1907年9月8日 21時33分 テムズ川付近
茫然と水飛沫が上がる水面を眺める。
10秒、20秒と待つが、水面の波紋と泡が落ち着くと、後には何も浮かんでこない。
あっけないものだと思う。
あれほど人間離れした能力を持ちながら、獣は銃弾に斃れた。
押し倒された身を起こそうとすると、頭上に影が差す。
「あっけないものだな。怪物も所詮はただの犬っコロか」
「…33号」
ライフル銃を背負った男は川面を眺めながら愉快そうにしゃべる。
「…ここでの狙撃は女王陛下相手の筈では」
「俺んとこはハズレくじ引いたのさ。来なかったからって撃たないで帰んのももったいねえからよ」
そう言いながら川面を親指で指し示す。
「いい銃だろ?まさかあの距離から当たるとはなあ」
悪びれる様子もなしに言ってくる男、33号に対し思わず奥歯がきしむ音をたてる。
「私に当たる可能性もあったの?飛んだ下手糞ね」
「うるせえよメス猫。国を売ったクセしてグダグダ文句言うんじゃねーよ」
と、そこでナイフが男の首元に突き付けられる。
男はおとなしく両腕を上げると。
「オーケーオーケー、降参するから興奮すんなよ子猫ちゃん」
「頭でフットボールされたくなければそれ以上無駄口を叩かないことね。…で、首尾はどうなの」
「上々さ。三つ隣の橋で10分前に馬車は落とされた。哀れ国民に裏切られた女王サマは冷たい川の底さ」
「死体は確認したの?」
「出来るわけねえだろ、馬車が落ちたってことで現場は大騒ぎさ」
その返事に一抹の不安を覚える。
それが顔に出ていたのか33号がニヤニヤ笑いながら。
「心配すんなって。あんたのお仲間の御者クンがキッチリ確認してるさ」
「そうか、そいつは良いことを聞いた」
ぞわ、と肌が粟立つ。
底冷えのするような声が橋の上で響き渡る。
33号の顔が青ざめる。
おそらく私の顔色も同じになっているのだろう。
頭上から射す影が増えている。
33号のものより一回り大きく映るそれが示すのは。
「あー死ぬかと思ったよ、本当に」
まるで油の切れたブリキ人形のように首を回す。
薄い月光を背負い、仁王立ちするのは先ほど川に叩き落されたはずの怪物。
逆光と暗闇で表情はよく見えないのが余計に恐ろしい。
しかし、33号は怪物に視線を合わせるとそれでも笑みを浮かべた。
「おうおう化け物さんよぉ、せっかくくっせえ川から上がってきたとこ悪いけど…随分ボロボロじゃねーの」
確かにその通りだ。
右脚の膝は砕かれ、腹の風穴は動き回ったことで傷口が開いて血が滲みだしている。
そして何より。
「随分男前になったじゃねえの、感謝してくれよ?」
右頬がえぐれ飛んでいる。
ひょっとしたら脳も削れ飛んでいるかもしれない。
しかし。
しかしそれでもなお圧倒的な恐怖を感じるのはなぜなのだ?
目の前の怪物は左手で傷口を確かめるように右頬の残っている部分をなぞりながら、確かに、と呟く。
「確かに傷だらけだな。痛くて痛くてたまらない、悲鳴を上げて泣き叫びたいしさっさと清潔な服に着替えてカワイイ女の子に看病してもらいたい気分だ」
ただ、と彼は続ける。
「まだ仕事中だし、投げ出すわけにもいけないのだよ」
それを聞くと33号は笑みをさらに深め。
「じゃあよ、ゆっくり休ませてやるよ化け物!」
叫びながら背負ったライフルを抜き放つ。
肩掛け紐を上に滑らせ、下を向いた銃身を真正面に振り上げる。
引き金に右手指を掛けると超至近距離から片手撃ちする。
銃声に耳が麻痺したようになる。
さすがに片手は無理があったのか33号の右腕が真上に跳ね上がる。
ぐるりと右腕が回るのが視界の端に映る。
回る、まだ回る。
そこで気が付く。
宙を舞っている。
回る腕の軌跡を追うように血しぶきが飛び散る。
「あ?ああああーっ!!!!」
一呼吸遅れて気づいたといった様子で33号が悲鳴を上げる。
ちぎれ飛んだ肩口から血が勢いよく飛び出る。
ポンプの様に一定のリズムで噴水の様にローザの身にも血は降りかかる。
「ははははは!どうした?ゆっくり休ませてくれるのではなかったのかね?」
声の元は33号の後ろ10mほどの位置。
一瞬でそれだけの距離を移動した怪物は右手で宙を舞う33号の腕をキャッチ。
何を思ったのかそれをそのまま口に運ぶ。
「ふむ、不味いな。やはり鍛えた男は不味い。筋張っていてとても食えたもんじゃない…が、緊急時だ。仕方ないから我慢してやろう」
にちゃにちゃと音を立てながら右腕をみるみる食べていく。
「…化け物め」
思わず口をついて出た言葉にヘクターはこちらを向くと。
「その通り、その通りだよお嬢さん。私は化け物だ、さっきも言ったじゃないか」
そして半分ほど骨が露出している腕をぽいと川に投げ捨てると。
「ではせっかくなので推理タイムと行こうか。と言っても既にお嬢さんが化けの皮剥いじゃったせいで後出しにしか見えないのが悲しいがね」
両腕を斜め上に広げながら朗々と続ける。
「裏切り者が内部にもいるのは以前から想定されていたのさ、当然のことだがね。そして裏切り者が内部犯である以上さっきまでの連中、議会のタカ派と繋がる可能性があると考えるのは自然なことさ」
つまり、とつなげ。
「君たちはHoundsを含めたイギリス防諜部について十分な情報の提供を受けたはずさ。例えば人外である僕のことや自動人形であるドロシーのことも。うちの上司に聞いたと言っていたがありゃあフカシだろう?わざわざ咎めに行くほど俺も隠し立てしてるわけじゃないしなあ」
「そしてパーティー会場でのアンタの行動、俺に近づいたのは鼻を潰すためだ。ありゃあグレープフルーツベースだな、柑橘系は犬には効くからなあ。んでそこでまあ疑わしいと思ったわけよ、直後に暗殺未遂が起こったしな」
「で、だ、その後の爆弾騒ぎも理由の一つだな。ある筈ないんだよ、普通に考えたら。だってデマだけであれだけパニック起こせるんだもの、わざわざリスクを犯して仕掛ける必要がない。ワインは消費量が多いからうっかり爆弾が見つかる可能性も高いしな」
そして決定的になったのが、と言いながらこちらを右手人差し指で指さしてくる。
「お嬢ちゃん、あんただ」
「女王を避難させるときの台詞、ありゃあよくないよなあ。だって知ってたらいけないもんなあ、本命の馬車のルートなんて」
「とまあ、ここまでが俺の推理のわけだが…どう、どのくらい合ってた?」
33号が痛みを堪えるように歯を噛みしめながらにらみつける。
返答はあるわけもない。
「…ふむ、どうやら中らずと雖も遠からずといったところかな。じゃあ推理ショーも終わったし…さっきの続きと行こうか?」
同時にヘクターの姿が消え、先ほどまで彼が立っていた位置で爆発が起きたような音が響いた。
獣が襲い掛かる。
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先ほどとは違い、一歩目から全力疾走だ。
身に叩きつける風が心地よい。
服が水を吸って重いがそれでも気分はとてつもなく高揚している。
絶好調だとヘクターは思う。
鼻歌でも歌いだしたい気分だ。
先ほど戴いた肉のおかげで腹部の傷はだいぶ痛みを感じさせなくなってきている。
しかしまだ足りない。
もっと食べなければ回復しないだろう。
でも筋肉質で不味かったからもう食べたくないなあとも思う。
どうしたものかと思いながら数歩で男の元へたどり着く。
勢いがつきすぎているので止まれない。
止まらない。
右腕でひっかけるように首元を薙ぐと半分ぐらい抉りとれた。
血を吹きだしながら痙攣を始めるのを尻目に右手についた肉片を振り捨てる。
ドリフトするように右足を軸に時計回りに急旋回して急停止。
「ほい、一丁上がりっと」
と、視線の先のお嬢ちゃんが拳銃をこちらに構えている。
「おいおい、今の見てもまだ抵抗するつもりかい?」
「…じゃあ逆に聞かせてもらうわ。今さら降伏したら許されるとでも?」
「まあ無理だろうねえ」
即答する。
「でもさあ、さっさと降伏した方が楽だと思わない?なんでそこまで固執するんだい?」
「…私はね、嫌になったの。この仕事が。女王陛下の盾となって、命を懸けて得られるのは給料だけ。影に徹する故に名声すらも得られない…嫌になったのよ、何もかも」
「それで国を売ったと、豪気なことだ」
「あなたにはわかってもらえると思ったわ。そもそも何故あなたと同じ馬車に乗ったと思っているの?」
そういえばそうだ。
さっきまではあわよくば始末してしまおうという魂胆で見張りも兼ねて同乗したものだと思っていたが。
「引き抜こうとした、ってとこかい?」
「名探偵らしくないわねえ、てっきり気づいて無視してるもんだと思ってたわ。…現在貴方たち人外に対する人類の差別は世界的なものとなっているわ、わざわざ命を張ってもあなたは私と違いむしろ陰口すら叩かれる、違う?」
「よくわかってるじゃないか」
実際、差別は厳然と存在する。
パッと見では人間と違いが分からないため普段は普通に過ごすこともできるが、ひとたび正体がばれればもうその土地にはいられない。
人外お断りの看板を見るのはしょっちゅうだし、暗黙のルールとしての入店拒否は存在しない店を探す方が手っ取り早いくらいだ。
最近では人外専門の身辺調査を行う探偵が大人気という始末だ。
「でもねえ、ローザ、君にはわからないだろうけどね、俺にも事情ってものがあるのさ」
「わかってるわ、あなたが仲間になってくれなさそうなことは、今までで十分にね」
そこまでとばかりに口をつぐむ。
お互いの無言にお互い何を感じたのか。
動いた。