1907年9月8日 21時00分 テムズ川付近
暗闇の中に一列に並んだ馬車が見える。
外観の違いは馬以外に見出せず、その馬でさえ毛色は同じ茶で統一されている。
この短時間でそろえられるものではないからおそらく事前に用意されていたのだろう。
女王陛下がその中の一台、右から四台目の馬車に向かうのを見ながらローザに尋ねる。
「僕たちはどの馬車でデートに出かけるんだい?」
「左端のを使います。あの馬車が一番女王陛下のお乗りになった馬車に一番ルートが近いので」
「なるほど、よく考えられているわけだ」
各馬車には御者が一人、二名ずつ護衛が乗り込むこととなっている。
襲撃される可能性の高い中馬を操らなければならない御者に対して心中でご愁傷様、と思う。
「どういったルートで進むご予定で?」
「細かい道、路地を使いながらウェストミンスター大寺院を目指します。あそこならば『修道女』も居ますので」
「連中も迂闊に手を出せないってわけだね」
頭に思い浮かぶのは英国教会の誇る自衛集団。
宗教戦争や国からの圧力に対抗するために先鋭化していった彼らはちょっとした小規模軍隊のごとき戦力を持つ。
馬車に乗り込むと、柔らかい椅子に倒れ込むように座り込む。
頭がくらくらするのは血が足りないからだろうか。
ほれ見たことかといった感じのローザの視線が痛い。
しかしここまで来た以上仕事を途中で投げ出すのは問題になるだろう。
「準備が整ったし、さっさと行きましょう。途中で気絶しないでくださいね」
「善処しよう」
馬に鞭が振り下ろされる音とともに、馬の脚と車輪が地面を叩く音が響く。
さすがに10台同時に走り出すとなると、かなりの大音響だ。
石畳の段差毎の振動でさえ腹部の傷口にかなり響く。
先ほどから脂汗が止まらない。
酷いザマだと自嘲する。
気を紛らわそうと外の景色に目を飛ばしてみるが、いっそ残酷なくらいに広がった雲は月の姿をかけらも見せてはくれない。
厄日だな、との呟きはどうやら聞こえていたようで。
「自業自得ね。わざわざあんな危険なことをした罰よ」
「仕方ないだろう?仕事なんだから」
「ならなぜ…!」
ローザはそこまで言ってから口をつぐむ。
苛立った様子でドアを叩くと。
「あなたは…仕事だからやっているのではないのですか?」
「その通りですよお嬢さん。世の中には命がけで働かなければならないヤツもいる、それだけだよ」
理解してもらえるとは思わないけど、と返しながら怒ると素が出るのだな、とぼんやり思う。
まあ彼女も自分と同じような仕事の人間だ、思うところはあるのだろう。
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馬車はひた走る。
夜闇にまぎれるように。
もういくつ角を曲がっただろうか。
最初に左、次に右、右、しばらく直進、もう一度右、だ。
何か違和感を感じますね。
ドロシーは心中で疑問する。
自分が覚えているロンドン市内の地図が正しければ。
バッキンガム宮殿の方角へ戻っています。
先ほど聞いた話ではテムズ川の方へ向かうはず。
攪乱を入れながら逃げるといってもまったく逆方向へ進むのでは囮としての役割を果たせない。
女王をわざわざ危険な場所へ近づけようとするはずがないのだから。
そのことを御者に言うべきだろうか。
しかし正面に座っているスーツの男性は特に気にしている風もないいのでひょっとしたらこれでいいのかもしれない。
それにしても静かだ。
先ほど走り出した時は大量に重なって聞こえた馬車の音が、今は自分が乗っている一台分しか聞こえない。
他の馬車との距離が離れているからだろうか。
これだけ離れてしまうといざ襲撃を受けた時お互いにフォローすることができませんね、と考えていると。
「これは何の真似でしょうか?」
眼前に見えるのはこちらに伸ばされた腕とその先に握られた拳銃。
突きつけている本人の目は極めて冷静に映る。
「すまないな、ドロシー。おとなしくしてくれると幸いだ…僕とて同僚を撃ちたくはないんだ」
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ウィリアム・マルサスは困った状況に置かれていた。
女王陛下を逃がすための計画。
その囮の一員として選ばれたことを彼は光栄に思っていた。
同じ馬車に乗り込んだ相方が根暗な奴だったのも気にならないくらい舞い上がっていた。
今、その根暗はこちらに拳銃を向けている。
「何の冗談だ」
「手を挙げろ」
「…笑えない冗談だぜ根暗ヤロー」
毒づいてみるものの状況は極めて不利だ。
こっちも拳銃は持っているものの未だ懐の中だ。
それに対し相手は既にこちらを狙っている。
仮にも同僚だ。
西部劇のガンマンよろしく早撃ち勝負で勝てるとも思えない。
諦めて降参。
手早く拳銃を奪われ、後ろ手で拘束される。
「男に縛られる趣味はねえんだけどなあ」
無視されてあっさりと縛り上げられる。
さすがはイギリスで有数の訓練を受けただけはある。
教本通り完璧に解けない結び方をされている。
どうしたものか。
一応両腕に力を籠めて引っ張ってみたり互い違いにねじってみたりするが、丁寧にすきまなく縛られた両手首に隙間はほとんどなく、そもそも動かすことすら満足にはいかない。
目の前では根暗が御者と何かしら話し合っている。
どうせろくでもないことだろうが。
まさか御者まで裏切りもんとはなあ…逆に笑えてくる。
と、そこで話し合いが終わったのか根暗がこちらに歩み寄ってくる。
その手に見えるのは一通の封筒。
有無を言わさず懐に捻じ込まれる。
「…なんだこれ?」
「哀れなスパイの懺悔が書き連ねられた遺書だ。女王陛下を撃った罪悪感に耐えきれず自殺した、な」
根暗の口角がにたりと吊り上がる。
笑顔も気持ち悪ぃ奴だと思う。
「何故こんなことをする?」
「目的をべらべら喋るバカは小説の中にしか存在しませんよ」
「そうか、なら僕が代わりに言ってやろう」
ムカつく笑みが奴の顔から消える。
声の出どころは左手の建物の角。
夜の暗闇の中、光り輝く二つの点がやけにはっきり見える。
「お前たちはドイツの連中の手先じゃない、そうだろう?」
九月に入ったばかりとはいえ、さすがにこの時間ともなると肌寒い。
コートがほしいな、とヘクターは思う。
見下ろす先には縛り上げられた男とそれに対して銃を突き付けている男が見える。
「戦争を起こしたいのは敵国連中だけじゃないもんなあ」
銃を突き付けている男の顔が目に見えて強張る。
そう、戦争以外ない!といったタカ派の面々も議会には多い。
そのうちの誰が行動を起こしたのかはわからないが、ドイツの作戦を知ったならば便乗する輩も出るだろう。
「まさに内憂外患ってやつだな。…さて裏切り者諸君、何か申し開きはあるかね?」
返事は銃声を二連発。
即座に建物を陰にするように引っ込んで回避。
「どうしてそれを知っている?!」
「おや、図星だったか。僕の推理力も捨てたもんじゃないなあ、そう思わないかねドロシー君」
「先日読んでいらっしゃった小説の影響でしょうか、そのみょうちきりんなしゃべり方は。…それしてもずさんすぎます。我々を一対一、もしくは一対二程度で抑え込もうとするなど」
「言ってやるなよ、潜り込ませる人材にも限界があったのだろう。それにほら、あそこを見るといい。1人見事にやられているじゃないか、そんなこと言うとかわいそうだろうあっはっはっは」
指さしながら笑ってやったら見えてないはずなのに怒鳴られた。
「ヘクター様、捕まっている方が早く助けろと泣き叫んでいます。さっさとしましょう」
「それもそうだね。…さて、行きますか!」
建物の角から勢いよく飛び出す。
人間が出しうるとは思えないスピードに、銃で狙いを定めることすらできない。
道路の右端まで走ると、右足から煙を上げながら急停止。
止まったのをチャンスと見たか射撃が来るので即座に反対側へと身を飛ばす。
右、左、右、左
ジグザグに疾走しながらも着実に距離を詰め行く。
相手まで後数m。
今だ。
左足で地面を思いっきり蹴ると、先ほど宮殿で見せたのとは段違いの高さまで身が飛ぶ。
向かう先は右斜め先。
壁に足をつくとそのまま反転するようにもう一度踏み切り。
そのまま背面とびのように半回転。
「すぅーぱぁー!きーっく!」
勢いよく落ちる先は銃を構えた男の右腕。
信じられない、といった表情で茫然とこちらを眺めるのみで反応が遅れている。
右脚を勢いよく着地の瞬間に蹴りだす。
ぼぎん
とソーセージを噛み切ったような音とともに男の手首が銃を構えたままおかしな方向へと捻じ曲がる。
響き渡る悲鳴が心地よいな、と思いながらキックによって再度浮いた身体を後方宙返りしながらバランスを整え着地させる。
「はい、一丁あがりっと」
シャウエッセンおいしいよね