、強固な建造物。
かつていた街を出る時に見かけた城門よりは小さくとも、鋲打ちされたその扉は一目見るだけで分厚いと分かる。
ここへ来る途中で通った村は、荒らされつくしていた。
飼われていたニワトリの抜けた羽根と血痕、手当たり次第に破られた扉と、八つ当たりで壊されただろう納屋。
牛も、豚も、馬もいない。
誰一人殺されてはいないものの……そこへ残った野蛮な臭気は、“猫”の嗅覚を容赦なくえぐった。
だがそれよりも、“猫”は釈然としないものがある。
それは……“戦った形跡”が、なかった事だ。
“猫”が軽蔑するのは、“戦わぬ者”だ。
己の居場所を懸け、存在を懸け、命を懸け……たとえ拙くとも、戦う者を“猫”は好む。
戦わぬまま逃げる者に、価値は無い。
拳を届けてやる気にすら、なれはしない。
「小動物どもめ。……む」
砦の中から、炊煙が上がっている。
加えて、すべてに濁音の混じる汚い笑い声、中に混じって小動物の悲鳴と、絶望の嘆願。
「――――なるほど、いるようだな」
“猫”は進み出る。
その拳に――――“歓喜”を握り締めて。
分厚い扉へ、来訪を告げるために。
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――――扉の大きく歪む音に、砦の中の鬼達は“食事”を忘れた。
沸き立つ大鍋に今まさに投じられるはずだった、“餌”までもが……涙を忘れ、扉を見た。
その音は、破城槌によく似ていた。
叩きつけられるたびに扉が蠢き、べきべきと音を立てはじめていた。
「……アァ……?」
怪訝な表情を浮かべ、オーガの一体が、人間の身の丈ほどもある棍棒を手に扉へ近寄る。
振り乱された癖毛は汗と皮脂で固まり、煮えた銅のような肌色と天をつく二本角。
耳元まで裂けた口には二列の牙がぎっしりと詰まり、赤紫色の舌からは唾液が滴り落ちる。
腰蓑すらも身に着けない裸身の鬼達は、目の前の異種族のメスの裸身にも興味を示さない。
興味はただ一つ。
それが――――美味か、どうかだけだ。
「おイ、オイ……エサが、増エたか……」
下卑た笑みを浮かべて、そのオーガは扉へ更に近寄る。
衝撃と音が止んだことに、微塵の警戒も抱けぬまま。
次の瞬間、オーガの視界は弾け飛んだ扉で埋まり――――そのままの勢いで、オーガ達の食卓の中心まで吹き飛ばされた。
「ッ何ダ!?」
「マホウカ!?」
もうもうと立ち上る粉塵の中から、それは姿を現した。
およそ人とは思えぬ巨体の影。
風を切る獰猛な威嚇の声音と、獣の匂い。
現れたのは人でも獣でも、オーガでもない。
爛々と輝く眼を持つ、捕食者だった。
「……なるほど、俺とは違うようだ。邪魔をするぞ、哀れな“おに”共」
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その戦いは、前触れなく吹き荒れる突風そのものだ。
蛮声とともにその獣人に襲い掛かるオーガは一撃のもとに屠られ、馬鹿げた太さを持つはずの脊柱がへし折られる音は、神殿の柱が砕ける音とほぼ同じだ。
五体も倒れる頃には、オーガの包囲も遠巻きとなり……横倒しになった大鍋から中身がこぼれ落ちる。
その、生煮えの“具”を見ると、“猫”は軽蔑とともに鼻を鳴らした。
「……何故だ?」
「……ッ!? 何、が、ダ!!」
“猫”は居並ぶオーガ達の巨躯と、傍らの檻に詰まった裸の人間達を交互に見た。
「キサマら……何故、戦わぬ者の肉を喰らう。弱者の背の肉から、何が得られるのだ?」
オーガ達からの返答は、ない。
この卑しき人喰い鬼達は、腹を満たす事しか考えない。
それ故に、“猫”の問答に付き合う知性はない。
本来なら単独か夫婦単位で生活するはずのオーガは、この砦の中に見える限りで二十人。
集団を形成するはずが無いのに、この一団は組織的な行動をしている。
一人当たりの分け前が減るのに……それにも、関わらずだ。
「まぁ、いい。……かかって来い。来ないのならこちらから行くぞ、“小動物”」
“猫”が巨岩のごとき拳を固めるとオーガ達もその闘気に呼応し、棍棒と斧と大剣を握り締めた。
徒手空拳の獣人が一人と、殺気と空腹に苛立つオーガが、すでに殺された者を除いて十五。
ただ一体ですら人間には脅威となる、恐ろしき鬼達。
相対するは、一人の獅子頭の獣人。
振り下ろされた戦斧を――――“拳”が迎撃する。
その無謀さに一瞬たじろいだオーガ、その握り手を“猫”の拳が割り砕き、肘の半ばまでを裂いた。
ぱっくりと裂けた腕の肉の間に、“猫”の豪腕が閃き――――そのまま、力任せに上腕の骨を引き抜いてみせた。
まるで……長く煮た鶏の手羽から、骨を引き抜くかのように。
「ギャアアァァァァッ!!」
「ひぃっ……!?」
右腕を失ったオーガが激痛に叫ぶと、その惨さに捕らえられていた人間達は戦慄する。
それどころではなく……オーガに対し、哀れみさえも抱いてしまうほど。
続けて左拳の一撃が、オーガの胸郭を砕き、間を置かず介錯した。
煮えたぎる地獄の色の肌が水面のように波立ち、直後に胸が大きく凹み、内側の心臓も肺もそれを守る肋骨も、全てが跡形もなく破壊された事を示した。
あの分厚かった胸筋は、“猫”の拳の前には、何も意味を持たなかったのだ。
「お前……ナゼ、来た。……こいつら、助けに?」
次に進み出た大剣のオーガが、彼らにしては流暢な言葉で訊ねた。
それに返答する前に、“猫”は、手に持っていたオーガの骨を焚き火へ投げ込む。
亜人種の骨髄の焼ける悪臭と黒煙が立ちこめ、凄惨さは更に増した。
「キサマら小動物の小競り合いなど知った事か。キサマらは俺の行く道を塞いだ。だから……だ」
臆する事無く、“猫”は進む。
大剣のオーガにも、その後ろに控えた巨躯の鬼にも動じずに。
傍らで震える檻の中の人間達にも一瞥だにせず、髭をかすかに揺らした程度。
「俺はキサマらを踏み潰す。摂理だ。従え、小動物」
猫の巨拳が――――再び、閃いた。
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“猫”は、見える限りのオーガをほぼ一撃で皆殺しにした。
咽返るような血と臓物の腐臭の中で、ただ一人が立っていた。
全身を血で染め上げ、肉片のこびりついた拳で“猫”は――――捕らえられた人間達を一瞥し、踵を返しかけ……しかし引き返して、鉄柵を捻じ曲げて彼らを解放した。
「さっさと散れ、小動物め。キサマらの弱々しい負け顔には腹が立つ」
その行動が……“猫”にも、理解できなかった。
善意でそうしたつもりはない。
敢えて言うのならば、それはきっと、憐憫だ。
戦う力もなく、逃げるはしっこさもなく、胆力も持たない。
そんな“小動物”を哀れみ、野に返してやった。
たったそれだけの事で。
「あ、ありがとう……ありがとう、ございますっ……!」
「消えろ、目障りだ。俺に二度と言わせるな」
「っ……で、でも……! ま、まずい! 早く逃げないと!」
「ヤツがっ……! 起きる!」
裸に等しい姿の人間達が、競うように檻から抜け出し、青ざめながら口々に言う。
“猫”はそれを怪訝に思って、手近にいた妙齢の女に問う。
「“ヤツ”だと? どういう事だ」
「こ……こいつらは……私達を、食べようと……してたんじゃ、ない……」
「……何?」
「わたし、達を……料理、しようと……してた、だけ……!」
「つまり――――」
その時、地響きが襲った。
砦が震えて、壁に頭から突き刺さっていたオーガの身体が抜け落ちて、べしゃりっ、と無惨に湿った音を響かせる。
「……あ。あぁぁぁぁ……!」
絶望に顔を歪める彼女が見上げる先を追い、猫は気付いた。
砦の門の中。
その屋内へ続くはずの扉もまた……不自然に大きすぎる。
砦があるのならその中で寝れば良いものを、中庭の一角に簡素な寝床がいくつもある。
オーガ達は、野宿をしていた。
何者かに――――“部屋”を独占されてだ。
「くくっ……、ふ、フハハハハハハハっ!!」
“猫”は高らかに笑った。
その顔に浮かぶのは、子供のような喜悦。
爛々と輝きを増すその目は、震えを増す扉へ釘付けだ。
人間達がこぞって逃げ出し、悲鳴とともに砦を脱出する中、彼はただ一人残った。
やがて――――最後の一人が逃げ終えたと同時に、砦の内扉が弾け飛んで……宙を進むギロチンのように“猫”へ向かうが、彼はそれを難なく払い落し、襲撃者へ向いた。
「お、お前……オェ、の……メシ……どう、シた……!!」
“猫”が覚えたのは恐怖でも喜悦でもなく……既視感だった。
かつて身を置いていた闘技場で、まさに百勝目の相手となったのが、こんな相手だ。
地につくほど長い鼻と突撃槍のような双牙を持つ怪物めいた獣人は、“猫”よりも遥かに巨大だった。
しかし――――今目の前にいるのは“あれ”とは違う、知性も野性も感じない醜悪な魔物。
その外観は、オーガと似ていた。
もつれて垂れさがる太い毛髪、脂汗で饐えた酷い体臭、四段にまで折り重なった、でっぷりと肥えた下腹。
その隙間には食べかすの“皮”や“手足”が挟まり、歩くたびに落ちた。
体色は、転がるオーガ達とは違う……あちこちが角質となった、焦げのような漆黒。
頭だけで“猫”の上背ほどもあり、そのギョロリとした目は怒りに見開かれ、眼下の獣人を見下ろす。
吐く息は硫黄のような地獄の臭気を放ち、歯の間には犠牲者の指が挟まっている。
垢まみれの拳の中からは血が滴り……いや、絞り出されていた。
その恐ろしきオーガの首魁を前にしても、“猫”は一歩たりとも引かない。
「キサマは、他の連中とは違うようだな」
「オェの……メシ……持っデ……来い……!」
「自分で獲りに行けば良い。何故そうしない?」
「あァァ……? ぞン、なの……メンド、くセぇ……持ッで……こい!」
もう、そのやり取りにうんざりだ――――と、“猫”は静かに細く息をついた。
「“おに”とやらは、怠惰な“ブタ”の使い走りか。……くだらん日だ」
渾身の力を込め、“猫”は怪物のぶくぶくに膨れた足指を踏み抜いた。
怪物の悲鳴、絶叫、そして裂けた皮膚の間からは黄ばんだ骨が覗き、脂と血が流れ出て、血に染まった中庭を重ね塗った。
「ぐゥおぉぉぉっ!!」
とっさに振るった拳は、寸前まで“猫”のいた空間を薙ぐ。
だがすでに、そこにはいない。
焚き火を背負い、ちりちりとした熱に炙られながら“猫”は怪物を視界に捉え続ける。
「ゆる、ざ、ねっ……! おまエ、殺す! オェの、メシ……追っかけて、喰っでヤ……る!」
「キサマにはどちらもできん。二度と腹が減る事も無い」
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その日、逃げ去った難民達と、解放された人間達は確かに聴いた。
魔王軍の尖兵と化したオーガの砦。
そこから聴こえる、咆哮を。
彼方を撃つ稲妻の轟きにも似た獣の叫び。
勇気を振り絞り、何も聴こえなくなった砦へ引き返した若者たちは見た。
皆殺しにされ、屍を晒す人喰い鬼達。
そして――――頭部を胴体へめり込ませ、物言わぬ巨大な死骸となった、魔界交配種の“オーガ”の姿。
そしてひと房だけ残った、“猫”の鬣。
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「――――魔王……さまぁ……! いでぇ、いでェよぉ……」
「ほう……キサマにも上がいるのか。今日は……佳日」
両腕を砕かれ、脚をへし折られ、眼球も片方を抉り飛ばされた怪物の姿がある。
その姿は……敗者そのものだ。
それを見つめる“猫”も、決して無傷ではない。
両腕がだらりと垂れさがり、口の端から血の筋が流れ、身体には叩きつけられたと思しき石壁の粉塵があちこち付着している。
「おメェ……魔王、サマ……勝で、ねェ……! オェ、なんか……より、強ェ……四天王、さま……も……いんだ、ど……!」
拙い言葉、精一杯の脅迫と、絶望を振りかけてやるためのそれを……“猫”は黙って聞いた。
しかし、段々と口は歪み……その言葉に嬉しさを隠せなくなった。
「――――――キサマと戦えた事を喜ぼう。俺は……こんなにも嬉しい報せを届けてくれる者と、会った事がない」
人にすれば絶望の言葉。
だが、それは……“猫”にとっては、違う。
「礼だ。キサマを楽にしてやる」
言って、“猫”はその場で回転するように片足を大きく上げた。
狙いは崩れ落ちて、壁にもたれかかる怪物の脳天。
獣の王の戦斧が……今、振り下ろされる。
「奮ッ!!」
――――踵落とし。
――――それが、矢をも弾き折る外皮と超絶の膂力を持つ魔界のオーガを絶命させた、“武器”の名だった。
そして、“猫”は旅を続ける。
今だ遠き、“目的”の為に。
――――その拳を、“最強”と名付けるために。