1907年9月8日 21時29分 テムズ川付近
「お見事ですヘクター様」
ドロシーが縛り上げられた男のロープをほどきながら言う。
ほどいてもらっている男はなぜか不満たらたらそうに何やらぼやいている。
「おや、何か不満でもあるのかねSMプレイ君」
「テメエわざと苛立たせにきてんだろ…」
理由を問うてみたら青筋浮かべながら返された。
ひょっとして本当にマゾヒストで縛られたままがよかったのだろうか。
それは悪いことをしたとドロシーに再度縛り上げるよう命令しようとするがまずはコイツに対する尋問が先だろう、と手首を抑えてうずくまる男を見下ろす。
「さて、ではきりきり話してもらおうか。なに簡単なことだ、誰が指示したのか、計画の概要、君以外の裏切り者等々まとめて吐いてくれればそれで済む」
「う…わかった、話す、話すから命だけは勘弁してくれ…」
「やけにあっさり認めてくれるね?以外だ。ちなみに君の頼みの綱の御者クンは僕の相方が既に応対しているから援軍とかそういうのはあきらめた方がいいよ?」
その台詞に今度こそ男の顔が凍り付く。
と、同時に後ろの裏路地からローザが現れる。
青の綺麗なドレスに赤黒い血の色がよく映える。
「ごめんなさい、抵抗が激しいものだから生け捕りには失敗しちゃったわ」
既に十分血の気が引いている裏切り者の顔がますます青白くなる。
ここまで来ると死体みたいだと思う。
「…さ、話してくれるんだったね。まずは誰の指示か、から行こうか?」
と、今までうずくまっていた男が急に身体を跳ね上げ走り出す。
まさに脱兎のごとくだ、と思いながら追いかけようと足に力を込めると。
ぱん
と音がして逃げ出した男の背中に血煙が上がる。
銃声の出どころは裏路地に立つローザ。
彼女の構えた拳銃から煙が立ち昇るのを視界にとらえていると。
「お…まえ…」
背中から心臓のあたりに赤い風穴を開けた男が身をねじり、視界に捉えたローザに驚愕した風に倒れる。
そのまま動かなくなった男の身体の下から血だまりが広がっていくのを眺めながら。
「殺すことはないだろうに」
若干非難がましい目でローザを見る。
「ごめんなさい、足に当てるつもりだったのだけれど…狙いが逸れたわ」
申し訳なさそうな視線で死体をにらみつけている。
まあ拳銃でとっさに狙ったなら仕方ないかもしれないな、と結論付ける。
「にしても…なんでここが分かったんだ?」
縄の跡を痛そうにさすりながら縛り上げられていた男が問いかけてくる。
「なに、簡単なことだ。匂いだよ」
「匂い…?あんたまさか…」
何かに思い当たったかのように顔を上げる。
「人外、か…?」
露骨な差別用語をおそるおそるといった調子で呟かれてうんざりする。
これだから正体をばらすのは嫌なのだ。
まあどっちにしろ先ほどの曲芸紛いの動態で半ばばれていたようなものだから、と諦める。
人外
もっと露骨に怪物とか人敵とかいった呼ばれ方をすることもある。
字面でわかる通り、人間に似た姿を持ちながら人間に非ざるものたちの総称だ。
子供の寝物語に現れる不思議な生き物。
英雄譚で討たれる化け物。
夜闇に紛れ、人の間に潜む嫌われ者たち。
それが自分、ヘクター・ブレンだ。
「その通りだよ、人間君。なに、恐れることはない。僕は君たちの味方だよ?」
両腕を広げにこやかな笑みで返す。
出来る限り相手を威圧する笑みだ。
どうせ恐れられ遠ざけられる。
ならばいっそこちらから遠ざける努力をする。
それでなおこちらに近づいてくる酔狂な者もいないことはないが。
と、そこで大量の足音がこちらに迫ってくる。
見ると、カーキ色の軍服に身を包んだ連中、すなわち英国陸軍であった。
この騒ぎを聞きつけてようやく動き出したか、と思う。
本来軍隊による護衛をするべきなのだが、議会の一部連中が護衛に軍を動かせばものものしさを強調し、かえって緊張の度合いを強める、と反対したのである。
いつの時代も上の連中は下の事情なんか自分達の意見の補強材料程度にしかとらえてくれないものだ、と思っていると、なにやら連中の様子がおかしいことに気付く。
全員がライフル銃を構え、更には後ろの方に大砲さえ見える。
たかがスパイ相手にずいぶんな物々しさだ、と思う。
と、そこで隊長と思しき人物がこちらを見つけたようで何かしらの指示を兵隊連中に出している。
すると何故か全員が手に持ったライフル銃を構え、射撃姿勢をとる。
最前列は膝をつき、二列目は立ったまま。
いわゆる戦列歩兵の体勢だ。
そこまで考えてから銃口がこちらに向いていることに気付いた。
射撃音が響き渡る。
反応は即座のものだ。
手近にいたローザとドロシーを腰を抱きかかえるようにして引き寄せると、目の前で茫然としているマゾヒストを裏路地に蹴り込む。
あばらが折れる感触が伝わってくるが、十分手加減した結果なので仕方ない。
そしてそのままマゾヒストを蹴り込んだ路地に飛び込む。
背中側を銃弾を飛びぬけていく感覚におもわず総毛立ちながら頭から石畳に落ちる。
「全員無事かい?」
「問題ありません、ヘクター様」
「身体の節々が痛むわ…」
女性陣は無事らしい。
奥の方で身体を抱きしめながら呻いている男がいるが、特に返答がないのでおそらく無事だろう。
「それにしても…何事なのいったい?!」
ローザが抗議するように問いかけてくるがこっちに聞かれたって困る。
仕方ないので連中の言い分を聞いてみようと耳を澄ます。
銃声の連発は轟音となり、会話の音を聞き取りづらくしてくれる。
しかし何とか要らない音を排除していって声を拾おうとする。
すると聞こえてくるのは細々とした声。
喋る調子から言って向こうも銃声に負けないように叫ぶように会話しているようだ。
「銃撃を止めるな!女王陛下へ刃向うもの達を根絶やしにしろ!」
聞こえてきた台詞に一瞬目眩すら感じる。
つまりあれか、さっき死んだ連中と混同されているのか自分たちは。
そのことを伝えるとローザの顔色が露骨に青白くなる。
「どうすんのよ!何とかして誤解を解かないと…」
「無理でしょう、彼らは現在非常に気が立っているようですから」
横から割り込むようにドロシーが会話に入ってくる。
「今本当のことを伝えようと出て行っても即座にミンチになるでしょう。もしこちらの説得が届いたとしても嘘だと思われるのか、真偽を確かめるまで拘束されるのが関の山でしょう」
ならばどうするのか。
再び先ほどと同じ問題に直面する。
するとドロシーがこちらを向き。
「故に、指示をくださいヘクター様、我が雇い主。私は契約によって縛られた存在であるならば、命令なくして動けぬ存在なのですから」
立ち上がりながらこちらを見つめる瞳はぞっとするほど無機質で美しい。
「ならば命じよう、ドロシー、我が愛しの侍女よ。契約に基づく理不尽な命令を下そう」
芝居がかった口調と身振り手振りで動く。
いや、むしろここは芝居の空間だ。
美しい女を従える化け物。
月が美しくないのが残念だがまあ我慢しよう。
「彼らを打ち倒せ。しかし殺すな、ただの一人もだ。何故なら彼らは勘違いによって動いているだけの哀れなだけの者たちなのだから」
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路地に飛び込んだきり出てこない連中に対し、30数名の兵を引き連れた隊長格の男は対応を迫られていた。
ロンドンの路地は入り組んでいる。
このままでは路地を通じて逃げられてしまうかもしれない。
しかし路地に突入するとなると、細い道に合わせた隊列をとらざるを得なくなりこの兵たちの数の優位を生かせなくなる。
ならば路地の出入り口四方全てを塞ぎ相手が出てくるのを待つか。
と、そこで先ほど連中が逃げ込んだ路地から一人が出てくる。
とっさに射撃指示を出しそうになるが相手を見極めようと堪える。
薄暗い月明かりを背に立つのは。
(侍女…?)
このような場に居るのは不釣合いな姿。
指示によれば裏切り者の中には女性が一人いるらしいのでそれが彼女だろうか、と思う。
ともかくまずは降伏勧告だ。
先ほどはついに見つけた嬉しさからうっかり思いっきり撃ってしまったが全員に逃げられたので結果としてはセーフだ。
「そこのメイド!降伏しろ、そうすれば正式な裁判にかけることを保証しよう!」
こちらの叫びが聞こえたのか、メイドが視線を向けてくる。
しかしこちらに歩みを進めることはない。
15mほどの距離がこの上なく遠く感じる。
と、響き渡るは凛とした声。
「我が名は主人によって与えられたもの。私が彼のもとへ送られたその日に与えてくださった初めての、もっとも大切な贈り物」
そう、あの時彼は言ったのだ。
せっかく役目を与えられたのだし味気ない番号だけで呼ぶのももったいないじゃないか、と。
(「ドロシー」と、今日からそう名乗れとおっしゃってくださいました…!)
ゆえにその感謝は返さねばならない。
彼の命令に対する完璧なる忠誠をもって。
「我が名はDorothy、人の形を模して造られた存在、人の一文字を持ちながら人ならざる物。故に人は私をこう呼びます」
「Doll、人形と」
息を吸い込む。
眼前の人々は味方だ。
だから殺してはいけない、そう主人が言っていた。
しかしこのままでは主人にとっての障害となる。
だから。
「少々痛い目を見ていただきます。我が名の持つ役割を果たすためにも…!」
言い切るが早いか、ドロシーは集団へと突撃を敢行した。
いいよねメイドロボ
生きてるうちに実現しないかな