幸運は息に乗るか
ふと思いついた。風呂上がりのことだった。
溜め息をつくと、幸せが逃げる。
初めにそう言ったのは誰だろうか。或いは、初めにそう書いたのは誰だろうか。
僕は思うのだ。溜め息は苦労の証であり、報われてしかるべきものだと。
だが上記の通り、幸せは逃げてしまうのだと言う。実に理不尽だ。苦労の証であるはずの溜め息がさらに自分を不幸へと導くことになるなんて、馬鹿げている。
正直者が馬鹿を見る、と言われる現代を思えば必然かもしれないが、やはりそんな理論は間違っている。大声でそれを主張して白い目で見られる世界でもだ。
幸せの総量は決まっている、という説がある。
ならば、こう考えることも出来るはずだ。
溜め息は、不幸を吐き出しているのだと。
僕が思うに。幸せとは、不幸との落差によって生まれるものだ。
不幸ーーもとい、幸せではない感情を抱え込み、一気にそれらから解放されることによって、幸福を実感することが出来るのではないだろうか。
ときに達成感とも表されるその落差は、確かに幸せだと感じさせてくれる。
溜め息が不幸を吐き出しているのだとすれば、幸せが逃げてしまっている、との表現も妙にしっくりくる。
溜め息は落差を緩やかなものへと調整する働きをしているのだ。落差が大きくなければ、実感する幸福は少なくなるかもしれないが、代わりに不幸が軽減される。
幸せの総量が決まっているのだとすれば、それは落差によって増減するものではないはずだ。たとえ実感がなくとも、幸せの欠片が失われるわけではないのだから。
溜め息をつきたくなったときは、迷わずに息を吐き出せばいい。
それは自らの不幸を外へと出して、気持ちを少し楽にしてくれるのだから。
溜め息をつくと幸せが逃げる、なんてことはないのだ。
僕は、こう考える。
溜め息は、幸運の息なのだと。
苦労よ、報われよ。
少しでも心に引っ掛かるものがあったら幸いです。